①至宝の「勝負ジャケット」
池尻子爵がその場を去った後、銀座の百貨店裏にある「聖域」──注文紳士服サロンの奥深くでは、一人の老職人がそのイタリア製生地を前に、静かに眼鏡を拭っていた。
「フラッテリ・タリア・ディ・デルフィノのデッドストック……。閣下も粋なことをなさる」
数ヶ月後、店を訪れたあの若夫婦の夫は、見違えるような立ち姿で鏡の前に立っていた。カシミヤとシルクが織りなす「黄金比」の光沢は、百貨店の柔らかな照明を浴びて、まるで生地自体が呼吸しているかのような深みを見せている。
「これが……僕ですか?」
職人は満足げに頷いた。
「服が主を選ぶこともございますが、今日からはお客様がこの服を導いてやってください。子爵閣下がおっしゃった通り、この服に負けない男になる。その覚悟が、仕立ての最後の仕上げでございます」
若者は背筋を伸ばし、かつて「スピード仕立て」に持って行こうとした自分を恥じながら、銀座の街へと踏み出した。その足取りは、数ヶ月前とは明らかに違っていた。
②傷心とマグロの円舞曲
一方、「恋愛ゲームセット」を引き当てて絶望していた若者の部屋には、なぜか活気が溢れていた。
「おい、本当にマグロ一尾持ってきたのかよ!」
床にはブルーシートが敷かれ、巨大なマグロを前に料理学校に通う女子学生たちが手際よく包丁を振るっている。
「失恋したっていうから、元気出してもらうためにちらし寿司とグラタン作ってあげるわよ!」
そんな気風のいい声の声に被せるように、
「ゲームの中でくらい、幸せになれよな」
友人がニヤニヤしながら、福袋に入っていた『伝説の木の下で告白するゲーム』を起動する。
画面に映るヒロインの笑顔と、目の前で繰り広げられる「マグロ解体ショー」。あまりにもシュールな光景に、若者は思わず吹き出した。
「……最悪な正月だと思ってたけど、案外、悪くないな」
「おまっ! お前っ! ゲームでも振られてんじゃねえよ!」
「うわぁ。……振られたって話は聞いてたけど、なんであそこであの選択しちゃうかなぁ。誰か乙女心教えてあげようよ」
ゲームの中のヒロインに振られ、友人たちに弄られ、それでも口に運んだマグロの味は、震えるほどに旨かった。
③福袋という名の祈り
三が日が過ぎ、銀座の喧騒も落ち着きを見せ始めた頃。
池尻子爵は、馴染みの喫茶店で、艶のある、赤みがかった透明な琥珀色のコーヒーを啜っていた。
「閣下、例の若者の工賃……本当にあんなに肩代わりしてよろしかったのですか?」
付き人が尋ねると、老紳士は窓の外の銀座の街並みを眺めながら、静かに微笑んだ。
「福袋というのは、単なる安売りではない。店が客へ贈る『一年分の運の種』だ。私はただ、その種が腐らないように水をやっただけだよ。……あの若者がいつか、自分の力で次の誰かに『粋』を繋いでくれることを願ってね」
銀座の街には、今日も新しい物語が溢れ出していた。