今日も今日とて、お兄さんのお店に足を運ぶ。
外に出てなにかをするよりも、安心できる場所でゆったり過ごしていたい。結構な長さに伸びた前髪を指でいじり、ひとりはシンジの姿を思い浮かべていた。
家の玄関から一歩踏み出した時には晴れ渡っていた空も、下北沢まで来るといくらか雲に覆われるようになっている。このくらいの眩しすぎない光景が、お兄さんは好きだと言っていた。
この空を見上げながら一服していると、なにより心が落ち着く。その気持は、自分にもわかる気がしていた。
「お、おじゃまします。後藤ひとり、本日もやって来てしまいました、なんちゃって……」
たまには軽い冗談でも入れてみよう。そうやって前向きになれる程度には、親しんだ場所だった。
しかし、期待していたような反応が返ってこない。
もしかすると今の私は、呆れ果ててものを言えなくなるレベルのすべりっぷりだったのか。そう考えると、恐怖で背筋が凍りつきそうになる。
入り口でかたまったまま、中の様子を見ることさえできなかった。時間の流れがあまりにも遅い。そして、周囲の酸素濃度が急激に低下しているような感じさえしていた。
「お、後藤ちゃんじゃないの。カウンター空いてるから、好きなところにどうぞ」
「あ、はっ、はい。よかった……。存在感が薄すぎて、シンプルに気づかれてないだけだったんだ……」
幸か不幸か、先程放った言葉はお兄さんに届いていないようだった。
カウンターの端に、スーツ姿の男の人が座っている。雰囲気からして、仕事の途中で休憩に寄っているのだろう。横目で伺うことしかできなかったが、年頃としてはお兄さんとあまり変わらないのかもしれない。このお店的には、結構若い部類に入るお客さんだった。
「ん、しょ……」
ひと席飛ばしで座ることなんてできるはずがないから、反対側の端に陣取った。
ギターケースを背中からおろして、壁に立てかける。お願いするものなんて決まりきっているから、メニュー表には臨時バイトの時以外ほとんど触れたことがない。
「いつもの出すけど、それでいい?」
「あ、よ、よろしくお願いします」
すでに準備に取り掛かってくれていたのか、香ばしい豆の香りが早くも漂ってきていた。
スーツ姿の男の人もここの常連なのか、コーヒーを淹れるお兄さんになにやら話しかけている。なんとなくその内容が気になってしまい、ひとりは密かに聞き耳を立てた。
「あんな若い子に手を出すだなんて、隅に置けないなあ、藤原くんも。というか彼女だってんなら、親友の俺に紹介するのが筋じゃないの」
「おまえみたいなチャラい感じの人間、あんまり得意じゃないのよ、あの子は。なんなら、さっさと珈琲飲み終えて仕事をしろ、仕事を」
「あははっ。そんな星歌さんみたいなこと言ったって、追い出されてやらないからな? というかドラムやってた頃ならともかく、俺のどこにチャラさがあるのよ。どこからどう見ても、律儀な営業マンじゃないか」
「うぐっ……。まあ、それは確かに。あー、うん、後藤ちゃん?」
彼女。そう、彼女だってはっきりと聞こえた。
お友達らしき人の言葉に対して、お兄さんは特に否定するようなことはなかった。それはつまり、やっぱり私たちの関係がそこまで深まっているということのあらわれで。
「こいつ、司馬薫。近所で仕事ある時は、毎回寄って金落としていってくれる大事なお客様。あと一応、昔のバンド仲間でね」
「ははっ、はい。は、はじめまして、後藤ひとり、です。んぐっ……。ミジンコ以下の存在感しか放てないので、親しい人からはプランクトン後藤と呼ばれていて……」
「いや、プランクトンなんて一度も呼んだことないし。とりあえず、後藤ちゃん」
「あっ、コーヒー……。い、いただきます、お兄さん」
緊張のし過ぎて、思わずおかしなことを口走ってしまう。
ひとまず、お兄さんの用意してくれたミルクコーヒーで心身を整えなくては。そうして、ひとりは淹れたての表面に息を吹きかけた。
「ふうん。面白い子見つけてきたもんだね、藤原も。あっ、ちょーっとだけこっち向いてもらえないかな、後藤さん?」
司馬さんが席を移動し、隣にまでやってくる。
落ち着きかけた鼓動が、またしても激しくなる。だけど、このくらいの状況には慣れなければならないんだ。
私はお兄さんの彼女。そうだ。彼女だったら、お友達にくらい自信を持って笑顔を向けてみろ。
「はーっ、ふう……。ふっ、ふへっ、ふへへっ……」
「いやー、初々しいねえ。俺、化粧品扱ってる会社に務めていてさ。後藤さんみたいな素材のいい子見てると、つい世話を焼きたくなるというか」
司馬さんの営業スマイル。自分が必死につくってみせたぎこちない笑顔とはまるで違っていて、あまりにも眩しかった。
どことなく顔が近い。向こうはそんなの慣れっこなのだろうが、自分にとっては息が詰まりそうになる距離だった。そのことに対しちょっと及び腰になっていると、腕がするりと伸びてくる。
「ひへっ……!? あっ……」
指。無造作に伸びた前髪をかきあげられ、隠している額が完全にあらわになる。意識。驚いたのも束の間、淡く真っ白に溶けていった。
嗚呼。せめてこれがお兄さん相手だったのなら、少しは結果も変わっていたのだろうか。消えゆく自我の中。ひとりはそんなことを考えていた。空間に、おのれという存在が溶け出していく。ひとつひとつの細胞に分裂し、浮き漂う。そして自分はやがて、宇宙の塵と消えるのだろう。
「もどってこーい、後藤ちゃん。あんまり長いと、珈琲冷めても知らないぞー」
「いやいや。どうしてそんなに冷静なのよ、藤原。つうか俺、とんでもなく悪いことやっちゃった?」
「守りましょう、適切な距離感を。おまえと会うたびこんなだったら、親友だろうと出禁にするほかないな。悲しいけどこれ、現実なのよね」
「今後は注意します、はい。ですので、どうかそれだけはご勘弁を」
お兄さんの言葉だけが、消えかけた意識の中に響いている。
そうだ。私には、もどるべき場所がある。もどって、口にするべきあたたかさがあるんだ。
「あっ、ほんとにもどってきた。ごめんね、後藤さん。ついいつもの癖で、俺ってば」
「はっ……!? そそっ、そんな……。わざわざ謝ってもらわなくても、私は全然平気ですので……」
自分という存在を確固たるものにするため、急いでコーヒーを口に入れた。
ちょっと熱い。軽くヤケドをしたような気さえするが、それすらも今は命を実感する要素のひとつになっているのだ。
「やべっ。そろそろ俺、時間だわ。これお代と、こっちは後藤さんにプレゼント」
「あっ。い、いいんですか、こんなの貰ってしまって……。私なんて、使い方すら全然知らないのに」
「いいからいいから。わからなかったら、藤原にでも聞いてみなよ。まっ、俺もそのうち、寄らせてもらうからさ。んじゃ、今日はこのへんで」
「あ、さ、さようなら……」
虹夏ちゃんと比べるものどうかと思うが、ドラムをやっているとお節介になるものなのだろうか。
色々と粗相をしてしまったが、お兄さんのお友達なだけあって優しい人だった。たぶん、肌の手入れなんかに使うであろう化粧水の入った瓶。じっと見つめながら、ひとりはそんなことを考えていた。
♪
司馬が帰ったことで、店内には自分と後藤ちゃんの二人だけになった。
飲み物を啜る音。それだけがやけにはっきりと耳に届き、なんとなくいけないことをしているような気分になってしまう。
しばらくはこの状態が続くと思い、シンジはカウンターの外に出た。ひとつ空けて、後藤ちゃんの近くの席に座る。
「あの、私なら全然平気ですので、その……」
「悪いね、なんか。それじゃ、遠慮なく」
いつもの煙草を口にして、いつものように火をつける。
その動作になにか気になるところでもあったのか、後藤ちゃんが横目でじっと観察してきている。
ちょっと照れくさいが、これも慣れだと思った。偶然つないだだけの関係。ここまで深くなるとは、自分も後藤ちゃんも考えてはいなかったはずだ。
換気扇に流れるように煙を吐く。そんな自分の様子をまたしても観察しながら、後藤ちゃんは珈琲を飲んでいる。
「あひっ。ど、どうかされたんですか、お兄さん?」
「やっ。ジャージ、ゴミついてたから」
「あ……。そ、そうでしたか。あはは、はっ……」
特になにをするでもなく、ゆったりとした時間が流れていく。
テーブルに肘をつき、手の上に頭を乗せる。そうすると、自分のことを観察していた後藤ちゃんと、はっきりと視線が交差した。
「あ、逃げた」
観察するのはよくても、されるのは絶対にだめらしい。
ジャージと同じ、ピンク色をした髪だけに視界を占拠される。触れていたずらをしたくなるような場面だが、静かに見ているだけにとどめた。
火のついた煙草が、徐々に短くなっていく。ぼんやりと考えていたことだが、これを機に改めておきたいことがあったのだ。心を揺るがすようなだいそれた出来事なんて、自分たちには必要ない。それでも、物事には必ずなんらかの順序が必要なはずで。
「後藤ちゃん」
返事がない。振り向いて視線が合ってしまうのが、どうにも嫌らしい。
限界まで短くなった煙草。付近の灰皿を手繰り寄せ、残った火種をもみ消した。しぶとく漂う残り香。焙煎された豆の香ばしさと混じり合って、独特な膨潤さを醸し出してくれている。
「ひとりちゃん」
自然に紡ぎ出した一言。
それだけで、頑なにしていた後藤ちゃんの肩がびくりとふるえた。
「おーい、ひとりちゃん」
「はひっ! え、あれ……? ほ、ほんとに私のこと、お兄さんが名前で呼んでる……?」
振り向いた後藤ちゃんの顔。眼と眼がしっかりと合っているが、今は逃げ出すどころではないのかもしれない。
言うまでもなく、大したことではなかった。ようやく気が向いて、名前で呼んだだけのこと。それだけのはずなのに、後藤ちゃんの顔色は数秒の間にころころと変わっているのである。
かわいい、と素直に思えた。
「あ、あわわ……。ひとりって。お兄さんが私のこと、ひとりちゃんって……」
昨日と地続きでいて、これからに向かってずっと伸びていく今日。
がたがたの砂利道。舗装されて整った街道。道は道でも、そこに多少の変化があったっていいじゃないか。
新しい煙草を一本取り出す。咥えると、先程とはちょっとだけ気分が違っていることにシンジは気がついた。
これにて本編完結です。
作者に音楽的素養がなさすぎるので、まさかのライブシーンなしで終わることになってしまいました。ぼざろSSなのにほんとにいいのか、これで。
とはいえ、作品の雰囲気的にあんまり劇的なイベント挟むのもなにか違うなあ、と思ったのも事実です。
ですので、最後はいつもの場所で、いつもの二人だけで締めることにしました。
とにかく、読んでくださったみなさまには感謝、感謝、感謝です。
感想、高評価はとても励みになりました。そのことについても、ここで改めてお礼申し上げます。ほんとに、ありがとうございました。
ではまた、番外編などやることがありましたらよろしくお願いします。
そっちはえっちちゃんエリアに移籍するかもしれないので、もしそうなるならお知らせします。
それではみなさま方、またどこかで。