──これこそが私カーク・ラルドが幾何学的とは言えない人間の精神が、不可逆的な時間を有するものだと主張する根拠である。

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本文

「時間というものは不可逆的なものであると三文科学は述べるが、幾何学的ではない人間の精神においてはその限りではない」

 

私の持論を妻カレンは黙って聞いていた。

そしてハーブティーを口に含み、唇を濡らすと評論を述べた。

 

良人(おっと)である貴方の意見を尊重するのが、良き妻であり良き女というものでしょう。でも...」

 

とそこで一旦言葉を切り、どこか言いにくそうに、しかし口を強く結び覚悟を決めて言った。その言葉は――その証拠はどこにあるの?――と。

 

 *

 

私が時間というものの真の性質を知ったのはまさに、カレン・ウォートと結婚する2年前のことだった。

その時私は30歳を迎え、達成感もなくただただ仕事を消化する日々を消費していた。

そんなある日、歳を理由に仕事を辞め隠居生活に入っていた母から、実家を尋ねる様にという旨の内容が記された手紙を受け取った。

私は返事を書くと、次の週の土曜日に実家へ一時的な帰宅をすることにした。

母はマドレーヌを焼いている最中で、私を一瞥するなり、散歩でもしてきたら?と促してきた。

母との会話はマドレーヌとハーブティーを楽しみながら、ゆっくりとすれば良いと考えた私は母の言葉に賛同した。

ヨークシャーのヒースの香る丘を散策し、ふと子供の頃にもこの場所を散策した事があることを思い出した。

ヒースの香りは芳しく、灰色の空気が漂う都会とは違い、この丘には空気にさえ様々な色彩が伺えた。

丘から実家のある田舎を一望してから、腕時計を見ると、すで2時間も経っていた。私は帰路に着き足早で実家へ向かった。

そして母の焼いたマドレーヌとハーブティーが待つリビングの席についた。母はどうぞ召し上がれと言い、私はそれに笑顔で頷く。

少々汚いと思われるかもしれないが、私はマドレーヌをハーブティーに浸し、それを口いっぱいに頬張った。

瞬間、私は同時に存在する二人の自分に気づいた。このマドレーヌの味が、子供の頃食べた母のマドレーヌと同じものだったのだ!

今ここにはヒースの丘を無邪気に駆け回っていた子供の頃の私と、大人になって社会に疲れた私が同時に存在している。

ヒースの香りが、マドレーヌの味が、昔の記憶を想起させ私を子供時代へと流し戻したのだった。

私は静かに涙した。

母は何かを悟ったように黙って私を見つめ、頬についたマドレーヌの食べかすを指差して笑った。

「もうカーク、貴方はいつまでたっても子供ね」

その言葉はただただ母の愛に溢れていた。

 

 *

 

これこそが私カーク・ラルドが幾何学的とは言えない人間の精神が、可逆的な時間を有するものだと主張する根拠である。

 

「ニューイングランドの男はもうちょっと論理的で、自己満足的な精神の持ち主だと思っていたわ」

 

今度こそ妻は嫌味を込めて言った。

 

「なにニューイングランドの血は父のものだ。僕は母の血を濃く引き継いだ、ヨークシャーの男だと自負しているよ」

 

えぇそうね!と妻は席を立ち、僕の座る席の背もたれへと回ると、首に腕を回してキスをした。

 

「もし私たちがひどく年老いてもまた戻れるかしら?」

 

「当然さ!」

 

不安げな妻の言葉に僕は強い肯定の言葉を返し、机の上のマドレーヌとハーブティーへ視線を向けた。そして秘密を囁くように言った。

 

「さぁ食べよう。今日という日を忘れないために、もう一度この時に戻ってくるために...」

 

 

―完―


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