もしもこんな日本だったら   作:fire-cat

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前話、少し追加しました。


1992 学校犬ミルクの物語―ここが、ぼくの場所―

 鑑札が届いた翌日、校長は職員会議で宣言した。

 

「狂犬病予防及び動物管理法第八条に基づき、本校の犬の飼養責任者を三浦教諭とします」

 

 三浦は姿勢を正し、深くうなずいた。

 

「責任をもって管理します。ただし、日常の世話は子どもたちと一緒に行います」

「それがいいでしょう」

 

 と校長は微笑んだ。

 

「ミルクは、学校全体の犬ですからね」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 三浦が黒板に大きく書いた。

 

【ミルク係 当番表】

 

 教室がざわめく。

 

「えっ、当番制になるの?」

「やりたい!やりたい!」

「全部やりたい!」

 

 三浦は笑いながら言った。

 

「全部はできないよ。でも、みんなで順番にやれば、ミルクは安心して暮らせる」

 

 黒板には五つの項目が並んだ。

 

 ・エサやり(朝・昼)

 ・水やり(常にきれいな水を)

 ・そうじ(ミルクの小屋とまわりのそうじ)

 ・散歩(中庭を一周)

 ・健康チェック(目・耳・足・食欲)

 

「これを日替わりにします。夏休みや冬休みの間もお世話するんだよ、ミルクは自分では何もできないんだから。他のクラスや学年も一緒に世話するから一週間ごとにローテーションするよ」

 

 当番を決めるくじ引きが始まると、祈るように目を閉じる子、結果を見て飛び跳ねる子が続出した。

 

「やった! 散歩だ!」

「給餌だ! ミルクにごはんあげられる!」

「健康チェック……責任重大だ……!」

 

 教室は、新しいクラブ活動が始まったかのような熱気に包まれた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 教室の外で待っているぼくの耳に、扉の向こうからたくさんの声が聞こえてくる。

 「給餌」「散歩」「健康チェック」──どれも知らない言葉だけれど、声の温度は全部優しい。

 ぼくは、胸元の鑑札を揺らしながら、扉の前でしっぽを振った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 当番初日、給餌当番の二人が小さなステンレスの皿にフードを入れて持ってきた。

 

「ミルク、お待たせ!」

「今日の量はこれくらいでいいんだよね」

 

 ミルクは二人の匂いを確かめてから、嬉しそうに食べ始めた。給水担当が透明なボウルに新しい水を入れ、清掃当番が寝床の新聞紙を替えて毛布を整える。

 

「ミルク、ふわふわにしてあげよう」

 

 ミルクは整えられた寝床に鼻を押しつけて、満足そうに丸くなった。

 散歩当番がリードを持つ。

 

「ミルク、行こう!」

 

 ミルクは、胸元の鑑札をカランと鳴らしながら歩いた。最後に健康チェック当番がそっと体を触る。

 

「目は……きれい」

「耳も汚れてない」

「足も大丈夫」

「食欲もあるね」

 

 ミルクはその優しい手の匂いに安心して、目を細めた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 夕方のチャイムが鳴るころ、三年生たちはミルクの周りに集まった。

 

「ミルク、また明日ね」

「今日の当番、楽しかった」

「明日はぼくの番だよ!」

 

 ミルクは、胸元の鑑札を小さく鳴らしながら、しっぽをゆっくり振った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 当番が定着してきたある日の昼前、四年年生担任の北川が中庭の入口に立っていた。腕を組み、ミルクの散歩をじっと見ている。

 普段は厳しく、「動物を学校で飼うのは大変だ」と言っていた先生だった。子どもたちは一瞬、身構えた。

 北川の視線は、叱るでも責めるでもない。ただ、「確かめている」ような静かな目だった。

 

「北川先生……見ていたんですか」

 

 と三浦が声をかけた。

 

「ええ。子どもたちが騒いでいたから、何事かと思って」

 

 北川は、ミルクの首元の迷子札に目を留めた。

 

「……首輪、つけたんですね」

「一組が作ってくれました。迷子札の文面は三組が考えて」

 

 そのとき、一人の子が勇気を出して言った。

 

「ミルク、ちゃんとつないでるし、ポスターも貼ったし……飼い主さん、探してるんです」

「勝手に飼うんじゃなくて、ちゃんと法律も守るんです」

 

 北川は少し驚いたように眉を上げた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 知らない人の匂いがする。

 でも、怒っている匂いではない。

 ぼくは、そっと一歩だけ近づいた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ミルクの小さな一歩を見て、北川はほんの少しだけ目を和らげた。

 

「……なるほど。首輪も、迷子札も、ポスターも……全部、自分たちで作ったんですね」

 

 子どもたちは胸を張ってうなずいた。

 

「はい! ミルクを守りたいから!」

「飼い主さんが見つかるまで、ちゃんとするんです!」

 

 北川はゆっくりと息を吐いた。

 

「……そうですか。なら、私も協力します」

 

 子どもたちが一斉に顔を上げる。

 

「えっ……ほんとに?」

「やった……!」

 

 北川は照れくさそうに言った。

 

「四年生にも、ポスターを貼る場所がありますから。それに……この子、いい目をしていますね」

 

 ミルクは、その声の温度を感じてしっぽをゆっくり振った。

 三浦は静かに言った。

 

「ミルクが、学校をつないでくれていますね」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ある放課後のこと。中庭の渡り廊下の影に、見慣れない制服の人影が立っていた。胸元には、「狂犬病予防員」と書かれた小さな証票。

 子どもたちの声が、一瞬で止まった。

 

「……予防員だ」

「なんで来たの」

「ミルク、連れていかれちゃうの……?」

 

 三年生たちは自然と、ミルクの前に立ちはだかるように集まった。まるで、小さな盾のように。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 さっきまでの空気が変わった。

 草と土と、ぼくの名前を呼ぶ声の匂いが──緊張の匂いにすり替わっている。

 ぼくは先生の足に、そっと寄り添った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 予防員はゆっくりと歩いてきた。「捕まえに来た」というより、「確認しに来た」という落ち着いた足取りだった。

 三浦が一歩前に出る。

 

「こんにちは。この子は、学校で一時保護している子犬です」

 

 予防員は軽く会釈し、ミルクの首元を見た。そこには──子どもたちが作った首輪と迷子札。

 

『学校で一時保護中/羽根倉小学校』

 

 予防員は、その迷子札を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

「……首輪と迷子札、つけているんですね。それなら、抑留の必要はありません」

 

 子どもたちの肩が、一斉に下がった。

 

「よかった……」

「ミルク、守れたんだ……」

「保健所にも『学校で一時保護中』と連絡が入っています。きちんと管理されているようで安心しました」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 子どもたちの体から、さっきまでの緊張の匂いが消えていく。代わりに、ほっとした甘い匂いが広がった。

 ぼくはしっぽをゆっくり振った。

 見慣れない大人の人はそんなぼくを見て、小さく笑った。

 

「いい子だね。飼い主さんが見つかるといいね」

 

 その声は、怖い匂いがしなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 予防員が去ると、子どもたちは一斉にミルクの周りに集まった。

 

「ミルク、守れたよ!」

「首輪つけてよかったね」

「迷子札、ちゃんと見てくれたよ!」

 

 三浦はミルクの頭をそっと撫でながら言った。

 

「みんなが作った首輪と迷子札が、ミルクを守ったんだよ」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ミルクが散歩に慣れてきたころ。三浦は「今日は、ちょっとだけ外も見てみようか」と、ミルクを抱き上げて校門へ向かった。三年生の数人がついてくる。

 

「ミルク、外に行くの初めてだよね」

「大丈夫かな……」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 校門の向こうから、知らない匂いが流れてくる。

 土の匂いじゃない。草の匂いでもない。もっと強くて、もっとざわざわした匂い。

 車の匂い。遠くの川の湿った匂い。知らない人の足音の匂い。犬の匂いも混ざっている。

 ぼくは思わず後ずさった。胸の奥がきゅっと縮む。

 ここは、ぼくの世界じゃない。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「ミルク……止まっちゃった」

「怖いのかな」

「無理に行かせない方がいいよね」

 

 三浦はミルクの横にしゃがんだ。

 

「ミルク、大丈夫。今日は見るだけでいいんだよ」

 

 その声は、中庭で首輪をつけてくれたときと同じ声。安心の匂い。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 門の向こうは、まだ怖かった。

 でも、後ろから聞こえる声は知っている。

 

「ミルク、無理しなくていいよ」

「ここにいてもいいんだよ」

「学校はミルクのおうちだもんね」

 

 ぼくはゆっくりと振り返った。そこには、ぼくの名前を呼んでくれる子どもたちがいた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「今日はここまでにしよう。ミルクには、まだ学校の中が一番安心だね」

 

 子どもたちはうなずいた。

 

「うん、無理させたくない」

「大丈夫だよ、学校に戻ろう」

 

 ミルクは、門から離れるとすぐにしっぽを少し上げた。その変化に、子どもたちはほっと息をついた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 中庭に戻ると、ぼくの知っている匂いが戻ってきた。

 草の匂い。子どもたちの声の温度。先生の手の匂い。

 ぼくはしっぽを振った。

 外の世界は、まだ怖い。

 でも──ぼくには帰る場所がある。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ある午後、町内に住む一人の女性が、保健所に電話をかけた。

 

「野良犬を学校で飼っていると聞きまして……きちんと管理されているのか確認を……」

 

 しばらくして、保健所の担当員が学校を訪ねてきた。

 

「通報がありまして、確認に伺いました」

 

 三年生たちがざわめく。

 

「ミルクは野良犬じゃないよ!」

「ちゃんと登録してあるんだ!」

「学校のみんなで守ってるんだよ!」

 

 三浦は落ち着いて書類を差し出した。登録証、鑑札、注射済票、第八条に基づく飼養計画書。

 担当員は書類を確認し、驚いたように言った。

 

「……ここまできちんと管理されているとは。もうこの子は立派な学校犬ですね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、三年生たちの顔がぱっと明るくなった。

 

「よかった……!」

「ちゃんと認められたんだね!」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 夕方の中庭に、オレンジ色の光が差し込んでいた。

 三浦はミルクのリードを静かに放した。

 

「行っておいで、ミルク」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 先生の手が離れた。

 ぼくは一瞬だけ先生を見上げて──次の瞬間、中庭へ向かって駆け出した。

 草が足に触れる。土の匂いがふわっと上がる。胸元の鑑札が、カラン、カランと音を立てる。

 ぼくは走りながら、何度も振り返った。子どもたちの顔を確かめながら。

 ──ここが、ぼくの場所。

 鑑札が揺れるたびに、その思いが胸の奥で確かになる。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「ミルクー!」

「走ってる!」

「すごい!すごい!」

 

 子どもたちの声が、夕方の空に吸い込まれていく。

 ミルクは中庭を大きく一周し、しっぽを高く上げて戻ってきた。子どもたちが迎える。笑顔が広がる。その光景は、まるで学校全体がひとつの家族になったようだった。

 ミルクは、胸元の鑑札を小さく鳴らしながら、子どもたちの輪の中へ飛び込んだ。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 飼い主は、とうとう現れなかった。

 

 ポスターは雨に濡れ、チラシは日に焼けていった。でも、三年生たちは誰も「残念」とは言わなかった。ただ毎朝、ミルクのもとへ走っていった。

 夏が来て、蝉が鳴いた。

 ミルクは少しずつ大きくなり、胸元の鑑札はますます誇らしげに光った。

 羽根倉小学校の一日は、カランという金属音と、子どもたちの「ミルクー!」という声で始まる。

 

 それはもう、この学校のあたりまえになっていた。




この学校の校舎はロの字型です。
校庭は中庭式。
入り口を閉めてしまえば、犬は脱走しませんので安心して飼っています。

因みにプールは地下にあります。
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