そういえば、結局ギターの話をしていなかったな、とシンジは洗い物をしながら思っていた。
あのなりで下北沢にいたのだし、よもやバンドでも組んでいるのだろうか。だとしたら、どこかのライブハウスで出会う可能性もゼロではないのかもしれなかった。とはいえ、後藤ちゃんのあの感じでは、舞台はおろか学校の授業ですら人前に立つ姿が想像できないのもまた事実なのである。
あれから、あの子は無事登校することができたのかな、なんて考えてしまう。
気まぐれで声をかけただけのギター少女。過ごした時間は短かったのに、やけに印象深く刻まれているのはどうしてなのか。
控えめなベルの音。誰かが来店したことを、知らせる音だった。
シンジが入口に視線を向ける。立っていたのは近所のおっちゃんで、夕方になるとほとんど毎日珈琲を飲みに来てくれている。
「いらっしゃい、おっちゃん。今日も、いつものやつでいいかな」
「ああ、頼むよ。それよりシンジちゃん、ちょっとアレなんだけどさ」
おっちゃんがカウンターの定位置に腰かけ、こちらに身を乗り出した。手。口もとに添えられている。たぶん、大声で言えないようななにかがあるのだろう。そうしたなんでもない世間話に付き合うことも、この時間の愉しみのひとつだった。
「あんまり大きな声で言えないけどさ、なんかやばそうな子が店の前立ってたよ。どうにかしないとまずいんじゃない、あれ」
「へっ? う……。あの、それってもしかして」
やばそうな子、と聞いて連想するのも失礼なことだが、思い浮かんだ可能性を否定することなどできなかった。
ピンク色のジャージ。眼まで覆うような、長い前髪。それに、背負っているかもしれないギターのケース。そのあたりの特徴を教えて、シンジは返答を待っている。
「あっ。そうそう、そんな感じの女の子だったよ。……まさかシンジちゃん、あんな若そうな子に手を出したんじゃないだろうねえ?」
「危ない冗談はやめてくれよ、おっちゃん。後藤ちゃんって言うんだけど、一昨日の朝たまたま知り合ったような子でさ。悪いけど、ちょっと様子見てくるわ」
「はいよ。ならこっちは、夕刊でも読んで時間潰すかねえ」
畳んで持っていた新聞を広げ、おっちゃんが自分の世界へと入っていく。
濡れていた手をタオルで拭き、シンジが入口の方へ歩きだす。また来てくれそうな予感がないわけではなかったが、想像していたよりもずっと早い。
ゆっくりと扉を開ける。視界にいきなり飛び込んできたのは、ピンク色をしたなにかだった。
「と、溶けてる、後藤ちゃんが……?」
「嫌だ、バイトなんて。私みたいなコミュ障には絶対無理。やだ、やだやだやだ……」
内容こそ明瞭ではなかったが、呪詛のような声が洩れ聞こえている。
それが溶けたピンク色の物質からしているのだから、シンジは自分の正気を疑いたくなっている。
「あっ、お兄さん……?」
ピンク色をしたなにかが起き上がり、後藤ひとりの姿を形どっていく。
きっと幻想かなにかなのだろう、と頭を振った。後藤ちゃんはバツが悪そうに苦笑していて、やはり目線を合わせようとはしてくれなかった。
「やっ、後藤ちゃん。あれから、学校には間に合った?」
「は、はい、それはなんとか。えと、それで……」
「とりあえず、入ろうか。再会記念に、ミルクコーヒーごちそうするよ」
「あっ、ありがとうございます、お兄さん。へっ、へへっ……」
ちょっと怪しい笑い声と一緒に、後藤ちゃんが後ろから着いてくる。
どのくらい、ここで佇んでいたのだろうか。気づいたおっちゃんが教えてくれていなければ、まだまだ待たせたままになっていたはずだ。
連絡もなにもしていないのだから仕方がないのだが、嘆息する後藤ちゃんを見ているとなんとなく申し訳なってくる。
「あっ、あの、なんとかお店に入ろうとはしたんですけど、どうしても勇気が出なくて、その……」
「あははっ。これなら、連絡用にロインできるようにしておくべきだったのかも」
「ロイン……。あっ、そ、それ、いいです。そしたら、あんなに悩む必要もなくなるし……」
「んっ、まじなのか、後藤ちゃん。だったら、ほら」
「あっ、うへへっ……。最近の私、すごく進歩できてるよね。バンドも組めたし、家族以外の連絡先もこんなに……。そ、そろそろ、陰キャの最下層から卒業できちゃうかも」
スマホを取り出して、ロインの連絡先を交換する。
長い独り言は上手く聞き取ることができなかったが、後藤ちゃんが喜んでくれているのは間違いないようだった。
新聞の端から見てくるおっちゃんの視線が少し痛い。そりゃあそうか、とシンジは心の中でため息を洩らしていた。
今年で、二十七になる。
そんな三十路の領域すら見えはじめている自分が、学生の子と私的な連絡先を交わしている。あまり考えたいものではないが、これから様々な部分で昔の感覚とは違ってくるのだろう。
「あの、私そこの秀華高校に通っているんですけど、違う学校の子に誘ってもらって、その……」
「誘ってもらって……。って、もしかしてバンドを?」
「そそっ、そうなんです! ううぅ……。そのこと自体はすごく嬉しかったんですけど、活動費が結構いるみたいで」
「ああ、さっきの呪詛はそれで」
そういえば、バイトがどうのと言っていたような気がしてくる。
売れないバンドの苦しさは、十分に知っているつもりだった。練習用のスタジオを借りるのにも金がかかるし、ライブハウスでの出演だってタダでとはいかない。
「じゅ、そ……?」
「やっ。気にしないで、こっちの話だから」
「あっ、はいっ……? あの、それで来週からバイトをすることになったんですけど、それが嫌で嫌で」
なるほど、とシンジは頷いた。
バンドを組めたこと自体は嬉しくても、それに付随してくる部分が後藤ちゃんにとっては苦痛でどうにもならないのだろう。
晴れて、かわいい後輩になったと言うべきなのだろうか。演奏を聴いたわけでもないから、実力のほどはわからない。とはいえ、後藤ひとりという少女には、他にはない魅力のようなものが備わっている感じもする。
バンド活動をドロップアウトした自分なんかが、偉そうに導いてやれることなどなにもない。それでも、街の片隅からエールを送ってやるくらいの権利はあってもいいはずだ、とシンジは思う。
「あっ。もしかして後藤ちゃん、ウチでバイトしたいとか思ってたり?」
後藤ちゃんが勢いよく頭を上下に振っている。結構なキレがあるし、これをパフォーマンスにするのもありなのではないか、なんて提案したらこの子はどんな顔をしてくれるのだろうか。
「とりあえずライブハウスでって話になっているんですけど、お、お兄さんの店なら人も少なそうだし、優しくしてもらえそうだしいいかなって……。あっ、あのお姉さんはちょっと怖かったけど……」
「ぐぅ……。さらっとひどいこと言ってくれるね、後藤ちゃん。事実だから言い返せないのが、さらに悲しいんだけど」
「ああっ、ご、ごめんなさい!? でも私、ここの雰囲気がほんとに落ち着いて、だから……」
会話が聞こえていたのか、おっちゃんが憐れむような微妙な笑みを向けてくれている。
そうだ、自分の店にだって、贔屓してくれるお客さんがいる。だからこそ、挫けてなんていられない。
「むむむ……。大船に乗ったつもりでいてくれ……、と言ってやりたいところなんだけど、これがねえ」
「あっ。や、やっぱりだめですか。へっ、へへっ。そうですよね。私みたいな根暗コミュ障になんて、喫茶店のバイトはハードルが高すぎたんだ……。絶対注文間違えちゃうし、そもそも確認でお客さんとトラブル起きそうだし。ははっ、あははっ……」
まずい、と思った時には後藤ちゃんの輪郭が溶けはじめていた。
慌てて崩壊を押し止め、合わない視線をなんとか合わせようとした。見惚れるような輝き。それがあるわけではないが、きれいで澄んだ眼だと思った。
後藤ちゃんが肩をふるわせ、自分の言葉を待っている。場面に似つかわしくないくらいの重い空気が、二人の間には流れていた。
「ご明察の通り、この店あんまり余裕がないからさ。普通に雇ってあげられればいいんだけど、今のオレにそんな力はないんだ」
「あっ……。お、お兄さん」
「だけどまあ、たまにくらいならいいかな? それに、店にはいつでも遊びに来てくれたらいいからさ。ロインだって、せっかく交換したことだし。そうだ、よければ今度、メンバーの子も連れてくればいい。かわいい後輩ちゃんたちなんだ、ご飯くらい提供させてもらうよ」
「かかっ、かわいい……? あっ、うへへっ……。そ、そんなこと言ってもらうの、お兄さんがはじめてで……。うぐっ、あっ……。い、息がとまりそう」
照れていた後藤ちゃんの顔が、いきなり青くなる。
驚いて水を差し出すと、中身が一気に消えていく。よほど苦しかったようで、ひと息ついた頃には後藤ちゃんは灰色になっていた。
「あっ。も、もしかしてなんですけど、お兄さんも昔バンドを?」
「そっ。最終的には、みんな現実社会に戻ったけどね。楽じゃないよ、売れるのも」
「で、ですよね。なのに私、バンド組んだくらいで浮かれてしまって、それで……」
おっちゃんの分の珈琲も準備しながら、後藤ちゃんとの会話を続けた。
明るくない過去をここでひけらかすのもあれだが、それも現実のひとつではある。
「けど、走り抜けたことに後悔はない。後藤ちゃんたちのバンドは、はじまったばかりなんだろ? だったら、未来がどうなるかなんて誰にもわからないじゃない。今を愉しまなきゃ、損だよな」
「あっ、はいっ。もっともっと、みんなといい演奏ができるようになりたい、です。それでメジャーデビューして、高校中退……!」
「うん。いいじゃない、夢があるって。だったら、あとは突っ走るだけだ。な、後藤ちゃん」
後藤ちゃんの眼が燃えている。
暗いだけではなく、こういう表情もできる子なのだとシンジは思った。
「あっでも、バイトはやっぱりやだ……」
情熱が一周回って、後藤ちゃんを真っ白になるまで燃やし尽くしたのか。
まるで、保護者にでもなったような気分だった。
燃え滓でしかない自分にも、なにか出来ることがあるのかもしれない。ひとりのカップにミルクを注ぎながら、シンジは優しくほほえんでいる。