昭和四十九年、一月
その年の歌会始の儀が滞りなく終わった直後、宮内省から早くも翌年──昭和五十年の歌会始のお題が発表された。
「殿下、来年のお題は『雨』でございます」
その言葉を聞いた瞬間、京極宮慶仁王は微かに息を呑んだ。
お題が発表されたこの日から、皇族は約一年という時間をかけ、公務や日常のふとした瞬間の実感を大切にしながら「その年ならではの体験」を歌に込める。しかし慶仁にとって『雨』とは、体験などという生易しいものではなく、決して避けては通れぬ記憶そのものであった。
「……雨、か」
絞り出すような短い呟きに、雅武は慶仁の胸の内を察し、ただ深く首を垂れた。
慶仁は自らに言い聞かせるように、静かに言った。
「逃げるわけにはいかないな」
昭和四十九年九月 ― 秋雨前線の夜、京極宮御所 ―
季節は流れ、一般の詠進の締切が九月末に迫る。
皇族にとっても歌作りの最大の山場となる時期である。
秋雨前線がもたらす夜の雨は、夏の名残を引きずりながらもどこか冷たく、胸の奥底へと重く沈み込むような響きを持っていた。
慶仁は薄暗い書斎の窓辺に立ち、ガラスを不規則に叩く雨粒の音に、じっと耳を澄ませていた。
「……また、この音だ」
雨が降るたび、胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに、しかし確実に浮かび上がる。
崩れた建物。
伸ばされていた手。
温もり。
そして、消えていく気配。
慶仁はゆっくりと目を閉じた。
「寛子……どうして私は、まだお前の温もりを探しているのだろう」
降りしきる雨は、慶仁にとって、自らの魂を削るような作歌の苦しみであった。
十月。
秋の風に明確な冷たさが混じり始めた頃、慶仁は学習院での講演を終え、迎えの車に乗り込む前にふと空を見上げた。
空を覆う鈍色の雲から、ポツリ、ポツリと冷たいものが落ちてくる。
「殿下、雨が……」
傍らに控えていた雅武が、素早く傘を差し出す。しかし、慶仁は静かに首を振った。
「……少し、このままで」
アスファルトを濡らす雨の匂いが、十五年前のあの夜の、ひどく湿った空気をまざまざと呼び覚ます。
(寛子……お前は、あの時……何を思っていたのだろう)
問いかけても、答えが返ってくることはない。しかし、慶仁はその絶対的な沈黙のなかで、一つの御歌の輪郭を確実に形作りつつあった。
十一月。
歌の大まかな形が整い、宮中にて和歌の指導を担う選者を招いての御進講が行われた。
専門家からの助言を受け、言葉の響きや表現を最終的に磨き上げる重要な過程である。しかし、慶仁から提示された素案を一読した老齢の選者は、絶句したまましばらく言葉を発することができなかった。
通常、皇族の御歌は情景を詠み込んだ穏やかなものが多い。だが、そこに記されていたのは、あまりにも生々しく悲痛な魂の叫びであった。
「……殿下。この御歌は……」
震える声で尋ねる選者に対し、慶仁は静かに、しかし揺るぎない眼差しで答えた。
「言葉の調べとして整えるべき点があれば、教えを乞いたい。だが、込めた想いの一文字たりとも、変えるつもりはない」
その言葉に込められた十五年分の重みを感じ取り、選者は深く頭を垂れ、ただ微かな言葉の響きのみを整えるに留めた。
冬の気配が濃くなった十二月。
慶仁は久しぶりに、かつて寛子が京極宮邸を訪れた際に使っていた部屋へと足を踏み入れた。
机の上には、彼女が愛用していた筆箱、学習院のノート、そして編みかけのまま時を止めたレース地のハンカチが残されている。
慶仁はそっと手を伸ばし、その純白の布の感触を指先に確かめた。
「……寛子。私は、お前の温もりを忘れたくない。だが……それを抱えたまま、生きていくことはできるのだろうか」
完成へと近づいた御歌を胸に抱いたままこぼれ落ちたその呟きは、慶仁自身への切実な問いでもあった。
昭和五十年、一月。
歌会始を翌日に控えた夜も、冷たい雨が降っていた。
慶仁は書斎の机に向かい、清書された真新しい白い短冊を見つめていた。手元の弱い灯りが、部屋の隅に置かれた寛子の遺影を柔らかく照らし出している。
誰にも聞かれぬ微かな声が、夜の静寂に溶ける。
「あの時、私は……お前の腕の温もりにすがっていた。それなのに……私は何も返せなかった」
短冊を持つ手が、かすかに震えている。
「私は、まだ……お前の温もりを探しているのだろうか」
目蓋の裏で、あの夜の雨音が響き続ける。
「……寛子。私は前へ進もうとしている。だが、お前の温もりを忘れたわけではない。忘れられるはずがない。お前の腕の温もりを……今も、探してしまう」
その祈りのような独白は、秋から冬にかけて推敲を重ね、ついに結実した五七五七七の調べと同じであった。
── わが腕(かいな) 支えし腕(うで)の温もりを 雨の音きく 夜半にさがして ──
慶仁は短冊をじっと見つめ、長く、深い息を吐き出した。
「……これが、今の私だ」
一年という時間をかけ、十五年間胸の最奥に沈めて誰にも触れさせなかった言葉を、初めて『歌』という形にして外へ解き放つ準備が整った瞬間だった。
昭和五十年一月 皇居・正殿松の間
厳かな静寂が支配する松の間の空気は、冬の朝の冷気を孕んで張り詰めていた。
天皇皇后をはじめ、皇族、召人、そして入選者たちが、古式ゆかしい装束や正装に身を包み、整然と居並んでいる。
儀式は粛々と進み、一般入選者の瑞々しい歌、そして召人の重厚な歌が次々と披露されていった。
独特の節回し。朗々と響き渡る声。それは千年の時を超えて受け継がれてきた、言葉の祭典である。
やがて、読師が慶仁王の名を読み上げた。
わずかに身を正した慶仁の視線の先で、講師が短冊を高く捧げ持つ。
発声が最初の一句を、独唱で朗じ始めた。
『わがかいな──』
その瞬間、松の間の空気が目に見えるほどの震えを伴って凍りついた。
列席者たち──あの伊勢湾の惨禍を知っている者達の背筋に、電流のような戦慄が走った。彼らの脳裏には、あの日守れなかった多くの命の記憶が、鮮烈に蘇っていた。
『ささえしうでの 温もりを──』
講頌たちの声が重なり、和音となって広間に満ちる。
その調べは、十二歳の若宮を救うために、その細い腕で殿下の体を梁へと押し上げ、自らは濁流の底へと消えていった十六歳の少女、松殿寛子の「腕」を、今まさにこの場に召喚するかのようだった。
『雨の音聞く 夜半に探して──』
歌が結ばれた後、広間には痛いほどの静寂が降りた。
通常、皇族の御歌とは、国や民、あるいは四季の移ろいを優雅に詠むものだ。しかし、二十八歳の慶仁王が差し出したのは、あまりにも剥き出しの「個」の悲しみであり、あまりにも生々しい「魂の叫び」であった。
上座でこの歌を真っ直ぐに受け止めた天皇は、静かに、しかし深く目を伏せた。
あの日、「人災である」と断じたその眼差しは、成長した慶仁の胸の内に、未だあの夜の冷たい雨が降り続いていることを、痛いほどに悟ったのだ。
儀式の終わり、天皇が立ち上がり、列席者を見渡した後、慶仁にその深い視線を向けた。
本来、儀式の場では個別の歌に踏み込んだ言及は稀である。だが、天皇は静かに、そして一言ずつ、重みを持って言葉を紡いだ。
「……慶仁。その歌には、其方が十五年という長き年月、誰にも分かち合わず、ただ独りで抱え続けてきた想いが滲んでおる」
慶仁は深く頭を垂れた。視界の隅で、畳の縁が滲んで見える。
「あの夜の雨は、お前の半身をもぎ取ったかもしれぬ。だが、其方が今日までその温もりを忘れず、慈しんできたこと……それこそが、彼女が遺した最も尊い『光』なのだ。忘れぬことは、決して苦しみではない。想いを抱き、その重みを知る者こそが、人の痛みに寄り添える強さを持つ」
天皇の玉音は、広間に居合わせたすべての者の胸を打った。
「其方が今日、この一首を詠み上げたこと。それは、彼女との約束を果たし、新たな一歩を踏み出すための覚悟であろう。その温もりを探す夜が、いつか……この国の明日を照らす優しい記憶となる日が来るであろう。朕は、そう信じておる」
その温かく力強い玉音は、凍りついていた慶仁の胸の最奥へと、静かに、深く、そして決定的に染み込んでいった。それは呪縛を解くための鍵であり、同時に、亡き者と共に生きることを許す「免状」でもあった。
慶仁は震える息を吸い込み、消え入るような、しかし確かな声で応じた。
「……身に余る御言葉、畏れ入ります」
その瞬間、松の間の窓から差し込んだ冬の陽光が、慶仁の肩を優しく照らした。
儀式を終え、慶仁はゆっくりと松の間を後にした。
廊下には冬の透き通った光が差し込み、外の庭にはまだ薄く雪が残っていた。後ろに控える雅武が、音を立てずに歩調を合わせる。
しばらく続いた沈黙ののち、慶仁はふと足を止め、前を向いたまま小さく呟かれた。
「……あの歌を、ようやく外へ出せた」
雅武は立ち止まり、深く頭を下げた。
「長い間……胸の奥に沈めていた言葉だ。だが、今日……陛下に聞いていただけて……少し、息ができた気がする」
決して声は震えていなかった。しかしそこには、長き年月の重圧からわずかに解放された者の、静かな安堵が滲んでいた。
「殿下……きっと、寛子様も千代も……本日の御歌をお聞きになっておりましょう」
雅武の慎ましい言葉に、慶仁は目を閉じ、ほんのわずかに口元を綻ばせた。
「……そうであれば、救われる」
それだけを言い残し、慶仁は再び歩き出した。その背中は、依然として痛みを抱えながらも、確かに己の足で前へ進もうとする人の姿であった。
慶仁を乗せた車が、ゆっくりと宮邸の門をくぐる。冬の夕暮れは早く、空はすでに薄紫の帳を下ろしかけていた。
出迎えた者たちが深く頭を下げる中、慶仁は誰にも声をかけず、真っ直ぐに書斎へと向かった。
重厚な扉を閉めると、御所の静けさがふわりと身を包み込む。
机の前に座り、慶仁は懐から、先ほど提出したものと同じ御歌を記した短冊をそっと取り出した。
──わが腕 支えし 腕の温もりを 雨の音きく 夜半にさがして──
指先で和紙の感触をなぞりながら、慶仁は深く息を吐いた。
「……ようやく、言葉にできた」
立ち上がり、部屋の隅に置かれた寛子と千代の遺影の前に歩み寄る。そこには、毎朝欠かさず供えられている白い百合が、今日も静かな香りを漂わせていた。
慶仁は膝をつき、短冊をそっと祭壇に置いた。
「寛子、千代……今日、ようやく……お前達のことを『歌』にすることができた」
写真の中で微笑む二人の少女は何も言わない。しかし、慶仁はその沈黙にこそ、十五年もの間寄り添われてきたのだ。
「陛下は……『忘れぬことは苦しみではない』と仰った。その言葉に……救われた気がする」
ふと気づけば、外ではいつの間にか小雨が降り始めていた。
窓辺へ歩み寄ると、ガラスを伝い落ちる雨粒の音が微かに聞こえる。
崩れた建物。伸ばされた手。温もり。そして、気配。
慶仁は、もう目を逸らさなかった。
「……寛子。私は、まだお前の温もりを探している。だが……それでも前へ進むよ」
それは、亡き人への報告であり、自らへの誓いでもあった。
胸の奥にある重さが完全に消え去ったわけではない。だが、陛下に想いを受け止められたことで、それはただの『痛み』から、慶仁を形作る大切な『記憶』へと変わり始めていた。
「……寛子。ありがとう」
雨音の中、長い年月を経てようやく辿り着いた本心が、静かに零れ落ちた。
同じ頃、松殿侯爵邸。
テレビの中継を通じて慶仁の御歌が詠まれた瞬間、居間は水を打ったように静まり返っていた。
松殿侯爵は背筋を伸ばし、深く目を閉じた。
膝の上で固く組んでいた手をゆっくりと解き、震える息を吸い込む。
「……殿下は、今も……あの子を……」
十五年。自分たちは寛子の死を、松殿という家が負った悲しみとして抱え、耐え忍んできた。しかし、殿下は──。
「国家の未来を背負う身でありながら、娘の温もりを今も胸に抱いておられるのか」
その事実に胸が締め付けられ、侯爵は声を震わせた。
「……寛子。お前は……殿下の御心の中で、今も生きているのだな」
傍らでは、侯爵夫人が口元をハンカチで押さえ、声を殺して泣き崩れていた。
「……あの子の……あの子の温もりを……殿下は……十五年も…………あの夜の温もりを胸に抱え続けて……」
母として、胸が張り裂けるほどの痛みと、言葉に尽くせぬ誇りが同時に押し寄せていた。
「寛子……あなたは……殿下をお守りしただけではなく、その御心を……十五年も支えていたのですね……」
寛子の弟は、膝の上で強く拳を握りしめていた。
「姉上……殿下は……殿下はやはり姉上を忘れておられなかった……」
妹もまた、大粒の涙を流しながら呟いた。
「……殿下が……姉上の温もりを探しておられるなんて……姉上は……殿下の人生にとってどれほど大きな存在だったのでしょうか」
侯爵は再び目を閉じ、心の中で愛娘の名を呼んだ。
目に涙は浮かべていなかったが、手に持った茶碗は、かすかにカタカタと音を立てて震えていた。
その夜、松殿家の人々は寛子の遺影の前に清らかな白い百合を供え、夜通し静かに祈りを捧げた。
昭和五十年、春。
慶仁は昨年十月に二十八歳を迎えていた。皇族としては、とうに婚姻を固めるべき年齢である。
しかし、慶仁にとって、そして周囲にとっても、寛子という存在はあまりにも大きすぎた。宮内省も皇族たちも、暗黙の了解として「京極宮慶仁王殿下の御心が整うまで待つべき」と判断し、歩みを止めていた。
だが、先の歌会始で慶仁が初めて胸の内を吐露したことを受け、事態は静かに動き始めていた。
「殿下にも国民にも、寛子嬢の幻影があまりに強すぎる。妃候補は極めて慎重に選ばれなければならない」
「寛子嬢は清華家待遇の松殿家の姫であった。殿下の妃には、それに匹敵する家格が求められるのは必定」
「当然だ。旧摂家の公爵家、旧清華家の侯爵家。下がっても旧大臣家の伯爵家まで。あるいは賜姓皇族の家系か」
「留意すべきは、決して寛子嬢の『代わり』を求めてはならんということだ。寛子嬢の記憶を否定するような女性でもいけない」
「左様。自己主張が強すぎず、控えめで、寛子嬢の存在を尊重できる者。殿下の痛みに寄り添え、同時に殿下をお支えできる芯の強さを持つ女性でなければ」
「寛子嬢とは違う形で、殿下をお支えできる女性ということですな」
「候補者の選定では、『寛子様のことをどう思うか』という点を重視する必要がありましょう。……あとは、松殿侯爵家がどう思われるか、ですな」
周囲が慎重に動き出す中、慶仁自身の心は、まだあの雨の夜の記憶の淵を彷徨っていた。
一方、松殿侯爵は、あの日以来、書斎で一人考え込むことが多くなっていた。
「今なら、言ってよいはずだ。いや……今こそ言わねばならない。だが、慶仁王の御心を思えば……」
そう逡巡しているうちにも季節は巡り、梅が散り、桃の花もほころび始める月となっていた。
机に向かい、慶仁の歌が掲載された新聞の切り抜きを幾度も読み返す。
──雨音を聞く夜に、十五年前の温もりを探す。
その言葉の重みに、侯爵は胸が塞がる思いだった。
「……殿下は、まだあの夜におられるのか……」
ふと、背後で足音が止まった。夫人が静かに部屋へ入ってくる。
「あなた……殿下に、お会いになるのですか」
侯爵はしばらく沈黙し、やがてゆっくりと、力強く頷いた。
「あの子は……殿下の未来を守るために命を賭した。ならば、父である私が……殿下の未来を後押しせねばならぬ」
夫人は涙ぐみながらも、かすかに微笑んだ。
「……寛子も、きっと……それを望んでおります」
数日後、松殿侯爵から宮内大臣宛に、短くも重い書簡が届けられた。
『殿下に、私より奏上致したき儀がございます。お時間を賜りたく存じます』
文面を読んだ宮内大臣は、すぐさま事の重大さを察した。
「松殿侯爵が動いたか。これは、殿下の未来にとって決定的な意味を持つ」
宮内省は極秘裏に日程を調整し、京極宮家へと報告を入れた。
「……松殿侯爵が……?」
思いがけない名に、慶仁は一瞬息を呑んだ。
「はい。殿下に、どうしても直接お伝えしたいことがあると……」
深く頭を下げる雅武に対し、慶仁は長い沈黙ののち、静かに応じた。
「……お会いしよう」
宮内省の一角にある、春の柔らかな光が差し込む応接室。
慶仁は、隠しきれない緊張を漂わせながらソファに座っていた。やがて重厚な扉が開き、松殿侯爵がゆっくりと足を踏み入れた。
十五年ぶりだった。命を散らした少女の父と、生き残った少年が、こうして正面から向き合うのは。
侯爵が深く一礼し、慶仁もまた、身を乗り出すようにして頭を下げる。
「……寛子達のことを、歌にいたしました。しかし、私は……まだ前へ進めるかどうか……」
言葉を詰まらせる慶仁を、侯爵はじっと見つめ返した。そして、十五年間抱え続けた想いを、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「殿下。寛子は、殿下に『生きてほしい』と願ったのであり、殿下の時間を『止めてほしい』と願ったのではございません」
その言葉は、慶仁の胸に十五年分の痛みと、それ以上の救いを同時にもたらした。
「誰かを愛し、慈しむこともまた、あの子が繋いだ『生』の一部なのです」
胸の奥底で凝り固まっていた罪悪感が、春の雪解けのように静かに溶け出していく。
慶仁は、震える声で義父となるはずだった人に問いかけた。
「……私は……寛子を裏切ることには……ならないでしょうか」
侯爵は、きっぱりと首を振った。
「殿下。寛子は、殿下が生きる未来を守ったのです。殿下が幸せになられぬのなら……あの子の死は、いったい何のためであったのでしょうか」
慶仁は目を閉じた。十五年という歳月を経て初めて、「前へ進む」という言葉が、すとんと腑に落ちた気がした。
「寛子は殿下の生を繋ぎました。殿下が誰かを愛することは、寛子の願いを生かすことなのです。あの子の死をただの悲劇に堕とさない為にも──」
この日を境に、慶仁はようやく自らの未来へ目を向ける覚悟を決め、宮内省による妃選定は本格的な幕開けを迎えた。
「松殿家が『殿下は前へ進んでよい』と明言された」
「寛子嬢の御実家が殿下の御結婚を祝福する姿勢を示された意義は極めて大きい」
「これで、寛子嬢の記憶を否定しない妃選定が可能になった」
「松殿家の厚意を無下にしないためにも、妃候補に求められる条件を確定せねばならん」
「寛子嬢の存在を尊重できる女性であること。寛子嬢を嫉妬の対象とするのではなく、殿下の人生の尊い一部として受け入れられる度量が必要だ」
「殿下の痛みに寄り添える、静かな強さも不可欠だ。派手さや華やかさよりも、殿下に寄り添う力が求められる」
「家格は公爵、侯爵。下がっても伯爵。もしくは賜姓皇族の家系。そして礼法・和歌・文化に深い理解がなければならん。殿下が和歌によって御心を開かれた以上、妃にもまた高度な文化的素養は必須である」
宮内省内、妃選定特別会議室。
重厚な扉が閉じられ、室内にはピンと張り詰めた緊張感が漂っていた。
長机の中央には、厳選された五名の候補者の身上書が整然と並べられている。
「さて、これから慶仁の妃選定会議を行うわけだが」
伏見宮系皇族の重鎮の一人として参加している東伏水宮慈照王が顔を曇らせた。
「……慶仁は『私が妃を選べば、その者に寛子の影を背負わせることになる』と懸念しておる。ここの候補者が、慶仁の懸念を取り払ってくれればよいのだが」
「その心配はありますまい。この身上書の妃候補はいずれも人柄・能力ともに評価が高く、推薦人も複数おり、その方々も身元は確かでございます」
そう答えた宮内大臣の言葉に、東伏水宮は「ならばよいが」と短く応じた。
「まずは九条澄子様」
宮内大臣が口火を切る。
「ほう。九条家の末の姫がもうそのような歳になったのか」
もう一人の伏見宮系皇族の重鎮である香耶宮恒文王が声を上げる。
「旧摂家としては近衛公爵家に次ぐ家格を持つ九条公爵家の四女。寛子様の従妹でもあられます。家格、教養、立ち居振る舞い、御歳も二十四歳と、いずれも申し分ありません」
式部官長が深く頷く。
「ですが、聊か変わり者という評価がございます」
と、侍従長が控えめに声を上げた。
「ああ、あれか。華道や茶道より土いじりが好きな御侠姫」
東伏水宮の言葉に、香耶宮が怪訝そうに眉をひそめた。
「土いじりだと?」
「ああ。素行調査の結果を見る限り、週末のたびに泥だらけになって崖を這いずり回り、鎚を振るって石を掘り出しているらしい。幾度か見合いがあったようだが、その席でも、化粧や衣装の話には目もくれず、地層の堆積がどうのと話しているとか。この報告書を読む限りでは、分別のない子供の『石蹴り遊び』としか思えぬ。言葉を飾ずに言えば、慶仁の妃として、あまりに情緒に欠ける」
「そうか……。幼き頃は、寛子嬢の後について回っていた愛らしい姫であったが」
香耶宮が残念そうに溜息をついた。そこへ、式部官長が一枚の書類を提示した。
「こちらの書類が学習院での評価をまとめたものです。これを見る限りでも、身だしなみは最低限恥をかかない程度で、日焼けも厭わず野山を徘徊しているとか。教育係も匙を投げているご様子で」
「九条公爵は窘めておらぬのか?」
「末の姫でございますからな。お好きな様にさせておいでのようです」
一同から、落胆の溜息が漏れる。
「では、次に、徳大寺綾子様。旧清華家である徳大寺侯爵家の三女。英国留学経験あり、語学堪能。国際儀礼に強く、外遊を行う際の妃殿下としては理想的です。御歳も二十二歳と申し分ありません」
式部官長が紹介するも、自ら難色を示す。
「ただ……殿下のご関心事は防災や科学技術分野です。価値観の接点が薄いのではないかと」
「綾子様ご自身も、『殿下の深い痛みに触れる資格が自分にあるのか』と、ご自身をいくぶん軽い人間と評して身を引くご姿勢です」
と、女官長が付け加える。
「慶仁も『立派な方だが、私には過ぎたるお方だ』と申しておったな……」
東伏水宮の言葉に、会議室に微かなため息が漏れる。
「では、鷹司紀子様。旧摂家である鷹司公爵家の五女。温和で控えめ。宮中作法は完璧で、華族会館が推すお方です。懸念としては、御歳が二十歳と少々お若い点でしょうか」
「殿下との接点も薄く、その御心を動かすほどの強さは……」
「紀子様は『殿下の影の意味がまだ分からない』と。若さゆえの未熟さがおありです」
侍従長が静かに首を振る。
「殿下の『痛み』を理解できる方でなければ……あの方に長く寄り添うことは難しいでしょう」
第四の候補者の資料が開かれた瞬間、室内の空気がわずかに変わった。
「西園寺真理子様。徳大寺様と同じく旧清華家ですが公爵たる西園寺家の三女。文化・芸術に造詣が深く、和歌にも秀でておられる。先の歌会始での殿下の御歌を、最も深く理解されたと選者が高く評価しております。御歳も二十五歳と申し分ない」
女官長が資料に目を落としたまま続ける。
「『殿下の痛みを、安易な慰めの言葉ではなく、ただ静けさで受け止められる方』──これは、歌の選者からの評価です」
東伏水宮がゆっくりと顎を撫でた。
「……慶仁は『寛子を思い出させる』として、この姫とは少し距離を置いておるようだが……それは裏を返せば、慶仁の心にそれだけ深く触れうるということでもある」
「真理子様ご自身はどうお考えか?」
「『殿下の心に寄り添う覚悟はございます。ただ、殿下が私を必要とされるとは思えません』と……静かな諦観をお持ちのようです」
再び、深い沈黙が降りた。
「最後に中院聡子様。旧大臣家の中院伯爵家の五女。古典に強く、礼儀作法は完璧。妃候補としては申し分ありませんが、十九歳と最もお若い」
「聡子様は『寛子様のような覚悟は私にはできない』と……殿下の背負う重さに触れることを恐れておられます」
すべての資料が出揃い、宮内大臣が腕を組んで静かに口を開いた。
「……家格や国民からの支持を考えれば、変わり者とは言え本命は九条澄子様であろう。しかし、殿下の御心を考えれば、『代わり』を押しつけることは断じてできぬ」
「徳大寺綾子様は外遊を行う上では優秀だが、殿下の『痛み』に寄り添うことは難しい」
「鷹司紀子様、中院聡子様は……殿下の人生の重さを共に支えるには、まだ若すぎるか」
香耶宮が、ゆっくりと真理子の資料の上に手を置いた。
「……西園寺の真理子姫。この者は、慶仁の歌を『痛み』として真っ直ぐに理解された。慶仁の影を恐れず、しかし決して踏み荒らすこともない。静かに寄り添う力をお持ちの様だ」
女官長が小さく頷く。
「殿下が前へ進むために必要なのは……『寛子様の代わり』ではなく、『寛子様の記憶を否定しない方』なのです」
宮内大臣が、鋭い視線で一同を見渡し、重々しく結論を下した。
「最初の御接見の打診は、西園寺真理子様とする」
会議を終え、一同が三々五々に部屋を出ようとしかけた時、香耶宮が声を上げた。
「九条の姫の身上書を少し読ませていただきたい。なに、部屋から持ち出そうとは思わぬ。この部屋で読ませてくれぬか」
「それは構いませぬがどうされました?」
「何、九条の姫の幼いころを知っているとな。なぜこのような娘に育ったのか気になるのでな」
「そういうことであれば、私が残りますので後ほどお声をかけていただければ」
と女官長が請け負う。
「やれやれ、ではわしも付き合うか」
と東伏水宮が座りなおした。
「それはありがたい。では」
宮内大臣たちが目礼し部屋を出ると、そこは紙がめくられる音のみが響く沈黙の部屋となった。
黙々と資料を読み進める香耶宮。
「どうじゃ? 何か面白いものでもあったか」
「いえ。特に……ん? これは……」
身上書に添えられていた別の書類を黙読していた香耶宮が、不審げな声を漏らした。
「如何された、恒文王」
「いや……気のせいか? ……!! いや、違う!! これは!!」
書類をめくる香耶宮の手の動きが俄かに早まる。
「如何されたというのだ」
「これは……我々は、とんでもない間違いを犯していたやも知れぬ」
「なんじゃと?」
東伏水宮が眉を上げた。
「書類に書かれていた、九条の姫が泥だらけになって通っていたという場所なのだが……すべて、過去に大規模な水害や土砂崩れが起きた地域なのだ」
香耶宮が信じられぬものを見た。という表情を浮かべていた。
「何? 真か?」
「ああ。間違いない。この座標、この地名……」
震える指で地名を示す香耶宮。
「なんと……。それでは話が全く異なってくる。それは単なる土いじりなどではない。地質を調べ、土地の成り立ちを知ることで、災害のメカニズムについて自ら調べているとしか思えぬ。成績はどうなのだ?」
「この書類には成績が見当たらぬ」
「女官長を呼ぼう」
「如何されましたか?」
二人の当主に呼ばれ急ぎ足で女官長が入室した。
「九条の姫の成績を知りたくてな。資料が見当たらぬ」
「それは……こちらの資料ですね」
ほっとした様子で女官長が別の書類を見せた。
「女官長。九条の姫の成績はどうなのだ?」
「この資料によれば、全般的に優秀ですが、特に地学、地理と歴史については教師に劣らぬ知識をお持ちだとか。将来は地質学を学びたいと話されておいでです」
「待たれよ。地質学だと?」
東伏水宮が訝しげに眉を上げた。
「はい。学習院でも、御身分に合わぬと眉をしかめる教師も多いようで……」
「待て。儂が聞いていたのは、泥だらけになって喜んでいる姿はまるで子どものままだという評判だ。地質学の研鑽とは、話が異なろう」
「女官長。この書類に書かれていた『石蹴り遊び』なのだがな」
と香耶宮。
「はい。それが?」
「私が確認したところ、泥だらけになって通っていたという場所なのだが……すべて、過去に大規模な水害や土砂崩れが起きた地域なのだ」
「え!? 真ですか」
信じられぬと、思わず声を上げた女官長が慌てて口を閉ざした。
「女官長もそう思われたか。だが事実だ」
「そんな……。 !! それでは全くの見当違いで京極宮殿下の妃選びを行うことに……! なりません、直ちに九条様の素行の調査を、一からやり直さなければ!」
表情を青ざめさせる女官長。
「……我々は、彼女の纏う『泥』ばかりを見て、その奥底にある『志』を見ていなかったのだな。何たることか。慶仁の公務を間近で見ておきながらこの体たらく。己の不明を恥じ入るばかりだ」
東伏水宮の声からはもはや先程までの呆れの色は消え去り、深い畏敬の念に震えていた。
「もしこの考えが正しければ、治水や社会的基盤の不備を憂う慶仁の公務にも、極めて深い理解を示すはずだ。何より寛子の従妹であれば、国民の支持も得やすい」
「して、九条の姫自身の意志はどうなのだ?」
香耶宮の言葉を受け、東伏水宮が女官長に尋ねた。女官長は居住まいを正し、静かな声で補足した。
「九条様ご自身は、『殿下の痛みを真に理解できるのは、私のように親しい身内を理不尽な災害で失った者だけかもしれない』と仰っております。『寛子姉様を失ったあの夜から、殿下はずっとお一人で戦っておられる。その孤独を放置できない』とも」
その言葉に「ならば!!」と東伏水宮が期待を込めて身を乗り出すが、女官長の次の言葉がそれを制した。
「ですが同時に、『私が寛子姉様の代わりになってはならない。寛子姉様の影を踏んではならない』と……非常に強い倫理観と自制心をお持ちです」
室内に重い沈黙が落ちた。香耶宮がため息交じりに言う。
「本命であることは疑いない。だが、慶仁の心が『代わり』を求めていない以上、我々が無理に近づけるのは逆効果であろう。予定通り最初の接見は西園寺の娘だな」
「そこに異議はない。但し、女官長。九条の娘の身上書は早急に作り直させねばならぬ」
言葉もなく、だが力強く頷く女官長。
「それでは我々も失礼する。ああ、このことは内密にな」
「それはもちろんでございます」
扉が閉じられると女官長が大きく息を吐いて九条澄子の身上書に目をやった。
(……いったいなぜこのような評価に。調べねばなりませんね)
十五年間凍りついていた慶仁の未来が、ゆっくりと、しかし確かな音を立てて動き始めた瞬間であった。
OTLだと、19851月21日夜の天気は晴れだったけどね。