濁心スカジが目覚め、ロドスが滅び、テラの大地が海色に溶けて、恐魚とシーボーンが全て宇宙へと消え去って、濁心スカジと同族と化したドクターしかいなくなった世界の一日。
やったねミヅキくん!大好きなドクターがキミの同族になってくれたよ!!
悲しい
口の端から小さな泡が立ち昇って、少し意外に思った。この体の中に、まだそんなものが残っていたとは。けれどそれも急速に昇って行って、すぐに見えなくなってしまう。
ぼうっと視線を上げると、美しいステンドグラスが見えた。淡く差し込む青の光に包まれて、元の色から変わってしまっている。
太陽が随分と小さい。かつて見上げていた頃よりも空の青は深い。陽光は蒼く濁ってしまっていて、眩しいとも思えない。
ふと、黒い影が空を遮る。
夜が来たわけではない。視界を覆い尽くしたのは、よく知っている、誰かもわからぬ女の顔だった。
“それ”は希釈された喜びの笑みを口元に浮かべている。瞳は赤い―――深い水底の底にあってなお、青よりも鮮やかで、藍よりも昏く。もはや何者にも塗り替えられない、この海だいちにただひとつ残った色。
「眠っていたの? 夢を……見ていたのかしら、ドクター?」
「嗚呼……」
口にした言葉が返答だったのか、意味のない声なのか、それとも詠うたおうとしていたのか、自分でも判別できない。
遥か過去、海に沈んだ聖堂の長椅子に、体を重ねるようにして横たわったふたりは、無音の中で見つめ合った。
赤い瞳の女は、ドクターの波間に揺れる長く伸びた白い髪に指を差し入れる。
銀しろみがかった白髪は、かつてのそれよりも儚く美しく、主を包み込むかのように広がっている。
手櫛に逆らうことはなく、するすると通り抜けていった指先。赤い瞳の女は緩やかに手を戻し、ドクターの頬に触れた。
傷ついた真珠のような白い瞳が、赤い瞳の女をぼんやりと見つめ返す。赤い瞳の女は、水中で水の振動を感じ取るように、ドクターの心を読み取った。
「そう……寂しくて、悲しいのね。もうこの世界には、私とあなたしかいない。それが忘れられないのね。海がもっと浅かった頃のことが……あの
ドクターの瞳が、潤んで揺らいだ。水面に雨粒をひとつ落としたように微かな情動。指の間をするりと抜ける泡のような心の動きは、ほどなくして収まってしまう。
優しく、優しく、赤子をあやすような手つきが、僅かに残ったものを削ぎ落していくみたいだ。
全てが霞み、ぼやけている。思い出せないのに、忘れられもしない記憶が、ドクターの髪をさざ波立たせた。
赤い瞳の女に呼びかけられるたび、自分の深いところから、湧き上がってくるものがある。
言葉、景色、表情―――だったはずのもの。今はもう、はっきりと思い出すことはない。掠れた光景、意味をなさない音としか認識できない。それなのにまだ、ずっと消えずに残っている。
悲しい歌が、聞こえる気がする。
赤い瞳の女は、ドクターの白い手を取った。ドクターはその所作が、自分の深い深い記憶の闇の底にある誰かの模倣であると気付いた。
誰だったのか、いつのことなのか、何度あったことなのか、何もわからない。ただ、“かつてあったこと”とだけ。それもまた、彼女の手のひらに溶けだしていくようだ。全て吸い上げられて、奪われていく。
安息など感じない。けれど不思議と、恐怖や絶望もなかった。最後に残った岬から枯れ果てた目で青色に沈んだ世界を見渡し、倒れるように身を投げたあの日。腐食してしまった心は全て、目の前にいる彼女に、彼女だったものに食われてしまったのだろう。
もう自分には、何もない。身を守るためにあった衣服は、沈んでいく間に彼女が軽く触れるだけでほどけるように消えてしまった。今や、彼女の髪から編まれた白いドレスが身を包む。柔らかい氷の如き口づけに、体の中を流れる全てを吸い上げられた。
かつて海に呑まれ、海に溶かされ、海そのものとなった、“ドクター”だったものの成れの果て。だというのに、彼女は自分をドクターと呼び続けている。
皮肉のつもりだろうか? きっと違う。彼女には、他に名付けようがないのだろう。自分が彼女を、まだ“スカジ”と呼ぶように。
「スカジ……?」
「どうかしたの、ドクター」
「……そこにいるなら、君の歌を聞かせてほしい。君の声が……聞きたい」
「ええ、もちろん。ここには私とあなたしかいないのだもの。いくらでも歌ってあげるわ。何度だって、あなたひとりのためだけに」
赤い瞳の女は身を引くと、ドクターを横抱きにして、頬と頬を合わせて歌い始めた。母が赤子にそうするように。
ドクターは目蓋を閉じた。体が無数の泡となって散るような感覚が心地よい。
自分だった泡のひとつひとつが、彼女の歌によって震わされ、満たされていく。
かつては、ただ聴くだけしかできなかった歌。今はその意味までもが読み取れる。
悲しい