平成14年(1999年)1月4日 東京・銀座
三が日の静寂が明け、銀座の街は心地よい熱気に包まれていた。
老舗百貨店の前には、開店を待つ長蛇の列ができているが、殺伐とした割り込みなどはない。皆、これから始まる一年の運勢を占う「儀式」を楽しみにしているのだ。
「開店でございます!」
拍子木の音とともに扉が開く。
紳士服売り場の福袋コーナー。ここには「欧州各国製生地・仕立券付き福袋(五万円)」が山積みされている。
「お父さん、どれにする?」
「そうだな……。今年の干支にちなんで、この英国生地の袋にしよう」
中身は見えない。しかし、中身の一部として見本が展示されている生地はどれも一級品だ。
この福袋の醍醐味は、どんな生地が入っているか、そしてベスト仕立券や高級ネクタイなどの当たりオプションが入っているかどうかだ。
「あ! あなた、見て!」
隣でイタリア生地の袋を開けた客―年若い夫婦―から歓声が上がる。
中から出てきたのは、特賞のカシミヤ混60%シルク生地と金色の封筒――『イージーオーダー・アップグレード券』だ。周囲の客から「おぉー」「縁起がいいねぇ」と拍手が起こる。
店員も興奮気味に「これはパーティや式典で主役を張れる、一生ものの『勝負ジャケット』になりますよ」と驚嘆し「ぜひとも当店のテーラーか高級オーダースーツ専門店でお仕立てください」と捲し立てている。
「くぅ、羨ましいな。だがまあ、ウチのも悪くない」
男性が選んだ袋に入っていたのは、カシミヤ混60%のウール生地。在庫品かもしれないが、品質は折り紙付きだ。価格を考えれば十分に「勝ち」である。
ご機嫌で帰宅の途に就いた男性はその後、百貨店のカウンターでひと悶着が起きていたことを知らなかった。
福袋を当てた夫婦が、引き当てた最高級のイタリア製カシミヤ混(60%)のシルク生地を風呂敷から取り出し、カウンターに置いた。
「いやあ、良いのが当たっちゃって。これ、近所の商店街にある『スピード仕立ての店』に持って行こうと思うんですよ。あそこのおじさん、裾上げとか早いし、馴染みだから安くしてくれるだろうし」
「そうね。ついでに、あの店でもらった『年賀状割引クーポン』も使えるかしら?」
その言葉が響いた瞬間、カウンターの周囲の空気が凍りついた。
「お……お客様、失礼ですが……今、なんとおっしゃいましたか? 『スピード仕立て』……ですか?」
と店員が青ざめた表情を浮かべていた。
客として訪れていた名家風の老紳士も思わず手にしていたカタログを落とし、眼鏡を直して夫婦を凝視した。
「お、おやめください! それは……それは、フェラーリのエンジンを近所の自転車屋で直そうとするようなものです! いえ、それ以上の暴挙です!」
「え? でも、ただの布でしょ? 縫えば服になるじゃない」
その言葉を聞いた店員が必死に身を乗り出した。
「ただの布ではありません! これはカシミヤとシルクの『黄金比』……。触れてみてください。この指を押し返さないほど繊細な光沢、そして熱に弱いシルクの特性。安価な店が使う工業用の高圧プレス機に一度でも通せば、シルクは焼き付いてテカテカになり、カシミヤの産毛は全滅します。一瞬で、ただの『高い雑巾』に成り果ててしまうのです!」
なおも首をかしげる夫婦に老紳士が低く重厚な声をかけた。
「……若いの。その生地は、英国の織元が数ヶ月かけて一反を織り上げる芸術品だ。それを接着芯とボンドで固めるような店に預けるのは、国宝の絵画をシュレッダーにかけるに等しい。……頼むから、我々『服を愛する者』に絶望を与えないでくれ」
店員もアップグレード券を震える手で差し出しながら、
「お客様、この『アップグレード券』をご覧ください。これがあるということは、当店の奥に控える『マイスター』と呼ばれる職人が、一針一針、手縫いで、数週間かけてあなたの体に『なじませる』ことを約束しているのです。……どうか、その……近所のおじさんではなく、我々に、この至宝の命を繋がせていただけませんか?」
と哀願していた。その様子を見てようやくその価値に気が付いた夫婦が恐る恐る声をかけた。
「……そんなにすごいの?」
店員は深く、祈るように頷いた。
「そ、そんなに価値があるものなら……。あの、そこの旦那さん、いっそのこと、この生地、あなたが買い取ってくれませんか? 私らには分不相応な気がして。……30万円、いや、景気よく50万円くらいでどうです?」
老紳士が黙って懐からルーペを取り出して生地の耳―端の部分―をじっくりと見つめた。
「やはりな。このシルク生地、フラッテリ・タリア・ディ・デルフィノのデッドストックの最高級品じゃないか。福袋にとんでもないものが紛れ込んでいたな」
老紳士がふっと小さく溜息をつき、夫婦を見据えた。
「……この生地を私が買い取るだと? 冗談はやめなさい。カシミアの混率からして、今同じものを特注すれば、生地代だけで100万円は下らない」
「ひ、ひゃく……!?」
「仕立て上がれば、三越でも300万円はくだらない華族の夜会服に用いられるような生地だ。それを50万で売るだと? 貴方方は、ダイヤの原石を道端の石ころの値段で手放そうとしているんだ。……失礼だが、これほどまでの『運』を掴んでおきながら、それを金に換えようなどとは、神様に対する冒涜だよ?」
店員が横で深く頷きながら、ハンカチで額の汗を拭った。
「いいか、若いの。服というのは、単なる布を纏うことではない。その生地にふさわしい人間になろうと背筋を伸ばすことだ。この『至宝』が君の元へ転がり込んだのは、何かの縁だ。……金に換えてその場しのぎの贅沢をするより、この服を仕立て、これに見合う男になる努力をしなさい。それが銀座の流儀だ」
老紳士のあまりの気圧に、小刻みに震える夫婦。
「……は、はい。じゃあ、これでお願いします。仕立ててください……」
夫のその言葉に老紳士が満足げに頷き
「よろしい。……店員さん、私の担当の職人を彼に貸してやりなさい。工賃の差額は私のツケに回しておいていい。……この若者が、この生地に負けない顔になるのを数ヶ月後に見たいからね」
そう言って立ち去る老紳士。
「あの方は……」
「あの方は池尻子爵家のご当主様です」
一方、電器店では若者たちが「TRONゲームソフト福袋」を抱えて盛り上がっている。
「うわ、マジか! これ去年の織田の野望・全国版の限定パッケージじゃん!」
「お前すげえな! 俺なんか立体五目並べと立体リバーシだぞ……いや、遊ぶけどさ」
「俺、ドンジャラ」
「俺、中将棋。ルール知らねえ……」
「まあ、定価で買うより安いし遊べるから損ではないだろ」
その近くでは、おおぅ。と悲惨な声が上がる。
「どうした?」
眉間に手を当てうずくまった若者に友人達が声をかけた。
「天は我の傷口に塩を塗るか……」
蹲ったまま悲痛な声を上げる若者に
「何が入ってたんだ?」
と、福袋を覗き込んだ友人の一人が、ぶふっと口を抑えた。
「おまっ! 選りに選ってこれかよ。お前、今年は厄落としに行けよ」
「何が入ってたんだよ?」
不審げな他の友人の問いかけに
「い、今話題の恋愛ゲームのセット物。伝説の木の下で告白するアレのリメイク版と白いアルバム」
と、笑いをこらえながらふり絞るような声を出す友人。
「おいおい。こいつ去年の年末に振られたばかりじゃん。地獄か」
問いかけた友人が瞼を抑え顔を覆った。
それを聞いた友人たちも口元を覆い天を仰いだ。
「お前ら……。いいさ、笑わば笑え。酒でも呑まんとやっとられんわ。今日はこいつを徹夜で遊ぶ! お前ら付き合えよな!」
「まぁ、しゃーねーな。当たったビールの詰め合わせ持ってお邪魔するか」
「お。なら俺は当たったマグロ一尾持って行くわ」
「お前! あの一等引いたの、料理できないお前かよ! どうするつもりだったんだよ? マグロ一尾」
「いや、助かったわ。どうしようか考えてたんだ。まかせるな」
「俺たちも捌けないぞ。あ、婚約者の妹と友達が料理学校に行ってたな。全員纏めて呼ぶわ。いいよな?」
「いや、マグロだけじゃなくてあいつのことも考えてやれよ……。俺たちは構わないけどさ」
決してゴミは入っていない。
しかし、自分の欲しいものズバリが当たるかは運次第。
その適度なスリルと、確かな品質への信頼。それが、この国の正月を彩る福袋を買う風景なのだ。