①昭和20年代
戦後の廃墟と化した日本。中央政府は、復興の鍵を地方の自立にあると見定めた。その政策の旗振り役となったのが、臣籍降下した元皇族の総理大臣だった。
「地方から立ち上がらなければ、日本の未来はない。だが、それはこの日本に大きな混乱をもたらすことになろう。この未曾有の国難を乗り切るには象徴が必要である。象徴となり得る皇族が国政に携われないのなら、家を子に譲り、我は臣籍に下り日の本の礎とならん」
彼の明確なビジョンは、霞が関に新たな風を吹き込んだ。
総理の号令一下、鉄道の標準軌化は国家の最優先課題とされた。しかし、戦後日本の財政は逼迫しており、全国一斉の転換は不可能だった。そこで政府は、まずは東海道などの主要幹線から着手し、暫定的に三線軌条なども活用しながら、数十年がかりで全国の鉄道網を更新していくという、現実的な計画を打ち出した。
これにより、東京と地方を結ぶ物流・移動インフラが劇的に変わった。新たな弾丸鉄道計画も早期に始動し、昭和30年代の実現に向けた研究が進められる。鉄道改革に伴い、地方の経済活動が活性化され、輸送コストの低減と観光資源の発展が新たな道を切り拓いた。
地方への政策は徹底していた。農業地域には、米英から輸入した農業機械と戦地から生還した農業技術指導員を派遣し、生産物を効率良く輸送するため、全国的な輸送網の整備が急ピッチで進められた。一方、山間部や離島では、自然環境を活かした新たな産業の開発が進行していた。
北海道では豪雪を利用した冷凍倉庫産業計画が立ち上がり、農産物の長期保存と日本全国への通年出荷実現に向け技術改良を重ねていった。沖縄では熱帯果実の加工産業が確立し、販路を広げていった。
都市部の復興も並行して進められたが、国土総合開発法により主要な産業拠点が東京や大阪だけではなく、地方都市にも分散される形が取られた。福島、鹿児島、愛知といった地方ごとに特徴ある産業開発が始まっていた。
②昭和30年代。
日本はかつての「中央集権的」な国家から脱却しつつあった。地方への交通アクセスは飛躍的に向上し、東海、東北や九州などで標準軌に合わせた高規格列車が運行を開始し、地方都市はそれぞれの個性を発揮し始めた。
例えば金沢市は伝統工芸技術を活かした貴金属加工産業の拠点に、長野市は諏訪湖の澄んだ水を活かした精密機器産業の拠点に、秋田市は鉱業技術を応用したエネルギー産業の中心地へといった具合に変貌を遂げた。
これらの地方都市は、自立した経済圏を形成し、周辺地域の雇用と経済発展の核となった。
農村部でも「農業革命」が進み、全国の農業が効率化された。北海道では酪農製品が大規模に生産され、国内外への販路を活発化。一方で、四国の小さな村々でも地場産薬草・香草の栽培や独自ブランドの食品加工が進み、地域の経済を支えていた。
地方都市の若者は都市部に流出することなく地元に留まり、故郷の産業に携わる。例えば、新潟で酒造業に携わる若い杜氏たちは、「新潟ブランド」を発信する存在となった。
③昭和40年代
国内は平和で安定し、養老の日、国際親交の日、母に感謝する日といった文化的な祝日が次々と制定され、大阪では国際万博の開催、東京では五輪の開催、また全国的な弾丸列車計画整備といった国家事業が次々に行われ、国民は明日への夢を追い求めていた。しかし、国外では米英華などによるベトナム内戦介入が発生し沖縄や本土の基地が、米軍の出撃、補給、修理の拠点としてフル活用され、地元住民との軋轢も次第に増えつつあった。もっとも、日本の産業界が車両・衣類・食料・医薬品など兵器以外の軍需品の生産を請け負った結果、経済が大きく潤い、ベトナム特需と言われた好景気を生み出すことになる。
好景気を受けて高度成長期を迎えることになった日本経済だったが、昭和40年代末期に生じた中東戦争により冷や水を浴びせられることとなる。
エネルギー資源のほとんどを中東からの輸入に依存していた日本は原油価格の高騰に伴い食料や工業製品が値上がりし、大きな打撃を受けた。
特にガソリンの供給再統制は自動車産業に大きな影響を与え、ガソリン自動車の未来に強い不安を覚えた一部自動車メーカーの国外移転を招くこととなった。この危機的状況を打開するために、科学技術庁や工業技術庁主導の下で発電技術や蓄電池設備を劇的に改善する技術開発に力が注がれ、原子力等、石油に代わるエネルギー源の確保に向けた研究開発が加速していった。
③昭和50年代
日本は世界第2位の経済大国へと成長していた。この成功の基盤には、地方の発展があった。
日本は過熱する投機活動は抑制され、不動産価格や投資は地方を含めた持続可能な成長に寄与する形で進行し標準軌鉄道と導入がはじめられたADSL通信網の統合によって安定した都市と地方の均衡を達成していた。
新幹線の乗車率は全国的に均衡し、東京だけでなく地方都市の中心部でも活気がみなぎっていた。
昭和最後の年に始まったTRONプロジェクトの成功は地方都市の進化と新たな時代の幕開けを象徴していた。TRONプロジェクトを利用した地方活性化策の一環で、遠隔医療が全国的に導入され、離島や山間部の住民も都市部と同じ医療サービスを受けることが可能になった。また、地方の教育水準も大幅に向上。通信教育などの光景は日常となっていた。
地方と都市の連携も進化を遂げた。例えば産業の大規模開発拠点となった都市が遠隔地の都市と連携して部品供給網を形成し互いに補完し合うなど、強力な経済基盤が築かれた。
リモートワークと地域ブランド作りが組み合わされ、外部からの人材流入が増加。住民たちは「地方にいても世界を動かす力がある」と誇らしげだった。
一方、都市部では、IT企業が地方支社を積極的に設立し、従業員が地方で働く柔軟なワークスタイルを導入していた。
総理大臣は、全国的なテレビ演説でこう語った。
「地方と都市が手を取り合い、共に歩み支え合う均衡国家への道を示してきた、それこそが昭和の成果であり、平成に受け継ぐべき遺産です。次の時代は、さらに高度な調和と成長を目指そうではありませんか」
① 都会の日常風景
朝の都会。まだ太陽が完全に顔を出さない時刻、街はすでに動き始めている。整備された公園では、ジョギングを楽しむ人々が緑豊かな景観を満喫している。その横には、都市計画によって維持されている昭和初期から残るレトロな建築物が並び、文化財保護の重要性が感じられる。
通勤時間が始まる頃、列車が定刻通りに到着する駅では、スーツ姿のサラリーマンとカジュアルな服装の若者たちがスマートカードをスキャンして入場する。車両内では、自動音声が「国民の健康と安全のための政府施策」について短い案内を流している。居住環境の充実を憲法上義務付けられた結果、都心部では「快適さ」を最優先にした住居が普及し、多くの家庭がその恩恵を受けている。
オフィス街に到着すると、ビルの窓からは環境に配慮した高層建築が立ち並ぶ様子が伺える。昼食時には、国が推奨する地産地消をテーマにしたカフェで、地元の農家から直送された有機野菜を使用したサラダを楽しむ社員たちの笑い声が響く。
行政が主導する環境教育の一環として、学校帰りの子どもたちは、近くの科学館で再生エネルギーの仕組みを学んでいる。かつては公害問題に悩まされた大都市も、今では全国的な環境保護プログラムの成功例として評価されるまでに至った。
夜には、都市全体が柔らかなLED照明で彩られる。劇場では、文化遺産として保護された古典劇が公演され、若い観客も足を運んでいる。こうして都市の活力と静寂が絶妙に調和した夜が更けていく。
② 地方の日常風景
遠く田園風景が広がる北陸の小さな村。朝の空気には清らかな香りが漂い、住民たちはすでに畑での作業を始めている。この村では、憲法で規定された農林畜産業の保護政策が功を奏し、若い世代が地元で農業を継ぐケースが増えている。
近くの農協では、新しい機械を導入し、環境に優しい肥料を使用した農法を推進している様子が見られる。補助金によるサポートがあるため、住民たちは安定した生活を送りながら、自然と調和した営農を進めている。
村役場の前には、地元特産品の市場が立ち、村全体が活気に満ちている。伝統的な焼き物や手作りの味噌が並ぶブースでは、都市から訪れた観光客が列を作っている。文化保護の政策により、村の伝統工芸が観光資源として活用されている。
午後には、小学校の子どもたちが古い神社を訪れ、地元の神話や歴史について学んでいる。教師は、文化遺産を守ることの意義を教えながら、憲法に基づく文化保護の重要性を説いている。
夕暮れ時には、住民たちが公民館に集い、地元の課題について話し合う。議題には、山間部の人口減少問題や新しい観光ルートの計画が挙がる。地方自治の権限が強化されたことにより、こうした会合が住民の声を政策に反映させる重要な場となっている。
夜、家々から漏れる灯りの下には、静かで平和な風景が広がっている。この地方の暮らしには、大都市のような喧騒はないものの、地元文化の誇りと自然との共存がしっかり根付いていた。
ここの日本、バブル経済発生していません。
自動車産業は早くから海外に拠点を移し、開発から販売までを現地法人で手がけていて、日本からの輸出攻勢という形を取らずに済むため、大規模な貿易摩擦を回避しています。その為「プラザ合意」による円高不況やそれを打開するための日本銀行による超低金利政策が生じている可能性が低くなっています。
経済も地方が自立し、富が全国に分散しているので、輸出に過度に依存しない、より内需を重視した安定的な経済が形成されています。
あと、日米英相互防衛協定で締約国は国際経済政策における矛盾をなくすることに努めるとされているので、冷戦期の国家間の経済問題は、この同盟の枠組みの中で政治的に調整されています。