大人の匂いのする場所だな、と後藤ひとりは思っていた。
コーヒーとタバコ。それに、かすかだが香料の存在を嗅覚が感じている。流されてついてくることになったようなものだが、広すぎない店内が意外と落ち着きをくれているようだった。壁のちょっと煤けたところも、肩ひじ張っていなくてなんだかいい。
正直、喫茶店といえばやたらとオシャレか、できる社会人の行く静かな場所というイメージが強かったのである。
カウンターに突っ伏した顔を、少しだけ上げてみる。
なるべく視線が合わないように、お兄さんの様子をうかがった。ちょっと癖のある短髪は暗い色をしていて、陰キャである自分にとって安心材料のひとつになっている。それに、エプロン姿が意外と似合う人だとも思った。
「んっ……。結構、いい匂いかも」
お兄さんが無言のままでいてくれるのが、今は本当にありがたい。知り合ったばかり、と言っていいのかわからない程度の大人の人と、二人きり。これでお兄さんが陽キャなオーラ全開であったりしたら、おそらく十秒とこの場にいられなかったのではないかと思えてくる。
ペーパーフィルターにお湯が落ちる音。それに耳を傾けているのも、案外心地がいいんだという気づきがあった。
最初よりもずっと強くなった香り。コーヒーなんて家ではまず飲まないから、それだけが不安だった。
抽出が完了したのか、お兄さんが二つならべたカップに濁った液体を注いでいる。準備がいいのは、開店前に自分用に淹れるつもりだったからなのだろう。父もそうだが、どうやら大人になると朝にはこれが付き物になるらしい。
「熱いから気をつけてな。ミルクとかは、必要だったりする?」
「あっ……、いえっ! ど、どうか、私にはあまりお構いなく。ふーっ、ふーっ、ずずっ……。あっ、にがっ……」
本音。ちょっとくらいなら我慢しようと思っていたのに、崩れる砂のように洩れていく。
軽く涙がこぼれそうになったのは、気のせいではなかったはずだ。お兄さんの顔をまともに見られない。それは最初からだったのかもしれないが、恩人の淹れてくれたコーヒーすらまともに飲めない自分が嫌になってくる。
どうしよう。ここから、どうやってこの場を凌げばいい。
ピンチから助けてもらったはずなのに、それが余計に苦しみを生むような展開になってしまっている。ミルクを遠慮したおのれが憎い。絶望の眼差しでカップの中身を見つめ、ひとりは地の底まで気を沈ませていた。
「あ、悪い。はじめてのお客さん相手だからって、ちょっと気合いを入れすぎたのかも。ほら、遠慮しなくていいから、これ」
「あひっ!? すすっ、すみません。せっかく出してもらったんだし、どうせならそのままって……。で、でも、それで気分悪くさせちゃったのなら意味ありませんよね、あははっ……」
「気にしてないって、ちっとも。それに、同じ飲むなら美味しく飲んでもらわないとな」
お兄さんが差し出したミルクの容器を受け取り、自分のカップに入れていく。
見る間に白い流れができあがり、スプーンでかき混ぜるとコーヒーが優しい色に変化していった。
これなら、と思い口をつけてみる。
「あっ、おいし……」
「ン……。なら、よかった。そういえば、名前は? あはは……。今更、聞いてなかったこと思い出してさ」
「あっ、その……。後藤、ひとりです。さっきは、あの……、ありがとうございました、お兄さん」
角の取れたコーヒーの味。そのあたたかさに背中を押してもらいながら、お礼の言葉を搾り出した。
もう一度コーヒーを口に含む。
なんというか、不思議な気分だった。窓からは朝日が控えめに差し込んでいて、店内を穏やかに照らしている。それに空間による力なのか、普段よりも自分の背中が伸びているような気がしていた。
こういうお店なら、たまには来てみたいかも。だけど、単身店の扉を開けるような勇気もない。そういうところがだめだとわかっているのに、変えられないのがコミュ障の悲しき定めなのか。
心の中で流れる大粒の涙。コーヒーのくれる熱だけが、負ったばかりの傷を癒やしてくれている。
「あっ。そういえば、お兄さんの名前も聞いてなかったな……って」
「おお、確かにそうだった。オレの名前は藤原シンジ。よろしく、後藤ちゃん」
「ご、後藤、ちゃん……?」
「あっ、悪い。初対面の子相手に、ちょっと馴れ馴れしくしすぎたか」
「い、いえっ! そんなふうに呼ばれたのって、はじめてだったのでつい……。えへっ、へっ……」
表情の緩みを止められない。
基本的に誰かと関わることなんてないし、家族以外から親しげに名前を呼ばれることなんてまずなかった。
今日だって、誰かに話しかけてもらうきっかけになればと、ギターケースをかついで遥々登校してきたのである。
登校。とう……こう? 嫌だ。思い出したくなんてない。そのプレッシャーに負けて路上でうずくまっていただなんて、恥ずかしすぎる。
「あっ……。学校、遅刻しちゃう。でも、ううっ」
店内の時計が目に入る。
急に現実に引き戻されたせいで、身体が猛烈に重くなった。もういっそ、今日は休んでしまおうか。体調がよくないのはたぶん事実だし、お兄さんという証人もいる。
だけど、ぼっちの自分にとって、一日の喪失は致命傷にもなりかねない。ノートを借りられる友人なんていないし、そもそも明日どんな顔をして行けばいいのかわからなくなる。
ああ、だめだ。負の連鎖の思考がはじまると、止まらなくなる。どうせならもう少し明るい方向にエネルギーを使いたいのに、自分から底なし沼に嵌りに行ってしまうのである。
「あるよな。逃げたいのに、逃げられないことって。時々生き方がわからなくなるよ、オレも。けど、足掻くのをやめたら人生終わりだ。そう思って、なんとかここまでやってきた」
そこまで言って、お兄さんがポケットから箱を取り出した。全面禁煙の流れになって久しいが、この店はそうではないらしい。
なにかを受け入れながらも、抗うことをやめない。そんな反骨精神を、自分も持ちたいとひとりは思う。
「ごめん。一本だけ、いいかな」
「うっ……。タバコの匂いがつくのは、さすがにまずいかも……? あっでも、それで学校行くのもなんかかっこよかったり? でっ、でも、先生に指導されるのは怖いし、家族に迷惑かけるのだってやだし……」
「どうする後藤ちゃん。このままだと、悪い大人によくない教育を施されちまうぞ?」
百均なんかで売っているライターを手の中で遊ばせ、お兄さんは口にタバコを咥えている。背中を押そうとしてくれているのが見え見えで、ひとりはなんだかおかしくなってきてすらいた。
それに、今日の自分はもしかしなくても絶好調なのではないか、という自信がふつふつと湧いてくる。こんな朝から知り合ったばかりの人とまともに会話できているし、これなら思い描いた学校生活を送ることも不可能ではないとすら思えてくるのだ。
「よっ、やってるー?」
「ひっ!? わわっ、うええぇ……」
扉を勢いよく開けて、女の人が入ってくる。
金色の髪が腰まで伸びていて、眼の鋭さも普通ではなかった。
まさか、これが真の悪い大人なのか。店員でもないのに来客に怯え、ひとりは身体を縮こまらせている。
「あ? 誰、その子。あんたまさか、ついに人さらいを……」
「おいおい。年下の子をあんまり怖がらせないでよ、星歌さん。体調が悪そうだったんで声をかけたんだが、もう平気になったそうでね。なっ、後藤ちゃん?」
「ああっ、は、はい。お兄さんには、大変お世話になっております」
「そうなの? まっ、なんだっていいんだけどね、私は。それより、いつものやつ」
星歌さんと呼ばれた人が、カウンター席の端を我が物顔で占領している。
お兄さんとは気軽に話せる仲のようで、常連感の強い注文のやり方からもそれが容易く理解できる。
「なんか、かっこいいかも……」
「なに? 私に、なんか言った?」
「いええ!? な、なんでもないですうぅうう!」
無理だ。この手の人は、シンプルに怖すぎる。
きっと、自分なんかが付き合える類の人間ではない。今後出会うこともないだろうし、今すぐこの場から消えてしまいたくなる。
また時計が眼に止まった。針は刻一刻と時間の経過を示していて、焦燥感を煽り立ててくるのだ。
今からなら、走れば多少の遅刻でどうにかなる。カップに残っていたコーヒー。勢いで飲み干し、ひとりは勢いよく立ち上がった。
「あの、お兄さん」
「また、いつでも。そう毎回は、サービスしてあげられないかもしれないけどね」
「は、はいっ!」
また、ここに来てもいい。
外に居場所をもらえたことが、なにより嬉しかった。でも、いつでもこの店はこんなにも閑散としているのだろうか。それはそれで心配になるし、だからといって盛況なのは自分にとっていい環境ではないのである。
「いってらっしゃい、後藤ちゃん」
「いい、いってきます、お兄さん」
ぎこちなく挨拶を交わし、扉に手をかける。
山あり谷ありの冒険を、自分は乗り越えることができたのだ。だから、きっと。
「うあっ……。ま、眩しすぎるっ……!」
鉛色だった空から晴れ間が差し込み、ビームのような陽光が地上に一筋降り注ぐ。これでテンションを下げてしまうのだから、やはり陰キャは陰キャのままだった。
一度だけ店内を振り返る。
お兄さんは咥えたタバコに火をつけて、さっきの常連さんに意識を向けようとしている。
「あっ、えへへ、えへっ……」
交差する視線。
重くなりかけていた足が軽くなるのを感じて、ひとりはついに駆け出した。