十二月五日の朝刊が文部省の各課に届いたとき、教育制度課のある一室では、しばらく誰も口を開かなかった。「教育基本法案・全文判明」という大見出しの下、本文として引かれているのは前文だけである。条文部分への言及はほとんどない。北白川誠は記事を机に置き、ひとまず安堵の息を吐いた。少なくとも、第五章の北海道・千島・台湾に関する条文や、複線型高等教育の構造といった、まだ与党内でも意見の割れている部分は表に出ていない。漏れたのは、すでに十月十八日の推敲会議で固まっていた前文だけだった。
その日のうちに課内で交わされた憶測は、おおよそ三つに分かれた。
ひとつは、単純な事情によるものだという見方である。前文は推敲会議を経てすでに確定稿に近い形まで詰め切られていたのに対し、条文の方はこの時点でもCIEとの逐条審査が続いており、英訳の語句一つをめぐってさえ往復が続いていた。「まだ動いている部分」を外に出すわけにはいかないが、「もう動かない部分」であれば、誰かの手元に置かれていても不思議はない。北白川はそう推測し、もしかすると清書済みの原稿が、どこかの段階で写しを取られたのだろうと結論づけた。
もうひとつの見方を口にしたのは、政務次官室の若い書記官だった。条文を全文公開すれば、台湾の名をどう扱うかという問題や、複線型教育制度への反発、義務教育十年化に伴う予算論議など、各界の利害が一斉に噴き出す。それに対して前文は、道義、和、平和といった、誰も正面から反対しにくい理念の塊である。だとすれば、世論の好感をあらかじめ獲得しておくために、政府の誰かが意図的に前文だけを記者に渡した「観測気球」だったのではないか。記事の中で「政府関係者は語る」とされている談話が、まさにその仕掛け人の声だとすれば、筋は通る。書記官はそう述べ、自分の推測に少し誇らしげな顔をした。
三番目の見方は、もっと人間くさいものだった。推敲会議に加わった詩人の吉永澄は、前文の文語的な韻律に強い愛着を持っていた。「身を慎んで無礼の挙動なく」という一行を、列挙ではなく生の敬虔のような節として読んでほしいと語った彼女の言葉を、その場にいた誰もが覚えている。条文は法律家の手による実務の文章だが、前文は詩人の手も入った、いわば作品でもある。だとすれば、起草者の誰かが、これは見せたいという気持ちを抑えきれずに、近しい記者へ渡してしまった――そういう漏洩の経路があったとしても、誰も驚かないだろう。
西園寺公明は、これらの憶測のどれが正しいかを、最後まで明言しなかった。ただ、彼は新聞を手に取り、見出しの脇に小さく組まれた識者の談話に目を落とした。公明正大なる大道という語に目頭が熱くなったという、教育学者の言葉である。彼はそれを読んで、誰がどう漏らしたにせよ、この前文が活字になったことだけは間違いなく良かったのだと思った。
条文はまだ、委員会室での問答を経て、これからも姿を変えていく。だが前文は、すでに渡辺澄夫の教室の黒板に書かれ、大澤春子の投書になり、弘前と神戸という遠く離れた場所で、同じ一つの文章として人の手から手へ渡っていた。法律になる前に、すでに言葉として歩き始めていたのである。