爽やかさの欠片もない酒の匂いが、顔の横から漂ってくる。
どうして、自分がここまで世話を焼かなければならないのか。誰かに対する優しさを捨てきれたら、こんな面倒を感じずにいられるのに。重い一歩を踏み出し、シンジはそんなことを考えていた。
結局、廣井が素面にもどることは一度もなかった。
後藤ちゃんと帰った時点で店内は品のない匂いに溢れていて、商売どころではない状態だったのだ。
ほとんど災害のような存在の女だと思った。今度やって来たら、服をひん剥いてでも酒を押収するべきなのかもしれない。というか、酒が入っている時点で立ち入り禁止の措置をとるのが一番だった。
「やー、なんかごめんね、藤原くん。介抱してもらったうえに、ここまでしてもらっちゃってさぁ」
「次やったら交番にシュートしてやるから、覚悟しとけ」
「えー、やだやだぁ。藤原くんみたいなお人好しに見捨てられたら、この世の終わりじゃない」
「って、おいこら。背負われてる分際で、あんまり動き回るんじゃない」
酔った勢いの廣井に、ばしばしと胸のあたりを叩かれている。
軽い身体。背負い直すこと自体には、なんの苦労もなかった。
まともな女性が相手だったら色々と気にする点があるのだろうが、この廣井にそれがない。ほとんどない胸のおかげで、余計な邪心は抱かずに済んでいる。そもそも酒気が強すぎるせいで、色気を感じる余地がないといった方が正しかった。
「あー。ウチまで帰るのも面倒だし、電車賃もないしで、ほんとなら藤原くんとこ泊めてもらうつもりだったんだけど」
「勝手な予定をたてるんじゃありません。このまま地面に転がしてやろうか、どうしようもない飲んだくれめ」
「ううっ、ぐすっ。ひっ、ひどいよぉ、藤原くん。私たち、昔はちょくちょく一緒に寝た仲なのに。それともあれは、ただの遊びだったっていうの?」
嘘くさい泣き真似をしながら、廣井が鼻をすすっている。
話自体は、本当のことだった。ただし、そこにあるのは青くさい物語などではないのが事実なのである。
「毎日浴びてる安酒のせいで、記憶がおかしくなってるんじゃないの、それ。深夜に押しかけてきたから仕方なく寝床貸してやったってのに、おまえは他人のウチの……」
「あ、あれれー? 藤原くん、そのこと思い出すのはもうよそっか。せっかく流した過去の汚点、掘り返すのはまずいよねぇ、あははっ!」
「笑い話じゃないんだっての、まったく」
正直、あの悲惨な光景を思い起こしたくはなかった。
床に転がる廣井。そして、べったりと付着しているアレ。
二度あることは、三度ある。それなのに押し切られてしまうのだから、自分の廣井きくりに対する弱さが嫌になってくる。
「まあまあ、とにかく今日はちゃんと帰るから、安心しなよー。でなきゃ、なんかあの子に悪いじゃない。ほら、後藤……ちゃんだっけ? 藤原くんに、すっごく懐いてるみたいだしさぁ。私みたいなダメダメな大人が若人のお邪魔とか、ちょっとまずいでしょ」
「むっ……。どうして、そこで後藤ちゃんが出てくるのよ」
嫌な感じのする笑い声が、耳のすぐそばから聞こえてくる。
公園でのひと時。即興の演奏に、ひどく心を揺さぶられたことは確かだった。
ついで出たのが、惚れたなんていう言葉。
あの瞬間の自分は、後藤ひとりのふるわす弦に、間違いなく魅入られていた。力強いのに、どこか切なさのある旋律。それに絡め取られて、短絡的な表現を搾りだすので精一杯だったのだ。
「なんでかなあ。あの子見てると、他人じゃない気がしてくるんだー。だからお姉さんとして、藤原くんにあんまり甘えたらいけないかなーって」
「いやいや。自分の状態、ちゃんと見つめてから言うべきじゃないの、その台詞。駅まで背負われてる時点で、結構なもんじゃないんですかね、これ」
「あははー。細かいとこ気にするのが悪い癖だよ、藤原くんのさ。ほらほら、立ち止まってないでれっつごー!」
「はあぁ……。気にしなさすぎなんじゃないの、そう言うおまえは。乗りかかった泥舟、最後まで漕がせていただきますけどねぇ」
「はい優しい! 藤原くんのそういうとこ、私大好き!」
ひたすらハイテンションな廣井きくりを乗せて、沈みかけの舟はゆっくりと動く。
一旦脳裏に浮かんだ後藤ちゃんの顔が、なかなか消えてくれなかった。
ちょっと凛々しくて、なにかを決意したような表情。ギターをはじめたのは、中学からなのだと言っていた。それなのにあれだけのプレイをしてみせるのだから、相当な時間を練習に費やしてきたことくらい簡単に想像できてしまう。
一気に、心の距離を詰められたような気がしていた。
あの演奏で感じた不思議な昂揚は、自分の中でしばらく燻り続けるのだろう。そのくらいの衝撃を、あの子から受けさせられたのだ。
「あの子に対する責任きっちりとりなよー、藤原くん? でなきゃ、今ここで吐く。はっ……あっ……。そ、そんなこと言ってたら、本気で気持ち悪く……うえっ」
「待て。あと十秒だけでいいから我慢しろ、廣井。でなきゃ、問答無用で後ろにぶん投げる」
不穏な気配だった。
演技なんかではなく、おそらく廣井は本気で云っている。それがわかっていたから、光速で背中から降ろし道の端に連れて行った。
「うっ、うえっ。ごほっ、かはっ……」
真意がどうあれ、この女は青少年の教育に悪すぎる。
膝に手をつき、シンジは大きなため息を洩らすのだった。