昭和二十二年十一月十七日、衆議院文教委員会第三分科室では、教育基本法案の審議が続いていた。委員長の岡村正義が議事を進め、提案者として文部政務次官の西園寺公明が答弁席についている。質疑に立った長谷川六助は、第五章にある原住民への教育配慮の条項について切り出した。果たしてこれは法に掲げるべき文言なのか、通達や施策で十分ではないのか、と。
西園寺は答えた。
施策で済ませられる部分もある。しかし、今こそ法の中に日本国としての良心を明記する必要がある。日清戦役後に日本に加わった台湾の民も、今国会で改正された旧土人保護法のもとでいわれなき偏見に遭っていた北海道、千島の民も、この国にとって外邦人ではなく、文化を共につくる国民であると確認せねばならない。
長谷川はなおも、台湾が米国の信託統治領となることが内定している以上、余計な軋轢を避けるためにも台湾の名を削るべきではないかと問うた。
西園寺は静かに返した。正式に決定されるまでは名目上我が国の一部である。北海道、千島のみというわけにもいかないだろう、と。
婦人自由党の原田雪子は、母語や方言を含む文化的多様性への支援が、地方によっては標準語教育を崩す懸念につながるのではないかと問いを向けた。
西園寺は自身の郷里の話を引いた。江戸時代の旧方言が根強く残る土地で、学校では矯正される文化があった。しかしそれは育てるのではなく削る教育だった。本法では標準語を共通語に、方言を生活語にという二重構造を認め、両者を排他に扱わない方向を指している、と彼は答えた。
社会大衆党の寺田圭吾は、生涯学習条項に予算措置の懸念を呈した。理想としては結構だが、財政論から大人の学びに国家が関与すべきかという問いである。西園寺はそこに戦後日本の再建の根幹があると答えた。読み書き算盤にとどまらず、世界を考える人間があらゆる階層に広がらねば、平和国家は成り立たない。
無所属の坂田正道が問いをまとめるように発した。つまり第五章、第六章は、学校教育の外側にあった人々への国家からの呼びかけと捉えてよいか、と。
西園寺は頷いた。法の冒頭に人格の完成を掲げたが、それは子どもたちだけを意味しない。少年の教育に励む教員も、家族を守る父も、子を慈しむ母も、家計を支えんと労働に励む青年も、学ぶという行為においてはすべて未完成の国民であることを、正面から肯定したい、と彼は述べた。
委員長の岡村は、審議の最終所見として、本法は教育において弱い立場の人間から先に手を差しのべるべしという哲学が貫かれている点で実に希有であると総括した。
理念と現実の橋をどう架けるか、それが立法府の責任である。委員会室の空気は、答弁と質疑の応酬を通して、いつしか一つの確認へと収まっていった。この国がこれから何を育てようとしているのか、という確認である。