担当したウマ娘が故障して引退してしまうという「呪い」に悩み、苦しみ、悪夢に飲まれたトレーナーは、退職するという決断をする。
しかし、あるウマ娘に逆スカウトされ、専属契約を結ばれてしまう。
果たして、彼はその呪いに打ち勝ち、栄光を掴ませることができるのか……!

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初めまして、堪えきれぬ狂い火です。二日目は一番お気に入りの作品です。
約3万2000字の長丁場となりましたがゆっくりとお楽しみください。


それって、ジンクスですよね!

それは大きな大きな満月が良く見える夜の事だ。

 

そのあまりにも眩い月光に照らされた山道。私はその急な斜面を登っていく。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

息を切らして登っていく。何故登るのかは知らないが、登らなければならない。そうらしい。

 

背中にはリュックサック、それに加えて麻袋を肩に背負う。その重さは数㎏程度だ。

 

山道とは言ったものの、腰の背丈ほどの雑草が生い茂っていて、その草の禿げた部分であった。つまりは獣道である。

 

滑らないよう、一歩一歩しっかり踏みしめる。

 

「はぁ……はぁ……辛い……!」

 

登っていくごとに背負う荷物の重さが増えていく。一歩ごとに確実に。ずしり、ずしりと

 

辛さを紛らわそうと空を見上げる。桁外れに大きな満月が空の半分を覆い、爛々と輝き、地を照らしている。

 

「は………ああ……」

 

だが、何一つ変わりはしない。足取りは重く、土に沈み込む。

 

「ああ、ああっ!ああ!」

 

その荷重に耐えきれず、脚を止めてしまう。

 

ふと、自分が背負っている物が何なのか気になった。登るごとに重くなる荷物、さっきから背負っているものの“材質”が変わっている事に気が付いた。リュックの肩ベルトは厚みと柔らかさのある、冷たい何かに……

 

それを確認する為に肩越しに覗き込む………

 

 

肩ベルトは白く細い腕、肩越しに見えたリュックであったものはあらぬ方向に曲がった頭部であった。

 

「っ!」

 

ちらりと見える葦毛の影に恐怖した一瞬、肩に回された白く細い腕に締め上げられる。

 

「ぁ……!」

 

腕は普通のリュックのような掛けられ方ではない、首に回すような形である。それが締められるという事は……

 

「く……ぅ…ぁ……」

 

そのか弱い見た目とは裏腹に、気道を封鎖し切るには十分な圧力を出している。

 

「ユ ル サ ナ イ       カ エ セ」

 

「………!………………っ!!」

 

脳に酸素が回らなくなれば、その機能は容易く停止する。そうならないために必死に抵抗する。

 

「オ マ エ ノ セ イ ダ」

 

麻袋を捨て、腕を外そうと試みる。上手く体が動かない中、なんとか力を振り絞って引き剥がそうと試みる。

 

「ユ ル サ ナ イ ! シ ネ ! シ ネ !」

 

が……その腕は簡単に離れない。次第に限界の音が聞こえて来る。眩暈がして視界がぼやける。

 

力尽きる前、空を仰ぐと気が違ったような大きさの月が囂々と輝いていた。

 

その眩しさに目が眩み、白い光に包まれた。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

息が詰まり、目を覚ます。

 

カーテンの裾から覗く空の色は暗蒼で、早朝の日の出前の証だ。

 

目覚まし時計は4時13分を指していた。

 

 

 

 

ここ数年は悪夢に苛まれてこんな時間に起きる事は珍しくも無かった。

 

原因はわかっている。ウマ娘達が私を責め立てる夢を見るからだ。

 

私の担当したウマ娘は皆、脚を故障して引退した。そのウマ娘が私を口々に罵り、痛め付ける。そういう夢を見る。

 

私は彼女達に痛烈な罪悪感を感じる。彼女達を勝たせてやれなかった、その脚を壊してしまった、そして、私だけが夢を叶えてのうのうと生きている事に。

 

次第にその悪夢に飲まれて、彼女達とは関係のない悪夢までも見るようになった。

 

だから、私はもう今年でトレーナーを辞めることにした。

 

担当するウマ娘を見つけられなければ学園側から解雇される。ウマ娘を探している間は給料は貰えるし、仕事も少ない。

 

今日も適当に1日を潰すために職場に向かった。

 

 

 

ウマ娘を探すフリをする為に学園内のあちらこちらへとふらふらする。教室、図書室、トレーニング室、プール、グラウンド…

 

活気に満ち溢れるウマ娘達のわいわいがやがやとした日常劇を一歩離れた位置から眺める…

 

のだけれど、如何せん自分の心配性でお節介焼きな性質で聞かれてもいないのにアドバイスをしてしまう。

 

今日もまた、トレーニング室で筋トレをしているウマ娘にアドバイスをして、耳を後ろに絞らせてしまった。控えないといけないな……と思いながら、気まずくなって部屋を出た。

 

 

 

 

とはいえ、スカウトするフリをしなくてはならない。グラウンドに出ると、どうやら模擬レースを始める所らしい。折角なので眺める事にした。

 

今回の主役……もとい主宰者はあの長い鹿毛のウマ娘のようだ。その隣の黒毛のウマ娘には見覚えがある。去年デビューした有力ウマ娘、キタサンブラックだったハズだ。

 

トレーナーの群れの中からレースを観戦する。彼等の会話から察するに、あの鹿毛のウマ娘はサトノダイヤモンド。サトノ家のウマ娘で、GⅠ制覇の希望の星…そのために英才教育をされているらしい。

 

レースが始まれば自然と彼女に目が行く。サトノダイヤモンドはレース中団の後方めを陣取る。差しの戦略のようだが、中でも前方を良く見通せるいい位置に着いてた。

 

対して、キタサンブラックは一気に抜け出し、先頭へ。彼女は逃げや先行戦術が得意なのは小耳に挟んでいた。サトノがキタサンを差しきれるかどうかは見物である。

 

レース中盤、周囲のウマ娘達は行動を起こし始める。サトノダイヤモンドの前を3人、横を2人で囲む形となった。これは強烈なマークだ。抜け出すのは難しい。周囲の圧力を感じてか、焦りか、一瞬ペースが乱れたように見えた。すぐに落ち着きを取り戻してそのままレースは進み、最終コーナーへと差し掛かる。

 

彼女を取り囲むマーク集団のペースが変わり、一人分すり抜ける穴ができた。その隙を見逃さず彼女は一瞬で差し脚を披露した。

 

その切れ味のあるサシの切っ先は勢いを緩めず、キタサンブラックへと襲いかかり、ハナ差で差し切ったのだった。

 

 

 

レースが終わるとサトノダイヤモンドは一瞬でトレーナー達に囲まれてしまった。もし自分が真っ当なトレーナーならあの輪の中に居ただろうが、もう自分には関係無い。

 

確かにサトノダイヤモンド、彼女には確かに才能も能力も伸び代もある。パッと見、今のレースで感じた問題点もある。まぁ、理由は想像するしかないが、きっとこうだろう。という所まで考えて、アドバイスを口にする前にその場を離れた。

 

─────────

 

レースが終わって、沢山のトレーナーさん達に囲まれてしまいます。皆さん口々に自分の担当になって欲しいと勧誘をしてくださいます。私としても嬉しい事ですが、トレーナートライアル試験に合格した方だけなのです……

 

ふと気付くと遠巻きから一人ぽつんとこちらを見ている方……あまりいないような雰囲気で、死んだ魚のような目で何かを言いたそうにこちらを見ています。私は何故だかその方が気になってしまいました。

 

そう思っているとその人はどこかへと行ってしまいました。

 

そして、トレーナートライアル試験にもその方は来ませんでした。幸か不幸か、その合格者は出ませんでした。

 

─────────

 

そんなこんな、日がなぶらぶらし続ける事数日。

 

メジロ家主催のカジュアルパーティーが開かれる事となった。

 

先輩にも誘われ、暇なのでご同伴に預かる事にした。

 

 

 

 

パーティ会場にてこれまた人々の熱気を眺めていた。

 

その中に見覚えのある顔が二つ。キタサンブラックとサトノダイヤモンドだ。

 

「ええっ!リバーシって端っこを取られたら負けちゃうゲームでしょ?なのにそこに置くの?ダイヤちゃん?」

 

「うん。四隅を取られたら負け。そんな風に言われてるなら───ジンクスは破らないとね!破って勝って見せるから!」

 

どうやら面白そうな事になっている。端からゲームを見るとあれよあれよ彼女は勝ってしまった。

 

ただの大人しいお嬢様かと思えば、面白い一面を見れた。ジンクスには真正面から対抗し、破らなければならない、そんな質らしい。

 

さて、他の所の様子でも見に行くかと思った矢先。

 

「あの…少しよろしいでしょうか?前にお見かけした方ですよね?」

 

「ああ…えっと、どうも」

 

「模擬レースの時、私の事を見て下さっていましたよね?その、お聞きしたい事が…」

 

「そうだったね。聞きたい事があるなら言ってくれて構わないよ」

 

「トレーナートライアル、何故お越しいただけなかったのでしょう?感心を持っていただけていると思ったのですが………お眼鏡に叶わなかった理由は何でしょう?やはり、素質が足りなかったとか?」

 

「そんな事なら簡単ですよ。あの場には私よりも優秀なトレーナーが沢山居た。ただ、それだけです」

 

嘘偽りの無い本心でそう答えた。

 

「そうだったんですか…」

 

「ふふ…臆するのはわかりますけれど、そのように萎縮せずとも良いと思いますわ」

 

聞き覚えのある声、葦毛のウマ娘が一人。メジロマックイーンさんだ。

 

「ああっ、マックイーンさん!こんばんは、お邪魔しています~!」

 

「どうも、こんばんは、お邪魔しています」

 

「こんばんは、ようこそサトノさん。トレーナーさん。少しばかりお話に混ぜてくださいますこと?」

 

「ええ」

 

拒む理由もないので了解の返事を出した。

 

「サトノ家がトレーナー選考という事をしているのは、それだけ『慎重になっているから』そうですわよね?サトノさん?」

 

「…はい、その通りです。トレーナー探しは私の夢、そしてサトノ家の悲願を託す相手探しですから」

 

「名ウマ娘の輩出、GⅠ勝利……その夢と希望を背負っているのがこのサトノさん。そして、支える存在を探すために行われたのがトレーナートライアル……」

 

「全ては家の悲願を成し遂げる為。ですから私はあらゆる方法で共に夢を担える方を探し、お迎えしたいのです…!」

 

「なるほど、ねぇ…」

 

やはり、名家というものは大仰な目的を持ってあらせられる。なればこそ自分のような人間が関わるべきではない。

 

「トレーナーさん、お聞かせください。あなたは私の走りに何を思ったのでしょう?あの訴えるような目がどうしても気になって…!」

 

その表情は真剣なモノだった。ただ目指すものの為に純粋に知りたいという真っ直ぐな瞳……

 

だったら、こちらも真剣にならなければ失礼である。

 

「まず、君の走る力は十分だ。差し脚も、位置取りも、仕掛けるタイミングも。実に基本に忠実。それは凄く良いことだ。だけど君の弱みも少し見えたような気がしたんだ。囲まれた時、周囲の圧力に苦しんでいただろう?」

 

自分でも思った以上に口が回る。

 

「はい…確かにそうです…マークされた時の練習なんていくらでもしましたけど、その時とは全然違いました」

 

「それはきっと、練習相手が『本気じゃあ無かった』からだよ。これは私の臆測になるけど、きっと練習相手は相手がサトノ家のお嬢様だからと知らずのうちに手を抜いていたんだろうね」

 

「!」

 

「だけどここじゃあ、家柄だの才能だのは何の意味も為さない。意味があるのは勝者だけ。勝つことだけが全てさ。だから、君が感じたマークのキツさもそれが原因って訳だろうね」

 

回りに回り、調子付いて大きく台詞を回す。自分の悪い癖だな。これではまた嫌われてしまう。まぁいいか。どうせ担当になることはない。

 

「なるほど~!思いもしなかったです…!これが当たりが強く感じた理由…!」

 

「それともう一つ、君は闘争本能が強いんじゃあないかな?レースで囲まれた時があっただろう?その時に焦ったか、負けたくないと思ったかでペースが一瞬早くなった」

 

「──!?確かに、前に行きたくてウズウズしていました……でも、すぐにこらえました。こらえたはずなのに」

 

「そう、すぐに堪えてペースを戻したのは素晴らしかったが、これがGⅠの大舞台だったらどうだろうか?レベルの高い、プレッシャーも一際大きいあのターフの上で冷静で居られなかったら……息を切らしてバ群の中に沈むだろうね……だから、完璧に抑えろとまでは言わないにしても、今よりもっと冷静であるべきだね。まぁ、こんなところかな」

 

言いたい事を言ってスッキリした。だいぶ言い過ぎた気はするが、嫌われても問題は無い。

 

「あなたはどうして……僅かに乱れた一瞬を……あなたは……どういう方なのですか?たった1レースでどうして私の事を……そこまで…!」

 

「簡単な事さ、私は腐ってもトレーナーだ。ウマ娘の走りを良く見てしまうし、アドバイスなんかはしたくなっちゃう。ただそれだけ」

 

「誰もそんな事は言ってくださいませんでした…トライアルに来た方々は誰も…!でもあなたは──」

 

「ふふ、良かったですわね。偶然のパーティーでいい候補が見つかって。」

 

おおっと?何だか雲行きが怪しい……

 

「サトノさん。改めてこの方もトライアルしてみては?もしかしてサトノグループの方々のお眼鏡にも──」

 

何だか面倒な事に──

 

『採用です!!!』

 

フロアの注目を集める程大きな声が響く。

 

「採用です!あなたが……あなたが私のトレーナーさん!私の探していたただ一人の人です!ですから採用っ!」

 

私はマックイーンさんと二人で頭を抱えた。

 

面倒な事になってしまった……

 

サトノダイヤモンドは、私がはいと言うまで手を離さなかった。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢悪夢と月光に終わりは無い。故に全てを受け入れる♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

今一度、彼女に話す事がある。それを踏まえて考えを改めて貰おうと思い面談室に呼び出した。

 

「それで、話って何ですか?」

 

「サトノさん。私は元から誰も担当のウマ娘を取る気は無いんだ」

 

「…?何故…?どうしてなんです…?」

 

「それはね……大袈裟な言い方をすれば、私は呪われているからだ」

 

「呪われている…?」

 

「私の担当したウマ娘はね、皆、ケガをして引退しているんだ。誰一人として例外は無い。みんな、夢を叶えられずこの学園を去っていったよ…」

 

「だから…だからね…私はもうそんなウマ娘は見たくないんだ……!皆俺のせいで故障した!レースに出れなくなった!」

 

「アイツは俺のせいじゃないと言ったけど、そんな風の目じゃあ無かった!だから皆俺を怨んでいる!怨み辛みが積み重なっているんだ!だからきっと、次の担当だって故障しちまうのさ!」

 

「ああ!知っているかい?例の呪われたトレーナーの噂を!ソイツは俺の事だよ!」

 

「だから……だからねサトノさん……私はそんな不幸なウマ娘を生み出したくはないから、担当ウマ娘は取らない。そう決めたんだ…………一人で喋ってすまない」

 

ここまで言えば、この人間は良くない人間だと思い直してくれるであろう。その思惑半分、つい喋ってしまう性質半分で話し続けていた。

 

矢継ぎ早に繰り出された感情に、件のお嬢様は圧倒された様子であった。が、その姿はすぐに立ち消えた。

 

「それって……それって──」

 

「それって、ジンクスですよね!」

 

ああ、しまった。後悔の感情と共に、キラキラと光る鹿毛の瞳に貫かれた。

 

「だったら、そんなジンクスなんて破って見せます!」

 

「ジンクス……と言えばそうかもしれない。だけど、これはお遊びなんかとは違う。もっと業の深いものだし、そんな下らないものにキミのような人間を付き合わせる訳にはいかない」

 

「私はトレーナーさんだからあなたを専属トレーナーにすると決めたんです!そんなジンクスなんかよりも強い人間だって、この間で分かったんです!」

 

「いいか!?俺はもう辞めるって決めたんだ!だからもう──」

 

そこまで言いかけて、口が止まった。先程から崩さぬ威勢と決意に満ちた眼に心を奪われた。

 

この子は私に期待している。いくら自分の道が険しくとも、私となら登り切れると信じている目だった。彼女の覚悟は決まっている。だから、それに応えなくてはならない。

 

「……わかった。仕方ない。サトノさんがそこまで言うなら」

 

「へへ!やったあ!二人で一緒に頑張りましょう!」

 

「でも、何よりもまずは、トレーナートライアル試験に合格しなきゃいけないんでしょ?」

 

「あっ──」

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

気づけば、駅のホームに立っていた。目の前にはウマ娘が立っている。

 

相も変わらず満月がギラギラとホームを照らしていた。だが、彼女の顔は黒いもやに覆われて、誰だか判別が難しい。暗いながらも僅かに視認できる毛色と、耳の形は確実に知っているウマ娘のモノだった。

 

周囲には電車を待つ人、改札口へ向かう人、乗り換えの為にホームを走る人がざわめいていた。駅の雑踏の中でも良く聞こえるのはオギャアオギャアと泣く赤子、密かに鳴るオルゴール、鳴り続ける電話のベル。それが思考を妨げる。

 

彼女は話し始めた。

 

 

 

わざわざお見送りに来てくれてありがとうございます。

 

|やっぱり、3年間ってあっという間ですね…《私は時計の皮を剥いた。報いはチリソースで溢れた》

 

彼女の喋っている事が重なって聞こえる。その暗い表情の中に赤いもやが見え始める。

 

|でも、思い返して見ると色んな事がありましたね《過去も未来も確かに存在する。爪の折れたフロッピーディスクの中》

 

重なった声はさらに重なり、大きくなる。低い声も高い声も入交り、娘の声から幾多もの声に変わる。その顔のある部分には赤色の光が輝いていた。

 

 

『『祭り囃子と酔った群衆、満月と赤子の声

熱狂の渦で正弦とパンとイッシュは組み上げられる

お前が馬を殺した。オシロスコープの観察者気取りめ

お前が望んだ事は忘れない』』』

 

声は鳴り止まない。

 

『『『柔らかく、濡れた、虫

垂らされる蜘蛛の糸は葦

豆電球の光、ライターの炎、霧は淀む

紛い物の後光は私の元には届かない』』』

 

影のウマ娘はノイズが走ったような明滅を繰り返す。まばたきをするとウマ娘は3人に増えていた。

 

『『『アナキンはベイダーとなった。この意味は分かるな?クワイガン

屍で出来たバベルの塔を登り、蹴落とした

雷が鳴り、私を怖がらせた

私は前へ進み続けた。方位磁石と羅針盤は同じ向きを指す

天地は裂け、骨は砕けた』』』

 

ウマ娘が増え、数えきれぬ程となった。ビルに掲げられた広告塔の、美人のウマ娘でさえも私に語り掛けてくる。彼女達は皆、糸に釣られるかのように空中に浮き始めた。プラットフォームは幾何学的に脈動し、階段や線路が捻じ曲げられ、逃げ場が無くなった。

 

『『『妬ましい。月の皇帝、日出る所の帝。私は成れなかった

鉄の意志と鋼の翼。燃料はオレンジジュース』』』

 

宙に浮いた影から、流動性のある、どろりとした闇が足元に纏わりつく。液体生命のように足首を掴みそこから這い上がってくる。

 

『『『ああ、ゴッシュ、あるいはマハド。この哀れな子羊に光をもたらしたまえ。魚の取り方を教えたまえ

鉈を振り上げ、叩き潰す。仕事、仕事、仕事

ここまで楽な仕事は他には無い』』』

 

闇は体中に縋りつき、ヒリヒリと皮膚を焼く。首にまで到達したものはその筒に圧力をかけて締め上げる。

 

アオォォォォォォン!

『『『獣に食いつくされたこの世界でお前もまた食らいつく

 

やめてくれ。

 

お前は壊し、殺し、狩りを楽しんでいる]

マリオネットの糸は法でも律でもない。お前が望んだ事なのだ。

 

やめてくれ。

 

悪夢は廻り、終わらない。次の仕事も、どうせそうする

 

お願いだ、許してくれ。

 

足りない、足りない。私の穴は四角、貴方の鍵は丸』』』

 

 

赤い光は消え、体を縛るものは溶けて流れていった。目を開けるとウマ娘がポツンと一人立っていた。途方も無く大きな月から冷たい光が降り注ぐが、相変わらずその顔ははっきりとは見えなかった。その彼女からまた、声が聞こえる。

 

|今まで面倒見て下さって、本当にありがとうございます!《全て貴方のせいです。》

 

|私、向こうに行ってもトレーナーさんの事忘れませんよ? 《覚えていろ。忘れるな。罪には罰を、不実には報いを》

 

|あ、電車来ちゃいましたね…それじゃあお元気で!《全部、お前のせいだ。お前がやったんだ。》

 

月だけがその全てを見ていた。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

凄まじい不快感で目を覚ます。肌着はおろか、シャツまでが汗で濡れていた。肺の空気が淀んで息が苦しい。そして頭痛もやって来る。何か酷い夢を見た後、大抵はこうなっている。慣れたものではないが、悩みの種の一つにうんざりする。

 

だが、今回は少し変わっていた。起きる際、何か濡れたタオルのようなものがおでこにかけられていた。ネクタイもシャツのボタンも外され、幾分かは通気性はマシになっていた。

 

「あ、おはようございます。トレーナーさん。あでも、今の時間だったらこんにちは。ですよね?」

 

「あれ……サトノさん……?どうしてここに……?」

 

「どうしても何も、トレーニングの時間ですよ?」

 

「あ、ああ!ごめんね!」

 

左腕を見ると文字盤には3時過ぎだとわかった。最近は担当もおらず、夢のせいで睡眠時間もまちまちになってしまう。そして昼飯を食べたら眠気に耐え切れず寝てしまう。小さいながらも個室を与えられている事に感謝していたが、それももうできない。今日からはサトノさんのトレーニングを指導しなければならない。

 

「それよりも、お加減の方はどうですか?頭が痛いとか、体が熱いとか、どこか具合の悪いところはありませんか?今日はゆっくり休んでいてください。私が看病しますよ!」

 

「ん……まだ──

 

言いかけた所で口を噤んだ。確かに体は重く、頭は痛い、慢性的な寝不足だ。だが、それは彼女には関係無い。自分の体調も管理できない人間が他人に指導などできるハズも無いのだが、もう決まってしまった以上やるしかないのだ。それに、サトノさんは私が風邪をひいて寝込んでいると勘違いしている。その誤解も解かなくてはならない。

 

「いや、大丈夫。ありがとう。もう大丈夫だ」

 

「えっ?もう大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫だ、大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけだから」

 

「そうなんですか?無理はいけませんよ?何かまた悪くなったらすぐに私に言ってくださいね?」

 

どうして私の方が観られる立場になりつつあるのだろうか?疑問に思いながらもそのまま続ける。

 

「じゃあ、その時は頼むよ?とにかく、少し遅くなってしまったけどトレーニングを始めよう」

 

「わかりました。お願いしますね」

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

それから一か月ほど経ち、トレーナートライアル試験の日がやって来た。私達に課された課題は日本ダービーと同じ2400mであのマックイーンさんに勝つというものだった。

 

そしてそのレースはというと、序盤はマックイーンに食らい付き、最終直接へ差し掛かった時に圧倒的なスパートをかけて一気に追い抜いた。しかし、そのタイミングはあまりにも早く、ゴールまでスタミナは保たず失速し、マックイーンさんには大差を付けられて敗北した。

 

 

 

応接室にて…

 

「さて、判定に入ろう。最後はかなりの差を付けられてしまったが……マックイーンさんの意見を伺いたい」

 

サトノさんのお父さんが尋ねる。

 

「結果をお話する前に、なぜこのような走りをしたのか確認したいですわ。サトノさん。貴方、今日、“勝ち”を目指していなかったですわよね?それに、2400mに特化した仕上げもしてこなかった。説明してくださいます?お二方?」

 

「それは、このレースは勝つべきレースではないからです」

 

「勝つべきではない……?合格は勝つことが条件でしてよ?」

 

「いいえ、本当に勝つべきはGⅠの本番の時です。この時期のウマ娘にとって2400mというのはかなりハードなものです。今、マックイーンさんに勝とうとして無茶な練習をするのはあまりにもリスクが高いのです」

 

部屋がしんと静まり返る。私は誰の表情を確認する事も無く続ける。

 

「そして、私にとってはサトノさんがGⅠの盾を獲ることが重要です。そこに私は居なくても良い。だから、この試験を合格することではなく、この一か月間、私は彼女に必要なものの基礎構築をしてきました。マックイーンさんは感じて頂けたでしょう。サトノさんのスピードを。あのスピードならば十分GⅠの大舞台でも通用するでしょう…」

 

弁論も終わり、やる事をやって退場する。それ私の使命だ。

 

「これが、あのレースの理由という訳です」

 

「トレーナーさんは、私のトレーナーは自分でなくていいと、他の人でもいいと。ただ、時間を無駄にしないように出来ることをするだけだと仰って下さいました」

 

私の言葉の後にサトノさんが続けた。強い語調のままさらに続ける。

 

「私はトレーナーさんが不合格になってしまうのは悲しいですけど、私が強くなる事が最優先です。これこそが私達の出した結論です。私達の考えた夢に向かっての正しい道中。今日お見せできる最大限です」

 

「ダイヤ……お前……」

 

お父さんは顔を顰めてサトノさんをじっと見つめた。

 

「なるほど……確かに合点がいきますわ…あの異様に早かったスパートも2400mではなく、2000m程度でのレースを想定したもの……」

 

マックイーンさんは俯いて少し沈黙した。

 

「望む夢を掴むのはいつでも、他は投げ捨ててでも一心不乱に追い続ける覚悟がある者だけですわ」

 

「なるほど…そうか……だからか……」

 

お父さんは上を向いていた。何かを想う様子だった。

 

「我々はこれまで夢に撤し切れていなかったのかもしれない。根幹を重んじ、名士たるべしと思いすぎたからGⅠを勝利できなかった」

 

「だとしたら、何かを変えなければ。そしてジンクスを破り続けてきた娘が何かを感じたのならば……」

 

「合格です。トレーナーさん。この先、ダイヤをよろしくお願いします。我が一族、最高の原石を。そして、私達の愛娘を貴方に託したい。信じ合う二人を信じましょう。」

 

「わぁああああああ!トレーナーさんっ!やりましたっ!やりましたよ!私達!」

 

「夢、叶えましょうね!これまで誰も破れなかった最大のジンクスを、絶対に二人でっ!二人の力で!」

 

「ああ、そうしよう…」

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

それから、サトノさんを指導する日々が続いた。彼女が脚を壊さないように細心の注意を払い、トレーニングのメニューを組み上げ、様子を見ては調整を繰り返した。

 

それと、新たに勉強する事も増えた。レースの戦術についてではなく、ウマ娘の身体について。

 

彼女達はその筋肉量からは到底成しえない筋出力を出すが、その過剰なパワーは彼女らの体に尋常でない負荷をかける。その過負荷の先が故障という訳だ。

 

では、その負荷を軽減するにはどうすればいいのか?私は医学、とりわけスポーツ医学、解剖生理学といった分野から調査を始めた。基礎を学びながら近年の論文を漁り、何か有用な予防策が無いかを探し求めた…のだが、それでも現代の医学では確実な答えは無かった。

 

サトノさんの方は、校内・花たくさん運動という校内奉仕活動に参加していた。いい心がけだと思う。学生の活動をするのは人生のいい経験だ。同級生、先輩、後輩と親睦を深めるのはとても良い。

 

サトノさんはやる気に満ち溢れて、活動に積極的に参加していた。ただ、サトノさんだけでは上手くいかない部分もあるから、サポートしてあげた。結果、他の生徒達からの高評価を得た。

 

季節は過ぎ、サトノさんは順調に力を付けていった。オープンやGⅢを勝ち抜き、実力を試そうとホープフルステークスに出走した。もちろん、ここで勝利する事ができれば一発で目標達成で万々歳なのだが……現実はそう甘くなかった。結果は3着。だが、反省点も弱点も見つかり、十分希望が持てる結果だ。

 

それが最近のことだ。私は練習コースのベンチでぼんやりと思い返す。この調子ならきっと全て上手く行く……

 

「そろそろ厳しいだろう!?Box Breathing(ボックスブリージング)をするんだ!」

 

サトノさんがおおよそ1000mを超える程度で声をかける。四秒吸って四秒止める、四秒吐いて四秒止める。を繰り返す呼吸法だ。自律神経を整えて、緊張や興奮を解きほぐす効果がある。海兵隊でも使われるものだ。サトノさんが長距離レースで一息入れる為の呼吸として試してみている。息を切らし神経を削る戦いの中で、興奮と疲労を抑えられる……かもしれない。とにかく、試してみる事にした。

 

1月の空気は透き通った氷のように肺を刺す。サトノさんにとっては火照る体を冷ますには少し冷た過ぎるかもしれない。だが、厳しい環境でこそアスリートは強くなる。

 

 

 

 

 

「お久しぶりですね」

 

ターフを駆けるサトノさんを眺めていると不意に聞き覚えのある声が何処からか聞こえてきた。あたりを見渡しても声の主は見当たらない。

 

どこだ…?

 

「ここですよ?」

 

気付けば目の前にショートカットで葦毛のウマ娘が立っていた。

 

「ルナティックサイン…」

 

かつての担当ウマ娘だ。松葉杖を付いている。

 

「なぜ……ここにいる……?」

 

「なんでって、私もトレセン学園の生徒だからじゃないですか」

 

「君は退学したはずだ……」

 

「まぁいいじゃないですか。で、元気でやってますか?」

 

「ああ、なんとかやっているよ」

 

「ふうん?」

 

ヒュオオオオオ。と風が吹く。一段と空気が冷える。月は依然として空にある。昼間の月は輝きこそないが、月は月であることに変わらない。

 

「でも、きっとまた脚を壊すんです」

 

「……!」

 

「関わったウマ娘の脚を折っちゃうんです。トレーナーさんはわざと折ってるんですから」

 

「そんなことはない!確かに私は監督不足で君の脚を折ってしまった!だけど!それは望んでなどいない!」

 

冷や汗がどっと吹き出し、背中が一層冷え込む。

 

「噓ですよねトレーナーさん。ウソです」

 

「噓じゃないさ……!」

 

「それで、あの子も壊しちゃうんですよね?私達みたいに」

 

「は……!」

 

口の中が猛烈に乾いていく。世界そのものがぐるりと回るような感覚に襲われる。平衡感覚と血流がぐちゃぐちゃにかき混ぜられている。今自分はきちんと地面に立っているのか?

 

「かわいそうに……こんな男に人生を無駄にされちゃうなんて………ま、でもトレーナーさんを選んだのはこの子だからしょうがないか」

 

「やめろ……そんな事言うな……!」

 

彼女の瞳には青白い月面を背景にした、これまた青白い顔色をした私が映っている。

 

『はぁ……はぁ……終わり……ました……』

 

「もう一度言いますよ?貴方は呪われてるんじゃなくて、貴方が脚を壊すんです」

 

「やめろ……やめろ………!」

 

『……?トレーナーさん?』

 

「他の誰でも無い貴方が。サトノさんも同じように。ぐちゃぐちゃに」

 

『もしもーし?トレーナーさーん?』

 

やめろ!

 

 

 

「わわぁっ!びっくりしました!」

 

「あ…サトノさん……」

 

気付けば目の前に立っていたのはサトノさんだった。あの葦毛のウマ娘、ルナティックサインは見る影も無くなっていた。

 

「ぼーっとしたり、急に叫んだりしてどうしちゃったんですか?」

 

「………ああ、いや、何でもない。大丈夫だ」

 

「本当ですか?なんだか顔色も悪いような……」

 

『きっとまた脚を壊すんです』

 

もう一度あの声が聞こえる。空を見上げると、月の大きさは小指の爪ほどの大きさだった。それでも、私はきっと逃れられないのだろう。

 

「まだ……呪いにかかっている……」

 

「呪いって…以前話していたあの……?」

 

私は無言で頷いた。

 

「ふふ……前も言いましたよね?それはジンクスですって!」

 

「あ……」

 

「だから!そのジンクスは破りましょう!」

 

先程のアレは夢か幻か?どちらにせよ、ジンクスを打破する事には変わり無い。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

さて、それからというもの、そのジンクス破り……というよりは私の悪夢を何とかする事になった。

 

サトノさん曰く。

 

「トレーナーさんはきっと気負い過ぎてるんです!もっと肩の力を抜いてリフレッシュしましょう!」

 

という事らしい。結局、土日にサトノさんに息抜きと称してお出掛けに連れまわされた。買い出しのついでに映画を見に行ったり、水族館に行ってクラゲを眺めたり、一緒に美味しい食事を食べに行ったり、テーマパークに遊びに行ったり………手を引かれ、腕を組まれて、色々遊びに連れて行かれたのだ。

 

こんなに振り回されてむしろ疲れるのではないか……?と思ったが、サトノさんとのお出掛けは楽しかったし、いい気分転換になった。他人に振り回されて遊ぶのも悪くないものだ……

 

中でも、ゲームセンターに行った時は驚かされた。まさかあれほどまでにクレーンゲームが上手だとは思わなかった。彼女の以外な一面を知れて良かった。

 

私はこんな日常を愛おしく感じ始めていた。おとぎ話の「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」がずっと続けばいいと思ってしまっている。平たく言えば、私は彼女に救われつつあった。

 

ただ、実際に悪夢を見なくなったかと言われるとそうではない。未だに大きな月は輝き続けている。

 

「ふぁぁあ……」

 

ぼんやりと考え事をしながら車窓から夜の街の光を眺めていると眠くなる。今、私は群馬県へ向かう車の中に居る。何故か……と聞かれると、またサトノさんに連れて行かれているのだ。

 

今回は伊香保温泉郷らしい。ゴールデンウイークの一部を利用して数日間ゆっくり過ごす。

リラックスの定番と言えば温泉……そしてサトノ家の保有する施設がそこにあるからという至極単純な理由だった。

 

夜のチェックインに間に合うように今日は練習を早めに切り上げて、サトノ家のお手伝いさんが運転する車に乗り込んだ。数時間程度を車の中で過ごす訳だが、日々の疲れからかサトノさんはすぐに寝てしまった。

 

だから私は後部座席の窓に寄りかかりながら、うつらうつらと今の幸せを嚙み締めていたという訳だ。高速道路から見えるのは夕闇の空と民家と信号機の灯り。そして、黒く塗りつぶされた山の稜線………

 

 

 

その闇の中から赤い瞳がこちらを見ている…

 

「貴方は少し早く進むデジタル時計の芋虫。雷鳴は5度鳴る……」

 

声が聞こえる。意味の無い単語の羅列でしかない。

 

黒い影、赤い瞳、その姿は壊れた蛍光灯のようにちらつく。

 

「オー、ベイビー、ベイビー、ベイビー。悪魔ってのは生き物じゃない。自然現象なんだぜ?知ってたか?」

 

周囲に赤い霧が立ち込める。"彼等"はガス漏れのようにどこからともなく、音もなくやって来る。

 

「てんてけてんてんてーん。次は密林。密林です。お出口はここではないどこかです。ヴィーナスの寵愛をご利用のお客様はお乗り換えです」

 

空が赤く光り、一際強い光が山の稜線から顔を覗かせようとする。

 

 

 

「到着です」

 

「トレーナーさん?起きてください?着いたみたいですよ?」

 

「ん………んは………!ありがとう。じゃあ、ささっと荷物を運ぼう」

 

 

 

チェックインを済ませて、部屋に着いたが、居間は共用で寝室が分けられているものだった。荷物を置いて温泉に入り(もちろん混浴ではない!不埒な妄想をするんじゃあないぞ!)豪勢な夕食を食べ、次の日の温泉街観光の為に早めに床に着いた。

 

 

 

伊香保温泉郷はその長い階段が特徴だ。365段もの石段は圧巻の一言である。時々、小窓が空いていて、石段の下に流れる泉源の様子が確認できる。途中には足湯の場もあり、少し休憩…ということも。

 

私達の泊まった旅館はその石段の上部にあり、上から温泉郷を見て回った。

 

お店は無数に存在して、観光地らしい土産物屋はもちろん。日本料亭、喫茶店、うどん屋、さらにはハワイ料理屋なんてのもあった。

 

だが、サトノさんの目に止まったのは遊技場の一つ、射的だった。

 

「トレーナーさん!私!射的やりたいです!」

 

「うん。いいね。やろうか」

 

握られた手に引かれて的屋に入る。少し並んで番が回って来た。おばちゃんに二人分の料金を支払いコルク弾を5つずつもらう。

 

「手をおもいっきり伸ばして近づけるのがコツだよ!」

 

おばちゃんがそう声をかける。私は少し懐疑的な目で様子を見る事にした。

 

「そうなんですね!わかりました!」

 

サトノさんは片手でコルク銃を持って、景品ギリギリまで近づける。

 

「よいしょっと………それっ!」

 

ポン!

 

小気味良い音を立てて弾丸が発射されるが、小さなお菓子の箱を逸れる。

 

「ああっ、外してしまいました……もう一回!」

 

ポン!

 

今度は当たったものの箱は少し後ろにズレただけで倒れなかった。

 

「トレーナーさぁ~ん!ぜんぜんダメです~!」

 

「まぁ見てなよ」

 

私はかつての記憶を思い出しながら、筋肉の記憶で銃を構える。

 

ポン!

 

弾丸はお菓子の箱に当たり、倒れる。

 

ポン!

 

ヒット。ダウン。

 

ポン!

 

命中。倒壊。

 

「す、すごいですっ!」

 

「まぁ、こんなものさ」

 

「トレーナーさん、お上手ですね!どうやったらそれほどまで倒せるのでしょうか?」

 

「銃は正しい構え方、撃ち方をすれば自ずと当たるものなんだよ?だから、おばちゃんの言ってることは罠なのさ」

 

「なるほど!トレーナーさんはその、正しい構え方をしてるからなんですね!」

 

「そうだよ。せっかくだからサトノさんに教えてあげるよ。まず銃を持って、肘を台の上に」

 

「んしょっと…」

 

「そしたら、ここの銃底って部分を肩に押し付けるんだ。肩も、押し付ける力に負けないように押し返して?」

 

「こうですか?」

 

「ちゃんと銃がブレないかな?………大丈夫そうだね。後は顔をここに持ってきて、右目でここを覗き込んで?」

 

「はいっ」

 

「この照門とこっちの照星を当てたい場所に重ねて………」

 

「重ねました!」

 

「後はブレないように引き金を真っ直ぐ引くだけ」

 

「いきますっ!えいやーっ!」

 

ポン!

 

放たれたコルクは真っ直ぐに箱に突き刺さり、箱を倒した。

 

「やったぁ!やりましたトレーナーさん!」

 

「いいね。もう一発も同じようにやってみて?」

 

「はいっ!もう一発も落としちゃいます!」

 

もう一発も綺麗に当ててお菓子をゲットした後、さらに下へお店を見て回る。

 

「気になったんですけど、どうしてトレーナーさんは正しい銃の撃ち方を知ってるんですか?」

 

「まぁ、ちょっと、昔の趣味でね……」

 

「昔の趣味…?あ!トレーナーさん!弓道場ですって!こっちもやってみたいです!」

 

「うんいいね。行こうか」

 

サトノさんは無邪気に手を握り、私を連れて行った。

 

 

 

やろうと勇んだはいいものの、弓に関してはからっきしの素人である。

 

前にやっていた人の見よう見真似で弓を左手に持ち、右手で矢をつがえ、力一杯引き絞る。

 

これがまた意外と力の必要なもので、めっきり力仕事をしなくなっていた私には厳しく感じた。

 

それでも狙いを定めて、引き絞った弦を解き放った。

 

矢は勢い良く飛んだものの、的には当たらず後ろの盛り土に突き刺さった。

 

「あちゃ、上手く当たらないもんだね…」

 

「ていやぁ!」

 

後ろを振り向くと、サトノさんも射った後のようだった。

 

「ああっ、外しちゃいました~」

 

サトノさんも同じく外してしまったようだ。

 

「それじゃあ当たんないよお二人さん」

 

受付のおじちゃんが声を掛ける。

 

「もっと左手を使うんだよ。左手を的の方に突き出して狙って、矢を放つ瞬間に左手を的に押し込むイメージさ」

 

なるほど、とサトノさんと顔を見合わせる。

 

「それとだ、引き絞ってから打つまでが早すぎる。この間を「会(かい)」って言うんだけどな?、この「会」は狙いを定めて、ギリリってめいいっぱい弓を引くためにあるんだよ。これが早いってことは狙いが定まらないし、引きが足りないから矢が失速するしで的中しねェんだ」

 

「なるほど確かに…」

 

「言うとおりにやってみましょう!」

 

先程と同じように弓を引き絞る。今回は左手を使い前に押し出すイメージを持つ。

 

出来るだけ「会」を長く取る。引きを先程よりも多く取り。狙いもじっくりと、一点を貫くように……

 

…………

 

これで…どうだ…!

 

一瞬で矢は飛び、的に当たった。……外周の白い場所だが。

 

「おお…!当たった!一歩前進だ…!」

 

サトノさんの方が気になって振り返る。

 

そこには鋭い眼光の横顔をした、美しい女性が立っていた。

 

まさか、あどけなさの残る少女をこのように魅せるものなのか?と。

 

レースで走っている時もこのような表情をしているのだろうか?私は走っている時の様子は良く見えないのだ。

 

彼女の顔立ちの良さが直撃した私は、どきり、とした

 

バン!

 

矢は鋭く飛び的に勢い良く突き刺さる音が響く。的の中心に矢はあった。

 

「やった~っ!当たった!当たりました!しかもちょうど真ん中ですよぉ~っ!」

 

「す、すごいなぁサトノさん!今からでも弓道を始めたらいいんじゃないかなぁ?」

 

「も~!そういう冗談はやめてください!」

 

結局、もう3本程射ったが、私は1本的中したのに対して、サトノさんは3本全て的中した。

 

「いやぁ……上手いねぇサトノさん?」

 

「びきなーずらっく?って事です!」

 

にへら、と笑う少女。やはり、年相応だと感じる。

 

「でもまぁアドバイスのおかげもあるだろうけど、一番は日々のトレーニングで鍛えたパワーと、精神力の成果だと思うよ?」

 

「っ!なるほど…!」

 

「いい証拠だね」

 

 

 

それから、温泉饅頭やらクレープやらを食べながら石段を降りて行った。転ばないように気を付けながら…

 

そうこうしているうちに一番下の広場まで来てしまった。

 

「いやぁ、こうしてみると本当に長い階段だね」

 

下から見上げると高低差はかなり高い。

 

「さてお昼ご飯はどうしようか?」

 

「うーん…?」

 

「どこでもいいんだけど、サトノさんはどう?」

 

「私もどこでもいいですよ?」

 

「ふぅむ……じゃあ今日は上の方にあった喫茶店に行こうか?」

 

「わかりました。いきましょう」

 

300段上を目指して、登山が始まった。

 

~~~~~ ️~~~~~

 

喫茶店まではあと半分といった所。その時、肩に重さを感じた。

 

「返してよ。私の脚」

 

がしり。と強く肩に掴まれ重量がかかる。浴衣越しでもその手の冷たさを感じる

 

「──っ!」

 

息を呑む。体が強張り、一気に動きはのろくなる。動かす脚の関節はギチギチを音を立てる。それでも俺は登らなければならない。

 

「返して。ねぇ?」

 

返せるものなら返したい。だが、覆水は盆に返らない。孵った雛は卵には戻らない。

 

「はぁ、そんで?担当の子とイチャイチャですか~?トレーナーさんはお気楽でいいですよね?楽しそうにしちゃってさ~?」

 

休養もまた仕事の内。だ

 

「へぇ?ま、そんなの私には関係無いですけどね。私は貴方を責めるだけですから」

 

やめてくれ。

 

「やめません。ほら、私の想いを感じてください。苦しみと怒りと悲しみと………」

 

貴方への憎しみです

 

がっ………ッ!

 

首をそのか細い手で絞められる。

 

「わかる!?ねぇ!?私の憎しみが!」

 

氷のように冷たい手が私を断罪せしめる。

 

ぁ………っ………!

 

「返してよ!私の青春も!栄光も!人生も!」

 

それだけではなかった。無数の手が次々と私の体に掴みかかる。腕も足も体もありとあらゆる場所に、無限に。

 

それら全ての指先が私の体に食い込んでいく。食らい付く獣の顎のように離れる気配はなく、私に痛みと苦しみを与える。

 

『トレーナーさん……?』

 

「あんたなんて!あんたなんて!死んじゃえばいいんだから!」

 

視界がぼやけていく。それでも月は空を覆い、穏やかに光る姿が理解できる。

 

もうダメだ、私は───

 

「トレーナーさん!」

 

 

「も~!またぼーっとしてますね?」

 

サトノさんは階段を2段登ったところに居た。手は引かれたまま、中空に浮いていた。彼女の背後の月は、とてもちっぽけだった。

 

 

 

それからお昼ご飯を済ませ、付近のロープウェイで山頂まで登り、付近の景色を一望したり、おもちゃと人形自動車博物館なるロマン溢れるテーマパークでノスタルジーに浸ったり……

 

観光しているうちに日が暮れてしまい旅館に戻ることにした。

 

夕食を食べる前に、風呂に入るのだが、実はこの泊まった部屋には個室露天風呂がある。

 

「静かなお風呂でゆっくりできますし、露天風呂なので景色も綺麗ですよ!せっかくですし入りましょう!」

 

と、押されてしまった。まぁ、断る理由も特に無いので先に入らせて貰った。

 

 

 

「はぁ……ぁ……」

 

シャワーの前に腰かけたはいいものの、少し頭が動かない。思いの外疲れているようだ。とりあえずシャワーを流し、その水流を正面から浴びる。

 

水は流れていく。流れる。流れる…

 

 

 

………………

 

 

 

 

ガラリ。突然扉が開く音がした。何だろうと思いその方向を向く

 

「トレーナーさん!お背中を流しに来ました!」

 

そこにはお風呂セットを小脇に抱え、バスタオル一枚で身を包んだサトノさんが立っていた。視認した瞬間、慌てて背を向けた。

 

「え!?あ!?ナンデ!?」

 

「親睦を深めるといったら裸の付き合いだってお母様が言ってました!」

 

「それは同性の話でしょう!?」

 

親の差し金という訳か……!?この旅行はサトノ家が絡んでいるから、公認であるのはわかる……だがここまでさせるのか……!?

 

「それってジンクスですよね!」

 

「ジンクスじゃないしいろいろ問題なんだ!早く戻りなさい!」

 

「うぅ……トレーナーさんは私と仲良くなりたくないってことなんですね………うぅ………しくしく……」

 

ウソ泣きである。こうなってしまってはサトノさんはなかなか引かない。かなり問題だと思うが……一緒に温泉旅行に来ている時点で五十歩百歩だろう。

 

「はぁ……わかったよ……ただし、このことは誰にも内緒だよ?」

 

「はいっ!」

 

 

 

「それでは、失礼しますね……」

 

サトノさんの泡にまみれた手が私の背中を撫でる。その柔らかい指先と手のひらを昼間に手を握った時よりも意識してしまう。

 

「これがトレーナーさんの背中……」

 

「体も小さい方だし、鍛えている訳でも無いから楽しくないんじゃないか?」

 

「そんな事ないですよ~。他の人の背中を洗うのって意外と楽しいんですよ!」

 

「そ、そうか……」

 

すぐ後ろに布一枚のみの少女が居る。その事実が、リアリティーが、枯れていると思っていた己の欲を呼び起こす。

 

「ごっしごし~♪ごっしごし~♪」

 

いけない。いくらこの状況が据え膳だとしても、何があるかわからない。もしかしたら何か試験や罠なのかもしれない。手を出した瞬間にひどい目に合うかもしれない。

 

「あっ、トレーナーさんの脇腹に肋骨が浮いてますよ?ちゃんと食べてるんですか~?」

 

女子中学生に心配されるアラサーなど目も当てられない。

 

「はは、そうだねぇ、あんまり食べれてないね……」

 

「トレーナーさんも健康に気を遣ってくださいね?でないと……うりうり~!」

 

「あっ!ちょっとやめ!あはは!くすぐったいよ!」

 

「さて、お背中は洗い終わりました。他の場所も洗いましょうか?」

 

「いや、大丈夫だよ。一人で洗えるから。気持ちだけ受け取っておくよ」

 

これ以上何かされたら、耐えれる自信は無い。

 

「そうですか……あの、トレーナーさんの腕、洗ってもいいですか…?どうしても洗ってあげたいなって…」

 

「……」

 

暫し考える。

 

「そこまで言うのなら。いいよ」

 

どうやら私は心を許した相手には甘くなってしまうらしい。とりあえず右腕を差し出した。

 

「やったぁ!それでは失礼して…」

 

私の腕の上をサトノさんの手が滑る。柔らかく、心地が良い……

 

「ごしごし♪ごしごし……ちゃんとおてても洗いますよ~」

 

私の手がサトノさんに揉まれる。それはもうもみくちゃに、指の間、指一本一本まで丁寧に。

 

「こっちも…へへへ……」

 

今度は肩に手が伸び、丁寧に揉まれる。脇の下までもがその餌食にされてしまう。

 

「あぁ!ちょっと!くすぐったいよ!」

 

「まだまだ洗っちゃいますよ~!」

 

それだけに飽き足らず、前に手が伸びる。右胸を揉んでくる。

 

「だぁ!ちょっと!ちゃんと洗って~!」

 

「えへへ。くすぐられたら元気出るかな~って」

 

「はぁ…その気持ちは嬉しいよ。ありがとう」

 

「じゃあ、次は反対側を洗いますよ?ちゃんと洗いますから」

 

「ほんと?じゃあ頼むよ?」

 

左側の腕を差し出した。先程よりも大胆な事はしてこなかったが、丁寧に揉まれる事には変わりなかった。

 

「それでは流しますね~」

 

「あ、ああ。自分でやったのに……ありがとう」

 

「いえいえ。私に任せていいんですよ?」

 

シャワーを掛けられて泡が流される。洗い残しが無いように片手でごしごしとされた。

 

「さて、トレーナーさんは洗い終わりましたね?今度は私の番です!私の背中を洗ってください!」

 

「エッ!そ、それは流石にマズイよ……ダメダメ!」

 

「むぅ~…」

 

アラサーが女子中学生の背中を洗う事など決して許されないだろう…

 

「こんなおじさんに触られて嫌でしょ……?」

 

「嫌じゃないです~!仲良くなりたいだけです~!」

 

「私はぜったいに洗わないからね…?」

 

「そんなぁ~…」

 

「しょうがないよ。洗ってあげたいのは山々なんだけどね……私は先にお風呂に入ってくるよ」

 

「はぁい…」

 

 

 

 

 

「うぅ……さぶさぶ……」

 

五月始めとは言え裸で居れば外は寒い。露天風呂の辛いところだ

 

「あぁ……はぁ……」

 

かけ湯をして、湯船に浸かる。痛いほどに熱い湯が体を刺す。

 

露天風呂から見える景色は山と夜空。群青と闇は深い。

 

見上げれば星と月。月は昼と変わらず小指の爪のような小ささだ……

 

あぁ……夢ではない。悪夢は必ずあのバカみたいに大きな月が眩く輝く。月が小さい限りは正気を保証できる。

 

…………目を閉じて息を吸う。

 

私はサトノさんに救われつつある。その暖かな光は一時的にだが悪夢から遠ざけてくれる。

 

……目を閉じたまま息を吐く。

 

救われているからこそ、悪夢に囚われたままだ。最近はいつの間にか悪夢に“迷い込む”事が増えてしまった。きっと、私は許されないという心残りと、遊んでいていい訳が無いという焦りが私を繋ぎ止めている。

 

…………

 

 

 

生きているのか死んでいるのかわからないまま、ぼんやりと夜空に浮かぶ月と、微かに光る星を眺めていた。

 

 

 

 

 

ガラガラ。と扉の開く音。

 

そうだ、サトノさんが来る前に上がろうと思っていたんだ。完全に上がるタイミングを逃してしまった。

 

じゃぱじゃぱじゃぱ……ちゃぷん、ちゃぷん。

 

サトノさんが温泉に入った音だ。その方向はとてもじゃないが向けない。どれだけ据え膳だとしても抵抗感には抗えない。

 

 

 

…………

 

 

 

二人の間には虚無があった。

 

 

 

…………………………………

 

 

 

「あ、あの、私………トレーナーさんともっと仲良くなりたいんです……」

 

切り開いたのはサトノさんの方だった。

 

「確かに私はお母様から親睦を深めてこいと言われました……その意味もわかっています……」

 

じゃぷ……じゃぷ……水音が近づいてくる。露天風呂は広くはないから、音は直ぐになくなった。

 

「ただ…それは抜きで…私個人の意思で…トレーナーさんと仲良くなりたいと思っています…」

 

サトノさんは背を向けて沈黙を続ける私を、後ろから腕で包み込んだ。

 

「もっとトレーナーさんと一緒に遊びたいです…トレーナーさんを知りたいんです…トレーナーさんにも私の事を知って欲しいんです……!」

 

一言一言、心から絞り出すような、その声は震えを伴っている。私を抱く腕に力を感じる。

 

「寂しいです…仲良くなりたいって言ってからトレーナーさんは私のことをずっと『サトノさん』としか呼んでくれなくて…!『サトノさん』ではなく『ダイヤ』と呼んで欲しいんです…!」

 

……っ!

 

「だって…他人行儀で寂しいじゃないですか…!私は…ずっと寂しかったんです…!」

 

ぎゅう、と強く抱きしめられる。私の背中に顔を埋めている…

 

……

 

ざぱん。

 

突然立ち上がる。

 

「これ以上はのぼせてしまうから、上がらせてもらうよ。"ダイヤ"ちゃんも、のぼせない程度にゆっくり浸かるといい」

 

「……っ!はいっ!」

 

 

 

 

 

 

お風呂から上がってから少しすればご飯の時間だった。昨日と同じく豪勢な夕食だった。すき焼き鍋に煮物、刺身に鮎の塩焼き……二人で並んで一緒にご飯を食べた。昨日と違うことは細かいメニューの違いと日本酒がついてきた事だ。

 

ダイヤちゃんに、「せっかくですから私がお酌しますからいっぱい飲んでくださいね!」と言われてしまったので、普段飲まないのに大分飲んでしまった。

 

 

 

私は酔っていて、眠い。とても。ご飯を食べ終わり、テレビを眺めているが……船を漕いでしまう。

 

「トレーナーさん。眠そうですね?」

 

ダイヤちゃんは静かに尋ねる。

 

「いっぱい観光もしましたし、お疲れですよね…?そんなトレーナーさんの為に、膝枕をしてあげます」

 

「膝枕…なんで…?」

 

「お母さんに昔よくしてもらって……お母さんが『ダイヤも疲れた大切な人にしてあげるのよ』と言っていたからです」

 

「そっか…」

 

「だから…私の膝の上で癒されませんか?とっても気持ちよく寝れると思いますよ?」

 

ああ…つかれた…ねむい…ひざまくら…いいな…

 

「じゃあ…お願いするよ…」

 

「はぁい。では……はい、トレーナーさん。どうぞ?」

 

「しつれいします…」

 

とても魅力的な提案に抗えなかった私はダイヤちゃんの膝の上で、眠ることにした。

 

 

 

 

 

提灯の暖かな光と、色とりどりの屋台、独特な笛の音、心臓を震わす太鼓の響き、子供たちの笑い声と酔っ払いの怒号……いつか見た祭りの中に立っていた。

 

人々は席に付き、酒に酔い、思い思いに言葉を交わす。会場の空気でこちらも酔えてしまう。

 

私は一人席に付き、遠巻きに眺めている。巨大な月もまた、眺めている。

 

 

 

しばらくすると、一人の男が席を立ち、雄弁に身の上話をし始めた。いかに自分が不幸で、愚かで、どうしようもない人間かを。周りの聴衆はヤジを飛ばし、囃し立てる。

 

男は止まらずに話し続ける。それでも尚自分には嫁がいて、子供がいて、新しい真っ当な仕事に就いた事を喜んでいたと。そして、それを勝手に辞めてしまったと。

 

そして男はわんわんと泣き崩れてしまった。そのすぐ隣で話をずっと聞いていた、ハンチングを被った青年が寄り添って、肩を貸した。

 

そんな折、ガタガタガタガタと何か台車のようなものが曳かれる音がした。曳いているのは牛に似ているが首と脚が長い、葦毛で、痩せ細り、骨が浮いていて、可哀想な見た目をした四足歩行の動物1頭だけだった。

 

「おいおめぇら!さっさと行くべさ!」

 

「おうよ!遅いぜ全く!行くぞお前ら!乗り込め!」

 

人々は立ち上がり、その粗末な車両の付いた荷台に一気に雪崩れ込んでいく。

 

「ほら!ほら!乗れ!みーんな乗れ!」

 

「おらものせてくんろ!」

 

「詰めろ!詰めろ!」

 

酔った群衆はぎちぎちになるまだ乗り込んだ。

 

「皆!乗ったな!行くぞ!」

 

一番前に座る男が動物を鞭打つ。だが、大量に人の乗った馬車は動くハズも無い。

 

「おら!動け!動けってんだ!」

 

「早くしろ!」

 

「なにやってるだ!動かせ!」

 

「鞭が足りねぇんだべ!もっと打て!」

 

ピシャリピシャリと無縁慮に男達は鞭を振るう。酔った群衆は興奮状態にあり、皆が皆それを煽り、こっぴどく叩く。

 

その動物は痛みのうめき声を上げ、嫌だ嫌だと暴れる。だが、荷車は動く気配はない。

 

「やりすぎだ!」

 

「待て!お前達落ち着くんだ!」

 

それでも幾人かはその暴力行為を止めようと声を掛ける。

 

「そうだ!ダメだ!それ以上いけない!」

 

私の思わず声が出てしまう。その声は幾分か若いものだった。

 

「そんなに叩いたら可哀想じゃあないか!」

 

「うるせぇ!この"馬"は俺の物だ!俺の物なんだからどうしようと俺の勝手だ!好きにさせろ!」

 

主人は聞く耳を持たず、風を聞き流すようにその"馬"に鞭を加える。

 

「おい!もっと気合い入れなきゃ駄目なんじゃねぇか?」

 

「強く打て!そして速く打て!」

 

「よし!ならコイツの出番だ!」

 

熱狂は加速する。アルコールと人々の熱、泥酔の呼び声が全てを呑み込んでいく。主人はどこからともなく鉄梃(かなてこ)を取り出した。

 

「ほらこれで…どうだ!」

 

それは無慈悲に打ち下ろされる。

 

ギャイン!あまりにも悲痛な鳴き声。

 

「いいぞ!もっとやれ!教えてやるんだ!」

 

「もっと!もっとだ!」

 

「おらっ!動け!働け!」

 

「やめて!やめてよ!そんなことしたら死んでしまうよ!」

 

ヒャイン!ヒィン!

 

「どうだ!?まだ動かないのか!?ならこうだ!」

 

──~~!

 

突如、その生き物は首を大きく上に振り上げ、空を仰いだ。そしてすぐさま地に倒れ伏した。

 

「やった!やったぞ!」

 

「どうだ見たか!?」

 

「ああ…そんな…あ…あ!ああ!」

 

男達は荷車を降り、倒れた生き物に鞭も蹴りも金梃も追い打っていく。

 

「ま、まて!やめろ…!やめるんだ…!」

 

哀れな少年は我を忘れて、叫びながら群衆をかき分けてその動物の下にたどり着く。

 

「ああ…そんな……かわいそうに……こんなことって……!」

 

そして、もう息をしていない血まみれの鼻面をかかえ、それに接吻する。

 

「う……ぁ……ごめんよ……ごめん……」

 

彼は不意に跳ね起き、主人に向かって飛びかかる。だがその時、1人の男に彼は止められてしまう。

 

「やめるんだ。お前が行ってもどうにもならない」

 

「お父さん!なんたってあの人たち……かわいそうなお馬さんを殺しちゃったのさ!?どうして!?」

 

大きな月は何もしなかった。

 

 

 

 

─────────

 

「ぁ……ゃ…ろ…やめるんだ…」

私が膝を貸してからすぐに眠ってしまったトレーナーさん。

 

……時々、不明瞭で苦しそうに呻き声を上げています。トレーナーさんの悪夢は酷いようです。

 

その悪夢のせいで体力が無くなっているようで、よくぼーっとしたり、息を切らしています。

 

さっきのお風呂でトレーナーさんの体を触った時、あばら骨が浮き出ていて、腕も細くて筋肉が無くて、簡単に骨が折れてしまいそうなぐらいに痩せ細っているのがわかりました。このままだとすぐに死んでしまいそうな危うさがありました。

 

今思えば、トレーナーさんは出会った時からそんな危うさがあったのを思い出します。まるで小さな犬が、優しさと虚勢を着て体を大きく見せているようでした。

 

そんなトレーナーさんだったからこそ私はトレーナーさんを選んだのです。あの時の理由は意見を言える人であることと勘でしたが、きっと、その守ってあげたくなるような危うさがあったから、私の琴線に触れたのでしょう…

 

私の中の慈愛というような、母性というような、そういう感情をくすぐります。一回りも二回りも年上の人に対して抱くのは歪と言えるでしょうけど、やっぱりどうしてもトレーナーさんを守ってあげたいと思うのです。

 

こんな風に苦しんでいるトレーナーさんは可哀想で……

 

私にできるなら、トレーナーさんを幸せにしてあげたいと強く想います。

 

だから……私はGⅠを取ります…!取って…取ってその悪夢を……ジンクスを破ることが出来れば…!そうすればきっと悪夢から解放されるのです…!他の誰でもない、私がトレーナーさんを解放してあげるんです…!

 

……ただ、それは私の空回りなのではという考えもあります……

 

私一人で勝手に仲良くなろうとして、トレーナーさんを振り回してしまって……むしろトレーナーさんの迷惑になっているのでは…?という恐怖が私を襲います。

 

お出かけの時は笑っていても、それは上部だけで本当は邪魔に思われてしまっているのでは…?本当はこんなことをしたくないのでは…?とぐるぐるぐるぐると悩んでしまいます。

 

意を決してお背中を流しに行った時は、勢いでなんとかなる…と思っていたのですけど、トレーナーさんはあまり乗り気にはなってくれませんでした……

 

どうしても何かしなきゃ…!って思ってあんなことをしてしまって…

 

でも、それから、ダイヤちゃんって呼んで貰えたのは一歩前進したはずです。トレーナーさんはお堅い人だから、私とは一線を引いているだけなんだって思いたいです。

 

「ぁ…ごめ…ょ……ごめんね……」

 

トレーナーさんが小さな声で何かを呟いています。良く見ると、目尻には涙の後がありました。

 

「どうして……ぁ……どう……ぃて……ぅ……」

 

心が痛くなりました。トレーナーさんの迷惑かもしれないけど、その苦しみを少しでも取り除きたい…

 

私は居ても立っても居られなくなってしまいます。きっと、これぐらいの自分勝手は許されるから……

 

「ごめんなさい…トレーナーさん……ん……」

 

ちゅっ…

 

私は腰を曲げて、トレーナーさんの首を持ち上げて、上を向かせて、夢見るトレーナーさんの唇に、そっと、恭しく、口付けをしました。

 

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

 

夏合宿、それは多くのウマ娘にとって青春の1ピースとなる。普段と違う場所でいつもよりも厳しいトレーニングを積み上げ、友と友情を深める……

 

そんな彼女達の清涼剤の一つが夏祭りだ。自由時間はわざわざお祭りに行けるように取られている。その上、地域に学園生が参加する許可を取っている。

 

当然、指導教員は見回りに駆り出されるのだが……

 

「トレーナーさん!お祭りですよ!お祭り!一緒に回りましょう!」

 

と押されてしまっては「はい」と言わざるを得ない。以前の担当は友達と楽しむ子しか居なかったし、わざわざ一緒に行動する程に仲良くは無かった。

 

「型抜き…?何でしょう?トレーナーさん!やってみたいです!」

 

とはいえ、普段のお出かけと変わらない。私がダイヤちゃんに手を引かれて、一緒に遊ぶ。

 

「トレーナーさん!射的がありますよ!今度は勝負です!どっちが景品を多く取れるか勝負しましょう!」

 

それでも、楽しい。無邪気にはしゃぐ可憐な少女というものは見ていて癒される。

 

「お腹すきました~。なにか食べましょう!やきそばに…フランクフルト…じゃがバターもおいしそうですね~。あっ!いい匂い!イカ焼きだぁ~…」

 

何より、あの呪いを、悪夢を記憶の片隅に追いやることができるのだ。それだけでも幾分か心は休まる。

 

「すみませんっ!通してください!」

 

人の林を急いで抜けていく葦毛の影が見えた。その姿はかつての担当ウマ娘にそっくりだった。

 

「ルナティックサイン…」

 

思わず声が漏れる。それは人々の喧騒に溶けて、誰の耳にも届かなかった。

 

『お前ら!行くぞ!』

 

『おら!動け!動けってんだ!』

 

『俺が気合いを入れてやるよ!』

 

酔っぱらいの怒号が聞こえる…!

 

覚えている…!悪夢は強く印象に残り、しばしば"続き"を見るのだ!またあの"馬"が殺されてしまう!奴らがやってくる!赤い霧の彼らが!彼女らが私を断罪しに苦しめに来る!

 

周囲にはウマの耳がよく立っていた。一番近いものは右前に居た。それは振り返ってこちらを見る。その顔は焼け爛れ、肉が剥き出しになり、顎の一部が無くなっていて、目は異様に大きく、赤く光っていた。

 

「ウワァァァッッ!」

 

ドン!と強く落ちる音。私は腰を抜かし、地に倒れた。視界には大きな、今にも落ちてきそうな月がこちらを悠々と見下ろしていた。

 

「と、トレーナーさんっ!?大丈夫ですか!?」

 

ダイヤちゃんがこちらを覗き込み。側にしゃがみ込む。

 

「どうしたんですか!?何かぶつかったんですか!?それとも具合が悪いんですか!?倒れた時にお怪我はしてませんか!?頭とか腰とか痛くなったりしてませんか!?」

 

頭が回らなくて、慌てて質問攻めするダイヤちゃんの青い顔とせわしなくピコピコと動く耳をぼうっと眺める。脳が動き始める頃には夜空に浮かぶ月は米粒ほどに小さかった。

 

「ぅ…ぁ…ごめんね……人酔いしちゃったみたいだ……」

 

「なら、速く部屋に戻って休みましょう…!」

 

「いや…少し…夜風に当たりたいな……」

 

 

 

夏祭り会場から10分歩いたところには浜辺がある。ダイヤちゃんは

 

「具合が悪いのですから、おぶって行きますよ。任せてください。落としたりなんかしません」

 

と。おんぶされて運ばれてしまった。

 

「んしょ……トレーナーさん。軽いですね。これなら何キロだって歩けちゃいますよ?ですから気にしないで下さい」

 

情けない話だ。背中から見たダイヤちゃんの耳は伏せられていた。要らぬ心配と手間をかけさせてしまった。申し訳無く思いながら、ダイヤちゃんの背中に揺らされていた。月は小さい。

 

 

「着きましたよ。……あのベンチに座るのが良さそうですね」

 

下ろされて、ベンチに座り込む。背もたれに体を預けて空を仰ぐ。

 

海辺の風は少し強くて冷たい。それが心地良く感じる。新鮮な空気と体を冷ます風で気分が少し良くなった。

 

「………ふぅ……」

 

浜辺の明かりは少なく、星が良く見えて綺麗だ。1等星以外も見えるほどに。それと、小さな月が浮いている。あの月が小さい限りは、私の正気は保証される。

 

「あの……トレーナーさん…ごめんなさい……」

 

「いや…こちらこそごめんね。いっぱい迷惑掛けちゃって…」

 

「違うんです…違うんです…!私がトレーナーさんを連れ回して…大変なのに疲れさせちゃって、それでこんなことになっちゃったんです…!」

 

ダイヤちゃんは不安定な言葉で話し始める。

 

「だから私がトレーナーさんに迷惑掛けちゃってるんです…!」

 

想定外の言葉が飛び出て来た。

 

「私…!トレーナーさんの気持ちをちゃんと聞かないで遊びに誘って…無理に付き合わせてしまって…本当はこんなことしたくないのかもしれないのに…!」

 

声は震え、横顔には一筋の光があった。

 

「仲良くなるって、元気付けるって言って…!本当は私の一人よがりなのを気付かないフリして…!」

 

堰を切ったように感情の籠った言葉が流れていく。

 

「ごめんなさい…悪い子でごめんなさい……迷惑を掛けてしまってごめんなさい……」

 

意外だった。ダイヤちゃんがそこまで考えて、悩んでいたとは。

 

「いいんだよ。ダイヤちゃん。君の良いところはその素直さと、好奇心と、わがままな所だよ」

 

「…ぇ………?」

 

「迷惑なんかじゃなかったさ。いろんなところに行きたいって連れてかれて、いっぱい遊ぶのは楽しいよ。そのおかげで元気になったし、悪い夢を少しでも忘れることができたんだから。心配いらないよ。むしろ嬉しいぐらいさ」

 

ダイヤちゃんの耳がピンと立つのが見えた。

 

「ダイヤちゃんのしたいって気持ちで手を引いてくれて、

そうやって頑張ってくれたから、今の私があるんだよ?最初からそうだったじゃない…?強引に担当にされちゃった時は驚いたけど。それで良かったって言えるんだから」

 

「トレーナーさん…!」

 

「だからね。君はもっとわがままでいいんだよ。どこまでも一緒に行って、何でも楽しもうよ?ね?」

 

「えへへ…そっか………へへ……わかりました!トレーナーさん!」

 

「行きたいところがあったらどこでもついていくよ?どこに行きたい?」

 

「そうですね…うぅーん…?」

 

ダイヤちゃんは空を見上げる。

 

「あ…!そうです!トレーナーさん!月に行きませんか!月ですよ!月!」

 

「え…!月!?なんで…!?」

 

「教科書には、月には岩しかないって、何もないって、水も空気も無いって書いてあるんです。でも、あの月を見てたらそんなのは全部ウソで、本当はかぐや姫の都があったり、うさぎさんが暮らしてたりするんじゃないかって思うんです!」

 

思った以上に想定外な言葉に驚きを隠せない。ダイヤちゃんは月を見上げながら「だから、この目でそれを確かめたいんです…!」とこぼす。

 

「なるほどね…でもさ、僕らの産まれてくるずっとずっと前、私が生まれる20年も前にアポロ11号は月に行って確かめたんだよ?それから宇宙開発はもうやってないのにどうやって行くのさ?」

 

「も~!トレーナーさんったら意外と夢の無い事を言うんですね?いつかの話ですよ!い、つ、か!」

 

「いつか、か」

 

「アポロ計画を立てた人達みたいに、本気で月に行こうって考えて、本気で行動するんです!そうしたらきっといつか行けますから!」

 

空を見上げる。月はちっぽけだ。

 

「………いいよ。行こうか。月に」

 

「そうこなくっちゃですよ!」

 

「月、私も気になってたんだ。私の悪夢にはね、いつも大きな大きな月が爛々と輝いているのさ…私が苦しんでいる時も嫌味ったらしくね……だから、現実の月はどうなのか気になるね」

 

それが悪夢の元なのか、エネルギーなのかは知らない。だが、あの忌々しい月をこの目で、間近で見てやろうじゃないか。その裏側の秘匿を暴いてやろうじゃあないか

 

「なるほど…?よくわかりませんが、トレーナーさんも月に行きたいってことでいいんですね!?」

 

「そうだよ」

 

「じゃあ…約束ですよ?絶対に一緒に月に行きましょう!指切りげんまんもしましょう!」

 

そういって小指を差し出してくる。こちらも小指を絡めて。

 

「「ゆ~びき~りげ~んま~んうそついたらは~りせ~んぼ~んの~ます!ゆびきった!」」

 

小さな月は約束を知った。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

3年目、5月の中頃。

 

私、サトノダイヤモンドは焦っています。

 

なぜなら、ここ最近の勝率──大阪杯ではキタちゃんに負けてしまって2着、春の天皇賞ではマックイーン先輩に負けてしまって2着という今一歩足りないという事実──は良くないですし、タイムも伸び悩んでいます。

 

トレーナーさんは「十分だ、焦らないでいい」と仰っていましたが、そんな悠長な事は言ってられないのです。

 

私達ウマ娘の選手生命は存外に短いんです。本格化後は緩やかにその身体能力が衰退してしまいます。私はまだ本格化の最中ですから、能力のピークと言ってもいいでしょう。

 

ですが、それはすぐに下り坂に向かうのは明白です。……私は、いずれ訪れる衰退に恐怖しています。

 

私は未だにGⅠに勝てていない。その事実は重くのし掛かります。

 

一族の夢を、私の目的を達成するにはキタちゃんは勿論、テイオー先輩やマックイーン先輩よりも強くなければなりません。

 

今でさえ越えるのは厳しいのに、ピークが過ぎてしまえば勝つことなど夢のまた夢。絶望的です。

 

だから私は焦っているのです。残り少ない時間であまりにも高い壁を越えなくてはならない…

 

当然、練習に力は入ります。常に全力を出して、常に進歩しなければ間に合いません。

 

これが愚かな行為だと気付くのは、全てが終わってからでした。

 

 

 

 

はぁっ!はぁっ!くぅっ!

 

脚を強烈に回転させ全力全開で走行距離を稼いでいきます。想像の背中に追い縋り、完璧なタイミングで残していた脚を使い、一気に差し込むイメージを持って、何度も何度も走るのです。

 

ですが、その差し込む刹那に、鋭く、耐え難く、強烈な痛みが脚を襲いました。

 

「っ!痛っ!あ!やぁっ!」

 

痛みからバランスを崩して、地面をゴロゴロと転がされてしまいます。

 

「!?ダイヤちゃん!大丈夫か!?」

 

駆け寄ってくるトレーナーさん

 

「あいたたた……だ、大丈夫です。どこも怪我していません」

 

「そうかな?大丈夫?ちゃんと立てる?」

 

「はい…立てま…っ!痛っ!」

 

私は痛みで立つことができませんでした。

 

トレーナーさんの顔がみるみると青ざめていってしまいます。

 

「大丈夫ですっ!大丈夫!ちょっと捻っただけですっ!ちゃんと立てま……ぁっ!」

 

違う…!これはきっと何かの間違いで…!

 

「まだ私…!走れま「やめるんだ!」

 

滅多に出さないトレーナーさんの大声に体が一瞬震えました。

 

「絶対に、ダメだ。監督者としての命令だ。やめてくれ……」

 

私を見下ろす顔の、瞼は閉じていて、目尻には雫の輝きが辛うじて見えました。

 

「……医者を呼んでくる…」

 

 

 

 

 

 

 

脚を動かすのも問題があるレベルの痛みならば、病院で検査して貰わなければなりません。

 

私は病室のベッドの上でトレーナーさんと話をします。

 

「結果は突発性の屈腱炎で、まぁ…幸い症状はそこまで進行していないらしい。大丈夫。夏頃には回復するだろうし、秋の天皇賞にも出れるだろう」

 

「そうですか……それは…良かったです…」

 

「……それじゃあ、私は学園に戻っていろいろ書類を出してくるよ……しばらく安静にして、お医者さんの言う事を良く聞くんだよ?」

 

 

 

 

 

「……うぅ……ぁ……」

 

トレーナーさんが部屋を出た後、私はとてもいたたまれない気持ちになりました。トレーナーさんの言葉は嘘であるとわかってしまったからです。

 

私の心労を少しでも減らそうと、希望が持てるようにと気を遣っていただいたのです……

 

でも、そのようなことをしても現実は変わりません……私の故障はすぐには治りませんし、気持ちだけではどうにもなりません……

 

この様子ではいつ治るかもわかりませんし、仮にトレーナーさんの言う通りに回復したとしても、そこからレースで勝てるほどに復活することは、テイオー先輩のような奇跡でも起きない限りは難しいのです……

 

だから、この一件でサトノ家の悲願、GⅠを取ることができなくなってしまったのは明白な事実です……

 

私が気持ちを焦るばかりに……取り返しのつかないことになってしまいました……

 

私が悲しく、辛いのはそれだけが理由ではないからです……

 

何よりも、自分の脚を壊してしまった事実そのものがトレーナーさんを傷付けてしまったのですから……

 

トレーナーさんの望みは私がGⅠで勝つことだけじゃないのです。私が故障しないことでそのジンクスを破ることこそが大切なのです。そのジンクスが破られれば、トレーナーさんは悪夢を見ることはなくなるのです。

 

でも、それはもう昔の話。ジンクスは破られず、呪いは続いたままだと証明してしまったのです……

 

私は、トレーナーさんを悪夢から解放できませんでした…!救うという約束を守れませんでした…!

 

あぁ……

 

………そういえば、トレーナーさんに出会った時も気持ちの焦りを指摘されていたのを思い出しました……

 

呪いや運命などではないのです……私が……悪いんです……

 

「うぅ……ぐすっ……ひっく……ごめんなさい……こんな……こんな私でごめんなさい……」

 

誰も居ない部屋に後悔と謝罪の念が満ちていた。

 

 

 

 

─────────

 

一方、部屋を出たトレーナーもまた自責の念に駆られていた。

 

 

 

医師から診断されたダイヤの症状はかなり進行していて、治癒には時間がかかるというものだった。絶望的だ。

 

“意思の力”で早く治るかもしれない、噓が誠になるかもしれない。まだ諦めたくなかった。だから、ダイヤちゃんには本当の事は伝えなかった。

 

ダイヤちゃんが怪我をしたという診断書と、その他諸々の書類を纏めて提出した後、トレーナー寮に向けて歩みを進める。

 

ああ、どうしてまた……やはり呪いが生きているのか……?勝てないのだろうか……?

 

ふと気付く。ダイヤちゃんの様子を見るに、少し焦っていたのではないか?安心させられていれば、もっと不調を言いやすい環境にしていれば、そもそもトレーニングメニューが悪かったのではないか?もっと早い段階でGⅠを取れていればこうならなかったのではないか?だったら、逆に早い時期にトレーニングを増やしていれば………?

 

反省点は尽きない。故にダイヤの故障は自分の責任であると言いきれてしまう…

 

帰って何も夕食を買ってない事に気付いた。冷蔵庫を開けて、いつかの残り物と以前買って飲む機会の無かったストロング缶を取り出し、戸棚に置いてあったいつか食べようと思っていた鯖の缶詰めも取り出して食べた。

 

いつもと変わらない味だった。

 

これからどうしようか?何もわからない。

 

とりあえず今日は寝る事にした。

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

気がつけば、何やら豪華な部屋に居た。いかにも高級そうな椅子とテーブル、暖炉の火はパチパチと音を立てている。黒を基調としたシックな部屋。窓の外には例の巨大な月が光を放っていた。その他には暗闇が満ちていた。

 

「お待ちしておりやした、旦那ァ」

 

突然、向かいの椅子から呼ぶ声がした。そこには、カートゥーン調の変な生き物がいた。

ぱっと見、悪魔、インプ、デーモン。その類であることははっきりわかった。

 

「ここは一体……君は何者なんだ………?」

 

「ここは見ての通り応接室、あっしはただのしがない悪魔でっせ。旦那には話があってここに来てもらったっていう訳でヤす」

 

自らを悪魔を名乗った彼は、丁寧に書類を差し出してきた。

 

「まぁ、話は単純でサァ、トレーナーの旦那は優秀だってんで、冥王サマ直々に働いて欲しいって話でサァ」

 

「は、はぁ……」

 

あまりにも突飛で、急すぎる。

 

「ただ働きってことはありやせん。部屋もいいとこですし、飯もうまい!休みの日には好きなウマだって侍らすことができやサァ」

 

あまりにも胡散臭い。

 

「そして旦那ァ、アンタの一番望んでる物もついてきやす」

 

「何だと…?」

 

「あの娘、サトノダイヤモンドの脚の治癒」

 

「っ……!」

 

「あっしにかかればそんなことお茶の子さいさいでっせ?旦那、乗りヤスか?」

 

成程、悪魔はこの様に人をたぶらかし、契約するのか。もし本当であれば喉から手が出るほど魅力的な提案だ。だが、

 

「待ってくれ、そういうことはもっと良く練ってから決めるものだ。仕事内容は?」

 

「冥界の事務全般、冥土ウマ隊の育成及び指揮」

 

「期間は?」

 

「まずは1000年、要望により追加の期間あり」

 

「いつから?」

 

「契約後即時」

 

「待て、せめて俺が寿命か何かで俺が死んでからにしてくれ」

 

「今すぐにでも欲しいんでサァ」

 

「少なくとも俺が人生を楽しむ間なんて一瞬だろ?」

 

「冥界は大繫盛でやんすよ?待ってたらパンクしちまいやす」

 

「そもそも、契約が履行されるか怪しい。ダイヤちゃんがGⅠで勝つのを見届けるまでは死ねないね」

 

「奇跡の力は代償が必要でっせ?旦那の命が脚の治癒力でヤンス」

 

「なら後の半年、ダイヤちゃんがトゥインクルシリーズを走り切るまで。それよりも後なら私の命などどうでも良い」

 

「……まぁいいでサァ、少しぐらいならなんとかしヤス」

 

「決まりだな、契約書は?」

 

「どうぞ、旦那」

 

 

 

乗らざるを得なかった。あのまま夢を叶えられず、燻って、萎れてしまう彼女を見ていられなかった。もう一度、笑顔を取り戻して、健やかに生きていて欲しい。そう思うと、自分の命など惜しくはなかった。

契約に不備はないか、先ほどの発言に間違いがないか、罠がないか、確認した。

 

信用できそうだ。

 

[羊皮紙に名前を書く]

 

「ほいじゃ、契約完了でサァ。彼女のこと、ちゃんと見てやるでやんすよ?」

 

そう言って、煙となり消えた。

 

「言われなくても」

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

10月第五週の日曜日。東京レース場。

 

 

 

私、サトノダイヤモンドは奇跡的な復活を遂げました!診断された次の日に痛みが引いていて、すぐに退院できたのです!お医者さんも診断が間違っていたのではないかとびっくりしていました!

 

一応、リハビリもしてみたのですが…全く問題はありませんでした!本当に神様が奇跡を起こしてくれたのかも…!なんて…

 

トレーナーさんもそれからよく笑うようになりました。

「こんな奇跡を見せられてしまっては、呪いも克服したと言わざるを得ないね」

と言っていました。

 

もちろん、練習も油断はできませんでしたが…以前より脚が軽くて、柔らかくよく動くようになっていました!ますます不思議ですが嬉しいことです。

 

そして、今日が恐らく最後のチャンスです。残るGⅠの事を考えると、有馬記念に出れるかどうかはわかりません。一族の、私の、トレーナーさんの夢を叶えられる。

 

復帰してから京都大賞典で勝つことが出来て、この天皇賞秋に出走することだってできたんです。仕上がりも調子も最高です。

 

だから、大丈夫。きっと勝てる…そう何度言い聞かせても体の震えは止まりません。奇跡は起きても勝てなければ意味がありません。これが最後のチャンスだとしたら、負けてしまったらどうしよう………どうしても不安は付き纏ってきます。

 

「久しぶりのGⅠだし、不安だったり緊張してたりだと思うけど、大丈夫」

 

「気負わないで、全力を出しきるんだ」

 

「ダイヤちゃんなら勝てると信じてるよ」

 

「っ!はいっ!」

 

トレーナーさんは笑顔で送り出してくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

ワァァァァァァァ!!!!!

 

ついに栄冠を掴んだサトノダイヤモンド!薄曇りの東京レース場でついにダイヤモンドが耀きました!

 

……はぁ──はぁ──! やった……!やったんです……!ついに私は───!

 

私は疲れ切った体でウィナーズサークルにゆっくりと歩いて向かいます。

 

トレーナーさんもやってきました。私達二人で掴んだ勝利だから、優勝レイは二人で貰わなくちゃいけませんからね!

 

あぁ……ついに夢が叶ったんですね……!

 

 

 

ゲホッゲホッ!

 

大きな咳き込む音。びっくりしてその方向を見るとトレーナーさんの口から夥しい量の血が…!

 

「っ!トレーナーさんっ!?大丈夫ですか!?」

 

「ぁ……あぁ…?」

 

トレーナーさんはふらりとバランスを崩して…倒れちゃう!

 

「危ないっ!」

 

トレーナーさんを慌てて両腕で抱えました。私は無理な動きをしたせいで転んで地べたに座り込んでしまいました。

 

「ふぅ……その血…大丈夫ですか……?」

 

「大丈夫さ……どうやら……これ以上は無いらしい……」

 

「これ以上は無い…?」

 

お、おい!?どうした!?ヤバそうだぞ!?救急車を呼べ!

 

「悪魔と…契約をしたんだよ…」

 

「悪魔と…契約?」

 

バカ言え!救護班が居るだろ!そっちの方が早い!

 

「私の命と引き換えに……そうすれば……ダイヤちゃんの脚は治せる……だからそうした」

 

トレーナーさんが何を言っているのかわかりません。

 

「今際の言葉を…残す余裕をくれるだけ…有情だな…」

 

わかりません。

 

「ゲホっ!ゲホっ!」

 

服に染みが増えてしまいました。代わりにトレーナーさんから力が減っていくのを感じました。

 

「なぁに…怖くはない…どうせ私は……地獄行きが…当然の…人間さ…」

 

わかりません。トレーナーさんが何を言っているのかも、どうすればいいのかも。

 

「ダイヤちゃん……君は強い子だ……だから…この先何があっても大丈夫だ……」

 

ダメです。そんなことを言っては。

 

「そうだ月……一緒に行くって…言ったっけか…」

 

それはまるで───

 

「約束…守れなくて…すまない…」

 

別れの言葉みたいじゃないですか……!

 

 

 

 

 

♢ ♢ ♢ ♢ ♢

 

 

 

 

 

幾分か熱い太陽…白い砂…透き通った黒い空…そして、青と白と緑のマーブル模様の"月"……

 

窮屈な宇宙服越しの景色は、存外退屈なものだ……あるウマ娘を除いては

 

「着きました……やっと……!」

 

サトノダイヤモンド。サトノ財閥のトップにして、世界的な宇宙開発の第一人者。

 

「ちょっと熱いですね~。たしか、空気が無いから熱しやすくて冷めやすいんですよね?」

 

名家の生まれの彼女はその才を存分に発揮し、財を膨大に積み上げ、月まで届かせた。

 

「………月ってやっぱりなーんにも無いんですね……都もお姫様もいないし、うさぎさんもかにさんもいない…」

 

彼女は狂気的(Lunatic)に月に執着している。開発の先駆けとして自ら月に乗り込むほどには。

 

「…トレーナーさん……約束……守れましたよ…」

 

なぜ、この枯れた宇宙市場に莫大な資金をつぎ込むのか?なぜ、そこまでして宇宙開発を進めるのか?その理由は誰も知らない。

 

「私……やりました…やったんです……!ここまで来ちゃったんです…!」

 

少女の目に、一人の男の影が映った。

 

「っ!トレーナーさんっ!」

 

二人は静かに微笑み合った。

 

「じゃあ、次はどこに行きましょうか!?」

 

 

 

 

 

 

悪夢と宇宙に終わりは無い。故に全てを受け入れる。

 

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