オレとぼっちと鈍い空   作:KKS

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新曲の発売があまりにも待ち遠しい。


邂逅

 早朝。いつものように電車に揺られて、ひとりは金沢八景から下北沢まで向かっている。

 背もたれに体重を預ける。客の姿はまばらで、リラックスして乗っていられるような車内の雰囲気だった。イヤホンで聴いているのは、リョウさんが送ってくれた曲のデモ。入りのフレーズがかっこよくて、仕上がりが今から楽しみになってくる。

 窓の外の景色。特別なにかを考えることなく、ぼんやりと見つめていた。

 今日はお兄さんのところで、初めてバイトをさせてもらうことになっている。一応日当もいくらか貰えることになったのだが、無理に捻出してくれたのではないか、なんて心配になってくる。それでもきっと、お兄さんはなんでもないように笑うのだろう。

 いつもの日常に、ピースがひとつ加わる瞬間。緊張はする。だけど、それも悪いことではないように思えていた。

 

「せめて今日くらい、ネガティブな思考を捨てられますように」

 

 手を擦り合わせて祈りを捧げる。

 多くの出会いはないかもしれないが、それでも自分にとっては知らない人ばかりの世界なのである。なるべく、お兄さんの足を引っ張ることがありませんように。願いの九割はそれで、残りは災難回避に全力で振る。

 目的地に到着し、ホームに降り立った。ギターケースを背負い直し、ゆっくりと歩を進める。今日はバイト終わりにみんなで練習をする予定になっていて、帰りは遅くなりそうだった。

 

「が、がんばれ、私」

 

 激励の言葉を吐きながら、大きめに足を踏み出した。

 澱んだ雲。揺蕩う下北沢の空は、普段と変わらない色をしていた。

 

 

 馬子にも衣装、なんて表現が適切なのかはわからない。

 お兄さんが用意してくれた茶色いエプロン。装着してみると、今からここでバイトをするんだという実感が湧いてくる。下は高校の制服で、その方が学生らしくていいんじゃないの、とはお兄さんの言である。

 

「うん。しっかり似合ってるじゃない、後藤ちゃん」

「えっ、あのっ……。ふへっ、えへっ……。あ、ありがとうございます、お兄さん」

「力、抜いてくれていいからね。昼時ならともかく、ほかの時間帯なんて基本知ってるお客さんしか来ないんだから。みんな、後藤ちゃんのことあたたかく見守ってくれるよ」

「は、はひっ。あのっ、本日は、よろしくお願いします……!」

 

 お辞儀を勢いよくしすぎたせいで、すでに背中にダメージを負ってしまっている。

 こんなことで、半日耐えられるのか私。そんなことを考えている間にも、入り口のベルが軽やかに鳴る。

 スポーツ新聞を持った白髪のおじさん。こういう感じのお客さんが、このお店は多いのだろうか。

 

「あっ、い、いらっしゃいませっ」

「おっ? バイトの子なんて雇う余裕あったんだ、マスター。よかったら、今度お金貸してよ。競馬で勝って、倍にして返すからさあ」

「ないない。おじさんが若くてかわいい女の子だったら、オレも多少は考えるんだけどねえ」

「世知辛い世の中だね、まったく。とりあえず、コーヒーちょうだいよ。あとは、今日の予想しながら考えるわ」

「へへっ、どうもありがとうございます。後藤ちゃん、おじさんにおしぼり出してあげて。ついでに、灰皿も」

「お、おしぼりおしぼりっ。注文は取らなくていいんだから、落ち着け私っ……」

 

 喫茶店での初めての接客、というには仕事をしていなさすぎるのかもしれない。

 それでも、おしぼりを手渡した時のおじさんの朗らかな顔が印象に残っていた。スターリーとはまるで違う環境と客層。それもあって、新たな一歩を踏み出したんだ、という感覚がやはり強くなる。

 

「後藤ちゃん、これよろしく」

「あっ、はいっ。不肖後藤ひとり、命をかけて運びますっ!」

 

 お兄さんから出来上がったコーヒーを受け取る。

 それをお盆に乗せて、おじさんに届けるのが自分に下されたファーストミッション。ここで躓くわけにはいかない。最初の一手の成否が、この日の命運を左右することだろう。

 

「うわわっ……。き、緊張で手がふるえるっ……!」

「はははっ。なかなか面白い子見つけてきたじゃないか、シンジくん。落ち着いてるかわりに華のない店だからさ、なんだか新鮮だよね」

「言ってくれるじゃない、おじさん。そのうち別の子も入ることになると思うからさ、競馬ない日も欠かさず店に来てよ」

 

 カウンターからおじさんのいる席まで、距離としてはほんの少しでしかない。それなのに、お盆を持っているだけで果てしなく遠く感じてしまうのは何故なのか。

 

「どどっ、どうぞっ……!」

「おおっ、ありがとうね。追加の注文する時はまたよろしく頼むよ、お嬢ちゃん」

「えっ、あっ、あわわっ……」

 

 危うく、舌を噛みそうになってしまう。気持ちとしては嬉しいはずなのに、ひとりは言葉をまったく紡げずにいた。

 とりあえず、ファーストミッションは成功したと言っていいのだろうか。

 お兄さんはほほえみながら、小さく頷いてくれている。徐々に収まっていく、高揚にも似た緊張。信頼を寄せる人と通じあえているという感覚が、心地よくその熱を冷ましてくれているのだろうか。

 とにかく、これならもう少しがんばれそうな気がしてくる。

 いざ、ジャンプアップしてコミュ障卒業へ。そんな無謀とも言る目標すら内心に掲げて、ひとりは両の拳を握っていた。

 

「いい、いらっしゃいませぇ……」

 

 時間としては、十一時を過ぎようとしていた頃なのか。

 それまでと同じように、入店してきた客に対しひとりは挨拶を行っていた。多少は接客にも慣れてきたし、そもそもみんなお兄さんの顔見知りばかりなこともあって、コミュ障気味の対応をやらかした場合でも笑って済ませてくれていたのだ。

 珍しいくらいに若い女性のお客さん。格好はラフで、キャミワンピースの肩紐がずり落ちそうになっている。というか、どうして今どき下駄なんて履いてるんだろう。

 

「うっ、お酒くさっ……!?」

 

 お客さんが前を通り過ぎた瞬間、猛烈なアルコール臭に鼻を襲われた。咄嗟に顔の下半分を手で抑えてしまう。失礼になるのかもしれないが、あまりのことで我慢が効かなかったのだ。

 どう考えたっておかしい。まさかこの女の人は、ここを朝から飲めるお店かなにかと勘違いして入ってしまったのではないか。だったら早く、お兄さんに伝えてどうにかしてもらわなければ。

 このまま放っておけば、静かな店内を無法地帯に変えられてしまいかねない。そうなったら、ただでさえ少ないお客さんが益々減ってしまうのではないか。やがてはそのせいで経営が苦しくなって、自分なんかに構っている暇さえなくなって……。

 

「って、そんな陰鬱になるようなこと考えてる場合じゃない!?」

 

 われに返って周りを見渡した時には、酔っぱらいのお客さんはすでにカウンター席についていた。

 どうにか、揉めずに帰ってもらうことができたらいいな。自分に出来るのは、そうやって祈ることくらいなのである。

 キッチンから出てきたお兄さんが、お客さんに近づいていく。なんだかドラマのワンシーンを見ているようで、手のひらには自然と汗が滲んでいた。

 

「あははー。久しぶりだね、藤原くん。再会を祝してなんかお酒だしてよー、お酒。あっ、なるべくやっすいやつでいいからね。知ってると思うけど、私ちっともお金ないから」

「おまえなあ。前にも言ったが、ここはそういう店じゃないんだっての。というか、酔っ払った状態で来るなって何度言わせれば……」

「えー、ちょっとくらいならいいじゃん。それにほら、私と藤原くんの仲でしょー?」

「抱きつくな、飲んだくれ。安物の酒の匂いが服に移る」

 

 正直、理解が追いつかないでいた。

 どうやらお兄さんは、このお酒くさいお姉さんとは面識があるようなのである。しかも見ようによっては、かなりその、親しい雰囲気すら醸し出されているではないか。

 まさか、昔付き合っていた女の人につきまとわれて、困っていたりするのだろうか。だとすると、自分はどんな立場から口を挟めばいい。単発バイトをしている店員。面倒を見てもらっている、年の離れたギタリストの後輩。それとも、それとも……。

 

「廣井。なあ、人に抱きついたまま意識飛ばすのだけは勘弁してくれないか」

「んえ? ああー、ごめんね藤原くん。昨日の夜にライブの打ち上げやったんだけどさー、一軒目から先の記憶がさっぱりなくなってるの。下北沢までどうやって来たのかも、はっきり言ってぜんっぜんわかんないし」

 

 ヒロイ、という名前には聞き覚えがある。

 そうだ。確かこの前、店長さんとお兄さんとの会話の中で、飲んだくれだという人がそんな名前で呼ばれていた。

 

「すん、すんすんっ。ほらぁこの匂い、藤原くんだってまだタバコ吸ってるんでしょぉ? 私のお酒だって、それとなんにも変わらないよ。へへっ。こう口が寂しくなると、ついグビッと……」

「で、どこから出したのよ、そのパック酒。……この店内は、持ち込み厳禁です。飲酒なんてもってのほか。だから、これは没収ね」

「そ、そんなー!? 途切れる。このままだと、幸せスパイラルが途切れちゃうからぁ!?」

「あー、オレはなにも聞こえない。聞こえてないし、見えてもいません」

 

 いつも自分たちに優しく接してくれるお兄さんが、有無を言わせない厳粛な態度でお姉さんにあたっている。

 今まで知ることのなかった一面。見られて嬉しいと思う反面、過去の出来事がちょっとだけ気になったりもする。

 お兄さんの口調の感じからして、お姉さんは店長さんと違って同い年なのではないかと推測できるのだ。そのことを踏まえて、二人の間柄はどの程度近しいものなのか。

 だとしても、本来自分なんかが気を揉むようなことではなかった。現実としてわかってはいる。わかってはいるのだけれど、どうしても気になってしまうのが人の性なのか。

 

「水でも飲んで、ちっとは頭冷やすんだな。というか廣井、いつものベースはどうしたのよ」

「ベース? それだったらここに……、ってあれ?」

「おまえ、またどこかに忘れてきたんじゃないだろな。ほら、さっさと思い出せ。すっからかんの頭、振って手伝ってやる」

「や、やめてー。割れる、私の頭割れちゃうからー!」

 

 口では拒絶しているものの、お姉さんはなんだか終始楽しそうだった。

 呼吸がかすかに苦しくなる。それでもこの場から逃げずにいられるのは、真新しいエプロンが身を守ってくれているからだ、とひとりには思えていた。

 

「あっ、思い出した。さっき近くのコンビニ寄って、それで」

「……取ってくる。飲んだくれに席を占拠されたままじゃあ、こっちも商売なんてできないんでね。いいか。オレが帰ってくるまでには素面にもどっていろよ、廣井」

「えぐっ、ううっ……。藤原くんのそういう優しいとこ、私前から大好きだよぉ。だから外行くついでに、新しいお酒買ってきてくんない……?」

「却下。後藤ちゃん、悪いけど少し付き合ってもらうよ」

 

 予想外の言葉。投げかけられた次の瞬間には、もうお店の外にいたような気がしている。

 曇り空の下、お兄さんと並んで街を歩く。

 今日という日のセカンドミッション。その幕開けは、すぐそこにまで迫っていた。

 

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