ウマ娘 - ツバサ・アグラビティ -   作:草之敬

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S.B.T.

 

 

『ストォオオ――――ムブリングッ! トオォ――ナメントォッ!!』

 

 その突然の宣言に、街を行く人々はひどく驚いた。

 キョロキョロと周囲を見回し、その音の出所を探す。

 

 そして、十数台という大編隊を組んだドローンが街の上空を飛んでいるのを見つけた。

 音の出所もドローンが抱えたスピーカーからのようで、誰もが上空を見上げている。

 街の一区画をぐるっと旋回したドローンがホバリングを始めたところで、もう一度声が聞こえてくる。

 

『人生は退屈か? 人生は窮屈か? 不自由で、理不尽で、どうしようもなく絶望的だぞ!!』

 

 声は言う。

 人生には不幸が溢れている。

 誰もがそれに苛まれている。

 

『ヒトには、退屈を、不自由を、不幸を置き去りにする翼が必要だ。俺たちには、なにもかもが足りてない!!』

 

 だから。

 

『だから夢を見るんだろ! ウマ娘って輝きに! 夢を、願いを、祈りを乗せて走ってもらいたいのさ、俺たちは!!』

 

 その声に、胸を打たれた人がいる。

 トゥインクル・シリーズを走るウマ娘たちに限らず、彼女らにはそういうパワーがある。

 誰かの夢を背負うこと。

 まるで流れ星のように、走り抜けていくその姿に、願い祈る。

 

 一時の夢であろうと、じわりと胸を焦がす熱がある。

 ほんのわずかな熱でも、死にかけのココロに触れればあたたかいものだ。

 ヒトはそれに救われる。希望を抱く。また、明日へと歩いていける。

 

『Just keep on 〝RUNNING TO THE TOP〟……幼い願いさ、でも力強いだろう』

 

 そして、ウマ娘たちにも夢がある。

 願いも、祈りも、希望も、絶望も。

 ヒトと変わらない気持ちを抱く。

 

 たとえば「テッペンを走り続けたい」。

 絶頂であり続けることの難しさと、そこへ挑まんとする強いココロとカラダ。

 

『Just keep on 〝RUNNING ALWAYS〟……不屈の願いさ、だから輝く!』

 

「どこでだって走り続けたい」。

 ユメ敗れたウマ娘は、それぞれの道を、それでも走り出す(・・・・)

 それを哀しいことだと誰が言えただろう。

 言った人もいるだろう。諦めろと、「そんなことより」なんて美辞麗句を並べて。

 

 くそくらえだ。

 もう一度と、夢見てくれた人がいる。

 もう二度とと、願ってくれた人がいる。

 どうか無事にと、祈ってくれた人がいる。

 

 乾いた笑い声を漏らして、一人、また一人とその場から早足で去っていく。

 戯言だ。街頭をジャックしてまで世迷い事を垂れ流すなんて時間の無駄だ。それを聞くにも然り。

 

 また、明日も仕事がある。家に帰って、ごはんを食べて、風呂に入って、布団で寝る。

 起きたくなくても起きなければならない朝がくる。重い体を引きずって這い出して、社会人という仮面を被る。

 毎日、毎日、そうやって生きていく。

 気が向けば、まあ、この声の通り、トゥインクル・シリーズくらいならテレビでいつでも放送している。

 今なら公式チャンネルが動画配信サイトでレースひとつひとつを配信している。

 

 いつでも、どこでも、誰でも見る事ができる。

 

 そう言って、いつまでも、どこでも、誰も見ようとしなくなるのに。

 

『Break da CHAIN! 今がそのときだ! 秩序に従順なヤツも、その秩序から外れて燻ってるヤツも!』

 

 ならば、魅せつけてやれ!!

 誰もが見逃せない輝きを放って、魂にまで刻み込んでやれ。

 明日への一歩を踏み出す勇気を。

 夢を見ろ。願いを抱け。そして祈れ。

 

 それは……、その権利だけは、誰も諦めなくていいことだから!!

 

『頼むぜ、ブリンガー。今日も俺たちを、その翼と風で空へと連れ去ってくれ……!!』

 

 その声に辟易として立ち去った者は、たくさんいた。

 その声に掻き立てられるまま、心のささくれに触れた者も、たくさんいた。

 馬鹿にするやつ。期待するやつ。怒るやつに、涙を流すやつ。

 たくさん、たくさん、いっぱいいる。

 

 勝利の恍惚さえ、敗北の無念さえ、連れて飛ぶ。

 ぐつぐつと煮詰まった感情の坩堝を振り切って、ただあるがままに、自由に。

 

『ストームブリング・トーナメント、エンゲェ――――ジッ!!!!』

 

 

 

 

     §

 

 

 

 

「……ぁん? ……ょうかん! 教官ってば!」

「ンア?」

 

 どうやらボケッとしていたらしい。

 手元のサンドイッチは中途半端な高さで止まっていて、口もぽかーんと開けたままだった。

 もしゃり、とそのままサンドイッチを食べてから、声のした方へと顔を向ける。

 

「もう、ポラスタ*1の教官がボーッとして」

「昼休みだしね。可愛い生徒が話しかけてきてもボーッとしちゃうよ」

「まあ晴れてるし……ピクニック日和かもだけど」

「でしょ?」

 

 アタシの態度に呆れた顔をした彼女は、アタシの隣に腰を降ろすと何をするでもなく黙ってしまった。

 なにがしか用事があったのではなかろうか、と思うものの、本人の自主性に任せることにして昼食に戻ることにした。

 レタスとベーコンとにんじん、ソースは粒マスタードのクリームソース。それをパリジャンでサンドする。

 朝食の準備と並行して用意できるので時短にもなる。気分が乗ったらゆで卵をスライスしてそれも挟んじゃったりする。

 なにより食べやすい。これは大事だ。なにか仕事が残っていても食べながらできる。

 

 さて四つ目、とランチバッグの中からサンドイッチを取り出したところで、彼女が口を開く。

 

「わたし、勝てるかな……」

「さあねえ。勝負は非情だよ。十数人で争って、勝者は一人。賞金は出るけど、成績としては黒星だからな~」

「容赦ない現実だなあ……」

「そう。現実はひどいんだなあ、コレが。今でこそ教官してえばってるけど、まあ、アタシも数いる未勝利ウマ娘の一人だかんね」

「あのさ、こういうこと聞くのも悪いかなって思うけど、教官はどうして勝てなかったの?」

「……ま、トラウマってやつ? メイクデビューでゼッケン鷲掴みされてコケたんだよね。で、競う走りができなくなった」

「…………」

「担当してくれてたトレーナーはそのあと二、三回くらい未勝利戦に出してくれたけど、結局トラウマを克服することなく登録抹消。引退ってな感じ」

「……そういう娘は、いっぱいいるんだよね?」

「まあ、ねえ。学生の時分はあんまり気付かんと思うけど、教務部にいると毎日くるよ、抹消の申請しにくる娘」

 

 サンドイッチを食べ終わる。最後のひとつを取り出して、食べ始める前に水を飲む。

 飲んでいる最中に横に目を向けると、話し始めるときよりもずっと深刻そうな顔をした生徒がいる。

 

「お昼食べた?」

「まだ……。ていうか、最近、ずっと食欲ないよ」

「食べる? アタシ特製のサンドイッチ。たぶん美味しい」

「…………」ちらりと、生徒は私を伺うようにして見てきた。「もらう。ありがと」

 

 アタシがどんな顔をしていたのかはわからないけど、彼女はちょっとだけおどおどとしていた。

 ラップを剥いて、ばくりと一口。おいしい、とつぶやく声。

 

「教官っぽいことを言っとくと、ごはんは絶対に食べなね」

「うん」

「固形物がキツイんなら、学食行っておかゆとかオートミールとか頼みなね」

「うん」

 

 ランチバッグを持って立ち上がる。

 サンドイッチひとつ分空いたままのお腹を何かで埋めなければならない。

 購買部でおにぎりかパンか、適当なものを買えばいいだろう。

 

 ぐっと伸びをしてから、生徒を見下ろす。

 半分ほど食べられたサンドイッチをもったいなかったかなと未練がましく見てから、あえて立ったまま彼女に声をかけることにした。

 

「インストラクション・ワン『わからず勝つな』」

「へ?」

「うちのトレーナーだった人の受け売りだけどね」

「ど、どういう……?」

「なんとなくで勝ったヤツってのはね、続かないんだよ。なんならそこで負けたヤツの方が強くなりがち」

 

 ぐ、と彼女の喉が鳴る。

 なにか思うところがあったのかもしれない。

 

「勝てるかな、なんて考えてるヤツが勝ったところで長続きしないよ。さっさと抹消申請しなね」

「――は、はあ!? いきなり、なに言ってんの!?」

 

 一転、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす彼女。

 まあ、確かにここでは励ましてやるのが教育者ってやつなのかもしれんね。知らんけど。

 ここで奮起もしない、自分がなぜ勝ちたいのかもわからないままなら、アタシが言った通りになるだろう。

 

「勝てるかな、で勝っちゃったらさ、その後めちゃくちゃしんどいよ。言い方ぐらい考えなよ。勝てるかなって不安なんてさ、誰でも言えんのよね」

「……ッ、ぐ、く……!」

「食欲なくなるくらい緊張して、昼休みをボケッと満喫してる教官に思わず話しかけちゃうくらい不安になってさ。それで出てくる言葉が『勝てるかな』なら君は勝たない方がいいよ」

「ば、バカにして……!!」

「それはこっちの台詞。君はね、競う相手をバカにしすぎ」

「――――、……っ?」

 

 いや、わかる。わかるんだよ、勝てるかな、なんて不安になるのはさ。

 でもそれは、残念だけど違う。それが許されるのは小学生とか、まあお遊びでいるうちだけだ。

 中央トレセンに入学しておいて、今更なぜそんなことを気にすることがある。

 

「インストラクション・ツー『敗者が誇れる勝者であれ』」

「――――」

 

 彼女はもはや言葉を紡がない。

 表情も複雑だ。まさかこんなに突き放した言い方されるとは思ってもなかっただろう。

 アタシも、サンドイッチを渡したりしなけりゃここまで言ってない。

 いわゆる教育者らしく、頑張れ、とか。自信を持って、とか。そのあたりのことをほざいていただろう。

 

 アタシのサンドイッチを食べたんだぞ。

 それが、なにをくだらないことでグダグダ言ってんだコラ。

 

「それで、今度のレースはどんな感じ?」

「……!」

 

 私の問いかけに、彼女は残ったサンドイッチを一気に口の中に放り込み、むせるのも構わずに大急ぎで飲み込んだ。

 荒くなった息を整えながら、えらく尖った目線がこちらに寄越される。

 

 牙を剥きだしにして怒った表情をしていると思えば、バツが悪そうにくしゃりとパーツを寄せたり、胸元を抑えて呼吸を整えたり、うまく言葉が出てこない喉をさすったり。

 忙しないことだ。ちょっと笑ってしまう。あ、睨まれた。

 

「わ、私は、勝つよ。不安だけど、怖いけど、走れる脚があるんだから、走って、勝つよ!」

「はは。急に元気だ。空回りにだけは気を付けなね」

「……うんっ! サンドイッチ、ごちそうさま!」

「お返しは出世払いで頼むよ」

 

 それではな、とキザっぽく指でこうピッとサインを出してクールに去るぜ。

 ()()()()()()()()()()()。午後からは本格的にお仕事始まるし、もうちょっとなんかお腹に詰めとかないとなー、とお腹をなでたところで、後ろから呼び止める声がした。

 振り返ると、彼女がまだこちらを見ていた。

 

「なにー?」

「教官の夢って、なんだったの?」

「ええ~?」

 

 なんかこっぱずかしい質問されたんすけど。あのね、未勝利の教官ウマ娘にそれは死体蹴り。

 あー、とかうー、とか唸りながら学生時代を思い出す。枯れたわけじゃないけど学生時代って卒業したら急に輝きを増すよね。

 あの頃に戻り……たくはないな。今が一番楽しいや。

 

「アタシに夢はなかったよ。トゥインクル・シリーズ走ってた頃はね」

「……今はあるの?」

「はは。……今になってね、あるんだ、コレが」

「教え子の活躍かなあ?」

「自惚れんな~?」

「あはは!」

 

 楽しそうに笑う彼女を見て、まあ、少しくらいならいいかなと、ぐっとスタートの構えを取った。

 

「アタシには夢がある」

 

 駆け出す。

 ごう、とカラダが風をまとう。

 彼女との距離は、たった十数メートル。

 ヒトのそれを遥かに超えた速度に到達して、だけどさらに加速する。

 

 彼女を正面に捉えたまま、彼女まであとたった数メートル。

 全力疾走したウマ娘が正面衝突すれば、それはもう大惨事だ。

 スピードに乗った今、もう左右に避ける暇なんてない。

 一息のことに、彼女はまだ事態を飲み込めていないようだった。

 ただ、本能からくる恐怖に、体をのけぞらせていた。

 

 ステップ。そして跳ぶ。

 障害競走とは比較にならない超高速の踏切。

 脚力で前方宙返りを打ち、中空のうちに体を縮め、天地が返ったところで重心を空に向けて蹴とばす。

 重力が裏返ったように、ぐん、と放物線が上向く。

 

 彼女の耳先と、アタシの耳先が一瞬触れ合った。

 彼女の後頭部が見える。反射的に彼女が振り向く。目と目が合う。

 体幹を駆使して末端部へ重心を散らし、勢いのまま体を捻り込む。ぐわん、と風が逆巻く。

 本来描く放物線を二度描き直し、通常の踏切で到達するはずの地点よりも数メートルほども遠くに着地する。

 

「みんなのココロを連れて、飛ぶ。高く、高くね」

 

 彼女は、ぽかんと口を開けたままアタシを見ている。

 いきなり大道芸じみたものを見せられてはそれも仕方ないかもしれない。

 

 ただ、その瞳は、雄弁だ。

 

 アタシは大地を風のように駆けることを、見下しているわけではない。

 その中にある熱狂、願い、祈り……。そこに至るまでの努力、涙、汗。

 それは尊いものだと、信じて疑ってなどいない。

 

 だけど、そこに避けては通れない、勝ちと負けも確かにある。

 毎日のように教務課へやってくる生徒たち。一人、また一人と減っていく寮内。

 昨日、笑いあっていたはずの娘が、翌朝いなくなっていたことの衝撃。

 次のレースこそ勝とうねと励まし合っていた娘が、はじめからそこにいなかったように扱われる。

 出席確認で名前が呼ばれない。電話をしても繋がらない。

 

 暗い、暗い感情だ。

 そんな光景を目の当たりにして……あるいは、その姿を自分に重ねて想像して。

 今目の前にいる彼女のように、不安や恐怖を抱いてしまったとしても、それは恥でも臆病でもない。

 それを振り切るほどの希望を、胸に抱くことができれば。

 それを振り切るほどの勇気を、手足に宿すことができれば。

 

 その希望も、勇気も。しかし誰もが持っているわけではない。

 

 インストラクション・スリー。

 きっと、これが一番むずかしい。

 

「『勝者が焦がれる、敗者であれ』」

「――――っ、教官!」

「気楽にしなね。勝っても負けても、今度は優しくするからさ」

 

 それじゃ、と手を振って早足に逃げ出す。

 追ってくる気配はない。軽いランニング程度に走り続けて、ついでに購買部へ向かう。

 昼休みも折り返しの時間とはいえ、食べ盛りの学生たちが多いのでまだまだいろいろ残っている。

 先ほどの会話に今更恥ずかしくなってきて、ついついデザートまで買い込んでしまう。

 

 お堅い生徒に見つかれば注意されるだろう食べ歩きをしながら教務部の片隅にいくつかある教官準備室のうち、ポーラスターの部屋の扉をくぐる。

 中では先輩教官が何人か午後の教導の準備を始めていた。

 口におにぎりを咥えたままだったアタシを注意したのは、オープンクラスの優勝経験もある先輩教官だった。

 すんません、とへこへこ頭を下げながら、着席。残っているサンドイッチとデザートのロールケーキをぱぱぱっと食べ終えると、アタシも午後の準備に取り掛かる。

 

 途中、先輩に「なんでアンタ現役でもないのにそんなに食って太らないの?」と恨み節を吐かれる。

 自主的に運動してるんすよ~、なんて言ってごまかす。やっぱり学園内では食事をほどほどにしておくか、人目につかない場所で普段通り食べないと。

 教官職、特にポーラスターはペースメーカーだったり、依頼があれば併走も受け持つので肉体的な疲労はほどほどにあるわけだけど、現役ウマ娘たちのトレーニング強度と比べれば準備運動みたいなもんだ。

 そうなれば、現役の頃のようにバカ食いしてたらあっという間に太ってしまう。ウマ娘はヒトの基準でも美人揃いだが、大部分のウマ娘は太りやすいらしい。

 

 らしいとか言ってるが、まあアタシも例外ではない。

 引退してから数年の高校時代とか配達員時代はトレセン生の頃の食生活からヒト並の食生活へ戻すために、いつも空腹と戦っていた。

 それが今では、現役時代の減量中くらいの食事量になっている。周りから見れば、そりゃ「お前めっちゃ食うやん」ってなる。

 ちなみにアタシのサンドイッチも具材を含めてひとつ1kg弱ぐらいあるからねあれ。

 

 昼休みの終わり五分前のチャイムが鳴る。

 先輩教官らは資料片手に担当のグラウンドやトラックへ散っていく。

 

「さて、と。偉そうなこと言った手前、しっかりしなきゃね……」

 

 今日のアタシのお仕事は外周監督だ。

 事故のないよう、しっかりと監督しなくては。

 それに街を走るなら、慣れたもんだ。

 もちろん本気で走れるわけじゃないけど。

 

 とか考えながら集合場所へ到着すると、外周申請を出していたウマ娘たちが数人、もうやってきていた。

 やーやーやー、と声をかけながら合流する。

 点呼後、どういうルートで走るかをざっと説明してから、改めて公道で走るうえで気を付けなければならないことを口頭で注意していく。

 アタシが最後尾について監督することを最後に伝えて、準備運動にかかる。

 

「さて。それじゃあ頑張っていきましょーう!」

 

 

 

 

 §

 

 

 

 

『ブリンガー追い詰めた!《レガリア》*2が射程圏内だ! 三人のブリンガーが《レガリア》を狙う熾烈な争い!』

 

 もう何度目かの光景だった。

 誰もが勝者の証である超大型ドローン《レガリア》を狙って、縦横無尽に駆け巡ってきた。

 

『何度だって見ろ! ビルを駆け上るウマ娘たちを! ぐんぐん高度を上げるレガリアを狙っているぞ!!』

 

 ビル肌をぐんぐんと上昇していく《レガリア》を、三人のウマ娘たちが追いかける。

 しかし、誰一人としてまともな方法ではない。

 ウマ娘の身体能力を極限まで行使して、階段を駆け上るよりもはるかに速く登っていく。

 

 非常階段の手すりを足掛かりに、梯子を登るようにして。

 窓のへりの凹凸へ指をかけて、こちらも梯子を登るようにして。

 隣のビルとの隙間を三角跳びをして。

 

 ウマ娘の身体能力は超人的である、と誰もが知っている。

 だが、こうして目の当たりにすることは決して多くない。

 レースでは走力。格闘技では同じウマ娘同士で。

 スポーツにしても「ウマ娘」というレーティングが設けられていることが多い。

 

 今のこの「ビル肌を登る」という光景は端的に、それをまざまざと見せつけている。

 ヒトとウマ娘は姿かたちこそ似ているが、根本的に違う存在なのだと声高に叫んでいるようですらある。

 

『誰だ? 誰が勝つんだ! お前らだってそれが気になって、足を止めちまってんだろ!?』

 

 実況の言う通り、街道を逃げるように行き交っていた人々は、いつの間にかその足を止めていた。

 誰もが今、ビルを駆け上るウマ娘たちを〝期待〟の目で見ていた。

 

 誰が誰かはわからないから、誰が勝ったっていい。

 そんな無責任にも思える期待を、彼らはウマ娘に向けている。

 見せつけられた生物としての格差に畏怖するでもなく、純粋な胸の高鳴りに身をゆだねている。

 

 夢を、見ている。

 

『《レガリア》がビル屋上に到達だ! ルールで高度はそれ以上上げられねえ*3! あとは捕まえるだけだぞ!!』

 

《レガリア》に遅れること一秒足らずで、ウマ娘がそれぞれ屋上に到達する。

 三方から迫るウマ娘を相手に、一瞬どこへ逃げたものかと逡巡する様子を見せた。

 そのたった一瞬が致命的だ。間近に迫ったウマ娘の腕が伸びる。

 

『WTF!?』

 

 ――よりも早く《レガリア》が吹っ飛んだ。

 甲高い音を立てて、衝撃が走ったのだ。撮影ドローンが取得した映像を、街頭テレビをジャックしたものへ投影する。

 ほとんど一瞬の処理でスロー編集された映像が流れる。

 

 なにかコイン程度の大きさのものが、銃弾もかくやという速度で《レガリア》に直撃したことが、なんとなくわかる。

 

 先行していた二人のウマ娘が、振り向く。

 三角跳びでビルを登っていたウマ娘が、片腕を突き出したポーズで固まっていた。

 カチーン、とビルの屋上をひしゃげた五百円玉が叩く。

 

 指弾だ。

 

 その威力は熟練者であれば五百円玉を段ボールに突き刺せるほどだという。

 マユツバものではあるが、過去には鉛玉で木の板を貫通させる猛者もいたという話だ。

 ただしそれは、ヒトの基準で、だが。

 

 超人的筋力を持つウマ娘が熟達した技で指弾を放てば、その威力は想像に難くない。

 数十キロもある大型ドローンを吹き飛ばす衝撃力くらい、あって当然だ。

 

『うわあ!? 絶望のフォール・ダウゥ~~~ン!!《レガリア》がストールしたぞ! 一転、ビル肌を落ちていく!』

 

 そしてこれ幸いと逃げ出したのが《レガリア》だ。

 最初こそ吹き飛ばされた影響でコントロールを失っていたものの、今はもう落下に任せて加速するほど姿勢を立て直している。

 

 その姿を屋上から見下ろす二人のウマ娘。

 仕切り直しだとばかりに振り向いたその瞬間、二人ともがその目を疑った。

 

『あ? え? し、死ぬ気かバカヤロウ!!!?』

 

 二人どころではなかった。

 ビルの下で上を見上げていた誰からも、悲鳴があがった。

 実況はその無謀に罵倒を投げかけてさえいる。

 

 指弾を放ったウマ娘が、《レガリア》を追って屋上から飛び降りた。

 

 命綱などない。階下にクッションがあるわけでもない。

 街路樹もなければ、屋台があるわけでも、ゴミの集積所があるわけでもない。

 投身自殺も同義の自暴自棄に、見ている側が発狂する。

 

「ハ、ハハハハ!」

 

 投身したウマ娘の全身から血の気が引いていく。

 冷たくなっていくカラダとココロ。

 死に直面した緊張で、全身が強張る。節々が突っ張って動けない。

 

「遅いって、こんなんじゃあさあ!!」

 

 それでも、カラダとココロは闘争本能に従う。

 どくん、と心臓が跳ねて、炉で温められた熱血を全身へ運ぶ。

 凍っていた四肢が目を覚ます。

 

 落下の速度だけでは、飛ぶドローンへ追いつけない。

 だから、ウマ娘らしく――駆けなければならない。

 

 ビルの壁を駆け降りる。

 稲妻のような加速。まるで重力が横向いているような、大地を駆けることと変わりない姿。

 ぐんぐんと《レガリア》との距離を詰めていく姿に、見上げる人々は恐怖を忘れていく。

 

 誰もが拳を握りしめた。

 細かいルールは知らない。どうして命懸けで走っているのかも知らない。

 だけど確かに、勝て、と。

 掴み取れ、と。

 

「し、やああああ――――ッ!!」

 

 ばちり、とウマ娘の瞳に星が弾けた。

 時代を背負うウマ娘だけが踏み入れることができる、と言われる〝領域〟。

 勝負を共にする者たちだけに感じ取れる極限の集中状態。

 余すところのない身体能力の発露と、満ち足りていて飢えてもいる二律背反が成立する精神状態。

 

 加速の果てに《レガリア》を完全に射程内に捉えた。

 しかし、地面との距離は残り十メートルもない。ただ掴み取るだけでは、勝利を得ても死ぬ。

 ウマ娘には直感だけがあった。そしてそれを実現する身体能力と身体操作、充足した精神状態がある。

 

 ドローンへ向かい、大きく踏み込んだ。

 その衝撃で近くのガラスにひびが走るほどの踏み切りだった。

 中空に躍り出た焦りと不安はない。できる、と確信できるものがあったからだ。

 

 ドローンに取り付けられたハンドルへ手を伸ばす。

 なんの問題もなく、ハンドルを掴み取ると腹筋を畳んで思い切り反動をつけた。

 ジリッ、と爪先が地面を擦る。ぐん、と弧を描いて、大車輪の如く上空へと力の方向を向ける。

 さらに体幹から重心を宙に蹴り放ち、勢いのままハンドルを離して後方上空へと身体を放り出した。

 

 再びビルにまで戻ってきたところで、もはや落下の勢いは無くなった。

 あとは、勝利を掴むだけだ――!

 

 二度目の跳躍。

《レガリア》を小脇に抱えるかたちで捕らえ、その上部へとエンブレムシールを叩きつけた。

 と、同時。

 

『た、タッチダウゥ――――ンッ!!! 決着ゥゥウ~~~~ッ!!!』

 

 勝利を伝える、実況の声が響く。

 大型のドローンを抱えたまま跪く勝者であるウマ娘へ、自然と拍手が巻き起こる。

 まばらな拍手だった。誰もがそうしているわけではない。大喝采が起きるわけでもない。

 

 ゆっくりと、ウマ娘が立ち上がる。

 まるで見せつけるように、本当にゆっくりと、ゆっくりと。

 

 ライダースで全身を固めたコーディネートの勝負服。

 表情を隠すキャップのつばから覗くのは、自慢気な口元だけ。

 

 すうーっと糸で吊り下げられたような美しい立ち姿になったウマ娘は、続けてしなやかに腕を天へ伸ばしていく。

 まばらに打たれていた拍手がしじまに飲まれていく。奇妙な光景だった。

 あまりに静かなのに、そこには確かに熱狂が渦巻いていた。荒い息を贅沢な空間の中で整える音だけがこだましている。

 

 息を整えている間も惜しいと、ゆらりと天へかざした手が揺れる。

 宙で優雅にもてあそぶと、ひらりとひるがえしてボウ・アンド・スクレープ。

 音。開けた空間に、音が溢れる。

 万雷の喝采が、鼓動のように空間を外へ外へと押し出していく。

 

 勝利したウマ娘はそのまま、流れるような動きで駆け下りてきたビルの屋上を示す。

 そこには、まだ取り残された二人のウマ娘がいた。

 声には出さない。ただ、花束を投げるような仕草で、勝利者が二人へ感謝を送っている。

 

 人々はそれにまた、触発される。

 拍手の行方は二人へ注がれ、屋上の二人は照れ臭そうに手を振ってそれに応えた。

 

 拍手の嵐がそよ風程度に治まったころ、編隊を組んだドローンが頭上を旋回し始めた。

 それに合わせて勝利したウマ娘は抱えたままだった大型ドローンを、勢いよく空へと紙飛行機でも飛ばすように投げ放つ。

 ドローン編隊を率いて、大型ドローン《レガリア》は飛び去っていく。

 

 最後に一機だけ残っていたスピーカーを抱えたドローンから、声が響く。

 

『サンキュー、ブリンガー! 退屈な明日までの暇つぶしには充分だったな。さあ、目覚ましの音が近づいてきてるぜ!』

 

 言うが早いか、奇妙な熱気をはらんだままの街角を切り裂くように、サイレンの音が小さく聞こえてくる。

 その音を退場曲にして、屋上の二人のウマ娘が姿を消す。

 勝利したウマ娘が最後にぐるりと回りながら大衆へ向けて手を振ると、駆け足気味に走り出す。

 

 今更と感じるほどに後方確認をしてから車道へ飛び出すと、一気に加速する。

 赤信号で止まる車へよじ登り、八艘跳びじみた跳躍でそのうえを駆け抜けていく。

 

『ラウンド2! またどこかで無事に会えることを願ってるぜえ~っ!!』

 

 遠ざかっていく黒い影を追うようにして、いくつもの白い影が車間を縫うように疾走する。

 ウマ耳を阻害しないヘッドギア。全身を補強するプロテクションギア。背中には皿のようなパトランプ。

 白バ隊の現着だった。パトカーや白バイといった車輌に比べれば最高速度は明確に劣るものの、その捕り物の縦横無尽さにかけては追随を許さない。

 

 特に、危険走行を行うウマ娘相手には無類の強さを発揮する。

 路地へ逃げ込もうが、非常階段や壁などを使って三次元的逃走を試みようが、彼女らは見失わない限り追ってくる。

 見失わない限りは。

 

「振り切ったかな……」

『実は脚がポッキリいってるんじゃないかってヒヤヒヤしたぜ。なあ?』

「……あっ、もしかしなくても怒ってる感じ?」

『おいおいおいおい。ちょっと待てよ、今スピーカーにするからもう一回おんなじ台詞吐いてみろ』

「ひょえっ……」

『あんまりふざけたことしてるとぶち殺しますわよウマ娘様ぁ?』

「いやあ、そのお、イケるかなって」

『イケましたか? イケましたね。おめでとう』

「このまま帰っていい? ボス」

『いいわけねーだろふざけんな朝までみっちり説教コースだいい歳した大人が泣くまで詰めてやるから覚悟しろよ』

「かんにんしてえ……」

『…………クソ。また俺の脳みそに消えない記憶植えつけやがって覚えてろよマジで』

 

 最後の一言だけは打って変わって、先ほどまでのガン詰めモードからどこか興奮した様子が滲む声に変わっていた。

 その声を聴いて、ウマ娘の口元は少しだけゆるむ。

 調子に乗ると怒られる項目が増えることになるのだが、それでも聞かなければいけないことがあった。

 

「今日も飛べたかな」

『……それは間違いねえよ。今日も俺の大好きなお前だった』

「勘違いしそうになるからそれやめなね」

『本気さ。いつだって。そうだろ?』

「バーカ。こんなしょーもないウマ娘口説いても意味ないよ」

『……それもそうだな! 雰囲気で誤魔化そうったって説教はなくなんねえからな』

「いやーん、ボスすきすきだいすき~っ♡」

 

 ぶつり、と通信が切れる音がした。

 ヤバいな、ちょっとふざけすぎたかな、と止まらない冷や汗と激しい動悸に立ち尽くしていると、車のクラクションが隣で鳴らされた。

 ぐぎぎ、と油の切れたロボごっこをしながら音の出処へ顔を向けると、ミニバンが停まっていた。

 助手席には病み系で身を包んだウマ娘が座って苦笑いを浮かべている。運転席にいるのはチャラついた金髪の青年だ。

 そして後部座席から顔を出したのは、前二人と比べれば没個性的な中肉中背、黒髪黒目。あるとすれば無精ひげの男だった。

 

「よう、マイハニー。迎えに来たぜ」

「うわだっせえ~」

「ウケる」

「草」

「笑ってんじゃねえよ! お前も! 言いたかねえよ俺もよ!」

 

 あるだろ、ノリが!! と喚く男を無視して、勝利者ウマ娘はいそいそとバンの後部座席へと収まった。

 つめてつめて、と尻と尻尾を振って男の腰を叩く。お前反省してねえだろ! と怒鳴られるもののウマ娘は気にしない。

 最後部である三列目が空いていればそこに投げ飛ばしていたところではあるが、残念ながら最後部にはPCとドローンの機材が満載されている。

 

 甘い言葉を交わす恋人ごっこをしているだけはある距離感だ、と運転席と助手席に座る二人は思っているのだが、口には出さない。

 いざ説教が始まっても、勝利者は男にもたれかかるばかりで反省の色はない。

 悪い――とは思っているのだろう。捨て鉢にも思える蛮勇のダイブだと、誰の目にもそう映った。

 

 だが、前の二人だけは知っている。

 誰もが悲鳴を上げたあの瞬間、この無精ひげの男は「いけ」と目を輝かせていたことを。

 なんだかんだで誰よりも彼女の才能とクソ度胸を信じているのは、この男なのだ、と。

 まあ、だからといってあの自殺にしか思えないダイブを許すつもりはないのだろう。

 それはもちろん前二人も同様で、ちょっとは後先考えて無茶をしろと、思ってしまう。

 

 だけど不思議と、心配はしていない。

 

 常識だった。

 常識からくる良心とか、スリルに見合わないリスクとか、そう、つまり「(タガ)」だ。

 もっとわかりやすく言えば、頭の螺子だ。

 そういうあれこれ――ひっくるめて「常識」というフィルターを通して、ヒトであるなら言うべき忠言を呈しているに過ぎないのだ。

 心配する恰好をしているだけだった。

 

 このウマ娘は、どこかおかしい。

 

 あるべきものがどこにもない。

 繋がれるべきものが、なにもない。

 あるはずもないものが、確かにそこにある。

 

 彼女の走りは、ないけどある。

 だから誰もが目を奪われる。晴れ渡る勝利の陶酔も、燃え盛る敗北の艱難も、あるけどないから。

 彼女と共に走れば、ただそこには純化された〝風〟だけが吹き抜けていく。

 

 ウマ娘がウマ娘として持つ闘争心よりも、もっとずっと古くて深い、原始の欲求。

 

 風をつかまえて、風のように駆け抜けて、風のように戯れて。

 風のように。風のように。

 

 ――その風の名は。

 

 

 

 

 §

 

 

 

 

「ディーンドライブ」

 

 翼なきテンマ。

 無重力の脚。

 

 メイクデビューを不慮の事故で落とし、結局、その後にも白星ひとつ手にできなかったウマ娘の大層な名前。

 

 特撮ヒーローのマスクもかくやという視界しか持たないブリンカーゴーグル。

 自分の心臓の音しかまともに聞こえなくなるほど分厚い耳カバー。

 結局、発注することすらなかった勝負服。

 

 メイクデビューの際の事件を経て、重度のPTSDと診断された。

 ランニング程度の速度であっても、隣にウマ娘が並ぶと激しい動悸と息切れ、パニック症状が現れる。

 ブリンカーゴーグルも、分厚い耳カバーもその症状を極限まで削ぎ落すための対症療法だった。

 視覚と聴覚をほとんどゼロにして生まれた暗闇の中を、全力で走ることのバカバカしさは本人も担当トレーナーも承知していた。

 

 全力で走ることができていた。コーナーすら若干膨らむ程度で問題なく走っていた。

 誰もが驚愕した。なぜそんな状態でそれほどの速さで走れるのか、と。

 だが、それほどの才覚を発揮してなお、勝てなかった。

 

 確かにPTSDの症状を抑えることはできていた。

 だが、そんなまともじゃない状態で走ることへの激しいストレスからくる体力と精神力の消耗はどうしようもなかった。

 短距離ですら、最後のスパートまで持っていけない。マイルを走れば、最終直線に入る頃には足を引きずっている。

 中距離では完走すらおぼつかず、長距離など夢のまた夢。

 

 ここまでくると、もはや適性云々は関係ない。

 競争ウマ娘として、ディーンドライブは死んでいた。

 

「離してくれない?」

 

 男は、それをまったく知らなかった。

 ただそれでも、今この瞬間に彼女の手を取ったことに、後悔はなかった。

 

 前に進み続けることで得られるものは確かにある。だけど、ただがむしゃらなそれで見落とすことだってあるはずだ。

 競争ウマ娘として死んでしまったディーンドライブにとって、日々のトレーニングやレース前の壊れそうなココロと無縁の日常生活なんて、それこそ必死にならなければ過ごせないものだった。

 必死に、なんとか、どうにかして、この歩みをまっとうしなければと、ただ、それだけを必死に。

 必死にならなければ、本当に死んでしまう。「もう何もしなくていい」「ただ生きていくだけでいい」なんて――耐えられない。

 復帰したいとか、たぶん、そういう話でもない。競争ウマ娘としては終わった。それはいい。もう、納得したことだったから。

 

 普通の生き方って、どんなものだったっけ。

 

 全力で挑む目標もなくて、そのためのトレーニングもなくて、ただその日を過ごすって、どんな感じだったっけ。

 

「ディーンドライブだろ、君」

「だったらなに? 勝ち星ゼロの未勝利ウマ娘なんて、案外そこらじゅうにいるよ」

「君はここにしかいないだろ?」

「……なにそれ、ナンパ?」

 

 高嶺の花たる重賞ウマ娘や、そこそこの実績を持ったオープンウマ娘と違って、トゥインクル・シリーズに出走していたとはいえ未勝利ウマ娘なら……などと不埒なことを考えていたのなら、ディーンドライブとしても一発殴るにやぶさかではない。というかむしろ殴る。

 そういう怒気を含ませながらの返しだったのだが、男はそれでもぎゅっと――痛いくらいぎゅっと手を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。

 

「まだ……走ってくれてたんだ……!」

「――――、なん、で」

「ありがとう……ありがとう、ディーンドライブ」

 

 ――ここは夕暮れの河川敷。

 ウマ娘専用のランニングレーンも設けられた、ちょっとした運動にはもってこいの場所。

 そこで、ディーンドライブはちょっとした運動を軽く超えた……現役時代に近い強度のトレーニングをしていた。

 もちろんトラックでもなければ雨ざらしのレーンが一本あるだけだから、できることは限られている。

 未練、と言っても良かったのかもしれない。納得はしていた。けど、わからない。

 

 シリーズ引退。そのままトレセン学園も退学。

 障害競走への転向や、地方トレセン学園への編入も一応希望は出した。が、URAからの返事は色よいものではなかった。

 か細い視界しかないブリンカーゴーグルや外部の音を遮断する極厚の耳当てをしながらの競争は、あまりにも危険すぎる。

 これまでは挑戦として大目に見ていたところもあるが、これ以上は本人にも、そして他のウマ娘たちにも危害が及ぶ可能性が高い。

 

 ――進路や就職支援も充実しているよ(もう、お前は、走るな)

 

 お前の望みは、もはや膿でしかない。

 お前の願いは、もはや澱でしかない。

 お前の祈りは、もはや癌でしかない。

 

 そう言われたようなものだった。

 悲しめばいいのか、怒ればいいのか、わからなかった。

 今もそうだった。まだ、中途半端な感情がずっと心の底で煮えている。

 

 ディーンドライブは、ほう、と息を吐いて空を仰いだ。

 

 きっと悲しかったんだ、と。うっすら藍色に染まり始めた空をみて思う。

 ちょっと最低な話になるけれど、とディーンドライブなら言い訳しただろう。

 それは誰からの期待もかけられていないだとか、お前が走らなくなったところで誰も悲しまないだとか、そういうありきたりなものに直面したわけではなく、ただ、この瞬間に気付いたのだ。

 

 退学を決めた日。ディーンドライブは泣かなかった。泣けなかった。

 わからないまま、納得してしまっていたから。走るな、と言われたようなものなのに。

 トレーナーは泣いていた。ごめんな、と謝った。そんなことはない、とディーンドライブは言った。ありがとう、とお礼を言った。

 トレーナーは、何か言葉を飲み込んでいた。そのあと、ゆっくり休め、と、そう言った。

 

「走ることはやめないでくれ」と、あのとき言いたかったのだと、ようやくわかった。

 言えなかったのだろう。トレーナーは優秀だったから、気付いていない本人よりもずっと、わかっていたのだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 ライバルに勝ちたい、とか。

 三冠を獲る、とか。誰よりも速く、とか。誰よりも長く、とか。

 天皇賞だったり、グランプリだったり、そこで勝つ、とか。

 目標にしてるウマ娘がいる、とか。

 伝説になりたい、とか。記憶に残りたい、とか。

 

 誰かのために、とか。自分のために、とか。

 

 なかった。

 

 なかったのだ。

 

 漠然とここにいるからには勝たないと、と思っていただけだったのだ。

 それに気付いたのだ。今。

 

「ねえ、訊いていい?」

 

 彼女の手を握ったまま嗚咽に喘いでいた男が顔をあげる。

 情けない顔だった。泣いて腫れぼったい目、垂れ放題の鼻水、ヨダレまみれの口元。

 どんだけ泣いてるんだ、とおかしくなってちょっと笑ってしまうほどだった。

 

「アタシはアンタにとってなんだったの?」

 

 ぽかん、とバカみたいに口をあけて、泣くことも忘れて男はディーンドライブを見上げていた。

 そんなことを聞かれるとは思ってなかったのだろう。なんなら塩対応されておしまい、最悪通報されるところまでは想像していたはずだ。

 

 それが、推し自ら「我が推しポインツを述べよ」と言った(言ってない)。

 

「翼だ」

 

 一も二もなく、再起動した男はそれだけ言い切った。

 つばさ、とオウム返しに言うと、男はそうだ、と涙のせいだけではない輝きを宿した目で見返してくる。

 

「君はさ、走ってるのに、飛んでるようだった。最終直線の加速しきったストライドなんて、とんでもない距離を跳んでいた」

「……見てきたように言うね?」

「もう数年前の聖蹄祭だったかな……まだデビューもしてない君を見たんだ。そのときからずっと、いつデビューするのかって名前をずっと探してた」

「え、あ、そう……」

 

 いけない、と自制する。思わず「きも……」と言ってしまうところだった、とディーンドライブが口元をなでた。

 レースを続けていた自分だったなら、素直に喜べただろうか、とも思う。レースからは引退して軽く二年以上が経っている。

 それを、本人を目の前に言葉を選べば「デビューを心待ちにしていた」と熱く語っている姿は、少なくともストーカーのそれに近い。

 アスリートの精神性を持つよりも前に引退していたディーンドライブとしては、戸惑うばかりだった。

 

「それからも、出走したレースは全部現地に見に行った」

「……そう」

「君はまだ、飛んでいた」

「え?」

 

 目を逸らし、レースの話になって俯き、ディーンドライブは男の顔を見れていなかった。

 顔をあげると、瞳を輝かせた男がディーンドライブをまっすぐに見つめていた。

 どう見ても、そこからは同情の色を感じることはできなかった。「メイクデビューは残念だった」とか「あれは君のせいじゃない」とか、実家に帰ってしばらくはディーンドライブは厭になるほど聞いた、そういう耳当たりのいい言葉たち。

 

 ディーンドライブは言われるたびに憤ったものだった。

 確かにその罰として彼女のゼッケンを引っ張ったウマ娘は出走登録を即時剥奪された。

 彼女自身も、退学する直前にはディーンドライブへと直々に謝りに来た。

 そうするしかないくらい、咄嗟にそうしてしまうくらい、彼女にとってメイクデビュー……それ以降の道にはなにか、掴みたい夢があったのだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()

 

「なんで泣いてるんだ? ご、ごめん、なにか気に障ることを――」

「い、いや、ちがう……ちがうから、気にしないで」

 

 あのときは自覚などしていなかった。

 けど、今にして思えば、あれがディーンドライブというウマ娘にとっての〝勝利への願い〟だったのかもしれない。

 それがいまだにこうやって、走ることにしがみつく理由だったのかもしれない。

 だとすれば、なんて因果なことだろうと思う。

 

「つづき、聴かせてよ」

「……ああ」

 

 男へ続きを促す。

 ひとつ頷くと、こちらが涙した動揺も忘れて、またあのきらめいた瞳になった。

 それがおかしくて笑うと、彼も笑った。

 

「ひたむきだった。一生懸命だった。俺の周りじゃ、君を応援することをバカにするヤツもいた。ふざけんじゃねえって、そいつとはそれっきりだ。ウマ娘の引退なんて、結構ありふれてるよな。君の引退もそういうひとつだった。言っちゃなんだけど、重賞どころかオープンウマ娘ですらない子の引退話なんて、『自主都合により』だとか『資格不十分のため』だとかそういうのがホームページに掲載されてハイ終わり、だ。君はSNSもやってなかったし、詳しい情報がなんにもなかった。――けど、自惚れでもいいなら言わせてくれ。()()()()()()()

「なにが?」

「君の引退は、自主都合でも、資格不十分でも、トレーナーが勧めたわけでも、なんでもない。みみっちい見栄と耳障りな建前でURAのクソボケ共がやめさせたんだ、って、わかったんだよ!!」

 

 本気の。

 本気の怒りだった。

 輝く瞳を、憤怒にゆがめた表情にはめ込みながら、男は続けた。

 

「だろう!? その顔は、そうだったんだな、やっぱり!! クソ、クソクソクソッ!! 誰かの走りを止める権利なんてなあ、どこの誰にもないんだよお!! 君だけだ! 君だけが、君の走りを止められる!! でも、君はまだ、走ってくれてたんだ!! こんなにうれしいことがあるか!? 俺の夢が、まだ、走っててくれたんだ……!! 俺が見た〝翼〟はまだ、折れちゃあいなかったんだよ……ッ!!」

 

 ディーンドライブは、心臓を鷲掴みにされた気分になった。

 その怒りに触れて、その悦びに触れて、きゅう、と甘い痛みが胸に走った。

 愛の告白よりも愛らしく、甘く、痺れた。

 

 ああ、がらんどうに、夢が満ちていく。

 

「あ、は、は……っ」

 

 ディーンドライブは知らず知らずのうちに、男を抱きしめていた。

 一瞬戸惑った男は、だけどしっかりと彼女を抱き返した。

 無言が続く。お互いの吐息だけがやけにうるさい。

 

「君がもし、まだ走ることを諦めていないなら、俺の話にノる気はないか?」

「わーお、詐欺みたいな切り出し。それで本当にノってくれると思う?」

「詐欺じゃない。本気さ。いつだってな」

 

 ディーンドライブがパッと立ち上がり、腕から男を解放する。

 それに少し残念そうな表情を浮かべていた男をほほえんでからかってから、彼女は彼の後ろに回った。

 ハンドルを握り、ゆっくりと押し始める。お互いの素性もわからないままなのだから、当てのない一歩だった。

 

「ねえ、もっと聞きたい。アンタの話」

「……いいのか?」

「怪しい自覚あるんなら今後気を付けなね」

「それもそうか。でも、一番聞いてほしい子に聞いてもらえるなら、それでもいい」

「こりゃなかなか手強そうなのに惚れられたかね……」

 

 当てのなかった一歩だったはずだった。

 ディーンドライブの胸には、夢が芽生え始めていた。

 男の夢は、また走り出す。

 

「……人生ってやつは退屈で窮屈で、不自由で理不尽で、どうしようもなく絶望的なもんだ」

「そうじゃない人もいるでしょ」

「そういう奴らは見てんだよ、夢ってヤツをさ」

「あー……ああ、そういうこと? 言い得て妙じゃん」

「そうじゃない奴らにはさ、必要なんだ。そういうもんが」

「でも、誰がどういう夢を見るかなんてわかんないでしょ?」

「だな。だから要るんだよ、強烈なヤツが!」

「それがウマ娘で……アタシってこと?」

「メイクデビューじゃ、その走りに夢を見た。けど、それからの君の走りからは、違うものを感じたんだ」

「まあそりゃ目と耳潰して走ってたわけだし」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。なんていうか――」

 

 男はそこから先の言葉が出てこないようだった。

 どう表現したらいいかがわからない様子だった。

 メイクデビューとそれ以降で、何が変わったのか。ディーンドライブが思うのは、そのときは終ぞ気付くことのなかった自身の在り方だった。

 それはつまり、夢のなかった彼女が今更になって気付いて、それがつまり、〝夢〟というのものだったのだろう、と。

 

「アタシには夢なんてなかったんだよ。でも、メイクデビューとそれからで何かが変わったっていうなら、たぶん、それかな」

「夢ができたのか?」

「夢はなかったんだよ。でも、アンタと話しててそのときのことを思い出しててさ、あ、これがそうかなって気付いたんだ」

「……聞かせてくれないか?」

 

 ディーンドライブは端的に、事故の加害者であるウマ娘とのやりとりをかいつまんで説明する。

 彼女自身には自分でも意外に思うほど思うところがなかったこと。憔悴した様子の彼女との短い会話の中で、なんでもないようにポロリとこぼした一言があること。

 それは本当になんでもなくて、本当に言ったかどうかもわからなくて、でも、そうあれたら嬉しいから、とディーンドライブは言う。

 

「アタシね、彼女に言ったんだ。アンタの夢の続きが見れるような、そんな走りをしていくよって」

「――最高すぎんだろ」

「おいおい褒めるなよ照れるじゃん」

「褒めずにいらいでか。ああ、きっと、きっとそれが、そうなんだろうな」

「……うん。きっとね」

 

 ディーンドライブに夢はない。

 だが彼女を彼女たらしめる〝道〟があった。

 

 幾人ものウマ娘が歩み、くじけ、ある者は立ち上がり、ある者は去った。

 

 去る者は立ち上がる者よりも圧倒的に多い。

 輝く一等星の名前には限りがある。

 だが、屑星には名もない。

 

「アタシの夢はね、高く飛ぶことだよ。みんなのココロを連れて、どこまでも、どこまでも……!」

 

 それは単純に、勝ち負けの話ではない。

 屑星ひとつひとつに名前を付けていくような、途方もない話だった。

 今更得た夢にしてはあまりに遅すぎるし、夢など持たない方が良かったと思う日がいつかくるかもしれないほどに、苛烈なものだった。

 

 だがここで、男がひとつのブレイクスルーを提示する。

 

「その夢を、手伝わせてくれないか?」

「……この夢はさ、遅すぎるんだ。泣きたくなるくらいに。手伝うもなにもないんだって」

「ある。大ありだ。君はまだ走っていて、俺はまだ、それが見たくて、君は今、夢を、持ったんだ。遅いことはあっても、人生遅すぎることなんてない」

「素敵な言葉。気持ちいいくらい。本当に詐欺師の才能あるよ」

「なら、騙されろよ。なにもお世辞やおべっかでこんなこと言ってるんじゃない。あるんだ、考えてたことがさ!」

 

 宇宙の塵は、集まって星となる。

 砕けて散った夢は、また集めればいい。

 誰もが見たかった夢の成れの果てであるのなら、流れ星にもふさわしい。

 

「君は夢が遅すぎると言った。()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 夢。願い。祈り。

 切なるもの。

 

「君の走りには、夢を紡ぐチカラがある。それは君に見る夢じゃないかもしれない。だけど間違いなく、誰もが抱いていた夢が、もう一度走り出すチカラをくれる」

 

 叶えるもの。

 ――流れ星に三度願うことができたなら、夢が叶う。

 現実的ではない。

 見つけて、咄嗟にココロに夢を描いて、三度願う。

 ええと、と悩んだ瞬間に、流れ星は燃え尽きて消えてしまう。

 

「ディーンドライブ。君は走れ」

 

 他力本願では夢は夢のまま、燃え尽きて消えてしまう。

 ココロに描いた夢を、吐き出すことに意味がある。難しいだろう。怖いだろう。苦しいだろう。

 それでも絶対に、と思うものがあるのなら、走り出さなければならない。

 

「俺が、絶対に後悔はさせない」

 

 遅咲きの夢は、難しいだろう。

 それでもと願うことは、怖いだろう。

 そのすべてを飲み込んで祈り続けることの、なんと苦しいことか。

 

 男の言葉は、そんなものをすべて押しのけてディーンドライブのココロへ届く。

 騙されてしまえ、と男は言った。責任も、後悔も、俺のせいにしてしまえ――だなんて。

 笑ってしまう。

 それは、それじゃあ、あまりにももったいないじゃないか、と。

 

 独り占めなんて、よろしくない。

 だから。

 

「アタシはアンタを信じるよ」

 

 

 

 嵐が、くる。

 

 

 

*1
中央トレセン学園教務部実技指導課チーム《ポーラスター》。元競技ウマ娘のみで構成された教官職が就く。一部ではファンクラブを持つ教官もいたりする。本作の独自設定。

*2
SBT運営謹製の大型ドローン。秘密裏に協力関係を結んでいる企業からの物資と、運営が契約している技術者たちの英知の結晶。既存の大型ドローンの枠に収まらない次世代の性能を持つ。最大積載量は65kg、最高速度は30km/h~80km/h

*3
SBT開催区画では《レガリア》は足場から3mを越えて飛んではならない。




◆ディーンドライブ
(引退当時のステータス)

スピ:E
スタ:G
パワ:D
根性:E
賢さ:G

芝:B/ダート:C
短:G(E)/マ:G(C)/中:G(B)/長:G(B)
逃:D(G)/先:F(E)/差:G(B)/追:G(C)
※()内は本来の適性

●能力評価基準
スピード:最高速度
スタミナ:体力・持久力
パワー:加速力・爆発力
根性:闘争心や、競りの勝ちやすさ、どれくらい限界までスタミナを搾り出せるか
賢さ:レースセンス、視野の広さ

SS:Superior Super(現人神。ただし勝てるかどうかはウマ娘次第)
S:Super(超越者。G1複数勝利を目指せる)
A:Amazing(驚嘆者。重賞のうちでもG1勝利を目指せる)
B:Bless(祝福者。重賞勝利をするウマ娘がひとつは持つ能力基準)
C:Capable(有能者。オープンクラスの実力者が持つ能力基準)
D:Debut(メイクデビュー。1勝できる地力のあるウマ娘が持てる能力基準)
E:Elementary(初等者。地力を磨けていない状態。原石)
F:Faulty(欠陥アリ。足を引っ張っている能力かも)
G:Garbage(ゴミ。マイナス。ゼロへ向かって進め)
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