覚醒は唐突だった。
飛び起きるように目を覚ますと、誠は荒い息のまま額に手を当てる。予想通り、大量の汗を搔いている。着替えずに寝入ったため、制服は汗でびしょびしょになっていた。
時計を見れば朝の五時。日も明けきらない早朝。
当たりを見回せば、生活感のないリビングを、まどから入る微かな日の光がかろうじで照らしている。自宅のリビングのソファで寝ていた誠は、倦怠感を抱えながらもこれ以上寝れそうにないので立ち上がる。
立った瞬間、酷い立ち眩みに襲われソファに手をついたところで声をかけられる。
「やぁ、健やかな朝だね。誠」
不愉快なほど明るい声が、どこか小馬鹿にした調子で語りかけてきた。
誠が声のした方向を振り向くと、窓の向こう、ベランダに腰を掛ける赤い髪の少女がニコニコと楽しげに誠を眺めていた。
誠の住むこの部屋は、市内のマンションの八階。少女が自力でベランダに腰掛けるには部屋の中からベランダに出るしかないが、誠はその少女を部屋に招いていない。その証拠に、ベランダに通じる窓は閉められ、鍵も締まっている。
「……なんの用だよ、キキョウ」
「いやなに、ようやく一人でこなした君を労いに、ね」
二人の間には依然として鍵のかかった窓があるが、キキョウの声は不自然なほどクリアに誠に届く。キキョウは言い終わると、同時に腰を掛けていたベランダから飛び降り、窓へと近づく。すると、ひとりでに鍵が開き、窓が開き、キキョウを迎え入れるとまたひとりでに窓が閉じ、鍵がしまった。
まるで、自動ドアの様だが、無論鹿上家の窓はそんなハイテク使用ではない。
けれど、決して驚くべきことでもない。
この、目の前にいる小柄な少女こそ、鹿上誠の非日常の象徴のような人物なのだから。
誠は許可なく入ってきたキキョウを咎めることなく、けれど油断なくキキョウの動向に気を配る。
警戒心を隠そうともしない誠の視線を、笑いながら受け流し、キキョウは誠が手をついているソファに腰掛ける。
「それにしても、酷い様子だなぁ。君の宿願に近づいた記念すべき日だというのに、実に味気ない」
いつの間にか、キキョウの手には紅茶の入ったティ―カップが握られており、優雅にその香りを楽しみながら笑う。
誠はキキョウが座ったソファから離れながら、無言を貫く。余計なことをしゃべらない、というのが誠が身に着けたこの少女と接し方である。
「それに、さっきの起き方。まるで悪夢でも見た様じゃないか。酷い兄がいたものだね」
くすくすと笑いながら、キキョウは誠の琴線を撫で回す。
「……〝あれ〟の後は決まって茉莉の夢を見る」
だが、誠は特に気にした風もなく口を開いた。
「そうだね。そして君はそれを恥じながらも、心の何処かで喜んでもいた。違うかい?」「…………葬式の夢だった。もう、三年も経つっていうのにな、我ながら情けないよ」
そう。昨日、最後の仕事を終え、倒れこむように帰ってきた誠を迎えたのは、今の彼の根幹。彼が持つ、妹との最後の記憶だった。
げんなりとした様子で、冷蔵庫から取り出したペットボトルを煽る誠を、にこにこしながらキキョウが見つめる。
「けれど、それも今日で終わりだ。逆に言えば、今日君がその夢を見たことは、天啓であり、必然だ。今の鹿上誠を形作った日の夢を、今の鹿上誠の終わりの始まりの日に夢見る。くははは、これは中々どうして気の利いている。まだ神がいるのなら、そいつは結構な演出家だよ。」
その夢が、鹿上誠にとって何を意味しているのか、よく理解していながらキキョウは声高々に笑う。人の悲劇こそ、至高の喜劇だと。言外に宣言しながら、軽やかに笑う。
そんな彼女を、何の感情も込めずに見ていた誠の現前に、突如キキョウが現れた。
「…ッ!」
あくまで、薄ら笑いを浮かべたまま、キキョウは誠の頭に手を添えると、接しそうになるほど顔を近づけ囁いた。
「喜びなよ、鹿上誠。君の悲願の成就には、これ以上ないほどの門出だ。神すらも君の祈りを祝福しているんだ」
「…………………………」
「だから、忘れるな。君の願いまで、あと一つだ。あと一つで、鹿上茉莉は、再び君のもとに帰ってくる。君の憎んだ理不尽から、彼女を取り返すまで…あと、一つだ。忘れるなよ、誠? くふふ」
そういい残すと、キキョウは今度は歩いてソファまで行き、リモコンを手に取りテレビをつける。
時刻は五時半。こんな時間にやっているのはニュースか、通販くらいのもので、キキョウはがつけた番組もやはり、早朝からやっているニュース番組だった。画面の中では見慣れたキャスターが、慌ただしげにマイク片手にカメラに語りかけていた。
『今日未明、○○県利賀市の一画で、意識不明の状態で女性が発見されました。女性には暴行された跡があり、利賀市では今年に入ってから女性が襲われるのは十二件めであり、手口が似ていることから同一班の犯行であr―――さぁ、本日ご紹介するのは!』
興味なさげにチャンネルを弄くるキキョウだが、その目はテレビを見ていない。にやにやと誠のほうを向いている。まるで獲物を見つけた猫だな、と誠はため息を吐く。
「婦女暴行だってさ、誠。いやぁ、怖いねぇ。一体誰なんだろうねぇ、十二人もの罪なき女性を襲うのは。怖くて一人で出歩けないよ、ねぇ誠?」
意地悪気に微笑みながら問いかけるキキョウを見ないで、誠は心から同意する。
「…ホントにな」
そうしてリビングから出ていこうとした、誠をキキョウが呼び止める。
「おや?どこへ行くんだい?」
扉の前で立ち止まり、振り返る誠。
「決まってんだろ、制服を洗うんだよ」
まぁ、学校に間に合うとはおもえないけどな。
そう呟いて、誠はリビングを後にする。キキョウは最後まで笑ったままだった。
そうして、終わりの始まりの日は、あっけなく幕を開けた。
少年の抱いた、たった一つの願い。根幹からして歪んだその歪な願いを、少女は愛でる。世界を犯す花を……少女は育てる。
それはきっと果てしなく美しく、そして果てしなく汚れた花だろう。