琴葉さんと虫と虫より情緒のない教祖のお話です。時系列は琴葉さんに教祖の実態がばれる少し前となっています。
現代ではあまり使われない単語・表現が含まれるため、後書きに注釈をまとめて記載致しました。また、地の文が童磨の視点に寄っているので、非道徳的な言い回しが複数存在しております。

※某掲示板にSSとして投下した物の加筆修正版です。

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ありと見てたのむぞかたき空蝉の
    世をばなしとや思ひなしてむ

(古今和歌集・四四三)


【挿絵表示】



花と天牛

「痛……っ」

 

 軽い悲鳴が夜の静寂(しじま)(ひび)を入れた。

 やや離れた場所で上がったそれを聞き付けて、それまで中庭の景色を眺めていた彼は、おや、と呟き顔を上げた。

 中庭もそれを囲う廻廊(かいろう)も、燭台の()に照らされている。(あで)やかな朱を(まと)()塗りの欄干(らんかん)と、そこに並んだ本金(ほんきん)鍍金(めっき)擬宝珠(ぎぼし)絢爛(けんらん)、対照的な平静を湛えた白砂の庭の隅を、柏や松の(つつし)み深い緑が飾り立てる。中央の池は五倍子(ふし)染めの色をした空を映し取り、冴え冴えとした偃月(えんげつ)を水の(おもて)(うか)べていた。

 ――しかし、どれだけ眺めていても、それらの視覚情報が彼の琴線(きんせん)()れる事はなかった。美しい光景だ、と評する事は出来る。だがその根拠は己の感性ではなく蓄積(ちくせき)した知識である。

 何も感じない。庭を観賞するという行為自体、意義も意味も分からぬままの模倣(もほう)であり、見とれて楽しむ者の真似(まね)(ごと)を重ねる行為は二重の欺瞞(ぎまん)で、実際には(いこ)う必要もなければ動く心も無い。

 それでも装う。それが彼の常だった。

 そも、そんな擬態(ぎたい)の下にしか、彼は――童磨は存在していなかった。

 夜闇を押し退()け燃え続ける燭台の赤々とした輝きが、知った声に振り向いた童磨の明るい髪や虹の瞳、(ひい)でた鼻梁(びりょう)(すべ)り落ちた。どうしたのだろう、と思っているかのような表情を作って、悲鳴のした方へと足を運ぶ。廻廊に面した櫺子(れんじ)(まど)から声の主に呼び掛けた。

 

「琴葉、何かあったのかい?」

「――教祖様?」

 

 櫺子格子の向こうから幾らか驚いた様子の声が返ってきた。童磨が入口の側へ回り込む間に戸を開けて、声の主――琴葉は、済まなそうな表情で頭を下げた。

 過度にあどけなさの残る娘むすめした表情が、彼女の頭の幾らかの不足を物語っている。それでいて愚鈍(ぐどん)な印象を伴わないのは、知性ではなく無知によって澄んだ眼差(まなざ)し――無知に裏書きされた無垢(むく)と純粋さを宿すその双眸(そうぼう)が、琴葉の元々整った顔立ちに、どこか浮世離れした美しさを上掛(うわが)けている為だった。

 

「ごめんなさい。大した事じゃないのだけれど、声を上げてしまって」

「構わないよ。どうしたんだい」

「ええと……そろそろ寝支度を調(ととの)えようと思っていたんです。そしたら」

「うん」

「伊之助が少しむずかりそうだったから、寝る前に二人で中庭に出て、夜風に当たろうと思ったんですけど、それで」

「うん」

「あ、けど、今は先刻(さっき)よりは落ち着いているんです。でもやっぱりちょっとぐずっていて」

「うん」

 

 琴葉の話の要点が中々見えてこないのはいつもの事だった。本題に関係の無い部分から始まって、度々(たびたび)内容が()れていく。今回に至ってはそもそも部屋の奥から不機嫌そうな喃語(なんご)が聞こえており、赤ん坊の状態について態々(わざわざ)説明する必要がまるで無い。使い勝手の悪い頭に生まれついて可哀想だなあ、と、何の感慨(かんがい)もない憐憫(れんびん)の言葉だけを義務的に胸裏(きょうり)に張り付けると、童磨は琴葉の右手に視線を移した。

 ――(かぐわ)しく甘やかな匂いに釣られて。

 

「……その血は?」

「ああ、はい、あの……」

 

 痛みにか、出血を抑える為か、真紅の(にじ)む拳は強く握り込まれている。戸口から一歩退(しりぞ)き道を開けてから、琴葉は左手で部屋の下方を指差した。部屋に上がって彼女の示す先を見る。

 黒褐(こっかつ)の体に薄黄色の斑点を散らし、大顎を備えた一匹の虫が歩いていた。

 

「なんだ、天牛(かみきり)か」

「はい。部屋を出ようとした時に気付いて……外に逃がしてあげようと思ったのだけれど」

 

 困り顔で小首を傾げて、琴葉は血の付いた右手を見下ろしている。不用意に捕まえようとして、木の幹に深々と穴を開ける顎で思い切り噛まれたのなら、確かに悲鳴の一つも上げたくなるだろう。

 

「どこから入ったんだろうなぁ」

 

 触角の付け根を指で挟み込む。畳寄せにしがみついていた刺々しい脚は、(いや)がって暴れた拍子に持ち上がり、天牛は摘ままれて空中を掻くばかりの格好になった。ギチ、ギィギィ、ギチと油を差していない金具のような鳴き声が響き、琴葉が眼を丸くする。

 

「まあ。こんなに大きな声で怒るのねえ」

「琴葉、ちゃんと血を止めて消毒した方が良いんじゃないか。俺が逃がしてくるから」

「え、でも……良いのかしら、こんな事で教祖様のお手を借りてしまって」

「何も気にしなくていいんだよ。俺は皆の為に居るんだからさ」

「――有り難うございます。それじゃあ、どこか緑のある所に放ってきてあげてくれますか?」

 

 緑のある所に放ったら、ほぼ確実に庭木に穴を開けられるのだが、態々それを指摘する気にはならなかった。足らない頭が招く結果に気付けないからこそ琴葉は善意でそれを望むのに、事実を教えて困らせても意味がない。それに、救済者を自負する以上、矮小(わいしょう)な生物にも慈悲を与えて(しか)るべきだろう。快諾(かいだく)を柔らかな笑みの内に示しつつ廻廊に出て、童磨は中庭に降りると柏の木目掛けて天牛を投げてやった。

 枝に引っ掛かって葉の裏に逃げていき、天牛はそこでやっと鳴くのを止めた。夜半の静けさが立ち返り、耳に残った威嚇(いかく)の音を思考の中に転がして、己を聖者と信じる鬼は暫しその場に佇んだ。

 

(――怒る、ねえ)

 

 琴葉はそう表現した。状況に対する反応の種別で言うならば、あながち間違った表現でもない。しかし本能、反射、そういった言葉を当て()めた方が正確である。小さく弱い生物であるが故の危機への過敏、習性として組み込まれた種を残す為の機構。結果引き起こされるものを怒りと名付けてみたとて、人のそれとは似ても似付かないだろう。天牛は脅威を感じたら抵抗すべく大声で鳴く仕組みを持っているだけで、脅威に当面して何らかの感情を抱いた訳ではない。

 さて、では怒りとはどんなものなのか。童磨はふとそんな事を考える。

 煮え(たぎ)るようだと人は言う。(ずい)まで達するのだと聞く。熱を帯びた印象だけが想像の中に朦朧(もうろう)とした形を作っては崩れ去る。

 そんな激しい感情ならば、覚えてもあまり役には立ちそうにない。有するべきは慈悲なのだ。憐れみ、慈しみ、救う事。それが自らの使命だと童磨は思っている。怒り嘆くのは苦しむ側、救いを望める側の心であって、救う側はそれを受け止めてやるだけで良い。

 つまるところ、童磨には怒りを学ぶ必要は然程(さほど)存在しない。だが、絶え間なく揺れ動き色かたちを変える人の心、その一片を垣間(かいま)見て何の関心も寄せずにおくには、彼は酷く半端な位置に生まれついた。

 快不快は感じる。好奇心も皆無(かいむ)では無い。疑問が生じれば答えを探し、時には気紛れに普段と違う道を歩きもする。ただ、どうやら肝心らしい所を欠いていると自覚がある――本心から喜んだ事も悲しんだ事も無い。物事に対して一々そういった反応を示す理由が分からず、意図を掴めないのも()る事ながら、一体全体どうすればそんな反応が心に自然と湧いて出るのか、それ自体が童磨には謎だった。人に生まれ人として生き、鬼となり鬼として生き、どれだけの時を経ても、どうしても彼は人間から遠いままだった。一度たりとも、人間では無かった。

 天牛は分かり易くて良い。けれど、人の心の複雑なつくり、生来それを持ち合わせなかった身からすれば不可思議なつくりに、もう少し近付く事が出来たなら、と(おり)()れて思う。知る事が可能なら知ってみたいのは本心だった。何しろ、この先もずっと施さねばならない身なのだから。

 救済を。幸福を。ありもしない極楽の体現を。――世には救いを求める者達が(ひし)めいている。

 

 弥勒菩薩(みろくぼさつ)が五十六億七千万年の後に下生して衆生を救うと聞いて、成程(なるほど)そうかと胸を()で下ろす者が居るだろうか。皆、今この時に(すが)るものが欲しいだけなのだ。

 死ねば魂は黄泉國(よもつくに)へ帰り、祖霊と共に家の守り神になる、と本気で思い込んでいるが故に、神棚に拝礼し柏手(かしわで)を打っている訳でもあるまい。皆、命が終わればそこで全て終わると認めたくないだけなのだ。

 耶蘇者(やそもの)達が天主(でうす)を信じていれば天国(ぱらゐぞ)に行けると(のたま)ったとて、真に純粋な敬愛から十字架を拝む者は幾人出てくるのだろう。皆、己の全てを許され(がえ)んじられたいだけなのだ。

 信じるものが何であれ、極楽の存在を前提にしているのが(さい)たる証拠ではないか。――皆々、いつかは救われるという確信を与えて欲しいだけなのだ。

 

(俺なら全部してあげられる。してあげられるし、そうしてる)

 

 望むままに縋らせて、永遠を与えて、全てを受け入れている。

 ――だというのに、物分かりが悪く『救い』に際して拒絶する信者が大半なのが困りものだった。

 泣いて(わめ)いて命乞いをする。理解力の乏しさも怯える姿も気の毒だからと、喰う前にきちんと息の根を止めてやるのだが、もっと心穏やかに最期の時に(のぞ)んで貰いたい。辛い苦しい助けてくれと言いながら、何故かそんな生にしがみつく。道理が見えていないのだ、部屋から逃がしてやろうとした琴葉を()んだ天牛と同じように。

 命が絶えれば不幸も不遇も解消される。取り込まれて、救いの為に生きるこの身と一つになれる。その幸福を、どうして理解出来ないのだろう?

 天牛は人と違い、道理こそ知らないが、誰に救われずとも幸福そうである。虫や草木は生きているだけで事足りている。あれらは生命として明瞭(めいりょう)で、今この瞬間を生きてさえいれば幸福なのだろう。

 人はそうなれない生き物なのだと、童磨は重ねた月日の内に学んでいた。己を思い他者を思い、過去を思い先を思い、それら一つ一つに喜び笑い、悲しみ怒る生き物。なまじ考える頭と感じる心がある所為で、楽しみと苦しみの帳尻が合わねば不幸なのだ。帳尻合わせに苦心して、それで余計に自分を追い込んでいく。

 だから――帳尻合わせ自体を()めさせれば良い。

 

(ただそれだけの話だろうに)

 

 何故分からせるのが難しいのか。

 自身には幸も不幸も感じ取れない童磨だったが、それでも色々な事を考えてきた。『人らしい心』を自分の心の向こう岸に見ながら考えて、導き出した答えを共有したいだけなのに、伝わらないのは何故なのか。

 

(だって、我が身の不幸が何より耐えられないのなら、つまり)

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 池の傍に(まん)陀羅華(だらげ)が咲いている。漏斗(ろうと)状の花が白い(おもて)上向(うわむ)けて、麝香(じゃこう)のような甘い芳香を振り撒いている。

 曼陀羅華は遠い異国の言葉、マンダラーヴァが転じた名だという。極楽に咲く天妙華(てんみょうけ)御仏(みほとけ)が世に現れる時、天から下りてくる花の呼び名なのだと。夜に咲き誇るこの花が、そんな馬鹿げたお(とぎ)(ばなし)の名を(たまわ)っている。夜に()まう救済者の為に(あつら)えたかのように。

 人を救わねばならない。

 それが敷かれた道である故に。

 他に望むものも、為したい事も、与えられた道も在りはしない。

 神も仏も実在しない。都合の好い与太(よた)話にしがみついていなければ生きてもいけない、弱く小さな人々の願いに応えられる存在は自分だけなのだ。今までも、これからも。

 

 ――そんな風に、無自覚のまま一面的な戯画化を()された『人が抱く自負の念』の真似事で、童磨は自身を絡繰(からく)るのである。

 

 部屋の前まで戻ってみると、楽しげな歌声が童磨の耳朶(じだ)を撲った。夜であるのを気にしてか、琴葉は(ささや)くような小声で歌を(つむ)いでいる。戸の引手に指を掛けたまま立ち止まり、童磨はしばし、それに耳を傾けじっとしていた。誰が見ている訳でもないのに、聴き入る情緒を持っているかのような表情を(つくろ)いながら。

 

……猫じゃ 猫じゃと おっしゃますが 猫が 猫が下駄()いて 絞りの浴衣で来るものか

オッチョコチョイノチョイ、オッチョコチョイノチョイ……

 

 口ずさんでいるのは子守唄や童歌でも、いつもの指切りでもない、少し前に流行っていた端唄(はうた)だった。明るく弾む音諧は寝かし付けには不適当だが、歌の後ろで合いの手の(ごと)く上がる喃語は上機嫌で、歌う琴葉の声も抑え気味ながら笑っている。

 

(……ああ。彼女は)

 

 ――彼女は、幸不幸の帳尻など合わせずとも幸福なのだ。

 命だけが生きる理由の全てだからこそ無感情に幸福な、天牛のような虫のそれとは違う。怒り悲しみ苦しむ心が在りながら、起きた不幸に(とら)われず、今の平穏だけで満たされている。

 所謂『綺麗な心』の持ち主で、だからこそ手元に置いた。心地(ここち)()さという感覚を知りたかった。

 

飛蝗(ばった)……飛蝗と、何だったかしら……」

 

 二番を出だしから間違って、間違ったその単語に拘泥し、琴葉は何やら詰まっている。童磨は戸の反対側から正しい続きを聞かせてやった。

 

 ……蝶々 蜻蛉(とんぼ)や 螽斯(きりぎりす)

山で 山で(さえず)るのが……

 

 途中から琴葉の嬉しそうな声が重なった。こうした時には微笑(ほほえ)むものだと童磨は知っていたので、目許(めもと)(やわ)らげ口角を上げて、正しく己の知識に従った。

 従っただけだった。

 

……松虫 鈴虫 轡虫(くつわむし)

オッチョコチョイノチョイ、オッチョコチョイノチョイ……

 

 ――童磨とて。

 童磨とて、感じてみたいと願ってはいた。自分にとっては学び、(なら)い、なぞるばかりの人の心が、人の中にどう息づいているのかを。その感覚を。

 しかし、そんな願いの軸でさえ、本能的な好奇と知識欲と、自分はどうやら異物なのだという判断に基づいた違和感に過ぎず、人の言う『寂しさ』や『疎外感』――痛み苦しみを伴うものには、決して変わってくれなかった。

 だから尚更、これだけだった。

 人を導く救い主でしかない。

 救い主を導くものはない。

 

……竹に雀は仲良いけれど

 切れりゃ 切れりゃ仇の……

 

()()()()()()()()()()竿()……」

 

 救済の(はて)へと至るまで、救いを欠いた救い主は、幸福の歪んだ模倣を繰り返す。

 




廻廊(かいろう)…建物、部屋、中庭などを取り囲むように造られた、長く屈折している廊下。

欄干(らんかん)…橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に設置する人の墜落を防ぐもの。柵状や横木状の造りで装飾を兼ねる場合が多い。

擬宝珠(ぎぼし)…神社、寺院の欄干の柱頭などに設ける飾り。

櫺子窓(れんじまど)・櫺子格子…連子窓。方形断面の木材や竹材による縦格子の窓。神社、寺院でよく見られる他、かつては町家などでも用いられた。

※天牛…カミキリムシ。鞘翅(しょうし)目カミキリムシ科。長い触覚と大顎が特徴の昆虫。

※おっちょこちょい節…江戸後期から明治にかけて広まった俗謡(ぞくよう)
 まず「蝶々とんぼ」の歌詞が江戸期に、後に作られた「猫じゃ猫じゃ」の歌詞が明治期にそれぞれ流行した。発祥と流行期が異なる為、どちらが一番、二番という明確な決まりはない。「竹に雀」は元々は世語(俗界の巷聞(こうぶん)に由来する和語の禅語)であったものが後年歌詞として引用されたもので、禅林世語集に記載されている。

曼陀羅華(まんだらげ)…別名ダチュラ、チョウセンアサガオ。ナス目ナス科チョウセンアサガオ属。江戸時代に薬用植物として渡来。同科のキダチチョウセンアサガオ属と頻繁に混同される。原因は双方の流通名が共通して「ダチュラ」「エンゼルトランペット」である為。チョウセンアサガオ属は上向きの花を付ける多年草、キダチチョウセンアサガオ属は下向きの花を付ける低木である。

 花言葉は「偽りの魅力」「変装」「夢の中」「陶酔させる」「恐怖」など。

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