平成10年(1995年)1月1日 京都・東山区
「御慶申し入れます、伯爵閣下」
「うむ。良き年明けであるな、宮司。態々の出迎え、大儀である」
早朝の冷気の中、斎服の宮司が深々と頭を下げる。その先には、黒紋付に仙台平の袴を穿いた老紳士――この地に壮麗な屋敷を構える華族の当主が立っていた。
境内に、ざわめきはない。玉砂利を踏む音だけが、規律正しく響く。
普段の境内は、近隣の住民が散歩の足を止め、放課後には子供たちが節度を守りつつ鬼ごっこなどの遊びに興じる、地域の緩やかな公共空間だ。
だが、ひとたび「ハレ」の日を迎えれば、空気は一変する。遊びの声は消え、ハレの日の華やぎの一部である屋台の喧騒さえ、社殿に近づくにつれ遠のいていく。
人々が自然と居住まいを正し、神聖な静寂を共有するのだ。
この神社の維持費の半分は、この伯爵家と、彼を慕う地元財界人たちの寄進で賄われている。宮司は、教師や公務員の副業をする必要などない。その代わり、祝詞の一言一句、所作の一つ一つに至るまで、昔と変わらぬ完璧な儀礼を求められる。
宮司に案内され境内を進む伯爵の目に、ふわりと小さな白い影が空中に漂う様子が映った。
「ほう。風花が舞うか。今年は三白になるやもしれぬな」
「瑞雪にございます。……閣下、あちらをご覧に入れたく存じます」
宮司が示した先、参道には、鮮やかな振袖や真新しいウールの着物を着た市民たちが、整然と列を作っていた。
騒ぐ若者はいない。教育理念心得と国民礼法教育の賜物か、皆、鳥居をくぐる前に会釈をし、手水舎で清め、静かに参道を通って神前へ進み柏手を打っている。
彼らの手には、国産のBTRON端末「テチョウ」があるが、境内ではマナーモードどころか「電源断」が常識だ。ここではデジタルは主役ではない。
「今年は即位十年の佳節。例年以上に気が引き締まりますな」
「左様。……さて、宮司。松の内が明け次第、予の屋敷へ参れ。年の瀬に書庫から古文書が出てきおった。予が目を通したところ、この地域の風俗の記録のようだが、予の知見ではそれ以上のことは判読し得なかった。しかるべき機関に出す前に、まずは其処許に解読を任せたい。なに、すべてをつまびらかにせよなどと無体なことは言わぬ。あらましだけでよいのだ」
「はっ。畏まりました」
神職は、祭祀の徒であると同時に、地域の歴史と文化を護る学者でもなければならない。現代の日本において、聖職者とは「尊敬と生活」がセットで保障された、選ばれし専門職なのである。
遠くで、歳旦祭の開始を告げる号鼓が暁闇を震わせ、新しい年が、静かに、しかし力強く始まろうとしていた。
新潟県某所・山間の旧家にて
澄み渡る冬空の下、冬枯れの田んぼでは、一連の親子が凧揚げに興じていた。雪深い越後の地だが、今年は珍しく晴れ間が覗いている。
「おぉ、高くあがったなぁ。ここらは電線も地中化されとるからのう、気兼ねなく糸を伸ばせ」
そこへ、かくしゃくとした足取りの老人が声を掛けてくる。
「あ、じいちゃん!」
「お義父さん、大丈夫ですか? まだ治りかけなんですから」
「なぁにを言っとるか。まだまだ婿殿に心配かけるような歳じゃ……ヌッ!」
腰を摩る祖父に、孫が慌てて駆け寄る。
「大丈夫? じいちゃん」
「大丈夫じゃ、案ずるな」
祖父はそう言って、心配そうに見上げる孫の頭を優しく撫でた。
孫が「くしゅっ」と小さなくしゃみをする。その様子に目を細めながら、
「寒くなってきたから、そろそろ帰ろうかの。婆さんが餅を拵えている頃じゃろう」
と祖父が声をかける。
「そうですね」
父親が苦笑いしながら声をかけると、孫は少し残念そうにしながらも、「うん、お餅も食べたいしね」と祖父の手を引いた。
辿り着いた生家の玄関をくぐると、香ばしくも甘じょっぱい香りが漂ってくる。
「おかえり。外は寒かったろう。揚げ餅拵えたから、たんとお食べ」
「わーい! ばあちゃんの揚げ餅大好き!」
その声に、奥の間で福笑いや双六で遊んでいた子供たちも、我先にと集まってくる。
「こらぁ、守。独り占めはダメぇ!」
賑やかな子どもたちを目を細めて見つめながら、男たちは囲炉裏の傍らで一息ついた。
「正ちゃん、まずは一献」
「おっとっと。悪いね、銀ちゃん。いただきます」
注がれる酒を眺め、妻が呆れたように笑う。
「まぁた、うちの宿六は昼間っから。まったく、しょうがない男だよ」
「まぁまぁ、洋子さん。正月ぐらい多めに見てやりな。いつもはあんなに馬車馬のように働いとるんだから」
「ええ、そりゃそうですけどね」
「正月だ。店も休みだし、私らものんびり骨休めさね」
寛いでいる大人たちの耳に、遠くから威勢の良い囃子が聞こえてくる。
「あら、もうこんな時間? みんな、玄関に獅子舞が来るよ!」
子供たちが歓声をあげて外に飛び出す。大人たちも「よっこいしょ」と腰を上げた。
「裕子さん、萌葱は起きたかね?」
「まだ寝てますね」
「そうかい。じゃあ泣かれても困るから、そのまま寝込みを獅子舞に噛んでもらおうかね」
その夜。
子供たちが寝静まると、大人たちの宴はさらに活気を帯びていた。
「やっぱり泣いたな、萌葱」
「まぁ、わかってた事よ」
「しっかし噛まれる寸前で目を覚まさなくてもなぁ」
「そりゃ違いねぇ」
両親の声も混ざった笑い声。
「ところで、研二のとこは仕事は順調なのか?」
「ああ。おかげさまで忙しくさせてもらってるよ。……ところで母さん、今朝の雑煮なんだが」
「お、気づいたか」
「いつもの雑煮じゃなかったろ? 具はいつもと同じものが入っていたけど、出汁がいつものうちの味と違った。それに、あの小皿……」
息子からの問いに、母は済ました顔で茶を啜り、それから隣に座る嫁の幸子を優しく促した。
「ん? そりゃオメェ、幸子さんと二人で拵えたんだ。鬼胡桃を丁寧にすってねっとりするまでのばすのは骨が折れたがね。せっかく岩手の遠いとこから嫁いできてくれたんだ。たまには故郷の味で正月を迎えさせてやりたいだろう?」
幸子が少し照れくさそうに、小皿に盛られた白いタレを研二の前に差し出した。
「実はこれ、私の実家……宮古のくるみ雑煮なんです。新潟の豪華な、鮭とイクラの親子雑煮も大好きですけど、お義母さんが『今年は幸子さんの味で行こう』って仰ってくださって。お餅をこの甘いくるみダレに付けて食べるんですよ」
「そうなのか。雑煮一つとっても、色々あるんだな。いや驚いた」
「どっきり大成功ってわけだ!」
銀次が豪快に笑い、再び温かな笑い声が部屋を包み込んだ。
そんな雰囲気を引き締めるかのように母の姿勢が改まった。
「研二。お前さん、幸子さんを大切にしなきゃならんぞ」
母の言葉が、少しだけ厳かになった。
「新潟まで嫁いできて、こうしてウチのやり方に一生懸命合わせてくれているんだ。たまには、こっちが幸子さんの色に染まってやるくらいの度量がなきゃ、男が廃るってもんさ。お前が嫁いだわけじゃないんだ、遠くから連れてきた責任ってやつを噛み締めな」
研二は一瞬驚いた顔をしたが、くるみダレをたっぷり付けた餅を口に運ぶと、すぐに頭を掻いて苦笑いした。
「……参ったな。母さんには敵わないよ。幸子、ありがとう。これ、本当に旨いな。故郷の味、大事にしなきゃな」
数日後。
「帰りたくなーい!」
仕事があるため一足早く帰宅した両親が学校が翌日からということで子どもを迎えに来た。
子どもは名残惜しそうに口を尖らせ駄々をこねる。
「七草も食べただろ? また五月には遊びに来れるから」
なだめる両親に祖父が加勢する。
「次は粽拵えて待っとるからな。しっかり勉強するんだぞ。守も今年で十歳、春からは中学生だ。大人への第一歩なんだからな」
「はーい!」
祖父の言葉に返事を返す孫。
気をつけてな、という声を背に、一家はバスに乗り込む。
「行ってしまいましたねぇ」
「寂しくなるな、やっぱり」
老夫婦が肩を落とす。
「何を言ってるんですか二人とも。みんな同じ県内にいるじゃない。博さんのように海外赴任とか誠みたいに大阪にいるわけじゃないんだから」
同居する娘が呆れたように言うが、父は頑固に首を振った。
「そうじゃが、寂しいものは寂しいんじゃよ」
「そうさねぇ……」
二人の声が重なり、穏やかな正月の余韻が、郷里の空に静かに溶けていった。
神社仏閣ですが、普段は地域のゆるやかな公共空間で子供たちの節度ある遊び場にもなっています。特に戦後の神社は国家儀礼の場ではなくなり、地域の共有スペースとしての性格が下のように強まりました。
• 子どもの鬼ごっこなど節度ある遊び場となる
• 近所の人が散歩で立ち寄る
• ベンチで休む
• 祭りの準備をする人が出入りする
ただし、完全な公園ではないので、
• 本堂・社殿付近で騒がない
• 立ち入り禁止の場所には入らない
• 木や建物を傷つけない
といった「節度」が自然と共有されている地域が多いです。
なお、祭礼や正月になると、神社仏閣は下の様に一気に厳粛な空気に変わります。
• 参拝客が列を作る
• 神職僧侶が正式な装束で儀式を行う
• 境内の動線が整えられ、遊びは控えられる
• 子どもも自然と静かにする雰囲気になる
• 屋台は本堂・社殿の近くは避け、指定された広場や参道、山門・鳥居の近くで営業している
これは地域の人々が【ハレの日】の神聖さを共有している為です。