やばい。今になって、ドギツイ緊張が全力で殴りかかってきている。若干催しつつある吐き気。なんとかこらえながら、両手でノートを差し出した状態でひとりは身体を硬直させている。
そもそも、調子に乗って歌詞を見せようなんて思ったのが間違いだったんだ。
わざわざ自宅から二時間近くかけて来たのに、恥だけをかいて帰ることになる可能性だって少なくはない。苦しくなっていく呼吸。額から流れる汗。お兄さんとリョウさんの視線が痛い。どうしよう。やっぱり、完成していなかったことにして逃げ出してしまおうか。だけど、二人の顔を見ていると、そんなことをしていい状況ではないようにも思えてくる。
恨むけど文句は言うなよ、二時間前の自分。
思いっきり唾を飲み込んでから、ひとりはノートをさらに前へとやった。
「どれどれ。後藤ちゃんの力作、拝見するといたしますか」
「あっ、あの、あんまり期待せずに見てもらえると、その……助かります」
お兄さんの笑顔が今だけは辛い。
自分の手の中から旅立っていくノート。いっそのこと、もう帰ってきてくれなくてもいいのかもしれない、なんて考えが浮かんでしまう。
「うん、うんうん……」
「どう、お兄さん。ぼっち渾身の歌詞は、お金になりそう?」
リョウさんが立ち上がり、ノートを横から覗き込んでいる。
再び跳ね上がっていく心臓。やめろ。やめてくれ、私の身体よ。これ以上心拍数が上昇すると、さすがに死んでしまう。
「やってるー、シンジ?」
「はっ、はひぃぃぃぃ!? ほ、本日も元気一杯営業しておりますっ!」
静寂を打ち破るようにしてあらわれた乱入者。驚きのあまり、店員でもないのに条件反射で大声を出してしまう。
本当に心臓が止まるかと思った。今日の自分は、きっとどうかしているんだ。入ってきたお客さんの顔を見られない。しかも、どうしてか隣の席を選んだようなのである。
知らない人を驚かせた罪で、これは鬼詰め確定なのではなかろうか。いつもどうして、こんなことになってしまうのか。ふるえるひとりは、静かに涙を流している。
「ぼっちちゃん……、とそれに山田もか。くくっ……。虹夏から話には聞いてたけど、しっかり年下にたかられてるんだ、アンタ」
「へっ……? えっ、あのっ、て、店長さん」
隣から知っている声がしたせいで、つい振り向いてしまう。
カウンターに肘をついている店長さん。スターリーにいる時よりかは、なんだか表情がやわらかい気がしていた。
「珍しいね星歌さん。こんな時間に、来てくれるだなんてさ」
「開店前の息抜きだよ、息抜き。それより、いい御身分になったもんだな、シンジ。女子高生に囲まれて、バンドやってた頃より華やかな生活してるみたいだけど」
「はははっ。あいも変わらず、辛辣なこと言ってくれるじゃないの、星歌さんは。それで、ご注文は?」
「んっ……。ホットと、なにか軽く食べられるもの用意して」
「りょーかい。毎度贔屓にしていただき、ありがとうございます」
「ふんっ……。さっさと仕事しろっての、仕事」
虹夏ちゃんが言っていたように、お兄さんと店長さんは、結構長い付き合いがあるようだった。
軽妙なやり取りには、ちょっと憧れるような部分がある。だけど陰キャな自分では、一生かかってもあんなふうに話せるようになる気がしないのも、また事実なのが悲しみを誘う。
「そういえばなんだけど、最近アイツのこと見てる、シンジ?」
「んあ? アイツっていうと、まさか廣井のことじゃないでしょうね、星歌さん」
「そっ、そのまさか。けどその様子じゃ、シンジの店にも来てないか。……まあ、アイツが野垂れ死んでいようがどうだっていいんだけど、私は」
「まさか。あの飲んだくれが、そう簡単にくたばったりしないですって。だから、向こうからあらわれるまではそっとしときましょう、そっと」
「それもそうか。触らぬ神に祟りなし、っていうくらいだもんな」
会話中の二人が、何故か疲れたような顔でため息をついている。
ヒロイという人は、それほどまでに強烈な性格をしているんだろうか。だとしたら、自分としても遭遇しないことを祈るしかない。店長さんにようやく慣れてきたくらいなのに、その上をいきそうな人となんて交流できる自信はまるでない。
「……っと。山田ちゃん、はいこれ」
「うん。もらうね、お兄さん」
ノートが、お兄さんからリョウさんに渡っていく。
感想を聞いてみたい。けど、がっかりするような内容だったとしたら、心が折れてしまうような気がしてくる。
どっち。お兄さんは、ノートを読んでどっちの感想を抱いたんだ。読み込むリョウさんの表情。思いの外真剣で、それで余計に緊張が大きくなる。
普段は虹夏ちゃんに叱られてばかりなのに、音楽のこととなるとやっぱり本気になれるんだ。集中している横顔。正直、かっこいいとすら思えてくる。喜多さんは、リョウさんのこういう部分に憧れているのだろうか。それならば、少しは理解できるような気がしてくる。ぬるくなったミルクコーヒーをすする。口あたりはやわらかいが、それだけではないところが好きだった。
お兄さんのくれる味。それを感じている瞬間だけは、かすかではあるが大人の世界を垣間見れているような気分になることができる。
「そうそう。後藤ちゃんの歌詞、オレは悪くないと思ったな。変に流行りに乗ったりしてないあたり、むしろ好感を持てるよ」
「うあっ!? えっ、あのっ、あ、ありがとうございますっ……!」
「うん。全体的に明るくないのも、ぼっちらしくていいと思う。ううむ……。けど、私的にはちょっと残念だったりして」
「えっ……? ざ、残念……。や、やっぱりこんな歌詞、喜多さんに歌ってもらうには暗すぎますよね。ふへっ……。だけど、頭から足の先まで陰キャに染まった私に明るい青春ソングなんて」
お兄さんに褒められて上がっていたテンションが、勢いのついたジェットコースターのように急速に降下していった。
そうだよね。根暗陰キャの鬱屈とした感情を楽しんでくれるお客さんなんて、どこにもいるはずがない。これなら、もう少し自分を殺してでも逆方向に色を振るべきだったんだ。
だけど、ともひとりは思うのである。ロインで相談を投げかけた時、お兄さんは思うようにやるべきだと背中を押してくれた。それに、それに……。
「なにか盛大な勘違いしてない、ぼっち?」
「ふえっ……? り、リョウさん?」
「私が残念だなって思ったのは、つまらない歌詞をばっさり切り捨てられなかったことに対してだから。ぼっちは、この方向性を突き詰めるべき。そしたら面白いものが出来上がるんじゃないかな、きっと」
どうしてなんだろう。今だけは、リョウさんから虹夏ちゃん並の包容力を感じさせられてしまう。
同時に、とてつもなく大きな安堵感が身体全体に拡がった。緊張しまくっていたせいで、顔の筋肉がところどころ強張っている。その修復を手伝ってくれるリョウさんはなんだか嬉しそうで、こんな状態でなければ釣られて笑っていたことだろう。
「あっ。それってもしかして、作詞ノートだったりする?」
「えっ。ははっ、はいっ。い、一応、私が書き溜めてきたものでして」
「へえ、ぼっちちゃんが。シンジが見てたくらいだし、私にも貸してよ」
「どどっ、どうぞっ! 店長さんには、お目汚しにしかならないかもしれませんがっ!」
「やっ、いやいや。いっつも大げさなんだから、ぼっちちゃんは」
平伏するくらいの勢いで、店長さんにノートを差し出した。
なくなりかけていた緊張。それが、こんなにも早く復活することになるなんて。動悸が激しくなる。未完成な歌詞を開示したせいで出演拒否……、まではさすがにされないか。
ともかく、一秒でも早くこの時間の終わりを迎えたかった。店長さんの指。歌詞の部分をなぞっていて、時々その動きが止まっていたりもする。
「どうぞ、星歌さん」
「ん……、ありがと」
お兄さんが淹れたコーヒーを、店長さんがゆっくりと口にする。
添えられた砂糖の袋は到着と同時に開封されていて、中身はすっかり溶け込んでいる。
意外と、かわいらしいところがある。そんな言葉を口に出した日には、まず間違いなく出禁確定だ。自分のカップで口もとを隠すひとりは、そんなことを考えている。
「いいんじゃない、初めてにしては。ふふっ。コイツも、バンドやってた頃は青くさい歌詞ばっかり書いててさ。社会に埋もれた声に光を照らすんだー、ってな具合にね」
「おおう……。人の過去からかうのはナシじゃないの、星歌さん。こう……グサッときちゃうよ、グサッと」
「いいから、おまえは仕事してろよ。それに私は、その歌詞が嫌いだったなんて一言もいってねえだろうが。とはいえ、世間一般にあんまり受け入れられなかったってことだけは、消えない事実なんだけどな」
お兄さんが、がっくりと項垂れている。
確かに、やっていたバンドは人気面では失敗だったのかもしれない。だけど、お兄さんは活動自体に後悔はないと言っていた。駆け抜けてきた情熱。一緒に演っていたメンバーの人たちだって、それはたぶん同じなのだろう。そして、そんな過去があったからこそ、自分のような陰キャがここに存在することができている。
「あの、えとっ……。お兄さんの応援、すごく力になったんだ……と思います。だから元気だして、なんて言うのはおかしいかもですけど……」
気持ちをうまく言語化することができない。どうして、という思いが強くなる。
陰キャ全開の歌詞ならこうはならないのに、どこかで空回りが起きているような感じさえしてしまう。
「要するに、お兄さんのロック魂はぼっちに受け継がれたってことか。あっでも、いきなり社会派になられたらそれはそれで困る……」
「えっ、あのっ……。私、そんな難しい歌詞なんて書ける気がしないんですが……」
ここぞというタイミングで、リョウさんが口を挟んでくる。
ベーシストらしいというかなんというか、場の雰囲気を下支えする力がそこにはあるのだろう、たぶん。
「あははっ。いやいや、なんとなくだが伝わってるよ、後藤ちゃんの気持ち。ありがたいことだな、ほんと」
「え、えへっ、えへへっ。だったらよかった……です」
満面に、とまではいかないものの、お兄さんが優しく笑ってくれている。
そのことだけが、今は嬉しかった。ちっぽけな存在である自分。お兄さんが拾い上げてくれていなかったら、なんて想像するだけでもはや背中が冷たくなる。
「なに? なんなの、この空気は?」
「いつものことなので、気にしたら負けです。それよりも店長、トーストひと口いただいても?」
「は? やらねーよ、おまえにそんな顔されたってな」
周囲の音が段々とかき消されていく。あるのは、自分とお兄さんが呼吸をする音だけだった。
焼いたトーストをかじる小気味のいい音色。聴こえてくるのはまず気のせいに違いないと、ひとりは現実から全力で眼を背けている。