強張った顔を地面に向けて、ひとりはシンジの少し後ろを歩いていた。
よく考えてみると、お兄さんとこうして外を出歩くのは初めての体験だったりする。すぐそこのコンビニまで、廣井というお姉さんの忘れたベースを取りに行く。そんな額面上は大したことのない用事なのに、ギターケースをわざわざ担いできてしまったのは、おかしな緊張がいつもの装備による安心感を求めたせいなのか。
というか、施錠してきたとはいえ、泥酔しているお姉さんを置いてきて本当に平気だったのだろうか、なんて考えてしまう。知らない人と取り残されるもそれはそれで嫌だったが、一日バイトの途中であるせいかお店のほうが心配になってきているのだ。
お兄さんの背中をちょっと見上げてみる。
自分よりもずっと大きくて、でもお父さんとはどこか違う背中だった。コーヒーとタバコの香り。ほのかに感じるその二つが、お兄さんをあらわすアイコンのような働きをしているのか。
もっと仲良くなれた時には、こうやって散歩しながら手なんかつないだりして。
先行する妄想。光景を一瞬思い浮かべただけでも、全身が破裂しそうになるくらいの衝撃が走った。ありえない。自分のような根暗コミュ障にそんな勇気はないし、だいいちお兄さんが善意からかけてくれている好意を変な方向に解釈するべきではない。
「後藤ちゃんてさ」
「ひゃ、ひゃいっ……! うっ、あのっ、な、なんでしょうか、お兄さん……?」
突然かけられる声。うん。身体を思いっきりのけ反らせてしまったが、舌を噛まなかっただけまだよしとしておこう。
「ずっと店にいたせいで気づかなかったけど、なんというか実家の押入れみたいな匂いするよね」
「えっ、あのっ……。き、気の利かない女ですみません。そうですよね……。お兄さんだって、虹夏ちゃんや喜多さんみたいな真っ当な女子の香り楽しみたいに決まってる……」
腕を鼻に近づけて、軽く匂いを確認してみる。
華やかさなんてどこにもない。そこにあるのは、防虫剤によるストイックすぎる刺激だけだった。気が滅入りそうになる。どうせなら、今度押入れの中で線香でもたいてみようか。それくらいだったら簡単に手に入るし、現状よりかは多少は……。
「……って、余計におばあちゃんみたいな空気感まとってどうする私!?」
自分でもびっくりするような大きな声。
せっかくのお出かけなのに、お兄さんがドン引きしているのは確実だ。顔をあげるのが怖くて仕方がない。これ以上の醜態を晒す前に、もっと距離を開けて行動するべきなのか。最悪の場合、知り合いだと思われたくないから、もっと離れて歩いてくれと言われてしまう可能性だってゼロではないのである。
背負っているギターケース。それが、なぜかいつもの十倍程度は重さがあるのではないかと思えてくる。
「いやいや。後藤ちゃんの匂いってさ、実家にいるみたいでなんとなく安心できるなって思っただけなのよ。少なくとも嫌いじゃないよ、オレはね」
「あっ、ううっ……」
お兄さんの優しさが目頭に染みる。
本当に、私みたいなどうしようもない陰キャを気にかけてくださってありがとうございます。心の中で呟くと、少しだけ気持ちが軽くなった感じがしていた。
つい調子に乗って前に出てしまう足。額がぶつかる。振り返って立ち止まっていたお兄さんの胸のあたりに、不躾にも頭突きをかましたような格好になっている。
「うあっ……!? こ、これはその……」
言い訳がなにも思いつかない。
失態につぐ失態だった。復活しかけていたメンタル。それが、ボロボロと崩壊していく音が聴こえてくるようだった。
ギリギリでつなぎとめてくれたのは、お兄さんのくれるあたたかさ。頭の天辺が、ふんわりと手のひらに包み込まれている感じがする。もっと撫でて、なんて言えるわけがない。その代わりとでも言えばいいのか、不躾ついでにジャケットの裾を指でつかんでみる。
「あっ、うへへっ……」
特別言葉を交わさないまま、移動を再開する。
自分のしていることに気がついているはずなのに、お兄さんはなにも言わなかった。拒絶がなかったということは、すなわち肯定されているのと同然なのである。ポジティブな向きに傾く思考。数分の道中で、これだけ心が躍るのはたぶん初めてだった。
「あ、店員さんすみません。ついさっき、このどうしようもない酔っ払いがここにきたと思うんですけど」
件のコンビニに到着する。裾をつかんでいる状態であるのは同じで、ここまで引っ張ってもらえたみたいでちょっとおもしろかった。
スマホで撮った写真を見せながら、お兄さんが事情を説明する。
怪しまれたらどうしよう、なんて思っていたのだが、案外すんなりとお姉さんの忘れ物を受け取ることに成功した。どうやら、コンビニの店長さんはたまにお客さんとして喫茶店に来ているようなのである。
店長さんの好みのコーヒーの種類なんかを聞かせてもらいながら、お兄さんとまた街を歩く。ケースを背負っているところに、余計な負担をかけたくなんてない。だから、残念だと思ってもいさぎよく裾から手を離した。
こんなこと、次はいつできるんだろうか。けれど、少しの間だけでも十分に楽しめたし、自分からしてみればありえないくらいの進歩を遂げたように思えてくる。
「もうちょっと、ぶらついてから帰ろうか。泥酔した廣井の相手しなきゃならんと思うと、げんなりしてきてさ」
「あっ、わ、私はいくらでも……っ。お、お兄さんとこうしてると、いろんな風景が新鮮に見えてくる気がしていて」
「そう? はははっ。いい感じに褒めてくれるじゃないの、後藤ちゃん。結構嬉しいよ、お世辞でもさ」
「えっ、あのっ……。うっ、は、はいっ」
全然、お世辞なんかじゃないのに。
はっきり言い出せないで俯いていると、お兄さんがゆっくりと歩き始めた。
置いていかれるのだけは絶対に嫌だ。がちゃがちゃと上下する背中のギターケース。遥か頭上に拡がる空は、いつになく鈍い色をしているように見えていた。
♪
コンビニを離れてから、後藤ちゃんの顔をしばらく見ていないような気がしていた。
並んで歩くようなことは絶対にしない。かといって、避けられているわけではない。奥ゆかしいとかそういうのではなく、この距離感こそが、後藤ちゃんにとってのちょうどいいなんだろうな、などとシンジは推測していた。
ぶらついてから帰るとは言ったものの、特に行くあてがあるわけではなかった。
どこか店に入って休憩をしていく、といった雰囲気でもない。それに、あまりゆっくりしていたのでは、
「そこの公園、寄ってこうか。歩いてばっかりってのも、なんだしね」
寂しい感じのする入り口。遊具らしきものはほとんどなく、チェーンに錆の付着したブランコだけが、真ん中にぽつんと存在している。
バンド活動をしていた頃なら、いい歌詞が書けそうだ、なんて考えていたのかもしれない。だが、今となってはそれも昔で、自分は喫茶店のしがない店主でしかないのである。
後藤ちゃんの視線。寂れた遊具をじっと見つめているようで、考える前に言葉が出てしまう。
「乗ってみる、後藤ちゃん。退屈だったら、すぐにやめちゃえばいいからさ」
「あっ、あのっ、いいんですか? えへへ……。か、家族以外の誰かと乗るのなんて、はじめてだ……」
かすかに紅潮していく表情。後藤ちゃんは提案に喜んでくれているみたいで、聞いてよかったと素直に思えてくる。
ぎしり、と座面が軋んだ音を立てる。大人が乗って平気なのかちょっと心配にはなってくるものの、隣りにいる後藤ちゃんの姿を見ていると、それも些細なことのように思えてくる。
「ええと……。そういえば、あのお姉さんも音楽をされているんですか?」
「そっ。人気あるんだよな、アレで意外と」
『SICK HACK』というバンドで、廣井きくりはベース兼ボーカルとして活動している。
ライブは何度も見たことがあるが、やはり深酒をした状態で行われるために行儀はさっぱりよろしくない。しかし、そんなアイツが生み出す空間は特別で、勢いに引っ張られるように客が熱狂するのが常だった。
音楽の才能がある。それに加えて、ロックバンドに必要な素質を廣井は持っていると言ってよかった。
「普段はどうしようもない飲んだくれでも、ベースの腕だけはピカイチなんだよ、アイツは。だから内心、尊敬しているのさ。俺が挫折した音楽を、廣井は堂々と自信をもって奏で続けている。それも、めちゃくちゃロックなかたちでね。あっ、ちなみにここまでの話は全部オフレコだから。よろしく、後藤ちゃん」
「あっ、了解……です。お、お姉さん、すごい人だったんですね。お兄さんに尊敬だなんて、なんか羨ましい、かも……」
「廣井くらい突き抜けてはじめて、音に命を宿すことができるのかもな。ほんと、昔っから敵わないのよ、アイツには」
両手でチェーンをつかんだ状態で、後藤ちゃんが顔を伏せる。けれども、その横顔にはある種の決意のようなものが浮かんでいるようで、いつものような弱々しさはどこにもない。
「ギター……。弾いてみてもいいですか、ここで。あっ、そ、そうじゃない。聴いてもらいたいんです、お兄さんに。今の私の、全力を」
後藤ちゃんの心に、なにが火をつけたのか。それがわからない自分なんて、所詮はそんなものなのだと思えてくる。
だけど、それでも気持を受け止めてやることくらいはできるのではないか。内側にけものすら宿していると感じさせる眼差し。アンプもない。音を作るための空間もない。それなのに、後藤ちゃんの表情には少しの恐れも存在していないことが不思議だった。
「いきます、お兄さん」
相棒を取り出し、後藤ちゃんが深く息を吸う。
指の動き。繊細であるのと同時に、どこかに荒々しさがあるのだ。
弦が弾ける。強い音だと思った。アンプによる増幅が欠けているはずなのに、耳にまですっと伸びてくる。後藤ちゃんの秘めた感情。そして、今という瞬間にかける思い。その二つが重なって、自分の心はここまで揺さぶられているのだろうか。
「いいな、すごく」
「まだまだ、いきます」
滑るように、指が弦を抑えている。
眼を見張るような動きだった。情熱的なだけじゃない。それを裏打ち支えるだけの技術があるから、後藤ちゃんはギターを信じて音をかき鳴らすことができている。
正直、久しぶりに胸を熱くさせられた。もっともっと、本気になった演奏を聴いてみたい。そんな、誰かを惹きつけることのできる音を、後藤ちゃんは細い指から生み出しているのだ。
「悪い。一本だけ、吸わせてもらうよ」
頷きを確認した時には、口にした煙草に火をつけてしまっていた。
深々と煙を吸い込む。それなのに、身体の中にあるざわめきはちっとも消えてくれなかった。さらに加速するピックの動き。それに合わせて、後藤ちゃんは自由に音を奏で続けている。
安っぽい表現なんて、言葉にするべきではないと思った。
後藤ひとりという人間の存在すべてを、ぶつけられている。煙草の味が普段と違っているのは、そのくらいの感覚があるせいなのか。
「……惚れた。惚れたよ、後藤ちゃん」
口をついて出たのは、なににも包まれていない真っ直ぐなだけの思い。
かすかだがフレーズに揺れが生じる。ただ、それすらも気のせいだと思わせてしまうくらい、後藤ちゃんの勢いに衰えはなかった。
肺に溜まった煙を、ゆっくりと吐き出していく。
好きな色をしているはずの空。じっと見つめるシンジは、眩しそうに眼を細めている。