ある国で起きていた戦争を、様々な視点から見た群像小説。
主人公とヒロインは彼等の生き様に何を思うか。

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アイリス・テレジア

 今思い起こすと、当時俺の目の前に突き付けられたそれはきっと、神による救いの手だったのだろう。

 

 遠くで将校たちの酒宴の声が聞こえていた。日はすっかり落ち、暗がりにぼんやりと焚火が光っている。酒瓶の衝突、唾を飛ばしながら語られる武勇伝。それらはこの戦場では日常だった。スティヴァリ基地を訪れて五ヵ月になるフリードリヒは、その様子をテントの中、目を閉じたままでも思い浮かべる事が出来た。

「先輩、聞いているんですか? そのメモ帳から、手を離せと言っているんです」

 だが、自分の目の前で喚く少女の姿はそれよりも容易に思い浮かべる事が出来る。

 彼は閉じていた目を開けた。

 視界に広がるテントの中には、小さな机と椅子、人一人がようやく横になれる程度のスペース、薄汚い部屋。

 だが今は金色があった。

「勿体ぶらずに、早く返してください」

 金の髪を振り乱し、彼女はそう訴える。フリードリヒは彼女の目的の品である、拾い物のメモ帳を摘み上げた。それはぼろく、いかにも使い古されており、彼にとっては何の価値もない。だが、彼は妙に虫の居所が悪かった。それはごろごろと未だ外で引きずられている車輪の音が、脳裏に焼き付いて離れないからか、硝煙が鼻をついてどうしようもなかったからか。

 理由は彼自身にも分からなかった。

「これは拾い物だ、アイリス一等陸士。そして、俺は君の上官であって先輩じゃない。君にそのような口調で呼ばれる筋合いはないはずだが」

「それが何ですか。先輩は私の上司だと言いますが、単なるコネですよね。士官学校では私の方が成績上位でした。そんな事よりも、早くメモ帳を返してください」

アイリスは瑠璃色の瞳を細め、フリードリヒを睨んだ。しかし、その視線の大半は、彼の指先のメモ帳に注がれていた。

「なるほど」

フリードリヒは腕を組み、深く頷いた。

「まぁ、君の上官に対する無礼は今更だ。特に咎めはしない」

「当たり前です」

「その自信が一体どこから来るものなのか、はたはた分かりかねるが、今俺に向けているそれはどう説明するつもりかな、アイリス=テレジア一等陸士殿。叙説の如何によっては軍法会議ものだぞ」

 そう彼が言うと同時、テント内に一種異様な雰囲気が漂い始めた。外のバカ騒ぎに呑まれかけていた先ほどと打って変わって戦場のような、いやもっと直接的に剣を互いの喉元に突き付けあっているかのような張りつめた空気が流れ始める。

 先ほどまでの飄々とした態度とは違い、彼は厳しい目で彼女を見つめた。流れ始めた空気の正体はアイリスの細い右手にあった。彼女の煤に汚れた手に握られていたのはディアトロフ陸軍指定拳銃。人を殺すための、戦争の道具である。

「これは正当防衛です。フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿」

「ほう、正当防衛とな? まさか勝手にそちらから俺のテントに来ておいて、貞操の危機だのと世迷言をのたまうつまりではあるまいな」

 フンと鼻を鳴らし、彼は挑発するように顎を上げた。

「まさか。そのような事はございません」

 安い挑発に腹を立てた様子もなく彼女はしれっとそう言って、いつもの無表情でフリードリヒを見つめる。

「じゃあ、言ってみろ。お前が考える正当な理由とやらを」

 調子を崩されながらも、彼は顎を触りながらそう言った。

「はい。私は現在、フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿に心臓を親指と人差し指で摘ままれ、不安定な空中にてゆらゆらと揺らされている現状にあります。このような命の危機に瀕しまして、私はこの生命を守るべく銃を抜くべきであるという判断を下しました」

 アイリスは淡々と、至極当たり前の事を述べるかのようにそう告げた。しかし、その言葉にフリードリヒは目を丸くする。そして、言っている意味を理解した後、腹を抱え大声で笑った。

「ははは! アイリス君はもしかしてこのボロくて汚いメモ帳が君の心臓だとでも言うつもりか!」

 そんな事は有りえないとばかりに、彼は椅子がひっくり返りそうになるほど仰け反る。

 気づけばテントの外で鳴っていたリアカーの音は止んでいた。それに気づき、フリードリヒは口元に浮かべていた笑みを収めた。代わりに、ぽいと机の上にメモ帳を放り投げる。

「それは申し訳ない事をした。ほら、そのメモ帳を返すよ。元より俺には何の価値もないものだ」

 リアカーの音はもう聞こえない。それは既に今日の役目を終えていたらしかった。いつもなら夜十二時になっても鳴りやまぬその音が、九時には止んでいる。素晴らしい事だ。少なくとも、彼にとってはそうだった。

「ありがとうございます、先輩」

 アイリスは銃をホルスターに収めるのもそこそこに、メモ帳へと飛びついた。人差し指と親指で勢いよくページをめくり始める。フリードリヒは、ぼんやりとその姿を眺めていた。年齢差は二。自分が二十三で、アイリスが二十一。特待生として入学し、二年飛び級した彼女とは、ディアトロフ陸軍士官学校の同期。しかし身分は彼の方がずっと上だった。フリードリヒは名家アレクサンドリアの次男。一方、アイリスは親無しの子供。

 そんな二人を繋げたのは、偶然この北方の戦場スティヴァリ基地に派遣された事ではない。また、アイリスがフリードリヒの率いる第四防衛線第三小隊に所属する事になったからでもない。

「確かに受け取りました。フリードリヒ=アレクサンドリア士長殿。本日は私の不注意により、ご不快な思いをさせてしまった事を誠に申し訳なく存じます」

 一通り内容を確認し終えたのか、彼女はメモ帳を胸ポケットに入れると、ピシッと背筋を伸ばして敬礼をした。

「どうした? そんなにかしこまって。今までそんなのした事ないだろ」

「命を救われたのです。当然でしょう」

 たかがメモ帳を回収した如きで、アイリスはひたすらに畏まり、素っ頓狂とも言えるような態度でそんな事を言った。

「命……か……」

 彼は伏し目がちに彼女を見つめながら、胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥える。ライターはどこへいっただろうかと、ポケットをまさぐる。しかし、見つからず「すまん。ライター持ってないか?」と彼女に尋ねた。

「持ってないです。あと臭いので私の前では吸わないでください。臭いが移ります」

「上官に対して酷い言い草だな」

 鼻で笑いながらフリードリヒは吸っていない煙草を地面に落とし、つま先でグリグリと踏みつけた。

「それに臭いなんて、鼻はもう硝煙で馬鹿になってる。風呂も長い事水浴びとタオルで拭くだけだ。今更だろ」

「今更でもです。だって、私達は生きているのですから。日常を忘れては、帰れなくなります」

 毅然として言う彼女は無表情だ。しかし、その瞳に確かな輝きが秘められている事が彼には分かった。

「俺達は軍人だ。帰る所は戦場(ここ)か、あの世(むこう)の二ヶ所しかない」

 フリードリヒは聞き分けの悪い子どもを諭すようにそう言って、「用が済んだなら、もう帰れ」と手をひらひらと振った。アイリスは何も言わず、くるりと踵を返して一歩踏み出し――途中で振り返って

「先輩。中、読みましたか?」

 そう尋ねた。

「いや、読んでない。そこまで俺は人でなしじゃない」

 彼は尻ポケットにて発見されたライターを手に取り、新たな煙草を出して火を点けた。煙がその表情を覆い隠す。だからアイリスはそう言った時の、フリードリヒの表情を読み取る事が出来なかった。そして、それはフリードリヒもまた同様であった。

「そうですか。それはよかったです。私も先輩を殺したくはありませんので」

 ただ、彼女の玲瓏なその言葉だけが彼の耳に残る。口の中に煙が充満し、吐き出されるのを今か今かと待ち構えていた。そんな彼等を救済するが如く、フリードリヒがふぅと息を吐く。口から漏れだした白煙が消え、視界が晴れた時、アイリスは既にもう彼のテントから出ていた。

 余韻に浸りながら、先ほどのやり取りが自身の命の危機に直結していた事を思い出す。再び煙草を口に咥え、吸うと同時にゆっくりと目を閉じた。

 拳銃の照星、その奥に見える照門、そしてその更に奥に輝くラピスラズリの如き瞳。

 息を吐く。

 しかし、それ以上に彼を魅せたのは黒い銃口だった。

 口からゆらゆらと煙が零れる。

 見慣れたはずのものだった。敵兵の、拳銃よりも殺傷力がずっと高い小銃に五ヶ月もの間晒されてきたフリードリヒにとっては、何の変哲もないはずのもので馴染み深い『死』であった。

 再び口に煙草を咥え、深く息を吸う。

 アイリスが過ぎ去った後でも、その姿は簡単に思い浮かべる事が出来る。両頬に垂れた二筋の不揃いな金髪。長いそれは後頭部の中腹辺りで水色のリボンによって縛られ、怜悧な性格とは対照的に馬の尻尾のように跳ねている。軍服に着られている華奢な体躯に、泥に汚れ不格好な袖口。

 気づけばリアカーの音が再び鳴り始めていた。徐々にその音が近づいてくる。初めは頭の端でチリチリと鳴っている程度だったのが、脳髄の辺りで不協和音を奏で始める。

 彼は目を開いた。

 リアカーは一端動きを止めていただけで、その責務は未だ続いている。その事実にフリードリヒは現実を突きつけられる。

 先ほどアイリスに突き付けられた拳銃よりも、その事実は彼に現実を突きつける。

「おい、もう落とすなよ」

 リアカーを引く音と共に、彼のテントにそんな声が飛び込んで来た。

「分かってるよ。さっきは悪かったって」

「ホントだろうな。俺だって気味がわりぃんだ。こんな死体運び(・・・・)なんて仕事、後方の女どもにでもやらしときゃいいのに」

「しょうがねぇだろ。こいつは重いんだ。虚弱な女子供には出来んさ」

「ちげぇねぇ」

 諦めにも似た乾いた笑いがこだまする。フリードリヒは息を潜めて彼等が過ぎ去るのを待ち、そしてむせた。不純物を長い間口に留めすぎたせいか、はたまたむせかえるような死臭に当てられたせいか。

 彼はげほげほと咳を続ける。それが止まる様子はない。狭まる喉を抑え、酸素を求め右手が空を切る。それが机に当たり、置かれた万年筆が転がった。酸素の欠乏という根源的な死の恐怖に苛まれながら、フリードリヒの脳裏にある一つの考えが浮かぶ。

 ――これは安らかな死かもしれない。

 共に死ぬ仲間はいない。

 だが、銃声もしない。あるのは酒盛りのバカ騒ぎだけだ。

 なにより、ここには硝煙の臭いも死体の臭いもしない。ここで死んだら、地を這う蟻や蛆どもの餌になるという不名誉は避けられるだろう。

 彼はそんな事を考えた。そう、考えただけだ。当たり前だ。たかがむせただけで死ぬのなら、集合住宅の中は死体塗れになっている。

 そんな場所はここだけで十分だ。

 咳が止まっている事を確認するようにフリードリヒは、一つ咳払いをした。

 そして、深く椅子に座る。転がった万年筆はそのままだ。

 ――ここで安らかな死があるとすれば。

 彼は先ほどの情景を思い起こす。

 二人を繋げたのはスティヴァリ基地での出会いでも、上司と部下という関係性でもない。

 

 フリードリヒとアイリスを結んだのはたった一冊の汚いメモ帳と、救済を示す一丁の拳銃だった。

 

 

 

 ディアトロフはホフマン地方の中央に所属する多民族国家である。そこは二十七あるホフマン地方に存在する国家のうち最も商業に長け、物流の盛んな国であった。週に一度、日曜日に各都市で開かれる市場は春夏秋冬問わず栄え、そこではホフマン地方内外の名産品・特産品が集まる。市場は活気に溢れ、石畳で整備された街道は諸国家を結び、馬車の行き来が絶える事はない。街道の所々に見られる宿場町の中でさえ、商人同士の値切り交渉を見る事が出来た。

「ディアトロフにない物は世界のどこを探してもない」

 だから人々がこんな風に口を揃えて言うのはもはや必然だった。

 しかし、それを快く思わない者もいる。しかも運の悪い事にその国は、ディアトロフのちょうど上に位置していた。

 宗教国家レゲネト。

 節制と祈りこそが人間の本質であると唱え、主神イゾルデを信仰する白盟教徒によって運営される都市国家である。レゲネトにおいて商売は賤しいものであり、それを行う者は非人間的で人道にもとり、忌むべき存在だった。

 彼等は嘆き、そして怒っていた。自らの隣人がそのような卑賎な行いに手を染めた事に怒り、商売人などという身分に身をやつした事を嘆き憐れんでいた。そして、レゲネト内ではそんな彼等を救わねばならぬという機運が高まっていく。

 が、実際それは隠れ蓑であった。先ほどのような「商売は賤しい」という宗教観は確かに存在するが、目くじらを立てるほどのものではない。しかし、自由貿易により自国の商品が売れぬ事に怒りを覚えたレゲネト上層部は、その感情を利用して戦争を引き起こしディアトロフの足を引っ張り、挙句の果てに戦勝によって土地と賠償金をむしり取ってやろうと企んだのだ。

 だが、そんな事情など知らないディアトロフとしてはいい迷惑だ。勝手に怒られ、勝手に憐れまれ、挙句の果てに「救わねば」などと謎の使命感と共に右手を差し出してくる。

 だから彼等は言った。

「いい迷惑だ。こっちはこっちで勝手にやる」

 それにレゲネトは答えた。

「可哀想に。私達が救ってやろう」

 これが四年にも及ぶニエンテ戦争の始まりである。

 

 ディアトロフ側に得る物はなく、レゲネト側は救世主を隠れ蓑として利権が得られる。ありふれた戦争。けれど、そこで戦う兵士はかけがえのない存在だ。

 経済規模はディアトロフの方が圧倒的に上だったが、レゲネトには庶民から徴収した五分の一税による莫大な収入源があった。戦力は拮抗し、ディアトロフは開戦から一年半が経過した頃、徴兵のためにポスターを街に張り出し始める。それは瞬く間に街を彩り、酒場の背景の一部となった。新聞の一面を飾った。

 そこに描かれていたのは椅子に座った父親。その膝の上で本を持って男性の方を向く五歳ほどの少女。その口は僅かに開かれており、ポスターの下部には彼女が発したと思しき文字列が刻まれている。

「お父さんは何してたの?」

 少女は父に向かってそう尋ねている。

 徴兵ポスターだ。

 答えは決まっている。

『国のために兵士として勇敢に戦ったのさ』

 きっと絵の中で彼はそう雄弁に語るだろう。それに続けて「お父さんは最前線のスティヴァリ基地で~」と武勇伝が続くかもしれない。とにかく、国としてはその答えを望むだろう。

 しかし、これはそんな兵士の物語ではない。

 国のために戦った名誉ある兵士たちの話ではない。

 自分のために戦った、エゴイズムに満ちた醜く、汚い人間の物語だ。

 非国民で、国家の敵。

 彼等はきっとそのポスターに唾を吐きかけただろう。そして言う。

「武勇伝として語れるような物語は、あそこにはなかった」と。

 ならば、どうしてそんな場所にいたのか尋ねてみようではないか。

 

「君たちは何のために戦ったのか?」と。

 

 

 第一節 畢生の鎮魂者

 

 夏空、入道雲がその威容を誇っていた。澄み渡った空気の中に、戦闘の香りが僅かに残っている。それがスティヴァリの日曜日だった。基地内はほんのりと浮ついていて、あちこちで兵士達の会話が聞こてくる。昨日の戦いで誰が死んだ、戦況はどうか、珍しい物資が届くらしい。そんな会話が繰り広げられている。日常と戦争の同居。戦場でありながら、そこに生きる者には日常がある。それは一見、歪そのもので。その最たる例が、今舞台の上に立っている一人の少女だった。

「ラーサ=ドローグです。みなさん、よろしくお願いいたします」

 ラーサは、観客席に向けて深くお辞儀をした。赤い髪が重力に従って落ちた。彼女が頭を上げる。そばかすの浮いた頬に、翠緑の瞳。彼女は胸に付けられた赤いコサージュと共に、鮮烈に観客席を臨む。だがそこに観客はいない。彼女は一人、ベニヤ板で作られた舞台の上に立ち、無線機を握った。

「私の歌が、みなさんの心の安らぎになればと思います」 

 無線機に向かって発せられた言葉が、拡声器によって基地全域へと届けられる。日曜日、昼の十二時から始まるラーサの歌は、曜日感覚を失わないための恒例行事だった。

 彼女の歌は軍歌から始まる。伴奏はない。ラーサの声だけでその歌は紡がれる。軍歌とは本来大人数で歌われるものだ。二十歳の少女だけでは到底重みが足りない。だが彼女は必死に声を張る。軽く、高い声。空へと抜けて行くその声で、祖国ディアトロフの素晴らしさを歌った。

 朝日を受け、我が祖国は栄光に輝く。美しき風、土地は天に救われる。大地は神に祝福された。だがそれに暗雲が立ち込める。敵の軍勢が、濃い霧の岸辺に見える。それを討て、ラーサは歌う。砲弾が赤く光り宙で炸裂する。窮地に陥り、矢継ぎ早に戦いは続く。それでも故国を荒らす敵を討てと彼女は叫んだ。その前を二人の兵士が通りがかる。「珍しい生き物がいるぞ」「ハリネズミか」彼等は談笑しながら、ラーサの目の前を過ぎて行く。

「ご清聴ありがとうございました!」

 歌い終わり、荒れた息を整えた後、彼女は再び頭を下げた。兵士たちはそれを一瞥し、彼女に向かって片手を挙げ、市場の方へと歩いて行った。ラーサは頭を上げ、彼等の後ろ姿を見つめる。彼等はもう振り返らない。彼女は手に握った無線機を強く握り直す。彼女の翠緑の瞳に睫毛が下りた。

「二曲目は、このスティヴァリに伝わる民謡です。あの幸せな時を、思い出して頂ければと思います」

 ラーサが故郷を歌うと、辺りの喧噪が大きくなっていった。お昼時という事もあり、テントの内外を問わず人が活発に動き始める。週に一度の休暇を生かし、最寄り街まで食事に行く者。乾パンと水を齧りながらカードを弄る兵士。談笑する看護師や、銃の点検をする工兵。彼等は彼女の前を次々と通り過ぎて行く。誰一人足を止める事無く、各々の目的のために進む。

「今日の昼はどの部隊が作るんだ?」

「補給の三番だってさ。大外れだぜ」

「うげ。じゃあ町に行くか。お前、何食いたい? 奢ってやるよ」

「え、本当ですか! ありがとうございます隊長!」

 ラーサの前を、先輩と後輩が過ぎて行く。彼等の相貌に憂いはない。ラーサは故郷を歌う。それが誰に求められるものでないとしても。

 日曜日。スティヴァリ基地に平穏が訪れる。人は殺されず、砲撃音に怯える事もない。人間が人間らしく生きられる時間。それがニエンテ戦争における日曜日。神によって定められた休日。異教の神が定めた規律でも、兵士たちにはありがたい。恩恵が享受出来ればそれでいいのだ。だが、そんな日曜日が戦場であった者がいる。

 それが今一人、舞台の上で伴奏もなしに歌っている少女だった。

 

「皆さん、ご清聴ありがとうございました」

 一時間ほどで歌は終わり、彼女はその言葉と共に舞台から飛び降りた。胸につけたコサージュを外しポケットに突っ込んで、片付けを始める。ビールケースの上に並べられたベニヤ板。先ほどまで舞台だった場所を解体するべく、ラーサは軍服の袖をまくった。その横を三人の兵士たちが進む。

「もうこんな時間か。ポーカーでもするか?」

 彼等の内の一人が舞台から降りたラーサを見て、そう口にした。

「いいね。何を賭ける?」

「煙草でどうだ?」

「えぇ~私吸わないんだよ。他の――飴とかにしよう」

「お前はガキかよ」

「私だって一応女なんだから、甘い物が好きなの。ガキじゃなくて、女だと言って」

「別に男だって甘い物は好きだ。女だから甘い物が好きっていう方程式は間違いだな」

「なら、あんただってガキだね」

 三人はそんな事を話して歩いて行った。その笑い声を背に、ラーサはベニヤ板を纏めて持ち上げ、テントへと戻す。ビールケースと無線機も同様にしてテントへと戻し、額に浮いた汗を腕で拭う。

 片付けを終えた彼女は、自分に与えられた後方のテントへと進む。彼女のテントは先ほどのステージから歩いて十分ほどの位置にある。その道のり、ラーサはただ入道雲を見ていた。いつ見てもそれは変わらず、そこにある。彼女の歌と同じだ。常にそこにある。常にそこにあって、誰も必要としていない。

 ラーサが歩いて数分経っても、周囲は相変わらずテントの群れだった。気を抜いていたら、自分がどこにいるか分からなくなってしまいそうな景色。そこを歩く彼女の横を、一人、また一人と兵士が抜けて行く。「この間の作戦で怪我したリクの見舞いにでも行くか」「最新鋭の銃は撃つのが楽でいい」「敵の航空兵器はどんなのだ」日常の非日常が、世間話として抜けて行く。

「おい」

 だから、ラーサはその声も抜けて行って当然の物だと思っていた。

「おい、ラーサ=ドローグ二等陸士」

「……はい!」

 階級付きでの呼び声に、彼女は敬礼と共に跳ね上がる。そんなラーサを見て、声の主は呆れたように肩を竦めた。

「いや、別にそんな畏まらなくてもいい。今日は休日だしな。ところで、今日のライブはどうだった?」

「順調です。フリードリヒ士長」

「なるほど。今日もダメだったと」

 順調という言葉をいつも通りだと受け取り、フリードリヒは頷いた。彼はラーサの友人の上司だ。黒髪黒目の色彩を持ち、普段から陰気な雰囲気を漂わせている。そして時折、話しかけて来ては、彼女に「進捗はどうか」とからかい交じりに尋ねてくるのであった。今も、フリードリヒの顔には嘲りが混じっている。そんな彼を、ラーサは唇を噛んで睨みつけた。

「いえ、決してダメという事はありません」

「そうか」

 彼女の答えに、彼はもはや致し方ないといった様子でそっぽを向く。このやり取りもお決まりの物だった。

「止めてもいいんだぞ」

 フリードリヒはラーサの上司でもなければ友人でもない。ただの無関係な一兵士だ。だが、それ故に彼女の現状を理解していた。

「どうして止めろと言うんですか?」

「…………」

 ラーサは若葉のような瞳をフリードリヒに向ける。彼はそれから逃げるように、瞼を僅かに伏せ、唇を舐め湿らす。

「こんな時だ。夢を追うのは戦争が終わった後でも遅くない。この戦いが終わったらボーナスがたんまり入るだろう。それを持参金にして、軍を抜ければいい」

 それは一種正しかった。戦争の勝敗はともかく、生きてさえいれば道は続く。そんな事は彼女自身分かっている。けれど、彼女はそんな彼の言葉を鼻で笑う。

「士長殿は分かってませんね。こんな時だからこそ私は歌うのです」

 ラーサはステージ上で浮かべるものとは全く別種の笑みを浮かべ、「ご心配ありがとうございます」とだけ言い、その場を去った。後にはフリードリヒだけが残される。彼女は彼を振り返る事なくテントを目指した。ラーサのテントはすぐそこで、あと五分もすれば辿り着く。それまでの道のりを歩きながら、ラーサは先ほど言われた事を考えていた。

「仕方ないじゃん」

 胸ポケットから赤いコサージュを取り出し、それを左胸につけようとして、止める。彼女は現状を知っていた。今自分がしている事にあまり意味がない事も、歌に力なんてない事も。どれだけ綺麗な歌声でさえずっても、聞かれなければ意味がない。右から左に受け流されては意味がない。

 ラーサは手にしたコサージュをズボンのポケットに放り込んだ。飾り物のそれは美しい。けれど美しいだけだ。ここでは歌が必要とされないように、美しいだけのものは戦場にいらない。でも、彼女は歌いたかった。自分が他の人に向けて「生きて欲しい」と歌いたかった。

 彼女は視線を空へと向ける。東の空に黒煙が立ち込めていた。地面から空に向かって伸び、上に向かうにつれ黒を広げている。それが天使を引きずり降ろそうとする悪魔の腕のように見えた。煙から視線を背けるように、ラーサは下を向く。すると、風がまるで「逃げるな」とでも言うかのように、彼女の髪を揺らした。そこに黒煙の灰が混じっている気がして、ラーサは顔を顰め頭を振る。

 その内に、ラーサはテントに辿り着いていた。彼女はほっと胸を撫で下ろし、天幕を開ける。そこには彼女の世界が広がっていた。相部屋の少女と共用のデスクと鏡などの日用品、机の上には同居人の万年筆が立て掛けられている。そんな中で異彩を放つ、パイプで作られたいかにも安物な二段ベッド。下の段を使用する彼女の枕元には、写真立てが一つと小型の蓄音機が置かれている。その中にはお気に入りのレコードが入っていて、ラーサはテントに入るや否や、再生ボタンを押した。レコードが回り始める。数秒後、彼女は歌の世界へと誘われていく。

 鼻歌を歌いながら、ラーサは上の服を脱いだ。下も脱ぎ捨て、ハンガーに掛けてベッド脇に吊るす。下着姿になった彼女は真昼間に関わらず、ベッドに横になった。そして、その胸に赤いコサージュを置く。彼女が目を閉じると、彼女の世界はシーツのゴワゴワした感触と音楽だけになった。紡がれる旋律に彼女は身を委ねる。

 鼻歌が自然と口から零れていた。それは荒んだ心を包み込み癒していく。彼女の口角は上がっていた。一曲終わると、すぐ次の歌が始まる。

 ラーサはゆっくりと瞼を開け、写真立てを手に取った。そこに入れられているのは、彼女の両親とまだ幼い頃の彼女の写真だ。小さな女の子が真ん中にいて、その両脇に母と父が女の子と手を繋いで立っている。在りし日の、幸福だった時間の事だ。

 ラーサは薄目でそれを見つめた後、元あった場所に戻し、代わりに胸のコサージュを強く握った。

 失われた物は夢でしか逢う事が出来ない。誰も彼女を救わない。そして彼女も誰も救う事が出来ない。ラーサは非力な十九の少女だ。戦闘訓練も受けていなければ、医療の心得もない。けれど誰かを救いたかった。自分に出来る範囲の事をしたかった。両親が死んでしまった彼女は、残された側だ。その寂しさを知っていた。死の隔絶を知っていた。だからラーサは皆に生きて欲しいと思い、歌うのだ。

 それが芽吹いたか、彼女には分からない。透明な群衆は無言の問いに答えを返さない。でも、ラーサはそれを繰り返す事しか出来なかった。

 彼女は一人、テントの中で歌う。軍歌でも、民謡でもなく、流行の歌手の歌を歌う。前を向いて、道は開ける。愛は全てに勝る、希望が最後には勝つ。奇跡は願えば起こるものだと、ラーサは歌詞の通りに歌った。

「うそばっかり」

 音を立てて、親指で停止ボタンを押し込んだ。本当に奇跡があるのならば、この世に貧乏人はいない。愛が全てに勝るなら不倫はないし、前を向いて突撃して兵士は散った。結局、それらは嘘なのだ。何も知らぬ愚者たちの詭弁にすぎない。立ち上がったラーサの胸から、コサージュが落ちていた。それは立ち上がった拍子に、ベッドの下へ転がっていた。彼女はそれを拾おうとせず、鏡の前に立つ。

 癖の強い赤毛に、そばかすの浮いた頬。やせ細った体はみすぼらしく、鎖骨が不気味に浮き上がっている。そんな自分の姿を一瞥し、彼女は両手の人差し指で口角を押し上げた。

 作られた笑みを浮かべた彼女の瞳が灰色でくすむ。虚ろなそれに先ほどの灰が入ったのかと、ラーサは腕で眼を擦った。止まらない眼の疼きに耐えかね、彼女は再び再生ボタンを押した。音楽が流れ始める。それを合図に、ラーサはなだれ込むようにしてベッドに飛び込んだ。

 そして、別世界へと潜る。優しい、綺麗事の束ねる空間に溶ける。誰もが救われる世界に浸った。赤いコサージュはベッドの下だ。けれど彼女は自然と鼻歌を歌っていた。音楽と同化し、溶け込んでいた。ラーサはしばらくそうしていて――溶け残りが双眸から漏れた。

 

 

 それから三日後、ラーサは泥濘の中で息を潜めていた。彼女の所属する後方支援五番隊の主な仕事は、最前線で戦う兵士への弾薬供給である。ゆえに、彼女たちは今日も今日とて五人一列に並び百足の如く塹壕内を這いずり回っていた。

 塹壕はまるで蟻の巣のように入り組んでいて、変わらぬ景色と自陣後方から聞こえる大砲の轟音と目の前で行われている銃撃の音に方向感覚が狂わせられる。ラーサは三地点で補給を行って少し軽くなった背嚢を背負い直し、一つ前を歩く少年を気づかわし気に見た。彼の新品の軍服は泥で汚れ、息が荒れていた。

 塹壕の外、荒野では決死の突撃に挑んだ兵士たちが倒れている。塹壕戦は一歩進んで二歩下がるような戦いだ。十ⅿの進行を何日も掛け、三十ⅿ進むのに信じられない量の血を流す。それに伴った犠牲が、その日も増え続けていた。

「大丈夫?」

 彼女は少年の肩を叩き、そう尋ねた。彼は小さく頷く。けれど、彼は俯いたままで、横顔は青ざめていた。それにラーサはため息を吐き、背嚢をその場に下ろし、少年の分を取り上げてそれを背負った。

「はい」

 そして、自分の背嚢を差し出す。彼は目を丸くした後、小さく口を動かしそれを受け取る。銃声で彼の声は聞き取れなかったが、彼女は少年に笑いかけた。

 そのまま五人は無心で歩き続ける。銃声と手榴弾の破裂音が徐々に近づいてくる。大砲によって穿たれた大地に、砂塵が巻き上がる。青空にはレゲネトの最新兵器だという十字のような形をした空飛ぶ兵器が、ハゲワシのように旋回している。その姿は皆の恐怖を掻き立てた。

 彼女達は淡々と塹壕内を進み、昨日の雨によってぬかるんだ地面を踏み固めていく。そして、更に二地点での補給を済ました。

「次で最後だ。気張れよ」

「はい!」

 隊長の言葉に隊員は揃って答えた。背嚢はすっかり軽くなっていて、仕事の終わりにラーサは息をつく。補給は最も弾薬を消費する最前線から後方に向かって行われる。つまり、進めば進むほど危険度は下がる。最後方ともなれば、致命傷を負う事はまずない。少なくとも今回は無事に終えられたと、部隊内は安心感に包まれていた。

「よかったね」

 ラーサが少年に向けてそう言った。「はい!」と答えた彼の顔には、僅かに赤味が戻っていた。

 そんな時、ひゅるひゅるという奇妙な音が、どこからともなく聞こえて来る。それは戦場全体に響き渡っていた。だが、何が原因で、どこから聞こえるのか、ラーサには分からなかった。部隊の仲間の顔を見ても、それは同じようで揃いも揃って上下左右に顔を動かしていた。

「伏せろ!」

 隊長から唐突に劇が飛ぶ。反射的に彼女は身を伏せた。隣では少年が肩を震わせていた。しかし、何も起きない。戦場がひゅるひゅるという不気味な音に包まれる。足元から言い知れぬ恐怖が這い上がっていた。気の抜けた音が不安を駆り立てる。けれどそれは何も齎さず、しゃがみ込んだラーサの頭に疑問符を浮かべさせる。そんな彼女の疑問を共有したかのように、戦場には困惑の声が零れ始めていた。

「どうした、敵の攻撃か?」

 しかし攻撃であれば、目に見えるはずだ。現状、音以外に戦場に変化はない。だが、その音は凄まじい攻撃力で、混乱で前線を満たした。

「もう嫌だ! 逃げさしてくれ」

 一人の兵士が叫び始める。

「何を言う! 軍規違反だぞ!」

 逃げようと走り出した部下の首を掴み、上司は地面に叩きつけた。

「別に軍規違反でいい! もうこんな所うんざりだ! どうせ死ぬなら、俺は軍規違反で死ぬ。こんな所で死ぬなんてまっぴらごめんだ!」

 閾値を超えた恐怖が、一人の男の箍を外した。彼は上司の腕を振り払い、遮二無二塹壕から飛び出していく。その姿を、彼女たち第五部隊は見ていた。一か所から生み出された混乱は、あっという間に全てを覆い尽くした。それは波紋のように戦場に広がり、あちこちで絶望の声が溢れだしていく。口には出さなくとも、そのような雰囲気が漂っていた。それは第五部隊も例外ではなく、仲間である少女が小さく「家に帰りたい」と呟いた。その言葉に隊長までもが揃って顔を見合わせる。全員の眉間には深い皴が刻まれており、パサついた髪には跳ねた泥がついていた。新人は顔を真っ青にして、歯をガタガタと言わせていた。

 ラーサは彼等の顔を見回し、手を握りしめる。そして、胸ポケットに入っていた赤いコサージュを取り出して胸につけ、徐に口を開いた。

 流れ始めたのは、ディアトロフに伝わる古い民謡だった。彼女の歌声が静けさの広がった戦場に広がる。それはとても小さくて、第五部隊の仲間にしか届かない。突然歌い出したラーサを、仲間たちは「いよいよ気が狂ったのか」と怪訝な顔をして見た。けれど、それは初めだけで、彼等の顔には少しづつ笑みが浮かんでいった。

 ひゅるひゅるという狂騒は未だに鳴っていた。

 それを彼女の歌が上書きする。明日の天気を歌った、国民なら誰でも知っている歌だった。幼い頃から聞いてきたその歌は、少年の震えを止める。ラーサはその肩を優しく撫でた。彼はそれに力強い頷きで返す。すると、徐々に周囲にも平穏が戻って来る。塹壕から飛び出した男はそのままだが、他は落ち着いて塹壕内でしゃがんでいた。奇妙な音は鳴り響いている。ただそれだけだ。辺りはすっかり安寧に満ちていて、小さなラーサの歌声に皆が耳を澄ましていた。それは生存のための歌だった。彼女の望んだものだった。

 一曲、ラーサが歌い終わる。彼女は周囲の空気を感じ取って笑った。訳の分からない物への恐怖はすっかり薄まっていた。そして、それによって変な冗談を言う者が現れる。

「おい、屁こくなよお前」

「は? 何言ってんだ」

「誤魔化そうとしたって無駄だ。お前から悪臭がする」

「そりゃ風呂入ってないからな」

 その部隊は薄笑いに包まれた。

 薄笑いに包まれて――そして消えた。

 

 この日、レゲネトは世界初の航空兵器『シュレイガー』の実践投入を行い、著しい戦果を挙げた。塹壕戦に根を上げた彼等は陸ではなく空に突破口を見出し、同様に航空戦力を模索していたディアトロフの一歩先を行く事となる。また、その際に使用されたクラスター弾は後の様々な戦争においても使用された。しかし、それすらも塹壕戦においては有力であると言い難く、レゲネトは新たな攻略手口を、ディアトロフは航空兵器への対処法と塹壕攻略戦術の開発に邁進する事となる。

 シュレイガーにより、ディアトロフ軍が被った被害は塹壕四十五ⅿの後退。そして千三百二十五というたった一回の会敵にしては大きすぎる死傷者であった。

 だがこの時の彼等はそんな事を、知る由もない。

 凄まじい爆音と爆風の後、塹壕から飛び出し、周囲を見渡した彼女は思わず目を瞬いた。そこは更地だった。何も残ってはいなかった。死体やそれに群がる蛆や蝿、塹壕前に配置された鉄条網や大砲。ほんの数秒前、そこにあったはずのものがすっかりなくなっていた。そこが現実なのかすら疑い、頬をつねる。そして、その後にもう一度目を瞬いた。

 ラーサの翠緑の瞳が、徐々に実像を結ぶ。夢のような光景が現実として脳へと届けられる。すると、少しづつ細部が見えるようになる。死体の腕や、ぶちまけられた臓腑、鉄条網を支えていた木の棒、大砲の台座が唯一元の場所に鎮座していた。布切れが風に舞い、彼女の横を過ぎる。荒れ果てた荒野は無残な姿へ変わっていた。それらは痛み以上に、彼女へ「ここが現実である」と雄弁に語っている。

「みんな、無事?」

 ラーサは慌てて塹壕に降りて、仲間の無事を確認した。彼等は確かにそこにいた。その事実に彼女は胸を撫で下ろす。

「ドローグも大丈夫か」

「はい、無事です」

 体調の言葉に頷き、次の言葉を待った。

「そうだな……」

 彼は顎に手を当て考え込んだ。だが、その実考えている事は仲間たちと同じだった。ラーサは背嚢を深く背負い、仲間たちは一同揃って立ち上がっている。そんな彼女たちを見て、隊長は小さくため息を吐いた。

「撤退だ」

 その言葉が発されるや否や、ラーサ達は厳しい顔を崩さず「了解」と声を揃え、帰還準備を行う。だが、一人だけが微動だにしない。それは塹壕内で泥の中、体を丸めていた。新兵の少年だった。

「大丈夫。大丈夫だから、何も心配しなくていいから。ここは危ないから、早く行こう」

 ラーサは彼の手を取って強引に立ち上がらせる。少年の相貌が変わる事はない。彼はただ茫然と立ち尽くすのみで、先ほどの攻撃によって精神を吸い取られてしまったかのようだった。

「行くぞ!」

 そんな事をしている内に、隊長から撤退開始の指令が下る。仲間たちは塹壕内を駆けて行く。少年は動こうとしない。ラーサは両者を交互に見て、息を整えた後「絶対に離さないでね」と彼に言い含めて、手を繋いで走り始めた。

 程なくして、再び上空から気の抜けた音が鳴り始めた。死の恐怖におびえながら、彼女は少年の手を握りしめる。それと時を同じくして、味方の数部隊が塹壕から飛び出した。突貫だった。まるで勝鬨を上げるかのように彼等は声を張り上げ、敵に向かって突進していく。それを第五部隊は地鳴りによって感じていた。そしてそれに僅かな望みを託す。

 小銃を持ち、遥か前方の適地に向かって、兵士たちは突貫していく。軍靴によって蹴られた土が、塹壕内に散った。決死の特攻は、この戦局を打開するのに十分な闘気を誇っていた。敵陣に近づくにつれ、敵兵が明瞭になる。特攻兵たちはそれを目にした瞬間、小銃を撃ち始めた。その銃声に第五部隊の面々のみならず、誰もが期待をした。この危機を脱したのではないか。彼等がやってくれたのではないか。

 だがその淡い希望は、唸りを上げた機関銃によって蹂躙された。

 馬鹿正直に突っ込んでくる彼等は、敵にとって格好の的だった。死に方が変わっただけだ。後ろで正体不明の何かに殺されるか、前で既知の小銃や機関銃に打ち抜かれるか。もはや彼等に遺された選択肢は、死に方だけであった。銃声と止んだ地鳴りでラーサは察した。彼等は負けたのだ。

「急いで!」

 彼女は少年の腕を引き、声をかけた。しかし、彼は動かない。小さく舌打ちをして、彼女は改めて彼と向き合った。彼の顔は生への執着を失っていた。瞳は虚ろで、手足は脱力している。ラーサが手を離せば、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。彼女は拳を握りしめ、

「っの! 起きろ!」

 その腹を勢いのままに、ラーサは思いきり殴りつけた。毬の様に少年ははじけ飛び、空咳を打ちながら彼はその場にうずくまる。彼女はその頭の横を軍靴で踏みつけた。本気ではないにしろそれは少年に響いたらしく、胃液をぶちまけながら彼は痛みでのたうち回っていた。

 不気味な音が近づく。それが空から鳴っているという事に彼女は気が付いた。空を見上げると特段何の変化もないように見えるが、音は確かに鳴っている。よく目を凝らすと青空の中に黒点が混じっていた。ラーサはそれを始め、焼却場から飛んできた灰だと思ったが、それが時が経つにつれ大きくなることからどうやら違うらしいという事に気が付いた。

「大丈夫?」

 それだけ確認して、彼女は自らの足に踏まれている少年を見下ろす。

「はい。ありがとうございます」

 返答はしっかりとしていた。彼の瞳には先ほどまでの虚無はなく、確かに生気が宿っていた。

「よし、行こう」

 ラーサは笑みを浮かべ、地を蹴って走り出した。その後ろを少年も追いかける。その足取りに迷いはなかった。必死に生きようとしていた。彼は全速力で駆けていた。地面は泥でぬかるんでいる。少年はそれでも転ばぬように走り続けた。死体の腐臭も硝煙の臭いも何も感じず、ただ一心不乱に帰路を走り続ける。

 帰りたい。

 その一念で彼は足を回し続けた。母と二人で食卓を囲み、夜は抱きしめられて眠る。父を亡くした悲しみなど感じさせぬ母の大きな愛に包まれていた。逃げ出して、そんな日常に戻りたかった。走り続ける彼の胸元から、ネックレスが零れだす。それには十字架型のチャームがついていて、母親からお守り替わりに貰ったものだった。前を往くそれに引き寄せられるように少年は走った。

 日常を、暖かさを求めて駆けた。その瞬間、轟音が戦場に響いた。

 

 初めてラーサの耳に聞こえたのは獣の唸り声だった。まどろみから覚めるうちに、その唸りに雑音が混じっていく。何の声だろうかと不思議に思い、彼女はゆっくりと起き上がった。すると、右太ももに走った激痛がその動きを止めさせた。

「ぃっ」

 浮き上がっていた体が元に戻る。地面は酷く硬かった。沼色の天井には電球がぶら下がっている。それを見ながら彼女は初めて、今自分がどこにいるのだろうかという疑問を持った。獣の唸り声は未だに続いている。意識にはまだ靄がかかっていて、何があったか思い出す事が出来ない。聞けば聞くほど唸り声が、不気味に聞こえる。手探りで地面に触れる。薄い布が敷かれていた。鼻にはどうしようもない消毒液の臭いと腐臭がこびり付いている。

 ラーサは意を決して首を横に回した。そこでは一人の男が歯を噛みしめながら、唸っていた。そして気づく。獣の声だと思っていたものが、苦悶の声であった事を。

 辺りは芋虫のように転がされた人で一杯だった。男は体中を走る激痛を逃すかのように体をうねうねと動かしていて、子供はまるで死んでいるかのように安らかに眠っている。女は意識を空に吸い込まれたかのように、天井を呆然と見上げていた。そんな人たちが転がっていた。彼等は例外なく体のどこかから血を流している。

 ラーサは傷病者用の医療テントに運ばれていた。先ほどの戦いで怪我をした人たちが大勢運ばれてくる。

「次は四十五番、黄色!」

「二十四番の治療終わりました」

「なら百三十六番に行け。赤だ」

「百四十七、黒」

「九十八、黄色。始める」

 彼女の視線の先では衛生班が慌ただしく動いていた。再び横に目を戻す。体を捩らせ、苦しんでいた人は、動きを止めていた。死んだのかもしれなかった。そんな彼に、ラーサは目を伏せるにとどめた。

「百十一、黒」

 そうしている間にも、衛生班は仕事を進めていく。ラーサは今までにないほどの怪我人の数と、あっさりと告げられる『黒』という言葉に愕然とした。衛生班は色によって容態の酷さを測り、治療を施す。緑は安静、黄色は早めの治療、赤は緊急。そして黒は死亡であった。全ての命を救える訳ではないと頭では理解しつつも、死が色に還元される事に、

彼女は寒気がした。

 ラーサは歯を食いしばり、痛む右足を擦りながら下を見る。耳には相変わらず唸り声が聞こえていた。けれど、それを出せる人はまだ生きているという事実が、残酷な現実を告げる。本当に死ぬ人はそんな声を出す事すら叶わず、命の灯を消していく。

 彼女は視線を天井へと向けた。相変わらず地面は固く、冷たかった。ぶら下がる電球を見つめていると、自然とここに運ばれる前の景色が思い浮かんだ。爆撃によって舞い上がった粉塵、特攻していった兵士たちの叫び声。先を行く仲間の背中、そして後ろを走っていた彼。

 ラーサは勢いよく体を起こした。彼は一体どうなったのか。痛む足を気にせず、彼の姿を探す。だが見当らない。ここにいないという事は、彼は無傷なのかもしれない。そんな考えが、彼女の頭をよぎる。

「……て」

 近くで、とても小さな声がした。

「え?」

 声のした方を見る。

「うたってほしい」

 ラーサは遠くばかり見ていた。彼は近くにいないだろうと思っていた。だが違った。彼はずっと横にいた。死んだ男の反対側、ずっと呻き声を上げていたのは、彼だった。

「……エミルくん?」

 ラーサはおそるおそる彼に問いかける。エミルと呼ばれた彼は小さく頷く。それに合わせて、首からぶら下げている十字架のチャームが揺れた。

「は……い」

 彼はかすかな声で答える。そこには先ほどまでの恐怖に彩られた双眸も、生きるという決意を固めた拳もなかった。あったのは、薄い笑みと腹から零れ落ちた臓腑だけだった。ラーサは彼の枕元に置かれた番号を確認した。そこに書かれていたのは『百十一』という無慈悲な数字だった。

「うた……て」

 きゅっとエミルは彼女の裾を握ってくる。両者の間に、彼の腕が死んだミミズのように横たわっていた。ラーサはそんなエミルの手を軍服から外し、右手でそっと握り返す。左胸ポケットにいつも入れている赤のコサージュの所在を確かめ、それを取り出し左胸につけた。

 改めて彼の姿を眺める。彼の瞳は焦点が合っておらず、今この瞬間を生きているのが奇跡だった。その中、残された体力で発した言葉が「うたって」だった。エミルはもう助からないだろう。それはラーサの目から見ても明らかだった。彼は最期の瞬間に、歌を望んだのだ。であれば、彼の最後の願いを叶えてあげたいと彼女は思った。

「ディアトロフ陸軍後方支援部隊五番隊所属、ラーサ=ドローグがお送りします」

 何の歌を歌おうか、ラーサは逡巡した。最期の時に相応しい歌は、何なのだろうか。エミルの顔を見ながら考える。すると、彼が入隊したての時、しきりに母親の話をしていたのを思い出す。彼はこのスティヴァリで育ち、父が事故で死んでから、二人きりで暮らして来た。

「故郷の景色を思い出して、聞いていただければと思います。スティヴァリ民謡『雪景色』」

 彼女は歌い始める。相変わらず伴奏はない。それどころか、辺りには悲鳴と喧噪に満ちていた。その中でラーサは故郷を想う。

 冬、スティヴァリは寒波に包まれる。銀嶺は遥か遠くにあり、風には雪が混じっていた。地表には雪が積もっている。その上を幼いエミルは走っていた。その後ろを母親がついていく。母親は割烹着の上にセーターを着ている。一方で、彼は半袖だ。それを母は注意する。けれど、エミルは気にした様子もない。

「そんな事より早く行こうよ」

 そしてその場に屈みこみ、小さな雪玉を作り始めた。

「手袋ぐらい着けなさいよ」

 そんな彼に母親は駆け寄る。

「はい、お母さん」

 エミルは駆け寄ってきた母の手に、雪玉を乗せる。彼の小さな手は、真っ赤になっていた。それでも彼は再び雪に立ち向かう。母はそれを眺めながら眉を細めて、雪だるまを作り始めた。

「どっちが綺麗に出来るか、競争ね!」

 エミルは笑う。歯ははそれを見て、諦めたように笑みを浮かべた。冷たい冬、二人はスティヴァリの中で笑う。これはまだ戦争が始まる前のこと。ずっと昔の、懐かしい日々のこと。スティヴァリのどこでも見られた、何の変哲もない日常のこと。

 テントの中を、衛生班は慌ただしく駆け回っている。かつて雪の上を走っていた子供は、今や大人になった。彼等は雪の代わりに医療テントや、戦場を駆け回っている。同じ動作だというのに、それは酷く物悲しい。

 ラーサは歌いながら、エミルを見た。彼が小さく咳をする度、口から血が飛び出している。それは彼の血で塗れた腹を上塗りしていた。横腹からは黄色の粘液が零れだしている。咳をする度、それはどんどん増えて行き、最後に大きくせき込んだ後、その流れは止まった。

 それと同時に、彼女は歌い終わった。握っていた彼の手は、力を失っている。ラーサが手を握り返しても、何の反応もない。ただ子供らしさが残る弾力が、彼女の手を跳ね返す。少年の手はただの肉と化したのだ。彼女はその手を、彼の胸元に置いた。そして、胸に掛けられていた十字架を、手に潜り込ませた。

「おやすみ」

 僅かに開けられた瞼を手の平で下ろす。その死に顔を見て、ラーサはぎこちなく笑みを浮かべ、涙を流した。

 彼女は一人になった。再び、周囲の唸り声が戻って来る。だが、彼女は途方もない喪失感に、呆然としていた。なぜ彼だったのだろうか。彼には母があり、未来があった。私よりもまだ幼かった。なのに、なぜ死ななければならなかったのか。そんな問うても仕方のない問いが、ラーサの中を堂々巡りしていた。生きて欲しかった。生きて、笑っていてほしかった。希望を届けるために歌っていた彼女は、無力感に押し潰されていた。

 彼女の思考に雑音が混じる。それは虫の羽音だった。どこから死を嗅ぎ付けて来たのか、蝿が周囲に飛び交い始めていた。ラーサはそれを右手で払う。そして、既に死んだ彼の顔を見る。その瞼の上に、蝿が這っていた。彼女は忌々し気にそれを、撫でるように払った。蝿が飛び去り、彼の顔が露わになる。そこでラーサは初めて気づいた。

「どうして」

 彼は笑っていた。これほどまでの死に方をしたのに、エミルは心底幸せそうに笑っていた。こんなにも酷い死に方をしたというのに、それでも彼は笑っていた。なぜ彼はこんなにも安らかに眠っているのか。それは自分が彼の願いを聞き届けられたからだと、彼女は思いたかった。

 ラーサは思い出す。キャンプの中、伴奏もないのに一人で歌い続けていた日の事を。彼女の前を、幾人も通り過ぎて行った。兵士たちは目もくれず飯を食べに行き、看護師は冷めた目で一瞥を向ける。戦場に娯楽など不要と上官は憤っていた。その全てが私を見ていた。全部、私に向けられたものだった。

 エミルの顔は、ラーサの視線を引き付けて止まない。彼は彼女が歌で初めて笑顔にさせた人だった。けれど彼は死んだ。ラーサの歌に人を生かす力はなかった。どれだけ歌っても注目されず、無為な時を消費して、生きて欲しいと日々願う。だが、その願いは届かなかった。必要とされていたのは生きる糧ではなく、死に際の安寧だった。

 エミルの顔から視線を外す。ラーサの中で止まっていた時間が動き始めた。喧噪が戻ってきて、医師や看護師の声が響き始める。次々と人々が色へと還元されていき、淡々と処理されていった。生前についていた名前は呼ばれず、番号と色で彼等は分けられる。そこにきっと安寧というものはない。みなが苦悶の形相で散っていく。

 テントにぶら下げられた白熱電球が点滅した。一瞬、ラーサの視界が暗転する。彼女は暗闇から戻ってきてすぐに、もう一度エミルの顔を覗いた。相変わらず、安らかな死に顔だった。

 彼女は前を向く。翠緑の瞳には、暗転前にはなかった覚悟が宿っていた。

「ラーサちゃん」

 そんな彼女に、突然声を掛ける者がいた。

「歌ってくれないか?」

 そう言ったのは、いつもステージの前を通り過ぎていく兵士だった。

「ここにいると気が狂いそうなんだ」

 彼の目はどこか恍惚としていて、爛々と輝いて見える。

「だから歌ってくれないか?」

 彼はまるで懇願するかのように、彼女に向かってそう言った。何かに憑りつかれたかのように、周囲の人々までもが「うたってくれ、うたってくれ」と騒ぎ出す。ラーサは慌てて、きょろきょろと辺りを見回した。その中には、今まで彼女の事を無視していた人も混じっていた。それにラーサは確信を得る。そして己の覚悟は間違っていないのだと、笑みを浮かべた。   

 生きるための歌ではなく、死ぬための歌を。

 彼女は意を決して、赤いコサージュを胸につけた。勢いよく息を吸い、声を出す。

「みなさん、お馴染みディアトロフ陸軍後方支援部隊五番隊所属、ラーサ=ドローグです。今日はお集まり頂き、ありがとうございます」

 それは決して大きな声ではない。それでもテントの中に、彼女の声は響く。声を上げる者はいない。いつも通り。けれど間違いなく視線はラーサに向けられていた。それはいつも通りではない。

「では第一曲ディアトロフ国家『愛しき祖国』」

 一曲目が軍歌ではなく、国歌であるのも、いつも通りではなかった。軍歌とは戦いに行く者の歌だ。彼等は既に戦いに赴き、敗れた。ならばそれに相応しいのは、彼等を称える歌だろう。祖国を守ったのだと、誇りを持てる歌が相応しい。

 皆は穏やかな表情を浮かべ、目を閉じていた。ラーサはそれを眺めながら、安らかな死を願い、歌った。観衆に、彼女が求めていた生気はない。一人、また一人と命の灯を消していく。歌を聞きながら死んでいく。彼等をランタンの優しい光が導いていた。それが、ラーサの歌だった。静かに、ただ粛々と時のみが過ぎて行く。そうして夜は更けて行った。

 その晩、ラーサは繰り返し民謡と国家を歌い続けた。それは五時間三十八分にも及び、その間悲しみに呻く声は響かなかったという。

 

 

 

 ある程度傷が治っても、ラーサは傷病者のテントを離れなかった。彼女は歌を歌っていた。毎夜、彼女は周りが求めるがままに歌を歌う。それは国歌であったり、民謡であったり、時には流行の歌手の歌であったりした。ラーサは要望に従って歌を歌う。群衆はそれを黙って聞いていた。

 シュレイガーによる空襲があってから二週間、彼女は数多くの人を看取っていた。ラーサが戦場に赴かなくなっても、多くの兵士は戦場に行き、傷ついて帰って来る。毎日、多くの人が運び込まれてきて、それと同じくらいの人が治療を終える。だがテント内で息絶える者もいる。一人ぼっちで苦しみながら、死んでいく者がいる。けれど、その人の側にはラーサの歌があった。それが彼女の喜びだった。そうして、ラーサは幾人もを看取った。

 

 抜けるような青空には、雲一つ存在しない。美しすぎる空が、どうにも不気味な日曜日だった。動けるようになったラーサは、およそ二週間ぶりに舞台に立っている。胸につけた赤いコサージュを握りしめ、ビールケースに並べられたベニヤ板を、確認するように何度も踏んだ。それは確かな感触を返してきて、懐かしさに彼女は僅かに微笑む。そして真っ直ぐと前を見る。そこには多くの人がいた。いつも空だったベンチには、足を怪我した人が座っている。けれどそれだけでは到底足りず、大半がビニールシートに座り込んでいた。そして、それでも足りず、数十人が立っている。その全員が舞台上のラーサを見つめている。全員が全員、期待を持った目で彼女を見ている。

 それはラーサが願わなかった形での理想の体現だった。生きるための歌ではなく、死ぬための歌を。彼女はそれをテントで歌った。その歌は多くの怪我人を魅せた。

「皆様、お集まり頂きありがとうございます。ラーサ=ドローグです」

 だがそれはドラッグのようなもので。生きる原動力のようなものではなかった。死への恐怖を和らげる精神薬のようなもので、生きがいのような美しいものではない。

 でも彼女はそれで良かった。

「こんなにも多くの人に集まって頂き、誠に感謝いたします」

 この光景は、ラーサにとっての生きがいなのだから。

 舞台上、凛とある彼女に拍手が降り注ぐ。ラーサは頭を下げて、それに応える。この地で、彼女は確かに必要とされていた。犠牲者は減り続ける一方だ。日々、人が死んでいく。賽の河原のように、突撃が実を結ぶ事はない。それでも夜は明ける。朝が来れば戦いに向かわねばならない。人は眠り、食事をして、会話をして、銃を持って戦場を駆ける。だから、そこにはラーサが必要だった。

 日常の中には非日常である彼女の歌が、閨が必要だった。

「ディアトロフ国家『愛しき祖国』」

 ラーサは歌う。いかにこの国が素晴らしいのかという事を。無線機を齧るように口へ近づけ、声を出していた。内容は単純で、どこにでもあるような賛歌だ。称える。賞賛する。賛美する。世の美辞麗句を尽くして、ディアトロフを褒めちぎる。それに個々人がどう思おうが、兵士たちはみなこの国を守っているのだ。

 その証拠に、ラーサの眼下に広がる景色、そこにいる兵士たちは、揃って穏やかな表情浮かべ、国家を口ずさんでいた。綺麗事でしかない歌を、己に言い聞かせるように歌っていた。

 美しき大地を、ラーサは絶唱する。この地は神に祝福されていると賛歌する。その歌声は青空を抜け、成層圏を超えた。それだけの力を持った彼女の声は、人間の心の壁を容易く抜いた。微笑んでいる兵士たちを眺め、ラーサは僅かに目を伏せる。

 こんなものはくだらないと。

 どれだけ国が美しくても、生きていなければ意味がない。人は自分で自分を救う事は出来ない。だから歌がある。芸術がある。美しさがある。彼女はその美しさで、人を救いたかった。歌という美で、誰かを救いたかった。けれど得た物は、死の安寧。それがラーサの持つ美しさ。彼女の歌の神髄は死ぬための歌だった。それに必要なのは、どうしようもない偽善だった。だから彼女はくだらない歌詞を歌う。国歌で賛美し、民謡で想起させ、心を泣かす。

 それが死ぬための歌。ラーサ=ドローグの歌。

 

 一瞬の静寂、後に拍手が響き渡った。一曲を歌い終わった彼女が周囲を見回す。そこには笑みが広がっていた。ラーサは無線機を強く握りしめる。彼女の胸は高鳴っていて、それを落ち着けるために大きく息を吸った。

「ご清聴ありがとうございました。では二曲目、ディアトロフ民謡に入りたいと思います」

 朗々とラーサは告げる。歓声は帰ってこない。無言の群衆は相変わらず答えを返さない。けれど彼女は今までと違い、彼等の心が手に取るように分かった。

 物干し竿に掛けられたシーツが風に揺れている。昼時、甘い匂いが群衆の鼻腔をくすぐった。それでも席を立つ者はいない。通りすがりの者は、舞台前に出来た群衆を目にし、足を止めていた。

「では行きましょう。二曲目『いとすぎ』」

 反響する。彼女の小さな声が無線機によって拡大され、スティヴァリ全域に届けられる。それはそこに存在する大半の音を呑み込み、掻き消した。

 だから仕方がない。仕方がないのだ。だが、たった一つ言える事があるとするならば。

 この地は希望の地でも、天に救われる土地でもなく。ただそこには戦争があった。

 

 地獄というものがもし具現化したのなら、一体どのような形で現れるのだろうか。

 立ち並んだテントが燃え盛っていた。猛烈な勢いで燃えるそれらと、逃げ惑う火達磨がラーサの視界を鮮烈に焼く。途轍もない猛風が突如吹き荒れた舞台上、彼女は自らの目を疑った。

「え?」

 その瞬間、どこからともなくそんな声が漏れる。ラーサはそれが誰の物か分からなかった。けれどすぐにそれが自分の物だと分かった。脳が目の前の事象を理解した時、頭に冷や水を被せられたかのような衝撃が走る。開けた視界に映ったのは一面の赤だった。猛風の中、時折悲鳴が飛び込んでくる。不透明なそれは、耳を澄ませると声の形をしていた。それは恐怖に打ち震える人々の声だった。声への解像度が上がった時、ラーサは腹の底が凍ったように感覚に襲われた。

 気づけば辺りはすっかり火の海になっていて、音を立て炎が立ち上がっている。燃えているのはテントやら、車やら基地にあるもの全てだった。目につく物のほとんどが燃えていた。

 ラーサはその景色に愕然とする。彼女はただ歌っていただけだった。皆の顔を見ながら、休日と生を謳歌していただけだった。それが今となっては地獄のようになっている。原因は容易に予想がついた。敵の攻撃に違いなかった。日曜日には攻撃がないと、彼女達はたかをくくっていたのだ。そんな保証はどこにもないというのに。

「早く逃げろ!」

「どうして日曜日に?」

「そんなのどうでもいいから行くぞ!」

 舞台前に集まっていた人々は恐慌状態に陥っている。人が大勢いたのが災いしたのか、あちこちでは押し合いが始まり、この押し合いで死人が出そうな勢いだった。

 目の前の光景に、ラーサは立ち尽くしていた。何が起こっているのか分からなかった。どうしてこうなっているのか分からなかった。今起きている事が信じられなかった。燃え上がっている炎は何かのマジックではないかとさえ思った。しかし、肌を撫でる熱風と湧き上がる悲鳴がそれは夢ではないと物語っていた。

 彼女は混乱する群衆に向けて「あ、慌てないでください!」と叫んだ。そして、安全に逃げる事が出来そうな場所を探す。

「…………」

 彼女は目を凝らした。心臓がはち切れそうなほど鼓動を打っている。初め散らばっていた炎は混じり合い、その体躯を大きくしていた。空気の焼ける音が響く。そんな中に「じゃあじゃあ」という奇妙な音が空からやってきた。彼女は直感的にこれが元凶だと察した。空を見上げると案の定、そこには、嘲笑うようにシュレイガーが周遊していた。ラーサはそれを憎々し気に見つめた。

 辺りは一面火の海で、抜けられそうな場所なんていうのは見当たらない。今、彼女たちがいる場所も、じきに炎に巻かれるだろう。

 全員、ここで死ぬしかない。

 浮かんできた最悪の結末に、ラーサはぞっとした。だが現状それが最も現実的であった。

「みなさん、早く」

 彼女がなけなしの力で声を上げる。はやく、一体何をするのか。それを伝える事すら、ラーサにはままならなかった。その上、恐慌状態の人々にその声は届かない。あちこちで喧嘩が始まり、己が己の事だけを考えて、二次災害を呼び起こしている。ラーサにはそれを眺めている事しか出来なかった。そんな彼女の耳に更なる悲鳴が届く。

 それは空で爆弾が弾けた事によるものだった。空中で分解したそれは流星群の如く離散し、赤い炎となり降り注いだ。その様子は妙に美しくて、思わず彼女はぼんやりと呆けてしまう。離散した炎は舞台の上に着地し、ベニヤ板を燃やした。ラーサはそこから降りる事を余儀なくされる。それは暴徒と化した群衆に呑まれる事を意味していた。押し合い、圧し合い、殴り合い。生存本能に駆られた獣に塗れながら、彼女は叫んだ。空から飛来した炎は群衆の中に落下し、そこから人間の延焼が広がっていく。命が燃えて行く。視界の先、煌々と輝く炎。それが滲んだ。流れ落ちそうになる涙を堪え、ラーサは必死に叫ぶ。逃げてくださいと、叫びながら考える。

 逃げろといってもどこへ逃げるのか。逃げられるような場所なんて残っていなかった。

街まで逃げられれば、きっと助かるだろうが、どうやってそこまで行くのか。自分で「逃げろ」と言い放ち、脳内ではそれを否定する。そんな事を繰り返す。彼女の頭の中では、一念のみがこだましていた。

 どうすれば助かるのか。

 ラーサは答えのない堂々巡りをする。そうしている間にも、兵士は死んでいった。喉奥から絞り出した、苦悶の声を出しながら燃えつきる。煙を吸い過ぎてその場に倒れこむ。それはまさに地獄そのものであった。

 彼女の目の前で、兵士がまた一人倒れた。彼は群衆によって踏まれ、足があらぬ方向に曲がっていた。それを見たラーサの心が、諦めと絶望に埋め尽くされる。視界が歪み、彼女も倒れそうになった。

 ここで死ぬしかない。最悪の可能性が、核心に変わった。彼女の頬に一筋の涙が流れる。皆に生きて欲しくて歌ったラーサは、自分の歌を求めて集まった群衆に懺悔した。集まらなかったら、こんな混乱など起こらなかった。集めたのは自分で、それがなければ皆生きていたのかもしれなかった。それは、もしもだ。けれど死に際、最期の時、彼女はそんなもしもに縋りついた。それに縋りつき、それすらもおこがましいと、ラーサは己を戒める。涙を流す事すら、今の彼女には許されないと感じていた。

 徐々に彼女の視界が暗くなっていく。煙のせいか、呼吸がしづらく、喉が焼けるように熱かった。苦しい状況だというのに、ラーサはどこか落ち着いていた。彼女の体が群衆に投げ出される。倒れ際、僅かに目を開く。薄っすらと金色が流星の如く映る。それを最後に、彼女の意識は雲隠り、ぼやけていった。

 だがその雲を一発の銃弾が打ち払った。ラーサの意識から雲が晴れ、視界が明瞭になる。轟いた銃声は前方、左斜め前の方向からした。ラーサがそちらの方を見ると、そこには金髪の少女が立っていた。そして、その藍色の瞳が自分を貫いていた。彼女は拳銃を空に向けて、凛然と立っている。

 突然の銃声に、群衆は静まり返っていた。先ほどまでの暴動は消え去り、皆が一人の少女を呆けたように見つめていた。それを気にする様子もなく、彼女は少女色をした唇を開く。

「この炎の先に湖があります。そこに着けば私達は助かるでしょう」

 空間が凍る。炎の中で、そこだけが冷気に包まれていた。彼女が指さした先、そこには燃え盛る炎がある。その先に脱出口があると彼女は言った。だがどう見ても、そこに飛び込んで生きて帰れるとは思えなかった。

 広場に一瞬の静寂が落ちる。僅かに見えた光明の兆し。その輝きは余りに弱く、儚い。故に、信じる事は到底出来なかった。

「本当にあるんだろうな」

 近くにいた兵士が少女に詰め寄る。その気迫に負けず、彼女ははっきりと頷いた。

「はい。ですが、その道中がどうなっているかは分かりません。もしかしたら、この炎に焼かれて死ぬかもしれません」

「っじゃあ意味ねぇじゃねか!」

 彼は少女の胸倉を掴み、吐き捨てた。金髪が揺れる。鮮烈な赤の中で、金が輝いた。胸倉を掴まれたまま、彼女は彼の瞳を正面から見返す。そして淡々と言い放った。

「では、ここで死ぬんですか?」

 少女の瞳には決意が秘められていた。

「皆で焼身自殺が貴方の望みですか?」

 胸倉を掴んでいた男の腕が震え始める。

「私は嫌です。可能性があるのなら、それに賭けるべきです」

 彼の手を、彼女の小さな手が上から掴む。暖かなそれに触れ、男は彼女から手を離した。

「本当に、助かるのか」

 そう言った彼の体は小刻みに震えていた。

「それは分かりません。ただ分かるのは、動かなければ死ぬしかない」

 少女は気休めを口にしない。ただ真理のみを口にした。

「私は進みます。どうか信じて、ついて来てください」

 彼女は後ろで馬の尻尾のように結んでいた髪紐をほどき、そう告げた。熱風で金髪が揺れる。命の灯のような輝きを放つその髪に、群衆は魅入られた。そして、それを聞いた人々はしきりに頷き、指揮棒のように掲げられた拳銃の元に集う。そんな少女の元に、ラーサも近づいた。

「貴方も来る?」

 親し気に彼女はそう問いかける。

「ごめんなさい。私はやる事があるから」

 ラーサはそれにそう答えた。

「そう……」

 少女は悲し気にその瞳を伏せる。そして辺りを見回した。周囲は炎に包まれていて、熱気で肌が焼けそうだった。たとえ涙を流したとしても、出たそばから蒸発してしまいそうだった。地獄の中、二人は顔を見合わせる。

「ありがとう」

 ラーサは彼女に向かってそう言った。すると、彼女は何とも言えない顔をして「別にお礼を言われるような事はしてないから」と答える。相変わらず不器用な彼女に、ラーサは苦笑した。

「こんな事になっちゃってごめんなさい。折角来てくれたのに」

「ラーサのせいじゃない。偶然、敵が今日攻撃しただけで。悪いのは全部敵だから。貴方は悪くない」

「でも――みんなを集めたのは私だから」

 懺悔するように、彼女は少女の胸に縋る。それは幼い子供のようで、泣きじゃくるラーサを周囲の人は黙って見ていた。泣く事を、後悔を許された彼女は、ただ少女の胸の中で鳴き続けていた。遠くで家屋が崩れる音がする。見えぬ所で悲鳴が上がっていた。だが、二人の空間だけはゆっくりと流れている。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 彼女はそう繰り返す。もしこんな事をしてなかったら、誰も死ななかったかもしれない。もっと早くに敵に気づけたかもしれない。歌を歌っていなかったら、幸せだったかもしれない。誰かに生きて欲しかった。皆に生きて欲しかった。それが叶わないから、死ぬための歌を歌った。けれど、そのせいでラーサは人を集め、皆を殺してしまった。ならば、歌わない方が良かったのだ。そんな多くのもしもが、彼女の小さな胸を押し潰すべく去来する。

「大丈夫、安心して」

 そんな少女の背を、彼女は小さな手で優しく撫でた。

「私がここにいる人を、出来る限り助けてみせる。だから、貴方は貴方のやりたい事を精一杯やりなさい。きっとそれは貴方にしか出来ない事だから。今までしてきた事に自信を持って。私は一番、それを見てきた」

 彼女はその場から一歩引きラーサの顎を人差し指で上げる。アクアマリンとラピスラズリが交錯した。ラーサの瞳には、一滴の涙が浮かんでいて、それを少女は左手で優しく拭った。

「うん、そうだね。今までありがとう――これからもお元気で」

 ラーサがそう答えると、彼女は僅かに笑みを浮かべた。いつも仏頂面で、何を考えているか分からない彼女にしては珍しい笑みだった。炎に照らされた彼女は、凄絶な美しさを称えていた。この死に満ちた空間で、彼女は確かに生きていた。

「こちらこそありがとう。私の大切なルームメイト」

 少女はラーサに背を向け、高らかに謳い上げる。

「私はディアトロフ陸軍第四防衛線第三小隊所属、アイリス=テレジア。皆さんを先導します。私の後に続きなさい」

 彼女はそう言い放ち、炎に飛び込んだ。その足取りに迷いはなく、まるで自らの生存を確信しているかのようだった。アイリスの姿に感化され、次々と兵士たちが炎に入っていく。猛火の先、飛び込んだ彼等が無事なのかは、誰にも分からない。

 ラーサはそれを両手を組み合わせながら見送った。そして祈る。瞼を閉じて、強く。どうか、無事でありますようにと。神様がいるのなら彼等を守ってくれますようにと。アイリスを助けてくださいますようにと。異教の、敵国の神様であろうと、彼女たちが生きてさえいられたらそれでいいから、どうかお願いしますと願った。

 炎を裂き、駆けて行った人々。広場には炎に飛び込む勇気を持てない者と、火傷や古傷によって走れない人が残った。彼等は一様に、この世の終わりのような表情を浮かべている。それは確かに間違いではなかった。みんな、ここで死ぬ事は間違いない。逃げられない以上、奇跡が起こらない限りこの火が消えるなんていう事は起きない。そう、ここで死ぬしかないのだ。だが、それが絶望と共にある必要はどこにもない。

「うたうね」

 ラーサは彼等の顔を一人一人見回して、そう呟いた。彼女は笑っていた。炎に照らされた横顔が、死を定められた人々に美しく映る。その笑みは諦めではない。生きるために焔を斬ったアイリス。彼女はその逆だった。死ぬために焔を纏う。それは覚悟で、生きる意味で。尋ねられた人々は静かに頷いていた。

「うん、よかった……」

 彼女は苦笑して、拡声器には繋がれていない無線機を握り直す。胸についていた赤いコサージュを一度取り外し正しい位置に、心臓の上へと付け直す。炎の勢いは一層激しくなっていて、口を開いただけで喉が焼けてしまいそうだ。でも、それでもやらないといけない事がラーサにはある。自分にとって大切な事がある。

「今日は特設舞台に来てくれてありがとう」

 左手に持った無線機を口元に当てた。彼女が僅かに顔を伏せる。その瞳を煙が覆い隠す。

「お馴染み、ラーサ=ドローグです。多分、これが私の最後の歌になるでしょう」

 もし流れるのだとしても、それは上向きに。ラーサはふいと顔を上げる。いつもと違って、人々の視線が同じ高さにあった。舞台上から見下ろすだけでは知れなかった想いが、彼等の瞳には宿っていた。そこには優しさがあり、穏やかさがあり、地獄でも輝く温もりがあった。こんなにも綺麗なものがあったんだと、それを私はやっと知ったんだと、手に入れたんだと、ラーサはそう知らされる。

「みんな、ここで死にます。それはきっと皆さん自身が感じている事でしょう」

 静まり返る。死を定められた人々は、一人の少女を見つめていた。

「死ぬのは、どうですか。怖いんでしょうか、苦しいんでしょうか。私には分かりません。生きる事しか考えてこなかった私には、こんな状況でもそれはよく分かりません」

 人は生きる間に死を体験するのではない。生きた先に死があるのだ。人に出来るのはそれを憂う事のみ。だがいくら憂いても幸せはない。死の間際、恐怖に怯える人々を彼女は安らかに送り出して来た。

「皆さんも私と同じように、歌を通じてこの感覚を感じて頂ければと思います。分からなくても、それでいいんです。美しい物に魅了され、ただ釘付けになって死ぬ。それは一種の幸福だと私は思います。だから、皆さん。私と一緒に死んでください」

 気づけば、ラーサはそんな事を口に出していた。自分で初めて口に出した「死ぬ」という言葉は、妙に非現実的でそれが少しおかしかった。でも、その後に続いた拍手だけは現実だった。そして、それが彼女には最も非現実的だった。

 死ぬのは怖いし、恐ろしい。死が齎す恐怖は、彼女には分からない。きっとこの世の誰にも分からない。ただその存在はとても恐ろしい。彼女の体は今にも震えだしそうになっていて、その場から逃げ出したいと思っていた。それでもラーサは笑っている。胸につけたコサージュを握りしめている。ずっと共にあったそれ。美しいそれ。それは彼女を支えて来た証。ラーサは息を大きく吸った。

「では聞いてください。最後の曲『あした天気になあれ』」

 最期に選んだのは民謡だった。誰もが聴いた事のある曲。「あした天気になあれ」滑稽としか言いようがないほど、今の状況にはそぐわない。それでもラーサはその曲を選んだ。

 石ころを蹴る帰り道、夕日を背にし、少年は歩く。背にはリュックサックを背負い、右手には虫網、左手には虫かごを持っている。彼の回りを蚊がうるさく飛んでいた。額に流れる汗を拭い、空を見上げる。そこには点々と浮かぶ白い雲。それは夕焼けに赤く染まっている。ああ、いい日だったなと彼は何となしに思う。今日という日が、素晴らしい一日であったと。そして友達と挨拶を交わす。「また明日」。別れ際、約束をする。ポケットに手を突っ込むと、そこには友達との思い出が入っていた。明日晴れたら、今日のような楽しい一日がまた続く。だから彼は願うのだ。

 あした天気になあれと。

 業火が燃え盛っている。その中で、ラーサは歌い続けた。存在しない明日を謳い続けた。美しい景色を、幼き日の憧憬を歌う。それは綺麗事で、意味がないものだ。彼女はそれでもよかった。それでよかった。なぜなら、眼前には穏やかな顔で歌を聴いている人々がいる。

 テントを支えていた柱が風に飛ばされ、大きな音を立てて崩れ去った。かつてここに存在した物が尽く倒壊していた。煙を吸い過ぎた人が倒れている。燃え広がった炎は次々に人を焼いていった。逃げようにも逃げ場はなく、彼等はなすすべもなく燃やされていった。そんな中でもラーサは歌う。動乱は起きない。死ぬ前の喧噪は、彼女の歌によって上書きされていった。皆、静かに運命を受け入れて散っていく。一人、また一人、彼女の眼前の人々が倒れて行った。同時に、ラーサの意識も朦朧としていく。けれど、それでも彼女は歌う事を止めなかった。

 ラーサ=ドローグの歌は。そのためだけにあった。意識が霞もうが、喉が煙でやられようが、それでも彼女は声を出し続ける。それがラーサの矜持で、生きる意味だ。また一人、彼女の目の前で人が倒れた。喘ぐように声を出しながら、彼女は周りを見渡した。そこにはあったのは、煌々と輝く炎のみ。既に誰も立ってはいなかった。あるのは、見るも無残なスティヴァリ基地だけである。そこにかつての面影はなく、人々の浮かべていた笑みもなかった。全てがグレンの炎に呑まれ、消えて行った。ラーサは濁りきった翠緑の瞳でそれを見た。そして満面の笑みを浮かべ、静かにその場に崩れ落ちた。

 

 

 

 三日後、別地に基地を作成したディアトロフ陸軍が空襲後のスティヴァリ基地を訪れた時、そこには何も残っていなかった。燃え残ったテントや、鉄筋パイプ、炭化した死体があちこちに転がっている。だがそれしか残っていなかった。もはや、基地は原型を留めていなかった。

「アイリス、何かあったか」

 そんな基地の探索を任された第四防衛線第三小隊は、辺りの生存者の確保とまだ使えそうな物品の確認を行っていた。

「いえ、特に何も」

 フリードリヒに尋ねられた彼女は首を横に振る。けれど、アイリスはその背中に何かを隠しているようで、左手が後ろに回されていた。

「お前、何か隠してるだろ」

 それを見咎め、彼は笑みを浮かべた。だが、彼女は相変わらずの無表情で「先輩じゃないんですから、私には後ろめたい事なんてありません。ええ、先輩じゃないんですから」と答えた。

「どうして二回も言った」

「そんな事より、早く仕事しますよ。ここに生存者なんていませんし」

「お前にしては随分と辛辣だな。お前はこういう時、生存者を信じて疑わないだろう」

「私はここに生存者がいないと知っているだけです」

 そう言い放ち、彼女は足早にフリードリヒから離れた。しばらくそうして歩いていき、後ろに彼がいなくなった事を確かめる。そして先ほど拾った物を、手の中で広げた。

「おつかれ、がんばったねラーサ」

 小さな手には端の焦げた、一輪の赤いコサージュが載せられていた。

 

 

 

 第一節 鎮魂の救済者

 

 私は両親を病気で失った。流行病だったそうだが、小さかったので詳しくはあまり覚えていない。その後、遺産などは親戚などに食いつぶされ、遺産相続の代わりとして買われた私は召使同然の扱いを受け、十六才の入隊可能年齢になると同時に家を出た。その際持ち出せたのは形見として持たされた音楽再生機と写真だけ。それ以外の物は全部質に出された。仕方ない。そんな義親だったのだ。

 

 軍に入隊してからは、これまた別の意味で地獄だった。怖い教官に厳しい訓練。短い入浴時間に、就寝時間。軍則に縛られる日々だったが、地獄であると同時に救いでもあった。殴られないし、蹴られない。少なくとも、死ぬような目には合わない。実家とは大違いだった。誰かの機嫌を伺いながら生きなくてもいいというのは、思いのほか心地よく自由人である私の気質にあったらしい。

 

 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。入隊して三年後、私はスティヴァリ基地という最前線で補給係を命じられる事になる。そこは毎日人が死んで、好きなお風呂もほとんど入れなかった。娯楽もなかったし、楽しい事なんて一つもない。ルームメイトとかいうアイリスは、帰ってきたらデスクに座って何かを書いている。無口で、仏頂面で何を考えているか分からない。話しかけても「あぁ」とか「うぅ」とか言うばかりで、まともに会話になってない。

「何を書いてるの?」と尋ねても、「これは……えっと……」とかごにょごにょと何かを言っているだけだった。どうやら彼女は人と喋るのが下手くそらしいと気づくのに三日もかからなかった。

 そんな基地の中で、私を救ってくれたのは歌だった。知り合っては死んでいくこの場所で、唯一歌だけが変わらなかった。だから、私はよく形見の音楽再生機で歌を聞いた。それは実家でもただ一つの私の娯楽だった。テントで鼻歌を歌っていると、変な男が話しかけて来て、「皆の前で歌ってみないか?」とか言い出した。

 私が困っていると、アイリスが横で笑っていた。どうやら彼女の差し金らしい。私は大喜びでそれを了承した。人前で歌うのなんて夢みたいだった。大好きなそれが出来るのは最高だ。

 それから毎日歌を歌った。私が歌うとみんなはそれを目を輝かせて聞いてくれた。それが嬉しかった。私は誰かの役に立てていたと胸を張って言う事が出来た。けれど、なぜかあんまり人は来なかった。

 

 そんな日々が一年ほど続いた。歌をきっかけにして、アイリスとも少しづつ仲良くなっていた。相変わらず何をやっているのかは教えてくれなかったけれど、部隊の隊長への愚痴や最近あった事、街で売られている化粧品の話をするようになった。彼女も私と同じで孤児のようなものらしく、互いの境遇を話し合った時は妙に落ち着いた。ステージの方は、なぜか全然人が来なかった。理由は未だによく分からない。

「私は皆に生きて欲しい」とアイリスに話した。それを聞いた彼女は「ラーサの歌にはそれだけの力がある」と答えてくれた。その言葉を私は信じたい。けれどその自信がない。もっと上手くなれたら、自信が持てるのだろうか。

 

 今日、また部隊の子が死んだ。エミルという名前の、母親が好きな男の子だった。彼は口癖のように「病気の母を楽にしたい」と言っていた。けれど、死んでしまった。敵の兵器で殺されてしまった。私も右目と右足を怪我した。でも、死ぬほどじゃない。救えたらよかったのにと後悔した。

 彼が「うたって」と言ったから私はテントで歌った。

 何故かすごく幸せそうで、それが少し悲しかった。でも、そう感じている事の意味はよく分からない。幸せそうならそれでいいのに、どうして悲しいのだろう。エミルが死んでしまったからだろうか。

 歌い終わった私に、多くの人が「うたってくれ」と言ってきた。それが嬉しくて、私はたくさん歌った。喉が痛くて、唇もひび割れて来たけど、それでも歌った。それが私の幸せだった。今まで歌ってきてよかったと思った。だから私は皆を生かすために歌った。

 

 二週間後、再開したステージは敵襲でぐちゃぐちゃになった。折角多くの人が見に来てくれたのに、私の歌を聞きに来てくれたのに、全部台無しになってしまった。立ち上る炎がまるで巨人の様に見えて、すごく恐ろしかった。けれど、立ち止まってはいられない。アイリスが「私が助けてみせるから」と言ってくれたのが嬉しかった。それと「貴方に出来る事をやりなさい」と言ってくれたことも。

 私はことあるごとに「何かやりたい事が欲しい」と彼女に言っていた。そして、エミルが死んでからは「多くの人を看取ってあげたい」と言った。それが私のやりたい事だった。アイリスはそれを理解してくれたのだろう。「貴方も逃げる?」と尋ねられた時、首を横に振ると嬉しそうだった。彼女は長い間の私の葛藤を知っている。その返答はつまり、やりたい事を見つけたという事だから、嬉しかったのだろう。

 去って行く彼女を後目に私は歌を歌った。周りを見渡すと死人ばかりで、歌っている最中にも人はどんどん倒れて行った。でもこれでいいのだ。みんな笑っていたし、幸せそうだった。

 それにこれが私のやりたい事だ。

 だから、この最後が私の幸せだ。

 そう思って私は満面の笑みを浮かべた。

 

 でも、ここで何も残さずに死ぬのはもったいない。だから友人に何か残そう。私の意思を、「皆に生きて欲しい」そんな想いを残したい。

 そう思って私はテントの端をちぎり、その中に赤いコサージュを入れた。これが燃え残るかは分からない。けれど、残ったらいいなとそんな事を思って私はその場に倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二節 卑俗たる復讐者

 

 野犬の遠吠えが寂れた街中に木霊した。ネズミが怯えた声を出し、野犬から逃げて行く。それを猫が追いかけた。ネズミは排水溝に逃げ込む。猫はそれを目前に歯噛みした。一方、ネズミは安堵の声を漏らしてマンホールから這い出し、外に出る。それを待ち受けていた鴉は空から飛来し、ネズミの胴体を鋭い爪で掴んで空中へと連れ出した。曇天に黒い翼が広がっている。その腕には哀れなネズミ。弱肉強食の世界で勝ち抜いた鴉は、勝利の余韻に体を震わせた。これは戦争が始まって以来、戦場近くの街で頻繁に見られる光景である。

 スティヴァリ基地への道のり、その最後にある街を、スヴェンは軽トラの荷台から眺めていた。車が珍しいのか、路傍に犬や猫といった生物が無機質な目線を向けてくる。彼等の視線が、スヴェンには痛かった。彼等は元々ペットだった。だが戦争が起きた。避難する人間にペットを連れていく余裕はない。彼等はこの地に置き去りにされた。野生化したペットたちは群れを成し、人を襲う。だが不器用なものは餓えて死ぬ。浮いたあばらや、白骨化した骨。死体に群がった他の生き物たち。戦争が奪ったものは、人間に関連する物だけではない。様々な所に波及する。そうした光景を、スヴェンは何度も見て来た。

 廃墟と化した街並みには、シダが纏わりついていた。表札は緑に呑まれ、読む事が出来ない。辛うじて見る事が出来た掲示板には、反戦ポスターや徴兵募集の張り紙が見えた。本来、時刻表や祭り日程などが掲載される場所は、プロパガンダに取って代わられている。雲に覆われた空から日差しが差す事はない。昼だというのに、この街は夜のような静けさを湛えている。それは日差しのせいではない。街明かりと喧噪が、この街には欠如していた。本来あるべきはず物がここにはなかった。

 彼はそうした街並みを、ただ軽トラの荷台から眺めている。ずっと彼はそうしてきた。時折写真を撮り、メモ帳に雑感を記入する。ただそれだけ。それだけをして彼はこの街まで来た。そうして、彼は地獄にやってきた。

 

 今から六か月前、スヴェン=ディアカーターは、母国で新聞記者をやっていた。幼少から新聞が好きで、毎日のように読みふけっていた。そこには生の情報があった。行った事のない他国や、見た事のない人々の話が書かれている。それは中小国家にとって、大きな娯楽だった。そういう事情もあって、彼は新聞社に入社した。スヴェンは入社してすぐに、大きな仕事に抜擢された。それは隣国、ディアトロフで起きた戦争の取材だった。彼は意気揚々と取材に出向き、原稿を書き上げ、編集者に提出し、それが印刷され――。出来上がった物は、スヴェンが書いた物とは全く異なる物だった。抗議の声は黙殺された。彼が語った戦争の真実は、気楽な現場を示していた。その時はまだ、戦争は本格化しておらず、みんな日常を過ごしていた。ショッキングな物を求めていた民衆には受けが悪い。書換えは、編集者の指示だった。

 スヴェンは三日後、会社を辞めた。そしてそれから二週間後、妻と娘を母国に残して単身スティヴァリに飛んだ。自らが愛した新聞という物を取り戻すため、フリージャーナリストとして、戦争の実態をカメラで写すために。

 

 廃墟を抜け、三時間ほどした頃、スヴェンが荷台から乗り出し前方を覗き込むと、街が顔を出していた。遠目で見ただけで、そこは今までと違った。スティヴァリは今までの街と違い、活気に溢れているように見えた。その感覚がどこから来るものか、彼には分からない。ただ、数多の廃墟を通り過ぎたスヴェンの目が、そこは違うと告げていた。

 彼が街を睨んでいると、荷台が大きく揺れた。慌てて彼は荷台の淵を掴み、落ちるのを防ぐ。今まで喚いていたエンジンが静まった。僅かに先に進み、軽トラは停車する。運転席のドアが、音を立てて閉まる。運転手が荒っぽく降りて来た。髭面の彼は仏頂面でスヴェンに向け、「着いたよ」と言った。

「ありがとう」

 彼は一言そう言って、三枚ほどの紙幣を握らせた。そして荷台から飛び降りる。手荷物は大きなリュックが一つだけ。それだけが、スヴェンのジャーナリストとしての商売道具だった。日記帳と首から下げたカメラが確かにある事を確認し、彼は運転手に頷く。彼は運転席に戻って、再びエンジンをかけた。走り去っていく軽トラ。それを見送って、彼は腕時計を確認した。約束の時間が迫っていた。

「行くか」

 東の空には黒煙が立ち昇っている。その先には、残して来た妻と娘がいる。残して来たものの重さと、やらなければならない重さ。厚く連なった雲が空を覆う。降ってきそうな空に押し潰されそうになりながら、スヴェンはスティヴァリ基地に続く街道を歩いた。

 

 曇天の中、雲間に差した光が子供たちを照らしていた。スティヴァリ市街に存在する孤児院。スヴェンは協力者と落ち合うため、そこを訪れていた。自由時間なのか、子供たちは庭で遊び回っている。彼等がやっているのは宝探し。孤児院内に隠されたお宝を探す。それだけの遊び。スヴェンも子供達に誘われ、それに参加していた。ただ彼は宝がどんな物か知らない。だから子供達に手を引かれるまま、院内を歩き回っていた。

 庭には草が生い茂っている。物干しざおに掛けられたシーツはシミが目立った。それを子供達がくぐっていく。それに倣ってスヴェンもシーツをくぐった。その先はレンガ造りの壁。嵌められた窓ガラスはくすんでいる。中の様子を窺う事は出来ない。女性の声だけが聞こえていた。

「おじさんも探してよ」

 よそ見をしていた彼に、男の子が頬を膨らませる。

「ごめん。ところで何を探せばいいのかな」

 スヴェンは屈みこんでそう尋ねた。

「黄金だよ!」

「おうごん?」

「そう黄金。キラキラしてるから、きっとすぐに分かる」

 男の子は鼻息荒くそう語った。スヴェンにはそれが不思議だった。子供達にとっての黄金が何を指すのか、彼には分からなかった。

「見つけたぞ!」

 物干しざおを三本ほど過ぎた先から、そんな声が聞こえてきた。

「あーあ。おじさんのせいだ」

 ふてくされた男の子が唇を尖らせる。

「ごめんね」

 スヴェンは彼に小さく謝罪し、立ち上がった。そして声のした方に向かう。途中、シーツを二枚ほどくぐった。三枚目、シーツの向こうに人影が見える。そこに宝の発見者がいるのはすぐに分かった。ゆっくりとスヴェンはシーツを捲る。

「こいつは俺のもんだ!」

 右手を天高く掲げ、周囲の子供達に向け、そう宣言する男の子。親指と人差し指に摘ままれた金色の細長い物。それは紛れもなく薬莢だった。彼は思わずその場に立ち尽くす。一方で、子供達は湧いていた。口々に銃弾の持ち主を褒めそやし、羨ましいと唇を噛んでいる。それは先ほど、スヴェンと話していた子も同じだった。

「これであいつが四つ目かぁ」

 彼は憎々し気にそう呟き、地面を見つめていた。それはいかにも悔しそうだった。子供というものは遊びの中で序列を定める。運動が出来る人間が学校で好かれるように、この孤児院では宝探しが得意な者が偉いのだ。金色の薬莢を小さな子供が握っている。誇らしげに掲げている。それを遠巻きに女の子が眺めていた。彼女は冷めた目で突っ立っている。呆れた目を向けている。

 それこそが成長の差。スヴェンの心に暗い影が降りた。彼は戦争というものの正体を見た気がした。首から下げたカメラが酷く重い。男の子にレンズを向けようにも、それを持ち上げる事は叶わなかった。子供達の喧噪が彼の耳に響く。それが悪魔の笑い声のようにスヴェンは聞こえた。異常の日常が、彼を捉えて離さなかった。

 だがそこに救いの手が差し伸べられる。

「なにやってるの!」

 それは喧噪を裂く、高い女の声だったた。

「リサねぇだ! にげろ!」

 子供達はそう叫ぶと、笑い声を上げながら逃げて行った。シーツをくぐり、木々を掻き分け、院内へと走り。様々な方へと逃げて行く。後ろ姿の残影だけがスヴェンの視界に残った。そんな彼の元に、息を切らしたリサが近づいてくる。

「貴方も、なにやってるんですか! 止めてください!」

 彼に向け、彼女の怒声が飛んだ。

「す、すみません」

 勢いに押されるままに、スヴェンは頭を下げた。彼は何故怒られているのか、分からなかった。

「あの子たち、おかしいでしょ?」

 内心、首を傾げていたスヴェンに、リサは一言そう言った。

「はい?」

 聞き間違いかと、彼は思わずとぼけた声を上げる。だが彼女の遠い目が、先ほどの言葉が間違いではないと物語っていた。

「銃弾が宝物なんて。あれで親を殺された子も大勢いるのに」

 スヴェンの体に電気が走った。彼までもが麻痺していた。戦場に呑まれていた。リサの怒りは正当な物だった。どこの世界に薬莢で遊ぶ子供がいるのか。そんなのはここだけだった。

「子供はこんな状況でも、遊びを見つけるわ。大人よりよっぽど柔軟よ」

 彼女は眉を伏せ、小さく呟いた。視線の先には黒煙がある。黒い煙が天高く昇っていた。

「振りきれてない私なんかよりもね」

 リサはそう自嘲して笑った。目端に浮いた小皺がやけに目についた。

「あの、僕はフリージャーナリストのスヴェンです」

 今更ながら、彼はそう口にする。すると彼女は彼に向き直った。そこでスヴェンは初めて知った。リサが年若い少女だった事を。

「リサ=ヴァレンタインよ。ようこそスティヴァリへ。と言っても、何もないけれどね」

 初めは気丈に、終盤は悲し気に。彼女はそう言って笑った。

 

 子供達は今度はかくれんぼを始めていた。孤児院内は中々に広く、隠れる場所には事欠かない。目は届かないが、今更の話だった。

「あの子たちは?」

「みんな戦争で親を失った子たちよ。大半は親戚に引き取られたけど、身寄りのない子は家で預かってるの」

 笑い声が響く。空はいつの間にか晴れていた。夕方、落ちかけた陽が子供達の顔を照らしている。それは金色ではなく、明るいオレンジ色で。

「そうですか」

 目の前のものは健全そのものだった。薬莢はなく、戦争の香りは消え去っている。けれど先ほどの情景がスヴェンの頭には強く残っていた。

「捨てられた子たちよ、彼等は」

 そう言ったリサは無表情だった。その言葉が余りにも無情で、彼は強い反発心を抱く。

「そんな事ないでしょう。子供達の親だって、死にたくて死んだ訳ではないと思いますし」

 敵対心を瞼で覆い隠し、スヴェンはそう言った。だが、彼女は淡々と「一緒の事よ」と彼を突き放す。

「結局、彼等は死んだのだから。残された者は何も変わらない」

 リサが自身の左手を見つめる。そこには指輪があった。それは薬指に巻きついていて、銀色の輝きを放っている。スヴェンは彼女の言葉が子供だけでなく、彼女自身にも向けられているのだという事をその時初めて知った。

「だから私は他に何を差し置いても、自分が死ぬつもりはないわ。あの子たちには私しかいなくて、私にはあの子たちしかないのだから。誰が大事ではなく、全てが大事。リサ=ヴァレンタインは、子供達を救う者でなければならないの」

 それは強さか、はたまた弱さか。メモ帳に文字を書きつけるだけのスヴェンには分からない。ただ、夢見る乙女が変わらざるをえなかった。その事実だけが彼の胸に重く圧し掛かっていた。

 

 夕暮れ、スティヴァリは茜色に染まっていた。レンガ造りの家からは微かに夕食の香りが流れてくる。それに引き寄せられたのか、野良猫たちが勝手口に集まっていた。彼等は喧嘩をする事もなく、大人しくそこに座っている。その横をスヴェンが通り過ぎた。にゃあと、可愛らしく猫が一声鳴いた。

 野良猫は人を見ても怯えない。彼等にとってそれは当然にあるもので、何ら変わりない日常そのものだった。

 スヴェンは首から下げていたカメラを両手で握る。今までお飾りだったそれ。先ほどの孤児院でも、彼はそれを使う事がなかった。しかし、彼は意を決してファインダーを覗き込み、一枚の写真を撮った。

 茜色、夕焼けに染まったスティヴァリ。そこには薄汚れた石畳と、僅かに綻びたレンガ造りの街並みが広がっている。狭い街道の端には三匹の猫が佇んでいた。黒猫一匹に、ハチワレ二匹。彼等の毛並みは悪く、鋭い目つきでこちらを睨んでいる。それはまるで異人を見る人間のようだった。スヴェンにはそれが酷く不気味だった。

 彼が一歩踏み出す。夕陽は既に沈みかけている。スヴェンは夜が明ける前に、宿に向かおうと歩き出した。幾人もとすれ違う。老婆、老爺、中年の女に若い女。夜へ向かうこの街に若い男はいない。通り過ぎた役場の壁には、避難勧告のポスターが貼られていた。それ以外にあったのは、配給のカレンダーだけ。ここはさしずめ死を待つ人の家だった。兵士として戦う夫を待つ妻以外、故郷を離れられない老人ばかりだった。彼等はみんなスヴェンを、先ほどの猫のような目で見ていた。

「なにあれ?」

 すれ違いざまに六才ほどの女の子が、スヴェンの顔を見上げそう言った。傍らの母親と思しき女は、慌てて子供の腕を掴む。彼は小さく首を横に振った。だが、母親は子供を連れて逃げて行った。夕陽に向けて、駆けて行った。小さな、小さな背中だった。

 その後ろ姿はまさに戦争という物を体現していた。スヴェンは思わずカメラに手をかける。腕を持ち上げ、視界に二人の背中を捉えた。そして、シャッターボタンに指を置き――そのまま下ろした。人に向かって指を指しただけで、必死に逃げる母と、その子供。そんな憔悴しきった人々の姿を撮る事が出来なかった。

 スヴェン=ディアカーターには使命感がある。それは報道とは真実を語るべきだというものだった。彼には行動力があった。妻と子を母国に置き、身一つで異国の戦地に赴くという行動力を持っていた。スヴェンに足りない物があるとするならば、それは覚悟で。

 彼はカメラを右手にただ俯いた。視線は石畳に注がれている。そこに突然、暗い影が差した。スヴェンが顔を上げる。すると影の主と目が合った。

「ハゲワシのくせに」

 金色の髪をした少女。細められた藍色の瞳は、スヴェンを真っ直ぐに貫いている。瞳が交錯する。彼は思わず慄いた。彼女の瞳には確かな覚悟が秘められていた。

「覚悟してから、来るべきなのに」

 スヴェンの体が固まる。カメラを握りしめた彼に、少女は憐れむようにそう呟いた。

 

 銃弾が塹壕の上を飛び交っていた。蒼空、シュレイガーが優雅に旋回している。まるで地上の事など知らぬかのようなその姿を、スヴェンはぼんやりと見つめる。

 少女と出会ったあの日から、彼はその熱意をすっかり無くしてしまっていた。目を閉じると、彼女が落胆の表情を向けてくる。そして言うのだ。「覚悟してから、来るべきなのに」と。真っ暗闇の中、藍色の瞳が妖しく光っている。彼女はハゲワシとスヴェンを呼んだ。それは正しいのかもしれない。

 ただ、そのハゲワシは飛ぶ事も出来ぬ木偶の坊であった。現地協力者に頼んで連れて来て貰った戦場で、スヴェンは何もせず塹壕の中で震えていた。首から下げたカメラを両手で抱え、彼は顔を青くしている。その姿を同行した部隊の隊長であるフリードリヒとその部下たちは眺めていた。部下の中には、あの金髪の少女も混じっていた。彼女は黙ってスヴェンを見つめる。

「なぜ、連れて来たんですか?」

 そして他の兵士の言葉を代弁して、フリードリヒにそう言った。

「こいつを放置して死んだら外交問題になる。ここだけの問題じゃない。理解しろ、アイリス。これは命令だ」

「……了解」

 その言葉に、彼女は不満気に頷いた。視線は変わらない。アイリスがスヴェンの事を鬱陶しく思っているのは確実だった。しかしそれについて声を上げる事は許されない。

 彼女が黙った事をフリードリヒは確かめた。そして部隊の面々の顔を眺め、用意が出来ているのを確認すると声を張り上げる。

「では、今から我らディアトロフ陸軍第四防衛線第三小隊は、所定位置に移動を開始する。命令系統を遵守し、迅速な判断・行動を求める。犬死は避けろ。人数補填が面倒だ」

「了解」

 隊長の言葉に彼等は一斉に頷き、背嚢を背負い直す。

「出陣!」

 そして、フリードリヒのその言葉と共に駆け出した。スヴェンはそれを黙って見ていた。彼には走る気力などなかった。だがこのままここにいても、更に死ぬ確率は高まるだけだ。 走っていく彼等を、スヴェンは最後方から追いかけた。

 

 火薬の臭いが充満していた。最前線は後方と違い、弾薬の消費が激しい。その上、手榴弾等の爆発で舞い上がった砂塵に火薬が付着し、風に流される。そのせいで、腐臭よりも、火薬の独特な臭いが鼻につく。

 だが死臭がしない訳ではない。戦争という覆いに隠された死体の存在を感じ取り、スヴェンは塹壕の中で身震いした。一方で、第三小隊の人々は着くや否や背嚢をその場に下ろし、身軽になった体で銃の整備を始める。セーフティの確認、暴発のチェック。当然、出陣前に確認は済ませているが、それをもう一度入念に行った。それが第三小隊の方針だった。

「異常はないか」

 フリードリヒが面々の顔を見回す。彼等は揃って頷いた。

「一〇〇で一斉掃射を行う。位置につけ」

 彼の言葉で全員が敵の方を向く。一列に陣形を組み、その場にしゃがみ込んでいた。まだ頭は出していない。未だに敵の機関銃が轟音を発していた。荒野を弾丸が穿ち、腐乱した死体を突き抜けていく。そんな中で頭を出せば、すぐに脳漿をぶちまける事になる。彼等は皆言われずともその事を分かっていた。彼等は土壁に背を預け、静かに銃を胸に抱えている。

 一方で、スヴェンは未だに蹲っていた。銃声と死臭に負け、動けないでいる。カメラは完全なお飾りだった。だがそれが足枷のように彼をこの地に縛り付けている。

「あと三秒」

 淡々とフリードリヒがカウントを始めた。部隊の人々が一斉に銃のセーフティを下ろした。スヴェンはアイリスの金の髪を後ろから眺める。彼女は小さかった。とても華奢だった。そんな彼女が敵を土壁の向こうの敵を、真っ直ぐに見据えていた。その瞳にはかれにない物が宿っている。

「あと一秒」

 彼等は息を深く吸った。その瞳に恐怖はない。代わりにあるのは、覚悟のみ。機関銃の掃射音が鈍くなる。機関銃は連射によって銃身が加熱されるため、冷却の必要がある。無限に弾が撃てる訳ではない。虎視眈々とフリードリヒたちはその時を待っている。待って待って待ち続け、敵を殺す兵器へと自身を同一化していく。

「開始」

 そして、フリードリヒがその兵器の引き金を引いた。

 その瞬間、彼等の体が跳ね上がる。塹壕上の立てられた木板に三脚を立て掛け、敵の塹壕に向かって引き金を引く。味方が撃っている間、フリードリヒだけは敵の奇襲を警戒し、辺りを見回す。

 戦闘は始まった。されどスヴェンは動けない。足元では蛆が呑気に闊歩している。その蛆は彼のすぐ近くに落ちていた人間の腕から這ってきたものだった。それは本来存在してはいけないものだ。だというのに、スヴェンよりもよっぽど自由を謳歌している。その事に彼は強い疎外感を覚えた。

 そうしている間にも、仲間たちは引き金を引き続けていた。彼等は誰かを殺してるのだろうか。塹壕から出ないスヴェンに、それは分からない。彼等の後ろ姿は動揺一つ見られなかった。だが目的は敵の妨害である。殺していないはずがない。そう考え、スヴェンは恐ろしくなった。彼等は動揺一つなく、人を殺しているのだ。

 流れる。時は流れる。失われる。命と存在事象が失われる。死体という醜い物を残して、消えてゆく。撃ち抜かれ、腐食し、白骨となって。そうやって消えて行く。ただそれだけが繰り返される。

 スヴェンはその場で頭を抱えて蹲った。凄惨な事実によって許容量を超えた脳が、彼に全て忘れさせようとする。自分がスティヴァリ基地にいるのだという事実、そして戦争の場に連れて行かれているのだという事実、ここで死んでしまうかもしれないという事実。

 その全てがスヴェンの両肩に圧し掛かっていた。本当に自分には覚悟がなかったのだと思い知らされる。

「このハゲワシ」

 アイリスの言葉がこだまする。スヴェンはハゲワシにすらなれなかった。この戦争を餌にする獣足りうる資格さえなかった。

「交代」

「了解」

 周囲を確認していたフリードリヒと、射撃を繰り返していたアイリスが位置を変える。彼女は射撃を止め、周囲の警戒を始めた。それと同時にスキットルを取り出し、ウイスキーを煽る。アイリスが薄汚れた白い首筋を伸ばす。不揃いの金髪が頬に張り付いていた。彼女が横目でスヴェンを覗く。垂れ下がった腕に、投げ出された足。目は虚ろで生気がない。彼は酷い有様だった。それは覚悟はない者が戦争に訪れた末路だった。アイリスは「ほらいったものか」といった様子で嘆息する。そのため息が刃となって、彼の心に深く刺さった。

「交代だ」

「了解」

 フリードリヒが声を上げ、アイリスと再び位置を変えた。彼女がしっぽ髪を振って、元の場所に戻る。安堵して、思わずその軌跡を目で追った。だがそれは「おい、写真撮れよ」というフリードリヒからの声で止まった。相変わらずカメラは重いままで、スヴェンは動く事が出来なかった。指先だけが、痙攣するように震えていた。

 そんな彼をフリードリヒは黙って見る。彼の視線に失望はなかった。

「借りるぜ」

 フリードリヒはスヴェンのカメラを持ち上げ、シャッターを切った。彼はその様子を呆然と眺めていた。仮にも商売道具であるのに、怒りなど湧いてこなかった。そこにあるのは失望だった。

 真実の価値と、報道の価値。そしてそれを知らせる覚悟。

 生存欲求と、残して来た家族、それらと過ごす平和な日常。

 両者を天秤にかける。秤に載せて重さを測る。それは無情にも結果だけを映し出した。天秤はあっさりと左に傾いた。

 彼はもはやジャーナリストではない。スティヴァリという異国の地までわざわざやってきて火中の栗を拾い上げた、無知で哀れな一般人だ。

 

 戦争というのは一度始まったら止まらない。まるで山火事のように延焼を続け、最後は焼け野原になっている。それと同様で、一度始まった戦闘も簡単には終わらない。硝煙の臭いが強くなり、死臭はほとんど感じ取れなくなっている。新しく生まれた死体はすぐには臭いを放たない。故に、戦場に遺されるのは戦闘の形跡だけだ。そこまで行きつくと、外観で感じられる変化というのは人の生き死にくらいの物となる。そしてそれは兵士にとって当然の事だった。

 だから気づくはずのない事だった。空からの異音なんていうものは。

「なんですかこの音!」

 一般人となったスヴェンはその場で立ち上がり、辺りを見回した。

「おい座れよ」

 そんな彼の腰を、鬱陶しそうにフリードリヒが掴む。彼は全くもって異音に気づいていないようだった。

「聞こえないんですか? この音が!」

「耳がおかしくなっちまったか? おめでとう、一歩死に近づいたな」

 彼はそう言って笑っていた。哄笑を続けるフリードリヒの胸倉を掴み、スヴェンは怒鳴った。

「真面目に答えてくださいよ!」

「あーはいはい、聞こえるね。聞こえるよ。だからちょっと黙っててくれないか」

 だが、それすらも意味がない。彼はまともに取り合おうとせず、周囲の警戒に務めている。

「フリードリヒさん!」

 より一層スヴェンは彼に詰め寄った。黒い瞳が彼を貫く。その視線が酷く痛い。それでもスヴェンは必死に訴えた。彼は死の恐怖に突き動かされていた。

「掃射止め。塹壕内退避。私からの命令があるまで待機」

「了解」

「は? どうして止めた。今がチャンスだぞ」

 そんな彼に救いの手が差し伸べられる。それは意外な人物だった。

「だから私は煙草は止めた方がいいと言っているじゃないですか」

 アイリスがこれ見よがしに大きなため息を吐く。

「何を言ってる。早く持ち場に戻れ。お前たちも、隊長は俺だぞ。どうしてコイツの言う事を聞いてる」

「先輩こそ何言ってるんですか? この音が聞こえないんですか? 引き金の引き過ぎで、気でも狂っているんでしょうね。ですが、私はまだ死にたくありません。早く逃げましょう。恐らく敵の攻撃は空からです」

 未だに現状が呑み込めていないらしいフリードリヒを睨み、彼女はその後空を見上げた。そこには巨大な十字架が浮かんでいる。十字架の正体はシュレイガーだった。それは不気味にスティヴァリの空に君臨していた。

「お前は何を言って……」

「ただちに移動。武装は放棄。地点ゼータまで全力疾走。私について来なさい」

「了解」

 アイリスに続くように三人が走り出す。置いていかれないよう、スヴェンも慌ててその後を追った。

「どこへ行く!」

 その場に残されたフリードリヒは声を上げながら立ち上がり、走り出した。

 

 

 点々と、電球の明かりだけが周囲を照らしていた。空には月が浮かび、星々がそれを彩っている。雲一つない澄み切った空だった。

 しかし地上は違う。空襲によって生み出された被害者は数知れず、夜も更けた今となっても、救急テントに被害者が運び込まれている。悲鳴や嗚咽、懇願の声が闇へと溶けていた。

 次々と担架に乗せられた人々が運び込まれていく。黒の中で白が蠢いていた。それは人を救うための白で、けれど各所が赤に染まっている。白を纏った人々はみな声を出していた。それは励ましの声だった。

 それをスヴェンは救急テントの外からぼんやりと聞いていた。白が往復していくのを眺めながら、彼は手を握っては開いてを繰り返す。動く事を確かめて、胸ポケットから手帳を取り出し、適当に書きつけた。

 ――死。

 咄嗟に出て来たその言葉。

 形にした途端に、その概念がスヴェンを襲った。幾度となく往復していた担架に、それらは乗せられていた。もし何かが違っていれば。そう考えると、彼は足が竦んで動けなくなる。

 スヴェンに戦場での記憶はほとんど残っていない。何とか無事に帰って来たというその事実だけが確かだった。胸に残った本能的な恐怖と、実像を失った記憶。その乖離が、彼の心を宙に浮かす。

 スヴェンはペンで先ほど書いた『死』という文字に横棒を四本引いた。そうしてやっと、自分は生きているのだという実感を得た。

 生きている。そう生きている。自分は生きている。そう思った次に、浮かんだのは喪ったと思った記憶だった。

 自分が一番大事で、その存在が確かめられたのなら、次に思い出すのは喪ったものだ。

 部隊の仲間が先に走っていて、それを他の兵士たちが訝し気に見ている。ある者は臆病者だと馬鹿にし、ある者は軍規違反だと怒っていた。みな、様々な表情を浮かべていた。

 だが、今となってはそれらが表情を変える事はない。青白い肌に、虚ろな瞳。そこに感情なんていう物はなく、意思なき骸へと変わってしまった。

 その虚ろな表情を思い出し、何も食べていないのにスヴェンは吐きそうになった。喉奥が妙な音を立てる。食べていないのだから何も出るはずがない。水分すらも汗として流れ落ちてしまった。代わりに出たのは胃の中の空気。喀血するようにそれを吐き出す。咳染みたものが口から出て、その後勢いよく唾を飲み込む。痛んだ喉に唾が染みた。

 荒くなる息を抑え顔を上げる。彼はカメラを首から外した。両手でそれを持ち、頭上に掲げる。そこに収められているのは猫の写真だけだ。結局、写真は撮れなかった。スヴェンにそれは必要なかった。

 だが、それを振り下ろす勇気もなく、諦めたように肩を竦め、一歩踏み出した。彼はそれを繰り返し、幽鬼のように救急テントへと向かう。スヴェンが怪我をした訳ではない。部隊の誰かが怪我をした訳ではない。アイリスは無傷で、フリードリヒは今頃自分のテントで一服しているだろう。現地協力者が怪我をした訳ではない。彼に関連する誰かが怪我をした訳ではない。

 だというのに、取材をせねばならないという心の底に澱のように残った使命感が、更なる地獄へと彼を掻き立てていた。

 足を引きずるようにして、足は救急テントへと向かう。

 何度もカメラを振り上げた。その度に彼の足は止まる。だが程なくして動き出す。恐怖を文字にして、手帳へ書きつける。散々に感情をぶつけ、苛立ち混じりに斜線を引く。テントへと近づくにつれ死臭が濃くなり、妙な声が聞こえてくる。幻聴か、実際に声が発せられているのか、それすらもうスヴェンには分からない。

 夜中の十二時、救急テントで響く声。その要素だけでもう彼には声の内容に予想がつく。

心が徐々に腐っていった。そしてそこに虫が巣食い始める。信念は虫の糧食と成り果て、肉体は生ける屍と成り果てた。

 だが足は止まらない。

 長い時をかけて僅か数十メートルの道を歩き、スヴェンはようやくテントの前に辿り着いた。彼は天幕を開ける前に、深く息を吸った。

 風が吹き、電球が揺れる。

 奇妙なリズムで声が聞こえてくる。それが黄泉へ誘う歌声のように彼には聞こえた。一体何が中で行われているのか。スヴェンには想像もつかない。宗教儀式か、薬か、はたまた頭のおかしくなった兵士たちによる喧嘩か。そのどれもがあり得そうな話だった。

 カメラを握り、胸ポケットに入れた手帳の所在を確認する。そしていよいよ覚悟を決めた。

 

 テントへと足を踏み入れたスヴェンは思わず目を疑った。

 芋虫のように転がった人体。薄いシーツ一枚の上に人が転がされている。医療用テントの中はまさに野戦病院だった。使い回しのシーツには以前の使用者の血がこびり付いていて、鉄のような臭いを放っている。新しく流れる血の上が古い血を上書きするそんな空間で、どうしようもない腐臭とむせ返るような血液の臭いが鼻を襲った。

 だが、そんな事は予想の範疇だ。彼が目を見開いたのはそれらが理由ではない。

 赤毛の少女が歌っていた。周囲を傷だらけの兵士に囲まれて、赤いコサージュを左胸につけ歌っている。その隣には死亡したと思われる少年が横たわっていた。彼女は少年の手を握って、歌っていた。

 スヴェンは思わずその場に立ち尽くす。そこは穏やかな空間だった。誰も苦悶の表情を浮かべる事無く微笑み、目を閉じている。本来苦しみで溢れるべき空間が、それ以外の物で埋め尽くされていた。

「みなさん、そろそろ眠れましたか?」

 少女が一声、呼びかける。それに対し、兵士たちは僅かに身じろぎした。言葉がなくともそれは否定を意味している。

「そうですか……」

 彼女は翠緑の瞳を伏せ、俯いた。そこには慈愛が宿っていた。

「では次の曲です」

 俯いていた顔を上げる。その瞳には覚悟がある。

 彼女が再び歌い始めた。兵士たちは変わらず笑んでいる。救急テント内にゆったりとした時間が流れていた。それはまるで昼下がりの公園のような穏やかさを湛えていて、それを作り出したのが、赤毛の少女だ。皆が笑っている。紡がれる旋律に身を任せ、皆が少女の事を眺めている。

 これが幸せなのだろうか。これが幸せというものの形なのだろうか。地獄のような苦しみの、その先。到達点にあるものがこれなのだろうか。

 それはスヴェンには分からなかった。ただ、その姿を、歌声を、瞳を、彼は美しいと感じた。彼は思わず首から下げたカメラに手を伸ばす。そして眼前にまで持ち上げ、ファインダーを覗いた。

 明かりは電球一つ、光源の真下に赤毛の少女、周囲には傷だらけの兵士たち。消えた灯と未だ残る灯、その同居。戦争の姿。

 スヴェンはシャッターを切ろうとボタンに手をかけた。その姿を写し取ろうとした。永久に残る形で保存しようとした。

「待って」

 しかし、それは思わぬ人物の手によって止められた。

「そっとしておいて」

 ファインダーから顔を離し、声のした方を見る。そこに立っていたのはここにいるはずのない、金髪の少女だった。

「なぜ」

 眼前に立っている少女は、かつてスヴェンの事を「ハゲワシ」と罵倒した。だが彼はそれにすらなれなかった。屍肉を啄む事すら彼には出来ず、代わりに出来たのは蹲って泣くだけ。それでもスヴェンはこの光景を撮りたかった。宝物を大事にする子供のように、彼はこの瞬間を宝にしたかった。

「私の友人なんです」

 アイリスは小さくそう言う。

「それが?」

 スヴェンが尋ねる。

「邪魔しないでください。あれがラーサの夢なんです」

 彼女が懇願するように彼を見上げた。藍色の瞳が、真っ直ぐにスヴェンを貫いている。その奥には黄金の輝きがあった。信念という彼には失われた輝きが。

 視線をラーサという赤毛の少女に戻す。彼女は相変わらず歌っていて、その美しさが衰える事はない。宝石はいくら汚れようが宝石で、色褪せる事がない。それと同様で、アイリスの輝きも色褪せない。美しい物としてそこにある。

 スヴェンは頭を下げた彼女を見つめた。小さな旋毛だった。とても小さい、小さい体だった。その体は僅かに震えていた。

「夢は……大事だよな」

 カメラを手放す。役目を失ったそれが、首から垂れ下がった。それがとても重たく感じられた。

「ありがとうございます」

 アイリスはそう言ってその場に腰を下ろした。華奢な肩がリズムに乗って揺れている。後ろで纏めた髪が尻尾のように跳ねていた。それに倣うように、スヴェンもその隣に座る。

 歌声が響く。

 それが疲れ切った体に染み渡った。胸元から取り出したメモ帳を眺めながら、このあまりに長かった一日を回想する。初めて見た死体、戦場の香り、医療テントの歌。金の少女との邂逅、そして夢の崩壊。

 今まで抱いてきた物は憧れだった。それは実態なき願いだった。現実を知ると儚く散るような物だった。

「貴方の目にどう映りましたか、スティヴァリは」

 視線はラーサに向けたまま、アイリスがそう問いかけてくる。

「何も見えなかったよ」

「そうですか」

 スヴェンの答えに、彼女はそう返した。

 しばしの沈黙。

「貴方は帰った方がいいです」

 アイリスは正面から彼を見た。

「向いてません。貴方はまともです。だから壊れる前に、早く帰った方がいい」

 それは事実上の死刑宣告だった。スヴェン自身が問うてきた問いに、彼女が答えを出した。彼の手から手帳が零れ落ちる。そこに綴られているのは、日々の生活。スティヴァリでの、そこに向かう道中での、人々の生活。非情な現実。彼が今まで辿って来た道のりには、多くの悪魔が潜んでいた。それは人間には抗えないほどの力を持っている。それに踏みつぶされて、人々の生活は奪われていく。

 そんな悪魔の姿が書かれている。

「そうだな」

 彼にそれを御す事は出来なかった。それを見る事は出来ても、それと生きる事は出来なかった。結局、彼に出来る事は想いを綴る事だけで、悪魔と同居する事は出来なかった。その姿を映す事は叶わなかった。

「それがいいです」

 アイリスが笑う。俯いたスヴェンを見て笑う。その笑みの意味が、彼には分からなかった。彼女は笑いながら彼の落とした手帳を拾い上げて、中を捲る。

「ちょっと失礼」

 そして自前のペンで何かを書きつけた。その後「はい、どうぞ」と何事もなかったかのように、スヴェンにメモを返した。

「一体何を書いたんだ」

 彼はアイリスを訝し気に見る。

 けれど彼女は悪戯っぽく笑うに留めた。そして目を瞑る。もはや歌以外の外界の刺激を断ち切ったアイリスにため息を吐き、スヴェンもまた音楽に身を委ねた。

 失った夢。投げ捨てた夢。蛆に巣食われた信念。だがそれは彼の心を軽くさせた。粛々と歌声のみが流れている。自然と意識が波に攫われていく。硬い地面、座ったままの悪い姿勢。しかしそこは妙に落ち着いて、スティヴァリ基地を訪れて初めて彼は熟睡する事が出来た。

 

 

 

 清々しいほどに晴れた日曜日だった。

 それから二週間が経った。スヴェンはラーサやその他の兵士への取材も終え、この地を去ろうとしている。街は相変わらずの活気で、何ら変わった所は見られない。孤児院では宝探しが流行り、それをリサが叱っている。別れの挨拶に訪れた際、彼女は笑いながら「いい顔になりましたね」と言った。夢を捨てた自分は良い方向に変わったらしかった。

 ただ、街は変わらない。

 戦場はシュレイガーの導入によって、更なる地獄を生んでいる。今まで安全圏だった空もが戦場となり、ディアトロフは対応に追われている。これは毒ガスが導入された時よりも長期戦になりそうだと彼は見ていた。

 街道をぽつぽつと歩く。徐々に人気がなくなっていく。スティヴァリ基地を訪れる者はいれど、出る者は少ない。訪れる者は商人やこの街に住む家族、伝令兵。そして兵士だ。前者らは生きて出るが、後者は違う。戦争が終わらない限り、よっぽどの事がなければここを出て行く先はあの世だ。

 バスの発着所も今となっては形骸化している。三年使われていないバス停の横を通り過ぎた。ずーっと伸びていた道、その突き当りを右に曲がる。すると正面に黒煙が立ち昇る空が見えた。

「訪れる事はなかったな」

 まるで己の罪を糾弾されているような気がして、スヴェンは下を向く。正確には『訪れる勇気がなかった』にもかかわらず、機会がなかったから行かなかったような言い草で、それがまた嫌になった。

 青空を染めている黒。それから逃げるように胸元から一枚の写真を取り出す。そこに映っているのは、故郷に住む彼の家族。無邪気に笑う五歳の娘と、薄く微笑む妻。スヴェンはどこか澄ました顔をして映っている。そんな柄でもないのに、家長として振る舞おうとしているのが道化らしかった。

 足を上げて歩く。引きずらず、しっかりと足を上げて歩く。今は家族に会いたかった。

 今頃、娘は何をしているだろうか? 保育園にでも行っている頃か。いじめられていないだろうか、友達とは仲良くしているだろうか、お昼ご飯はなんだろうか。

 妻には苦労をかけている。突然仕事を辞めて戦場に行くなんて言い出し、給料は激減した。彼女もパートとして働きだして、「頑張ってね」と笑っていた。全部、自分のわがままなのにそれを応援してくれた。どうすれば恩返し出来るか。いや、夫婦なんだから恩返しなんて言うべきではないのか。なら何と言えばいいのだ。受けた想いへの感謝はどう伝えればいいのか。金銭や物で返せるようなものじゃないだろう。

 遠き故郷にいる家族へと想いを馳せる。とめどない感情が溢れだす。それは今こんな事をしている自分への情けなさや、報道というものに命を懸けた馬鹿らしさ、なぜ妻や娘をもっと思いやれなかったのかという後悔であった。

 首から下げたカメラ。そこには夕方のスティヴァリがある。むしろ、それだけしかない。胸ポケットからメモ帳を取り出す。そこには文字が綴られている。

 一見普通に見える街並み。開かれた市場。そこで買い物をする人々。だが、店先のテントは飛び飛びになっている。テント間、空いた隙間には魔物が棲んでいる。

 笑顔にも魔物がいて、ビールにも煙草にも悪魔がいて、リサにも魔物が棲んでいる。

 だが、そんな物は彼の家族となんら関係ない。

 スティヴァリ基地から離れれば、悪魔は追ってこない。悪魔は戦のある所にしか棲む事が出来ない。影を落とす事が出来ない。

 家族には何の影響も及ぼす事がない。スヴェン自らが関わろうとしなければ。

 捨ててしまえばいい。見捨てれば楽になる。そして、きっとそれでいい。

「帰ろう」

 そんな事を言わずとも、既に足は帰路に就いている。けれどもう一度言い聞かせるように彼はそう口にした。

 十字路を左に曲がる。もうすっかり居住区は過ぎて、すれ違う人すらいない。ここから隣町まで歩き続けて、そこで一泊してバスで帰る。そういう予定だ。

 空は青く澄み渡っていた。同様に彼の心もまた澄み切っていた。後悔や諦観などといったものはなかった。前向きな、夢の放棄だった。

 しばし、歩く。

 ふとアイリスがメモ帳に何か書いていた事を思い出す。あれは何だったのだろうか?恨み言か何かか。その答えは見なければ分からない。ただ、それはもう忘れたものだ。

 家族の顔を見るべく進む。家族を愛しながら進む。今何してるか、帰ったら何をしてあげようか、テーマパークにでも行こうか、妻にはちょっといいアクセサリでも買ってあげたい。娘にはピアノかなんかを習わせたい。きちんと勉強が出来るようになるか不安だ。家で少し本を読んでやろう。ああ、そうだ。お土産は買って帰ろう。戦場といえど、天下のディアトロフに行ったんだ。それくらいはしないといけない。

 そんな風に無駄な事を考えて、スヴェンは歩く。愛を積み重ねていく。

 ――ぶるるるるるる

 だが彼の鼓膜を振動させる音が響いた。後ろを見た。北の空を見上げるたそこにはシュレイガーが飛来していた。今日は日曜日、安息日で、戦闘はないはずだった。

「日曜日だけは白盟教の安息日だから戦争は休みなんだ」

 兵士たちは揃いも揃って、そう口にしていた。だから日曜日だけは彼等は思い思いの日常を過ごしていた。酒を呑み、煙草を吹かし、友人や家族と共に過ごしていた。にもかかわらず、シュレイガーは基地の頭上へと飛来している。

 明確な異常事態だった。スヴェンの足が止まる。自然と右足が基地の方向へ向いた。

 ずざり

 だがそれを心が留めた。

 ずざずざ

 足を引きずり、帰路へ就こうとする。

 右足を隣町の方向へ向けた。上体も自然とそちらの方向を向く。自分には関係のない話だと割り切る。今、行った所で何が出来る訳でもないと彼は自覚している。だから帰ろうと、彼は思う。

 人が救えるのか、そうではない。

 食料でも持っているのか、そうではない。

 薬の一つでも持っているのか、そうではない。

 スヴェンが持っているのは、一冊のメモ帳とペン。そしてカメラだ。それは兵士たちに何も齎さない。だから行っても意味がない。

 なのに。

 ずざり

 足が地面を擦る。

 ずざずざ

 行くなと足を引っ張って来る。

 ずざずざずざ

 何故また地獄に行くのだと理性が訴えかけていた。

 諦めた夢、失った夢、行った所で、何が得られる訳でもない。なのに足はそこに向かおうとしている。

 あの日戦場で聞いた爆弾の音が耳に届いた。悪夢が蘇る。千切れた手足に、頭部の欠けた死体、地を這う蛆たち。

「はぁはぁ」

 息が荒くなり、彼は胸を強く抑えた。行ってはいけないと言い聞かせる。そうだ、ここで帰るんだと決意を新たにする。

 喘ぐようにして帰りの道を進んだ。肩を左右に揺らしながら歩いていく。ブリキ人形のおうな歩きは酷く不安定で、胸ポケットから一冊の手帳が零れ落ちた。

「あぁ」

 慌てて彼はそれを拾うべく跪く。がくりとその場に崩れ落ちる。落下した衝撃でページは開かれていた。そしてそこにどこからともなく風が吹く。

 すると見慣れぬ字が顔を出した。

 それがアイリスの――自分の事を「ハゲワシ」と呼んだ少女のものだという事に気づくのに数秒とかからなかった。

『がんばってください』

 目にした瞬間、気づけばスヴェンは走り出していた。足を上げ、ずざりずざりと足を引きずる事無く、走っていた。街道を右に曲がる。黒煙は見えない。それを背にして、彼は走っている。

 突き当りを左に曲がる。

 見えてくるのは多くの人々。若い女に老人、子供。男はいない。それは逃げ惑う人々だ。

 故郷と心中する事を決めた人々が、死の恐怖に負けて押し寄せてくる。津波の如く押し寄せてくる。だが、その波にスヴェンは挑んだ。

 両手で人波を掻き分ける。色々な声が聞こえてくる。でもそれらは形を成していない。悲鳴や、自分勝手な紡ぎ声。そんなのは何も言っていないのと変わらない。思考能力を奪われた獣と変わらない。戦争が、兵器がこの惨状を作り出した。でもこれを伝える事は出来ない。写真では、音は取れない。文章では、音を表せない。慟哭はこの世のどこにも残されず、消えて行く。

 なんで歯痒くて脆い物なのか。

 今以上にジャーナリズムというものが儚く、無力であると感じた事はない。

 彼は思わず歯噛みした。

 無力だ。自分は無力だ。

 悔しい。それが悔しい。逃げ出したい。こんな事したって、見ている人には伝わらない。なら自分は所詮、人の死肉でメシを喰う怪物なのか。

 捨てたはずの夢だ。だが体が叫んでいた。ここで止まってはいけないと吠えていた。高台に登り、どこか恍惚とした表情でカメラを構える。そして初めて、彼はシャッターを切った。

 開いた口、額に浮いた皴、手に持った家財道具その背後に迫る火柱。炎がくゆり、視界を焼く。赤と肌、燃える街、死に直面した人々の形相。

 彼等を写真に撮りながら、スヴェンは内心で叫ぶ。

 走れ、走れ。逃げ惑え、この惨劇から生き延びろ。叫べ、怒れ、憎め、これは悪魔の仕業だ。これはどこにでもいる悪魔の仕業なのだ。

 そう叫んでいた。

 視界の端に、見慣れた影が映る。それは子供たちを引き連れて逃げるリサだった。群衆に呑まれて、先へ進む度に子供の数が減っていく。二十人だったのが、十八人に。十八人だったのが、十四人に。大移動をするカルガモの雛のように、どんどん数が減っていく。はぐれた雛を諦めて、リサは先に進む。その後ろで雛たちは潰されていく。狂乱した大人に揉まれ、倒れて、その頭蓋を砕かれていく。革靴で骨が砕かれ、ぱしゃりぱしゃりとさざ波の如き血潮の音を立てる。彼女はみんなを守るために一部を切り捨てた。その形相は悪鬼のようで、怒りに満ちていた。リサの心中は己への不甲斐なさと、こんな決断を迫られる世界への怒りで満ちていた。

 彼女の理想は、愛は別の形で体現されている。最低な形で具現化されている。

 スヴェンはシャッターを切り続けた。人に揉まれ、飲み込まれながらそれでもシャッターを切った。この光景はどこにでもあり得るのだ。たまたま自分の母国がそうならなかっただけで、そうなる可能性もあった。並行世界のディアトロフは平和だったかもしれない。スティヴァリ基地は平和だったかもしれない。

 たまたまそこに悪魔が棲み付いただけだ。

 初めから争いの絶えぬ場所など有りはしない。地理的にそうであろうと、悪意を持つものがいるからこそ争いは産まれる。

 ああ、そうだ。この地には悪魔が潜んでいる。

 人の心には悪魔が潜んでいる。

 悪魔は土地に棲むものでもなく、戦争そのものでもなく、善良な一般市民を巻き込み、血を流させる悪徳な人間にこそ悪魔が棲んでいる。そしてそれは安穏と暮らしている。

 なればこそ、シャッターを切る。役立たずのカメラ。それを稼働させる。夕方のスティヴァリのみが刻まれていたそれに、地獄を刻んでいく。

 同時に怒る。血管も切れるほどに。この惨状を生み出した物に向けて。

 そして煽動する。追われ続ける人々を。怒りで絶えてしまえと。死ぬ事無く、この定めを与えた者を憎めと。敵国でも、敵兵でもなく、この戦争を引き起こした悪魔を憎めと。

 彼はその悪魔を糾弾するための情報を切る。

 真実を写し取る。彼に残っているのは怒りだった。どうして彼等はこんな風になってしまったのかという哀れみだった。

 達観したリサ、不機嫌なアイリス、戦争に酔ったフリードリヒ。

 変わらざるを得なかった人々。

 今、目の前で言葉亡き言葉を叫ぶ人々。

 それを救えると言えるような精神をスヴェンは持っていない。だが、それを伝える事は出来る。百分の一でも、この惨状を、誰にでも棲み付くであろう悪魔が引き起こした結末を見せる事が出来る。

 怒りがスヴェンを悪魔にした。信仰していた神は彼を救わなかった。彼を理想に近づけたのは敵国の神だった。

 スヴェンは夢中でシャッターを切った。何枚もの写真を撮った。気づけば炎で燃えていた空が、夕焼けのせいで燃えていた。火が延焼して、彼のいる高台まで迫ってきていた。スティヴァリという街はこの日、完全に終わった。

 スヴェンはずっと強く握っていたカメラから手を離す。首からそれが垂れ下がった。それは酷く軽かった。

「帰るか」

 彼の口から自然とその言葉が出た。踵を返す。靴が地面を叩く気持ちのいい音が響いた。

 真っ直ぐ進む。ただひたすらに真っ直ぐ進む。

 その途中、東の空に黒煙に立ち上っていた空がなくなっているのに気付いた。皮肉なものだと、スヴェンは鼻で笑う。

 こんな時だけ、煙が止まる。いつも煙が立っている所だけ煙が止んで、いつも煙が立っていない所に無数の煙が立ち並んでいる。

 夕陽に照らされた黒煙はまるでケーキの上に立つ蝋燭のように見えた。その下にある土台は人々の思い出。その上に黒煙が突き立っている。

「さよなら」

 スヴェンは別れを告げ、それに背を向けて歩いた。帰路に就く。今度こそ帰路に就く。

 ああ、さようなら。

 さようならスティヴァリ基地。

 さようなら、リサ。

 さようなら、アイリス。

 

 夢とは叶える物ではなかった。そして美しい物でもなかった。夢中になって撮った写真が生み出した虚無感だけが、スヴェンの胸を満たしていた。

 

 

 

 

 

 第二節 卑俗たる復讐者

 

 暖かい家族に囲まれて僕は笑っていた。一週間前、戦場にいた事などもう忘れてしまいそうなほど安穏とした日々。けれど、どれだけ忘れそうになっても未だ夢に見る。あの惨状が忘れられるはずがなく、時々魘される。

 ただそれでいい。いつかこの記憶も風化し、忘れられるだろう。それを埋めるだけの物が、今の自分には沢山ある。妻と娘が、その記憶の隙間をきっと埋めてくれる。

 帰って来たら娘が言葉を喋れるようになっていた。「まま」という言葉だ。僕はスティヴァリに行っていたせいで、まだ呼んでくれない。「ぶーぶー」や「ごっはん」に負けるのは、非常に遺憾だが、仕方がない。これからそういった成長を見逃さなければいい話だ。

 スティヴァリに行った自分が得た物は、嫌な記憶だけだった。本当に自分には覚悟がなかったのだと、今は分かる。けれどあの時は分からなかった。妙な正義感に突き動かされていた。

 あの時、諭してくれた彼女には感謝している。

 そのお陰で、娘の成長を見守る事が出来る。家族と共にいる事が出来る。

 ただ、それこそが、僕の幸せだったのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三節 我欲の救済者

 

 ずりずりと重たい荷物を引きずりながら、一人の兵士が医療テントに入って来た。彼はすっかり泥だらけで、堀の深い顔は切り傷やら擦り傷やらで塗れている。だが、彼はそんな自身の事など何も気にならない様子であった。

「誰か! こいつを助けてやってくれ!」

 彼はそう叫び、持ってきた荷物を投げ出した。その正体は、自身の戦友。空に向かって腕を伸ばし、手の平を握っては開き、握っては開きを繰り返す男である。

「四十七番、黒」

「三十八番、黄色です」

「包帯の数が足りません。どこから貰ってきましょう?」

「四十番、黒ですね」

 だが、彼の言葉に耳を貸す者はいない。揃いも揃って、まるで彼の叫びが聞こえなかったように扱う。

「こいつはもうすぐ死んじまうんです! 早くしてくれ!」

 一兵卒の言葉には、誰も耳を傾けない。たかが一人の命を救う事は、この場所では大した意味を持たない。けれど彼はそれを知らず、虚ろな瞳で天を仰ぐ男は意識する事すら出来ない。

 ドクドクと血が流れだす。鮮血が零れ、それが命の灯を消さんと躍起になっている。ぱっかりと開いた腹部からは、臓腑が溢れだしていた。ここまで引きずって来る途中で漏れ出したのか、黄色の体液がとろとろと軍服を濡らしている。

「ああ! よかった! こいつをお願いします!」

 そんな状態の男に、一人の医師が近寄って来た。背の高い、ぼろい白衣を纏った医師だ。それを見て、兵士が喜びの声を上げる。

 男は喜ぶ友人の声に僅かに眉を動かし、胸元につけられた翠緑のペンダントをぎゅっと強く握った。

 

 相変わらず医療用テントの中は明かりが足らず薄暗い。医療施設だというにも関わらず、臭いは消毒液や薬などではなく、むせ返るような死臭であった。死を間近に迎えた人間の口臭はアーモンドの香りがするらしい。しかし、ここではそんな内臓の問題で死ぬ人間などいない。

 だから、ここでする臭いは膿と血、腐る肉の臭いだ。

 歩く。

 ギルバーツは床に敷かれたシーツを踏まないように歩く。シーツの上には人が肉の人形のように転がっている。呻く者、眠る者、物言わぬ骸となった者、様々な者に眼もくれる事なく歩く。

「あ、すいません! こいつお願いします! 重症なんです!」

 突然、彼に向かってそんな事を言う者が現れた。若い兵士だ。彼自身も頬に深い切り傷を拵えており、だらだらと血が流れている。しかし、それを気にする事もなく彼は自らの足元に横たわる兵士を必死に見ていた。

 ギルバーツはそれを一瞥する。

 ぐちゃぐちゃになった腹。千切れそうになっている左足。重い物にでも下敷きになったのかひしゃげた右足。

 枕元に置かれたプレート。そこに書かれていたのは百十一という数字。それは先ほど、上司から『治療する意味なし』と判断された人物に当てられた数字だった。

 ギルバーツは一言「残念だったな」と言い、騒ぎ立てている若者の肩を叩いた。すると、彼は愕然とした顔をした後、鬼の形相を浮かべ「そんな馬鹿な事ありますか?」と吠えてくる。

 ギルバーツは何も答えなかった。

 黙って彼の横を通り過ぎ、奥へと向かう。自分に与えられた仕事は先ほどの戦闘で腕を怪我した軍務長官の治療。そのために無心で歩く。後ろから若者が声を押し殺して泣いているのが分かった。

 チカチカとぶら下げられた白熱電球が点滅する。ギルバーツは僅かに目を細めた。それはすぐに元に戻った。霜雪の世界から、元の色のある世界へと回帰する。残酷な世界が鮮明に映る。帰って来る。

 彼は小さくため息を吐いた。このテントを抜け、少し歩けば軍務長官専用のテントだ。ギルバーツの意識からは、さっきの若者と死体の事はほとんどなくなっていた。ここではありふれた光景だ。当然と言えるだろう。

 ただ、死の決まった遺体に握られていた翠緑のペンダントがやけに瞼の裏に残った。

 

 ゆらゆらと燭台に灯った蝋燭が揺れている。長官の部屋は無駄に広い。どうせ、すぐに首都に戻るくせに三人は座れるのではないかという皮張りのソファに、誰も見ないのに壁には有名画家の複製画が飾られ、地面には絨毯が惹かれていた。

「お、お前、私の腕に痕など残らないだろうね」

 そんな贅の限りを尽くした空間で、贅の限りを尽くした結果である肉達磨が柔らかい布団の上に鎮座している。

「はぁ、大丈夫ですよ」

 ギルバーツは長官の腕に奔った深さ二ミリ、長さ四センチほどの傷を見ながらそんな事を口にした。だがそれがお気に召さなかったらしい長官は、ジャラジャラと指輪の嵌められた右手を固く握りしめ「そんな訳がなかろう! こんなにも私は痛みに悩まされ、苛まれているのだ。もしこの私の腕が切り落とされるなどといった事があれば、このディアトロフにとっての多大なる損失であるぞ! 分かっているのであろうな!」などと凄み始めた。

 だが、そうやって長官が凄むのもいつもの事である。ギルバーツはこめかみを掻きながら「はぁ」と気の抜けた声を出した。そして、傍らに置いたバッグの中から一本の注射器を取り出す。

「そうだ! この痛みを治めるためにはそれが必要なのだ。早くしろ! 早くそれを私に打ってくれ」

 長官はそれを見るや否や、手足をガクガクと震わせて騒ぎ出す。ギルバーツは小さくため息を吐いた。手の中のそれは強力な鎮痛剤だ。それこそ四肢欠損や内臓損傷レベルの大怪我を負った際に打つような強さの薬剤である。

「長官、この薬は非常に強いので副作用が――」

「そんな事よりこの痛みを抑える方が先であろう! 早く打て!」

「そうですか」

 長官は一度、視察と称し前線に出て右足に大怪我を負った。その後遺症で彼は一生杖を突かなくては歩けない体だ。それには同情の余地があろう。興味本位であろうと、自らの監督する現場を知ろうというのは殊勝な心掛けだ。しかし、彼は受けた傷を治療するために使った薬で狂った。

「少し、痛みますよ」

 本来なら長官の贅肉たっぷりな腕に注射を打つのは至難の業だ。だが、彼の腕には数多の注射痕があり、ギルバーツはもはや触っただけで正確に注射を打つ事が可能だった。

「ああ、これだ。これだよ。いい気分だ。ギルバーツ君。君は確か軍医だったね。裕福な生活を求めて志願したとか」

 薬液が体内に入っていくにつれ長官は恍惚とした笑みを浮かべ、突然そんな事を言い出した。その表情はまさに極楽といった様子で、彼はそれを薄目で見る。

「ええ。そうです。やはり家族を養うために金は必要ですので」

 シリンジに薬液が残っていない事を確認し、ギルバーツは針を抜いた。乱れた白衣の裾を捌き、ビニール袋の中に使用済みの注射器を入れる。

「そうであろう。金は天下の回りものなどと言うが、そんなのは貧乏人の掲げる貧相なお題目に過ぎぬ。世の中で移動する金が如何に少ない事か。真の名家しかそれを知らぬのだ。我がドレスディア家のような旧家こそが、真の金持ち。真の名家である」

「いかにも」

 鞄を片付けながら、もっともらしい事を口にするギルバーツ。適当な事を言っているだけだが、それに気を良くした長官は「ふん」と口を歪め鼻を鳴らした。そして再び喋り出す。

「そうだ。時にお主、私に仕える気はないかね? 私の専属となり、その薬剤を付きっ切りで打ってくれ。体が痛んでしょうがない。気が狂いそうだ」

 片付けの手が止まった。そろそろとギルバーツは長官の方を覗く。彼は酷く満足気にしていた。黙って長官の顔を見つめる。すると彼は早口で釈明を始めた。

「当然、報酬は弾もう。いくら欲しい? 君が軍医として得られる報酬の倍は約束しよう」

「…………考えておきます」

 ギルバーツは赤ら顔で捲し立てた長官に背を向け、立ち上がった。大した怪我でもない人間に強力な鎮静剤を打ち込むだけの簡単な仕事は既に終えた。彼は白衣を留めていた胸元のブローチを固く握りしめる。

「ああ、考えておいてくれたまえ」

 しかし、長官がそんな彼の心中など慮る訳もない。彼は「考えておく」というギルバーツの答えに下卑た笑みを浮かべた。

 右手でテントの入り口を押し開ける。ふわりと夜風が入り込んだ。燭台に灯った明かりが、斜めにたなびく。

「お返事は必ず」

 ペンダントから手を離し、僅かに長官の方を向いた。彼はどこから取り出したのか、怪我をしたと言っていた右手でパイプを持ち、煙を吹かしていた。それを後目に、ギルバーツの視界をテントの沼色が覆った。

 外へと歩き出す。

 もう夜は更けていた。懐中時計を取り出し時刻を確認すると、既に十一時を回っている。だというのに、スティヴァリ基地は昼間以上の賑わいを見せていた。

 ゴロゴロという音を立て、彼の隣をリアカーが通り過ぎて行く。それには死体が乗っていて、最近やけに出番が多い。というのも、先週から実践投入された敵の新兵器のせいだ。空を主戦場とするそれは、こちらの手の届かない所から攻撃を仕掛けてくる。そのため、医者も死体引きもひっきりなしに動き回っている。

 休む暇すらない日々に肩を落とし、ギルバーツは再び仕事場へと戻って行く。

 束の間の休息はどこへやら、彼は医療用テントへと足を踏み入れた。そこは相変わらずの地獄絵図で、先週の歌姫が現れた時のような静けさと盛り上がりはどこにもない。あるのは呻き声と到底手術とは思えない怪音である。

 そんな空間を平然と歩き、ギルバーツはその場を監督する主任へと声を掛けた。

「主任、長官の元へ行って参りました」

「そうか。長官は今日も?」

「ええ。鎮静剤を打てと」

「もうあの人はダメだな。完全に薬中になっちまってる。こうなっては我々も救いようがない」

 主任は首を横に振った。それにギルバーツは棒立ちで答えた。

「ま、とにかくお疲れ。早速で悪いが、四百五十二番を頼む。のんびりでいいぞ」

「分かりました」

 その言葉に彼は動き始める。

「――番、黒」

「――番、黄色」

「――番、黒」

 ギルバーツが主任との会話を終えるとすぐに、命の選別が始まった。この戦場でなければ、救えたかもしれない命。それらを容易く見捨てて行く。

 助けられるから助けるではない。

 すぐに戦えるようになる者から助ける。

 当初はこんな有様ではなかった。きちんとした設備で、綺麗なベッドで、感染症や疫病などが流行らないように配慮が為されていた。だが今は違う。三年もの長きに渡る戦いで医療体制は崩壊し、いつの間にか医療はないがしろにされていった。

「四百五十二番」

 言われた通りに患者の元へと辿り着いたギルバーツは屈みこみ、容態を確認する。二の腕への深い切り傷と全身についた擦り傷。放置すると悪化するだろうが、緊急性は薄い患者だ。

 彼は眠っている患者に消毒をして、包帯を巻いた。膿と感染だけ防げば何とかなるだろう。そう判断し、治療を終える。

 そんな事を数十回繰り返した。

 その間、虚ろな瞳が「次は俺か」「次は俺か」「今度こそ俺か」と問いかけてくる。

 ギルバーツはその横を過ぎるたび僅かに目を伏せ、白衣を留めるブローチを強く握る。その深紅の輝きだけが、彼の胸を落ち着かせた。

 そして落ち着かせてはまた、指示通りに患者の元へ行く。重症患者たちは亡者のようにギルバーツに向かって手を伸ばしてくる。だがそれに彼が応える事はない。

 似たような怪我をした患者に、適当に消毒液をぶっかけ乱雑に包帯を巻く。それだけだ。他の誰がどうなろうが知った事ではない。

 生きるためには金が必要なのだ。

 今の職を首になる訳にはいかず、指示に従う必要がある。幼き頃の憧憬など、この非情な現実では夢見る事すら許されない。

「助けてくれ……」

 新たな患者の枕元に跪いた彼に、隣で横たわる病人が手を伸ばしてくる。その手は白衣の裾を掴んでおり、ふるふると震えていた。

 患者の胸に消毒液をぶっかける。包帯を巻く。その間およそ三分である。手慣れたものだ。一仕事終えたギルバーツは立ち上がった。

 掴まれていた白衣の裾はいつの間にか剥がれていた。と同時に、病人もまた事切れていた。

 彼はそれを確認して、黙って十字を切った。

 

 

 

 灰の山に所々揺れる炎が見えた。

 スティヴァリ基地東方、中央の広場から徒歩三十分した所にある焼却場。焼却場と言っても、大層な施設ではない。野晒しの荒野にゴミが積まれ、そこに火が着いているだけのゴミキャンプファイアー施設だ。医療用テントでの夜勤を終え、十六日ぶりに休日を与えられたギルバーツ=ペトロヴィッチは、その休暇を利用してそこを訪れていた。三年にも及ぶ長い戦いによって出た生ゴミや、衣類などを焼却するための施設であるこの場所は、積もり積もった燃えカスによって小高い丘を形成していた。雨が降ろうとゲル状燃料のお陰で絶える事のない火が、ゴミ山の端々に見える。山の中のリスのように隠れているそれは、弱いながらも確かな火力でもってゴミたちを焼いていく。

 彼は休みになる度にこの焼却場を訪れる。家族は基地より後方の街――車でおよそ十五分――の位置にある民家に住んでおり、時折ギルバーツに着替えなどを持ってきてくれる。三十六歳の妻と六歳の娘だ。二人を想い、白衣につけたブローチを外す。小さなルビーが中央にはめ込まれたそれは、妻からの贈り物だ。

 ギルバーツの夢は町医者だった。

 幼い頃酷い喘息持ちだった彼は、週に一度の頻度で医者に通い詰める必要があった。遊びたい盛りの子供にとっては苦痛だろう。だが彼は病院に行くのは嫌いではなかった。綺麗な看護師さん、面白い絵本、美味しいお菓子、何よりかっこいいお医者さんがいたからだ。医師はいつもギルバーツを笑わせてくれた。揶揄い交じりにお喋りをして、彼にとっては兄のようなものだった。そして病院には笑顔が満ち溢れていて、明るく幸せな空間だった。

 そんな空間を自分も創りたかった。

 ギルバーツも誰かの兄になりたかった。

 誰かを救い、その支えとなるのが夢だった。

「あの人に罹れば安心だ」とそう言われるような医者になりたかった。

 燃えていく。

 記憶とゴミが燃えていく。目を凝らせば分かるだろう。焼却場に運ばれてくるのは生ゴミや衣類だけではない。いや、それは間違いではないのだ。ただ、生ゴミや衣類と呼ばれるのが相応しくないだけで。

 炭化した手足、頭部のような何か。上から押し潰された事によってひしゃげた炭が足元にはポロポロと転がっている。

 辺りにはガソリンとタールの混じったような異臭が漂っている。時折、この焼却場に撒かれる燃料のせいだろう。明確な異臭にタンパクの焼ける臭いが混じって、ここに来慣れているギルバーツといえどマスクなしでは呼吸すらままならない。ただでさえ暑いこの場所に、口元を覆うマスクは辛かった。

 空はすっかり夕焼けに染まっている。沈みゆく夕日にギルバーツは家族の事を思い出す。結婚した時の妻の笑み、ウェディングドレスの純白の輝き。これに並ぶ、美しい物なんてあるはずがないと確信した瞬間。そして、その確信が裏切られた娘の誕生日。蘇って、消えて、甦る。残像が視界に残った。

 彼のブローチはロケットブローチで、チャームを開けると中には家族写真が入っている。彼はそれを手に取り、夕陽に翳した。

 眩しい。

 目を焼く日差し。茜がどうしようもなく肌を焼く。だがそれ以上に眩しいのは喪われた日々。

「もう腕が上がらねぇよ。そろそろこの仕事も終わりか?」

「かといってスラム生活に戻るのか。俺たちにゃこれしかねぇんだ」

「世知辛いねぇ」

「今更だろ。愚痴言ってる暇あるなら早くノルマ終わらせるぞ」

 リアカーに死体を乗せた男たちが彼の横を通り過ぎて行く。がしゃがしゃと、リアカーの中で死体が躍っている。手をぶらぶら、足をぶらぶら、頭をぶんぶん、激しく踊り狂っている。その中に翠緑のペンダントが混じっていた。ギルバーツは思わず目を見張った。だが死体運びの男たちは特に何を言うでもなく、それを焼却場とは名ばかりの荒野にぶちまける。火はついていない。けれどじきに燃えるだろう。無限の薪と燃料が投機されるここで、燃えないなんていう事はありえない。それが例え、死者が最後まで大事に握りしめていたものであろうと。

「あぁ~重かった。あと二、三回か」

「最近は仕事が多くて嫌になるぜ」

「ほんとだ。敵さんも余計な事してくれるぜ」

 散々ダンスを躍らせた指揮者はそんな事を言いながら、再びギルバーツの横を通り過ぎて行く。

 彼らの顔には、何てことのない疲労が張り付けられていた。

 病んでいる。

 この土地は病んでいる。

 翳したブローチ。日差しのせいで、それを見る事が出来ない。どんなものだったか思い出そうとしても、彼にはもう思い出す事すら出来なかった。与えられたテントに戻ると、そこには着替えが置いてある。それと共に「おつかれさま、おとーさん」という手紙。戦争が始まる前には拙かったそれが、徐々に上手くなっていく。

 ギルバーツは娘の成長をその字でしか知らない。

 再びリアカーに乗せられて死体が運ばれてくる。奇妙なダンスを踊って現れる。ぶらぶら、ゆらゆらと現れる。でもそれを誰も気にも留めない。

 どさどさ

 目の前で灰の一員となっていく。丘を形成する一助となる。既にもう五ⅿはあるというのに更に山が高くなっていく。

 彼はその様子を黙って見つめていた。その山を増やす手伝いをしているというのに――『すぐに戦えるようになる者から救う』という戦場の掟に従っているというのに、何もしないでいる。

 彼は夕日で見る事が出来ないブローチを胸に閉まった。そして白衣から腕を抜く。白衣にはこのゴミ山と消毒液の香りが染みついていて、酷く臭った。ギルバーツはそれを片手で持ち、焼却場の端に翳す。風で裾が揺れた。このまま手を離してしまえば、もう白衣は着る事が出来なくなるだろう。臭いもさながら、濛々と立ち込める煙で煤だらけになり、最後は火がついて燃える。それはさぞかし簡単に燃えるだろう。布なんていうもの、このゴミ山は大量に飲み込んできたのだ。

 小指が離れる。

 がくりと、白衣が一気に地面へと近づく。

 薬指が離れる。

 強風が吹いたら飛んで行ってしまいそうだ。

 中指が離れる。

 指先でつまんでいるだけとなったそれは、あと一本離してしまえば地面へと落ちる。

 ぷるぷると震える。

 指先が震えている。

 白衣なんていう軽いものを摘まむだけで震えるほど、軍医であるギルバーツの体は貧弱ではない。

 離したい。

 放したい。

 話したい。

 欲求がよぎる。

 病によって奪われた全てを取り戻したいという欲が去来する。しかし、同時に現実的な問題が頭を埋め尽くす。

 ローン。教育費。生活費。光熱費。交際費。金。金。金。

 何をするにも金がいる。愛娘と愛妻の顔を忘れようが、金がなくてはどうにもならない。ギルバーツはぎゅっと白衣を掴み直す。だがそれを再び着る事はしなかった。しなかったし、出来なかった。行き場のなくなったそれを抱え、彼は立ち尽くす。

「お、こんな所にお医者さんとは随分珍しいじゃないか」

 そんな彼に突然一人の男が話しかけてきた。彼は黒髪長身で軍服を身に纏っていた。どこからともなく現れた厭世的な雰囲気が漂わせる男は、右手に持った煙草の灰をゴミ山の一部に振りかける。

「貴方は?」

 やけに親し気な男にギルバーツは訝し気な視線を向ける。

「俺はしがない一般兵さ。お医者さんこそ一体何の用でこんな所へ?」

 彼はニヒルな笑みを浮かべそう答えると、ギルバーツの隣に並んだ。馴れ馴れしい態度に戸惑いながらも「別に、私の勝手でしょう」とそっぽを向いた。

「ハハハ。嫌われたもんだねぇ。すまんすまん」

 三十半ばになる自分より十は年下であろう謎の男の言い草に不快感を露わにしながらも、彼は「貴方こそどうしてここへ?」と尋ねた。すると男は「そうだなぁ」と急に罰が悪そうに頬を掻き始める。

 そして「ナイショって訳にはいかないか?」などと言いだした。

「人に聞いておいて自分は内緒だなんて、そんな虫のいい話がありますか?」

「だよなぁ。筋が通らねぇよなぁ」

 ガリガリと頭を掻いた彼は苦虫を噛み潰したような顔をして「ここに部下が眠ってるんだよ」とそう切り出した。

「ここにはな、俺の部下たちが眠ってるんだ。一番初めはユーリスだった。大層なイケメンだったよ。立身出世するんだって聞かなくてな。自信家で傲慢だったが、意外と優しい所もあるいい奴だった。だがその野望のせいですぐに死んだ」

 彼は右手に持った煙草を口に運び、すぅと深く吸った。夕陽に煙が細くたなびく。ギルバーツは茶色の髪をオールバックに撫でつけ、自信有り気に腕を組む男の姿をイメージした。男が息を吐くと、その白煙が風に流される。それと同時に、彼のイメージも薄れて行った。

「次はフレデリックだ。俺よりも二十は年上の老兵でな。四十はもうおっさんだ。引退しろって言う度に怒られたもんだ。気のいいおっちゃんだったよ。酒飲みで不器用だったが、俺の事を心配してくれてた。お前は寂しがり屋で見栄っ張りだ! ってな。俺に煙草を教えたものフレデリックだ。そして、それがアイツが俺に遺した唯一の物になった」

 もう短くなった煙草がゴミ山に投げ込まれる。それが火種となって一部で延焼が始まる。投げやりになった男の姿に、ギルバーツはフレデリックという人間の暖かさを想った。煌々と輝くゴミたちを、二人は静かに見つめている。そんな中、朗々と男が話し始めた。

「それが数度続いた。部下たちは死ぬし、友人も死ぬ。一昨日も部下が死んだ。直属の部下じゃないが、部下のルームメイトの友人だ。そんな遠い関係性でも、死んだら悲しい。交流がなかった訳でもないしな。エミルっていってな、「お母さんを楽にする」とか、「お母さんのために」とかぬかして、俺がいくら止めろって言っても「僕を馬鹿にするな」の一点張り。戦争を馬鹿にしやがって」

 吐き捨てるように、彼はそう言ってつま先で地面を蹴る。右手はぎゅっと固く結ばれていた。

「それは?」

 その手にはネックレスが握られていた。十字架のチャームにはべっとりと血がこびり付いている。それがどうにも不気味に思えて、ギルバーツは無自覚に身震いした。

「エミルの形見だ。母親から送られたものらしい。戦争が終わったら、あいつの母親に返してやらねきゃいけねぇ。全く面倒なもんだ」

 乾いた声で彼は笑った。笑っている割には、それは随分と情緒がないものだった。

「こんなろくでなしでも、通すべき筋ってもんがあるだろ。俺は墓参りに来たんだ。らしくないと思うだろ? 俺だってそう思う。ま、そんな気分だったってだけだ。善行積むのも悪かない。こういう言い方すると、俺の部下は怒るがな」

 自嘲するように男はそう言って、最後に鼻で笑った。そんな彼をギルバーツはまじまじと見つめる。見られるのが恥ずかしかったのか、男は言い訳するように「俺がいつか来る所だ。物件の下見っつう意味もあるがな」などと、訳の分からない事を言い出した。

「どんなブラックジョークですか。縁起でもない」

「でも、今ちょっと笑っただろ」

「笑ってません」

 にやにやする男と仏頂面のギルバーツ。二人は初対面だというのに、どこか気が合った。もしかしたら、彼の厭世的な雰囲気がギルバーツの身に馴染んだのかもしれない。

「ほら、俺はここに来た理由を話したぞ。次はお前の番だ」

「別に貴方が話したら話すなんて言った覚えはありませんが……。まぁいいでしょう。私がここに来る理由は贖罪ですよ」

 ゴミ山に眼を向ける。否、ゴミではない。人間の山に眼を向ける。そこで眠れる人には、ギルバールなら救う事が出来た人が多くいた。

「私は医者失格です。救う事が出来た人を見捨てて、すぐに戦えるようになる人ばかり助けた。夢だった町医者とはかけ離れてます。だからここで、私は助けられるはずだった者たちに謝ってるんですよ」

 顔も名前も思い出す事は出来ない。思い出す下地すらない。けれど彼が多くの人を見殺しにしてきたのはれっきとした事実だ。だというのに、

「とんだ自己満足だな」

「は?」

 男はその一言で、ギルバーツの贖罪を切り捨てた。

「別にいいじゃねぇか。そんなの。顔を名前も知らない死体に贖罪だ? 誰も嬉しかねぇよ。俺が見知らぬ誰かに謝られたら、そんなの知るかよって思うぜ。少なくともいい気分はしねぇ。だからそんなの忘れろ。お前を責める奴はお前しかいねぇよ。残された友人とかは責めるかもしれねぇがな。そいつらもじき忘れるだろ」

 そして、あろうことかそんな事をのたまう。ギルバーツは震える拳を抑え、荒くなる呼吸を落ち着け、静かに息を吐いた。

「命は戻らないんですよ。それを忘れろって言うんですか。私は覚えてる。この白衣に助けを求める人々を。最後までペンダントを握っていた若者を。その友を。彼等は死んでもいい存在だったと貴方は言うんですか」

 白衣を男へと突き付ける。それは彼等にとって希望の光だった。嵐の中で輝く一条の光だったはずだ。だが、その光が人々を照らす事はなかった。

「死んでもいいなんて言うつもりはねぇよ。エミルも最後はテントで治療を受けずに死んでいった。でもな、そこにお前たち医者を恨む気持ちなんざない。仕方ないんだ。こんな状況じゃな。お前だって分かってるんだろ。ここから離れて、夢だという町医者をやった所でここの死者が減る訳じゃない」

「…………」

 ぎゅっと手の平を固く握る。爪が食い込み、血が垂れた。白衣にじっとりと血が染みて行く。純白を赤が染めて行く。

「ま、こんな事言ってもお前みたいな正義漢はより悩むだけだろーな。だから最後に一個聞かせてくれ。こっから逃げれるだろ? どうして逃げない。俺は貴族の次男で帰った所で仕事がない。けどあんたは俺とは違う。逃げようと思えばいくらでも逃げれる。町医者にだってなれるだろ。どうして辞めない」

 男の瞳が初めてギルバーツを見た。それは酷く濁っていて、そこに煙草の白煙が混じり上手く見る事が出来ない。だが、それと答えは関係ない。ギルバーツは唾を飲み込み、濁った瞳を真正面から見つめ返す。

「家族のために」

 男はそれを聞いてふわりと笑った。花畑の中で恋人を見つけた時の様に、優しい笑みだった。こんな笑い方が出来る男だったのかと、彼は思わず目を見開く。

「そうか。奥さんは幾つだ? 子供もいるのか?」

 彼の驚きを知らない男はゴミ山を眺めながら、そんな事を言った。

「妻は私と同じ三十六で、娘がいる」

「娘は幾つだ?」

「六歳だ」

「小さいな。可愛い盛りだ」

 男はまた小さく笑う。

「頑張れよ。お父さん」

 そして、ギルバーツの肩を叩いた。彼はスタスタと歩いていき、ゴミ山から遠ざかって行く。ギルバーツはその背を追いかける。気づけば夕陽は既に沈んでいて、辺りはすっかり暗くなっていた。

「俺はもう行くよ。あんたはまだここにいるのか? よかったら食事でもどうだ?」

 振り向きざま、男はそう声を掛けて来た。

「折角だが、私は今夜からまた医療テント行きだ。食事は無理だな」

「そうか。それは残念だ。うるさい副官もいねぇし、今日はいい酒を酌み交わしたかったんだが」

 「じゃあな」とでも言うように、彼は右手を上げた。空には月が高く昇っていて、月光が男の姿を明るく照らしている。

「あの!」

 ギルバーツは去ってゆく男に思わず問いかけた。

「貴方はどうして戦うんですか? 私が答えたんです。貴方も答えるべきでしょう」

 それを聞くと彼は頭を掻いて「別にあんたが話したら俺も話すなんて言った覚えはないんだけどな」とぼやく。

 先ほどのやり取りを思い出して、ギルバーツはくすりと笑った。男もそうだったのか、彼もまた頬を緩ませる。だが、すぐに元のピリッとした顔つきに戻った。

「そうだなぁ。俺には戦う理由なんて大層なものはない。貴族の次男に産まれ、実家に居づらくて逃げるようにして士官学校へ入学した。当時はこの戦争も始まってなかったしな。ディアトロフは平和だと思ってたよ。だが戦争が始まった。楽できると思っていた俺の計画は破綻し、いつの間にかこんな場所にいる。今となっては軍人なんてなるもんじゃないと思ってるよ。俺たちは死ぬためにここにいるんだからな」

 ギルバーツは彼の独白を黙って聞いていた。背後では濛々と黒煙が立ち込めている。東の空を死の煙が飾っている。

「だから、俺はしょうもないろくでなしだよ。守るものも、失うものもない。好きなようにやりたくても、何が好きかも分からん。楽しい事と言えば煙草くらいだな。強いて言うなら、ここは煙草がどこでも吸えるのがいい。首都は煙草一本吸うにも規制がうるさい。戦場にいてもいいと思えるのは、そんくらいだ」

 彼はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。月夜の中に小さく揺れる炎が現れる。そこでギルバーツはそれがライターだと気づいた。

「吸い過ぎは体に悪いですよ。医者としての忠告です」

「うっせぇ、ほっとけ」

 そこで彼とは別れた。ギルバーツは彼の名前を知らない。男も自分の名前を知らないだろう。なのに、その邂逅はやけに彼の心に残った。

 

 

 

 それは恐ろしいくらいに明るく、高い青空が見える日だった。

 ギルバーツと謎の男との会話から、一週間が経った。日曜日、戦争は一時休戦を迎える。この日ばかりは兵士たちは日常へと帰り、思い思いの時を過ごすのだ。しかし、それは戦場で戦う兵士の話。医者であるギルバーツたちにそんな事は関係ない。日曜日は単に仕事が増えない日だ。仕事が増えないだけでやるべき業務は無限にある。

 寝たきりの怪我人に飯を食わせ、血の滲んできた包帯を交換し、消毒をする。骨折した者の状況を確認し添え木を外したり、普段なら見過ごす怪我の治療に時間を充てる。命の選別がなくなるだけで、忙しさは大して変わらない。

 風はいつも通り西から東に向かって心地よく流れ、定時連絡は朝六時に甲高く鳴り響く。耳障りだと思いながら、夜勤だった兵士はテントへと向かい、常勤の者はベッドから這い出てくる、

 そんな日曜日のいつも通り。

 それは昼頃まで何の滞りもなく続いていた。

「今日はいい天気だねぇ」

「ええ。こんないい天気なんて、久しぶりじゃないかしら」

 テントの外、使用したシーツを干す看護師たちが、そんな呑気な会話をしている。青空と強く照り付ける日差し。その中に広がるシーツの白が、目に眩しい。

 だが彼女達は、否、基地で暮らす全ての人間が次の瞬間、別の理由で一斉に目を瞑った。

 じゃあじゃあと音を鳴らして現れた強大な光が、上空で離散した。シーツに光が着弾し、一瞬で燃え上がる。無事だった看護師が顔を上げると、青空にはいくつもの煙柱が立っていた。

「おい! 逃げるぞ!」

「患者は!」

「自分で歩ける奴は連れて行く! だが歩けない奴は諦めろ! 今は自分たちの命が最優先だ!」

 昼頃、スピーカーからはラーサ=ドローグという少女のライブ音声が流れていた。二週間ぶりのそれを、患者たちは酷く楽しみにしていて、それはギルバーツたち医者も同じだった。いつもあったものがなくなって、皆寂しがっていた。スピーカーが繋がる「ジジジ」という音が懐かしくすらあった。

 だというのに。いつの間にか、熱気が迫っていた。それはどこから訪れたものか分からない。だが、医療用テントの近く、広場の方で発生したと思しき火災は、ゴミ山の延焼のようにスティヴァリ基地へと広がって行く。

 それによって、テント内は慌ただしくなった。ギルバーツは上司に言われた通り、診療用の鞄を手に外へ出る。

 じゃあじゃあという奇音がどこからともなく聞こえていた。悲鳴に包まれるテント内。それを背後にし、彼は走り出す。上司や同僚、足を動かす事が出来る患者たちは、全力でその場から離れていく。それこそ、命をここで使い尽くさんとする勢いで駆けていく。中央広場の方から、少女の叫び声が僅かに聞こえる。だが、それに構っている暇など彼にはない。

 どぉん

 上空で大きな音が鳴って、外を駆ける彼等は一斉に上を見上げた。走る足を止める事無く、示し合わせたように上を見た。

 ギラギラと輝く太陽。どこまでも高い、夏のディアトロフ特有の青空。

 それが今は灰色となり、太陽は粉塵によって覆い隠され、さながら真夜中のような暗さを保っていた。

 灰の空に、彗星の如く尾を引く恒星が幾条も降ってくる。

 限界のはずだった。命を削って、ギルバーツたちは走っていた。だが、それを目にした途端、全員の速度が一段階上がる。

 後ろからは叫び声が聞こえてきた。足を怪我し、歩く事が出来ないものたちが、地を這って追いかけてくる。

「置いてかないでくれ~」

「待ってくれ~」

「俺はまだ死にたくない」

 ずり、ずりと匍匐前進をして、助けを求めてやってくる。

 ギルバーツたちはその声に聞こえないふりをして、走り続けた。じきに声は聞こえなくなり、背後から聞こえてくるのは酸素を消耗する炎たちの叫びだけとなった。迫りくるそれから逃げ、更に空から幾度もくべられる火元からも逃げ、四十分ほど走って、街に辿り着いた。

 思い出の地。

 家族で何度もくぐった街の入り口にあるアーチ。若き日の妻と手を繋いでくぐったアーチ。まだ幼馴染だった頃の妻が、その下で制服を着て笑っていた。春の日、桜の花弁を茶色の髪に載せて、笑っていた。

「はぁはぁ」

 荒れた息を落ち着かせる。動悸が止まらなかった。街の入り口、「ようこそ、スティヴァリへ!」という文字がアーチに書かれている。見慣れたそれは焼け落ち、原型を留めていない。

「なんで……」

 本来安全圏である街中にまで、敵は空襲を行っていた。火の海と化したスティヴァリ。そこに立ち並ぶレンガ造りの外壁は、辛うじて原型を留めていた。しかし、それ以外の出店や暖簾などは一部が焼け落ち、煙も立ち込めている。ただでさえ薄れていた記憶が、より一層薄れて行く。

「くそっ!」

 同僚たちが足を止めた彼を後目に、横を抜けて行く。再び走り出し、逃げ惑う。蜘蛛の子を散らすように、去って行く。

 付いて行かなくては。

 そう思いながら、のそのそと走る。そこに先ほどまでの勢いはない。街中を過ぎて行く。ありとあらゆるものが炎に包まれていた。視界内のもの全てが、焼けていた。そんな中、気がかりなのは、この街で暮らす娘と妻の事だった。無事逃げおおせたのか。家は焼けてしまっていないか。助けに向かわなくてはならないのではないか。生きているのだろうか。

 一行は自然とギルバーツの家がある方に向かっていた。メインストリート沿いにある彼の家を、彼等が通るのは必然的である。だが、それはギルバーツにとって悪夢にも等しいものであった。慟哭の如き炎のうねりが、衝動となってギルバーツの脳内を駆け巡る。走馬灯のように、家族と過ごした風景が蘇る。

 妻と家を選んだ。ギルバーツの体を気遣って、空気のいい所にしようと話した。妻はどうしてもダイニングキッチンが欲しいと言って譲らず、必死になって条件に合う場所を探した。家を買った初日、同じ部屋で眠るのが何となく気恥ずかしかった。一つベッドの上で、顔を見合わせて笑った。そして娘が産まれて、一気に家は賑やかになる。

 そんな記憶が、走る彼の頭には詰まっていた。

 自宅に向かった彼を出迎えたのは、炎に包まれた我が家。玄関先に置かれていた観葉植物は、すっかり灰になっており、表札は確認する事が出来ない。もはやギルバーツの心の中にしか、その場所を家たらしめるものは残されていなかった。

「おい! 行くぞ!」

 同僚の言葉に、止まっていた思考が動き出す。現実から目を背けるように、彼は自宅から目を逸らし、一行と共に走り出す。

 内心の動揺と、きっと隣街に妻たちはいるだろうという希望的観測を胸に、彼は黒煙立つスティヴァリから逃げ出した。寂れたバス停の方には誰一人残っていなかった。

 

 

 焦げ臭い、火薬とは似ても似つかない、嫌な臭いが立ち込めていた。隣街に特設された野戦病院。その中をギルバーツは、歯ぎしりをしながら駆けずり回る。

「お母さん、お母さん……」

「私の娘が――」

「赤ちゃんがいるんです!」

「痛い、痛い」

 甲高い呻き声。悲痛な叫び。舌ったらずの主張がこだましていた。身重の体を引っ提げて歩く母親がいる。重症の子供を腕に抱え、医師に訴える母親がいる。無理だと言っても理解出来ない――しようとしない老婆がいる。

 突如、戦争とは無関係だった市民を襲った爆撃。覚悟なき者たちは地獄へと叩き落とされた。

「二百三十七番、黄色です」

「五十九番、黒」

「えっと、えっと。二十九番……黒です」

 そして、それは隣街で働いている看護師や医師も同じだった。見た事もない容態の患者。あっさりと死亡判定を下す非情さ。他を救うため、一個の命を切り捨てる行為の重さに、皆が戸惑っていた。

「ちょっと痛みますよ」

 ギルバーツは酷い火傷を負った女性の腕をシーツで包み、上から水袋で冷やした。女性は小さく「うっ」と呻いたが、唇を固く紡いで耐えていた。そしてその横には、ワンピースの裾を小さな手で掴んでいる五歳ほどの子供がいた。彼は女性を心配そうに見上げている。

「お母さんは大丈夫だからね。ゆーくんは痛いところない?」

 彼女は頬を引き攣らせて笑い、少年にそう問いかけた。すると彼はふるふると首を横に振る。

「そう。よかった」

 女性の唇が僅かに開かれ、艶っぽい息が漏れた。

「お強いですね」

 そんな彼女を見て、ギルバートは気づけばそんな言葉を口にしていた。彼は自分の妻と娘がどうなっているか、不安でしょうがなかった。女性だって夫がどうなっているか不安だろう。しかし彼女は子供の手前、想像を絶する痛みにも耐え、笑っている。その強さが羨ましかった。

 女性はそれを聞いて、意外だとでも言うように目を瞬き、弱弱しく微笑んだ。

 彼にはなぜ彼女が微笑んだのか、分からなかった。だから弱さから逃げるように「これを押さえておいてください」とだけ告げて、その場を去った。

 どれだけでも患者は運ばれてくる。それは全て戦争の被害者だ。家財道具を後生大事に抱えた老人、産まれてもいない赤ん坊の心配をする母、はぐれた子供を探す父。家庭の役割を全うする市民が、次々と野戦病院に集まって来る。

 そんな中で、ギルバーツは必死になって働いていた。先ほどまで使えていた道が、横たわる人で埋められ、ひたすら上司からの指示通り民間の人々の治療を続ける。すると、兵士たちの治療が疎かになって、隅の方でその死体が積み上げられる。彼には詳しい事情は分からないが、こんなのは兵士たちがあんまりだと思った。けれど、軍の規律を破る勇気も、理由も持ち合わせていない彼は淡々と治療を続ける。

「おい! ギルバーツちょっと来い!」

「なんですか!」

 老人の抉れた足を手当していた彼に、上司から声がかかる。苛立ちながらもそれに従い、彼は上司の元へ向かった。

「長官が重症らしい。手術が必要だ。外科はお前が一番上手い。頼んだぞ」

「…………」

 色々と頭をよぎった。こんな時でも階級差別か。貴族はそんなに偉いのか。兵士たちは見捨てられて死んでいるのに、あのでっぷりと太った長官は助けるのか。

 罵詈荘厳が脳内を埋め尽くす。

 しかし、結局頭に浮かんだのは妻と娘の笑顔だった。生きているかは分からない。ずっと、治療をしている間にも探し回りたかった。けれどここに運ばれていないという事は大丈夫なのだろうと自分に言い聞かせ続けていた。

 そして再会した時、自分が無職ではどうしようもない。小さくため息を吐き、看護師に案内されるまま長官の元に急ぐ。

 がその時、不意に視界の端に金の輝きがちらついた。

「あ、先生!」

 看護士の声。だが、それは不思議と意識から消えた。金色の光のある場所は、医療用テントの入り口、ギルバーツのいる場所から優に二〇mは離れている。なのに何故か、その輝きが気になった。理由などない。ただ、何となく気になっただけだ。けれど、ギルバーツの足は自然と早まって行く。光に反射し煌めいたのは、金色の髪だった。背の低い少女がその胸に小さな子供を抱え、背には一回りほど大きい女性を背負っている。女性はぐったりとしていて、今にも苦しそうに呻いていた。少女はおろおろとテントを右往左往している。子供を降ろそうにも場所がなく、女性を助けようにも見てくれる医者がいない。少女の瑠璃色の瞳がくるくるとテントを回る。そして、悲しみと絶望に染まって行く。

 ギルバーツは輝きの実情を目にした時、何故こんなものが気になったのだと自嘲した。そしてこんな事をしている暇があったら、長官の元に早く行くべきだと踵を帰そうとする。

 しかしそんな彼の足を、今度は紅玉のブローチが邪魔をした。それは背負われた女性の胸元につけれれていた。

 その輝きが誘蛾灯のように、ギルバーツの目を引き寄せた。そして、一瞬で魅せられる。

 見間違えるはずがない。

 手足がわなわなと震え、右手が自然とそのブローチと対になる自分の物へと伸びる。

「先生!」

 看護師の制止も無視し、彼は少女の元へと走った。少女は突然現れた背の高い男に驚き、怯えている。だがギルバーツはそれに構わず、そっと背負われた女性の頬をなぞった。

「あの、なんですか貴方は。お医者さんでしょうか?」

 少女は警戒心丸出しといった様子で、こちらの様子を窺っている。だが、そんな事に構う暇などない。だらだらと背筋を汗が伝う。動悸が激しくなり、再開の喜びと、自我の崩壊の境目を行き来する。無事か、無事でないか。早く確かめなくては落ち着かない。

「早くこっちに置いてくれ。リリは無事か?」

 早口でギルバーツは少女に叫ぶ。

「リリ? 誰ですかそれは?」

 だというのに、彼女は呑気にそんな事を言う。

「君が抱いてる子供だ」

 苛立ち交じりに返した言葉に、少女はようやく状況を理解したのか、ハッとした表情を浮かべた。

「外傷はありませんけど、煙を吸い過ぎたかもしれません」

「分かった」

 少女は言われるがままギルバーツの後ろをついていく。

「ところで、貴方は一体誰なんですか?」

「私は君が抱えている子供の父で、背負っている女性の夫だ」

 彼がそう答えると彼女は目をぱちくりと瞬いた後、安心したように笑い「じゃあ任せてもいいですか?」と言った。だが、ギルバーツはその言葉に首を横に振る。

「ちょっと待ってくれ」

 少女は小首を傾げた。それと同時に、後ろで縛られた金色の髪が揺れる。

「ここに降ろしてくれ」

 彼はまだ一度も使われていないシーツに、妻と娘を置くように指示した。それに従って、少女が二人を降ろす。ギルバーツはそれを確認した後、ぐにぐにと二人の体を触り始めた。瞳孔を確かめ、脈を測り、腹を抑える。娘に目立った外傷はない。だが、妻の頭はどこかで強くぶったのか、だらだらと血を流しており、娘を庇った時に出来たのか、背中には酷い火傷の痕があった。そのせいで、全身熱を持っていて、皮膚の移植を行わなければ完治は難しいだろう。それどころか命の危機すらある。

「手術が必要だ。手伝ってくれ」

 ギルバーツはそう言うやいなや医療鞄を開け、長らく使っていない手術用具を取り出し始める。

「そんな事言われても――」

 突然の物言いに少女は立ち尽くす。

「頼む。誰も手伝ってくれる人がいないんだ!」

 彼は白衣を脱ぎ捨てると、勢いよく引き裂き頭部の止血に使う。

「おい! ギルバーツ! 長官の治療はどうした!」

 上司が異変に気付いて彼の元に近づいてくる。ずんずんと肩をいからせて向かってくる。

 長官の治療という武器を手にしてやってくる。

 その言葉にギルバーツは一瞬怯み、目を泳がせた。ただ、それは本当に一瞬の逡巡だった。

「うるさい! あんな肉達磨の事なんか知った事か!」

「なに?」

 あまりの暴言に上司の足が止まった。じろりと三白眼が彼を貫く。

「あんな薬中より、家族の方が大事に決まってる! 一刻を争うんだ!」

「軍の規則に歯向かうつもりか? 俺だって不満だ。でも皆我慢してる。兵士より民間を優先して、生きれる人を見殺しにしておいて、自分の家族だけ特別扱いか!」

 上司は身勝手なギルバーツを睨みつけ、そう言い放った。特別扱いという言葉は彼の胸に突き刺さる。今まで、散々見捨てておいて自分の家族は特別扱い。最低に違いない。

 だが、

「手術の準備を」

 ギルバーツは上司の方を見向きもせず、少女に向かって「ライターは持っているか?」と尋ねた。背を向けた彼が振り返る事はもうない。

「……っの」

 悪態を吐き、上司は勢いよく拳を振りかぶった。それが向かう先はギルバーツの後頭部。成人男性の拳が確かなスピードを持って放たれ、ギルバーツの頭へと吸い込まれ――

 る前に、彼は打ち倒されていた。

「本当に貴方はそれでいいんですか? 他にも苦しんでいる人はいます。貴方の家族は全体で見れば、取るに足らないでしょう。それを自分の都合で助けるという選択は、本当に正しいものですか?」

 上司は地に引き倒された痛みに呻く。ギルバーツは身じろぎ一つせず、淡々と準備を進めていた。そんな彼に向かって、少女はそう問いかける。状況から見て、上司は彼女が打ち倒したらしかった。しかし彼はもはやそんな事に気を払わない。

「ライターを」

「その道は鉄の雨に打たれ、蓮の花の如く身を裂かれるような苦しみを味わう事になりますよ」

 ガラス玉のような瞳を鋭利な刃の如く細め、少女はギルバーツを睨んだ。

「…………」

 彼は何も言わず、目線を重症の妻へと戻した。それは一切の詰問の終了を示していた。

「すまない。ライターを」

 少女に、ギルバーツは再びライターはないかと今一度催促した。彼女は「分かりました」と言うと、胸ポケットからライターを取り出す。それを渡すと、彼は手術用具を火で炙り始めた。

 上司は二人を黙って見つめていた。ぐっと拳を握りしめて、耐えていた。ギルバーツについていた看護師は、彼を見限ったらしく既にその場にはいない。

 手術の準備が始まる。

「鉗子って言ったらこれを渡してくれ。あと、こまめに患部から流れる血を拭いて欲しい。俺の汗も拭いてくれるとありがたい。長丁場になる」

「分かりました」

「最後まで付き合ってくれ。お願いだ。こんな見ず知らずのおっさんに力を貸してくれ」

「大丈夫です。付き合いますから」

 そんなやりとりを彼は眺める。誰も救わず、ただ眺める。

「じゃあ始めるぞ。メスを頼む」

「はい」

 手袋を嵌めた彼の手には一本のメス。麻酔が効いているのか妻の顔は酷く安らかで、まるで眠っているようだった。それは近い現実。このまま何もしなければ、覚めぬ眠りが現実となる。

 彼女を夢から覚ますために、ギルバーツは無我夢中で動き出した。

 

 

 手術は優に七時間を超える長丁場となった。始まった当初はお昼時だったというのに、終わる頃にはすっかり夜も更けている。だが、空には相変わらず粉塵が舞い、星々の姿を見る事は出来ない。

 手術を全て終えたギルバーツは、長時間の緊張状態による疲労と、自責の念によってその場で腰を落としていた。口から洩れるのはため息ばかり、目の前には救った妻がいるというのに、頭に思い浮かぶのはこれでよかったのかという答えが出ない問い。

 これでいいはずだ。

 自分は愛する人を救ったんだ。

 人間として正しい事をした。

 そんな自己弁護と、正義という名の正当化を幾星霜繰り返す。

「はぁ」

 妻の胸が規則的に上下している。そうだ、救ったのだ。これでいいんだ。だが、そのすぐ隣には息絶えた小さな子供が横たわっていた。妻を救う時間があれば、他の重傷者三人は救えただろう。

 なのに、自分はそれをしなかった。

 ため息しか零れなかった。眠る事も疲労を癒す事も出来ず、ただ腰を落とし、固い地面に身を投げる浪人に成り下がる。

「大丈夫ですか?」

 そんな彼に、金髪の少女は笑みを浮かべながら、手を差し伸べてきた。しかし、ギルバーツはその華奢で真っ白な手を握る事が出来ない。汚れなきそれに触れる事が出来ない。しかし、彼女は一層笑みを深くして、強引に彼の手を取ると、「外の空気でも吸いに行きましょう」と言って、彼をテントの外へと連れ出した。

「あぁ、本当に月が綺麗ですね」

 相変わらず、星は見えない。粉塵に覆われた空、その向こうで輝いているのだろうが、星たちは跡形もなく消え去っている。けれど、そんな中で大きな月だけが彼等を見つめ返しきた。

「そう思いませんか?」

 少女に問いかけられたギルバーツは、ぼんやりと空を見上げる。だが、大きな大きな月が糾弾してくるように思えて、すぐにそれから目を逸らした。

「ありがとう」

 地面を見つめる。うりうりと手足を無我夢中に動かすアリが、視線の先にはいた。そのアリは体躯に似合わぬ餌を運んでいて、押し潰されそうになっている。ギルバーツはその姿に不思議と親近感を覚えた。

「別に、私にも得るものはありましたし」

 少女は鮮やかな金髪を右手で払い、そう言って彼の方を振り返る。金の奔流が天の川のように、常闇に流れる。艶やかなピンクの唇が蠱惑的に吊り上がっていた。

「私は軍法会議にかけられるだろう。そこでどんな判決が出るかは分からない」

 後ろ手を組んだ彼女が一歩踏み出す。のそのそと歩くアリはそれに驚いたのか、身の丈に合わぬ餌を落した。

「受けた恩は忘れない。君の名前を教えてくれ」

 胸につけたルビーのブローチをぎゅっと握りしめ、正面から少女の顔を見据える。彼女を正面から見るのは、ギルバーツにとって初めての事だった。

 美しかった。

 壊れてしまいそうな、お人形のような姿で、もしも女神というものがいるのなら、こういう姿をしているのだろうと思えた。そんな彼女が軍服という牢獄に押し込められているのが、哀れに思えた。

 だが、それ以上に自分を見つめ返してくるガラス玉の如き瑠璃色の瞳が不気味だった。

「なんだ、そんな事ですか」

 少女はその問いを小さく鼻で笑い、得意気に微笑んだ。

「私はアイリス=テレジアといいます。そして朗報です。貴方が軍法会議にかけられる事はありません」

 アイリスが再び月を見上げる。

「それは――どういう」

 思わず彼は問い返す。先ほどまで輝いていた月には雲がかかっていた。朧月となったそれは、かなり光が弱まっている。彼女に倣うようにギルバーツもどうにか薄目で空を見上げた。雲の隙間から月光が顔を出す。餅つきをする兎の姿が薄らと覗く。

「言葉のままです。貴方の恩人で、フリードリヒ=アレクサンドリアの部下である私が保証しましょう。貴方は必ず、またここに帰って来ると」

 アイリスが力強く、彼に向かってそう告げた。

 木漏れ日が差してくる。ただ、それは太陽の光によるものではない。そして、それを遮るのは木々の梢ではない。

 雲間から差した月光は十字架の形と成りて、ギルバーツの頭上に降り注いだ。

 

 二日後、ギルバーツ=ペトロヴィッチは、軍法会議のため首都アイスクレスに召集される事となる。

 

 

 第三章 我欲の救済者  

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

 私はどういう訳か、アイスクレスに着くなり牢獄でも裁判所でもなく、アレクサンドリア家とかいうお貴族様の屋敷に通された。そこで私は贅の限りを尽くした歓待を受ける。理由は分からない。軍法会議はなくなったと、当主からは告げられた。何故かと問えば、息子からの頼みの一点張り。そんな誰かに恩を売った覚えもなければ、助けられる義理もない。人間違いかと尋ねれば、こんな時期に軍に歯向かう馬鹿は私くらいだと言われた。それもそうだ。強いて言えば、当主はゴミ山で会った男とよく似ていた。しかし、彼は私の名前など知らないだろう。

 

 そこから一週間かけて、私は再びスティヴァリ基地へと戻った。お土産に妻へはコップと歩行を補助するために器具を、娘には流行のおもちゃを買った。

 アイリスは今頃どうしているのだろうか?

 バスに揺られながら、そんな事を思う。彼女とはあの夜、別れてから会っていない。奇しくも彼女の言う通り、自分は釈放された。どうしてそんな事が出来たのか。それは分からない。けれど感謝していた。アイリスという人間は、人が何かを決意する瞬間が好きだ。何かを捨ててまで、成し遂げたい事に、物事の神髄を感じる人間だ。だからこそ、アイリス=テレジアは私を助けたのだろう。上司を倒し、手術の手伝いまでしてくれた。

 その恩は別に返さなくてもいいだろう。

 きっと彼女もそんな事は望んでいない。自分のしたかった事をして、感謝されるのは気が悪いに違いない。

 ただ、その生き方を美しいと思った。

 ブローチを触る。今それが留めているのは白衣ではない。紺色の無骨なスーツだ。だがルビーの輝きが、強く周囲の目を引く。私はそれを外し、中に入っている写真を見た。

 若い頃の妻。まだ小さい娘。

 戦場で手術した際に見た姿とはかけ離れていた。妻は心労からか、小皺が増えていた。娘はすっかり大きくなっていて、写真のように自分では抱える事も難しいだろう。なんせもう六歳だ。けれど、変わらないものがある。茶色のふわふわとして、ひんやりとしていた妻の髪。小さくても、きゅっと握ってくれる娘の小さくて、柔らかい手。

 それでいい。

 それだけでいい。

 

 白衣は捨てた。もう着る価値がなくなったからだ。アレクサンドリアの屋敷で、洗うかと聞かれ、捨てておいてくれと言った。後悔はなかった。もう自分は軍医でも、医者でもない。

 ただ一人の人間だ。強欲で、傲慢で、妻を愛していて、娘の事が大好きな、つまらない人間だ。人を救うのは趣味だ。誰かの兄になる必要もない。町医者はなってみたい。けれど、それは趣味だ。

 夢じゃない。

 

 私の夢は――。

 

 アイリスと、あの日ゴミ山で出会った男には、この事を伝えたい。この覚悟を伝えたい。

 彼女はきっと笑うだろう。ふわりと花のような笑みを浮かべるだろう。そしてそれを喰らうだろう。私の信念を喰らって、それを咀嚼し、噛み潰し、己の糧とするだろう。

「とても素敵です。貴方の気持ち、確かにいただきました」

 とそう言って、微笑む。

 

 男はきっと嫉妬するだろう。俺には目的なんかないのに、どうしてお前だけと羨望の視線を向けるだろう。けれど同時に祝福もしてくれる。「おめでとう」と、「新しい目的が見つかったんだな」とそう言って、肩を叩いて食事にでも誘ってくれるかもしれない。

 

 それでいい。

「私の夢は家族と笑って過ごす事だ」

 軍医の立場は追われた。

 軍法会議は避けられたが、その代わりに私は辞表を提出した。軍も私のような厄介者は願い下げだったのか、意外にもあっさりとその懇願は通った。

 

 揺れる。

 バスがぐらりと荒れた道を往く。私は徐々に荒廃していく風景を眺めながら、その先に妻の笑みを幻視した。

 

 

 

 

 

 第四節 フリードリヒ=アレクサンドリア

 

 雨が、降っていた。

 泥濘の中、水が戦場を洗う。塹壕で埋もれた死体たち。その中身で眠る蛆や蝿までもを雨は洗い流し、浄化する。そして今はそれらの姿は見えない。篠突く雨はベールのように戦場を覆って一寸先すらも怪しくし、戦いの全貌を隠していた。戦闘は行われていない。両者は停戦状態にある。豪雨が音すらも掻き消し、雨音のみを吐き出していた。

 もうそこに香りはない。硝煙の香りも血の香りも死の香りもしない。残っているのはどこまでも続く雨の匂い。忘れさせる雨の匂い。

 けれど残る。

 戦争の形跡は残る。

 血が流され、臭いは消され、湧いた蛆が身を隠そうとも、起きた事実は消すことが出来ない。死んだ者は生き返らない。

 だから、今ここに残った事実は覆らない。

 そんな事を塹壕の中でフリードリヒはぼんやりと考えていた。俯瞰した視界。その中に一丁の拳銃が映る。それが彼に在りし日の記憶を思い出させる。

ほんの二、三週間前、「それは私の心臓です」と一冊の手帳を迂遠的にそう述べ、自分に拳銃を突き付けて来た少女がいた。読んでいたら殺すと言い、だというのにそれを拾った事には感謝を告げる変わり者の少女がいた。

 金髪で藍色の瞳をした少女だった。

 冷徹な視線と共に向けられた拳銃を前に、フリードリヒは思った。

「こいつに殺されるのなら悪くない」と。

 戦場でどこに誰に殺されたかも分からず朽ちるくらいならば、ここで彼女に殺される方が幸せなのではないかとそう思った。

 しかし今は違う。

 死ねない。その理由を与えたのは、その少女で。彼に死を望ましいものにした少女で。けれど今となっては概念を逆転させた少女で。

 彼女はフリードリヒに戦場に立つ理由を与えた。生きている意味も、戦争をする理由も持たなかった彼に、そこに在る理由を与えた。

 それからの日々は輝かしい物だった。戦場で輝かしいというのも変な話だが、意味のある日々は素晴らしかった。何気ない一挙手一投足にすら意図があり、目端がいき、燃えるような感情を覚える。そんな日々だった。

「先輩、私を殺してください」

 だからこそフリードリヒは目の前の事実が洗い流されてしまえばいいのにと思う。

 一丁の拳銃は告げる。

 残酷な運命と、アイリスの死を。

 黒々とした彫刻。銃口に開いた穴からは死が飛び出す。彼は数多の死をそこから吐き出してきた。

「私はもうだめです。右手は満足に動きませんし、血を失い過ぎて、まともに動けません」

 淡々と玲瓏な声で、けれど銃を持った左手は弱弱しく、彼女は告げる。

「だから私を殺してください」

 金は黒で撃ち抜けと乞う。されどそれはフリードリヒにとっては、月を竹槍で突けというようなもので。

 彼はただ黙って、彼女の身体を強く抱いた。

 これはいつか来る未来の事。今より少しだけ先の未来の事。だから二人はまだ知らない。

 

 

 

 薄暗い灰の海が、本来青いはずの空を覆い尽くしていた。

『日曜日の悲劇』

 後にそう語られる事となる民間空襲があってから四日後、新しく基地を構成し直し、多くの悲しみに包まれながらもスティヴァリ基地はどうにか日常らしきものを取り戻した。だがそれも完全とは言えず、未だにテントの外では多くの人々が忙しなく走り回っている。リアカーが地を撫でる音に、杭と金槌の金属音。その間に挟まるは上司の怒号。それらを聞きながら、狭いテントの中でフリードリヒは目の前に立つ己の部下を見る。

「そんな事が本当に出来ると思ってるのか、アイリス」

「出来るでしょう。アレクサンドリア家は政界に大きな影響力を持っていますし、大変な資本家でもあります。金が全てに優越するこの国で、先輩の実家に出来ない事はないに等しいはずです」

 しかしそれにも怯まず、アイリスは淡々と恐ろしい事を口にした。時は昼間だが、空に積もった灰のせいで、室内は丑三つ時のように薄暗い。そんな中で燭台に乗せられた三つの蝋燭が煌々と灯っていた。

「お前は自分で何を言っているのか、理解しているのか?」

 炎が風に揺らめく。顎に手を当てたフリードリヒの姿が、斜め下から臙脂色にぞわりと照らされた。

「理解しています。そしてそれが許されない事も」

 彼女は毅然とそう答える。

「ならこの話は終わりだ」

 彼はふぅと息を吐き、立ち上がった。蝋燭を消し、テントから出ようとする。しかし、彼女は追い縋った。横を抜けようとするフリードリヒの手を強く握った。思わぬ感触に彼は振り返る。

「ですが、私は約束したのです。彼を守ると。家族の元で穏やかな日々を過ごす事を保証すると」

 瑠璃色の瞳でもって、純黒の瞳にアイリスは告げた。細い指が確たる想いで、きゅっと彼の大きな手を握る。

「それと俺に何の関係がある」

 しかし、そんな彼女に彼は小さくそう返した。

 アイリスは突然、フリードリヒのテントを訪れてこう言ったのだ。

『近々、軍法会議にかけられる軍医がいる。彼を先輩の権力を使って救って欲しい』と。

 それは無理な話だった。そもそも軍法会議というのは、規律を破った者に課せられる罰である。だというのに、それから逃れるために規律違反を犯すというのは本末転倒な話ではないか。可能か、不可能かで言われたら、可能だろう。けれどそれをする理由がない。そこまでの掟破りを犯す動機がない。

「お前の要求を聞いて、何か俺にメリットがあるのか? 逃げた実家に頼み事をする恥以上に価値のある物を、お前は何か差し出せるのか? この国は金で回っていると言ったな。なら金銭でもって、俺がその軍医を助ける労力に報いる事が出来るのか? これは今までのとはわけが違う。ラーサにステージを用意した時のように単純な問題じゃないんだ。立派な越権行為。罪を無くすという明確なルール違反だ」

 フリードリヒは彼女に掴まれた手を払った。そして話は終わりだというように、テントの入り口へと一歩踏み出す。けれど尚の事アイリスは追い縋る。

「だから初めからそう言っているのです。ルール違反をして欲しいと、そう言っています。先輩よりも私の方がよっぽど優秀なんです。知識はあります。どうすれば彼との約束を守れるか。その手段も頭に思い浮かびました」

「なら――」

「しかし、私にはそれを為す力がありません。賤しい生まれの私には権力もなければ、差し出せるお金もありません。だから頼む事しか出来ないのです。お願いします。先輩。どうか、彼を助けてください」

 フリードリヒは思わず拳を握りしめた。狭いテント内。二人の体は密着状態で、互いの心臓を共有しているようだった。どきどきと彼女の鼓動が波となって彼の体を揺らす。蝋燭が消えた暗い室内で、両者の瞳が交錯する。潤んだ藍が感情で濡れていた。玲瓏な声が感情で滲んでいた。

「じゃあ、お前は何を差し出せる? 金もなければ、権力もないお前が、俺に差し出せるものはなんだ?」

 彼は彼女にそう問いかける。

「――――この身を」

 アイリスはほんの僅かに逡巡し、そう答えた。

 

 

 それから一週間後、二人はディアトロフの首都、アイスクレスの繁華街を馬車で駆けていた。どこかへと誘うように点々と灯っている街灯に沿って、菫の家紋が描かれた馬車が街中を進む。それを民衆はガラスケースに向けられた視線を外して、物珍しそうに見ていた。日付は日曜、時刻は午後八時。夜の入り目に、人々は思い思いの時を過ごす。ある者は同僚と酒を酌み交わし、ある者は家族で少し豪華な飲食店に向かう。オシャレな服を着た女は白魚のような指にネイルを決め、ハンドバッグを持っている。

 そんな彼等をフリードリヒは馬車の窓から無表情で見つめていた。

「どうかしましたか?」

「いいや、なんでもない」

 隣に座るアイリスの声に振り向いた。彼女の言動はいつもと大して変わらない。しかし、その容姿は基地の時の粗雑な軍服とは大違いだった。頬に一筋垂れていた金糸の髪は丁寧に切り揃えられ、付け毛を着けハーフアップに纏められた髪は、淡雪色の花によって頭の上で留められていた。耳元には大粒のサファイアのイヤリング。薄い生地で作られた紫紺のドレスは胸元が空いていて、その隙間を埋めるように純白のケープが載せられている。

 車窓に引かれたカーテンを下ろす。

 先ほどまで目に痛かったネオンの光が消え、馬車内の落ち着いた明かりが眼窩を癒す。蹄が石畳を規則的に打つ音が続く。しかし、その中に混じった街の喧噪が、頭の奥に蔓延っていた。フリードリヒは、ずきずきと痛み始めた頭をこめかみで押さえる。

「これからどれくらいかかるのですか?」

「大体四十分くらいだな。ここはアイスクレスの外縁部だ。今回の会場は中央部だから、結構時間がかかる」

「そうですか。馬車じゃなくて車ならもっと早く行けるのに、貴族っていうのは頭が悪いんですね」

「あんまり言ってやるな。貴族だって意外と大変なんだ」

 不満気に唇を尖らせる彼女を宥めるように、フリードリヒは彼等を擁護した。けれど、アイリスはそれを聞くなり鼻で笑い「散々戦争しといて大変だなんて片腹痛いですね」と嘲った。

 それに彼は何も言えなかった。

 あの日、自分の身を捧げると言った彼女に対し、フリードリヒは「自分と一緒に首都で行われるパーティーに出て欲しい」と要求した。アイリスはそれを二つ返事で了承し、今二人はパーティー会場に向かうため馬車に乗っている。

「どうして俺たちが馬車に乗っているか分かるか?」

「それは先輩が私にパーティーへ出ろと言ったからですよね?」

 首を傾げる彼女。

「そういう意味じゃない。なんで俺ら貴族が馬車に乗らないといけないのかを聞いている」

 再び首を傾げる彼女。

「そんなの威張りたいからじゃないですか?」

 皮肉気に唇を歪め、何の気なしにそう答えた。

「そう、威張りたいんだ」

 フリードリヒは人差し指をピンと立てニヤリと笑い、得意気に語り始める。

「俺たち貴族様はお前たちのような貧乏人とは違う。馬を世話するだけのでかい敷地があって、飼料があって、馬車をメンテナンスする余裕まである。そういう権威を民衆に見せつけるために、わざわざこんな街中を走ってる。俺たちはこんなに力があるんだっていう事を示さないと生きていけない。そういう生物なんだ貴族っていうのは」

 からからと車輪の回る音が響く。二人の間に沈黙が落ちる。

「可哀想な生き物ですね、貴族って」

 ぽつりとアイリスがそう漏らす。斜め下に向けられた視線の先には、小さく握られた彼女の荒れた手があった。

「それは同感だ」

 彼女の爪にネイルは塗られていない。短く切られた爪に派手な色は似合わないからだ。貴族女性にはありえないそれ。フリードリヒはちらりと盗み見た。

 淡々と街道を進む。カーテンを引いたせいで外の景色を眺める事は叶わない。だが、進むにつれて、周囲の喧噪が徐々に失われていくのに気がついた。それはアイスクレスの外縁部を抜け、中心部である貴族街に入った証だ。彼がちらりとカーテンの裾を開けると、そこに先ほどまであったガラスケースや家族連れの姿はなく、物寂しい風景が広がっていた。商店街の代わりにあったのは広い庭園、煉瓦造りの豪邸に仰々しい門。それを見るや否や、フリードリヒは苦虫を噛み潰したような顔をして、すぐにカーテンを下ろした。そして気持ちをリセットするべく、ポケットから煙草を取り出す。

「やめてくださいよ。折角先輩もオシャレな服着てますし、そもそも今からお偉方のパーティーに参加するんです。なのに、煙草なんて吸ったら臭いがつくじゃないですか」

 しかし、煙草を手にした右手はアイリスの睨みによって静止した。

「普通の女みたいな事言うんだな、お前」

 ささやかな抵抗を試みるフリードリヒ。だが彼女にそれが効いた様子はない。それどころか、彼女は追い打ちをかけてくる。

「そうやって吸ってると癖になって、いつか本当にやめられなくなりますよ。士官学校の時は吸ってなかったじゃないですか。なんで吸い始めたんですか?」

 彼は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。アイリスは不思議そうな顔をして、彼を見つめていた。

「別に、理由なんてない」

 フリードリヒは逃げるようにそう口にして、唇を噛みしめる。

「そうですか。理由がないならやめれますよね」

「そうとは言っていない」

「なんでですか?」

 くだらない押し問答が続く。煙草を止めるか、止めないか。そんなしょうもない事を話していると、突然「ご家族には会われないのですか?」とアイリスが言い出した。

 雨水に打たれたような空気が馬車の中に訪れた。先ほどまでの和やかな雰囲気は消え失せ、冬のスティヴァリのような底冷えのする風が吹きすさぶ。

「それこそお前には関係のない話だ」

 全てを拒絶するような低い声。アイリスは思わず目を丸くする。

「関係のない話なら、私にしても大丈夫ですよね?」

 こてんと首を傾げ、さも当然かのような口ぶりで彼女はフリードリヒにそう尋ねた。そんな彼女に、彼は思わず肩を竦める。

「すみません。幼少のみぎりよりそういった機微に疎いもので」

 その姿にアイリスは相変わらずの無表情でそう答えた。それを面白くないと思いながらも「分かったならいい」とぶっきらぼうに言って、フリードリヒは窓枠に肘をつく。

「それでどうしてお会いにならないのですか?」

 しかし、彼女は再びそんな事を口にする。彼はじろりと横目でアイリスの方を見た。そこにあったのは、紫紺のドレスを纏った妖精の姿。纏め上げられた金の髪を留める薄桃の花が美しい。だが美しいのは見た目だけだ。

「聞いてなんになる」

 視界はカーテンの深碧色に占められていて、外を見る事は出来ない。

「ただ私が聞きたいのです」

 背後でアイリスの玲瓏な声が聞こえていた。

「私は後悔しています。先輩はご存知でしょうが、私は孤児です。八歳の頃、両親と些細な事で喧嘩をして家出をし、泣き疲れて帰って来た私を待っていたのは、冷たい二つの遺体でした」

 賤しい生まれの冷血女。彼女は士官学校時代そんな風に呼ばれていた。淡々と訓練をこなし、その中で随一の結果を出し、それなのに涼しい顔をして笑みの一つも浮かべない。アイリスの素性は有名だった。ディアトロフ辺境の田舎町で産まれ、孤児院で育ち、その後軍に入隊。同年代の中で女ながらに凄まじい成果を上げ、幹部候補として士官学校に入学が許可された秀才。

「私が初めて目にした死体は仲間のものでも、敵のものでもありませんでした。代え難い、かけがえのないものだったのです。あの日何があったのか、私は知りません。もう知る事も出来ないでしょう。なんせ地図にも載っていないような片田舎です。町の名前も忘れてしまいました。通り魔に逢ったのかもしれないし、言う事を聞かない娘に嫌気が差して自殺したのかもしれません」

 淡々と彼女は事実を語るように言葉を紡いでいく。事実を語るようにではなく、れっきとした事実なのだが、彼女の言動には感情が欠如していて、物語でも聞いているような気分にさせられる。

「私はもうあの時の事が思い出せません。八歳だから覚えている事もあると思うのですが、フィルムが抜き取られたようにあの時の記憶がないのです。だからもう、両親の温かみを思い出す事も出来ない。多分、恐らくあったと思いたいそれの味は、二度と知る事が出来ないのです」

 そうやって口では寂しそうな事を言っているというのに、アイリスの声は微塵も揺るがない。震えもしなければ、大声も出さない。

「抜け落ちたフィルムの中へ代わりに詰められたのは、冷たい土と血と汗の味。それのお陰でここに来れているといえば聞こえはいいですが、本来そんなもの必要なかったとも言えます」

 そこで彼女は喋るのを止めた。フリードリヒは深碧のカーテンを黙って見つめている。その先には何もない。同様にアイリスも続きを話さない。けれど彼には彼女が続けたかったであろう想いが分かった。

「どうして先輩はご家族に会われないのですか」

 少々の沈黙の後、再びアイリスがそう続ける。それはこれまでの二回と異なって、胸の奥に響くような重さがあった。フリードリヒは唇を僅かに開けた。だが何か反論をしようとも、口が上手く動かない。それは背後に佇む彼女の重圧のせいか、もしかしたら戦場で吸い過ぎた煙草のヤニが歯にへばりついているからかもしれなかった。

「今更どんな顔して会えばいいっていうんだ」

 何とか絞り出したのは、そんな愚痴のようなものだった。

「家が嫌になって逃げるように士官学校に入って、家族の制止も無視した。定期連絡も入れずに戦地に赴いた。唯一連絡を取る兄とも年に一度手紙があればいい方。両親からの連絡はない。俺の記憶にある両親は、口を開けば「アレクサンドリア家としての品格」を呪いのように繰り返した。だから戦場で死んでも、俺のようなアレクサンドリア家の出来損ないがうまく処分できて、せいせいしたとでも思うんだろう。会っても誰も喜ばない」

「本当にそう思ってるんですか?」

 アイリスが背後から氷柱のような鋭さで問いかけてくる。

「もちろん」

 深碧から視線を外し、彼女の方を向く。そこには予想通り足をぴったりと閉じ、膝の上に手を置いた人形のようなアイリスがいた。ガラス玉のような瞳が、フリードリヒを貫く。そして彼女はただ一言「それが会わない理由になるのですか?」とそう言った。

「別に私も無理に会えと言っている訳ではありません。人には俗に言う家庭の事情というものがありますから。けれど先輩はそういったものがある訳ではないですよね」

 きっぱりと家庭の事情などないと言い切った彼女を、フリードリヒは胡乱げに見つめる。しかし、アイリスは気を払う事もせず話し続ける。

「先輩が貴族社会に馴染めないのなんて今更です。どこの世界に平民に囲まれて、どんちゃん騒ぎする貴族がいるんですか。私は別に貴族社会に戻れと言っている訳ではなく、単にご家族とちゃんとお話ししなくていいのかと言っているのです」

「あの傲慢な父が家を捨てた俺に関心を持っているはずがないだろ」

「ではお母さまは?」

「それは」

 父の事は吐き捨てるように答えた彼が、母については口を噤んだ。アイリスはそんな彼に「だから話をした方がいいと言ったのです」と呆れて言った。彼女からフリードリヒは視線を逸らし、再び深碧色が世界を染める。その落ち着き払った碧に向かって「言われるまでもない」と言い放った。

「そうですね。まぁ、今回のパーティは年一でしか連絡を取らないお兄様からの代理の頼み。不肖の弟として、精々上手くやりましょう」

 先ほどよりも小さくなった後ろ姿を眺めながら、彼女は意地悪な笑みを浮かべる。フリードリヒはその雰囲気を肌で感じた。

 ぱからぱから、と蹄の音がこだまする。外はすっかり真っ暗で、カーテンの隙間から闇が嫌らしく睨んでくる。しかし、二人はそんな物気にしていなかった。仏頂面のフリードリヒは相変わらず変わらぬ碧を睨んでいた。一方で、アイリスは膝の上に乗せた小さなメモ帳に、万年筆で何事かを書きつけている。蹄の音にしゃらしゃらというペンが紙の上を滑る音が混じった。まるで川のせせらぎのようなそれに、フリードリヒは思考を乗せる。

 だが、そんなのはほんの数秒。すぐに彼はアイリスの方を向く。彼女はそれに気づいた様子もなく、無我夢中でペンを走らせていた。その姿に彼は小さくため息を吐き、肩を竦めた。そして、先ほど止められた煙草を口に咥える。咥えるだけだ。火はつけない。当然、煙がくゆる事もなければ、臭いが車内に充満する事もない。横では未だにアイリスが、何かを書いている。煙草を咥えたフリードリヒを注意するそぶりを見せないどころか、顔を上げる事すらもない。火を点けたとしても、今の彼女にはバレないかもしれない。

 けれど、彼は口の中で吸い口を歯で弄ぶに留めた。

 馬車は進む。

 闇夜を裂く街灯に従い、規則的な駆動音を立て、非日常を駆ける。その中で金髪の少女は文章を綴る。凡庸な男は何をするでもなく、ぼんやりと空想に耽る。

 目的地が近づき、周囲に同じような生き物が集まり始めた。ずらりと並ぶ馬車の一つに、彼等も混じる。

 こうしていつもとは違う、血の流れない戦争が始まった。

 

 

 

 金色。パーティー会場はその二文字に集約されていた。とても一貴族の持ち物とは思えないような広さの邸宅。邸宅内でも最大級の大きさを誇る講堂に、招待を受けた貴族たちおよそ二百人が集まっていた。通常の舞踏会に比べれば随分数が少ないが、それはこの会が内々である事を示している。

 だが、フリードリヒが会場内に入った時感じたのは、そんなちんけな人間たちの事ではなかった。

 人丈のシャンデリア。それに刺さった幾本もの蝋燭。その光を反射するは金色の壁紙。ドーム状の天井には目に鮮やかなステンドグラス。神話『ソモムとゴドラ』が荘厳に描かれている。

 アイリスはそれらを見た瞬間、思わず感嘆のため息を吐き、一方でフリードリヒは諦観のため息を吐いた。

 まさに貴族の邸宅。

 ホフマン地方一の商業大国、ディアトロフの中でも随一の家柄であるニケーア家。その姿はフリードリヒの実家であるアレクサンドリア家と酷く似通っていて。

「本当にどうしようもない」

 一歩、踏み出す。

 綺麗に磨かれた革靴が、赤いカーペットを踏む。その感触、シャンデリアの輝き、むせ返るような香水の香り。

「いくぞ」

 彼はアイリスにそう言って、スーツのポケットに手を突っ込んだ。。

 

 女たちのドレスがひらひらと散る。紫色の金魚のひれが会場内を優雅に泳ぎまわっていた。彼女たちはまるで水を得た魚のように悠々とハイヒールという尾びれで夫や婚約者と共に歩んでいる。男はそんな女たちを腕に侍らせ堂々と胸を張り、胸元からムスクのような蠱惑めいた香りを漂わせ、己のフェロモンとかき混ぜていた。

 女の上品な笑い声と、男の剛毅な笑い声。

 まだ開幕すらしていないというのに異様な空気が漂っている。金魚のひれが揺れるたび薔薇が散り、男はそれを自慢するように笑む。笑って、話し、笑って、話す。その繰り返し。それがいかに狂っていようか。

 捕食者は常に被捕食者を狙っている。

「あんまりきょろきょろするな」

 自分と同じ紫色のドレスを訝し気に見たと思えば、白いタキシードを身に纏った男に顔を顰め、女の耳に揺れるイヤリングを猫のように目で追って。新しい遊び場に来た子供のようなアイリスに、フリードリヒは小さく釘を刺した。

 講堂内に並べられた三つの長テーブル。左から順に、ホストの二親等まで、三親等まで、それ以外という風に着席する場所にはルールが定められており、アレクサンドリア家は三親等に当たるため、丁度真ん中の席に陣取っていた。とは言っても、フリードリヒが直接的に今夜のホストと関わりがある訳ではない。そのため二人は早々に壁の花となるべく、テーブルの最後尾に座っていた。

「いいか。今日の流れを説明するぞ。初めに今夜のホスト、ニケーア殿が息子の十二歳の誕生日に集まって頂いた事に対する謝辞を述べられる。次にご子息がご挨拶をなされ、合図と共に目の前のグラスで乾杯。その後は立食形式のパーティーに移る。このタイミングで料理が運ばれてくるだろうが食べるな。まずは当主に挨拶。これも順番がある。初めに一番テーブル。次に二番テーブルだ。二番テーブルなら順不同だが、それは建前だ。実際は家格によって順番が変わって来る。うちはかなり上位だが、当主でもなければ、次期当主でもない。だから普通より家格が二段下がる。よって挨拶の順番は最後だ。お前は誰に話しかけられても何も言わず、お辞儀をして笑っていろ。分かったか?」

 顔だけは正面を向いたまま、フリードリヒは早口で隣のアイリスに言い聞かせた。それに彼女もまた顔を動かす事無く、視線だけで答える。二人がこの戦場を生き抜く共通認識を得た所で、音楽が流れ始めた。それは一段高くなった舞台の方から聞こえてきた。流麗なクラシックは、重厚でありながら耳を心地よく滑って行く。しかし楽団の姿は見えない。恐らく舞台に引かれた藍色のカーテンの後ろでは、その道のプロたちが汗水流しながら演奏を行っているのだろう。

 緊張感が会場に流れ始めた。喉元までせり上がって来た胃液を呑みこみ、フリードリヒは舞台の方を向く。すると、舞台袖からでっぷりとした腹を抱えた髭面の男が出て来た。それを見て、アイリスが横で呆れたように肩を竦めた。

 男はのしのしと舞台の中央まで来て、マイクスタンドの前に立つ。それと同時に演奏が止まり、予定調和の如く拍手が巻き上がる。男はちょび髭を弄りながら片腕を上げてそれを抑えると、口を開いた。

「えぇ~本日は我が息子、イズニク=ニケーアの誕生パーティーにご参加いただき誠に感謝する。昨今のホフマンは隣国レゲネトとの戦争によって動乱の日々を送っているが、こうして今年もみなの顔を見る事ができ、嬉しく思う。これも皆の努力の賜物だろう」

 彼はにんまりと笑うと、小さく頭を下げた。貴族達は揃って頷く。その姿にアイリスがぴくりと肩を震わせる。

 それからも彼は云々かんぬんと昨今の厳しい情勢について述べ、その後「しかし我らは安泰だ」という事を強調し、「この危機を一丸となって乗り越えるべし!」と、ソーセージのような腕を振り上げた。

 貴族達はそんなちょび髭親父の言葉に深く頷き、時折敵国憎しで眉根を寄せ、と忙しなく表情筋を動かしている。

「さて、年寄りの前口上はこんなものにして、早速主役に登場して貰おう。イズニク」

「はい、父上」

 長々とした挨拶の終わり、仰々しくそう言った男の声に、舞台袖から若いが芯のある声が答えた。その声を聴くや否や貴族たちは一斉に立ち上がり、手を叩き始めた。フリードリヒとアイリスもまた、少し遅れながらも立ち上がり、拍手をする。

 自然と視線が舞台袖へと向かう。

 そこから出て来たのは、端正な顔立ちをした少年だった。短く切られた髪に、優し気な瞳。外見だけなら年相応と言える少年。だが、漂う雰囲気は到底十二才とは思えなかった。貴族という生き物を体現したかのようにゆったりとした佇まいと微笑を湛え、舞台中央、父親の元へと歩いていく。

 彼は父に代わりマイクの前に立った。

「本日は私の十二才の誕生日のためにお集まり頂きありがとうございます。十二という節目の年、これより私はニケーア家次期当主を拝命させて頂く事となります。非常に嬉しく思うと同時、重い責任をひしひしと感じ、上手く出来るのだろうか、父の様に偉大な当主となる資質があるのだろうか。自らに問いかけ続ける日々でございます。更に三年前から始まったスティヴァリ戦線でのレゲネトとの戦い。国内の白盟教徒暴動の鎮圧。ホフマンの雄たる我らディアトロフの地位は揺るぐ事がないといえど、厳しい情勢であるという事は、私のような若輩者よりも皆さんの方が実情をご存知でしょう」

 その言葉に皆が頷く。中には、険しい顔つきで顎を撫でる者さえもいた。フリードリヒも例に漏れず首肯した。そんな首振り人形の群れの中で、唯一アイリスだけが瑠璃色の瞳でもって、イズニクを見つめていた。

「私は無知です。十二の誕生日を迎え、大人に近づきましたが、皆さんと比べたら大きな差があります。だからどうか私を支えて欲しい。未熟な所は多く、若さ故に夢見がちな所がある。貴族の一員として、先輩に教えて頂きたい。身分は上でも、経験は足りないのです。それはお金でも、地位でも買う事が出来ない得難い物です。故に、どうか皆様の知恵をご教授頂きたい! そして、皆でこのディアトロフを良くしていこうでありませんか!」

 声を張り上げ、イズニクは熱く貴族たちに訴えかける。ホール内で反響し降り注いだその声を、貴族たちは熱意と共に受け入れた。彼等が歓声を上げる事はない。だがそれは貴族教育の賜物であって、スティヴァリの兵士たちなら間違いなく、声を上げていた場面だろう。当然、その意味は全く逆だが。

 この会場にもイズニクの言葉を変に捉える異物が二匹。手を叩きながら、冷めた目つきを彼に向ける。

「準備はいいか!」

 彼が舞台上でワイングラスを掲げる。それに呼応して、貴族たちもテーブルの前に置かれたグラスを手に取った。イズニクは満足げに周囲を見渡すと、掲げたグラスを傾け、

「ディアトロフの更なる繁栄と、私が次代の魁と成らん事を期待し、乾杯!」

 その言葉と共に勢いよく飲み干した。

「「「乾杯」」」

 喉音が重奏となって、ホールに響く。乗り遅れた二つの喉音は流れ始めたクラッシックにかき消され、誰の耳にも届かず消えた。

「では、今宵は存分に楽しんでくれ!」

 若干十二才の少年。

 彼が笑ってそう言うと、一斉に音楽が鳴り始め、左端のテーブルに座る貴族たちが動き出す。控え目だった演奏が一段大きくなる。それと同時にメイドたちがワゴンに大量の料理を載せて現れた。しかし誰もそれには目もくれず、イズニクへの賓客の行脚を眺める。

「本日はイズニク様の誕生日パーティーにお招き頂き誠にありがとうございます」

「貴公こそ忙しい中、間を縫って来てくれた事感謝する。今日は楽しんでいってくれ」

「勿論ですとも。では、改めまして誕生日おめでとうございます。些事ですが、後日祝いの品を届けさせますので」

「ああ、ありがとう」

 自身の肩ほどの背丈の少年に、中年の男とその妻がへこへこと頭を下げていた。にこりと悠然とした笑みで少年は、中年夫妻の言葉を受け取っている。夫妻が去り、次に少年の元を訪れたのは髭を蓄えた老人。老人に対しても彼はぞんざいに接し、それに対して誰も何一つ文句を言わない。それどころか「立派に育って……」という感慨のようなものが会場内には蔓延していた。

「私が昔お会いした時は、まだお母様の後ろに隠れているような恥ずかしがり屋だったのに、随分ご立派になられたわ」

「そうだな。これで次代のニケーア家、ひいてはディアトロフは安泰だ」

 アイリスの隣の老夫妻も笑みを浮かべながら揃ってそんな話をしている。

「…………」

「おい」

 じっと彼等を見つめていた彼女を、フリードリヒは小さく制止した。アイリスはそれに気づきハッとした様子で、視線を舞台上に戻す。

 流麗な音楽の中、宗教儀式のように貴族たちは順々に舞台を訪れる。それを教祖たるイズニクは暖かく迎え、そっと手を握り声を掛け――。

 変わり映えのしない動きを二人は黙って見ていた。互いに目配せするような事もなく、無言で頭を下げる大人と、それに笑いかける少年を見続ける。声は聞こえないが、両者の表情で何となく話している内容が伺えた。

 両手を擦り合わせ、あからさまに下手に出る男。それに困った笑みを浮かべる少年。

 目を細めるフリードリヒ。そんな彼に、突然隣から意図せぬ声が飛んできた。

「そろそろ私達の番ね。久し振りねぇ。ヴィルの息子さんでしょう? ヴィルはお元気? 破天荒だから大変でしょう?」

 一瞬硬直するフリードリヒとアイリス。

「……えぇまぁ」

 何とか声を出したのはフリードリヒの方だった。すると彼女は「私とヴィルは幼馴染でね。家柄も近かったから、婚約者候補だった事もあったのよ」と、嬉しそうに笑う。

「そうだったのですか。貴方のような美しい方と一緒になれなかったとは、父も惜しい事をしたものです。豪商たる我が家の唯一の大損でしょう」

 六年ほど貴族の世界を離れたとはいえ、数多の戦を超えたフリードリヒ。口から出まかせがすらすらと飛び出す。

「まぁお上手」

 それが功を奏したのか、夫人は口元に手を当て薄く微笑んだ。

「私は買い物上手なうえに、趣味がいい。万の屑石よりも一の宝石の方がずっと価値がある。妻はどんな高価な石をかき集めても敵わぬ価値を持つ宝石だ」

 隣の夫君は年齢を感じさせない口調で喋り、ニヒルに笑った。歯の浮くようなセリフにも関わらず、彼は恥ずかしげもなくそんな事を言う。そんな夫の腕を取り、婦人も笑む。夫の方へ僅かに浮いた顎と、細められた小皺の多い眦。何も言わずとも、その心持ちは明らかだった。

「父はどんな石よりも大切な石を逃したようですね。不愛想な父の事でしょうから、アタックが足りなかったのでしょう。嘆かわしいものです」

 やれやれといった調子でフリードリヒは手のひらを上に向け、目の前の粋な夫君と違い常に無表情な父の姿を思い浮かべる。

「不愛想?」

 しかし夫君は彼の言葉に違和感で応えた。

「ヴィルが不愛想だなんて馬鹿な。あいつには煮え湯を飲まされてばかりだった。ヴィルが二つばかり年上だったばかりに、私はやれ木登りだ、冒険だ、祭りだと振り回され、家庭教師と父に怒られたものだ。あいつは上手くやったからいつも逃げて、怒られる私を見て笑っていた。そういう意地が悪い奴だ、ヴィルは」

 口をへの字に曲げて夫君は忌々し気に吐き捨てた。それを夫人は苦笑いでなだめる。

「なんだかんだ言って貴方も楽しんでたじゃない。今日はヴィルと祭りに行くんだーって私に自慢げに仰ったりして。あの時の貴方は可愛らしかったわ」

「昔の話だ」

 一層仏頂面になって、夫君はそっぽを向いてしまう。楽し気な夫婦の会話。

「まさか父がそんな少年時代を過ごしていたとは驚きです。家では常に厳格で、一家の当主をやっているものですから」

 それに混ざるようにして、違和感を押し殺しながら彼は笑った。

「あいつはなんだかんだ見栄っ張りだからな。息子の前だと気を張っているのかもしれん。今度会った時、こう言って見ろ。「街に降りた時、金の存在を知らずに万引きをして捕まった事があるよな」と。未だにヴィルにこの話をすると、真っ赤になって怒るからな。息子に悪行を知られていい気味だ」

 高らかに夫君が笑う。そんな彼の脇を小突きながら、夫人はため息を吐いた。

「ほんとこの人ったら子供でしょう? もういい歳だっていうのに」

「私はまだ現役だ。家督を譲るつもりはない」

「そんな事言っちゃってまた。私は早く引退して、貴方とヴィニア湖の別荘で隠居したいのに」

 少女のように頬を膨らませた夫人に、夫君はたじたじで必死に言い訳を募っている。それから逃れるように彼はフリードリヒに水を向けた。

「ヴィルの所はどうだ? 確か貴君の兄が継ぐのだろう?」

「そうですね。父もそろそろ引退でしょうか。兄も随分育ってきましたし」

「確か兄君は国務長官だったか。若いというのに素晴らしい。アレクサンドリア家は安泰だな」

「いえいえ、我が家など貴方様に比べればまだまだ」

 二人は顔を見合わせて笑う。

「ところで、貴君は確か軍属だったな。今日は当主代理との話だったが、忙しくはないのか?」

「――生憎、私には才能がなかったもので。楽な部署で甘えさせて貰っています」

 着々とイズニクへの巡礼の列は進んでいる。あと二、三分もすれば二人の番だ。彼の額に汗が伝う。軍属は詰められると辛い所だ。貴族で前線の一兵卒などありえない。アイリスは「軍属」の部分でぴくりと反応したが、動こうとはしない。あと数分をいかにして切る抜けるかが肝だった。

「そうか? ヴィルは剣術も軍略も成績トップだった。君の謙遜が過ぎるだけではないか。世界は広いが、全貌を見渡す必要はない。自らの世界を覗けばよい。父と比べ、兄と比べ、自分を卑下する必要はないのだぞ。後方でしっかり学べ。軍の指揮とは経験によって培われるものだからな」

 フリードリヒが軍属である事は知っていても、どこに所属しているかは知らなかったのだろう。案の定、後方指揮部隊だと勘違いした夫君はそう言って彼を慰める。

「はい。肝に銘じておきます」

 焦りなど顔に出さず、殊勝に頷く。

「ヴィルの息子にそんな説教必要ないわよ。あの人を手懐けるのに慣れてるんだから。下手な子供よりも子供よ、ヴィルは。本当によくリズは彼を御せるわね」

 コロコロと夫人は笑う。白髪に生花を飾り、歳を感じさせぬ少女めいた笑みを浮かべる。

「リズ――というと母の事でしょうか?」

 時間稼ぎに光明の兆し得たりと、フリードリヒは前のめりになって問いかけた。それに夫君は遠い目をして「あれはいい女だった……」としみじみと呟く。

「もう。そんな事言って」

 背中を叩き、夫人は唇を尖らせる。

「リズは本当に優しくてね。学院で落ちこぼれだった私をよく気遣ってくれたものよ。ほら、私って座学は得意だけれど、花嫁修業とかって苦手だから」

「誰もお前の花嫁修業の話なんざしとらんだろう」

 呆れたように夫君がため息を吐いた。それに対し「細かいですねぇ」と再び夫婦漫才が始まる。それを後目に、フリードリヒは立ち上がった。それに続き、アイリスも席を立つ巡礼の番はすぐ目の前。今の内に逃げてしまおうと、彼は席を立ち「では、順番ですので失礼します。本日は楽しかったです」とにこやかにそう言った。

「あら、そうね。私も久し振りに若い人と話せてうれしかったわ」

 夫人はお淑やかに微笑む。夫君は小さく頷いた。二人は去り際、小さく会釈し――。

 その瞬間、金糸がひらりと彼等を包んだ。

 戦場の残り香。

 それはアイリスの短い髪。

 付け毛が外れ、ぽとりと会場に落ちる。

 女の命が儚く散る。

 ハーフアップを留める淡雪の花が、するりと溶ける。

「あっ」

 グロスの塗られた唇から小さな声が漏れた。アイリスは慌てて付け毛を拾う。しかし時すでに遅し。散った花を手土産に会場を訪れたフリードリヒに、夫妻の厳しい視線が刺さる。

「彼女は?」

 粛々と、夫君が問いかける。糾弾するような口調。何と答えればいいのだろうか? 彼はちらりとアイリスを見遣る。おろおろとする夫人。両者の間に静寂が落ちる。イズニクと巡礼者の会話、それを彩る楽団の合奏。優美な空間。

 だが突如ピアノの鍵盤が強く叩かれた。世界の崩壊。転調。曲調が激しくなる。

「はじめまして、夫君。私はアイリス=テレジアと申します」

 何も言わぬフリードリヒに代わり、彼女はドレスの裾をそっと摘んでカーテシーを返す。お手本のような挨拶。貴族女性と比較しても瑕疵のない、優雅なもの。だが足りない。礼儀でも、容姿でもなく、ある決定的なものが足りない。根幹が足りない。

「テレジア? そんな家は聞いた事がないが」

「失礼」

 彼は老人の問いに答える事無く、逃げるように背を向けた。

「行くぞ」

 アイリスは困ったように両者を見合わせた後、フリードリヒの方へ小走りで向かう。老夫婦が二人を追ってくる事はなかった。慣れないヒールが床を打つ。なぜ不興を買ったのかが、彼女には分からない。カツカツという異分子が混じる。他のどこでもその音は鳴っていない。貴族女性は皆ヒールを履いている。それもアイリスが履いているものよりもずっと高いものを。だというのに、靴音を立てる者などいない。

 それがアイリス=テレジアに足りないもの。礼儀でも、容姿でもない。靴音の有無が、その差異を生み出した根源が足りない。生き物が分類分けされて、両生類と鳥類が子供を成せぬように、貴族と庶民は違う。優し気な老夫婦でさえ、その差異は覆らない。彼等はフリードリヒは幕僚で、後方で上司の元についているのだと信じている。魚が泳ぐように、鳥が空を飛ぶように、貴族は後方で指揮をしているものだと信じている。

 フリードリヒは音を立てないようにひっそりと歩いてきたアイリスの手を掴んだ。そして、落ちてしまった付け毛をそっと付け直す。

 視線を下に、彼女は寂しそうに俯く。エスコートするように彼はアイリスの手を引いた。周囲は彼等などいないように扱う。壁の花どころか、シミですらない。気に留められる事などない。騒めきの中に消えて行く。存在が消えて行く。

 そしてとうとう見えなくなった。

 

「へぇ、エリアス殿に弟君がいらっしゃるとは寡聞にして知りませんでした」

 挨拶を済ませた二人に対するイズニクの第一声はそんなものだった。彼は続けて「エリアス殿には色々と教えて頂きお世話になっています。現在はスティヴァリ問題で、レゲネトに出張でしょう? そんな中、代理として出席して頂き感謝します。今夜はお連れ様と一緒に楽しんでください」

 アイリスが頭を下げる。特に何かを掘り返すでもなく、彼との話はそれで終わった。

 ひとまず仕事は終わったと、フリードリヒは安堵の息をついた。アイリスはそれを見逃さず、テーブルに運ばれた豪勢な食事を指さし「あれ食べていいですか?」と呑気に目を輝かせている。子供のような彼女に許可を出す。すると彼女は小走りでテーブルに向かい、メイドから皿を受け取って、鳥の香草焼きやら南国のサラダやらを目一杯皿に盛り付け始めた。

 ワイングラス片手に貴族達は談笑に勤しんでいた。巡礼はもう終わったようで、会場内はリラックスムードに包まれている。アイリスが気持ち小走りでフリードリヒの横に戻って来た。皿に載せられているのは目に鮮やかなローストビーフと鶏の香草焼き、南国の野菜で作られたサラダ。彼女は意気揚々とフォークをローストビーフにぶっさし、食べ始めた。 パーティーは立食形式だ。立ちながら食べる事を咎められる事はない。にしても、彼女の食べ方は美しさに欠けていた。

「もうちょっと優雅に食べろ」

 もっきゅもっきゅと口を動かすアイリス。

「これ、美味しいです」

 どや、と彼女が決め顔で言い放ち、再び口を動かし始める。

「だろうな」

 ウサギのようにサラダを頬張るアイリスを見ながら、嫌味っぽく吐き捨てる。しかし、そんなのは些事とばかりに、彼女は今度は香草焼きに手を付け始めた。

 目を見開いたアイリスから視線を外し、フリードリヒは周囲を見渡す。巡礼という秩序を失った会場で、貴族たちは揃って酒を飲み、腹を叩き、料理に舌鼓を打っている。賑やかな話し声がこだまする。それを都合がいいと思いながら、彼もまた料理を取ってこようとテーブルに近づく。

「まだ戦争は終わらんのか」

 だが料理には毒が混じっていた。

「ああ。無能な軍部のせいでな。今、アレクサンドリア殿がレゲネトに交渉に行っている頃だ」

「あの若造か。貧乏くじを引かされたものだな」

「我らはあやつの父に散々煮え湯を飲まされたのだ。せめてそれくらいの損はして貰わねば」

 三人の哄笑。

 揃いも揃ってでっぷりとした腹。全員が指輪を嵌め、腕輪をし、権威の象徴である髭を蓄えている。それが彼等の間でのステータスなのだろう。黙ってフリードリヒはメイドから皿を受け取り、トングで料理を盛る。

「スティヴァリなんて何もない土地。別にいらんだろう。戦争が始まって、既に三年。儂はもうあそこから撤退しておるし、デメリットはない。北方のあんな辺鄙な土地、なくなっても商業にさしたる影響なんぞない」

「何をいまさら。スティヴァリを堅守しておるのは、ディアトロフの意地よ。レゲネトなぞという異教徒集団に敗れたとあれば、我らホフマンの雄の名折れ。これは名目戦争よ」

「そうであるぞ。あんな蛮族に土地を明け渡す訳にはいかん」

 半分ほど皿に料理を盛った。

 そしてそこで止めた。

 彼はトングを静かにその場に置き、くるりと踵を返す。後ろでは未だに貴族たちが騒いでいる。

「早く戦争が終わらんかなぁ。そうすれば儲け時だ。利権戦争が始まるぞ。レゲネトの関税権を奪い、最恵国待遇で新商品の絹をかの国へ大量に輸出してやるというのに」

「お、それはいいな。我らで産業を潰してやりますか」

「潰すような産業もありゃせんだろ」

 再び哄笑。

 同じようなやり取りが、この会場では至る所で繰り広げられているのだろう。

 フリードリヒは速足で、自分を待つ少女の元へ駆け寄った。

「アイリス、行くぞ」

 腕を引き、自分ほど擦れていない彼女を違う場所へと誘導しようとする。

「それだけでいいのですか?」

 アイリスはそんな意図など知らず、未だに口を動かしていた。化粧もして、ドレスも着させられているのに、間抜けなその顔。

「ああ」

 そんな彼女に彼は思わず苦笑した。

「何がおかしいのですか」

 その反応が気に入らなかったのか、眉を寄せて彼女が言う。それには答えず、ただ手を引く。

「何かおかしいですか」

 先ほどよりも語気を荒げるアイリス。

「何でもない」

「何でもない事ないですよね」

 訝し気な彼女。細められた瞳から瑠璃色が覗く。

「そのままの意味だ」

 ぶっきらぼうにそう答えた。それが気に入らなかったらしく、彼女はむっと唇を尖らせる。

「先輩も変わらないですね。きっちりとした恰好をしても、アホ面は変わりません。もう少しキリっとした顔つきだったらドキッとしたかもしれませんが、興ざめです」

 彼女は言うだけ言い、憂さ晴らしとばかりに香草焼きを口に放り込もうとしたが、いつの間にか皿から料理はなくなっていた。

「新しいの貰ってきますね」

 不満気な様子を隠そうともせず、アイリスはそう言ってテーブルへと向かう。少し小さくなったヒールの音を携え、彼女がするりと抜けて行く。新たな料理を求め、フリードリヒの眼前を抜けて行く。まるで花畑でスキップをする麦わら帽子を被った少女のように、アイリスは往く。

 無邪気に、無垢で悪意など知らぬかのようにテーブルへと向かう。先ほどフリードリヒが引き返して来た、まさにそのテーブルへと向かっていく。その横に立つ貴族など彼女の眼中にない。あるのは料理だけだ。だが、少女の前に差し出された料理にはお決まりの鉄則がある。御伽噺の林檎にはいつも毒が混ざっている。

 相変わらず三人の貴族達はテーブル近くで毒を振りまいていた。酒が回ったせいで気が大きくなったのか、先ほどの物よりずっと汚い毒をまき散らしている。スティヴァリがどうの、兵士たちは使えないだの、不景気で商品が売れないだの、そんな毒を吐き散らしている。

「おい!」

 フリードリヒは思わず声を上げ、彼女に近づいた。しかし宴もたけなわ、周囲も騒いでいて、それがアイリスに届く事はない。今まで二人の存在を覆い隠していた笑い声が、強大な壁となって立ち塞がる。そして、彼女はテーブルに辿り着く。仄かに気分を高揚させトングを手に取り、どれにしようかと料理皿を前に目を輝かせ――

「いま、なんといいました」

 皿にサラダを載せた所で、盛られた毒に気が付いた。

 

 シンと会場に雪が舞い降りたようだった。全ての音を呑み込む冬のスティヴァリの深雪。それがパーティー会場に再現されたかのような静けさ。フリードリヒは気狂い染みた酔っ払いと、香水の匂いに包まれた会場が、一瞬で変容した事を肌で感じる。

 実際はそんな事はない。相変わらず楽団はクラシックを木偶の坊のように奏で、貴族達は至る所で自らの権力を誇示し、人形のように着飾らせた妻を見せびらかし、それらで気を良くして酒を煽っている。笑い声が絶えぬ、理想的なパーティーだ。

「いま、なんといいました」

 紫のドレスを身に纏い、金糸を結い上げ、凛としてある少女の存在する一角を除けば。

「なんだぁ、お前。女の癖に生意気な奴だな。俺の言った事に口を出そうって言うのか」

 赤ら顔で腹の出た男がアイリスに向かって、唾を飛ばす。それに続き、兄弟のような体形をした二人も「そうだ! そうだ!」と唾を吐く。

「私は『いま、なんといった』と聞いたんです。誰も『生意気な奴は喋るな』なんていうくだらない答えは求めていません」

 氷雪。

 刹那、吹き荒れたそれに三人が怯む。だが恐れを知らず、酒により箍が外れた彼等は、アイリスの放つ空気に物怖じせず、それどころか怒りで目を吊り上げた。

「お前、俺様がどこの産まれだか知って言ってんのか! 俺はディアトロフ西部ベルンブルク商業圏の長、クズネロス家の長男レグルス様だぞ! お前みたいな賎女、売っぱらっちまう事だって出来る。血統書付きだ。さぞ高く売れるだろうな!」

 仲間の顔を見渡し、レグルスは低俗な笑い声を上げた。にやにやと取り巻きの二人も厭らしく目を細める。

「金がいくらあっても、好きに出来ないものはありますよ」

 胸や尻に向けられた視線に嫌悪感を露わにしながら彼女は答えた。未だに氷嵐が止む事はない。

「すみません。うちの連れが。後でよく言って聞かせますので」

 両者の間にフリードリヒが割って入る。だが一歩遅い。開戦の火蓋は既に切って落とされている。

「じゃあ言ってみろ。金があれば、お前は買える。どこの家の産まれか知らんが、俺の見た事のない顔だ。大した家柄じゃあるまい。下級貴族程度、大金を積まれたうえクズネロス家に恩を売れるなら、娘くらい簡単に差し出す」

 「そっちの男も大した家柄じゃないだろ」と彼はフリードリヒに顎を向けた。彼は答えるべく口を開く。だがそれよりもアイリスが話し始める方が早かった。

「例えば、いくら金があっても戦争には勝てません。兵がいなければ勝てない。兵器がなければ勝てない。それらを買おうにも、売り手がいなければ買えない。お金を払って許して貰おうにも、相手が求める物が領地や権利ならば、それは叶わない。真の、戦って勝つならば、策とそれを実行する兵と道具。この三者が揃わなければ戦争には勝てない」

 毅然とした目つきで彼女はレグルスを睨む。

「貴方はそれを知らない。だから『戦争で死んだ兵の補償なんか国庫の無駄だ』なんて言えるんです。彼等は貴方達を――ひいてはこの国を守るために死んだ。その覚悟を、想いを、汲み取るための補償を無駄だと言った」

 アイリスの歯が擦れる音をフリードリヒは聞いた。

「無駄に決まっているだろう。そもそも誰がこの国を守ってくれなどと頼んだ。俺達が頭を下げて、どうかディアトロフを守ってくださいなんて口にしたか? いいや、してない。なら、奴らは勝手に戦地に行って、勝手に死んだ。それだけの事だ。自業自得だぞ。そんな奴らに何故俺たちの金で補償などしてやらねばならん。昨今は貴族に課せられる税は重くなるばかりだ。実にくだらん」

 彼は右手に持ったグラスを揺らし、一気に飲み干す。そして傍らに控えたメイドから新たなグラスを受け取ると、満足気に微笑んだ。

 周囲は異常に気付いた様子もなく、恙なくパーティーは進行している。主役のイズニクは大人たちに囲まれ何事かを話し、その隣には婚約者と思しき少女が控えている。彼女はトレンドらしく紫のドレスを着て、黙って男たちの話を聞いていた。

「そもそも兵力なぞ傭兵でも雇えばいいのだ。幾らでもやりようはある。命は金で買える。補償とは命を金で買う行為だ。死ぬ代わりに、金を払う。ただそれだけの事。貧乏人はそうやって生きるのだ。産まれた時に、金を得るため働いて死ぬ事を定められる。それが彼等に出来る最大の社会貢献だからな。俺たちのような貴族とは産まれが違う。俺たちは稼いだ金で都市を経営し、治安を維持して、市民という金蔓を守るのが仕事だ。戦争で死んだ兵士に対価以上の余分な金を払うのが仕事じゃない」

 アイリスの歯音が大きくなる。一方で、興ざめしたのかレグルスはどんどん冷めていく。それは取り巻きの二人も同じだったようで、先ほどまで彼女に向けられていた下品な目つきは失われていた。

「一度失ったら戻らないんですよ、命は。兵士はチリ紙じゃないんです。お金がなくて、お母さんを助けたくて兵士になる子がいました。彼はシュレイガーにやられて死んだ。歌を歌うのが好きな女の子は、戦場でも歌を歌って皆の光になって死んだ。みんな生きてたんです。それなのに――それが本意だったと、産まれながらに定められた運命だと、貴方は口にするのですか」

 握られた小さな拳は震えていた。両者のやりとりを黙って見ていたフリードリヒは、彼女の手をそっと握る。小さな手だ。けれど決して柔らかい手ではない。それは戦場を知っている手だ。数々の命を奪い、看取り、救って来た手だ。

「まるで見てきたように言うんだな。いや、慰問か何かで見に行ったのか? ご苦労な事だ。孤児院に行ったのか、戦場病院に行ったか知らんが、何かが出来た訳でもあるまい。精々、クッキー缶でも渡すのが関の山だろ。お前も貴族である以上、金を払って命を買ってるんだ。偽善者ぶるのは止めろ、下級貴族。生活もそう裕福ではあるまい。もし補償用の追加徴税がなければ、ネイルも塗れただろうに。可哀想な事だ」

 彼はアイリスの爪を見て鼻で笑った。

 相変わらずクラシックは流れ続ける。同様に、今こうして二人がパーティーに出席している間にも、スティヴァリでは戦いが続いている。そして、会場の傍らで舌戦を繰り広げても気にも留められないように、スティヴァリで死人が出ても気にも留められない。

 両者に違いがいかほどあろうか。

 それはアイリスが一番よく知っている。誰よりもスティヴァリの人々を観察し、愛した彼女が知っている。その愛と事実をフリードリヒは生で読んだ事がある。

「見てきました」

 雪が降りる。

 ふわふわと、彼女の髪を纏める花のような淡雪が降りる。淡いピンクが世界を染める。パーティー会場の一部、狭い一角。そこに顕現したのは、先ほどのような怒りに満ちた氷雪ではない。全てを包む、桜の花弁のような温かいもの。

「私は見てきた。だからこそ許せない。彼等の命は金で買えない。買えないけれど想いは示さなくてはならない。報いなければならない。この国で暮らす以上、彼等に多大なる恩がある事を自覚せねばならない」

 レグルスの冷めた目つき。いくら温かくても、熱湯ではない。じんわりとした温かさでは、底冷えする闇を癒す事は出来ない。

「けれど万の言葉を尽くしても、貴方は考えを変える事がないでしょう。それはもう分かります」

 「だから」とアイリスは小さく呟いた。彼女の手を握っていたフリードリヒの手が振りほどかれる。

「いいぞ」

 彼はそう言った。彼女は何も言っていない。けれどフリードリヒにはアイリスが何をしたいかすぐに分かった。命は金で買えない。思い通りにはならない。レグルスに何を言っても、アイリスの思想を理解出来ないように。思想と命は金で買えない。

 ならば。

 和解不可能で、衝突が避けられず、言葉を尽くしても理解される事のない相手には。

『貴族』という二人とは決定的に違う生き物。

 握られた手。小さな、固い、儚く華奢な手。それが振りかぶられる。彼女の意思を体現するが如く、込められた力で小刻みに震えている。直感で危機を感じたのか、レグルスが思わずその場から飛びしざった。着地の衝撃でワイングラスから酒が零れる。

 ようやく異変を察知した会場がどよめきに包まれた。

「なにがあった」「喧嘩か?」「おいおい飲み過ぎるなよ」「またクズネロスの馬鹿か」

 飛び交う言葉。レグルスを守るべく、取り巻きの二人が飛び出した。同時に衛兵も向かってくる。

 だがそれはもう遅い。音の速度よりも、目の前に障害物が立ち塞がる速度よりも、アイリスの疾駆の方が速い。飛び交う銃弾の中を駆けた少女の方が、腑抜けた生き物が出す音よりもずっと速い。

 そして、その勢いでもって戦場を抱く少女は、貴族という相容れぬ生き物を殴り飛ばした。

 吹っ飛ぶレグルス。

 激高する取り巻き。

 他の貴族たちの悲鳴に、衛兵たちの怒号が混じる。

 フリードリヒは彼等がアイリスが襲い掛かるよりも早く、彼女の腕を引いた。

「えっ、先輩」

 覚束ない足取り。ヒールでは上手く走れないのだろう。つんのめりながら彼女は床を踏む。彼が後ろを振り返る。アイリスの後ろから衛兵と取り巻きが迫っている。

 小さく舌打ちをして、フリードリヒはその場で急停止した。慣性に従ってアイリスが彼の胸にぶつかる。衝撃で彼女の体が宙に浮かぶ。

「くへ」

 聞き慣れぬ声。宙に浮いたアイリス。だがそれが地に叩きつけられる事はなかった。

「揺れるぞ。しっかり掴まってろ」

 横抱きに彼女の体を持ち上げる。首に細い腕が巻かれた事を確かめ、フリードリヒは全力で走り出した。アイリスの体は羽のように軽く、戦場で鍛えた彼の体にはまるでどこかに飛んでいってしまいそうに感じられる。

 遠ざかっていく喧噪。

 腕の中に抱えた少女を飛んでいかないように強く抱く。

「ふふふ」

 アイリスは飛ばされないように強く首を抱きしめた。

 

 夜十時、薔薇園の中に隠れた二人はこっそりと顔を出した。薔薇園は足元に誘導灯が灯っているだけで薄暗い。自慢の薔薇は月明りに照らされて輝いている。。

「すみません先輩。問題を起こすなと言われていたのに」

 彼の隣、アイリスは俯き小さく零した。

 あれから会場は大騒ぎになり、何人もの衛兵が捜索に駆り出された。今は巻いたようだが、再び追ってこないとは限らない。

「構わんさ」

 しゅんとして頷いた彼女の頭をフリードリヒはそっと撫で、付け毛を外した。元の少女に彼女は戻る。しっぽ髪の少女に戻る。月が金糸の髪を美しく照らした。

「少し歩くか」

 彼は彼女の手を引いて、誘導灯に従って歩き出した。夜風が数多の薔薇たちを揺らし、散った花びらが石畳に回る。赤に白、ピンクに黄色。薔薇たちはまるで二人を歓迎するかのように、夜にもかかわらず咲き誇っている。それが、戦場にはないそれらが、フリードリヒには輝いて見えた。月光に照らされ輝くそれらが、自らで発光しているのではないかとすら思えた。

 薄い笑みを浮かべてそれらを眺めるアイリス。細められた目。紅潮した頬。少女色のグロス。彼はきゅっと彼女の手を握った。

 薔薇たちに向けられていた視線が斜め上に、フリードリヒの方に向けられる。それと同時に、その瞳には疑問が溶けている。

「せいせいしたな」

「え?」

 彼女の瑠璃を見つめて、フリードリヒは話し始めた。

「親父はよく分からん。あの人は常々、アレクサンドリア貴族としての品格を口にしていた。だが、そんな父も幼い時は無邪気なクソガキだった。なら、本当の父はどこにあるんだろうな」

 ひゅるりと夜風が抜ける。掴めない。それは抜けるだけだ。通り道にあるものを揺らし、散らし、寒さや心地よさを与え。それだけの存在。実態はない。どこから吹くのか、分からない。けれど風は吹く。月光の元、薔薇たちを揺らす。アイリスのスカートを揺らす。

「母も、父をよく抑えていると言われていた。でも俺の記憶にある母は威張り散らす父の横でいつもにこやかに微笑んでいたよ。父を抑えてなどいなかった」

 俯く。誘導灯がこれから先の道を指し示す。美しき薔薇園の鑑賞コースを蛍火が彩っている。けれどそれは昼になれば消えてしまう。見えなくなる。明かりに照らされ、実在が虚ろとなる。

「だがあの老夫婦は父は破天荒で、母はしっかりとした人だと言った。まるで理想の夫婦のように語っていた。俺にはとてもそうは思えん。そんな印象を抱いた事はない。どっちが本物なんだと、愕然としたさ」

「失望しましたか?」

 そんな彼の左手に確かな感触。それはアイリスが彼の手を握り返した感触だった。

「失望?」

 思わず彼女の方を見る。相変わらずの不愛想。笑っている訳でもなければ、勝ち誇っている訳でもない。いつもは不快なそれが、今の彼には心地よかった。

「ええ。敵で、憎むべき相手だと思っていた相手が実はそうではなかったと知って」

「別に昔から親父は敵じゃない。ただそりが合わなかっただけだ」

「先輩はそうでしょう。けれどそれは諦めです。そりが合わない、ではなく向き合わなかっただけでは? 知らない顔があったとはそういう事です。当然、誰しもが気が合う訳じゃありません。皆の事を理解出来る、そして理解し合える、そんな言葉は幻想です。傲慢ですらあります。人間は個人の奴隷じゃない」

 そこでアイリスは言葉を切った。彼女の主張を、彼女らしいとフリードリヒは思う。手帳に綴る想い。忘れぬように刻む記録。消えぬように慈しむ戦場で生きた人の魂。戦場で生きた彼等。戦場で散った彼等。彼等はたとえ抗いようのない場所であったとしても、皆が皆「らしく」死んだ。国の、上司の奴隷ではなく、個人の意思に基づいて死んだ。

「ですが、分かり合おうとする事は間違いではありません。皆仲良くは幻想ですが、望ましいからこそ幻想と呼ぶ。貴族主義の父親に、貞淑な母親。先輩はどう相対しましたか?」

 尋ねてくる。

 フリードリヒはふと顔を上げた。夜闇には満月が煌々と輝いている。それをずっと見ていると周囲の綺羅星が見えなくなる。きっと人生とはそういうものだ。月の周りに星がある事を、言われなければ気づかない。

 しばらく無言のまま、誘導灯に沿って歩いた。薔薇の色がピンクから徐々に赤に変わっていった。落ち着いたものから、燃えるようなものに変わっていた。屋敷の方に近づいたのか、楽団の音が漏れ聞こえている。パーティーはダンスタイムへと移ったのか、クラシックではなくワルツが流れていた。

 何気なく口を開こうとしたその瞬間。

 衝撃。

 鼓膜が痺れる。あまりの音圧に、砲撃かと咄嗟に二人は地面に伏せた。だが着弾音は聞こえない。代わりに聞こえてくるのは優しい音。屈みながら奇妙だと首を傾げる。おそるおそるアイリスが空を見上げ。

「私達は随分遠くに来てしまったようですね」

 空に咲くは、数多の花。砲撃音と思っていたのは打ち上げ花火の発射音で、空を楽団の音楽に合わせ彩っている。

 衝撃、柔音。衝撃、柔音。その繰り返し。単調なそれが生み出すは、閃光の花。咲いては散り、咲いては散り。瞬撃の芸術。儚い命。

「そのようだな」

 くすりと微笑んだ彼女と目を合わせた。スティヴァリで砲撃が日常であるように、アイスクレスでは花火が日常なのだろう。それは互いに非日常で。

 笑い声がこだまする。悲鳴がこだまする。衝撃が人を散らす。衝撃が人を沸かす。

 こんなにも世界は繋がっていて、両者はひどく残酷だ。どちらかが別たれていたらどれほど幸せだったろうか。知らない方が幸せな事は世の中に往々としてある。

 アイリスは花火を目を細めて見つめている。

「お手をどうぞ、お姫様」

 そんな彼女にフリードリヒは膝まづいて手を差し伸べた。気障ったらしいセリフと共に、仰々しく手を差し伸べる。ワルツが遠くで鳴っていた。それもれっきとした非日常で。アイリスはきょとんとした後、ふっといつもの馬鹿にするような笑みを浮かべ――そっと彼の手に自らの手を乗せる。

 白皙の頬。そっぽを向いた少女。けれど耳は熟した林檎のように赤に染まっていて。

 遠くで残響のような笑い声が聞こえた。だがそれは掻き消される。花火の音と、楽団の演奏で消される。どす黒い物が儚い命に殺される。汚い物は上書きされるからこそ、汚く在れる。

 すっとフリードリヒは立ち上がった。遠い音楽。誰もいない薔薇園。見ているのはすぐに死ぬ花火と、いつか欠けゆく月。消えてしまうもの。

 腕を高く上げ、同時に右足を引く。アイリスが半身を寄せ、それから逃れるように今度は右足を一歩前に。それを繰り返し半周する。互いの位置が入れ替わる。

 誰も見る者はいない。

 二人だけのパーティー。

 二人だけのワルツ。

 花火の音。流れる音楽。笑い声。静寂とは程遠い。けれどそこには静寂が満ちていた。そこは確かに二人のためだけに誂えられた空間だった。

 くるりと、回る。

 紫色のひれがゆらりと揺れる。金の髪が流れる。香水の香りはしない。戦場の血と汗の臭いもしない。ただ柔らかな花の香りだけがある。

 しばらくそうして踊っていた。馬鹿みたいに回って、ハイヒールなんていう慣れない物で地を踏んで、互いに見つめ合っていた。

 フリードリヒが右手を高く掲げる。アイリスの手も上がる。繋がれた手。彼女の手は少しひんやりとしていて、夜風に晒され続けたのかもしれない。

 それを示すかのように、ずっと鳴り続けていた花火の勢いが殺されていく。

 物事には終わりが定められている。存在する限り永遠なんてものは有りえない。そしてそれに価値はない。

 最期には。

 砲撃音が重なる。多段式に階層式に一斉に。空に向けて一輪の花を打ち上げる。空に咲いた花で月が見えなくなった。アイスクレスとディアトロフを結ぶ唯一が消失した。ばばばという火花の炸裂音。視界がスパークする。金の髪が水面のように乱反射し、睫毛に縁どられた瑠璃色の瞳が見えなくなる。

 フリードリヒは思わずそれに眼を奪われて。

「手紙を出すさ」

 足は止まっていた。ワルツはまだ流れている。まだ終わっていない。じきに終わるだろうが、まだ終わっていない。けれど、ふと彼は足を止めて、そんな事を言っていた。そして何気なく、自分の胸の中にいるアイリスへと視線を落す。

 藍。

 花火は終わった。

 火花は消え、彼女の金の髪は元の落ち着きを取り戻している。衝撃もなくなった。元の欠けゆく月が空で自己を主張している。そんな中でフリードリヒの目を射止めたのは、アイリスの眼窩に嵌まったラピスラズリだった。深い藍、中で輝く金色の意思。

「それがいいですよ! 先輩!」

 白い歯。にっこりと笑う少女。その耳に揺れるサファイアのイヤリング。幾らするのか途方もないそれ。だがそれよりも美しいのは対のラピスラズリ。金の玉座に嵌められて、見る者全てを魅了する。

 アイリス=テレジアはにっこりと子供のような顔をして笑っていた。

『万の屑石よりも一の宝石の方がずっと価値がある』

 夫君はそう言って笑った。

 その意味を彼はこの時真の意味で理解した。

「どうしたんですか?」

 顔を寄せ、アイリスは首を傾げる。それにフリードリヒは何も言えなくなる。

「本当にどうしたんですか先輩」

 訝し気な目。けれどそれに何も答えられない。今までは何も意味しなかった瞳が妙に艶めいて見えて、正面から覗けない。

 彼女は眉間にしわを寄せ、握り合っていた手を解いてしまう。ひんやりとした感触が失われ、手の中に生まれた空間に風が吹く。名残惜しさでフリードリヒは思わず小さく声を上げた。

 でもそれは形にならない。

 歯が唇の裏に張り付いて離れない。上手く言葉が出てこない。アイリスを褒める言葉も、逆に厭う言葉も、揶揄いの言葉も、何も出てこない。

 代わりに出てくるのは、心拍音。激しく胸打つ鼓動が言葉の代わりにどくどくと体外に流れ出す。口の中はべとべとして相変わらずだ。

 気持ちを落ち着けるために、フリードリヒはポケットから煙草を取り出した。

「またそれですか」

 呆れたようなアイリスの声。

「こんな時くらい吸うのを辞めたらどうですか?」

 うんざりといった彼女の表情。そこで彼は口の中のべたつきと、心臓の動悸が煙草のせいだと気が付く。

 火をつける事無く人差し指と中指の間から、ぽとりと煙草が零れ落ちる。そしてそれを踏みつけた。

 アイリスの満足気な顔。

 金と藍が混じり合う。

 それを見て、フリードリヒは薄く微笑んだ。

 

 すっかり夜は更け、フリードリヒはアレクサンドリア家の別邸にいた。静まり返った邸宅。 隣室にいるはずのアイリスは物音一つすら立てず、使用人も誰一人姿を見せない。 薄暗い部屋の中、枕元に置かれた照明だけがぼんやりと光っていた。与えられた自室、だ だっ広い部屋で、彼は一人、ベッドに腰かけていた。冷めぬパーティーの余韻。焼き付いて 離れない二対の宝玉。 フリードリヒは手の中にあった小さな箱をじっと見つめ、ゴミ箱に投げ捨てた。乾いた音が鳴る。箱の表紙には『cigarette 』と書かれていた。

 そして、スヴェンのカメラで隠し撮りした一枚の写真を眺める。そこに映っているのは銃を構え、敵を狙う金の少女。藍の瞳は一心に敵を捉え、薄紅の唇は固く結ばれている。

 戦場の風景。

 フリードリヒは悪戯で撮ったそれを見て自嘲したように笑い、後に歯を固く噛みしめた。その写真を自らの胸にしまう。流れるようにベッドに潜り込む。

 捨てられた煙草はゴミ箱の中でひっそりと息づく。だがその声は誰にも届かず。

 彼はその日、煙草を辞めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 断節 アイリス=テレジア

 

 彼女から「医者を救ってくれ」と言われた時の衝撃は途方もないものだった。俺はそんな大それた事をした事もなければ、願った事もない。断ろうとしてもアイリスは引き下がろうとしない。困った俺は「対価として何か差し出せ」と言った。

 そう言えば断るだろうと思ったのだ。

 アイリスは孤児で、金もあまり持っていない。俺が満足するだけのものを差し出せるとは到底思えなかった。だが事もあろうにあいつは自分を差し出すと答えやがった。それが何を意味するか分からない奴ではなかろうに。

 貴族に飼われる人間は無様だ。まるで人ではないかのように扱われる。男ならば重労働や見せ物に、女ならば慰み物にされ、子供は小間使い。そしてそのような扱いですら、奴隷の中なら上位に位置する。猪突猛進の所がある彼女といえど、軽々しく自分を捧げるなどとのたまうのは想像の埒外だった。

 同時に聡明な彼女がそう言うならば、それに答えるべきだろうという考えもあり、俺は代替案を突き付けた。

「お前の身体なんか貰っても迷惑だ。だから代わりに俺の言う事を聞け。それで貸し借りなしだ」と。

 トレードとしてはこっちの不利益もいい所。だがアイリスの想いを汲んでそう言うと、彼女は薄く微笑んで「はい」と答えた。

 その姿はまるでこちらの言う事を予期していたようで。なんとも調子のいい奴だと少し腹が立つ。俺はその顔を見てそんな事を思った。

 

 俺がアイリスに頼んだのは兄の代理でニケーア公爵家の長男の誕生日パーティーに出る事だった。兄はつい先日レゲネトとの外交交渉に向かったらしく、参加出来ない。しかし参加表明は随分前からしていたらしく、土壇場でキャンセルというのは面子が立たない、ということらしい。そんなのは知ったこっちゃないのだが、アイリスからの頼みを叶えるためには俺自身が何かをアレクサンドリア家に差し出さねばならない。俺は兄からの頼みを受け、代わりに医者の解放を兄へと頼んだ。

 アイスクレスの夜はひどく臭った。戦場の香りとはまた違う醜悪な香りだ。馬車の中から見える光景も、シルクハットを被った老人が浮浪者をステッキで殴ったり、マダムが侍女を厳しく叱責していたりと、薄汚いものが多い。戦場では見られない人の本性というものが、この土地では渦巻いている。

 そういったものが見たくなくて、俺は深碧色のカーテンを閉めた。

 その後はアイリスが「煙草をやめろ」だの、「家族と仲良くしろ」だのとわめくのを聞き流していた。どちらも自分の勝手だ。煙草は戦場から逃れるのに都合がよかったし、家族と仲良くしても何をすればいいか分からない。必要を感じなかった。

 だから俺は黙って窓の外を見ていた。

 

 パーティー会場では傲慢な貴族どもがふんぞり返っている。主催はまだ若い十二才だというのにみんなで協力して世の中を良くしようというご立派なスピーチである。貴族主義に染まりきった貴族という生き物向けの素晴らしいスピーチだ。幼少期、誕生日に自分もあんな感じのスピーチをしたのだろうかと、俺は追想する。だが思い出す事は出来ず、代わりに思い出すのは幾度もなく父に文章を添削された嫌な記憶だけだった。

 その父だが、隣になった老夫婦曰く「昔は破天荒」だったらしい。俺はそんな風に思った事は一度もない。驚きだった。まるで敵が味方だった時のような、白だと思っていたものが黒だったような、信じてきた事実が反転した気持ちにさせられた。表だけが真実ではないのだろうか。自分に見せた顔だけが父の顔ではないとしたら、なぜそのような必要があったのだろうか。

 俺には分からなかった。

 

 アイリスが揉め事を起こす。兵士たちへの保障をいらないと豪語した貴族を彼女は睨みつける。それを俺は冷めた目つきで眺めていた。貴族は得てしてそういう思考に陥りがちだ。治水工事を無駄と言ったり、街道整備を自分の仕事ではないなどと言い、責務を放棄する。そんな考えがアイリスは許せないのだろう。それは俺にもよく分かった。だが仕方のない事だ。幾ら言葉を尽くそうともこちらの言う事は理解されない。共感できる感情の源がないのだ。共通のイデアを持たない者と分かり合う事は出来ない。故に言葉で分かり合う事は出来ない。だとしても、こちらの主張を押し通したかったら。譲れないものがあるとしたら。

 俺は拳を振りかぶった彼女を止めなかった。

 それは俺の願いでもあったからだ。縛られ続けて来た。貴族という不定形の何かに。アイリスの拳はその鎖を断ち切る剣となる。吹っ飛んでいた巨体。それは彼女の身体よりも遥かに大きくて、それが革命の一歩となったようで胸がすいた。

 そして気づけば俺は彼女の手を引き、その場から逃げ出していた。お姫様抱っこで一生懸命走った。はぁはぁという息がアイリスに当たって、それが少し気になりながらも走った。鍛えた体は彼女の身体を容易く持ち上げて、風の如く駆ける。後ろから聞こえてくる怒号と、扉を開け外に出た時に吹いた夜風が心地よかった。

 

 逃げ込んだ先は薔薇園で、むせ返るような甘い香りがしている。空に輝く満月、ぼんやりと光る誘導灯が目に優しい。ぼんやりとしているとアイリスが両親についてとやかく言ってきた。それは余計なお世話で、だが話のタネには丁度よかった。本当に彼女は耳に痛い事ばかり言ってきて「仲良くした方がいい」だとか、「まだ関わろうとしていないだけ」だとか、そんな風に告げる。

 そうやって言われるとどうにも俺は変な気分になって、気を紛らわすために歩き始めた。すると花火の打ち上げ音が聞こえて来て、咄嗟にその場にしゃがみ込む。砲撃だと勘違いしたのだ。その事がアイリスに悟られるのが恥ずかしくて、何を思ったのか俺は彼女をダンスに誘った。

 

 そして二人でワルツを踊って――一息つくために煙草を吸おうとしたら嫌がられた。臭いがキツイからだろう。彼女は煙草が嫌いなようだった。

 だから俺は――

 

「だから先輩は煙草を止めた」

 

 ほぅと息を吐く。

 アイリスは動かしていた手を止め、背もたれに背を預けた。静まり返った室内。そこは一週間前に一夜を過ごしたアレクサンドリア家の別邸とは比べ物にならないほど狭く、寂しい場所だった。

 新生ディアトロフ基地、その一角。ルームメイトであるラーサを先の空襲で失った彼女は一兵卒でありながらテントを一人で一つ所有していた。だがそれは喜ばしい事ではない。なぜならそれが意味する事は、人員が大幅に減ったという事なのだから。

 アイリスは強く握っていた万年筆を机の上に置く。ペン端が当たり砂時計が倒れた。彼女は首を捻って天井を仰ぐ。天井にはぶらりと白熱電球がぶら下がっている。テント内はひどく閑散としていて、ベッドの他には手荷物と言って差し支えない大きさの紺のバッグが一つ。備え付けられたテーブルの上に置かれた万年筆、ぼろぼろの手帳、そして赤のコサージュ。

 アイリスはそれらを一瞥し、ポケットの中に手を突っ込んだ。目的の物を掴み、引き上げる。小さな手の中にはそれよりも更に小さな箱。その表紙には『cigarette』と書かれている。

「たばこ……」

 刻まれた文字を見つめる。そこには年齢制限と健康被害への忠告が書かれている。箱を開けると、まだ数本残っていて、それを一本摘まんで取り出す。独特の臭いが鼻について、彼女は思わず顔を顰めた。

 スティヴァリは相変わらずの戦場模様で、あの大規模空襲からもう二週間だというのに、何の変りもなく戦争をしている。それを示すように、深夜十二時にも関わらず、先ほどまで静寂に包まれていた野外が騒がしくなってきた。

「はぁ……」

「ふぅ……」

 ごろごろとリアカーの音が響く。運び屋の間に会話はない。彼等の行く先はゴミ山だ。今は別置に移り、東の空ではなく西の空に黒煙が浮かぶ。

 戦場と一口に言ってもそれが移り変わらぬ訳ではない。むしろ刻一刻変わると言っていい。ただそこに塗れた人々が変わらぬ故に変わらないように見えるのだ。行き過ぎた変化は人に諦観を齎す。

 摘まんだ煙草をテーブルの端に置き、アイリスは先ほどまで書いていた小説に眼を落した。

「だから俺は煙草を止めた」

 復唱する。

 煙草を見つめる。

 その煙草はフリードリヒの部屋に捨てられていたものだ。一週間前、別邸を去る際、何気なく目につき、そのまま持ってきていた。中身が入っているのにそれは捨てられていて、それから彼が煙草を吸っている所を彼女は見ていない。ならば煙草は止めたのだろう。

「だから俺は煙草を止めた」

 復唱する。

 首を振る。

「だから俺は――」

 何も続かない。

「どうして先輩は私をダンスに誘ったんだろう」

 分からない。

「だから――」

 不透明になる。

 なぜ先輩は煙草を止めたのか。どこにその理由があったのか。どうして先輩は自分をダンスに誘ったのか。気まぐれか、理由があるのか。あるとしたらどこにあるのか。どうして両親に手紙を出そうと決めたのか。

 分からない事だらけ。

 適当に書いてしまっていいのだろうかと、彼女は人差し指を顎に当てる。このまま自分なりの解釈で、「ダンスに誘ったのはダンスが好きだから」、「煙草を止めたのは、何となく」。そんな風に書いてしまっていいのだろうか。

 眉に皴を寄せるアイリス。

 しばらくそんな風にした後、彼女は頭を横に振り、勢いよく立ち上がった。手帳とコサージュを手に、テントの外に出る。ふわりとした夜風に混じる硝煙の香りが彼女を出迎えた。同時に基地近くに群生した糸杉の森が騒めく。それが夢心地だったアイリスを現実に引き戻した。小説という物語の中に閉じ込められていた彼女を地獄に連れ回す。

 アイスクレスでの日々は夢のようだった。

 花火。料理。ダンスに衣装。

 今まで体験した事のないような目まぐるしい色彩。

 それは本当に夢のようで。

 だが夢は夢だ。空を見上げると相変わらずの曇天で、夏が自慢のスティヴァリもすっかり秋になって冬の準備すら始めようとしている。この時期の空には流星群が多く見られるのだが、見る事は出来ない。あるのはただひたすらに濃い雲。

 テント間を繋ぐ紐に垂らされた一粒の白熱電球がこの基地の星月の代わりだった。アイリスは蛾の様にその明かりに連れられて、歩く。目に痛い明かりを手に入れた彼女は、それでもって手帳に刻まれた文字を読み始めた。そこに刻まれているのはかつて生きた人々の記録。

「私は両親を病気で失った――」

 コサージュを慈しむように撫でる。あれでよかったのか。今にも彼女の事を夢に見る。

「故郷に帰った私は――」

 こんな所は好んでくる場所じゃない。けれど夢は叶えて欲しい。矛盾した自分。

「私はどういう訳か――」

 助けた。助けられただろうか。幸せに生きていけるだろうか。そう願う。

 全員が戦争の被害者で、そこで生きた人で、戦争に負けなかった人たち。四人目のフリードリヒはまだ書きかけだった。それは彼が両親との和解、もしくは決別のどちらかを選択した時、初めて完成する。

 そこまで考えてアイリスは手帳を閉じ、心臓の上に赤いコサージュを付けた。かつての持ち主はそれを失った。自らの意思の元燃やし尽くした。故に幻視する。最悪の未来を。

「だから先輩は煙草を止めた」

 そう呟いて彼女はしばらく考え込む。だが諦めたようにため息を吐き、テントに引っ込んでいった。と思いきや、思いつめた表情で再び外に出て来る。その手に握られていたのは一本の煙草。そして新品のライター。

 アイリスは悪さでもするように辺りを見回すと、慣れぬ手つきで煙草を人差し指と中指の間に挟み、おそるおそるライターで着火した。オレンジの火種。柔らかな煙が揺れる。夜の闇に臙脂と白はやけに目立った。

 彼女はもう一度辺りを見回してそっと煙草を口に近づけ、ストローでジュースを吸うかのように大きく息を吸った。

「えほえほ」

 吐き出される白。跳ねる金。バックには黒。しっぽ髪がぴょんぴょんと夜に跳ねる。喉にイガイガした感触が残る。

「えほえほ」

 彼女の薄紅の口から出た白煙が広がった。アイリスの藍が染められる。染められた視界には何も見えない。他の兵士の姿も、テントも、この世に実在する全てが見えない。そんなアイリスの髪を再び夜風が攫って行く。それにより視界は晴れ往く。煙が掻き消され、徐々に視界が戻っていく。そして現れたのは基地の奥、炎の如く立ち昇る黒い糸杉。幾条もの黒炎が闇の中に現れる。世界を焼き尽くさんと現れる。

 それは元のスティヴァリになかったものだ。

 彼女は風に流される金糸を抑えながら、どこまでも続くかのような糸杉の森をぼんやりと眺め、心臓に付けられた赤いコサージュを強く握った。まるで己の実在を確かめるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終節 比翼の懐胎

 

 それはほんの一瞬の出来事だった。早朝から今にも涙を零しそうだった空が、ぽつりと一粒の涙を零し、それがアイリスの額に当たった。上からの攻撃に気を張っていた彼女は敵襲かと銃を撃っていた身を僅かに起こした。その瞬間、弾丸が彼女の右腕を打ち抜き、痛みに怯んだ所へ更に銃弾が浴びせられた。

 それを皮切りにして部隊は崩壊。

 六人のうち四人が死に、今となってはフリードリヒとアイリスだけ。その上アイリスの命も消えかかっている。

 いつか来ること。砂時計が上から下に落ちるように、命の灯はいつか絶える。だがそれがいつなのかは分からない。さらさらと流れ、止まる。定められた終わり。でも人にとってはいつも突然で。

「先輩、今はいいですけど、雨が止んだらまた敵が攻めてくるかもしれませんよ」

 胸の中で、アイリスは薄く笑う。

 彼女の言う通り、豪雨のお陰で敵が攻めてくる事はない。だが恵みの雨とは言い難い。なぜならその雨のせいで、アイリスの血は流れたまま止まらず、塹壕には人工の小川が形成されている。それは勢いこそ弱けれど末端から二人の身体を冷やし、軍靴越しに熱を奪っていく。

「だから早く私を殺してください」

 彼女は酷く穏やかな顔をしていた。まるで今の現実を受け止めて、死を受容するかのような顔だった。金に彩られ僅かに覗く藍は安らかで、内の輝きは薄れながらも美しい。

「それに、長くここにいたら凍傷になってしまいます。だから――」

 アイリスは再び殺してくれと言う。

 フリードリヒは彼女の華奢な肩を掴む。アイリスの身体は冷え切っていた。足元を雨で濡らされ、全身を雨に打たれている彼の身体よりもなおの事冷たかった。恒常性すらも喪われているようでぞっとした。

「ごめんなさい。本当は自分で死ねたらよかったんですけど」

 動かないフリードリヒに向け、彼女は瞼を伏せる。隠れた藍がもう二度と姿を見せないのではないかと、彼は一瞬不安に駆られた。

「もう力が入りません。あんなに簡単に引き金が引けたのに、もう銃を持つ事すらままならないんです」

 力なく彼女は笑う。

 遠くの糸杉の森が風に揺られ、ざわざわと音を立てる。天に昇っていた黒炎はたなびいていた。

 それを聞きながらも、フリードリヒは表情一つ変えない。

 彼の視界は妙にクリアだ。いや、視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった五感全てが明瞭だった。煙草を止めた事で思考も妙にすっきりとしていて、それだけにアイリスの死が現実の物だと残酷に突き付けられる。

 雨の香り。

 それに混じる血と死臭。ほんの僅かな硝煙の香り。泥と鉄臭い戦場の香り。

 雨の音。

 それに混じる息遣い。

 雨の冷たさ。

 同化する体温。

 乾いた唇に雨粒が落ちる。冷たい冷たいそれが落ちる。気づけばその量が増えていた。妙に温かいものが混じっていた。

 雨に覆われた戦場。

 その中でぽつりと残された二人。

 アイリスとフリードリヒ。

 そんな二人。

 運命という名の偶然は告げる。世界の中の一部、ホフマン地方、更にその一部ディアトロフ。その更に一部のスティヴァリで、豪雨に飲み込まれた二人に向け。

 人生の選択をせよと。

 

 

 

 辺りは死の気配に満ちていた。空間が死んでいた。殺されていた。息づくものがなく、ただ雨風のみが流れ、既に死んだ介添人はぽかんと口を開けている。荒涼とした地で横たわるそれらは、あるものは膨張し、あるものは皮膚が崩れ、あるものは骨と変わっていた。

 諸行無常体現す死んだ土地。そんな中で二人は生きている。雨によって造られた小川が二人が動く度にぴちゃぴちゃと下品な音を立てた。だがそれは土臭い塹壕の中で彼等が生きているという証でもある。

「先輩、あんまり時間はありませんよ」

 アイリスが催促する。彼女のしっぽ髪は小川に浸かり、水流に負けていた。そして天の川のように時折、金の髪が流れて行く。

「そうか」

 フリードリヒは頷く。また一本、金糸が流れて行った。

「ですから、ほら」

 アイリスは左手で彼の右手に無理矢理拳銃を押し付ける。けれどそれは彼の手に当たっているだけだった。

「受け取ってく――」

「小説はどうしたんだ」

 彼女の手を払う。拳銃が小川に落ち、飛沫が上がった。

「あの手帳がお前の心臓なのだろう? あれはまだ書きかけだった。お前は未完の小説を残して逝くのか」

 フリードリヒはアイリスに詰め寄る。

「先輩、なんで知ってるんですか?」

 彼女はきょとんとした顔をして、僅かに眉を寄せた。

「拾った時に中身を見た。悪いとは思っているさ」

「やっぱり見てたんですね」

 アイリスは小さくため息を吐いた。

「すまん」

「別にいいですよ」

 彼女は怒る素振りすら見せず首を横に振る。

「どうせ、もう済んだ事です」

 アイリスは胸元から一冊の手帳を取り出す。そしてそれを腹の上に置き、優しく撫でた。

「これは私の宝物です。私がここに生きた証。誰も私を覚えていなくても、これがあれば後世の人は私の事を思い出す。時を超えた魔法。それがこの手帳」

 歌を歌うかのように彼女は呟いた。まるで夢を語る少女のように彼女は歌った。

「両親はいません。私は他の人と違って、私の事を覚えていてくれる人はいない。ラーサは多くの人を看取り、看取られた。記憶に残った。スヴェンは憎たらしいけれど、それでもこの戦争を語っている。ギルバーツさんは家族を救い、共に生きている」

 雨が手帳を濡らしていく。血と汗が染みついたそれに、更に雨が侵食していく。

「ならば私は何と共に生きていたのでしょうか」

 零す。いやその表現は正しくない。なぜならそれは彼女という人生の命題なのだ。フリードリヒは黙っていた。そうしている間にも、アイリスの歌は続く。

「友人は死にました。赤いコサージュを残して死んでしまった。ラーサ以外に友人なんていません。だから私の事を覚えていてくれる人はいなくなってしまった。皆、戦場では自分の事で精一杯です。私の願いは贅沢なのかもしれません。私がここにいた事を―アイリス=テレジアという存在を忘れないで欲しいなんていうのは傲慢なのかもしれません。けれど、ならば私はどうして生きているのでしょうか」

 フリードリヒは黙っている。

「言葉はいいです。小説はいいです。なぜならそれが後世に残ったら、必ず誰かが読むでしょうから。もしその言語が使われなくなっても研究対象になります。そして人間だけがそれを作り出せる。だから私は小説を書きました。戦争でいつ死んでも、私が誰かの中に残るように。ここで私は生きていたのだと自分自身に言い聞かせるために。ここが私の居場所なのだと知らせるために」

 アイリスの話は夢物語だ。全ての書物が読まれる訳ではない。万の物語があったとして、億の感情があったとして、その内表出するのはほんの百。でも、それでも彼女はそれに縋るしかなかった。今、彼女を覚えていてくれる人はいない。だから未来に懸けるしかない。

 簡単な理屈だ。

 フリードリヒは唾を呑みこむ。そんな彼にアイリスは尋ねる。

「先輩、先輩は私が死んだら覚えていてくれますか。生意気な部下がいた事を覚えていてくれますか」

 彼女は懇願するように目を細めた。小さな手は彼の襟を掴んでいる。しかし彼は黙っていた。

「……そうですよね。先輩はそういう人ですよね」

 そんな彼をアイリスは笑った。目の端を歪ませて、頬の上に奇妙な皴を作って、雨水をそこから垂れ流しながら、彼女は笑った。

 アイリスの血は止まる事を知らない。小川に朱が混じり始めた。止血を試みても、雨によって傷口が固まる気配はない。垂れ下がった右腕は氷のように冷たく、感覚を失っている。腹部に開いた穴からは滾々と魂を零している。

 このままこの場所に放置していたら彼女はあっけなく死ぬだろう。だが二人がいるのはスティヴァリの最前線。塹壕を通って基地に戻ろうとすれば、最低でも一時間はかかる。そんなに長い間アイリスは持たない。

 この状況で二人ともが助かる可能性があるとすれば、それは塹壕を出て直線ルートで基地に向かう。その一点のみだ。

「先輩。私は先輩の事、意外と嫌いじゃありませんよ。そういう冷たい所とか、わりかし居心地がいいですし、それに他の人みたいに私の事を責めたりしませんでした。冷たいとか、賤しいとか、そういう目ではなく、生意気な後輩だと呼んでくれました」

 ほぅとフリードリヒは息を吐く。冷えた体からは白い息が出た。

「だから受け取ってくれませんか。私の宝物を」

 アイリスは拳銃の代わりに今度は手帳を彼に向かって押し付ける。ぼろぼろのそれ。数多の旅路を経た手帳。

 フリードリヒは片手で器用にページをめくる。雨で紙同士がくっついて読みづらい。インクも僅かに滲んでいた。けれどそこに書かれている文字ははっきりと読めた。

『第一章 畢生の鎮魂者』

 そこに書かれているラーサは自分は何のために生きているのかという悩みを抱えている。けれど歌が大好きで、だから大勢の前で歌いたくて、それで皆が喜ぶ事を信じて疑わない。歌というものが持つ力を信じて疑わない。

「馬鹿みたいだ」

 フリードリヒが知る彼女はそんなに強くなかった。舞台で歌う事を提案した時の彼女は明らかに戸惑っていた。

 ページを捲る。

『第二章 卑俗たる復讐者』

 スヴェンは戦場から逃げ出して、幸せに生きたと記されている。温かい家族に囲まれ、戦争の味を知らず、残り香にも惹かれていない。ごく普通の若者のように描かれている。

「本当に」

 一度、戦争を知った人間が平穏に過ごせるなんて平和ボケしている。戦争を知っているアイリスなのに、それを忘れて生きていけるなんて幻想を抱えている。

『第三章 我欲の救済者』

 そこに描かれたギルバーツという名の医者は幸福を体現したようだ。悩み一つなく、自らが家族を救った事を誇りに思っている。そしてそれを手伝ったアイリスとアレクサンドリア家に感謝をしている。アイスクレスからの帰り道、彼は家族を想ってバスの中で微笑む。

「本当に馬鹿だ」

 そんな訳がない。他者を切り捨てて掴んだ幸福からは悲哀の味がする。あるはずの幸せを噛みしめても、果てしない苦みが口内を蹂躙するのみ。なのに、アイリスは呑気に家族との幸せを描いている。背負った十字架など存在かのように思っている。

『第四章       』

 そこだけ題が空いていた。フリードリヒは書きかけのそれを読む。読んで、静かに手帳を閉じた。

 ぽつりと、手帳を雫が濡らす。雨でインクが滲んでいく。記憶が、記録が、消えて行く。

「どうですか? 上手く書けているでしょうか?」

 黙りこくった彼に、少しそわそわした様子でアイリスが尋ねる。

「私が生きていた意味はありましたか?」

 おそるおそる彼女はそう言った。口は半開きで、唇からは少女色が失われている。ただでさえ白かった頬は更に白くなり、この世ならざる物を連想させる。薄っすらと覗く藍色は虚ろに近づき、いよいよ宝石染みて行く。

 雨が止む気配はない。

「なんでこれを書いたんだ?」

 フリードリヒは知っている答えを問うた。

「それが私の生きる理由だからです」

 そしてアイリスは間髪入れずそれに答え、

「だから先輩。私の人生に悔いはありません」

 そう言って笑った。

 死を覚悟した相貌は美しい。金の髪は水滴を孕み、睫毛に小さな粒を乗せ、輝きを失った瞳はそれでも何かを見つめている。全てを諦めて、全てを受け入れた。人間の極致を、フリードリヒはそこに感じた。

「分かった」

 彼は小川の中から拳銃を拾い上げる。彼の身体もまた冷え切っていて、このままここにいたら彼女と心中する事になるだろう。ならば決断しなければならない。アイリスを土を背もたれにして座らせて、フリードリヒは右手でスライドを引いた。乾いた音がして、弾丸が薬室に送られた事を知らせる。後は引き金を引くだけで簡単に弾が発射される。そして、発射された弾丸はいとも容易くアイリスの体を撃ち抜いて、死へと至らしめるだろう。

 雨が、降っている。

 ざあざあと音を立て、不吉の象徴たる糸杉は未だ黒煙を立ち昇らせる。周囲に相変わらず人影はない。鉛の時間。それでも二人は生きている。残酷な生を生きている。

「先輩、私幸せでしたよ」

 腐乱が進み、皮膚の崩れた死体。積み上げられた死から滲んだ液体は雨によって流された。鳥獣によって食い荒らされた肉体が荒野に散乱している。

「先輩に連れて行かれたパーティー。色々ありましたけど楽しかったです」

 アイリスが瞼を閉じた。藍色が世界から失われ、金色だけが寂し気に残る。

「なんか適当な言い合いをして、二人で逃げて、花火を見て、ダンスをして。あんな事をしたのは初めてでした。本当に一瞬で、夢みたいでした。けどあの一時が灯台のように心に灯るのです。その上、喧噪の中ではなく、こうやって静かな場所で介錯までしてもらえる。本当に身に過ぎた幸せです」

 彼女の体に震えはない。口元には薄っすらと笑みすら浮かんでいて、その言葉に偽りのない事が分かる。

「何か、言い残した事はあるか?」

 フリードリヒは立ち上がり、彼女に銃を向けた。

「小説は好きにしてください。もう慰める心もありません。発表するもいいですし、保管するもいいでしょう。出来れば捨てないで欲しいですが、先輩が処理に困るのならば――それも致し方ないのかもしれません」

 最後だけアイリスは少し悲し気に眉を下ろした。彼女の顔に水滴が募る。それらは重力に引っ張られ額を伝い頬を伝い、顎先に溜まった。

「もう大丈夫です」

 深く息を吸ってポケットから赤いコサージュを取り出した。そしてそれを左胸につける。それが彼女の最期の儀式。フリードリヒがトリガーに指を掛ける。その音を彼女は聞いていた。

 そして本当に最後の最後、アイリスはその瞳を開けて。

「ありがとうございます、先輩」

 藍の閃光、マズルフラッシュ。

 銃声が静寂を撃ち抜いた。

 

 

 

 零れていく。天蓋から零れていく。悲しみが雨となって降り注いでいる。それは止む様子もなく、全ての物を等しく包んだ。束の間の休息。戦争に塗れたスティヴァリに訪れた静寂。荒涼とした風景より先に物体はない。

 塹壕内の小川は流れが一層速くなっていた。数多の血を吸った土を含んだ水流。それが一人の少女の死を流していく。金の髪と赤い血、水色のリボンがまるで流れ星のようにその中を駆けた。

「…………」

 フリードリヒは眼前の少女を見下ろしていた。

「……なぜ当てなかったのですか」

 もう驚きで目を開く力すらないのか、アイリスは目を閉じたままそう問いかける。彼が撃った弾は彼女の胸から逸れ、後ろで纏められていたしっぽ髪に当たっていた。

 はらりはらりと金糸が零れる。無残にも撃ち抜かれた彼女の後ろ髪は不揃いで、浮浪者染みている。けれどそれでも生きていた。

「お前は馬鹿だよ」

 フリードリヒが拳銃を投げ捨てる。水飛沫と共にそれは地を跳ねた。

「こんな手帳、こんな小説が生きてた理由だなんて」

 呆と立ち尽くす。アイリスがゆっくりと瞼を上げた。そこで彼女は初めて知る。彼の苦悶の表情を。

「俺がダンスが好き? 煙草を止めたのはなんとなく? そんな訳ないだろ」

 それはアイリスが初めて見る彼の表情だった。フリードリヒはいつもどこか飄々としていて掴み所がなかったり、はたまた堅物だったりとよく分からない人だった。だというのに、そんな彼が大きな手で顔を隠して感情を吐き出している。

「他も嘘ばっかりだ。お前は馬鹿だ。皆が皆幸せになれる訳がない。今だってそうだ。お前は俺の気も知らないで、自分を殺せとのたまう。それが俺にとってどれだけ辛い事か理解しようとも、考えようともしない」

 フリードリヒの声が滲み始めた。泣いているのだろうかと、アイリスは思う。けれど霞み始めた視界では確認できない。涙と雨が混じって分からない。

「私が死んだら先輩は覚えていてくれるか?。お前は馬鹿じゃないのか。何が覚えているだ。覚えるんじゃない。覚えちまう。忘れたくても、忘れられないだろ。だってアイリス、お前は俺が好きな相手なんだ」

 吐露していく。長らくフリードリヒは戦場に立つ理由がなかった。戦場は単に家族からの逃避の手段に過ぎず、意味を失った彼は煙草で気を紛らわし狂った振りをした。それでよかった。それが楽だった。

 けれどそれでやっていけなくなった。

「俺は別にダンスが好きな訳じゃない。ダンスを誘ったのはそれがお前だったからだ。煙草を止めたのはお前が煙草を嫌いだからだ。それ以上でも以下でもない。全部アイリスのためなんだ。お前のためなんだ。お前の事が好きだから、俺が勝手にやった事なんだ」

 アイリスが好きだった。好きになった。いやきっと、ずっと前から好きだった。手帳を拾った時、フリードリヒはその中身を読んだ。それは眩しかった。それは彼にないものだったから。そこには輝きが詰まっていた。彼女の人生が詰まっていた。苦しくも幸せな、悩みに悩んだ生き方が込められていた。

「……せんぱい」

 アイリスの胸が痙攣するように大きく跳ねた。喘ぎ声が漏れる。しかしフリードリヒはそれに構う事無く、彼女の膝裏に手を差し入れ、抱きかかえた。

「行くぞ」

 そして塹壕から出るべく、荒野に足を掛ける。

「むりです。今は撃ってきませんが、まだ戦争は終わってません。もし後ろから撃たれたら、先輩まで」

 アイリスを助けるのに塹壕を這うのは余りに遅い。彼女を救いたければ塹壕から外に出て、基地に向かって走るしかない。だがそれには危険が付き纏う。もし敵が彼等の姿を見ていて撃ってきたら、容易く二人は骸となるだろう。

「でも撃たれないかもしれない」

 彼はアイリスに不適に笑いかける。それを見た彼女の瞳に憎が宿る。恐れが産まれる。

「いいえ撃たれますよ。今までだってそうだったじゃないですか。奇跡は起きないんです。人は死にます。だから私はここで死ぬんです。先輩が私を殺すのが嫌だと言うのなら、ここに置いていって下さい。先輩は死ぬ必要なんてないんです」

 精一杯、最後の力を振り絞ってアイリスは身を捩った。けれど彼の腕の中から離れるには余りに些細な抵抗だった。

「もう私は十分です。先ほどの言葉で一生分の幸せを貰いました。だからもういいんです」

「何がいいんだ」

 息を深く吸い、フリードリヒは問いかけた。

「もう……十分です。私が生きる意味は、小説はもう書けませんから。生き残ったとしても右腕は動かないでしょう。なら生きている意味なんてありません。だからここで死んでいいんです。ここが墓場でいいんです。いい加減休ませてください」

 必死に言い募る。まるで嘘がバレた幼子のように言葉を紡ぐ。歪んだ表情。彼女の意図している事は明白だった。だがそれに彼は首を横に振る。

「知らん。お前の事情なんかどうでもいい」

 フリードリヒは彼女を抱え直す。どれだけ走っても落としてしまわないように、強く抱く。

「俺は俺の生きている理由を無くしたくないだけだ。もしもアイリスに生きている理由がないのなら、俺の生きている理由になってくれ。それを理由にしてくれ。小説が書きたいなら、俺が書く」

「私にそんな価値はありません。それに、それにそれで死んだらどうするのですか!」

 ほとんど叫ぶようにして彼女は言う。けれどその声は掠れている。吐息が混じり始めている。死期が近づいている。死神が背後で笑みを浮かべている。

「自分の価値を自分で決めるな。死んだら――そりゃその時に考えるさ」

 それを悟ったフリードリヒはその言葉と共に、颯爽と荒野へその身を乗り出した。

 

 雨斬り、風斬り、感傷を切る。

 直線およそ一キロメートル。

 そこまで行けば敵の有効射程は外れるだろう。しかも幸か不幸か、今日は雨。それよりも射程は短くなる。だがその一キロがあまりにも遠い。まるで星空を分かつ天の川のように、基地と現在地は離れている。でも進むしかない。橋渡しをするカササギはいない。だから己の道で歩むしかない。一歩づつ、フリードリヒは泥濘を進む。

「ばか。先輩はばかですよ。私よりもずっとばか。こんな事しなくてもよかったのに。私なんかのために命を掛けるなんて本当にばかです」

 胸の中でアイリスが彼を罵倒する。彼女は泣いていた。泣きながら、笑っていた。その笑みはあの日、パーティーの夜、ダンスをしている時の笑みの何倍も美しかった。それを自分が作ったのだという事実がフリードリヒには誇らしい。

 見かけでの一キロは酷く短い。だが実際に走ってみると、その距離は余りに長い。更に地面がぬかるんでいるせいで走りづらく、雨で体力もどんどん奪われていく。でも、それでも彼は進む。横を死体が抜けて行く。骨と肉、散乱した手足。

 それらに眼もくれず、彼は走る。

「別に俺は馬鹿でいい! お前がいなけりゃ生きられない! お前が死んだら、俺は死んだも同然だ。俺が生き残るために、アイリスも生き残れ! これは命令だ! 医者を救ってやった時の約束、忘れたとは言わせねぇぞ!」

 弱まる力に喝を入れるために、フリードリヒは思いきり叫んだ。それは独善に満ちていて、横暴で、けれどどこまでも愛に溢れていた。

「――――」

 ぽつりと、少女の頬に水滴が落ちた。それは彼女から右腕を奪ったもの。雨。でもそこから彼女は産まれた。

「仕方ないですね。先輩は」

 残された左腕でアイリスは彼の首をしっかりと掴んだ。彼女が浮かべているのは苦笑。けれどそれは諦めでも、呆れでもない。そこにあるのは愛だ。相手の事をどうしようもないと感じながらも、冷める事のない愛だ。

 一人の少女は懐胎する。

 愛という新しい感情を孕む。アイリスが持っていたもの。人ならば持っているはずのもの。それを取り戻す。生まれ変わる。人のために生きる。真の人生を歩む。

 彼女はフリードリヒの胸に顔を埋めた。がっしりとしていて、けれどとても冷えている。雨に打たれた彼の体温はアイリスとさほど変わらない。

 でも暖かい。心地が良い。死の間際。息は苦しく、力も入らない。痛みはないが、それは痛覚が麻痺したせいだろう。本来、心地いいはずがない。

 胸の中、アイリス=テレジアは藍の瞳で世界を臨む。

 スティヴァリは燃えている。ディアトロフは燃えている。煌々と、この豪雨でさえも鎮火出来ないほどに勢いよく燃えている。その証拠に糸杉の森は、未だ天に向かって炎を立ち昇らせている。それは頬を吊り上げ笑っている。

 今、二人は荒野を駆けていた。空は黒に染まっている。けれど同じ時間軸のアイスクレスでは晴れているのかもしれない。スティヴァリは戦争の最中でも、アイスクレスではパーティーが開かれたり、花火が上がっている。どちらも同じ世界なのに、こんなにも違いが生まれている。

 残酷な現実。フリードリヒが地を蹴る。体が跳ねる。振り落とされないように、アイリスは強く彼の首を抱く。残された力を振り絞って、掴む。二人は塹壕という檻から解き放たれた。背の翼は誰に阻まれる事もなく、羽ばたいていく。

 フリードリヒは走りながら、彼女に向かって笑いかけた。彼も限界だ。そんな事をしている余裕などない。だが不思議とそうしていた。アイリスの左手が小さく震える。彼女も笑っていた。比翼は地を滑る。背後から迫る死の恐怖など存在しないかのように、笑い合う。

「先輩、こんなに幸せでいいんでしょうか。こんなにも温かくていいんでしょうか?」

 冷たい。冷たい。土の下。塹壕の中。アイリスは眠っていた。壁にひたすら文字を書き続けていた。そこに一滴の雨が落ちてくる。そしてそれはあっという間に彼女の居場所を奪って、呼吸も出来なくなってしまう。

「私は、私の小説は、やってきた事は報われたんでしょうか?」

 愛は難しい。抱く事も抱かれる事も。起動原理も物理演算もそれには寄与しない。理屈でもなく、感情一つとも言い難い。愛とは幽霊だ。手にした者はあると言い張り、知らない者は一生知る事がない。

 アイリスの藍から涙が零れた。それはポロポロと流れ出し、フリードリヒの胸を濡らし、荒野へ落ちる。その一粒が骸の頬を濡らした。

「さぁな、知らねぇよ!」

 生きる意味なんていうのは所詮、灯台のようなものにすぎない。ある地点まで辿り着けば必要なくなる。そしてその地点からは、また別の灯台が行く先を示す。

「だが、もうそんなもん書かずに済むようにしてやる」

 啖呵を切って、フリードリヒはより一層足を速めた。残った距離はおよそ五百。そのままの勢いで彼は駆ける。翼を大きく羽ばたかせ、アイリスを乗せて進む。

 戦争は終わっていない。スティヴァリの地は死んだままだ。悲しみに包まれている。人はこの戦いを呪い、苦しめられている。なのに、別の地では幸福が疫病のように蔓延している。その差異はほんの少しだ。運命は小さな事で変わっていく。生死すらも偶然は左右する。

 だから二人は単に運が悪かったのだ。アイリスが撃たれた事も、雨が降っていた事も、戦争に参加する事になってしまった事すらも、運が悪かった。

 だから仕方がないのだ。

 凶弾が飛来する。遥か後方八百。退散する二人に向けて、銃弾が飛んでくる。そしてそれは、フリードリヒの右脚を撃ち抜いた。彼の体から金が落ちる。勢いのままに泥を転がる。再び立ち上がろうと、彼は地面に腕を突いた。しかしその瞬間、今度は左腕が鮮血に染まる。彼はその場に崩れ落ち、一歩も動けなくなる。だから代わりに這うようにして、アイリスの元へ近づいた。

 彼女の手を握る。小さな手。右手はもう動かないらしく、冷たかった。今まで物語を紡いできたその手は死んでいる。フリードリヒは両手で、彼女の両手をしっかりと握った。まるで自分の体温を、命を分け与えるようにしっかりと。アイリスはふわりと笑う。頬には泥がべったりとついていて、輝いていた金髪はもう見る影もない。だが彼女の瞳の中には、藍の中には、ラピスラズリのように金が散っている。

「せんぱい」

 呟く。頷く。這って行く。そしてアイリスの唇に、少女色を失ったそれに、フリードリヒは優しくキスをした。

 

 一匹の鳥が空を翔ける。大雨の中を颯爽と進む。小さな翼を大空に示し、黒雲の中を翔けて行く。それは一体どこに行くのだろうか。レゲネトか、アイスクレスか、はたまたスティヴァリに留まるのか。それは誰にも分からない。きっと、鳥自身にも分からない。でもそれはきっと進むのだろう。自らの道を、自らの羽で。雨を翼に受けながら、風を切りながら。

 生きるというのはきっとそういう事だ。行方は知れず、先は見えない。でも飛び続ける。その終着点が死だったとしても。

 雨が降り続く。フリードリヒとアイリスを濡らす。

 戦場に英雄はいない。武勇伝などあるはずもない。大儀なんてものは存在しない。だが彼等は高らかに謳うのだ。他の誰かのためではなく、自分への賛美歌を歌うのだ。

 ここで自分たちは精一杯生きたのだと。

 二人は眠る。周囲には骸たち。蛆と蝿、散乱した肉、骨。

 これはスティヴァリのある秋のこと。歴史から見たら小さな出来事。でも大切な、宝物のような日々の事。

 アイリス=テレジアは息を吸う。フリードリヒに突き返された手帳を想う。

「ありがとう」

 彼女はゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 ――七年後 スティヴァリにて。

 蒼穹を一匹の鳥が裂いていた。糸杉の森の程近くに建てられた一軒家。その窓際で男は新聞を読んでいた。外は三日連続の晴天で、コーヒーを傾けながら彼は思わず目を細める。新聞の中では新政権発足の文字が躍っている。ニエンテ戦争を機にディアトロフは変わった。和平という名の敗北を喫し、民衆から貴族制への不満が募った。革命が起き、しばらく動乱の時代が流れたが、この頃やっと落ち着いたばかりだ。しかし、その影響は未だに各所に残っている。

「お父さん! 早く行かないとまた遅れちゃうよ!」

 リビングの方から娘の声が聞こえて来た。その影響の一つが、彼の通っている診療所だ。戦争や革命で傷を負った人々を無償で治療する。それがあの戦争で罪を背負った男の贖罪の方法だった。

 新聞をテーブルに置き、彼は立ち上がる。するとそこに妻がやってきた。

「ギルバーツさん。あと五分ですよ。リリも待ってます」

「分かってるよ」

 ギルバーツは苦笑して、背もたれに掛けてあった白衣を羽織る。

「じゃあ行こうか」

 そう言って妻の手を取り、玄関の方に歩き出す。

「……どうしましたか?」

 が、その足は途中で止まっていた。彼の視線は新聞の下部、書籍の紹介コーナーに釘付けになっている。そしてその文字を読みながら、微笑んでいた。

「何かいい事でもあったのですか?」

 妻はそんなギルバーツを見て、訝し気な目を向けている。

「お父さん、変なの」

 娘も顔を顰めていた。けれど彼は夢中でもう一度同じ所を読み返し、腕で目元を拭った。

「ああ本当に、変な話だ」

 そこで紹介されていた本。紹介者である戦場ジャーナリスト、スヴェン=ディアカーター曰く「ニエンテ戦争、その裏側。経験者が語る肉声」。

 壮大な煽り文で飾られたその本の題名は――。

 

 

 あとがき

 

 本書を出版するにあたって、まず初めに多大なるご協力頂いたスヴェンさんに感謝を述べなくてはなりません。彼とは作中にもあるように戦場で知り合い、この本を出す際に出版社との橋渡しや構成の手伝いなど文章に関する諸事を手伝って頂きました。この縁と助力に感謝を申し上げたいと思います。

 さて、内容に入りますと、この本は私がスティヴァリで出会った人々の事を綴ったノンフィクション小説です。第一章は私の友人であるラーサ。第二章は戦場で出会ったジャーナリストのスヴェン。第三章は医者であるギルバーツ。彼等について語られています。その中身については、本書を読んで頂いた皆様はご存知の事だと思いますので割愛させて頂きましょう。

 あれから色々な事が変わりました。私自身、激動の時代を生きてきたという実感がございます。失った物も数多く、同時に得た物も多い。そんな七年間でした。最終章にあるように、私の右腕はもう動きません。これを書くのにも酷く苦労しました。本来なら私の字で、言葉で伝えたかったのですが、それは叶いません。皆さんがお読みになった物語は全て、私の夫の代筆によるものです。

 本当に、失った物は大きいです。けれどそれ以上に、私には大切な事がありました。得た物がありました。それを伝えるために、未だ失った物に悲しみ人々に、一度過去を振り返ってもらうために、これを出す事を思いつきました。これは私のかつての生きる意味で、現在に遺された遺産です。この中には、私が出会った人々の生き様が刻まれています。そこから愛した人や、嫌いだった人、好きだった人、家族、彼等の最期に想いを馳せ、前に進む原動力にして頂ければ幸いです。

 最後に、共に戦った全ての人々に敬意を表し、この作品を閉じさせていただきます。

 我が最愛の友ラーサ=ドローグに捧ぐ。

 

 作者 アイリス=アレクサンドリア

 執筆補佐 フリードリヒ=アレクサンドリア

 

 




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