ピンク色のあいつ
たまに嫌になる時があるくらい、朝というやつは平等にやって来る。
出かかった欠伸を飲み込み、男は覗いていたスマホをポケットにしまった。今日も今日とて、日銭を稼ぐ必要がある。面倒だと思っても、こればかりはどうにもならないことだった。
三年前にはじめてみた喫茶店。客の入りは少ないが、それで生きていけるだけで満足だった。宣伝にはリソースを割いていないから、気にくわない類の客はまずこない。内輪で回っているだけともいえるが、自分がこの街を形成する歯車のひとつになれているようで、悪い気はしなかった。
カウンター裏のコンロに火を入れる。ポットにためた水は静かで、しばらく離れていても問題はなさそうだった。
年代を感じさせる木の扉。男が開けると、備え付けられたベルが大人しい音色を奏でる。
空。錆びた鉄のような色をしていて、多くの人間の心を憂鬱にさせていることだろう。けれども、男はそんな空が好きだった。
快晴の輝きは、自分にとっては眩しすぎる。ぼんやりと見上げていても、疲れのこないちょうどいい明るさ。その下で紫煙を燻らせるこのひと時が、なによりの幸せをくれるような気がしていたのだ。
「どうせ暇なんだろうなぁ、今日も」
店の外壁によりかかり、男が呟いた。
会社勤めなど、性に合うはずがない。だからといって、飯の種になりそうなあてがあるわけでもない。それでも下北沢から離れられないでいるのは、街が醸成する空気感のようなものが、身体に染み付いているからに他ならなかった。
夢の成れの果て。かつて、仲間たちと理想を追って駆けた土地。
掴みきれなかったなにかにしがみつき、甘えているだけのガキ。故郷に帰り、職に就いた人間からしてみれば、自分などそう見えているのかもしれなかった。
世間では、普通でいることが多分に求められる。常識から外れた行動をとれば異端視され、忌避されることも少なくはない。
「もう少し、大人になれ」
数年前、借金の頼み込みに行くたび、親族にそう諭された。
世間知らずの自分などに、店を持たせたところでなんになる。よくて半年。ひどい時には、ひと月の内に裸で逃げ帰ってくるに違いない、と笑われることすらあった。
意見としては至極真っ当で、正面から言い返せるだけの理論はどこにもなかった。あるのは煤けた情熱だけで、それもとにかくこの街で生きていたい、という甘っちょろい願望からきたものでしかないのである。
そんな自分に優しく手を差し伸べてくれた祖父も、去年他界した。
地元ではちょっとした名士で、いろいろなところに融通の効いた人だった。祖父の助けがなければ、このちっぽけな店すら用意することはできなかっただろう。それだけ自分は無力で、やはりガキなのだということが理解できる。
「店、開けますか」
ほとんど思いつきではじめたような店だった。居抜きの店舗で、若い自分がやっている割には雰囲気に味がある。最初はこんなものか、と感じていたくらいなのだが、言いがたい愛着が湧いてきているのも事実だった。
五人掛けのカウンターと、テーブル席が少しだけ。開業前から好きで淹れていた珈琲だったが、三年も人様に提供していればさすがに腕も上達する。
看板メニューとまではいかないが、モーニング目当てで来てくれる客がこの頃は何人かいる。そんな希少な上客を悲しませないためにも、いつまでも外で一服しているわけにはいかなかった。
「あん? あれ、人か?」
店内にもどりかけたところで、路上に眼がとまった。
よく見なければ、それが人だとは認識できなかったのだろう。ピンク色のかたまり。もぞもぞと蠢いていて、ちょっと気味が悪いくらいだった。
通行人が避けて通っているから、そこだけ妙に空間ができてしまっている。なんとなく興味を惹かれ、ピンク色のかたまりに男は近づいた。
背中にしょっているのはギターケースなのか。しゃがみ込んでふるえているせいで、長い髪と着ているジャージとが一体化して見えていたようなのである。
「よっ。生きてるか、そこのギターの子」
「うえっ!? ひっ、あっ、ううっ……」
わずかにだけ向けられる視線。それでも眼がさっぱり合わないのは、むしろなにかの才能なのではないかと男には思えてくる。
正直、このままでは埒が明きそうにない。とはいえ、放っておくのも忍びなく思えてくる。
たぶん、背中のギターケースが気まぐれを起こさせたのだと思う。そうでもなければ、こんな状況でまず声などかけたりはしない。基本的に、面倒事は嫌いな質なのである。
「立てるか? ほら、深呼吸して」
「えっ、あっ……? んっ、すぅ、はぁ……」
「事情は知らないが、休憩くらいならさせてやれる。店、一応そこでやってるもんでね」
青ざめた顔には、一面の戸惑いが拡がっている。
極度の人見知り。それとも、自信がないだけなのか。外であまり長くこうしていると、誤って通報される可能性すらなくはない。ギターの少女は見る限り学生で、しかも結構な美人ときているのだ。
その隣に冴えない店主の自分がいて、少女は全力で怯えている。はっきり言って、なにかしらの案件だと思われても仕方のないのが現在の状態だった。
「あっ、えとっ。わ、私なんて、食べてもちっとも美味しくありませんから……。あっ、んっ……、ミジンコ以下の存在でごめんなさい。うへっ、へっ……、呼吸しているのも迷惑なので、このまま消滅したほうがましですよね……」
思考の振り切り方が凄まじい。
見る間に表情がポロポロと崩れていき、放っておけば本当に塵と化してしまいそうな雰囲気すらあった。
「いきなり変な世界に入るの禁止。断っておくが、これは無理強いでもなんでもないからな?」
「うひっ!? あっ、す、すみません、すみません。あっ、だ、だったら、少しだけお世話になろうか、な……?」
疲弊しているのは、間違いないのだろう。
少女がよろよろと立ち上がる。ギターケースの重みで、身体が後ろに持っていかれないか心配になるくらいだった。
「なら、あっちだ。ちょっとくらい、サービスさせてもらうよ」
精一杯悪意がないように振る舞ったのが、いくらか効力を発揮しているのかもしれない。とにかく、ぎこちなく頷いた少女を連れ、男は店に向かうのだった。