日が暮れつつある下北沢の街角。
そこそこ人通りは多いけれど他には何もない場所で私は立っていた。
何故私がそんなところにいるかというと、奇妙な縁で、私は後藤さんのお兄さんの路上ライブを見ることになったからだ。
奇妙な縁も何も元はと言えば、私の暴走のせいなんだけど。
……か、考えるのはよしときましょう。うんそうね、それがいいわ……。
私が一人で百面相をしている間にもお兄さんは慣れた手つきで、路上ライブの準備をしていた。
ここに来る途中に聞いたことだけど、お兄さんは固定のバンドを組んでいるわけじゃないらしく、今日も1人でライブをするそうだ。バンドを組んでしか演奏したことない私からすれば、ドラムもベースもない状態で演奏するなんて考えられないけれど……。
そんな事を考えているうちに私の周りには何人か、人が集まってきていることに気づく。何故か全員女の子だった。
きっと、恰好からして演奏が目当てというより、お兄さんのルックスに釣られてきたのだろう。
正直、彼女たちの気持ちもよく分かった。
友達から面食いだ、なんてよく言われる私でも認めざるを得ないほどお兄さんの容姿は整っているから。モデルや俳優をやっていると言われたら素直に信じてしまいそうなほどだ。
そんなお兄さんは淡々と準備を進め、やがて設置が完了した。
お兄さんがゆっくりとマイクの前まで歩いてくる。
お兄さんはそのまま何気ない動作でギターを構え、ピックを持った。
「え」
私は思わず驚きの声を上げる。お兄さんがそのままギターを弾こうとしているように見えたから。
まだまだライブには疎い私でも知っている。通常、ライブを始める前はMCをするのが普通だ。
MCをやる理由は様々だ。
例えばバンド紹介であったりとか、来てくれたファンに対する感謝であったりとか、ライブに対する思いを語るためであったりとか。
特に路上ライブにおいては、少しでも自分たちの演奏を聴いてもらおうと必死に気を引こうとするのが普通なのだという。そうしなければ道行く人々は中々立ち止まってくれない、らしい。
伊地知先輩やリョウ先輩にそう聞いていたから私は思わず驚いてしまった。
だが、私の驚きをよそに、お兄さんは躊躇いなくピックを持つ右手を振り下ろしてしまった。
スローモーションのようにゆっくりとピックが弦に触れるのが見えた数瞬後、お兄さんの手元で作られた音が私の肌を撫でる。それと同時に私の体は震えた。
視線を落とすと、自分の腕に鳥肌が立っているのに気づく。
たった一音。
それだけで理解させられてしまった。
お兄さんはMCをしないんじゃない。する必要がないだけなんだ、と。
そう思ったのは私だけではなかったみたい。
私の横を興味なさそうに通り過ぎようとしていたバンドマンらしき男性がぎょっとした様子でお兄さんの方を二度見するのが見えたから。
でも、もう私に
お兄さんの演奏が遂に始まるからだ。
お兄さんはふっと、軽く息を吐くとそっけないまでの様子でぽつりと曲名だけを言うと、何の気負いもなく早速ギターをかき鳴らし始めた。
私の知らない曲だった。
それは確かなはずなのに、昔から聞き知っている曲のように懐かしく、でもどこまでも新鮮な旋律。
そしてギターに合わせてお兄さんが、マイクに歌を吹き込み始める。
その衝撃を現す言葉を私は持たなかった。
それは、あまりに完成された音楽だった。
バンドには必須なはずのドラムやベースの音があったとしても、このギターの前では
そんな世界を形作るギターの一音、歌詞の一節が、今まで私が生きるために身に着けてきた、心の鎧を、虚飾を、剥ぎ取っていってしまう。
傷つかないために、期待に応えるために、友達の輪を崩さないために、歳をとるたびに強固になっていった心の外殻が剝がされていく。
抗おうにも抗えず、心を守っていたものを一方的に奪われて、とてつもない恐怖や心細さを感じる。それなのに、同時にどんどんと心が軽くなっていくことに快感を覚える自分がいるのが不思議だった。
そして、心を覆う物がすべてなくなってしまったその時、曲はサビを迎えようとしていた。
――あ、まずい
訳もわからずそう思ったけれど、もう遅かった。逃げることも心の鎧を着なおすこともできないままに、次の瞬間、剝き出しになった心に暴力的なまでの音の奔流が叩きつけられた。
奔流に流され、自分の、世界の輪郭が段々とぼやけてくる。
何もかもがぼやけた世界で、お兄さんだけが唯一はっきりとした輪郭を持ち巨大な存在感を放っていた。
お兄さんの細くしなやかな指が弦の上を跳ね回り、正確なストロークが世界を震わせる。伸びやかな甘い歌声が耳をくすぐり、力強いシャウトが心臓を鷲掴みにする。
ライブ中のお兄さんは全身から火傷しそうな程の熱を発していた。その熱が私たちを焼いてゆく。けれどその熱はどこか寒々しい。
莫大な熱量を発しているのに、お兄さんは何もかもを飲み込んでしまうような冷たい闇をも放っているように見えた。その闇は近づいてはいけない恐ろしいもののはずなのに、だからこそ魅かれて仕方がない。
自分の体が燃えると知っていながら炎に惹かれる虫のように、演奏するお兄さんから目を離せない。
お兄さんの抱える闇が、炎が、絶望が、希望が、怒りが、喜びが、音を介してダイレクトに私に叩き込まれる。
心を震わす音楽、という言葉はどこでも聞くけれど、今日この時、私は初めてその言葉の本当の意味を知った。
一曲目が終わったその時、手元に何かが当たって私はハッとした。
当たった何かは水滴だった。
それを見て初めて私は自分が涙を流していることに気が付いた。
でも今は涙を拭おうという気すら起こらないほどに、私はお兄さんの演奏に魅了され、感動していた。
今までの人生でないほど心動かされて、流れる涙をそのままに半ば呆然としていると、ふと、お兄さんと目が合った。
その碧い瞳に浮かぶ感情を見て思わず困惑してしまう。
――あれは、私の涙を見咎める目だ。
なぜそんな目をするのか分からなかった。
私が困惑している間に、お兄さんは何事もなかったかのように私から目線を切ると、ギターを構え直して一曲目と同じように曲名をいうとすぐさま二曲目の演奏を始めてしまった。
勘違いかとも思ったけれど、時に音楽は言葉よりも多くのことを伝えてくれる。
私はその演奏を聞いてようやくお兄さんの真意が分かった気がした。
お兄さんは私に言っているのだ。
そうじゃないだろうって。涙なんて流している場合じゃないだろうって。
私は思わず笑ってしまいそうになる。
そう、彼は遥かな高みから私を見下ろして言っているのだ。ここまで来てみろ、と。
この時、私の脳内に後藤さんたちの言葉がフラッシュバックしていた。
お兄さんは言っていた。後藤さんはいつか自分よりも凄い演奏をするはずだと信じてる、と。
後藤さんは言っていた。音楽でお兄さんを超えることこそが自分の目標だ、と。
二人から聞いてどこか他人事のように感じていたその話は、でも全然他人事なんかじゃなかった。
お兄さんの演奏を聞いて分かった。後藤さんはお兄さんみたいに演奏をすることはできないだろう、と。
お兄さんの音楽はあまりに完成された音楽だった。他の人が入る余地のないのではと思ってしまうほどに。
他のすべてを塗りつぶしてしまうようなお兄さんの音楽を後藤さんはきっと再現できない。――けれど、
けれど、後藤さんはそんな音楽をする必要なんかない。
――だって、後藤さんには私が、伊地知先輩が、リョウ先輩がいる。
お兄さんは言っているのだ。
後藤さんだけじゃない。私だけじゃない。結束バンドとしてこの高みまで登って見せろ、と。
ただの私の妄想かもしれない。演奏中のお兄さんとたまたま目があっただけかも。
けれどそう思った瞬間、私の心の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。
何も持たない灰色の自分が、特別な道を進むリョウ先輩を初めて見たときに感じた熱をさらに大きくしたような何かが。
はっきり言ってお兄さんの演奏はレベルが違う、深みが違う、次元が違う。
ギターを初めて数週間の私じゃ逆立ちしたって叶わない。
技術が、経験が、覚悟が全然足りていなくて、見通せない雲に隠されどこに頂点があるかすらも分からない、ただただ高い壁だ。
でもだからってここで心折れて逃げて仕舞えば私はこれからもなにもできない私のままだ。
私はメイクが崩れるのも気にせず涙をゴシゴシと拭き取ると、お兄さんの一挙手一投足を食い入るようにみる。少しでもそこから何かを盗むために。
だって私はもう
後藤さんのために、結束バンドのために、そして何より私のために。
そんな私の様子を見た彼は、ふっと口元を緩ませると、さらに演奏のギアを一つ上げた。
ーー