卒業後のシンボリルドルフとトレーナーが色々あって結ばれる話

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38万キロの旅路~シンボリルドルフとトレーナーのある1日~

 Ⅰ なげきとて 月やは物を 思はする

 三日月の柔らかな光が、カップの中のコーヒーに浮かぶ。腕時計を見やると短針が9時の方を指している。

 ——もうそろそろ帰らないと怒られるな——

 そんなことを考えて、カップの取っ手に手を向かわせる。しかし、コーヒーの湖面を見て俺はその手を止めた。

 深い黒茶色の中に浮かぶ月を見ていると、その黒茶色の面積が和紙の上に墨を落としたように頭の中で広がっていく。すると次第に真珠のような白い肌、アメジスト色の瞳、鹿毛のボリュームのある髪とふわふわとした耳が広がっていく。その顔はまさしく俺の元担当のシンボリルドルフだ。

「トレーナー君、無理はいけないよ」

 その幻影が俺に話しかけてくる。幻影とは言え、ルドルフに話しかけられて涙の粒が眼まなこの表面を雲のように覆い始めた。

 ああ、俺はルドルフのことが恋しいのだろうか、今の自分の惨めさが嘆き悲しいのだろうか。とにかく、圧縮機に押されて油が出てくるように涙がぼろぼろとあふれてくる。

 地平線近くの三日月と幻影のルドルフはただただそこにあるのみだ。何も慰めてはくれない。心と涙腺への重しの重量が増していくのみだった。

 

「トレーナーさん、大丈夫ですか?」

 聞き覚えのある声が鼓膜を震わした。その瞬間にルドルフの幻想はふっと消え去っていた。

 その声のほうに振り返るとたづなさんがトレーナー室の扉を開けて、ひどく心配そうな顔をしていた。

 

 どうやらたづなさんは、廊下を歩いているときにトレーナー室から俺がむせび泣く声が聞こえてきて慌てて入ってきたらしい。ただでさえ忙しいのに、とんだ迷惑をかけてしまったと思った。

「はい、何とか……」

「ほんとですか? 最近ずっと残っていらしたので」

「まぁ、性分というか、ウマ娘を第一に考えた結果ですから。苦とは思っていなかったのですが、身体は正直ですね」

「自分自身が倒れたら悲しむのは第一に思っているウマ娘ですよ」

 わかっている。わかっているのだけれども、チームのウマ娘たちの無限の可能性のためにブレーキを止められない。研究者が真実を追い求めるあまり、その興奮と引き換えに時間と我を忘れるのと一緒だ。

「とりあえず、その涙を拭いてください」

 たづなさんは俺に純白のハンカチを渡してきた。俺はそのハンカチで目の周りや涙が滴った個所を拭き取った。ハンカチから立つ柔軟剤の匂いが俺を現実に引き戻し、涙がすぅーっと引いた。

 

「もういいですか?」

「はい、ありがとうございます」

「……トレーナーさん、仕事に戻ろうとするのはやめてください」

 たづなさんが声をかけてきて気づく。俺は再びパソコンに向かおうとしていた。俺は素早く上書き保存をしてパソコンをシャットダウンした。そして元凶たるコーヒーを飲みほした。秋の寒さに晒されてしまったコーヒーはその香りを失い、苦みと酸味だけの液体が俺の食道へと流れ込んだ。

「今日はこの辺にしてください、トレーナーさん」

「わかりました」

 たづなさんが見ている中で、俺は逆らえるだろうか。それは無理だ。結局、俺はたづなさんと一緒にトレーナー室を去った。

 

「……チームの様子はどうですか?」

 廊下に出てトレーナー室の鍵をしめ、さぁ家路につこうとした時にたづなさんが質問をしてきた。少し、嫌な質問だ。

「えぇ、みんな目標に向かって頑張ってます。俺にできることと言えば、彼女たちの夢や将来のために懸命になるぐらいです」

「謙虚ですね。専属契約からチームに切り替わってからもクラシックを取らせるなんて、なかなかできることではないですよ」

「いえいえ、それは彼女の才能の開花がはやかったと言うだけです。問題は俺が彼女の才能を萎ませたり枯れさせたりしないようにということなので」

「素晴らしい心がけですね。そう言えば、ルドルフさんとは何かしらつながってます?」

 一番来てほしくない質問が来た。そりゃそう。俺がここにあるのはすべて彼女のおかげだから。

「メールのやり取りや電話とかはしていますよ。まぁ、彼女も彼女でだんだん話す時間が減ってきているのが悲しいものですが」

「やはりURAの理事となると時間がとられてしまいますね」

「ええ、彼女の性格も相まって余計に……」

「……」

 沈黙が廊下に響く。別のトレーナー室からタイピングする音が鳴る。たづなさんは少し考えるような、何かを察したような顔をした。

「どうなさいました?」

「ああ、いえ、お互いに似た者同士だなと思って……」

「まぁ、そうかもしれませんね」

「ともかくトレーナーさんは無理なさらないでくださいね。明日はお休みになってください」

「わかりましたよ」

 そんなことを話している内に俺とたづなさんはトレーナー棟の玄関に到着した。たづなさんの目線が少し厳しく感じる。無理もない話であるが。

「それではお気を付けて」

「……はい」

 そして、俺は半ば強制的に家路についた。

 校門にあと2、3歩程の所でトレーナー棟のほうに振り向く。すると5割程ライトがついているトレーナー棟の元、若葉のように鮮明な緑色のジャケットがくっきりと見えた。その緑が「帰れ」と強い口調で命令してくるように写った。

 明日は木曜日。休暇をとるトレーナーが増えている曜日だが、俺はとらなかった。

 それは俺の師匠がそうであったのが1番大きい。師匠はもう引退されてしまったが、とにかく真面目な人であった。トレーナーをしている間はとにかくウマ娘優先。トレーニングメニューの作成やレースの分析、はては進路相談や勉強会までやるなど、とことんウマ娘に尽くした。それは、門下や影響を受けた人にも考え方は受け継がれている。しっかり休んでパフォーマンス性を高めるかコツコツとマメに取り組むか、どちらが正しい訳では無いが、俺は後者の方がやりやすい。

 しかし、明日学園に足を向ければたづなさんに追い返されることはわかりきったこと。

 今日はとっとと寝て、心身ともに回復した状態で臨む。それが優先事項だ。

 秋の夜風が、涙に濡れたジャケットを乾かした。月はもう沈んでいた。

 

 Ⅱ 今宵は「ジグー」には至らず

 部屋に帰ってからは熱いシャワーを浴び、歯を磨くなどした後にベットで横になった。夕食は職場で済ませたのでお腹は減っていない。

 

 目を瞑ると、身体の中からどす黒いもの——コーヒーの黒——が渦巻き、波打ち、大河のように広がっていく。大河は欲望にあふれている。けれど、それは決して邪なものでなくて、表現や真実、ある目的に向かって一直線に感じるようなものだと思う。俺はその黒い大河に呑まれていく感じがした。

 気づくと、俺はやたら明るく、熱いライトの下に立っている。周囲一帯は暗闇だ。

 正面の方からカツッ、カツッという靴の音が近づいてくる。怪物か化け物か、俺は身構えた。その音が頂点に達したところで、暗闇を引き裂くようにして白いタキシードを着たルドルフがライトの下に現れた。

「私のデートになってくれないか? トレーナーくん」

 そう言うとルドルフは手をこちらに差し出した。

 俺はなんの躊躇いもなく-と言うより引き込まれるように-手を出して、彼女の手と重ね合わせた。

 そして、「お気に召すままに」と答えた。

 ルドルフは手を握ると、俺の身体を強引に引っ張ってもう片方の手を掴んだ。薔薇の香りが顔に降りかかる。ワルツを踊り始める体勢だ。

 右前の方でもう一つスポットライトが灯った。その下には黒いタキシードを着た男がいる。彫りの深い顔、少し茶色に近いブロンズの髪の毛はオールバックをしている。右手には陰鬱な、それでいて荘厳な金色のフルートを手に持っている。

 その男がフルートを構えて一つ、ブレスをしようとすると、ルドルフは足を少し前に動かした。男が歌口に息を踏み込むと、オルガンやオーケストラを想起させるほど色艶やかに、重厚な音を出した。まるで、今吹いているものが魔笛かのように、バッハのパルティータを演奏し始めた。

 その音楽に併せて、俺とルドルフは踊り始めた。音楽の流れのままにステップを踏んだ。

 俺たちの踊りは、クリスマスの日、屋上で踊ったものとは段違いにスムーズだった。あの時は俺がルドルフにリードをされてばかりだったのに、今はお互いの呼吸や鼓動がぴったり合っているみたいで、一切のずれがない。このままずっと踊っていたい、そう思った。

 しかし、無情なことに、三曲目が終わったところでその男は楽器を下ろした。それと同時に、スポットライトが消え、握っていたはずのルドルフの手も消えてしまった。

 俺は彼女のために最後まで何もできない。そんなことを思って悲観していると、目の前にクレーンゲームの台があらわれた。

「トレーナー君、あれが欲しいな」

 後ろから声が聞こえた。クレーンゲームのアクリル板はルドルフを映している。先ほどまで白いタキシードを着ていたのにも関わらず、反射しているルドルフは冬服のセーラーとキャラメル色のカーディガンを着ている。

「ああ、わかった」

「頼むよ」

 ルドルフの視線は勝負服を着たルドルフのぱかプチに向けられている。俺は慎重にクレーンのアームを動かした。

 クレーンがぱかプチの頭上に下ろされ、きれいに垂直方向に持ち上げられた。勝負服の勲章が重なり合い、緊張の中で反響する。ルドルフのぱかプチにはトウカイテイオーとツルマルツヨシがしがみついている。テイオーの脚にはキタサンブラックがついてきている。そのぱかプチたちは現実だとありえないバランスでありながら、何事もなく取り出し口の上まで来た。映るルドルフの顔は有頂天だった。

 アームが開き、ぱかプチが穴へ落ちる。その時であった。

 

 ピンポーン

 

 俺の耳に、部屋中にインターホンの音が響き渡った。俺は夢から覚めて、インターフォンのモニターの方に向かった。

 

 モニターにはウマ娘用のフルフェイスヘルメットをしているウマ娘がこちらを向いている。バイザーの奥からアメジストのような瞳が見えた。画面の向こうの彼女は月夜に囚われの姫を開放する騎士、あるいは勇者を導くアテナに見え、一気に覚醒する感じがした。

「久しぶりだね、トレーナー、いや、〇〇くんと言った方がいいだろうか」

 ザラザラとした電子音だが、確かに聞き覚えのあるアルトの声。これは夢ではない。

「……久しぶり、ルドルフ。今そっちに行く。待っていてくれ」

「あ、トレっ」

 俺は急いでクローゼットの方に向かった。モニターの向こう側で俺を呼ぶ声がしたが、廊下を走る音を聞いたとたんにその声は途切れた。

 クローゼットに着くと、俺は早々とパジャマを脱ぎ捨てた。暁闇の僅かな光しかない中で、着るべき服を探す。少し色の薄れたジーパンを履き、カーキ色のフライトジャケットを白いタートルネックのインナーの上から羽織った。これはある種の正装だ。

 その後、人に会える程度に洗顔をし、髪を整えた。洗面所から玄関までの廊下、俺は下降する秋の気温を確かめた。冷たさを感じないように早歩きで向かい、くすんだキャラメル色のブーツをはき、ヘルメットのふちを掴んだ。そして、マンションの一室を飛び出し(もちろんカギはした)、下で待っているであろう彼女のもとに急いだ。

 

「遅くなってすまない」

 俺は息を切らしながら、彼女に言った。言葉の先には鹿毛のウマ娘が黒いサイドゴアブーツに白いパンツ、革ジャンといういでたちで立っている。髪を後ろに一つに束ね、ブーツは流行に疎い彼女らしからぬ若々しいデザインのものだ。

「そんなに急いで来なくてもよかったのだが」

 ルドルフはやれやれとした顔で答えた。

「さっきまでヘルメットを着けてなかったか?」

「ああ、君の声をはやく聞きたくてね。どうしても辛抱できなかった。けど、君はすぐにどっかに行ってしまったものでね」

「君にはやく面と向かって会いたかったからね。もうちょっと喋ればよかったな」

「まったく、君はいつも……」

「どうした?」

「いや、なんでもない」

 なんでもない、と言いつつ、ルドルフの尻尾は不思議なうねりを見せていた。加えて、暁の薄暗さの中でもわかるくらいに顔を赤らめている。

「そういえば、ヘルメットをしていたってことはバイクか何かで来たんだろ? 服もいつものと違うし……」

「よくわかったね、トレーナー君。有智高才、流石、トレセンのトレーナーと言うべき洞察力だ。少しついてきてくれないか?」

「いいよ。ルドルフのことだし」

 

 ルドルフに連れていかれた先には、クラシカルな黒いカフェレーサーのバイクがあった。ルドルフはその機体に跨ると、丁寧に手入れをされた尻尾を座席すぐ後ろのくぼみにその尻尾が動かないように押し込んだ。そして、蝶番でつながれた門のような部品を下ろして尻尾を固定する。それはウマ娘用の尻尾固定器具であり、バイクで機器やタイヤに尻尾が引っ掛かることを防ぐために付けられている。

 ルドルフはこちらに手招きをした。彼女がそのように誘ってくることは想定内のことだった。俺は彼女のまたがるバイクに向かた。

 俺はルドルフのすぐ後ろの場所に跨る。そこは尻尾固定器具のあるところで、この器具は二人乗りの際に座席の役割も果たしている。ルドルフは俺が背中に来たことを確認すると、顔に微笑みを浮かべながらヘルメットを装着した。ヘルメットは先ほど、荒い画面越しで見たときははっきりとわからなかったが、それは口元まで見えるタイプのものだった。

 

 カチッ

 

 府中の閑静な住宅街にヘルメットのクリップがはまる音が響いた。その音は朝に鳴く鳥を刺激し、鳥たちの朝の歌を歌わせた。鳥の歌が聞こえてきたあたりで、俺もヘルメットを装着し、クリップをはめる。

 ルドルフは俺がヘルメットを着けたことに気付くと、こちらに振り返って

「トレーナー君、しっかりつかまってくれ」と自信たっぷりに言った。それはレース前に俺にかけた言葉にとても似ていた。──ダービーや有馬記念の時を想起する──

 俺は言われるがままにルドルフの腰に手を回して、一体となった。黒い革ジャンからルドルフの背中を、体温を感じる。36度の体温。それは普通の人やウマ娘とあまり変わらない体温だ。しかし、彼女の内面から湧き出てくる雰囲気のようなものはどこか広大な、命の生まれ死にゆく母なる大海を想起させた。

「それじゃあ行こうか、トレーナー君」

 ルドルフはカギに手をかけてエンジンを起こした。エンジンの豪音が鳴り響くと鳥たちは指揮者がすべての音楽を終わらせたときのように歌をやめた。

「ルドルフ」

「なんだい?」

「テイク・イット・イージー。気楽にね」

「ははっ。私はマルゼンのように飛ばさないから安心してくれ」

 ルドルフはそう答えると、アクセルを開き、地面をトゥインクル・シリーズの時のように力強く蹴って足をステップに置く。

 晩秋の暁、二人を乗せた黒い機体が俺の住むマンションを出発する。空は少しずつ透明度を増していくが、地上はまだ闇の中。正面のライトはその闇を押しのけるように前方を照らす。俺はルドルフと一心同体にして体を彼女が進む方向に併せる。

 バイクはマンションを出て、誰もいないトレセン学園、熱狂と青春を生む府中競バ場をするすると通り過ぎていった。それまでは信号に引っ掛からなかったが、競バ場近くの信号で初めて引っ掛かった。その時に、俺はルドルフに疑問を投げかけた。

「なぁ、俺たちは今どこに行こうとしているんだ?」

「それは秘密」

 ルドルフは正面を向いたままで、いたずらごころたっぷりに答える。

「可能な範囲でいい」

「そうだな……我々に関係のある場所だな」

「その我々って」

 次の質問をしようとした時、信号は無惨にも緑色になった。俺は再びルドルフに心と息を併せて、バイクからくる衝動に備えた。

 それから信号には引っ掛かることはあれど、結局、質問の続きはできずじまいにバイクは高速道に入って行った。

 

 Ⅲ 葡萄酒色のオデッセイ

 高速道は平日の朝早くということもあり、トラック以外の車は確認できなかった。バイクは朝の冷たい空気をかき分けていく間に、朝の太陽が地平線の向こう側から姿をあらわす。東京の摩天楼やその血脈たる高速道、果てには遠州にそびえる富士山までもが夜闇の中から姿をあらわにした。バイクが陸地と陸地をつなぐ橋に差し掛かると、わずかであるが広大な太平洋が見えた。その海は、朝日に紫立ち、葡萄酒色であった。

 時速は90キロ。ウマ娘がレースで走るときより25キロほどはやいスピード。蒼々とした山の稜線を通う風のようになった。ルドルフが府中で、中山で、京都で、オリエントのターフの上で感じていたスピードを今、五感で感じた。そのスピードのために、時たまルドルフの髪の毛が風にさらわれて、汗に濡れたうなじが見える。普段は鹿毛でおおわれている首筋が見えたときは、花嫁のヴェールを上げたときのような、どことない幸福感と興奮を感じる。

 俺たちのまたがる機体は空の色が真っ蒼になるまで突き進んでいた。それは風に恵まれ、帆船が悠々と海を進むのに似ている。周りからは海や潮風、汽笛の音が消え、青々とした木々が占めるようになっていた。

 ルドルフはバイクをサービスエリアの入口へと向かわせて、駐車場に停めた。その一連の行為に妙な親近感を覚えた。ウマ娘がレース後にウィニングサークルに向かうのと似ているがどこか違う感覚。その感覚は覗いてはいけないような気がしてふたをした。

 ルドルフは革製の手袋を外した後、ヘルメットを外した。ふんわりと持ち上げられた後、下ろされた髪はヘルメット内で蒸れて出た汗が朝露のようについている。

「どうしたんだい? こちらをじっと見て」

 ルドルフは俺になんとも魔性な笑みを見せて問いかけてきた。

「なんでもないよ」

 そう返して慌ててヘルメットを脱ぐ。俺がヘルメットを脱ぎ終えたことを確認して、ルドルフは尻尾固定器具を外した。

「それじゃあ行こうか、○○君」

 そうルドルフが言って、俺たちはサービスエリアに足を向けた。

 

 向かった先はフードコートだった。ここで朝の腹ごしらえをしようということだろう。ルドルフと俺はある店を注視していた。それはウマックというハンバーガーチェーンだった。

「あそこにするか?」

「そうだな」

 ルドルフの返事はどこか子どものようだった。俺らは朝で人の少ないウマックのエリアに入る。

「なににする」

 カウンターの上のメニュー表を見ながら言う。

「……うーん、この時間に来たのは初めてだしな。君の意見をまず聞きたい」

「俺もそんな来るわけじゃないよ。そうだな……あんまり重いのは嫌だし、フィッシュバーガーのセットにするか」

「君に従うよ」

「じゃあ、決まりだな」

 食べたいものも決まり、カウンターで注文をする。俺はバーガーにポテト、コーヒーは幻影の影響で嫌だったのでホットティーを手短に注文した。ルドルフもバーガーまではスムーズにいっていたが、サイドメニューのところで少し止まった。

「すみません。サイドメニューにアップルパイがありますが、こちらにすることはできますか?」

「はい、できますよ」

 店員の返答を受け、ルドルフの耳はピンと立った。なんともリンゴ好きの彼女らしいことだと思った。注文を終えると、俺とルドルフは導線を邪魔しない位置に立ち、バーガーを待った。この時間に高速のウマックに来る人の数は少ないが、店員は的確で手早い対応をしてくれた。おそらく、店員は眼の前にいるウマ娘が史上初の無敗の三冠バであることは知っているだろうが、そのことによって異様な興奮を起こすことはなかった。

 俺は待ち時間に、がらんとした駐車場に目を向けて、

「……ルドルフがバイクなんて意外だな」

 とつぶやいた。

 ルドルフは是非とも待っていましたと言わんばかりに、自分がバイクに乗るようになったかの歴史を喜々として話し始めた。

「確かに、君は私が学園にいたときはそんなことは想像できなかっただろうね。けれどトレーナー君、人の心は秋の空、趣味趣向はすぐに移ろいゆくものだろう? 私も学園の頃は特別興味なかったけれど、シービーに誘われてしまってね。先ほどの君と同じようにタンデムをしたら、—ウマ娘の性なのだろうね—有頂天外、とてもわくわくしたのだよ」

 ウマ娘の中でバイクに乗る人というのは思いのほか多い。それはスピードを感じられるというものが多い。ただ、そこで感じる興奮というのは、我々人間の感じるものと異質だ。——遠い場所からくるような安心感——。俺が担当したウマ娘が卒業後、バイクに乗るようになったときに言ったこの感想。どうも、人間とは違う興奮と安心がウマ娘には感じているようである。あるいは、風の中で進む感覚をイデアの影の投影のように感じさせているのだろうか。

 ルドルフは続けざまに、

「あのバイクは祖父から譲り受けたものなんだ。祖父は若いころ、あのバイクで世界中を旅したそうだ。メンテナンスは欠かしてないから、性能に問題はないさ」

 とバイクについて話した。あのバイクから感じた古さは間違ったものではなかった。

 

 ブッー、ブッー

 

 俺とルドルフの手にあるブザーが振動とともに鳴った。

 228と書かれたブザー。

 俺たちはカウンターに行ってトレイを取り、近くの席に座った。

「そういえば、ルドルフってウマックは何回目?」

「8回目。君と初めて行った時、チームで行った時、シービーとマルゼンで行った時、すべて覚えているよ」

「残りの5回は?」

「そうだな、なかなか時間がなかった時が2回、学生時代を思い出して無性に食べたくなったときが2回、そして、今君と」

「学生時代を懐かしんでなんて、ルドルフもそう感じることがあるんだな」

「君は私を聖人君子だと思っているのかい? 私だって昔を懐かしむことはある。そうじゃなければ、君と今ここで食べていない。さぁ、冷めてしまう前に食べてしまおう」

 そう言ってルドルフはハンバーガーの包み紙を取り、その中にあるものを口に運んだ。

 俺は彼女を神格化しすぎていたのかもしれない。ハンバーガーの味は、少し青春の味がした。酸味があってそれでも柔らかく、あったかくて—

 食事を終え、トイレを済ませた後、俺とルドルフは乗ってきたバイクの前に集まった。すると、近くにある車から、とあるクラシック音楽の旋律が聞こえてきた。ラジオを音源としているであろうその音楽は、広大なボヘミアの大地を彷彿とさせるファンファーレだった。

「「ヤナーチェクのシンフォニエッタ」」

 俺とルドルフは、ほぼ同じタイミングでその曲のタイトルを口にした。バリトンとアルトがあてもなく合わさり響いた。

「まさか君がこの曲を知っているなんてね」

「それは俺も一緒だ」

「ここの高速道で、この曲の名前を知っているのは何人いるのだろうね」

「最悪、俺ら二人だけかもしれない」

「それもそれでいいじゃないか、○○君。一心同体の君と私だけの秘密みたいで」

「それもそうだな」

 俺たちは再びバイクに乗り込んだ。旅はまだ続くみたいだ。

 

 ~⏰~

 

 スピードに乗るままに、相も変わらずバイクはルドルフの行こうとする場所に向かっていた。高速を降り、市街地を抜け、最終的には海の見える田舎の丘までたどり着いた。

「さぁついたよ、○○君」

「目的の場所はここかい?」

「ああ、そうだ」

 ヘルメットを脱ぎ、バイクを降りると、眼前には時代を積み重ねた木造の建物がある。

「ルドルフが連れていきたかったのはここ?」

「そうだ」

「じゃあ、関係の深い我々っていうのは……?」

「それは私たち、シンボリ一族のこと。この旅館はシンボリ家と昔からの付き合いでね。中にその証拠があるんだ。君に見せよう」

 ルドルフは俺の手首をつかんだ。秋風に当てられた、手袋の上からもわかるほど冷たい。引き込まれるようにして、俺はその旅館の中へ入って行った。その途中、見覚えのある赤い車が止まっていた。

 

 Ⅳ 時に道は美し

 旅館に入ると、白髪交じりな女将が整然と立っている。女将は紅葉の柄がある白い絹の着物を着ている。女将はルドルフに

「久しぶりでございますね、お嬢様。前に会った時よりも大きくなりまして」

 と恭しく言った。ルドルフはそれに答えて、

「お久しぶりです、女将。前にあったのはトレセンに入る前でしたので……」

 女将は俺の方に少し目をやった後、ルドルフの方を向いた。

「お隣におられますのはどちらでしょう?」

「彼は私の元トレーナーです。私にとって大切な人です」

「初めまして、トレセン学園でトレーナーをしている○○と申します」

「初めましてトレーナーさん。私、この和田館の女将でございます。今日はよく起こしになりました。ささ、どうぞおあがりください」

 靴を脱ぎ、框に上がりスリッパを履く。すると、こういった古い日本家屋特有の香りが鼻に入ってくる。それはこの建物が積み重ねたものと、ある種の聖域を示すものだった。

「お部屋にご案内致します」

「いえ、後で構いません」

 ルドルフは女将にこう返すと、俺の方を向いて

「先に温泉に行こう。君も私も冷えて疲れているはずだ。ここの温泉は疲労回復に効果がある」

 と言った。俺はこくりと頷き、ルドルフの案内に委ねることにした。

 廊下を1、2分ほど進んだ先には、紺色の暖簾が見えた。暖簾の奥からは、鉱物の少しきつい匂いが溢れている。ここが浴場であることは間違いない。目の前に来ると、白墨で『男湯』と『女湯』と豪快に書かれている。

「ここだ、○○君。しばらくの別れになってしまうな」

「たかがお風呂ぐらいじゃないか」

「いやしかし、朝からずっと一緒にいるものだからな」

「まぁ、そうだな」

「それに加えて今日は日帰りだ」

「そうだろうね」

「ほぉ、君はよく日帰りだとわかってくれたね。どうしてだい? 君の推理を聞きたい」

「そんな推理なんて大したものじゃない。ただ、泊まりだったらもっと前から言うはずだし、車で来るはず。多分、ルドルフは今日休みでここに来ようとした。そして、僅かな可能性を狙って俺のところにきた」

「お見事。私の動機まだ完璧だ。流石は○○君だね」

「今日休みで運が良かっな」

「合縁奇縁、本当に運がいいものだ。それじゃあ、お互いに温を楽しむとするか」

 ルドルフは暖簾をくぐって女湯の方に入っていった。暖簾が風に揺れる柳に見える。

 

 浴場には誰もいなかった。温泉は磨かれる前の翡翠によく似た色をしており、なおかつ鼻の中の皮膚を突き刺すような匂いだった。

 —なるほど、入り口で嗅いだのはこの匂いか

 そんなことを考えながら体を洗う。

 浴場は一面がガラス張りになっており、そこからは遙遠に続く太平洋が望める。海を眺めて湯の中にある石の段差に身体を横たえる。そうすると、今まで自分の内で渦巻いていた、不安や重圧、疲れが滲み出てくるような感覚になった。まるで自分が絵の具がついた絵筆になり、その絵の具を落とすために水につけられた気分だ。

 それから15分。湯の中に身を委ねると、どす黒く渦巻くものが身体の内から抜け出した感じがした。俺は湯船から出て、着衣所にまっすぐ向かった。バスタオルで肌についた水滴などを丁寧に拭い去る。暖房が効いているものの、秋の空気が少しずつ肌の表面から冷ましていった。それ故に、俺は下着と備え付けの浴衣を手早く身にまとった。糊のよくきいた浴衣。その上の紺色の羽織が身体を冷えから守った。

 浴場から出た後、俺は待合室のソファに腰掛けてルドルフを待った。ウマ娘は尻尾があるが故に人間よりもお風呂の時間が長い。尻尾固定器具に挟まれ、晩秋の厳しい空気に晒されればなおさらだ。俺はそのことを承知で雑誌を読んで待つことにした。

 選んだ雑誌には『想駆11月号~女王の更なる高み、新たな時代~』と銘打たれており、今年、トリプルティアラを達成したウマ娘が表紙に写っている。そのくりりと澄んだした瞳からはルドルフを、いやそれを超えるウマ娘になろうとするオーラが写真越しに溢れている。

「ルドルフを超える」。

 それは俺にとって少し怖いことでもあり、同時に楽しみな事実でもあった。その事実は眼差しを向けられるルドルフ本人も恐怖と興奮の混じったものであろう。彼女の次の舞台はジャパンカップ。ルドルフも制したレースだ。彼女がいかにルドルフに挑み超えていくのか。その憧れと確信が、インタビューからひしひしと伝わってくる。

 しかし、その眼差しを向けられている当の本人はなかなか浴場から出てこなかった。かれこれ1時間ほど待っている。のぼせてしまい意識を失ってしまったのではないのか。そんなことが頭をよぎる。ただ、女湯に入るわけにもいかないので、女将に言ってこようか考えている時だった。

「随分待たせてしまったね」

 艶のあるアルトが背後から聞こえた。振り返ると俺の着ているものと同じデザインの浴衣と羽織を身につけ、眼鏡をかけたルドルフが立っている。横にある髪の毛の1部は丁寧に編み込まれ、ハーフアップになっている。清楚さが強く前に押し出されており、新鮮さを感じる。

「そんなことはないよ。ただ、ルドルフが無事でよかった」

「君が心配になるぐらいに待たせてしまったことは申し訳ない」

「いいんだ。とっても似合ってる、綺麗だ」

 軽率な言葉がルドルフに向かって飛んでいった。その言葉を聞いて、ルドルフは顔をじんわりと赤らめた。それと同時に、2つの迫り来る気配を察知した。

「……誰だ?」

 そう言うと、柱の奥から2つの頭と4つの耳が見える。それは確かに見覚えのあるウマ娘の顔。

「やっほートレーナーさん!」

「お久しぶりね」

 現れたのは浴衣姿のミスターシービーとマルゼンスキーだった。駐車場に停めてあった赤いスポーツカーはマルゼンスキーのものであることが確定した瞬間でもあった。

「2人ともお久しぶり。もしかして、ルドルフの髪をやってくれたのは君たちかい?」

 そう彼女たちに言葉をかけた。マルゼンとシービーは顔を見合わせて子どもらしく笑った。

「よくわかったね。さすがルドルフのトレーナーさんっ」

「この髪型、バッチグーでしょ?」

「ああ、そうだな」

「ルドルフったら、久しぶりにお人形さんになるからすっかり固まっちゃて」

「ま、まて、マルゼン」

「そうそう、○○君はどんな反応をしてくれるんだろうなんて言っちゃってね」

「シービー、やめてくれないか。恥ずかしい」

「いいじゃん、トレーナーさんも似合ってるって言ってたし」

「そうよ、ルドルフったら今日は特別な日になりそうだなって、アツアツのアベックみたいなこと言っちゃって」

「はははっ、まぁいいじゃないか。俺だって久しぶりにルドルフにあえて、しかもこんないいところに連れて行ってもらって。今日を特別と呼ばなくてなんと呼ぶのか」

 あまりに軽率な言葉だった。ルドルフはその言葉を聞いて、顔をしかめ、髪を獅子の如く奮い立たせた。そして、無言で俺の腕をつかんで引っ張った。俺がソファから立ち上がったところでルドルフは

「君と2人きりになりたい。ついてきて欲しい」

 と小さな声で言った。その声はウマ娘であるマルゼンとシービーに聞こえているであろうが、彼女にとって重要なことでは無い。

 俺はルドルフの気迫に押されて顔を縦に降った。ルドルフは廊下の方に向かっていった。途中、ルドルフはマルゼンとシービーの方に目を向けた。その時の彼女らの顔は忘がたい穏やかで何かを見守るものであった。

 ルドルフは糸を手繰り寄せるように旅館の中を進んでいった。そして、ある一部屋にたどり着いた。ここが予約をしていた部屋なのだろう。

 ルドルフは俺と同じく着替えを入れてある紙袋から鍵を取り出して扉を開けた。中に入ると青々として爽やかな畳の良い匂いがしてくる。その匂いは幼き日に訪れた祖母の家を思い出したが、歴史のある旅館の格式を感じる。

 主室は典型的な旅館の書院造りだった。床の間には鶴の描かれた水墨画の掛け軸、菊の花がいけられている陶磁器の壺がある。広縁の向こうの窓からは、太平洋がどこまでも広がっている。

 ルドルフは部屋の中央に据えられた机に向かうわけでもなく、床の間の横にある棚から将棋盤を取ろうとしていた。

「手伝うよ」

「気持ちはありがたいが、今はいらないな。君はどこか適当なところに座っていてくれ」

 つい先ほどまでのこともあり、俺はルドルフの言ったことを無視するのをためらった。ルドルフは俺を試そうとしているのではないかという根拠の無いがもっともらしい推測が頭をよぎる。

「よいしょ」

 ルドルフは軽々しく将棋盤を俺の目の前に置くと、俺の対面に座った。

「一局するのか?」

「ああ、そうだな」

 ルドルフは何かを隠しているような言いぶりをした。俺は朧気に浮かんでいた推測をぶつけてみることにした。

「……もしかして、ルドルフは俺を試そうとしている? トレーナーになった時みたいに」

 ルドルフの目は光を湛えた。その光は歓びからくるものではなく、全力でぶつかりあえる相手を見つけたときのもの。俺はその瞬間、ゾクゾクとするものがあった。

「神機妙算、君には常々恐れ入るよ。君はここの玄関で見事な推理をしてくれたが、なにか大切なことを忘れていないかい?」

 そう言われて、俺はしばらく考えた。すると、確かに1つ、重大なことを忘れていた。それは俺がルドルフを知っているからこそ起こる過誤だった。

「……『動機』かい?」

「そう。君は私がなぜ来たのかを忘れている。結論から言ってしまえば、動機は君に愛の告白をするためだ」

「え?」

 その口から放たれた言葉は俺に驚きと混乱を与えた。確かに、俺はルドルフのことを大切な存在として認識し、求めていてもだ。

「困惑するのも無理はないと思う。君に会えていない間、私は君のことを求めていた。それは何人かが私に求婚をしてきたから。ただ、皆、私の名誉や家の財産目当ての不埒な者ばかりでね。余計に人馬一体でトゥインクルシリーズを駆けてきた君を強く求めるようになってね」

「なるほど、ルドルフの告白は受け入れるよ。俺もルドルフと一緒の気持ちだったし。……ところでこの将棋盤は?」

「ああ、これはマルゼンの知恵でね。私もタダでは付き合いたくない。それは君であっても例外では無い。だから、私と1局、対戦して勝ってくれ」

「ルドルフがその気なら受けて立つよ」

「私も手加減なしで君とぶつかり合いたい」

 

 対局が始まると、お互いに言葉を発することはほぼなかった。

 こちらが棒銀で攻めの姿勢を取れば、あちらは堅牢な囲いを築き上げる。あちらが四間飛車で攻めて来ようとすれば、こちらは山城の如き左美濃を組む。決着はなかなか着くものではなかった。まるでフリードリヒ大王とマリア・テレジアの戦いの日々のよう。しかし、決定的な違いはお互いが道をともにすることを望んでいるということである。

 そのような緊迫した雰囲気の中で、俺は子どもの頃に祖父と将棋を打ったことを思い出す。何度もやられてはリベンジを繰り返し、策を練っていたあの時を。

 そう回想をしていると、ルドルフの盤面に僅かな隙が生じていることに気づく。

 一棒銀であの隙をつければ一

 そう考えて、駒を動かす。軽く、高いはずの打つ音が、やけに重々しく聞こえた。

 

「王手」

 俺がそう言い放ったのは、ちょうど120手のことだった。ルドルフは負けたのにも関わらず、爽やかな顔をしていた。正午頃のことであった。

「いやはや、負けてしまった。今から私と君は正式な仲だね」

「これからよろしく」

「こちらこそ」

 恋人の契りを結んだはず。それなのに、なにか収まらない感情が湧き出てお互いにそわそわしている。しばらく黙りこくっていたところで、俺が口を開いた。

「なぁ、ルドルフ。もう1局しないか? 今度はもっとカジュアルにやろう」

 その言葉を聞いてルドルフは何かが解けたような顔をした。

「名案だね。私も闘争心の残骸があったものだから」

「よしっ。お茶をいれてくるから、駒を並べといて」

「わかった」

 次に行われた対局では、気づいたら未来の話をしていた。

「ここの旅館はどうだい、○○君」

 カチッ

「すごくよかった。また余裕のある時に来たいな」

「それはよかった」

「来年も、なんなら毎年来てもいいかもね」

 カチッ

「そうだ、○○君。冬にはスキーに行こう。春には花見をして……なるべく人は多い方がいいな。マルゼンとシービーは喜んでくれるだろう」

「おっ、いいね。俺もテイオーとかキタサンとかツヨシも誘えたら誘うよ」

 カチッ

「○○君は夏には何がしたい?」

「そうだな……スキューバダイビングなんてどうだ?」

「石破天驚、いいアイデアだね。まずはライセンスをとらなければ」

 カチッ

「本格的だな。春先から通い始めるか」

「そうだね」

 カチッ

 駒を動かす間に夏の情景を思い浮かべた。ガラス色の海。同じデザインのウエットスーツが黒い流線形を描き、ルドルフの姿が神話で語られる海馬のようになる姿を浮かべた。

 突然、暗い影が盤上に落ちてきた。まだ、黄昏時でもないのになぜだろうと、俺たちは窓を開けて空を見た。

 見上げた空では日蝕が始まっていた。そうか、今日は金環日蝕だったか。月は光をもたらす太陽を食べた。そして、太陽と月は等しくなった。その輪は葡萄酒色の海に映った。

 シンボリルドルフは金環日蝕に手を伸ばした。白い腕が、手が幽かに暗い金色に染まっていった。鹿毛は琥珀色に光り、結い上げた髪の後ろからは、ゆたかな白色のうなじが色彩に溶けていった。

 全世界から見られ、照らす二つの天体でできた指輪をはめたルドルフの顔は、ラッパゆりが花弁を放射状に開かせるように目と口を大きく開けて咲いた。その時、神憑り的な印象を受けた。まるでアルテミスかアテナがそこにいるかのような幻想をした。蒼茫たる海が、美しく目の前に広がっていた。

 眠りが降り掛かってきた。対局は決着つかぬままに、俺とルドルフは眠りに落ちた。

 

 Ⅴ 38万キロの旅路

 覚醒は突然だった。目が覚めると、俺は畳に横たわっていた。頬が少しヒリヒリする。身体を起こし、周りを見渡すとルドルフが机に突っ伏して寝ている。まどろんでいる顔は聖母のようだった。

「起きて、ルナ」

 無意識的にルドルフの幼名を呼びながら、ルドルフを揺さぶる。

「う、うぅ〜ん。あと、ちょっと」

 ルドルフは子どもっぽい声をあげた。たまらなく愛おしい気分になる。

「いまなんじ? トレーナーくん」

 そう言われて時計に目をやる。西日があたりを照らし始めて、時計の針を見えにくくしていた。

「4時だよ」

「なにっ」

 ルドルフは飛び上がるように起きた。

「こうしてはいられない。君に案内したい所があるのに……!」

「ル、ルドルフ!?」

「さぁ、行こう」

 ルドルフは俺の手を掴み、引っ張りながら廊下に出た。そして、その勢いのままに旅館の端の方まで駆け抜けた。

 

 到着地は庭に面した部屋だった。俺とルドルフは縁側に隣り合って腰掛けた。

「ここは私たちシンボリ家の先祖が造った庭なんだ。その昔、鷹狩をしているときに出かけた際にこの旅館に泊ったらしい。だから、この旅館はそれ以来の関係なんだ。そしてこの庭は彼の好きだった琳派の絵を再現するために造らせた。ここで愛する人と過ごすのが何よりの楽しみだったそうだ」

「そうか……」

 この庭の話を聞き、俺がルドルフにとって特別な存在であることを実感する。

 目の前にある庭は中央に複雑な流れと泡沫を生み出す小川があり、その両端に鮮明な朱色の(もみじ)が構えている。夕暮れの金色の粒子が空を染めた。まさしく琳派の屏風だ。

「……すまない〇〇君。もう少し寄ってくれないか」

 そう言われて、俺はルドルフと肌が触れ合うところまで近づいた。すると、ルドルフは手を重ねるばかりか、尻尾を俺の腕に巻き付けてきた。

「君に尻尾があればいいのに」

「それはちょっと難しい話かな」

「けど、君の腕もいい」

「ルナ……」

 尻尾に絡まる腕、重なる手から振動の鼓動が共鳴し合う。だんだんと心臓の鼓動の律動が合わさっていく。

 金春色の空を白い航跡雲(コントレイル)がなぞっていった。今日、スキージャンプの日本代表が遠征のために出国するニュースを思い出した。多くの人々が航跡雲(コントレイル)に夢や希望を見ているのだろう。

「君は林檎の樹を植える」

 ルドルフは空を見ながら、そうつぶやいた。その言葉は俺がレース前にルドルフにかけていた言葉だった。

「今、新しい神話が生まれようとしている。君ならわかっているだろう」

「ああ。その神話は歴史に刻まれる。その神話は時に地図のように誰かに道を示すし、時に原罪となる。神話になるということは幸も不幸も生み出すことになる。だからと言って、何もしなかったり、忘れ去られるようなことをしていけない。林檎の樹が誰かの幸福への種ということを信じて植えるしかない」

「神機妙算、まったく君の言うとおりだ。それでも私は幸福を信じたい、いや賭けたい」

 しばらく、二人でその庭の秋の匂いと涼しさを楽しんだ。

「〇〇君。いいダジャレが思いついたよ」

 ルドルフがそう耳元で呟いた。

「聞かせてくれなんか」

「この浴衣はメキシコで作られたんだ。ユカタン半島(・・・・・・)、なんてね」

「ははは、なかなかいいな」

 俺が賞賛の言葉を飛ばすとルドルフは花を咲かせるような顔をした。その日見た中で一番の満開だった。

 

 ~⏰~

 

 夜が訪れると、俺とルドルフは元の服に着替えて家路の準備をした。玄関を出ると、マルゼンスキーの赤いカウンタックは姿を消していた。

「帰りは俺が運転するよ」

「本当にいいのかい?」

「一応、大学の時結構乗っていたし、せっかくいい体験をさせてもらったんだ。運転をさせてくれ」

「……つくづく君はお節介だな。それではお言葉に甘えて」

 ルドルフは尻尾固定器具をづらしてタンデムシートに座った。俺は前方のシートに跨り、ヘルメットを装着した。

 —そういえば、エンジンキーをもらってなかったなー

 そのことを思い出して、俺は後ろを振り向いた。ルドルフはすでにヘルメットをかぶっていた。

「そういえばルナ、鍵をもらってないよな」

「ああ、忘れていたね」

 ルドルフは鍵をポケットから取り出して、手袋をした俺の手の平に置いた。鍵が少し温い。

「〇〇君」

「なんだ?」

「地球から月までの距離は38万キロあるらしい。そんなに離れていても月は私たちを照らしてくれる」

 ルドルフは月のある方を見上げる。昨日より少し膨らんだ三日月が微笑むように地上を照らしている。

「『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉があるだろう?」

 ルドルフが意味ありげに偉人の言葉を引用する。

「そうだな」

「私はその太陽を蝕べてしまうのだろうか」

「……つまり、どういうことだ?」

「私は君という太陽を蝕べてしまいたい。この私を皇帝に戴冠した君を」

 ルドルフは口を開き八重歯を見せた。彼女は俺を噛みたいと思っている。俺は彼女のヘルメットのバイザーを下ろしてこう言った。

「まだ蝕われる時じゃないよ、ルナ」

 ルドルフは肩をなでおろし、腕を腰にまわした。

「……今日は君の家で晩酌をしたいな」

「お気に召すままに。うちにはおいしいワインはないけれど」

「そんなことは些細なことさ。私は君と酒を飲みかわし、本当の意味で打ち解けたい。ウマ娘の幸福を叶える者が、ひどく孤独では元も子もないだろう」

「そういうとらえ方もある」

「楽しみにしてほしい。いっぱいダジャレも考えてきたんだ」

 エンジンをかけてバイクは家路につく。帰還の途中、俺は運転するバイクの距離メーターに目がいった。そこにある数はバイクがたどってきた歴史、本当に大切に使われてきたのだなということを証明するものだった。そして、その数は俺とルドルフの到着点であり、新たなスタート地点。俺たちにとっての重要な一歩であることを祝しているようだった。

 俺はそのことをルドルフに聞こえるように、風の中でこう言った。

「384400キロ」


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