──女神オケアニデスの神罰が聖都セレスティアを覆う数刻前。
空は、薄墨をひいたような淡い雲に覆われていた。
大陸一の栄華を誇る審の国ジャッジ。
帝都、マジストレイトの路面を埋めるのは、
皇帝ソルディウスがおわすユディキウム城は、帝都を縦断する大通りの中央にそびえている。
その大通りの左右でひしめき合う屋台街で、当直を終えた兵士は、白髪の男に目を止めた。
「あれは……まさか、アルウィン将軍?」
カラフルな安っぽい屋台前に、ぽつんとひとり、男が立っている。
白髪のせいで、後ろ姿は一瞬、老人にも思えた。
皇帝直下の騎士ロイヤルガード、アルウィン・ブラッドスカイ。
彼は軍装を解き、なにやら熱心に店先に並んだ商品をあらためている。
「なあ、店主。これってどういう時に使う?」
手にしていたのは、泥のついた流木のような塊だった。
丸顔の店主が、前歯の欠けた歯をニッとちらつかせて笑った。
「これは怪力モグラの爪を加工した鍛錬具でしてね! 軽く振るだけで凄まじい衝撃波が──」
「──いいね。よし、もらう。猫の爪研ぎにちょうど良さそうだ」
「は?」
「耐久性はあるんだろ?」
「そ、それはまあ! 掘削用ですので」
「よしよし……」
「いや、おかしいだろ!」
禿頭にシミがにじんだ店主が状況が吞めないまま揉み手するのもそのままに、魔道具を手に取ってうなずく上官を、兵士が思わず呼び止めた。
ふり向いた青年の顔に、珍しい赤い瞳が覗く。
涼やかな目元が細まり、あからさまに渋面をつくった。
「げ」
目が合った途端こぼれた一言で、兵士は確信した。
「アルウィン将軍! あなた、ゲイツ将軍と外出したんじゃないんすか!」
「馬鹿。俺の名前だけで外出許可なんぞ出るわけねえだろうが」
「誇らしげになに言ってんだ、このひと!?」
いまごろ城内は将軍不在で騒ぎになっているはずだ。
ブラッドスカイ隊にいる同僚たちの心中を思うと、涙を禁じ得なかった。
──もう、退勤していて本当によかった……。
そんな兵士の嘆きをつゆとも感じていないロイヤルガードは、気のない声で「お」と小さくつぶやいた。
「アレックスに用事なら……、ほら。なんつったっけ……? パジャから亡命してきた騎士を連れて出てったよ」
「グレゴリー騎士団長の相談役と?」
「あいつ、いろいろ頼まれやすいからな。──で、だ。この場で俺を見たことは黙るか、お前の記憶が消えるか。どっちにする?」
アルウィンが薄い唇を広げてかすかに笑う。その白い手のひらにのたうつのは、魔方陣の光だ。
十八番の忘却呪文である。
兵士は思わず額を叩いて、天を仰いだ。
「もーやだ! この将軍!」
そのときだった。
ふいに、空全体が翳った。
陽光が遮られた薄暗闇のなか。
南の空で、強烈な閃光の柱が、彼方の大地を押し潰していくのが見えた。
◇
司の国チャーチ。
聖都セレスティアに向かう峠道を、ふたりの男が歩いていた。
水色の巨大な光の柱──女神の神罰が空を覆い、聖都に降り注いだ、その直後。
翳った空が、ゆっくりと元の平穏を取り戻していった。
低山が多い聖都近辺の峠道は、馬車一台がかろうじて通れる程度の細道だ。
連なる山肌に沿うようにして蛇行する峠道は果てしなく、聖都に着くには普段でも徒歩で丸一日ほどかかる。
鳥の羽音すら消えた不気味な一瞬。
──山が、揺れた。
「うぉっ!?」
足元の岩盤がゆるやかに揺れはじめる。
ついで、すぐ目の前の街道が激しく波打ち、ふたりは立っていることさえままならない。
木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、遠くで獣の鳴き声と慌ただしい足音が響いた。
すさまじい地震は、長く大地を揺さぶり、しばらくしてようやく収まった。
ふと、背後から妙な地鳴りが聞こえた。
ふり返れば、数メートルほど背後の山肌から、倒れた木々が勢いよく斜面を滑り落ちていくのが見えた。
強烈な轟音が容赦なく耳朶を叩く。
揺り動かされた臓腑が、悲鳴を上げるようにどくどくと脈打つ。
土埃舞うなか、ふたりは互いの無事を確認し合うと、小さくうなずいた。
パジャ王国から亡命してきたトーブという壮年騎士が、腹の底に響く重低音を、隣の男に投げかけた。
「見ましたか。あの光……」
「間違いなく、聖都に落ちましたね。……くそっ! 移送法陣をもっと都近くに置いてもらうべきだった!」
ロイヤルガードを象徴する臙脂の軍服をまとう、金髪碧眼の青年・アレックスは、トーブと同じく、山間の向こうに遠く見える聖都を睨みつけて、忌々しげに吐き捨てた。
どちらも長身の男だ。
四十を過ぎたトーブは、白金の騎士甲冑に身を固めた老練な騎士。対してアレックスは、その若さに似合わぬ冗談のような大太刀を背負い、腰にも剛刀を差している。
若輩らしい感情剥き出しの独白を聞きながら、トーブは静かに首を振った。
「そうも言っていられますまい。審の国ジャッジが魔族などとつながっていると公になれば、只事では済みませぬ」
「……それは、そうですが」
ふり返ってくる青年の視線は、やるせなさそうに強張っている。
大国ジャッジの将でありながら、光柱の脅威そのものより、聖都の安否を気にしているのが不思議な男だ。
「いまは、急ぎましょう」
トーブが促すと、「ええ」と即座に返してくる。
歳頃は二十歳そこそこか。
姪のラナが、これくらいだった。
天変地異が起きた直後だというのに、トーブは場違いなことを考える自分に少し驚いた。
それから半日、ふたりは黙々と聖都を目指して歩いた。
光柱が落ちた聖都は、いまなお黒煙をあげている。
「トーブ殿、面目ない」
ふと、アレックスが話しかけてくる。
切れ長の目を左に流して、トーブが静かに尋ねた。
「急にどうなされた」
「俺が、いまもヴィンテージ領を維持できていれば、トーブ殿のご家族の消息も、追えたかもしれないのに」
「…………」
トーブは思わず閉口した。
目の前にあるのは、崩れた城壁と跡形もないセレスティア城だ。
徐々に都の全貌が見えてくるにつれ、その凄惨な光景は心に重しを課してくる。
「アレックス殿は合戦の経験がおありか?」
「大軍を率いての実戦は、まだ」
淡々とした返答に、思わず微笑みがこぼれた。
この男の実力を知らないわけではない。
最年少のロイヤルガード。帯びた刀はどちらも合戦用の重装備であるのに、温和な顔つきがそう感じさせるのか、彼は黙っていると村人に見える。
そんな男が己の経験不足を素直に口にするのが、可笑しかった。
「ならばパジャに一日の長はあるやもしれませんな。我らメーティス家の者は、騎士として生き、死ぬ。それは剣を持たぬ女子どもとて例外ではありません」
アレックスは崩れた王城を見つめていた。
「…………トーブ殿」
「?」
「俺は騎士ではなく、平民の家の出です。ゆえに」
まっすぐな視線が、トーブを射抜いてくる。
平凡な見た目に反した、そこだけは揺るぎない意志を宿した強者の目だ。
「陛下のお考えはわかりかねますが、いち個人としては……あなたがご家族と見えることを後押ししたく考えています」
トーブはアレックスの青瞳をじっと見据え返し、街道に視線をゆっくりと下ろしていった。
なんとなく、この男が言いそうなことだ、と感じた。
騎士ではないくせに、戦いが妙に染み付いている男。
トーブは、ほっそりとした顎に手をやった。
なぜ笑っているのか、自分にもわからなかった。
切り立った崖と、せり出すような岩壁に挟まれた細い峠道。
聖都セレスティアに続く街道も残りわずかとなったころに、ふと、傍らのアレックスが足を止めた。
さきほどまでの温厚な雰囲気は鳴りを潜め、切れ長の青瞳がじっと街道の先を見据えている。
トーブも頬骨の張った顔を左右に向け、耳を澄ませた。
──ガラガラと、けたたましい車輪の音が近づいてくる。
荷馬車だ。
数十メートル先で、荷台を揺らしながらカーブを曲がってくる、二頭立ての幌付き馬車。
御者台には、フードを目深に被った者が二人乗っていた。
車幅ギリギリの細道でも、馬車は一向に速度を緩めない。
下手をすれば幌台車もろとも崖下に真っ逆さまだというのに、御者は馬を急かしてすらいる。
二頭の馬は汗だくで、車輪が悪路の石を跳ね飛ばしていた。
「……トーブ殿。あれは」
「ええ。聖都から来た馬車ですな」
トーブが短く返すと、アレックスは馬車を見つめたまま、静かに声を落とした。
「妙ですね」
「と、言いますと?」
「この道をあんな速度で抜けようなど、正気の沙汰ではありません。まるで──なにかから逃げているようだ」
たしかに、と続けようとしたトーブは、アレックスが馬車に向かって手を挙げる背中を見た。
「そこの方!」
狭い街道の中央に立ってアレックスが呼び止めると、御者があわてて手綱をひく。
興奮気味の馬は唾を飛ばし、鋭くいなないた。左右で交互に鼻先を突き出しながら、二頭の馬がそれぞれ足を止める。
「どうかしたか。急いでいるんだが」
若い女御者だった。
不愛想に街道を見つめたまま、こちらをふり返ろうともしない。
隣では、もうひとりの女がつんと澄まし顔で、御者の肩に頭を寄せている。
トーブがアレックスのすぐ後ろに付いたとき、アレックスはどこにでもいる温和な青年に戻っていた。
「聖都からきた方とお見受けします。昨日見えた光は、いったい……?」
彼の問いかけに、御者に頭を寄せていた女が、うっとうしげに細い眉を寄せた。
「直接見てくればどうですの。ここからならば、それほど時間はかかりませんわ」
「すまないが、私たちは急いでいる」
御者も、早々に話題を斬り上げて、馬を走らせようと手綱をゆるめた。
そのときだ。
後ろから眺めていたトーブの視界に『あるもの』がよぎった。
女たちが乗っている馬車の車輪──その車軸の中心に、蛇の紋章が描かれている。
「アレックス殿。その馬車の紋章は」
犯罪者ギルドのものだ。
みなまで言わずとも、アレックスの視線が、馬車の後ろに残った轍へ落ちた。
つられたトーブも、息を呑む。
──深い。
荷を積んでいる。
「きみたちは、まさか」
アレックスのつぶやきに、御者の指先がかすかに動く。
聖都に落ちた、巨大な光の柱。
そこからやってきたギルドの馬車。
深く刻まれた轍。
アレックスがふと幌台車をふり仰いだとき。
「突っ切る」
女御者が手綱をしならせ、馬の首を叩いた。
アレックスが声を張り上げた。
「その馬車、止まれ!」
甲高いいななきがアレックスの怒号をかき消し、馬車が街道を全速で走り抜けんと迫る。
咄嗟にトーブは街道から岩壁に飛び退る。
その目の前で、アレックスは道の中央に仁王立ちしたままだ。
馬車が、止まらない。
「いかんっ!」
アレックスを引き寄せようとたたらを踏んだ、そのとき。
青年将校の体が、沈んだ。
──消えた。
トーブの目には、そう映った。
馬の腹の下に吸い込まれるようにして、アレックスの姿が視界から消える。
一閃。
銀色の弧が、荷馬車の下で光ったような気がした。
耳をつんざく悲鳴が響く。
自由になった二頭の馬が、たてがみを振り乱しながら前脚を高々と跳ね上げたのだ。
だが、馬車は止まらない。
勢いのままトーブの脇を過ぎ去り、轟音とともに駆け抜けていく。
轢かれた──と、トーブが息を詰めた時、幌台車を支えていたはずの車輪が、ぐらりと歪んだ。
真円を描いていた車輪が、出来損ないの鞠のように、ガクン、ガクンと不規則に跳ねていく。
支えを失った幌台車の底が、外れかけの車輪にわずかに引っかかり──そのまま、トーブの背後で力なく地面へと沈んでいった。
遅れて、真っ二つに割れた車輪が地面に転がり、ドスン、と重い音を立てる。
もうもうと立ち込める土煙のなか、馬車はようやくその動きを止めていった。
「⋯⋯は?」
トーブが顔を庇った手をどけて馬車を脇見れば、岩壁に突っ込んで止まった荷馬車は御者台がつんのめるように深く沈み、幌台車は崖に向けて尻を高く上げていた。
幌台車の先で、アレックスが背中の大刀と腰刀を抜いたまま、悠然とふり返ってくる。
(──くぐって、払い斬った……のか……?)
トーブの疑問に、答える者はない。
潰れた御者台に人はなく、連結を失った馬だけが、幌台車を置き去りにトーブの脇を抜けて街道の先へと走り去っていく。
一歩踏み込んだトーブのすぐ後ろで、呻き声が立った。
御者台から飛び降りた女御者が、連れの頭を抱え、転がりながら受け身をとる。
さらに抱え込まれた連れの女が、鋭く右手を突き出した。
「おとなしくなさい!」
幌台車の向こう——街道を駆ける馬の脚が、びたりと止まった。
その蹄の下で、小さな魔法陣の光が、くるくると踊る。
「……どうやら、只者ではないらしい」
立ち上がったふたりの女を見据えて、アレックスがつぶやく。
トーブもうなずき、ふり返って女たちに対峙した。
受け身を取った拍子に、女のフードが背中に流れ落ちていた。
あらわになった素顔に、トーブは思わず息を呑む。
どちらも、目が覚めるような美貌だ。
特に、褐色の肌につややかな黒髪を持つ女御者から、視線を剝がせない。
眉骨の張った彫り深い顔立ち。
きりりと弓状を描く眉は太く、鼻筋がすっと通っている。
肉感的な分厚い唇は気難しそうに真一文字に結ばれ、二重瞼のアーモンドアイが、長い睫毛の下で、神秘的な輝きを湛えていた。
大陸では「呪い」と同義の赤い瞳が、静かにアレックスを見据えている。
彼女の傍らで、金髪碧眼の修道女が忌々し気につぶやいた。
「走る馬車の車輪を斬るですって? なんてデタラメな」
修道女は溜息混じりに頬に垂れ落ちた黄金の髪を背中に払い、豊かな胸を強調するように背中を反る。その手に握られた長大な杖が、地面を擦った。
修道女の青い瞳は、ぞっとするほど冷たかった。
黒髪の女が、背中に手をやる。大太刀──アレックスが持つ冗談のような長刀と変わらぬ、大型の得物だ。
「臙脂の軍服に左胸の勲章──……ロイヤルガードか。厄介だな」
「たしか魔法もできるんでしたわね。わたくしの魔法とどちらが上か、争ってみます?」
ふたりはトーブなど、まるで見ていない。
幌台車を背に、じりじりと移動して、アレックスと向かい合う。
街道中央に仁王立ちしているアレックス、岩壁側に控えたトーブ、幌台車を守るようにアレックスと対峙するシャロンたち。
(よほど荷が大事ということか)
トーブが独りごちる。
アレックスは腰刀を納めて、大太刀を青眼に据えていた。
距離にして、六歩。
どちらかが踏み込めば、始まる。
空気が張り詰めた、そのとき。
「遊んでる場合じゃないわ。さっさと片付けましょう」
幌台車から、さらにダークエルフが降りてきた。
こちらもローブを羽織っている。つややかな黒髪を後ろで高くひとつにまとめ、手にした弓は、細身だが長大だ。
ダークエルフは、幌台車にぴたりと張り付いて、トーブとは馬車を挟んで斜向かいの崖側に陣取っていた。
シャロンたちがトーブに気を配らないのも当然だ。
トーブがアレックスに加勢すれば、幌台車の影に潜んだダークエルフの弓に射られる。
女三人──いずれも長身で、立ち振る舞いに隙がない。
金髪碧眼の修道女。ダークエルフ。大太刀を背負う『赤目』の女武芸者から成る、名の通ったパーティ。
亡命当時に利用した犯罪者ギルドの情報が、トーブの脳裏をよぎった。
「アレックス殿! こやつ、シャロン・エスペランザ! 『血染めの魔女』と呼ばれている女です。お気をつけくだされ!」
ただし、トーブの記憶によれば、シャロンとは赤髪の女のはずだ。
美貌こそすさまじいが、目のまえの、腰まで流れる女の髪は黒い。
赤い瞳。大太刀。あの立ち姿。
髪の色だけが、記憶と違っている。
それでも──この女が、シャロンだ。
騎士の直感が告げている。
「承知」
アレックスが短く答えた。
大太刀をぴたりと正面に据え、ただ相手の動きを見ている。
そのとき、かすかな物音がした。
目を凝らすと、幌台車の崖側から新たな女が這い出てきた。
魔法で足止めされた馬に、全速力で駆け寄っていく。肩で、妙に大きなズタ袋を担いでいる。
新たな女はズタ袋に体が隠れるほど小柄だ。
足取りに迷いがない。
「アレックス殿! やつらの仲間のひとりが!」
狙いは、ミリアに足止めされた馬だ。
小柄な女は馬に追いつくと、馬背にズタ袋を引っ掛けた。
自らが乗馬するまえに手綱で馬の頬を叩く。
足元の金環が外れ、馬が勢いよく走り出す。
女も並走しながら手綱にぶら下がった。
——やがて跳ね上がって、軽々と鞍をまたいだ。
わずかにゆるんだズタ袋の口から、土埃と血にまみれた肌色が垣間見えていた。
「逃すか!」
アレックスの叫びと同時、馬のすぐ傍に真っ黒な球が生じた。
馬が興奮して、前脚を上げる。
小柄な女が振り落とされまいと手綱を繰る。
高いいななきが響いた。
逆巻く暴風が、馬の巨体を黒球のなかに引きずり込んでいく。
「ディスペル!」
突風に足を取られ、引き倒された馬がいななく間に、黄金の光が黒球とぶつかった。
黄金の光と漆黒の闇がひとつの歪な球体に融合していき、くるくると回る。
空気が、止まった。
黒球が爆ぜる。
横倒しの風が霧散していった。
ミリアが立てた人差し指に、ふっと息を吐きかけて魔法陣をかき消すと、きゅっと口端をつり上げた。
「わたくしの前で、そのような魔法が使えるとでも?」
剣撃音が、鋭く鳴る。
固まるミリアのすぐ傍で、アレックスの大上段をシャロンが正面から受け止めた。
褐色の女剣士が雄々しく叫んで剣尖を跳ね上げる。
詠唱中も構わず動けるロイヤルガードに、シャロンが食らいついている。
トーブが驚きに目を丸めたそのとき。
馬車と岩壁の隙間で、弓が引き絞られているのが見えた。
直線状──狙いは、アレックスだ。
「アレックス殿!」
鋭く踏み込み、三者に割り込むようにして飛ぶ矢を払い斬る。
鈍い。丸太のような手応えで、一瞬弾かれかけ、腕が軋む。力づくでふり斬った。
矢は二つに折れることなく、地面に叩き落ちる。
落下した矢は見た目の華奢さに反して、ド、と重苦しい音を立てて転がった。
アレックスのすぐそばに駆け寄ったトーブが、弓を構えるダークエルフへ声をかける。
「弓矢ごときならば切り払えましょう」
「助かります」
アレックスは、ズタ袋とともに馬に乗って去った小柄な女・暗殺者のネイを目で追っていた。
岩壁から狙撃したダークエルフのペイトが、警戒した視線をトーブに向けてくる。
「私の魔力を込めた弓矢が払われるなんてね」
「わたくしがディスペルで魔法解除したことも、あまりショックではないようですわ」
軽口を叩き合うペイトとミリアをそのままに、シャロンの視線は相変わらずアレックスに据えられたままだった。
「――あの男の斬撃、アドムに匹敵するかもしれん」
シャロンのつぶやきを聞いた
「世界最高というだけはありますわね」
「なんにせよ、こいつらを振り切らないと私たちも捕まってしまうわ」
ダークエルフのペイトは、ため息混じりにつぶやく。ハスキーがかった声には、達観した響きが含まれていた。
シャロンが大太刀でアレックスを牽制したまま、言った。
「荷物を運べている以上、ここでこいつを倒す必要はない。私たちは時間をかせいで撤退することが大条件だ」
「油断なりませんわ、シャロン。あの男、無詠唱で遠隔魔法を使いました」
「ミリアが言うならそうなんだろう」
シャロン一味が落ち着き払っているのも無理はない。
馬車前に立った三人の向こう──馬に乗って逃走するネイは、もう峠道の曲がり角にたどり着こうとしていた。
「アレックス殿! このままでは」
トーブがつぶやいた、そのときだ。
突如、アレックスが大上段に振りかぶった太刀を、その場で地面に叩きつける。
(どこを狙って──!)
あらぬところを空切る刃にトーブが眉をひそめたとき、はるかかなたで、角を曲がろうとしたネイの眼前に、地面から生えた岩が槍衾となって襲い掛かった。
馬が悲鳴を上げる。
岩塊はそのままネイの進路を完全に塞ぐ壁となり、峠道にそびえ立った。
「退路を断たれた!?」
「地形を変えるだと!」
「デタラメにもほどがありますわ……!」
シャロンたちがいま見た光景を信じられず、口々につぶやく。
アレックスは大太刀の剣尖をシャロンに向け、淡々と告げた。
「荷は置いていってもらおう。命が惜しくばな」
「そうはいかん。そいつにはしゃべってもらわねばならんことが山ほどある」
シャロンの物言いに、アレックスの青瞳が静かに細まる。
「ならば全員、まとめて捕らえるまで」
「すまないが、ただの人間に私を捕らえることはできん」
「?」
ロイヤルガードを前にしても、妙な余裕を感じさせる言葉だった。
アレックスが訝しげに眉をひそめる。
そのときだ。
シャロンの黒髪が静かに広がり、波打ち始める。
彼女の足元から煙のように湧き出してくる紅い風は、その瞳と同じく、血の色を思わせる不気味な気配を帯びていった。
「……きます!」
トーブが鋭く声を上げる。
気のせいではなかった。
渦巻く紅い風に髪が躍るたび、シャロンの艶やかな黒髪は、根元から燃え上がる炎のような紅へと侵食されていく。
彼女のなめらかな褐色の肌はみるみる色を失い、現われてきた血の通わぬ陶器のような白皙が、煌々と光る赤い瞳の禍々しさをさらに際立たせた。
「やつは、シャロン・エスペランザは赤髪の魔女と呼ばれているのです!」
その名を耳にした瞬間、シャロンの肉厚の唇が、笑みの形に歪んだ。
「ロイヤルガード、人の身では届かぬ高みがあると知れ」
冷ややかな声は、まさに死刑宣告だった。
シャロンを中心に吹きすさぶ風。
トーブの全身が総毛だった。
神経が凍り付いたように指一本動かせない。
痺れるほどの痛みを伴う緊張感だ。
シャロンはただ、優雅に立っている。
「亜人……とも違うようだが」
アレックスが大太刀を青眼に据え、わずかに足幅を広げた。
「終わりだ」
シャロンが一気に踏み込む。
いつ背中の大太刀を抜いたのか、トーブにはまったく見えなかった。
「いかん! アレックス殿!」
トーブの制止も間に合わない。
金属同士がひしゃげるような音が、峠道に響き渡っていった。
重苦しい衝撃だった。
ただの剣戟ではあり得ない、圧倒的な質量を伴う衝突。
空気の塊がぶつかってくる余波に、トーブは咄嗟に頭を庇い、目を眇めた。
アレックスのくぐもった声が聞こえる。
大陸最高峰とされる剣士は片膝を地につきながらも、その一撃を正面から受け止めていた。
(この大太刀を、片手で……!)
「ほう」
シャロンが感嘆したように目を細める。
「私の一撃を、真っ二つにもならず止めるか。大したものだな、ロイヤルガード。だが──これでわかっただろう。普通の人間では、私にはかなわない」
ぴくり、とアレックスの眉が動いた。
「……人外か」
彼は静かにつぶやき、剣尖を跳ね上げる。
体格差があってもシャロンは微動だにしない。
アレックスが一足で飛び退り、淡々と言った。
「望むところだ」
「なに?」
その一言と同時に、アレックスのまとう気配が変わった。
風が、巻く。
アレックスを中心に気脈が吹き荒れ、その全身から黄金色の光が沁みだしていく。
(──これは、勇者の技? いや、違う)
シャロンの赤い瞳に、はじめて明確な困惑がよぎった。
アレックスが起こした風で、彼の金髪がゆるやかになびき輝く。
冷たく冴えわたる青瞳には、手にした大太刀と同じ鋭い光が宿っていた。
(なんだ、これはっ)
シャロンが柄を握りなおす。
ペイトは、すっきりとした褐色の頬のうえに、結った黒髪の一房が垂れ落ちてくるのもかまわず、目の前の現象を見つめていた。
「まさか、アドム・ヴィンテージのように自分の気を高めることができるとでも? どうして、そんなことが人間に……?」
「わかりませんわ」
ミリアが軽く首を横に振る。いつも自信に満ちている白皙が、めずらしく強張っていた。
「けれど、焦ることはありません。わたくしとあなたと、そしてシャロンがいれば……」
そこまで言って、ミリアの声が途切れた。
「──シャロン?」
問いかけにも、シャロンは答えない。
男を見据えたまま、その脳裏では小さな違和感がひっかかっている。
(こいつは馬車を止めるとき、馬を斬らなかった)
沈黙したまま、シャロンはわずかに視線を上げた。
「退くぞ」
「なっ——!」
「ここでこいつと戦うと、ひとがもっと集まってくる。そうなれば、追われるのは私たちだ」
「ですが!」
食い下がるミリアに、シャロンは短く言い切った。
「この男は私たちを追ってはこない」
その断定に、ミリアが息を呑む。
しばしの逡巡ののち、彼女は不服そうに、小さく頷いた。
「……わかりました」
「なにをぬかすか!」
トーブの怒声が、ふたりの会話を打ち消した。
「貴様らのような犯罪者を逃がすわけがあるまい!」
シャロンは意に介さず、大太刀を一閃させる。
切っ先が、地面そのものを撫でた。
「なにっ!」
アレックスが叫んだときにはすでに、峠道の一角が大きく口を開けている。
地響きとともに崩れ落ちる岩盤。
シャロンは眉ひとつ動かさず、自らとミリア、ペイトの足元ごと、その崩落に身を投げた。
「ロイヤルガード、ここは貴様に預ける」
崩落していく峠道の奥から、シャロンの声だけが響いてくる。
轟音を立てて滑り落ちた岩塊は、すさまじい土煙を上げて、三人の美女をあっという間に呑み込んでいった。
はるか崖下、鬱蒼と茂る雑木林へと——崩れた岩盤は落ちていった。
「……あれでは助かるまい」
はるか崖下で轟音が響き、峠道にまでわずかな振動が伝わってくる。
雑木林のなかにできた岩塊の一角を見つめて、トーブがつぶやいた。
傍らのアレックスも、崖下を眺めている。トーブが歩き出そうとしても彼は動かない。
アレックスは崖下を見つめながら刀を納め、独りごちた。
「赤髪の──シャロン、と言ったか」
アレックスは足元の滑らかな断面を見つめ、拳を握る。
兼定でもない大太刀で、崖ごと切り落としてみせた女。
(……おのれを人外と称するのも伊達ではない、か)
アグニと言い、シャロンと言い。
魔界を含めずともアドミニシア大陸には、アレックスの知らない強者が眠っている。
(それでも)
アレックスは顔を上げると、トーブと視線を交わして、小さく頷いた。
(我々ロイヤルガードが、最後に勝つ)
シャロンが身投げした可能性など、アレックスは微塵も考えていない。
馬で逃走しようとした小柄な女も、いまの一幕の間に、馬もズタ袋も置いて撤退していた。
「……トーブ殿、荷をあらためましょう」
「ええ」
岩塊に阻まれて立ち往生している馬に近づき、ぐずる馬をあやす。その背に載せられたズタ袋は見た目以上に重く、持ちづらかった。
妙に温かくてやわらかい。
トーブはその口を開けた瞬間、絶句した。
「やはり——ひとです!」
覗き込んだアレックスの表情も、凍りついた。
「まさか、この方は……!」
ズタ袋から現れてきたのは、恰幅の良い男だった。
逃走防止に足首に縄をかけられ、靴を履かされていない。
男の青白い素肌は土と血にまみれている。
黒い豪奢なマントは、ところどころ破れ、煤まみれだ。老齢に差し掛かろうとしている男の口元は、刺繍入りのハンカチを噛まされ、頭の後ろで強く縛り上げられていた。
そしてなにより——マントの留め具になっている金装飾には、司の国チャーチを象徴する、太陽と王冠の紋章が刻まれている。
「チャーチの、カーネル国王陛下!」
アレックスの驚きの声が、街道に響く。
さらにシャロンたちが引いていた幌台車をあらためれば、もうひとつ、ズタ袋が見つかった。
そちらはチャーチ国王を補佐する最高神官——ハルノ・テンペストが同じように猿轡をされたまま、後ろ手に縛られて気を失っている。
「……アレックス殿、いかがいたします」
トーブが短く指示を仰ぐ。
アレックスはハッとして、すぐさまふたりの容態を確認すると回復魔法を施していった。
青年将校の顔にはまだ動揺が残っているが、彼はこちらを見ると、毅然と言った。
「一旦、お二方を本国にお連れしましょう。聖都の様子は、そのあとに確認します」
「承知」