鑑札が届いた翌日、校長は職員会議で宣言した。
「狂犬病予防及び動物管理法第八条に基づき、本校の犬の飼養責任者を三浦教諭とします」
三浦は姿勢を正し、深くうなずいた。
「責任をもって管理します。ただし、日常の世話は子どもたちと一緒に行います」
「それがいいでしょう」
と校長は微笑んだ。
「ミルクは、学校全体の犬ですからね」
三浦が黒板に大きく書いた。
【ミルク係 当番表】
教室がざわめく。
「えっ、当番制になるの?」
「やりたい!やりたい!」
「全部やりたい!」
三浦は笑いながら言った。
「全部はできないよ。でも、みんなで順番にやれば、ミルクは安心して暮らせる」
黒板には五つの項目が並んだ。
・エサやり(朝・昼)
・水やり(常にきれいな水を)
・そうじ(ミルクの小屋とまわりのそうじ)
・散歩(中庭を一周)
・健康チェック(目・耳・足・食欲)
「これを日替わりにします。夏休みや冬休みの間もお世話するんだよ、ミルクは自分では何もできないんだから。他のクラスや学年も一緒に世話するから一週間ごとにローテーションするよ」
当番を決めるくじ引きが始まると、祈るように目を閉じる子、結果を見て飛び跳ねる子が続出した。
「やった! 散歩だ!」
「給餌だ! ミルクにごはんあげられる!」
「健康チェック……責任重大だ……!」
教室は、新しいクラブ活動が始まったかのような熱気に包まれた。
教室の外で待っているぼくの耳に、扉の向こうからたくさんの声が聞こえてくる。
「給餌」「散歩」「健康チェック」──どれも知らない言葉だけれど、声の温度は全部優しい。
ぼくは、胸元の鑑札を揺らしながら、扉の前でしっぽを振った。
当番初日、給餌当番の二人が小さなステンレスの皿にフードを入れて持ってきた。
「ミルク、お待たせ!」
「今日の量はこれくらいでいいんだよね」
ミルクは二人の匂いを確かめてから、嬉しそうに食べ始めた。給水担当が透明なボウルに新しい水を入れ、清掃当番が寝床の新聞紙を替えて毛布を整える。
「ミルク、ふわふわにしてあげよう」
ミルクは整えられた寝床に鼻を押しつけて、満足そうに丸くなった。
散歩当番がリードを持つ。
「ミルク、行こう!」
ミルクは、胸元の鑑札をカランと鳴らしながら歩いた。最後に健康チェック当番がそっと体を触る。
「目は……きれい」
「耳も汚れてない」
「足も大丈夫」
「食欲もあるね」
ミルクはその優しい手の匂いに安心して、目を細めた。
夕方のチャイムが鳴るころ、三年生たちはミルクの周りに集まった。
「ミルク、また明日ね」
「今日の当番、楽しかった」
「明日はぼくの番だよ!」
ミルクは、胸元の鑑札を小さく鳴らしながら、しっぽをゆっくり振った。
当番が定着してきたある日の昼前、四年年生担任の北川が中庭の入口に立っていた。腕を組み、ミルクの散歩をじっと見ている。
普段は厳しく、「動物を学校で飼うのは大変だ」と言っていた先生だった。子どもたちは一瞬、身構えた。
北川の視線は、叱るでも責めるでもない。ただ、「確かめている」ような静かな目だった。
「北川先生……見ていたんですか」
と三浦が声をかけた。
「ええ。子どもたちが騒いでいたから、何事かと思って」
北川は、ミルクの首元の迷子札に目を留めた。
「……首輪、つけたんですね」
「一組が作ってくれました。迷子札の文面は三組が考えて」
そのとき、一人の子が勇気を出して言った。
「ミルク、ちゃんとつないでるし、ポスターも貼ったし……飼い主さん、探してるんです」
「勝手に飼うんじゃなくて、ちゃんと法律も守るんです」
北川は少し驚いたように眉を上げた。
知らない人の匂いがする。
でも、怒っている匂いではない。
ぼくは、そっと一歩だけ近づいた。
ミルクの小さな一歩を見て、北川はほんの少しだけ目を和らげた。
「……なるほど。首輪も、迷子札も、ポスターも……全部、自分たちで作ったんですね」
子どもたちは胸を張ってうなずいた。
「はい! ミルクを守りたいから!」
「飼い主さんが見つかるまで、ちゃんとするんです!」
北川はゆっくりと息を吐いた。
「……そうですか。なら、私も協力します」
子どもたちが一斉に顔を上げる。
「えっ……ほんとに?」
「やった……!」
北川は照れくさそうに言った。
「四年生にも、ポスターを貼る場所がありますから。それに……この子、いい目をしていますね」
ミルクは、その声の温度を感じてしっぽをゆっくり振った。
三浦は静かに言った。
「ミルクが、学校をつないでくれていますね」
ある放課後のこと。中庭の渡り廊下の影に、見慣れない制服の人影が立っていた。胸元には、「狂犬病予防員」と書かれた小さな証票。
子どもたちの声が、一瞬で止まった。
「……予防員だ」
「なんで来たの」
「ミルク、連れていかれちゃうの……?」
三年生たちは自然と、ミルクの前に立ちはだかるように集まった。まるで、小さな盾のように。
さっきまでの空気が変わった。
草と土と、ぼくの名前を呼ぶ声の匂いが──緊張の匂いにすり替わっている。
ぼくは先生の足に、そっと寄り添った。
予防員はゆっくりと歩いてきた。「捕まえに来た」というより、「確認しに来た」という落ち着いた足取りだった。
三浦が一歩前に出る。
「こんにちは。この子は、学校で一時保護している子犬です」
予防員は軽く会釈し、ミルクの首元を見た。そこには──子どもたちが作った首輪と迷子札。
『学校で一時保護中/羽根倉小学校』
予防員は、その迷子札を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……首輪と迷子札、つけているんですね。それなら、抑留の必要はありません」
子どもたちの肩が、一斉に下がった。
「よかった……」
「ミルク、守れたんだ……」
「保健所にも『学校で一時保護中』と連絡が入っています。きちんと管理されているようで安心しました」
子どもたちの体から、さっきまでの緊張の匂いが消えていく。代わりに、ほっとした甘い匂いが広がった。
ぼくはしっぽをゆっくり振った。
見慣れない大人の人はそんなぼくを見て、小さく笑った。
「いい子だね。飼い主さんが見つかるといいね」
その声は、怖い匂いがしなかった。
予防員が去ると、子どもたちは一斉にミルクの周りに集まった。
「ミルク、守れたよ!」
「首輪つけてよかったね」
「迷子札、ちゃんと見てくれたよ!」
三浦はミルクの頭をそっと撫でながら言った。
「みんなが作った首輪と迷子札が、ミルクを守ったんだよ」
ミルクが散歩に慣れてきたころ。三浦は「今日は、ちょっとだけ外も見てみようか」と、ミルクを抱き上げて校門へ向かった。三年生の数人がついてくる。
「ミルク、外に行くの初めてだよね」
「大丈夫かな……」
校門の向こうから、知らない匂いが流れてくる。
土の匂いじゃない。草の匂いでもない。もっと強くて、もっとざわざわした匂い。
車の匂い。遠くの川の湿った匂い。知らない人の足音の匂い。犬の匂いも混ざっている。
ぼくは思わず後ずさった。胸の奥がきゅっと縮む。
ここは、ぼくの世界じゃない。
「ミルク……止まっちゃった」
「怖いのかな」
「無理に行かせない方がいいよね」
三浦はミルクの横にしゃがんだ。
「ミルク、大丈夫。今日は見るだけでいいんだよ」
その声は、中庭で首輪をつけてくれたときと同じ声。安心の匂い。
門の向こうは、まだ怖かった。
でも、後ろから聞こえる声は知っている。
「ミルク、無理しなくていいよ」
「ここにいてもいいんだよ」
「学校はミルクのおうちだもんね」
ぼくはゆっくりと振り返った。そこには、ぼくの名前を呼んでくれる子どもたちがいた。
「今日はここまでにしよう。ミルクには、まだ学校の中が一番安心だね」
子どもたちはうなずいた。
「うん、無理させたくない」
「大丈夫だよ、学校に戻ろう」
ミルクは、門から離れるとすぐにしっぽを少し上げた。その変化に、子どもたちはほっと息をついた。
中庭に戻ると、ぼくの知っている匂いが戻ってきた。
草の匂い。子どもたちの声の温度。先生の手の匂い。
ぼくはしっぽを振った。
外の世界は、まだ怖い。
でも──ぼくには帰る場所がある。
ある午後、町内に住む一人の女性が、保健所に電話をかけた。
「野良犬を学校で飼っていると聞きまして……きちんと管理されているのか確認を……」
しばらくして、保健所の担当員が学校を訪ねてきた。
「通報がありまして、確認に伺いました」
三年生たちがざわめく。
「ミルクは野良犬じゃないよ!」
「ちゃんと登録してあるんだ!」
「学校のみんなで守ってるんだよ!」
三浦は落ち着いて書類を差し出した。登録証、鑑札、注射済票、第八条に基づく飼養計画書。
担当員は書類を確認し、驚いたように言った。
「……ここまできちんと管理されているとは。もうこの子は立派な学校犬ですね」
その言葉を聞いた瞬間、三年生たちの顔がぱっと明るくなった。
「よかった……!」
「ちゃんと認められたんだね!」
夕方の中庭に、オレンジ色の光が差し込んでいた。
三浦はミルクのリードを静かに放した。
「行っておいで、ミルク」
先生の手が離れた。
ぼくは一瞬だけ先生を見上げて──次の瞬間、中庭へ向かって駆け出した。
草が足に触れる。土の匂いがふわっと上がる。胸元の鑑札が、カラン、カランと音を立てる。
ぼくは走りながら、何度も振り返った。子どもたちの顔を確かめながら。
──ここが、ぼくの場所。
鑑札が揺れるたびに、その思いが胸の奥で確かになる。
「ミルクー!」
「走ってる!」
「すごい!すごい!」
子どもたちの声が、夕方の空に吸い込まれていく。
ミルクは中庭を大きく一周し、しっぽを高く上げて戻ってきた。子どもたちが迎える。笑顔が広がる。その光景は、まるで学校全体がひとつの家族になったようだった。
ミルクは、胸元の鑑札を小さく鳴らしながら、子どもたちの輪の中へ飛び込んだ。
飼い主は、とうとう現れなかった。
ポスターは雨に濡れ、チラシは日に焼けていった。でも、三年生たちは誰も「残念」とは言わなかった。ただ毎朝、ミルクのもとへ走っていった。
夏が来て、蝉が鳴いた。
ミルクは少しずつ大きくなり、胸元の鑑札はますます誇らしげに光った。
羽根倉小学校の一日は、カランという金属音と、子どもたちの「ミルクー!」という声で始まる。
それはもう、この学校のあたりまえになっていた。
この学校の校舎はロの字型です。
校庭は中庭式。
入り口を閉めてしまえば、犬は脱走しませんので安心して飼っています。
因みにプールは地下にあります。