「行ってきまーす!」
肩にギターケースを担いだ郁代は、両親に声をかけて家を出た。
ようやく和らぎ始めた日差しに郁代は目を細める。気持ちの良い休日の朝だ。
勉強会の効果もあってか今までで最高の点数でテストを終えてしばらくが経ち、結束バンドは本格的に文化祭ライブに向けての練習を始めていた。
しかし、郁代の行き先はスターリーではなかった。
これまでのバンド活動で郁代の意識には変化が訪れていた。
それは結束バンドを、そしてギターヒーローだと分かったひとりをもっと支えたいという思いだ。
先日人前が苦手なひとりが震えながらも自ら文化祭ライブに出演すると決める姿を見て、その思いはもっと強くなっていた。
だから、今までひとりにギターを教えてもらっていたのを、彼女に頼らないで練習をやろうと思い立ったのだ。教えてもらってばかりでは彼女の力になることもできない。
ひとりのほかにギターを教えてもらえる人となると真っ先に頭に浮かぶのは先輩でもあるリョウだったが、彼女の本職はベースだし、ギターだけではなくボーカルも務める郁代はギターだけではなく歌も練習したかった。
というのも今回の文化祭では高校の体育館というライブハウスよりも大きく、音響も拙い場所でライブをやることになり、今まで以上に技術が必要とされる。そのため、ギターも、今まで独学で何とかしてきた歌ももっと実力を伸ばしたいと思ったのだ。
そんななか、まだまだバンドを始めて日が浅く知り合いも少ない郁代がそんな時に歌もギターも教えてくれる人で思い当たる人物は一人しかいなかった。
迷いのない足取りで郁代は歩んでいき、やがて先日にも来たばかりの家の前に立った。
郁代は小さく深呼吸するとインターフォンを鳴らした。
「今日はよろしくお願いします、お兄さん!」
郁代を出迎えた藍伽は、彼女を部屋に招き入れる。
例の音楽関係の物を詰め込んである部屋だ。
「よく来たな、喜多ちゃん」
「ご迷惑かと思ったんですけど、頼れる相手がお兄さんしか思いつかなくて……」
「迷惑なんかじゃないさ。俺も結束バンドの力にはなりたいと思ってるしな」
「ありがとうございます!」
郁代は深く頭を下げる。
藍伽に促されて頭を上げると、郁代は部屋を見渡す。
前回はあまりゆっくりできなかったが改めて見るとやはり圧倒されるような気持ちになる。
「それにしてもやっぱりすごいですね、この部屋」
「そうか?」
「そうですよ! 色んな機械もあるし楽器だってこんなにたくさん……」
郁代の言葉通り、部屋には多くの楽器があった。
ギターは当然のように何本も置いてあるし、他にもベースやドラム、キーボードまでも置いてあった。小さくはない部屋なのに楽器に占有されて圧迫感すらあった。バンドマンならうらやまずにはいられない環境だった。
郁代はこの前リョウが目をキラキラさせながら見ていたベースを手に取った。
「前から気になってたんですけど、ここに置いてあるってことはもしかしてお兄さんドラムだけじゃなくて……」
「ああ、ここに置いてあるやつは一通り弾けるよ」
「やっぱりそうなんですね!!」
驚きの声をあげる郁代の手から藍伽はベースを受け取り軽く構える。
「俺は作曲もやるからその関係でな」
「なるほど! じゃあ本当にお兄さん一人で曲演奏出来ちゃうんですね」
「まぁやろうとしたら出来るだろうけど、ギター以外は素人に毛が生えた程度の実力だからな。発表する楽曲とか作るときは他の人にお願いして録ってもらってる」
そんな言葉を聞いて郁代の頭に浮かぶのは夏休みのライブでの藍伽のドラムだった。
ドラムには疎い郁代であってもあれが素人に毛が生えた程度の演奏でないことくらい分かる。
「ま、無駄話はこれくらいにしてそろそろ練習始めるか」
「あっはい! よろしくお願いします!」
ベースを置いた藍伽に促されてギターを取り出した郁代は早速藍伽の言われるままギターを弾いていった。
「うん。まだまだ粗さはあるけど基礎はある程度出来上がってるな」
「ほんとですか?」
「ああ、お世辞抜きでギター歴一年経ってないとは思えないよ」
藍伽の言葉は嬉しいものだったが素直に喜ぶことはできなかった。
その言葉は郁代を褒めているものではあってもギターを始めた日数からすれば頑張っている、という意味でしかないことを誰よりも郁代自身がよく分かっていた。
どうしても思い出してしまうのは、何度も見たギターヒーローの動画だった。
あの打ち上げでひとりがギターヒーローであることが発覚した後郁代は、軽い気持ちで動画を開き、衝撃を受けた。
ひとりと差があることは分かっていた。
けれども、その差が自分の想像以上に大きなものであることを郁代はようやく知った。
ひとりと郁代では積み上げてきた年数が違いすぎる。だから、その腕前に差があるのも当然と言えば当然だった。しかし、だからと言って今の拙いとしか言いようのない自分の腕前に満足するつもりはなかった。
だって、郁代はひとりを支えると決めたから。
決意を込めて郁代は藍伽の目を見つめる。
「もっとうまく演奏できるように頑張ります!」
「うん、その意気だ。俺も出来る限りのことはさせてもらう」
「はい!」
郁代の表情を見て満足げに頷いた藍伽も自分のギターを手に取った。
「よし、じゃあそろそろ本格的に始めようか」
「お願いします! それで、何をするんですか?」
「色々考えたんだけど、シンプルに行こう。これから喜多ちゃんには文化祭ライブでやる曲をひたすら弾いてもらう。勿論一人でやるだけなら家でもできるから、俺も一緒に弾く。ただしひとりとして、だ」
「後藤さんとして……?」
郁代の顔に浮かんだ疑問の色に疑問に思うのは当然だと頷いた藍伽は口を開いた。
「ひとりと演奏するのは大変だろ? あいつは演奏の振れ幅が大きすぎる。それこそプロ並みの演奏から子供の遊びレベルまで。しかもひとりは自分がどんな演奏をするのかを意識的に選べない。つまり本番になるまでどんな演奏になるか分からない。当然そんなものに合わせて演奏するっていうのは至難の業だ」
「それは、そうですね」
「だから今日は俺が
「なるほど!」
たしかにそれはひとりをよく知っていて、しかもひとりと同等以上の演奏技術を持つ藍伽だけができる練習方法だった。
ひとりが自分で演奏のレベルを変えられない以上、下手をすると本人とやる以上に練習相手に適しているとすら言えた。
「つまり喜多ちゃんには、ひとりが全然弾けないような状態でも、本来の実力を発揮した演奏をしても、どちらにも対応できるようになるまで練習してもらおうと思ってる。どうだ、やるか?」
その藍伽の提案は、ひとりの支えになりたいという郁代の目標を達成するためにもぴったりのように思えた郁代は大きく頷くと気合を入れた表情でギターを構えるのだった。
その後、練習を始めた郁代が、集中しすぎて弾いていなくてもギターの旋律が聞こえるようになった頃、藍伽がギターを下ろした。
「うん、だいぶ良くなってきたな」
「ほんとですか?!」
「あぁ、よく頑張ってるよ。じゃあ今日はギターはこれくらいにして、ちょっと休憩したらカラオケに行こうか。ずっとここにいても息が詰まるだろ」
「えっ! カラオケ?!」
藍伽の口から出てきたカラオケという言葉に郁代が瞳を輝かせるが、すぐに思い直したようにぶんぶんと首を振った。
「い、いえ行きたいですけど今は練習しなくちゃ! 私には遊んでる暇は……」
郁代の言葉に行き違いがあったことを察して藍伽は苦笑する。
「おいおい、誰が遊びに行くなんて言ったよ。そうじゃなくてカラオケで歌の練習をしようって意味」
「あぅ、そういうことですか」
その言葉に自分の勘違いに気づいて郁代が恥ずかしそうに顔を伏せる。
「はは、それだけ歌うことを楽しめてるのは悪いことじゃないさ。じゃあ準備が出来たら行こうか」
「は、はい」
約一時間後、藍伽の言葉通り二人はカラオケの一室で向かい合っていた。
「それで、喜多ちゃんは自分の歌についてどう思ってるんだ?」
藍伽の言葉に、郁代は真剣な表情で考え込む。
「この前、店長さんが撮ってくれていた私たちのライブ映像を見たんです。そこで聞いた私の歌は力がないな―って思っちゃって。物理的に他の音にかき消されているっていうのもあるんですけど、それ以上に、なんというか聞いていても心に響かないというか耳を素通りしちゃうというか……」
郁代が自分の歌と比較せずにはいられないのは、いつか下北沢の街角で初めて聞いた藍伽の歌声だった。
藍伽の歌声は技術があるのはもちろんだが、それ以上に意識を嫌でも引き付けられる暴力的なまでの力を持っていた。
それは今の郁代の歌声にはないものだった。
「私なりにボイトレとかはしてるんですけどそれだけじゃ足りない気がして……」
それを聞いた藍伽は軽く頷くと静かに口を開く。
「確かに喜多ちゃんは正しい。これは俺の持論なんだけど、歌には技術だけじゃなくて説得力が必要なんだ」
「説得力、ですか……?」
「そう、曲を聞いてるだけで感情が揺さぶられることってあるだろ? 感動したりとか、悲しくなったりとか」
「はい」
「でもそれはただ上手いから感動するんじゃない。歌ってる人がその歌詞に本当に理解して共感して歌ってるからそれが聞いてる人にまで伝わってくるんだと思う。そういう歌を俺は説得力がある歌って呼んでる」
「なんだか、分かる気がします。そう考えると私は――」
郁代は顎に指をやり自分のことに当てはめて考えてみる。
「深く考えたことなかったけど言われてみれば私って後藤さんの歌詞あんまり理解も共感も出来てないかも。それどころか正直普段の後藤さんが言ってることも大体意味分からないし」
「君意外とはっきり言うよね」
俺その意味わからない子の兄貴なんだけど……
藍伽のぼやきに気づかないほど考え込んだ郁代がハッとする。
「そっか! それなら歌詞を書いた後藤さんに直接解説してもらえばいいんだわ! そうと決まればさっそく後藤さんに電話を……」
「ちょ、ちょっと待とうか」
そうと決まれば一直線、行動力がやたらとある女である郁代が早速とばかりにスマホを取り出したのを見て慌てて藍伽はその手を抑えた。
「えっ私何か間違えてましたか? 後藤さんのことをもっと知れば歌詞の理解も深まるかなって思ったんですけど」
「いや、間違えてない。確かに作詞者に直接その意図を尋ねるっていうのはいいことだと思うし、兄貴としてもひとりと色々話してくれるのはぜひやってほしいくらいだ。でも正直、ひとりと喜多ちゃんは考え方が違いすぎるからひとりの意図を完全に理解するのは難しいと思うし、仮に理解できたとしてもそれなら感情を込めて歌えるかっていたらそれもまた別問題だ」
それに、と藍伽はミュージシャンとしての顔を強く見せながら言葉を続ける。
「喜多ちゃんが結束バンドのボーカルである以上は、ひとりの代弁者ではなく喜多ちゃん自身の言葉で、感情で歌を歌うべきだと俺は思う」
「私の、言葉で……」
考え込む郁代に藍伽はふっと表情を緩めた。
「って言ってもどうしたらいいか分からないと思う。自分の言葉で歌うためにするべきこと、俺はそれは解釈だと思ってる」
「解釈、ですか?」
「そう、歌詞の意味を自分なりに考えるんだ。私ならこう考える、こう感じる。きっとここにはこういう意味が込められてるんだ、っていう風にな。国語の問題じゃないんだ。それが作者の考えていることと一緒である必要はない。ボーカリストとして考えるべきはどうすれば一番気持ちのせて歌えて、そしてそれに観客を共感させられるか、だ」
「……」
藍伽の言葉に考え込む郁代に藍伽は発破をかけるように言葉を続ける。
「それが出来たらめちゃくちゃ気持ちいいぜ。想像してみな、会場いっぱいの観客全員に、自分の感情を、考えを、感動を伝え、共感させる。その先にある観客全員と一体になるような、そんな瞬間を。これは音楽をやっている者にしか得られない快感だよ」
その言葉を聞いて、郁代がポツリとつぶやく。
「……そんなことが出来たら素敵だなって思います。でも本当に私に出来るんでしょうか。お兄さんや後藤さんと違ってなにも持っていない私に」
どうしても郁代は比較してしまう。何年前から音楽をやっていて今の自分とは比べ物にならないくらいの実力を持つ藍伽やひとりと。
追いつきたいという思いは本物だったが、練習すればするほど自分と彼らの距離の大きさを感じて自信が揺らいでしまう。
俯いてしまった郁代の顔は藍伽には見えなかった。
そんな郁代に藍伽は静かな声で言う。
「何も持ってないなんてことないよ。喜多ちゃんは友達が多いんだろ、皆と仲良くできるのも才能の一つだよ」
「でも。そんなこと歌にはなんの役にも……」
「そんなことはない。イソスタをやるとき、感動したもの、かわいいと思ったものをみんなに共有してそれにみんなが共感してしてくれるだろ? それと同じことを歌でもやればいい」
俯いていた郁代の顔が徐々に上がり、藍伽の碧い目と視線がぶつかった。
「喜多ちゃんは周りの人を惹きつけて自分に共感させる能力がある。それは俺もひとりも持っていないものだ。断言してもいい、君にはボーカリストとしての才能がある」
藍伽の力強い言葉で不安ばかりだった郁代の心に熱が生まれた気がした。郁代はその熱を逃がさないように胸の前でぎゅっと手を握った。
今なら前よりもっとうまく歌える気がした。
「ありがとうございます、お兄さん。なんだかちょっと自信が出てきました」
「よし! それじゃあ今日は歌詞について考えながら練習しよう。……でもその前に話してたらのど渇いたし先のみ物でも入れてくるか」
「そうですね」
二人は廊下に出てドリンクバーに向かう。
その途中で郁代が明るくなった表情で話しかけてくる。
「お兄さんの言うことは分かるんですけど、ほんとに感情をのせるかどうかで聞こえ方ってそんなに変わるものなんですか?」
そんな郁代の疑問の声に藍伽がいたずらっぽく口元を上げる。
「じゃあ、試してみるか」
「試す……?」
藍伽が前を向いて歩きながら軽い調子で言った。
「郁代」
突然名前を呼ばれて驚いた郁代だったが、すぐに顔を赤くさせて上目遣いで藍伽を睨む。
「もう、からかわないでください! 下の名前呼ばないでくださいって言ってるじゃないですか!」
そんな郁代の怒りの声にも気に留めず、藍伽は突然立ち止まった。
「どうしたんですか? ――え?」
藍伽は突然くるりと首をかしげる郁代の方に向きなおると郁代の両肩に手を置いて軽く自分の方に引き寄せる。
「――?!」
藍伽の顔が急に近づいてきて、郁代の視界に藍伽の碧い瞳が大写しになる。
普段は明るい色なのにどこか暗さがあるその瞳が、今は妙に熱っぽさをたたえていた。
その熱に当てられて自分の顔も熱くなっていくのが何故だか鮮明に感じられた。
混乱して藍伽の顔から目を離せないでいると、藍伽の瞳が愛おしいものを見るように細められ、それと同時に藍伽の形の良い唇がゆっくりと動いた。
その口から出てきた音の羅列が自分の名前を表していることに数瞬遅れて気が付いて郁代の混乱は極限に達した。
「えっ、あっ……あの……えっ??」
訳の分からないまま、何か言わなければと口をパクパクと動かすが意味を成した言葉が出てこない。
――その瞬間、後ろでゴンッと何かが落ちる音が聞こえた。
その音により郁代はやっと現実に引き戻される。
なんの音だったのかと二人が後ろを振り返ると、そこには慌ててグラスを拾う茶髪のツインテールの少女がいた。
少女は視線を感じたのか、かがんだ状態のままちらりと視線を上げて二人に見られることに気づくとびくりと震えた。
「……お」
「「お?」」
「お邪魔しましたー!!!!」
そして物凄い声量でそう言い捨てるとスカートを翻し廊下を走って去っていった。
「なんだったんだ、あの子……」
「さぁ……?」
困惑して目を合わせる二人。
「あの子も飲み物取りに来たんだったら悪いことしたな」
「そうですね……。――というかお兄さん! さっきの何だったんですか!」
「あぁ、今のは身振り込みだったけど同じ言葉でも全然伝わる感情が違っただろ?」
「それは、そうですけど! びっくりするのでもうしないでください!!」
「分かった分かった、悪かったよ」
「ほんとに言ってますからね!」
ぷりぷりと怒る郁代をなだめながら藍伽たちは練習に戻っていった。
また人前で堂々といちゃつくカップルに遭遇するのではないかと怯えて部屋から出られなくなった少女を残して……。
「流石にもう帰ったかしら……。いや、でもまだいたら今度こそ私は耐えられない……!!」