もしこれが夢であるなら、一刻でも早く覚めてほしかった。
お馴染みになりつつあるミルクコーヒーを、慎重にすする。ほのかに感じるほろ苦さ。まるで、自分の心の内を表現してくれているようではないか、などとひとりは嘆息しながら感じ入っていた。
どうしよう。冷静になればなるほど、お兄さんの顔をますますまともに見られない。
表面上はなんでもないように装っているが、あれで引かない人なんているはずがなかった。いくら返事が来ないからって、延々とメッセージを送信し続けるのは完全にヤバイ子のそれでしかない。
というか、どうしてこの店に喜多さんがいるのだろうか。気になることは山のようにあるのに、何ひとつ自発的に聞くことなどできない。これが長年拗らせてきたコミュ障の性。抗いようのない、ぼっちの原罪。
「ふへっ……。うっ、へへっ……」
もはや、乾いた笑いしか出てこない。
自分で見返してみても悪寒の走る山積みになったメッセージ。お兄さんの返してくれた『ほんとごめん』という短文が、猛烈に涙を誘う。
嗚呼。今すぐにでも、世界から消えてしまいたい。
普段はダメなブラックコーヒーの真っ直ぐな苦味が、恋しいくらいだった。
抑圧された思いが、詩となって紡がれる。ほとんど無意識に、ひとりはギターを取り出して構えていた。
「……聴いてください。後藤ひとりで、ひとりぼっち哀歌」
嗚呼。世の中は、どうしてこんなにも無情なのか。
自分に応えてくれるのは、冷たく張りつめたギターの弦だけ。それもいつかは錆つき、捨て去る日が来てしまうのさ。
「あれ。上手いじゃない、後藤ちゃん。この前のは、雨で湿気って調子悪かっただけ、とか?」
お兄さんの声がする。
はっとして顔を上げた反動。思いっきり眼が合ってしまっているが、なにも言葉が出てこない。意味のない歌詞なら流れるように紡げるのに、どうして自分はいつもこうなのか。
「ねっ、あなた二組の後藤さんよね? というか、後藤さんが伊地知先輩の言っていたぼっちちゃん?」
「あっ。は、はいっ。先ほどは、私のクソみたいな歌でお耳を汚してしまいすみませんでした……」
「えっ? 別に私、そんなことは少しも……」
太陽のように明るい喜多さんの表情すら、ぼっちオーラのせいで陰らせてしまっている。
心が重い。そろそろ、自分のいる一角だけが地盤沈下してしまうのではないか。そう錯覚しそうになる程度に、ひとりはロインで受けたダメージを引きずっていた。
「ふうん。喜多ちゃん、ぼっちちゃんのこと知ってるんだ」
「はい。今日一日、背後霊のように付きまとわれていましたから。後藤さん、話しかけようとするとすごい反応速度で消えちゃうんですよ? あれって、なにかの特技なんでしょうか」
いえ、違います。バンドに誘おうとしていただけなのに、陽キャオーラに慄いてつい逃げ出してしまったんです。そうやって白状できれば、どんなに楽なことなのか。
冷めないうちに、とミルクコーヒーに口をつける。この優しさだけは、永久に変わらないでいてほしい。安らぎをくれる一杯。お店の雰囲気や匂いも、そこに一役も二役も買っている。
そもそも、喜多さんとみんなの関係はどうなっているんだろう。知り合いであることは明白だし、お兄さんともなんだか親しげなのである。
会話を続ける虹夏ちゃんと喜多さんを、横目で盗み見た。その向こう側。リョウさんは、コーヒーカップを片手に孤高の世界に入り込んでいる。
「ねえ、喜多ちゃん。よかったらさ、バンドもどってきなよ。ぼっちちゃんが加入してくれて、さあこれからだぞ、って感じになってきてるんだ。楽しくなるよ、きっと」
「伊地知先輩……。あ、あのっ、信じてもらえないかもしれませんが、私だって抜け出したのは不本意だったんです。だけど、ほんとはギター弾けないってこと、リョウ先輩に知られたくなくて、それで」
やっぱり、そうだったんだ。
話を聞くにつれ、段々と事情が飲み込めてくる。なんの因果か、自分は結束バンド加入のきっかけを生み出した、『逃げたギター』のことを追っていたようだった。
「そんなの、どうだっていいよ。弾けないなら、これから弾けるようになればいい。……ぼっちだって、この前のはひどかったし」
「最後の一言さえなければ、完璧だったのになあ。けど、山田ちゃんの言うとおりじゃない。今も背負ってるってことは、ギターやれるようになりたいんでしょ? だったら、このチャンスを逃していいはずがない」
「リョウ先輩。それに、店長さんまで」
いい雰囲気が出来つつあるのに、この疎外感はなんなのだろう。
喜多さんの放つオーラ。輝きは増していて、今や直視できないまでになっている。
「だったら、思いきって後藤さんにギターを習ってみようかしら。さっきの演奏、すごく上手だったし」
「えっ。わ、私、ですか……?」
「あっ……。ごめんなさい、もしかして迷惑だったりする? でも、後藤さんがダメとなると私どうすれば……」
喜多さんが困り果てている。
個人での練習時間とか、バイトやその他諸々との兼ね合いを瞬時に考えてしまい、微妙な顔をしてしまったのだ。
苦笑する虹夏ちゃん。
なにかいい作戦でもないかぎり、バンドのためにも自分が声をあげるしかない。そうして、ひとりは珍しく腹をくくろうとしていた。
「うーん。だったら、シンジさんの力を借りるしかないのかなあ? あたしも昔、遊びで教えてもらったことあるし」
「シンジさん? あっ、もしかして店長さん、以前はバンド活動をされていたんですか?」
「まっ、一応ね。しかしまあ、オレが先生なんてねぇ……」
「よかったね、お兄さん。これでさらに、合法的にJKとスキンシップをとれることになるよ。あっ、私もたまには様子を見に行くから、その時はつまめるお菓子でも用意しておいていただけると……」
「もしそうなっても、リョウには絶対行かせないから安心しておいて。喜多ちゃんほったらかして、お菓子貪る未来しか見えないから」
自分が返事を濁したせいで、事態があらぬ方向に転がろうとしていた。
お兄さんが、喜多さんのギターの先生になる。ちょっと考えてみただけでも、どうしてか胸が苦しくなった。
浅くなる呼吸。同時に、動くなら今しかないという思いが強くなる。頭の中はほとんど真っ白で、理性の働く余地なんてどこにもなかった。
授業中でもしたことのないような勢いで、右手を上げる。そのおかげで、喜多さんたちの視線が自分に集まった。
「そっ、それは、ダメぇ……です。お兄さん、お店やってて忙しいし、これ以上甘えてしまうのは、えとっ……あんまりよくない……んじゃないでしょうか。だ、だから、私と練習しませんか、喜多さん。絶望的にコミュ障患ってるせいで、教えるのあんまり上手くないかもですけど……」
喜多さんの大きくて輝きのある瞳が、じっと見つめてくる。
沈黙が怖い。なんとか耐えようと、ひとりは膝の上で拳をつくった。自分なんかが、でしゃばりすぎたのがいけなかったのか。喜多さんだってこんな陰キャ丸出しの女とより、お兄さんに教えてもらいたいはずなのだ。
だけど、とひとりは唇を噛み締めた。
こんな自分でも、結束バンドの未来のために、できることがあっていいはずだ。お兄さんの言っていたように、今は夢の先まで駆け抜けるしかない。だから、このくらいのことで挫けてなんかいられなかった。
それに、お兄さんと静かに過ごせる時間が気軽に取れなくなるのは、自分にとってマイナスでしかない。この宣言には、それを死守する目的も確実に含まれていた。
「いいの、後藤さん? 私こそなんにもわかってないから、迷惑かけてしまうかもしれないけど」
「へ、平気です。それに喜多さん、バンドにもどってきてくれるん……ですよね? だったら、なおさらみんなで……」
「あ、あはは……。どうしてかな。とっても嬉しいはずなのに、私感動してしまって」
喜多さんが、笑顔のまま指で目許を擦っている。
虹夏ちゃんもなんだか嬉しそうにしていて、なけなしの勇気を振り搾ってよかったと思えてくる。
そこにちょっとしたワガママがあるかどうかなんて、きっとどうでもいいことなんだ。
「よかったね、郁代。ぼっち先生のボリューム満点の胸、遠慮なく借りるといい」
「郁代? ああ、それが喜多ちゃんの名……」
さり気なくセクハラを差し込んでくるリョウさん。そして、続いてお兄さんが郁代という名前を出した途端、感動していたはずの喜多さんが物凄い勢いで立ち上がった。
驚いて、思わず大事なミルクコーヒーをこぼしそうになってしまう。カップを両手で包むように支え、ひとりはほっと胸をなでおろしている。
「あ、あはははっ。お、思い立ったが吉日って言いますし、さっそく練習に行きませんか、伊地知先輩!?」
「へっ? ちょ、ちょっと喜多ちゃん」
どうしたんだろう。
喜多さんの動揺は収まる気配がない。さしもの虹夏ちゃんもこの反応は予想外だったようで、周囲に視線で助けを求めている。
「いいんじゃない、妹ちゃん。やる気なんて、ないよりあったほうが絶対いいんだから」
「むう……。しょーがないなあ、喜多ちゃん。ほら、リョウも行くよ」
「えっ。私まだ、タダ飯にありついてないのに」
「知るか! あたしだってよくわからないけど、原因の九割はリョウみたいじゃない。だったら、付き合うのが筋ってもんでしょうが」
「あ……。助けて、お兄さん。眼の前にいる不幸な美少女のこと、放っておいてもいいの……?」
リョウさんがお兄さんに泣きついている。演技は謎に堂に入っていて、眼にはうっすらと涙すら浮かべていた。
「いってらっしゃい、山田ちゃん。また今度、なにか用意しておくから」
「聞いた? 言質ゲットしたよ、虹夏。これで、堂々とご飯たかりにきてもいいよね」
「はあ……。ごめんなさい、シンジさん。うちの金欠ベーシストが、ご迷惑をおかけして」
「いいって、そんなの。山田ちゃんが飲み食いした分は、きっちり身体使って返してもらうからさ」
「お、お兄さんの鬼畜……。いたいけな私に対して、なんて非道なことを……」
「そ、そうですよ、店長さん。いくらリョウ先輩が魅力に溢れてるからって、そんな……」
「雑草食うような女の言うセリフか。というか喜多ちゃん、身体使うってバイトのことだからね!?」
みんなの軽妙なやり取りが、ちょっとだけ羨ましい。
自分は端の席で残ったミルクコーヒーをすすりながら、楽しそうな様子を眺めていることしかできないのだ。
「あっ、ごちそうさまでした、お兄さん……」
とにかく、お礼だけはきちんとしておかなければ。
カップをそっと前に差し出し、頭を軽く下げる。正直もう少しゆっくりしていたかったが、自分からギターを教えると言った手前逃げ場はどこにもない。
「そうだ。ぼっちちゃんは、しばらくのんびりしていきなよ。あたしたちは先にお店行って、準備してるから」
「えっ。いいんですか、虹夏ちゃん」
「いいからいいから。んっ……。ぼっちちゃんが頑張ってくれたご褒美、って言うには他力本願すぎるかな」
そう言って、虹夏ちゃんがお兄さんに笑いかける。
いいのかな、ほんとに。そう思いながら様子をうかがっていると、お兄さんが小さく頷くのが見えた。
「あっ、も、もうしばらくご厄介になります、お兄さん」
「よろこんで。ロイン無視した埋め合わせ、オレもしておきたかったんでね」
「ロイン……。あっ、その節は大変なご迷惑をおかけして……」
「やっ、いけなかったのはオレのほうだっての。だから、顔あげてよ」
「んっ……。うっ、ふふっ」
みんなの前で頭を撫でられてしまっている。かぎりなく恥ずかしい状況。それなのに、おかしな声が出てくるのを抑えられなかった。
「ほら、行きますよリョウ先輩」
「ぐええ……。た、助けて、ぼっち……」
喜多さんに引きずられるようにして、リョウさんがお店から退去させられていく。いろいろなことが起きた日だったが、これは結果オーライだと言っていいのではないか。
お兄さんの手の感触が心地いい。何度でも、いつでも感じていたいと思った。
顔を伏せた状態でほほえむひとり。その心には、あたたかな感情が確かに宿っている。