――冷たい。
それが、意識の底から最初に浮かび上がった感覚だった。
頬に触れるのは湿った布。鼻を刺すのは泥と血、そして川の臭い。
耳の奥では、まだ濁流の轟音が残響のように鳴り続けていた。
ゆっくりと瞼を開けると、薄暗い救護天幕の内側が揺れて見えた。
視界の端には、泥にまみれた軍靴と、血の滲んだ包帯。
誰かが慌ただしく走り回る気配がする。
「……殿下! 殿下、お気づきになられましたか!」
声が聞こえた。
だが、その声が誰のものなのか、すぐには分からなかった。
慶仁は、喉の奥が焼けるように痛むのを堪えながら、かすれた声を絞り出した。
「……寛子……寛子は……?」
その名を口にした瞬間、
周囲の空気が、わずかに震えた。
見知らぬ侍従の一人が、言葉を失ったように唇を噛みしめ、別の者は、顔を背けて肩を震わせていた。
「殿下……どうか、今はお体を……」
「寛子はどこだ!!」
慶仁は、まだ動かぬ体を無理やり起こそうとした。
全身が悲鳴を上げる。
肋骨が軋み、肺が焼けるように痛む。
だが、それでも彼は叫んだ。
「寛子を……侍従たちは! 皆はどこにいる! 正成は! 千代……千代はどこだ! 寛子を連れてきてくれ!」
慶仁は叫んだ。寛子を呼ぶことは、彼女の死の否定だった。だが、同時に千代の名を呼ぶことは、日常の象徴への縋り付きでもあった。寛子がいる場所には必ず千代がいた。千代がいれば、そこはまだ「いつもの世界」であるはずだった。
だが、侍従たちは沈黙したまま動かない。互いに視線を交わし、誰がその役目を負うべきかを押し付け合うように俯いている。
やがて、一人の年長の侍従が、震える膝を押さえつけるようにして慶仁の前に跪いた。
「……殿下。どうか……どうか、御心を強くお持ちくださいませ」
その声音だけで、慶仁はすべてを悟った。
胸の奥が、何かに殴られたように潰れた。
「松殿寛子様は、先刻……工兵隊の手によって収容されました」
「……対面する。すぐ、連れて行け」
「なりませぬ!」
侍従の声は悲鳴に近かった。
「宮内省からも、松殿侯爵家からも厳命されております。殿下を……殿下を、あのお姿に合わせるわけには参りませぬ!」
「何だと……?」
「松殿家の方々も仰せでございます。『娘の、最も美しい姿だけを殿下の記憶に残していただきたい』と。……お体は、あの激流と丸太に打たれ、もはや十六歳の乙女の……見るに耐えぬ、あまりに、あまりに痛ましい状態で……」
「……嘘だ」
呟きは、風に消えるほど小さかった。
慶仁は、震える手で自分の胸元を掴んだ。
そこには、泥にまみれた菊結びのお守りがあった。
「これ……は……」
それは、伊勢の行在所で自分が寛子に渡したはずの小さな菊結びのお守りだった。
「寛子様が、最期まで握りしめていたものでございます。泥を洗い流そうとしましたが、指が……指が固くお守りを巻き込んで、お亡くなりになった時のまま、どうしても解けなかったのでございます」
慶仁は絶句した。
寛子が、最期まで握りしめていたもの。
自分が渡した、初めての贈り物。
自分との絆を離すまいとした彼女の最後の執念が、お守りの「形」となってそこにあった。
その泥の感触が、彼女の冷たい指――泥に汚れた指の感触と重なった。
「……千代は。正成は」
「五辻様は先ほど、揖斐川の河口で変わり果てたお姿で……。その、ほかの皆様も下流から河口付近で。ただ千代様は未だ……おそらく、伊勢湾まで押し流されたものと……」
寛子にはお守りがあり、痛ましくとも「亡骸」があった。だが、正成や学友達は無残に砕け、千代には何もない。遺体すら濁流の彼方へ消えたのだ。
慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、嗚咽を漏らした。その姿は、もはや十二歳の少年ではなかった。
「……いやだ……」
慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、嗚咽を漏らした。
寛子の命を奪い、千代をどこかへ連れ去り、自分だけを無慈悲な梁の上に残した「水」への憎悪が、少年の心にどす黒い種を蒔いた。
「返してくれ……寛子を、千代を……皆を……返してくれ……!」
侍従たちは、誰一人として彼に触れられなかった。
触れれば、彼の心が壊れてしまうと分かっていたからだ。
慶仁は、泥だらけのお守りを胸に抱きしめ、声にならない嗚咽を漏らした。
その姿は、もはや十二歳の少年ではなかった。
濁流の中で、少年は死んだ。
そこにいたのは、悲劇を背負った皇族だった。
同日
京極宮邸の別館では、慶仁の乳兄弟である雅武が、慶仁の十三歳の誕生日の祝宴に向けた準備に追われていた。
本来なら伊勢にも同行するはずだったが、母であり慶仁の乳母でもある六条夫人が「宮号を継承される大事な時期。東京での儀礼の準備を疎かにしては、松殿家に対しても不調法になります」と厳命したため、彼は苦渋の決断で居残りを承諾したのだった。
「雅武、その菊の装飾はもう少し右よ。殿下は、少しの歪みもすぐにお気づきになるのだから」
母の指示に、雅武は「わかっていますよ」と苦笑しながら応えていた。
「寛子様や千代が戻ったら、きっと『私たちがいない間に、随分と手際が良くなりましたね』って驚かれますよ」
どこかで電話のベルが鳴っていた。
しばらくすると眉をひそめた侍女が部屋に入り電話がある旨を伝えてきた。
「六条様、宮内省より火急のお電話が。六条様をご指名です」
「何事かしら? 雅武、装飾は直しておいてね」
六条夫人が応対する為部屋の外へと出た。
邸内に、肺を引き裂くような悲鳴が響き渡ったのはそれからすぐのことだった。
雅武が廊下に飛び出すと、真っ青な顔で立ち尽くす母とその周りで心配そうに見つめる侍従や侍女の姿があった。
「……雅武……」
母が、崩れ落ちるように膝をついた。
「殿下が……伊勢湾の濁流に……。松殿の姫君も、千代も、五辻の正成様も、お付きの者たちも……皆……」
「え? 何をおっしゃっているのですか? 母上」
震える母の声。
「殿下が……伊勢湾の濁流に……。松殿の姫君も、千代も、五辻の正成様も、お付きの侍従たちも……皆……。今、宮内省から連絡が……。別当殿も急ぎこちらに向かっています。……ああ、なんということ……!」
雅武の指から、慶仁のために用意していた祝儀の目録が、音もなく床に落ちた。
ぱたり、と。上質な和紙が床に触れる微かな音だけが、異常なほど大きく室内に響いた。
雅武の頭は、母の紡いだ言葉の意味を必死に拒絶していた。濁流? 皆が? つい数日前、「土産話を楽しみにしておけ」と笑って赤坂を出発されたばかりではないか。寛子の凛とした声も、千代の控えめな忍び笑いも、つい先刻のことのように思えるというのに。
窓の外では、東京の穏やかな秋の陽光が、皮肉なほど静かに降り注いでいた。
嵐が過ぎ去った後の東京は、遠く離れた地での惨劇などまるで嘘のように晴れ渡っている。ラジオが伝え始めた東海地方の壊滅的な被害状況と、目の前に広がる平穏そのものの光景が、雅武の精神を真っ二つに引き裂こうとしていた。
桑名で、自分の主と、その想い人と、幼馴染の千代が泥水に飲み込まれていたその時。自分は、何も知らずにこの暖かい部屋で、華やかな刺繍の入った布を愛でていた。
「なぜ……」
雅武は、震える手で壁を叩いた。
「俺が、俺がいれば、殿下の盾にくらいはなれたのに!」
拳から滲む血の痛みなど、全く感じなかった。ただ、己の身を包むこの安全で清潔な空気がひたすらに疎ましく、激しい自己嫌悪が胸を焼いた。その後、宮内省から断続的に入る報せは、雅武のすがりつくような希望をことごとく打ち砕いていった。殿下は奇跡的に生還されたものの、寛子と正成や同道した学友達は無残な亡骸となって発見され、千代や侍従たちは行方知れずであるという、地獄のような事実の羅列であった。
数日後、瞳から光を失って帰還した慶仁を迎えた時。
雅武は、玄関に平伏したまま、顔を上げることができなかった。
無傷で、清潔な衣類を纏い、健康な体で「お帰りなさいませ」と言うことの、あまりの不敬。あまりの残酷。
慶仁は、雅武の横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。
だが、何も言わなかった。
雅武は、慶仁の背広の裾に付いた、乾いて白くなった「桑名の泥」を目にした瞬間、喉の奥からせり上がる嗚咽を必死に飲み込んだ。
寛子は、慶仁を支えて死んだ。
千代は、寛子を支えて消えた。
正成は、雅武の代わりに盾となって砕けた。
侍従たちは、肉壁となって流された。
だが自分は? 彼らが命を賭けて守り抜いた「殿下」を、これからの人生、どのような顔で支えていけばよいのか。
慶仁が握りしめる泥だらけのお守りと、雅武が用意していた清浄な祝儀袋。
その絶望的な距離が、新しく誕生する「京極宮」の周囲に、もう一つの悲劇の層を重ねていった。
寛子の葬儀は清華家の格式で厳粛に行われた。
読経が静かに流れる中、白木の棺がゆっくりと前へ進む。
慶仁は、その棺の上に置かれた白百合を見た瞬間、呼吸が止まった。
――寛子だ。
その現実が、ようやく、ようやく、彼の心に突き刺さった。
足が震え、視界が揺れ、喉が締め付けられる。
「……寛子……」
呟いた瞬間、膝が崩れ落ちた。
侍従たちが慌てて支えるが、慶仁は震える手で棺に触れようと伸ばしたが、ふと、その隣に置かれた小さな位牌に目が止まった。
寛子の棺の影に隠れるように置かれた、千代の位牌。
寛子には豪華な棺と花がある。だが、彼女を支え抜いた千代には、遺体もなく、ただ位牌があるだけだった。
「……寛子……! 千代……! どうして……!」
その叫びは、葬儀の静寂を切り裂き、松殿家の人々の涙を誘い、参列者の胸を締め付けた。
寛子への愛と、千代への申し訳なさ。そして、自分を救った者たちがすべて消え、自分だけが「生かされた」という地獄。
遺体を見ないことで守られたはずの心は、千代の「遺体がない」という現実、そして寛子の葬儀という「決定的な不在」の儀式によって、跡形もなく砕け散った。
この日、慶仁は二度目の『喪失』を経験した。
濁流の記憶は、もはや悲劇ではなく、彼を縛り付ける呪いへと変わっていた。
寛子嬢の遺体と対面を希望しても、殿下が寛子嬢の遺体と対面することは、宮内庁も松殿家も、絶対に許さないよな。
寛子嬢の遺体は泥にまみれ爪が剥がれ指は硬直しお守りを握りしめたまま体は激流と瓦礫に打たれまだ十六歳の少女の姿とは思えないほど痛ましい
そんな寛子嬢の遺体を見れば精神が壊れるわ。
松殿家も、殿下には元気だった寛子の姿だけを覚えていてほしい、と家の娘として見せたくない姿だろうし、