六月の雨上がりの朝。
武蔵野町立羽根倉小学校の校門前に、泥だらけの白い雑種犬がうずくまっていた。
最初に気づいたのは、毎朝校門に立つ用務員の佐伯だった。
「おや……どこから来たんだい。ずいぶん痩せてるな」
子犬は怯えながらも、佐伯の差し出した手をそっと嗅ぎ、しっぽを一度だけ振った。
雨の匂い。
土の冷たさ。
お腹は空いていたけれど、もう歩く気力がなかった。
人間の声が近づくたび、体が勝手に震える。
でも──この人の足音は、怖くなかった。
登校してきた子どもたちがざわめく。
「かわいい!」
「でも野良犬だよ、役所に連れていかれちゃう……」
「そんなの可哀そうだよ。でも僕の家じゃ飼えないし……」
「私の家も……」
「飼ってくれる人が出てくる様にポスターつくる?」
「それで連れていかれちゃったらどうするの?」
子どもたちは顔を見合わせ、沈黙した。その沈黙を破ったのは、クラスで一番声の大きい男の子だった。
「ねえ、この子……学校で飼えないのかな」
「先生に聞いてみようよ!」
その一言で、子どもたちは一斉に走り出した。
職員室の扉が勢いよく開いた。
「先生、迷子の子犬がいた!」
「学校で飼いたい!」
突然の訴えに、先生たちは顔を見合わせた。
一時的な感情で動けば、後々困ることになる。
それならば、町に連絡して連れて行ってもらうべきか──
そんな現実的な考えが頭をよぎる。
しかし、子どもたちの真剣な目を前に、どう説明すればいいのか、誰も言葉を見つけられなかった。
「……様子を見てきます」
子どもたちを担任している三浦が立ち上がり、子どもたちに案内されて校庭へ向かった。
「先生、この子」
子どもたちの輪の中に、小さな白い子犬がいた。
泥で汚れ、震えている。
首輪はない。
三浦はそっと抱き上げ、その軽さに息をのんだ。
「……生後三ヶ月もいってないな。登録義務はまだ発生していないだろう。でも、このままじゃ所有者不明犬として通報されるか」
子どもたちは不安そうに三浦を見上げた。
「先生……どうなるの?」
三浦は答えられなかった。
子犬を抱いたまま、その足で校長室へ向かった。
校長は深くため息をつきながら考えた。
(役所に連れていかれれば、抑留される。子どもたちもそれは知っている。その子どもたちの目の前で犬を引き渡したらどうなる。子供たちからは「子犬を守れなかった先生」という烙印が残り、信用が落ちる。それに情操教育にも良くない。犬を引き渡してしまえば今後は隠れて可愛がるかもしれない。そうなると堂々巡りになる。それは避けたい)
校長は職員室に戻り、職員会議を招集した。
「子どもたちの前で、子犬を連れていかせるわけにはいかない。ただし、学校として飼うなら法律上の要件をすべて満たさなければならない。それが条件だ」
校長の言葉に、職員たちはうなずいた。
すると、一人の職員が手を挙げた。
「いい機会です。子どもたちと考えながら正式な『学校犬』にしましょう」
「しかし、何から何まで子どもたちと話し合っていると間に合いませんよ。急いで進めなくてはいけないところはこちらで先に進めましょう」
「まず、生後90日以内とみられる子犬を学校で一時保護していることを、保健所に伝えておく必要がありますね。『飼い主を探す間、校内で安全に係留します』と」
「それ、子どもたちには伝えますか?」
少し間があった。
「……秘密にしましょう。子どもたちが真剣に取り組む動機になります」
「そうですな。それが良いでしょう」
「後は──」
そこで、用務員の佐伯が静かに口を開いた。
「まずは首輪です。迷子札も作りましょう。『学校で一時保護中』と書いておけば、予防員も勝手に抑留はできません」
職員たちは一斉にうなずいた。
「あ、名前はどうします? 保護中でも名前が無いと不便ですよ?」
「そうですね……この子、白くて牛乳みたいな色ですから、ミルクで良いんじゃないですか」
「先生、顔に似合わず可愛い名前考えますね」
提案した教師に配属されたばかりの若い女性教師が微笑む。
「ほっとけ」
そう顔を赤くし、そっぽを向く教師の様子に職員室は笑い声に包まれた。
「では、せっかく可愛い名前を考えてくれたのでミルクにしましょう」
こうして、野良犬を守りながら、正式な学校犬にする計画が静かに動き始めた。
教室には、いつもより早くざわめきが満ちていた。
子犬の話は、すでに全員の耳に入っている。
チャイムが鳴き終わると、担任の三浦が前に立った。
「みんな、子犬のことだけど……学校で一時的に保護することになりました」
教室がぱっと明るくなる。
「ただし、飼い主さんを探す必要があるし、登録や注射のこともある。だから、まずは三年生が首輪と迷子札、それから飼い主さんを探すポスターとチラシを作るよ」
子どもたちは一斉に手を挙げた。
「うちに古い首輪あるよ!」
「ポスター描きたい!」
「迷子札なら図工で作れるよ!」
三浦は笑って首を振った。
「気持ちは嬉しいけど、勝手に家に取りに帰ったり、買いに走ったりするのはダメ。学校で責任を持って作るよ」
そして、黒板に三つの紙を貼った。
・首輪・迷子札
・飼い主探しポスター
・飼い主探しのチラシづくり
「どのクラスがどれを担当するかは……先生たちがくじ引きで決めました」
子どもたちは息をのんだ。
「一組が首輪と迷子札をつくります」
「三組がチラシを作ります」
「そして、我が二組は……ポスターを作ります」
教室がどっと沸いた。
【迷い犬の飼い主さんを探しています】
「今日はこのテーマでポスターを作ります。見た人が『あっ』と思うような、わかりやすくて優しいポスターにしましょう」
子どもたちは画用紙を広げ、思い思いに描き始めた。
子犬の絵を大きく描く子
学校の中庭を背景にする子
「この子、目がくりっとしてたよね」
「泥で汚れてたけど、かわいかったよね」
「飼い主さん、見つかるといいな」
美術室は、子犬への思いで満ちていた。
一組の教室では、朝会が始まると大騒ぎになった。
「先生、家の首輪持ってこようか?」
「買いに行ってもいいよ!」
一組担任の佐藤はすぐに制した。
「気持ちは嬉しいけど、学校で作るよ。一時間目の図工の時間を全部使って、子犬のための首輪と迷子札を作ります」
子どもたちは目を輝かせた。
図工室に移動すると、机の上にはフェルト、布テープ、穴あけパンチ、金具、そして厚紙が並べられていた。
「まずは迷子札から作ろう。学校で一時保護中って言葉と羽根倉小学校の文字は必ず入れること」
「はーい!」
子どもたちは真剣そのものだった。普段の図工よりも集中している。
フェルトを切る子、字を書く子、金具を通す子、色を塗る子
「この子、白いから……青が似合うかな」
「いや、黄色もかわいいよ!」
迷子札は次々と完成していった。
続いて首輪づくり。布テープを巻き、金具をつけ、サイズを調整する。
「小さいから……これくらい?」
「もうちょっと細い方がいいかも」
子どもたちは、まるで本物の職人のような顔つきだった。
朝の会が終わると、三組の担任である山科は黒板の前に立った。
「三組は文面づくりを担当します。ポスターに書く言葉、迷子札に書く言葉、全部、みんなの言葉で作るんだよ」
教室がざわっとした。
「えっ、文章だけ?」
「絵の方がよかったなあ」
「でも、文章って大事なんじゃない?」
「だって、飼い主さんが読むんだよね」
山科はうなずいた。
「そう。言葉は、この子を守る最初の鍵になる。だから三組にお願いしたんだよ」
子どもたちは少し誇らしげな顔になった。
山科は黒板に三つの丸を書いた。
・飼い主さんに伝えること
・学校がしていること
・安心して連絡してもらうための言葉
「今日の国語の時間は、この三つを入れた文章を作ります。まずは『伝えるべきこと』を出していこう」
子どもたちが手を挙げ始めた。
「昨日、学校に迷い込んできたって書く」
「生後90日以内って書くといいんだよね」
「うん、登録してなくても違法じゃないってわかるから」
「今は学校でほごしていますって書こう」
「安全につないでいますって書くと安心するよ」
「けいりゅうってなに?」
「つないでいるってことだってさ」
「そっちのほうがわかりやすいよ」
「お心当たりの方はって書くと大人っぽいよ!」
山科は黒板にどんどん書き写していく。
・迷い込んできた日付
・生後90日以内
・学校で一時ほご中
・校内で安全につないでいる
・飼い主さんを探しています
・連絡先:羽根倉小学校
「いいね。じゃあ、これをひとつの文章にまとめてみよう」
班ごとに分かれ、文章を考え始めた。
1班
「〇月〇日、羽根倉小学校に迷い込んできた子犬をほごしています」
「生後90日以内とみられます」
「飼い主さんを探しています」
「ちょっと固いかな……」
2班
「かわいい子犬が学校に来ました」
「飼い主さん、見つけてください!」
「かわいいけど、情報が足りないよ」
3班
「現在、学校で安全につないでほごしています」
「お心当たりの方は羽根倉小学校までご連絡ください」
「これ、後半に使えるね!」
山科が言った。
「じゃあ、みんなの班のいいところを全部合わせてみよう」
黒板に書かれた文章を、子どもたちが一文ずつ選んでいく。
・日付を入れる
・生後90日以内と明記
・学校でほご中
・安全につないでいる
・飼い主さんへの呼びかけ
・連絡先
「これで……どう?」
【迷い犬の飼い主さんを探しています】
〇月〇日、羽根倉小学校に生後90日以内とみられる子犬が迷い込んできました。
現在、学校でほごして、校内で安全につないでいます。
飼い主さんを探していますので、お心当たりのある方は羽根倉小学校までご連絡ください。
読み上げると、教室が静かになった。
「……なんか、ほんとに守ってるみたいだね」
「うん。大人みたい」
「これで飼い主さん、見つかるかな」
「見つかっても、幸せになってほしいね」
山科は微笑んだ。
「みんなの言葉は、子犬を守る力になるよ」
昼休み前。
一組の子どもたちが作った首輪と迷子札が、職員室の机に並べられた。
フェルトで柔らかく包まれた小さな首輪。
青や黄色の糸で縫われた迷子札。
どれも、子どもたちの手の温度が残っている。
三浦はその中から、一番丈夫で、子犬の首に負担が少なそうなものを選んだ。
「……よし、これにしよう」
中庭では、子犬が用務員の佐伯の足元で丸くなっていた。
子どもたちが遠巻きに見守る。
「先生、つけるの?」
「うん。これで『学校で保護している犬』ってわかるようになる」
三浦はゆっくりと子犬に近づき、しゃがみ込んだ。
「大丈夫だよ。ちょっとだけね」
子犬は一瞬身をすくめたが、三浦の手の匂いを嗅ぐと、そっと首を差し出した。
カチッ。
金具が閉まる小さな音が、中庭に響いた。
その瞬間──
三浦は、迷子札を指で軽く弾きながら言った。
「……ミルク。これが君の首輪だよ」
子どもたちが息をのむ。
子犬は、その言葉の意味はわからないはずなのに、まるで呼ばれたことを理解したかのように、三浦の顔を見上げ、しっぽを一度だけ振った。
土は、昼の陽に温められて、ほんのりと草の匂いが混ざっていた。
ぼくは、朝いちばん最初にあった人の足元で丸くなっていた。
お腹はまだすこし空いていたけれど、ここは怖くない匂いがする。
遠くから、たくさんの足音が近づいてくる。
子どもたちの足音は、軽くて、跳ねていて、どこか嬉しそうな音。
その中に、ひとつだけ落ち着いた足音が混ざっていた。
――あの大人の足音だ。
ぼくは顔を上げた。
その人の手には、見たことのない色の布と、小さな輪があった。
その匂いは、昨日までのぼくの世界にはなかった匂い。
でも、その手の匂いがそれを包んでいるから、怖くはなかった。
その人がしゃがむ。ぼくの目の高さに、優しい目がある。
「大丈夫だよ。ちょっとだけね」
その声は、ぼくを抱き上げたときと同じ声。
安心の匂いがする声。
ぼくは、ゆっくりと首を前に出した。
カチッ。と、小さな音が、ぼくの胸のあたりで響いた。
その瞬間――大人の人が、ぼくに向かって言った。
「……ミルク。これが君の首輪だよ」
首にふれた布は柔らかくて、首輪という名前もまだ知らないけれど、怖くはなかった。
それに――
ミルク。
その音は、風の音でも、足音でも、怒鳴り声でもない。
ぼくに向けられた、やわらかい音。
ぼくは顔を上げた。その目を見た。
その音が、ぼくの胸の奥にすっと入ってきた。
ミルク。
ぼくの名前。
ぼくは、しっぽを一度だけ振った。
こどもたちが歓声を上げる。
でも、ぼくの耳には、その音よりも――
胸元で揺れる小さな金属の音と、その声の余韻のほうが、ずっと大きく響いていた。
ミルク。
ぼくは、その音をもう一度、心の中でそっと鳴らした。
「ミルク……かわいい!」
「名前、ミルクなんだ!」
「白いからぴったりだよ!」
子どもたちの声が弾む。
ミルクは、胸元で揺れる迷子札の音を聞きながら、自分の名前をもう一度確かめるように、小さく「くぅん」と鳴いた。
放課後。
三年生の各教室には、完成したポスターとチラシが積み上げられていた。
担任が各クラスに「じゃあ、これから校内に貼りに行きます。貼る場所は、昇降口、保健室前、職員室前、図書室前、体育館の渡り廊下。それから……校門の掲示板にも貼ろう」と伝えた。
その言葉に、子供たちが「はーい!」と勢いよく返事をすると班ごとにポスターとチラシを抱えて廊下へ飛び出した。
校門の掲示板に最後の一枚を貼ると、三年生たちは自然と並んでポスターを見上げた。
「……これで、飼い主さんが見つかるといいね」
「うん。でも、見つからなくても……」
「ミルクが幸せなら、それでいいよね」
夕暮れの風が、貼りたてのポスターをそっと揺らした。
その揺れは、まるでミルクがしっぽを振っているようだった。
それから数日後の午後、白い軽バンが校庭に止まった。側面には「町役場・衛生課」の文字。三年生たちは窓に張りついた。
「来た……!」
「今日、注射の日だよね」
「ミルク、大丈夫かな……」
獣医師は白衣の上に作業着を羽織り、クーラーボックスを抱えて校長室へ向かった。三浦はミルクを抱き、子どもたちに言った。
「見守るだけだよ。声は出さないようにね」
知らない匂いと少しだけ緊張した人間の匂いがした。
ぼくは、大人の人――三浦先生の腕の中で小さく震えた。
「大丈夫だよ。すぐ終わるからね」
獣医師の声は優しかった。ミルクの前足をそっと押さえ、アルコール綿で拭く。廊下に並んだ子どもたちは固唾をのんだ。
「ミルク……がんばれ……」
針が触れた瞬間、ミルクの体がびくっと震えた。でも──逃げなかった。三浦の手が、ずっと背中に触れていたから。
「はい、終わり。とてもいい子だね」
獣医師が微笑むと、三年生たちの肩が一斉に下がった。
「ミルク、えらい……!」
「がんばったね……!」
午後の授業が始まるころ、職員室に役場から封筒が届いた。校長が封を切る。中には──犬の登録証、鑑札(登録番号入りの金属プレート)、注射済票(その年の予防注射を受けた証)が入っていた。
三浦が戻ってくると校長は笑みを浮かべて三浦を手招きした。
「鑑札です。これで、ミルクは正式に登録された犬になりました」
三浦は鑑札をそっと手に取った。小さな金属の板が、光を受けてきらりと光った。
放課後、三年生が集められた。校長が鑑札と注射済票を掲げる。
「みなさんの努力のおかげで、ミルクは今日、正式に登録されました。これで法律上の犬として認められます」
一瞬の静寂のあと──
「やったあああ!!」
「ミルク、すごい!!」
「ほんとに、ほんとに守れたんだ!!」
子どもたちは跳びはね、涙ぐむ子もいた。
三浦はミルクの首輪に鑑札をつけながら言った。
「ミルク、今日から正式に羽根倉小学校の犬だよ」
胸元に、新しい金属の感触。
首輪についた鑑札が、動くたびにカランと鳴る。
ぼくはその音に耳を傾けた。
仲間になった証の音だ、とぼくは思った。しっぽをゆっくり振ると、子どもたちがまた歓声を上げた。
ぼくの名前は、ミルク。
羽根倉小学校の犬。