「…どうして歩こうと思ったのか…」
奏は毎度のことながら、自らの恐ろしく衰えた体力と骨が擦れあって磨耗していくような足を動かしながら、自らの判断が間違ったものだと遅まきながら気付いてボヤいた。
ある程度都心部に近いエリアとて、3駅を歩くには奏の体力は回復しきっていなかったのである。それは、繁忙期を乗り越えて半月ほどしか経っておらず、それまでストレスを溜め込んでアルコールで無理矢理に眠りについていた生活を続けた身体は、まだまだ休むことが必要だったのだ。
「近くの神社で藤が咲いているんですよ」
きっかけはそんな情報からだった。
梅、桃、桜、藤
春を代表する花たちの中で、奏は最も梅が好きだ。できうる限り全ての体力を使ってでも梅見にいくのは恒例と言って良い。まだ中年に差し掛かったところであるが。
他の花を見に行く時、問題は奏の、その驚異的な雨男体質である。
春は盛りに近付くほど、雨もまた降りやすくなる。
冬の終わりに咲く梅は良いが、他の花は雨により散りやすく、また雨の日にそれなりに出歩くには奏の体力を消耗しすぎる。
休みになれば雨が降り、休みに曇天の中買い物に行けば雨が帰りに降る程度には雨雲に愛されており、なかなか出歩くことができない。
この日も、休みの日恒例とも言える重く暗い雲が空に敷き詰められていた。降水確率が夜になるほど高まると、スマートフォンの天気予報も当然のように表示している。
藤の花
奏にとっては、それなりに思い入れのある花の一つである。
「春の花で藤はどれくらい好きか?」と問われれば、多少ながら悩んだ末に「梅ほどではないけど桜よりは好き」と答える程度だろうか。
その理由の一端にあたるのが、源氏物語の朧月夜こそ、奏が最も愛するキャラクターであるからだ。
「この藤よ。いかに染めけむ色にか」
光源氏と朧月夜が出会ったのは、若き日の藤の花の宴、後に朱雀帝に入内さえ要望された彼女は、宴の日に高貴な身分の娘に関わらずふらふらと歩き回り、「朧月夜に似るものぞなき」と声をかける奔放さ、その後も朱雀帝と源氏をいったりきたりし、朱雀帝には「僕は源氏にはかなわないんだろう」と嫉妬さえ抱かせながらも、生を全うし、尚侍まで出世した女性は彼女のみ。
そのあけすけな美しさが喪われる最後の朝、二人はお互いの絶頂期であった昔話をする。
もう他にその話をする相手もおらず、この時だけは哀しき「若菜」の巻が、過去のきらめきを取り戻す一幕だ。
国道に沿って、小さな神社に辿り着く。
思ったよりも小さい神社に場違いな程大きな藤棚と、中央にゆったりと腰を下ろした幹。
社務所以外の3方からささやかに立つ小さな藤たちと共に、曇天は藤の花に埋め尽くされた。
藤色は、曇った光を受けて角度を変え、青くも赤くも目に映る。
弱い風に晒された房たちは、まるで漣のように揺れ動く。
ちらほらと来る人達も、様々な花の蔭を行っては戻り、見上げて下がる。
花の宴は終わりを迎え、夏の姿はまだ遠い。