エイプリルフール記念投稿です。
旧い過去、赤銅色の髪をした彼が未熟な若造だったころ、ある小説家との出会いが全てを変えた。
未熟な若造は十四の少年で、殺しを生業としていた。
対して、出会った小説家は女性で──。
見蕩れてしまうほど凛として美しい人だった。
雨の降る日のこと。閑古鳥が鳴き、珈琲一杯で閉店まで居座らせてくれる寛容な喫茶店。赤銅髪の少年はそこで雨に濡れないよう、自分自身よりも大事そうに二冊の本を抱きかかえて店のドアを開ける。いつも座っている席が空いていたため、彼は腰を落ち着けて一杯の珈琲を注文した。
少年、のちにポートマフィアに所属することになる凄腕の拳銃遣いにして異能力者、織田作之助は十四の時点ではまだ己が為したいと渇望するものを見出してない未熟者だった。
織田作之助は珈琲が来たことに気づかず、冷めるのもそっちのけで本に見入られる。古い本だ。装丁は擦り減り、角が破けていた。印字は古い型式で、文字がところどころに掠れている。
文脈を追うのにも苦労するほどだ。
しかし、少年は心底楽しそうに次の頁をめくった。
その本との出会いは、ある暗殺依頼の仕事先でのことだった。標的は、とある政治家であり、いかな護衛がいても楽にこなせる依頼とたかをくくっていた。
しかし、その暗殺は見事に大コケすることになる──。
猟犬部隊。異能力者を集めた軍警の誇る最強の対異能力者部隊。
その頭目、最強の異能剣士。
それが偶々、護衛をしているところにかち合い、木っ端で未熟な異能力者の少年は這う這うの体で逃げ出した。いや、逃がしてもらったというべきだ。少なくとも首をはねられていないことが奇跡といってもいい。
未来を切り裂き、過去に情報を送る異能武器。常人、あるいは下手な異能力者であっても為す術はないだろうが、相手となったのはたった五秒という制限あれど同じく未来へ手を掛ける異能の持ち主。織田作之助は奇跡的に能力の相性が良かったために逃走を成功させてみせた。
けれども依頼を失敗し、手傷まで負う始末。このままでは割りに合わないと、少年はとっさに値打ちのありそうなものを盗み出そうとして、それすらも失敗した。
猟犬の長の追撃を未来予知で掻い潜りながら、金目のものを選んで逃げるなんて、どう考えても不可能である。結果、死に体で少年が屋敷から持ち出したのは、何の変哲もなく値打ちも無さそうな古びた本だった。
古い上に、盗めたのは上巻と中巻のたった二冊。下巻が揃っていれば、多少は値打ちも期待できたろうにこれでは売り払うのも難しい。買取手数料よりも売値が安くつけば、悔しさで舌を噛み切ってしまう。
仕方がない、と諦めを付けて、少年はその本を暇つぶしに読み始めた。ある種、何らかの因縁を感じてしまったのかもしれない。
本を開くと、文字は城壁のように並び立てられ少年の本を読まんとする意気をくじこうとする。だが、少年も意固地になったのか、文字の群と真っ向から挑み、見事に心を奪われた。
本の中身は、ある街を舞台とした小説で、群像劇という分類の小説だった。
多くの登場人物の生き方、信念とめぐり合わせ。それらが綺羅星のように小説の段落ごとに散りばめられていた。登場人物たちは皆ちっぽけで、人として弱く、超然としているくせにありふれた悩みと向き合いながら物語を非常に魅力的な形で回していく。
孤児を助けようとする自殺志願者に、伊達で格好を付けたがる
そして、小説家になりたいと夢見る殺し屋。
少年は物語の展開に没頭し、登場人物たちの右往左往に心を揺さぶられ、小説を読み進めていった。
気が付くと上巻、中巻はあっという間に読み終えていた。
それから──。
暗殺者としての裏働きが片付くと、いつもの喫茶店で窓際のお気に入りの席に着き、じっと本を読みふける。それが習慣になり、日常に解け込むのに大して時間はかからなかった。繰り返し、繰り返し、本を読み込んでいく。本の中身をそらで思い出せるようになっても、頁を拓くことに意味があるのだと言わんばかりに何度も本を読み直した。
二冊の本はあまりに素晴らしかった。
本自体に不満は無い、いいや、満足しか無かった。
唯一の文句を付けるとすれば、下巻が読めないことだろう。
本は既に絶版となっているのか、下巻はおろか上巻、中巻とも滅多に巡り合えない。手元にある二冊だけしか、この物語に触れることはできないのか、と少年は少し残念そうに日課の読書をいつもの喫茶店で楽しんでいる。普段通りの日課、いつも通りの日常、これがしばらくは、自分が息をしている間は続くのだろうと思っていたゆるやかな時間。
でも、雨の日に訪れた女性によって時計の針が僅かに進むこととなる。
閑古鳥のなく喫茶店に珍しく客が訪れた。いつもは客が何も注文しなくとも文句ひとつ言わない寡黙な店主が、訪れた客を見るや恭しく頭を下げて何ごとか感謝を告げていた。珍しいこともある、と思ったわたしは好奇心にそそのかされる。
“どのような客人なのだろうか?”、と。
本を読む手が止まる。
しおりを挟み、わたしが振り返るとそこには山ほどの本を抱えた女性が店主の感謝をぞんざいに受け取り、楽しそうに微笑している。顔は積み上げられた本で隠れて年齢が読めない。ただ、立ち居振る舞いが落ち着いていることから、子供ではないということは分かった。頭をあげた店主は女性の荷物を持とうと提案していたが、女性はそれを固辞し、わたしの目の前の席へ腰かけた。
彼女が珈琲を頼むと、その注文に張り切った店主はすぐさま厨房へと急ぎ向かって行った。相手が女性なら、ああも分かりやすくやる気になるものなのか。この店も通い続けてそこそこになるが、はじめて知った。
こちらに背を向けて珈琲を待つ女性はあまりに隙だらけで、手を下そうと思えば易々と銃弾を撃ち込めそうなほどだった。無論、そんなバカげたことはしない。馴染みの喫茶店が使えなくなるのは困るし、あの女性を殺す理由がない。
店主の態度も、多少気になるが、ヨコハマの人間の過去を詮索するのはよくないことだ。あらためて、本を読み直そうとすると、女性が机に置いていた山積みの本がバタバタと崩れ出した。
本を拾おうとした女性と私の目が合う。女性は成人しているか、いないかという年齢で、透き通った美しい
「……“先生”?」
惚けて呟いたわたしの言葉に黒髪の麗人が反駁する。
「ふむ、“先生”と来ましたか……こちらと何処かで面識が?」
彼女は訝しそうにしながらも本を拾い集めていた。さて、どうしたものか。変に声をかけておいて無視をするのも気まずいとわたしも床に散らばった本を拾うのを手伝いにいく。
「いえ、なんとなく人に何かを教える“先生”みたいだな、と思っただけです」
「──ふふ、そんなに偉そうでしたか?」
「そういうことでは……」
どう返したものかと狼狽えていると、わたしは散らばった本が国語や数学、理科などの教科書類だということにようやく気が付いた。なるほど、学校の先生らしい本が溢れている。他に変わり種で、“招き猫の作り方”、“激辛カレー大全”など私物らしき本も紛れこんでいた。
「教科書がありましたから」
「君が本をまじまじと見たのは、先の呟きの後だったでしょうに。こじつけにしても強引ですね」
「では、先生ではないのですか?」
「いいえ、“吾輩は先生です”」
「なら、良かった……ん、わがはい?」
一人称も気にはなったが、わたしは何が良かったのだろう、と自分に問いかけた。案の定、わたしの特に深い意味も考えもない呟きを聞かされた女性は大層笑って、拾い集めていた本をまた落としてしまった。わたしは再び、床に配置され直した本を黙々と拾っていく。その中に、わたしが見慣れた、いや見たことがない装丁をした本に目が留まる。
見慣れた装丁に見慣れない、いいや求め続けていた巻の書籍。
それは長らくわたしが探していた小説の“下巻”だった。
信じられない気持ちでそれを見ていると、その本はすぐに女性が回収してしまう。
「──待ってほしい、その本は……すまない、その本を売って頂けないだろうか?」
彼女は目を白黒させて、本とわたしに視線を行き来させる。
「この本は下巻しか手元にないのです。これだけを読んでも意味はありませんよ」
「なら、意味はある。わたしは、その本の上巻と中巻を持っている……何度も、何度も数え切れぬほど読み返した」
机の上に置いてあった二冊を手にし、わたしは眼前の女性を見つめ直す。
「ほう、上、中巻を……なら、なおさらやめておきなさい」
わたしは視線を本に釘付けにしながらも、“何故”と問うことができた。女性はそれこそ、心の底からこちらを気遣うようにその理由を明かす。
「幸運なことですね、少年。この小説は上、中の出来は良いものの、下巻は何とも陳腐で、最悪なひどい仕上がりとなってしまっています。読んだ後は、今まで読んだ内容を纏めて塵箱に放り込みたくなること請け合いです。できることなら、上巻と中巻だけで話を区切りなさいな。それは君の為でもありましょう」
「…………“そうはいかない”、わたしはこの物語に出会ってしまった。物語がどういう結末になろうと、わたしは最後まで自分が読み始めた物語を読みたいのだ」
「──
女性が口にした言葉がわたしの空洞となった心の、ある部分で木霊する。その
「それが、ただ一つ。この小説を完璧なままにしておく方法です」
反応が遅れる、こんなにも思考が形とならないことが、隙だらけな姿をさらしたことが今までにあっただろうか。孤児だったころ、生き抜くため暗殺者となった今まで、これほどに無防備な無様を他者に見せたことなどただ一度としてなかった。
だというのに、なぜ“本を書け”という何の変哲もない言葉にこれほど心情を揺さぶられたのだ?
いいや、理由ならある。それはわたしが今まで生きてきた中で一切、考慮に入れなかった発想だったからだ。やる、やらない以前に、考えもしなかったことだからだ。
「小説を書くことは人間を書くこと。どう生きて、どう死ぬか、それに悩み、答えを出そうとする人間にこそ、小説を書く資格があるのだと吾輩は考えています」
時が止まったようだった。思考は理解を置いていき、感情はそれに先んじてふわふわと浮いている。時の流れが止まった世界で彼女が微笑みと共にわたしに言ってくれた言葉を、わたしは生涯、忘れることはないだろう。
「“小説を書きなさい。君はそうするべきだ”」
“見込み違いも甚だしい”、と口に出して言うことが出来ない。女はわたしのことを何も知らないのだから、そんなことを無責任に言えるのだと思った。わたしに資格なぞない。わたしは今日も人の命を奪い、その対価を糧に日常を過ごしている。
君は何も知らないから、そんなことを言えるのだ。
でも、その言葉は結局、音として編みあがらない。彼女の金翠色の瞳には星明かりのごとく綺羅と光る信頼がまたたき、その声には天高く広がる澄み切った空のような晴れやかさがあった。彼女は恥ずかしそうに笑うと下巻をこちらに差し出してくる、一冊の擦り切れた装丁の古本を宝物のように大事に、大事に受け取った。
わたしは、自らを“吾輩”と称す不思議な女性に名前を尋ねる。
惚けてしまうほど、美しい彼女は自身の名前を高らかに名乗り上げた。
「──吾輩は“夏目漱石”」
その名は、女性の見た目で名乗るにはやたらと厳めしいものだと思いながら、わたしもまた名乗りを返す。
「……そ、の名前は…………?」
その名前には、覚えがあった。わたしは何度も、何度も、その名前を見る機会に恵まれていた。嗚呼、その名前は────。
「……織田、作之助です。ありがとう、今日、わたしとこの物語と出会わせてくれて」
「──律儀で、変てこな感性をしていますね、きみは」
彼女の所に珈琲が出される。やってきた店主は、わたしに“あの先生に失礼が無かったか”とすごんでくるが、わたしはそれに取り合わず、黙々と渡された小説の下巻を読みふけった。
最初の頁、それを開くと一枚の小さな紙片が出てくる。
“後悔しても知りませんよ”といつ書いたかもわからない書き置きが頁の真ん中にあり、それを四つ折りにして財布にでもしまい込むと、次の頁へ指を滑らせる。
それはわたしが探し求めていた下巻だった。
わたしは一日を、まるまる使って、その本を読み込んだ。
感想は──。
本の中盤に差し掛かった辺りで、夏目さんが立ち上がる。机には珈琲の代金に硬貨が数枚ほど置かれ、不思議とあれほどあった本の山は気づくと影も形も無くしていた。代わりに机には招き猫が幾つか置かれていたが、はてあんなものがあっただろうか?
しかし勘定を置いたということは、もう店を出るということなのだろう。
此処で別れてしまったら、また再び彼女と会えるのか。いいや、そもそもわたしのような人間が明日も、明後日も命を繋ぎ続けるとは限らない。猟犬の隊長のような、わたしよりも強い異能力者はごまんといる。
聞きたいことがあるなら、好機を逃すなどありえないという思い付きが私の背中を押した。
「すいませんっ」
「おや?どうかされましたか」
そう、上巻も中巻も、そして今読んでいる下巻も内容は、本当に最高だった。不満なぞ何処にだって存在しない。けれど、疑問に思うことはあったんだ。
この二冊、下巻もいれて三冊になるが──。
この本たちには、
装丁が古ぼけていることから印字が掠れきり、巻数以外は読めないほどに薄れてしまったのか。はたまた、表題が無いこと自体が自然な形だったのか。内容の素晴らしさに圧倒され、遅れてしまったが、わたしは彼女に……
“
「この本に、
夏目漱石、そう名乗った彼女はふわり、と振り返ると何処か嬉しそうに、面白そうに、悪戯猫めいた微笑みを浮かべて、ちいさく内緒話でもするようにささやいた。
「──“文豪ストレイドッグス”、それがその本の題名です」
14歳時点の織田作が福地桜痴から逃げきれたのは、声帯が