心が震える。まさに、そんな体験だった。
幼稚園の入園式以来の式服を着させられ、両親に連れてこられたコンサートホール。兄がバイオリンのコンクールに参加するので、家族みんなで応援に行くことになったのだ。
正直、全く気乗りしていなかった。当時5歳で音楽に全く興味のなかった私には、演奏の良し悪しなんて分かるはずもなく。このようなコンクールの席なんて、ただただ退屈な時間を無為に過ごすだけのつまらないものでしかない。どうせ始まりから終わりまでずっと居眠りすることになるだろうと、高を括っていたのだが。
「プログラム1番……曲『威風堂々』」
私の舐めた考えは、最初の演奏が始まった時点で瓦解させられた。
音に心臓を撃ち付けられるような、そんな今までに感じたことのない感覚。奏でられる音が、演奏に合わせて揺れ動く身体が、確かな意志を持って私へ語りかけてくるのだ。
自分だけに集中しろ、と。
開会式を終えて夢現だったが、眠気なんて一瞬にして吹き飛んでいってしまった。全身全霊をかけて己を主張する彼らの演奏に、私の心はすっかり虜にされていた。非礼を恥じ聞く姿勢を取った私の姿を見て、父が嬉しそうに微笑んだのを覚えている。
私のような素人には、音楽から見える情景を感じ取り楽しむなんて聴き方はできないけど。それでも彼らの演奏は、これならばいつまでだって聴いたいと思えるような素晴らしいものであった。
「凄、かった……」
演奏が終わった後で、私は興奮冷めやらぬままに全力の拍手を奏者へ送っていた。拍手の量はまばらで他の観客からはあまり評価されていなかったようだが……それでも、私は止めなかった。素晴らしいと思った気持ちに嘘を吐くことになるし、何よりも気持ちが高揚し続けていたから。
「プログラム2番……」
「今度は、どんな人なのかなぁ……」
昂る気持ちが落ち着かぬまま、司会が次の奏者を舞台に呼び出すのを聞く。今度はどんな人が弾いてくれるんだろう。次は?そのまた次は誰?いったいどんな音を、奏でてくれるの?
誰もが頂を目指し本気で弓を弾く、コンクールという舞台だからこそ奏でられるその人の音。どれも私の心に深く響き、耳に当分消えることはないであろう心地よい余韻を残してくれた。そのせいか表彰式で誰が優勝したかという記憶がない。優勝者すら気にならないくらい、素晴らしい体験だった。
「父さん……私、バイオリンやる。私もあんな風に演奏してみたい!」
脳が焼かれる、という言葉がある。
一生記憶に焼き付き離れないような、素晴らしい体験をするという意味で主に使われる言葉。今日のコンクールはまさにそれであった。舞台に勇ましく堂々と立ち、楽器と身一つで己の培ってきた全てを曲に乗せて曝け出す。そんな彼らの堂々とした立ち振る舞いに、強く焦がれてしまったのだから。
自分もああ在りたい、そう思った。情熱も時間も捧げて積み重ねることのできる何かを、自分も持ちたいと思った。そしてそれは、今日のコンクールで演奏していた彼らのように、バイオリンであればいいと思った。
「そうか……じゃあ、たくさん練習しないとな」
「うん!私、たくさん頑張るから!」
バイオリンをやりたい、その私の言葉を父は快く受け入れてくれた。彼らのような演奏ができるようになるまでは、それはもう長い時間をかけなければいけないけど……それでも構わない。コンクールに脳を焼かれた私には、既にそれを成した後の景色が見えていたから。
思い立ったが吉日ということで、この日の夜にはもう私はバイオリンを手に取っていた。初心者用の教本を見ながら、父から楽器の構えや弓の弾き方を教わり少しずつ音を奏でていく。耳にするのも悍ましいような歪な音だったけど、この時の私は確かにバイオリン奏者としての一歩を踏み出したのだ。
これが私の……
〜
「まぁ、そう上手くはいかないものだよねぇ……」
楽器を机の上に置き、椅子に腰を落ち着けて一息吐く。もう何時間かぶっ続けでバイオリンを弾き続けていたせいで、腕が全然上がらない。水を飲もうとペットボトルを手に取るのすら苦労する。
重い腕をどうにか動かして、ペットボトルを口に付けて一気に中身を飲み干……そうとしたが。蓋を取るのを忘れていたせいで、思いっきり前歯を蓋に打ち付けてしまった。予想だにしなかった痛みは実際よりも大きく顔中に響き、私を椅子から引き摺り下ろし悶絶させる。痛みが引くまで床をゴロゴロとのたうち回る羽目になってしまった。
「はぁ……アホくさ」
落ち着きを取り戻すことはできたが、今度は痛みの代わりに羞恥心が募る。何だか起き上がることも面倒になってきたので、私は身体を大の字に広げて仰向けになった。高い天井を見上げるのは、意外と新鮮で割といい気分転換になる。
私には、バイオリン弾きの才能がなかった。
初めたての頃、父さんが私が上手くなれるようにとバイオリンの先生を付けてくれた。彼女の指導の元1日に何時間も練習を重ね、いろいろと演奏会やコンクールに参加したのだが……演奏会では周りの上手い子達の足を引っ張り。コンクールでは惨敗に惨敗を重ねた上に、自分が一番良い成績だった時も一位を取ることはできなかった。最優秀賞に該当者なしとか、そんな感じの理由で。
──歩みは亀よりも遅く、終着点に立つ姿も想像できない。そんなあなたの成長をいつまでも待っていられる程、私の気は長くなかった。ただそれだけの話です……ごめんなさいね。
悪いのは自分なのだから、私は気に病まず独りで頑張っていってほしい。そう言って先生は私の指導を降りた。父も母も自分の仕事で忙しく教えを乞う暇はなかったし、兄に頭を下げるというのは論ずるに値しない。いつのことだったかはもう覚えていないが、あれから私はずっと一人でバイオリンを弾き続けている。
先生に見捨てられて以降、私は一度たりとも外でバイオリンを弾いていない。自分に自信がないという訳ではないし、あれからレッスンを受けられていた時の何倍も練習を重ねて、当時が比較にもならないくらい上手くなれたという自負もある。今ならばきっと、そこそこ名のあるコンクールでも一位の有力候補くらいにはなれるだろう。
それでも、そうしないのは。
「何で私は、こうもダメなんだろうなぁ……」
あの時は確かに、思い描けていたはずの理想的な自分になれていないと。自分で勝手にそれを悟ってしまっているからだろう。厚かましくも己の無力と狭量にそれらしい言い訳をくっ付け、かつて舞台で見た彼らのような演奏ができない自分から目を背け続けているのだ。
才能がない。実力が足りない。彼らのような心を震わす音を奏でられない。大勢の前で他人に堂々と聴かせられるような音じゃない。
だから、舞台に立ってはいけない。
そうやって言い訳を重ねながら、私は独り練習を重ねてきた。
自信も実力も、全てはこうした積み重ねによって少しずつ作られていくものだ。無神経にも場違いなコンクールに参加しては、粉々に打ち砕かれてきたあの頃よりも少しはマシな自分に。その思いでただひたすらに弓を弾いていくのだ。
「……続き、やるか」
仰向けに寝転がる身体を起こし、机の上のバイオリンと弓を再び手に取る。先生に「あなたにはこれくらいが相応でしょう」と言われてから、もう何年も弾いてきた『きらきら星』。流石にこれを弾く姿は様になっていると、鏡に映る一糸乱れぬ姿勢を見ていたら思う。多分同年代で……いや近い年代でも私以上にきらきら星を弾いた者はいないだろう。
最初はゆっくり、姿勢と音の出し方には注意して少しずつ弾き切る。ミスなどまずあり得ないくらいに完璧に、一曲を最後まで奏でる。一曲弾くごとに少しずつ速度を上げながら、これを『きらきら星』を弾いていると分かるギリギリまで繰り返す。音楽に興味ない人が聴いたら、ただ適当にガチャガチャやってるだけと思われるくらい。
どんなに速くなっても、姿勢と音は崩さない。
限界に達したら、そこからは今までと逆に速度を落としていく。雑音と捉えられかねない程の速度を本来のリズムに戻し、ここからはひたすらリズムを維持したままで弾く。
深く、深く曲の中へ潜る。きらきら星という曲の情景をイメージし、それを固めていく。私が見るのは家族でキャンプに行った時に見た、キャンプ場の上に広がる満天の星空。町の灯りや空を漂う雲など何一つ邪魔のない、圧倒的な景色。こんなにも綺麗なものがあると知ったあの時の感動を、弓に乗せてより良いものになるように。
──うん、いい感じ。
今までで一番弓のノリが良い。自分でそう思えるようになると、成長しているということを実感できるようになる。良い演奏ができているということが自信に繋がり、自信のある堂々とした立ち姿は聴き手にも良い印象を与える。……まぁ、独りでの練習なので聞かせる相手はいないのだが。
「まーだ弾いてんのか。その下手糞なバイオリン」
「……兄さん。帰ってたの」
せっかく良い気分で弾けていたのに、ドアの開く音と同時に聞こえてきた声で台無しにされる。私の最も嫌う存在である兄が、スルーすれば良いものをわざわざ煽りに来やがったのだ。最近はあまり絡んでこなかったから珍しくはあるけども。
私はこいつが嫌いだ。小さい頃は練習していると事あるごとに邪魔しに来るし、コンクールに出ると決めたら自分も同じコンクールに出張って、優勝を掻っ攫っていく。口を開けば「下手糞」だの「才能ないのに何でバイオリン弾こうと思ったの?」だのこちらを苛立たせることしか言わない。一度ぶん殴って前歯へし折ってやったのにこれだから、これは筋金入りのクソ野郎である。
「コンクールにも参加してこない、学校の部活にも入らない、地域の演奏会にも参加しない。ネットに演奏動画をアップしたりする訳でもない。聴き手のいない演奏続けて、何の意味があるってんだ?」
「兄さんにはどうでも良いことさ。私が弾きたいと思うから弾いてる……理由はそれだけ。他人に横からうだうだ言われるような問題じゃない」
「下手の横好きがよく続くもんだな。その恥知らずっぷりは相変わらず大したもんだ」
「そっちこそ、最近準優勝だの三位だのばっかりでうだつが上がらないみたいじゃん。人に構ってる暇があるなら、さっさと自分の部屋に帰って練習でもしてたら?」
気にしてることを言われ癪に障ったか、兄は何も言わずに背を向けて部屋を出て行こうとする。茹で蛸みたいに顔を真っ赤にして怒ってる様は、愉快で面白いのだが。もう一つだけ言っておきたいことがあったので、私は兄を引き留めてそれを伝えた。
「6月の東京コンクール、私も出るから。久しぶりに勝負だね」
「……お前にゃ予選突破も無理だ」
「分からないでしょ、兄さんには。私に絡んできたのも久しぶりだし、その間に私がどれだけ変わったかなんて知る由もないし。兄さんなんて目じゃないくらい、私は上手くなったんだよ」
「……言ってろ。例えお前が本当に出場するんだとしても、周りのレベルに叩き潰されるだけだ」
捨て台詞を残して去っていく。どうやら兄のケチなプライドを刺激したようである。周りのことばかり言って、自分のことを私を倒す勘定に入れていないのが浅ましいところだ。そこは優勝するのは自分だから勝負にもならない、とでも大口を叩いておけばよかったのに。
まぁ兄のことはどうでもいい。同じコンクールに出るからと言って別にアレだけに構っている訳にもいかないし、かつては胸の内を占めていた劣等感も今ではどうでも良いものになっている。アレの存在が私の演奏に影響を与えることはあり得ない。
──そろそろ、新曲アップされてるかな?
兄のことを意識の底に押しやり、私はスマホから動画サイトのあるアカウントを開く。数ヶ月前に発見して以来ファンになってから、オリジナルの新曲が出る度に真っ先に聴いているのだ。毎月1日の23時に出ると決まっているので、その時間に合わせればすぐに聴けるようになる。
弾いているのはギター、私とは違う畑の楽器だがその実力はすぐに分かった。多分キャリアで言えば私と同じくらいはあるかもしれない、弾き込んできていることが分かる迷いのないメロディ。歌う声を聴くに多分歳も近いと思う。誠に勝手ながらめちゃくちゃ意識してる相手でもあった。
「お、もう出てる。今度はどんな曲かな……っと」
音量をできる限り引き上げて、既に何万回という再生回数が記されている新曲を開く。曲のテーマによっていろいろ差はあるが、一貫してポジティブな歌詞や曲調をしているという共通点がある。聴いていると背中を押されるどころか、胸ぐらを掴まれて引き摺り回されるかのような気分になるので、苦手な人はとことん合わないだろうが、私はそういった有無を言わさぬ前向きな感じが結構好きだ。
──ふむ。今回のテーマは「迷路」、かな?
灯りのない暗い暗い細道を、何度も行き止まりに阻まれながらも膝を付くことなく歩き続ける。光が見えるとは限らない、永遠に抜け出せることはない袋小路かもしれない。だがそんなものはできることをやらない理由にはならない。
地に足が着いているのなら、必ずそこには歩いていける道がある。ゴールはすぐそこかもしれないしもしかしたら、一生かかっても辿り着かない遥か先かもしれない。それでも一歩足を踏み出せば、その分前に進める。ゴールは確実に近付いてくる。
だからまずは、一歩だけでも歩いてみろ。
だいたい、こんな感じのテーマで作られた曲なのだと思う。低く重苦しいメロディが途中でリズムとテンポを変えながら、終盤に向けて少しずつ希望を思わせるような、高く明るいメロディが少しずつ混じりだす。
このアカウント──『六月』のいつもの曲だ。きっと、そういうつもりで作ったという訳ではないのだろうが。聴いていると何だか気分が上向いてきて動かないとという気にさせられる。実際に曲を聴き終えた私はいつのまにか楽器を手に取り、鏡の前に立って練習を再開しようとしていた。
──やっぱり、良い気分転換になるね。
もう夜も遅い時間だし、明日は委員会の活動があるから朝早く登校しないといけない。それでも気力が回復して体力も有り余っている。練習を止めるという選択肢はあり得なかった。
結局、兄がちゃんと扉を閉めていなかったせいで音漏れしたいたのが母にばれ、大目玉を喰らうまで練習は続いた。午前3時のことである。
「まったく……!才能がないから努力するしかないといっても、限度ってものがあるでしょう!TPOを弁えなさい!」
「面目ない……」