ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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4.クリーンスイープ

 

 

 

 ハリーは城へ向かって歩いていた。

 危険な生物を愛し、動物たちを大切にしているハグリッドのことだ。

 バックビークが死んでしまって、きっと悲しんでいるだろう。

 心配になって彼の家へ尋ねに行ったものの、しばらく一人にしてほしいと落ち着いた声で言われてしまう。取り乱している様子はなく、ただ悲しみを乗り越えようとしている様子だった。

 無理に慰めたところで逆効果どころか、自己満足にさえなりはしないことを理解したハリーは、大人しくその場を去るしかなかった。去り際に「いつでも頼ってよ、友達なんだから」と言い残したのは、ハリーの、ぼくは君の友達なんだぞという意地と僅かばかりのメッセージである。

 少しの寂しさを感じながら、ハリーは友人の家を離れる。

 城の壁にもたれかかって、深い溜め息を吐く。

 するとハリーは、背中の方から安心するような囁き声が聞こえてきた。

 

【お悩みのようですね、ハリー様】

 

 あれ? と思って振り向くも、後ろにあるのは壁ばかり。

 前にもこんなことがあったなぁ、と思いながらハリーは薄く微笑んだ。

 

【やあ、久しぶり】

【ええ。おかえりなさい】

 

 ハリーの喉からシューシューと息が漏れる。

 蛇語で話す相手など、当然その言語を扱う蛇しかいない。

 昨年の騒ぎで友人となった、秘密の部屋に住むバジリスクだ。

 名前はまだない。サラザール・スリザリンのペットであった頃は何か特別な名で呼ばれていた気がするが、千年以上も呼ばれなかったため、もうすっかり忘却の彼方だと彼女は語った。

 そう、彼女である。やはりこのバジリスクは雌だったのだ。後々ハーマイオニーに聞いてみれば、雄のバジリスクは鶏冠があるとのこと。なんだそりゃあ。と思ったものだが、出自を考えてみれば鶏の卵から生まれているわけであるし、むしろ鶏冠以外がおかしいのだ。

 我輩は蛇であるなどと言っているとスネイプに遭遇しそうな予感がするので今は言わないでおく。どうせ蛇語で会話しても、誰にも内容はわからないのだから。

 

【まあ、悩みっていうかね。友達の力になれないのが悔しいというか】

【私も同じ悩みを抱えていますよ、ハリー様。この身体ゆえ、貴女様の力になれない】

【……ごめん】

【いいえ、お気になさらず。ただ、このように悩みとは解決できること、できないことがあります。私たち蛇ですらそうなのですから、貴方様が背負いすぎる必要はないのですよ、ハリー様】

 

 まさか蛇に慰められる日が来ようとは。

 ハリーは苦笑いしながらも、しばらくバジリスクと話し続けた。

 君の名前はどうしようか、貴女様が決めてください、というくだりになって、廊下の向こうからハリーを呼ぶ声が聞こえてきた。

 名残惜しいが話を終えて、誰が来たのかを見てハリーはげんなりした。

 足音高く胸を反らして鼻息荒くやってきたのは、我らがグリフィンドールクィディッチチームのキャプテン、オリバー・ウッドだった。

 ウッドはホグワーツの七年生。筆記の成績は中の上。実技は上の下。

 そしてクィディッチに全てを懸けるアツい男。というかクィディッチに狂っている。

 例えばウィーズリー兄弟が悪戯の計画で寝不足だった場合は、

 

「授業中に寝ればいいだろう! 練習にすべてをかけろォ! 成績だぁ? 知ったことかビーターならクラブを握ってブラッジャーを叩きのめせ! 羽ペンなんぞ握っとる場合かーッ」

 

 例えばチェイサー三人娘の誰かの具合が悪い場合は、

 

「知ったことかぁ! 僕は男女平等誰もがクィディッチ選手なら気合で治せ! デリカシーだとォ!? 知ったことかァ! おまえらチェイサーだろうがクアッフルを追いかけろーッ」

 

 例えばハリーが以下略。

 とにかくクィディッチに始まり、クィディッチに終わる男だ。

 ひょっとしたら彼が死ぬのはベッドではなく箒の上ではないかと大真面目に言われている。

 そんな男が箒を片手に、興奮した様子でこちらに寄ってくるではないか。

 スポーツへの真摯な態度は好感が持てるが、行き過ぎてて少々怖い。

 身の危険を感じながら、ハリーはウッドに相対した。

 

「どうしたのウッ――」

「ハァァァアアアアリィィィイイイイイイイイイイイイイイ! 練習だああああああああああ! さぁぁああ練習の時間だぞォォォオオオオオ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ!? クィディッチシーズンはまだだよ!?」

「知ったことではない。コートは借りれたのだ! さァァァ練習だァ! 今年こそ! 今年こそは最強のメンバーが集まっているんだ! 優勝できるはずだ! 優勝するぞ! 優勝したぞ! やったあああああああああああああ!」

「ひゃああ!? だ、誰か! 誰かマダム・ポンフリーを! ウッドがおかしくなっ……いやいつものことか、ウッドがさらにおかしくなった!」

 

 一四〇センチほどの少女の両肩をがっしり掴んで、興奮して絶叫する一八〇センチの男の図。

 ハリーの悲鳴を聞いて通報されたのか、鎮静剤らしき魔法薬を持って飛んできたマダム・ポンフリーにウッドは連れて行かれた。ハリーの身を案じてきたハッフルパフの七年生の話からするに、今年度はこれで八度目だそうだ。

 ウッドは七年生、彼がホグワーツでできるクィディッチは、今年で最後なのだ。

 つまりそれは、彼がホグワーツでクィディッチ優勝カップを掴む最後のチャンスである。

 もしその手に黄金の盃を握れなかった場合、僕はカップのために留年するのだと言いだしてマクゴナガルがマジ切れするかもしれない。事実優秀な選手である彼は、プロチーム入りがすでに決まっている。

 どのチームになるか今から楽しみで仕方ない、と興奮気味にまくしたてる夜が何日も続いたので、同部屋のパーシーが一時期げっそりとやつれていたのをハリーは覚えている。

 この家のような場所での、最後のチャンス。

 それはいったいどのような気持ちなのだろうか。

 

【千年の間に人間はかなり変わってしまったようですね】

【……、そだね】

 

 バジリスクのコメントには、苦笑いで返すしかできなかった。

 パイプを通って帰った彼女と別れ談話室へ歩を進めたハリーは、婦人に合言葉を告げて談話室のソファへ倒れ込む。既に座っていたジョージが、ハリーの頭を労うようにぽんぽんと軽く叩いた。

 

「うへえ。ウッドのやつ、ついにそこまでくるったか! 一見というか普通に婦女暴行じゃないかそれ?」

「でもなあ。最後の学年ってのはちょっと気持ちわかるかもな。俺たちも残りはあまり時間ないからなあ」

「……二人は五年生でしょ? O.W.L.試験とかあるじゃないか」

「「そんなことより糞爆弾が大事さ」」

 

 言い切った二人をジト目で見ながら、ハリーはジョージの足に額を乗っけた。

 ハリーの髪に無理矢理リボンを結びつけはじめた二人に好きにさせながら、ハリーは呟く。

 

「……今年こそ優勝したいな」

 

 揺れるたびに鼻歌を歌うリボンを結びつけ、フレッドが言った。

 

「もちろん、優勝しない手はないね。卒業した途端ウッドが悲しみのあまり死んじまうぜ」

 

 桃色に光り輝くリボンを結びつけ、ジョージが言う。

 

「そうだな。今年こそ優勝カップを握らせないと、ウッドが死んだら化けてでてくるだろうよ」

 

 ド派手な頭になったハリーが仰向けになる。目の前に広がるのは、同じ顔の同じ笑顔。

 ハリーも笑顔になって、二人と笑いあう。

 今年こそ優勝して、ウッドに優勝カップを掲げさせてやろう。

 そう決意した三人は、互いに拳をごつんとぶつけ合った。

 

 その日の夜、ラベンダーに髪を梳いてもらいながら、ハーマイオニーが談話室でウィーズリーの双子を説教する声を聴いていた。曰く、あんなふうに女の子の髪を雑にいじっちゃだめだとのことだ。

 ハリーもハリーで、パーバティとラベンダーからお小言を貰っている。ハリーの黒髪も、今やうなじを隠すほどには伸びてきている。長すぎると絶対に邪魔なのでこれ以上伸ばす気はないが、パーバティのように艶やかな黒髪というのは少し憧れる。

 そう思うならもっと髪を大事にしなさいよ、とラベンダーに言われたところで、鼻息荒くハーマイオニーが寝室に入ってきた。頭に巨大なリボンが結ばれている。どうやら敗北したようだ。

 四人が集まったことで、寝る前のお喋りタイムが始まる。

 パーバティが双子の姉妹であるパドマが失恋したからどう慰めたらいいだろうかという話題や、ラベンダーが仕入れてきた噂話の是非を検討し合ったり。ハーマイオニーが躍起になってリボンを取ろうとするのを皆で手伝ったりする中、ハリーは日中ウッドとあったことと、双子と決めたことを話した。

 今年こそ期待してるわ、と三人に言われたところで、ラベンダーが一冊の雑誌を取り出した。

 週刊魔女だ。

 

「ならハリー、これ見てごらんなさいよ。あなた興奮間違いなしだわよ」

「なになに? ……《炎の雷(ファイアボルト)》?」

 

 広告欄には、デカデカと大きな写真が貼られていた。

 魔法界の例にもれず、これも動いている。複数のクィディッチ選手が、思い思いのまま写真の中の空を飛んでいた。中でも目立っていたのは、がっしりした体格の年若い青年だ。ぴくりとも笑わず箒にまたがってアクロバティックな動きを決めている。

 誰だろう、と名前を見てみれば、複数の名前が並んでいて誰が誰だか分らなかった。イヴァン・ボルコフ、ビクトール・クラム、アレクシ・レブスキー、この中の誰かだろう。

 しかし、いい箒だ。

 ハリーは自分の愛機であるクリーンスイープ七号以外は、授業で使った《流 れ 星(シューティング・スター)》くらいしか使ったことがない。だが、最近ではクリーンスイープが少し遅く感じるようになったのだ。

 クリーンスイープ七号はドラコが使うコメットシリーズと比べても遜色ない素晴らしい動きができるものの、ハリーにとってクリーンスイープはもはや加速に時間がかかりすぎるのだ。身体強化呪文を使って駆け抜けるという高速の世界を知ってしまったハリーは、少し他人よりもスピード感覚が高まり過ぎているのかもしれない。

 パーバティもラベンダーも、もちろんハーマイオニーにもよくわからないと言われてしまったが、仮にもクィディッチ選手として長時間空の上で過ごしたハリーが見れば、写真の中の選手たちが恐ろしいほどに有り得ない動きを繰り返していることがわかる。

 ハリーがもしクリーンスイープを使って同じ動きをしたら、まず間違いなく地面にたたきつけられるだろう。性能差は繰り手の技量で埋めるのが当然であるが、ここまで差があるとどうしようもないかもしれない。

 さらに言えば、いまプロチームでの主流はニンバスの新シリーズだ。古き良きデザインを受け継いだ《ニンバス二〇〇〇》と、最新鋭のデザインを取り込んだ《ニンバス二〇〇一》。もちろんコメットシリーズにクリーンスイープシリーズ、いぶし銀のシルバーアローを好んで使う選手がまだまだ多くいることも事実だ。

 しかしハリーのポジションはシーカー。

 なによりも速さを欲するべき立ち位置であり、そのスピード如何によって勝敗すら決する。

 そんな中で、世界最速と銘打たれたこの箒はとても魅力的であった。

 

「うーん、確かに魅力的だけど……高すぎるだろこれ」

「そうよねぇ。本当にプロが使うような箒だものね、ファイアボルトって」

 

 ハリーはその日、自分がファイアボルトに乗って飛ぶ夢を見た。

 ドラコの鼻先からスニッチを掠め取って、グリフィンドールを優勝に導く夢。

 さしあたっては明日。

 ハッフルパフとの試合だ。

 

 

 豪雨。

 クィディッチというスポーツは、どのような悪天候であろうとも決行される。

 無限に水の入った大鍋をひっくり返したかのような、滝に打たれるような雨の中、クィディッチピッチに選手が整列した。

 マダム・フーチが何かを叫んでいるが、全く聞こえない。

 むしろあの人影がマダム・フーチなのかすら定かではない。こんな劣悪な環境の中でも忠実に職務を遂行するのだから、彼女の賃金をちょっとくらい値上げしてもいいと思う。そうしないと何故か出番がなくなる気がする。

 今回の相手はハッフルパフ。

 年度初めの試合はグリフィンドールとスリザリンが行うのが定番であり伝統だったが、スリザリンシーカーであるドラコ・マルフォイが学校の備品である魔法生物を攻撃したために謹慎罰を受け、仕方なく試合相手の変更と相成ったのだ。

 ハリーはそれを聞いて、ハグリッドの友達であるバックビークを備品扱いということにも腹が立ったが、ドラコが大人しくその罰を受け入れたというのが何よりも意外だった。

 いや、今はそのような考え捨てた方がいい。

 かろうじて水のベールの向こうで笛が鳴ったのを聞き取って、ハリーたちクィディッチ選手は空高く舞い上が……れずに、いつもより低めの位置でスタンバイした。クィディッチローブが水を吸って重いのだ。

 試合開始の掛け声が、実況のリー・ジョーダンから響き渡る。

 魔法で拡声された声が響き渡る。ハッフルパフのチェイサーがボールを取りこぼし、アンジェリーナがクアッフルをキャッチし、ゴールに投げ入れて――得点。

 何故見えているんだ。

 

「……ッター! ハリ……聞こえるかい、……!」

「セドリック・ディゴリーか? 一体何の用だ!?」

「……、……! …………!」

 

 セドリックと思わしき人物が、ハリーに向かって何かを叫んでくる。

 しかし何を言っているのか全く分からなかった。

 

「くっそ……酷過ぎるだろう、これ……」

 

 ばしゃばしゃと全身を叩きつける雨は、もはや服を着ている意味をなしていない。

 下着も含めて、まるで服を着たままシャワーを浴びている気分だ。気持ち悪い感覚を無視して、ハリーはピッチに集中する。

 微かでも金色の閃光を見つければ、それがスニッチと判断する。

 自分の目を信じて、見間違えるはずがないとして探し回る。

 時折ブラッジャーが掠めていくも、当たるようなコースにはないので無視する。

 どこだ。どこにいる。

 スニッチは所詮魔法をかけられたボールであるため、気配を感じることができないから厄介だ。

 身体能力を強化さえできたら、もっとわかりやすくなるというのに。しかしルール上それはいけない。

 

「……、……」

 

 ハリーは動きを止める。

 暴風が耳を叩きつけて本物が役に立たないなら、心の耳にでも頼るしかない。

 そんなものがあるはずもないので、つまり、要するに勘だ。

 

『おーっとォ! ハリー・ポッター選手が地面に向かって突進したァ! スニッチを見つけたのかァ!?』

 

 ジョーダンの実況を聞いたのか、それともハリーを監視するように近くにいたからか、ハッフルパフのシーカーであるセドリックもハリーに追従してくる。

 高速で地面に向かって全力疾走する二人は、雨が落ちるよりも早く、顔を叩く雨粒を無視して、一直線に急降下していった。

 ハリーが右手を伸ばしている。セドリックが負けじとハリーに寄り添うように並走し、ハリーより長く逞しい左手を伸ばした。流れる風雨の中、ハリーの舌打ちがセドリックの耳に届いた。

 地面まで残り三〇メートル、二十五、二〇、十五……十……五……、よし!

 ハリーは正面衝突するまで残り三メートルほどというところで全力で箒の先を持ち上げ、地面に向かって水平になるよう体勢を立て直す。

 これに慌てたのはセドリックだ。箒を引き戻そうとするものの、雨で柄から手が滑って、泥だらけの柔らかくなった地面に頭から突っ込んでしまう。観客席から歓声と悲鳴がとどろいた。

 《ウロンスキー・フェイント》。

 シーカーがスニッチを見つけたかのように地面に向かって高速で飛び、焦りから相手のシーカーの判断力を奪って追従させる。そして地面すれすれで引き返すことによって相手シーカーを地面へ叩きつけるという、両者にとって危険極まりないシーカー技の一つだ。

 ハリーはそれができるだけの技術と度胸があって、セドリックはそれをできる実力を持ちながら悪天候という不運によって成功できなかった。つまり、それだけの話である。

 邪魔者を蹴落としたハリーは、満足げな笑みを浮かべて空高く舞い上がる。彼が意識を取り戻して、復帰する前にスニッチを見つけて捕まえなければ。

 

「さーてさてさて、出ておいでー、ちっちゃなちっちゃなスニッチちゃん、おーいでおいで、スニッチちゃん」

 

 シーカーがよく歌うとされる適当な歌を呟きながら、ハリーはピッチの真上という特等席に陣取ってスニッチを探す。

 運よく雨が弱まってきたようだ。まだ降り続ける感じはあるが、一時的なものだろう。

 好機とばかりにピッチ中を見渡して――あれか? いや、違う――では、あの――――、いや待て、ウッドの近くにあるポールに何か――なにか、見え――――。

 ――見つけた! スニッチだ!

 ハリーは言葉を絞り出す手間も惜しんで、クリーンスイープに全速力で飛ぶように命じた。途中でハッフルパフのビーターがハリーに向かってブラッジャーを打ち込んできたが、螺旋状に横回転することで難なく回避する。

 スニッチ目掛けて脇目も振らずに飛び、左手をスニッチに伸ばす。

 遥か下方で、復帰したセドリックがふらつきながらもこちらへ突進してくるのがわかる。

 遅い。こちらの方が先にスニッチを掴める。

 

「と、ど、けェェェ――――――ッ!」

 

 気合を入れるためと願いを込めての絶叫。

 篭手に包まれたハリーの左手が、逃げ惑う黄金のスニッチの羽根に掠る。

 いける、とハリーが身を乗り出してさらに手を伸ばし、息を呑んで、目を、見開いて、

 

「――、――――――」

 

 瞬間、死を連想した。

 左腕を、篭手越しに何かが掴んでいる。

 左だ。顔のすぐ近く、左に何者かがハリーの隣に何者かがいる。/視たくない。

 ハリーの頭の中に緑色の閃光が満ちた。これは何だ? 知るか。/それが死だ。

 今はスニッチを捕まえなくてはそうだスニッチ、どこにいった?/目を逸らせ。

 参ったなウッドを勝たせてやりたかったのに逃がしちゃったか。/早く逃げろ。

 逃げろ、逃げろ、逃げ――

 左腕が何かにぐいと引き寄せられ、まるで恋人にするかのように胸へ引き寄せられる。

 その胸は空洞。がらんどうの孔。

 一匹増えた。少女の腰を撫でまわしている。

 ハリーの心から、ウッドへの気持ちが消え去った。

 咄嗟であった。虚ろな目で左を確認してしまう。

 見たくなかった。かさぶただらけの醜い怪物。

 また増えた。少女の顎を指でなぞり、太ももに手を這わせてくる。

 ハリーの心から、クィディッチでの興奮が拭い去られた。

 濡れた紙に指で穴を空けただけのような、雑な造形の口が歪む。

 吸魂鬼が笑っているのだ。いや、嗤っているのだ。ハリーを嘲笑っている。

 増える、増える。頭が鼻が耳が頬が首が鎖骨が胸が腕が手が臍が腹が腰が腿が脚が足が侵される。

 ハリーの心から、抵抗しようとした反抗心が引きちぎられた。

 吸魂鬼が嬉しそうに微笑んでいる。愛おしそうに微笑んでいる。いただきますと微笑んでいる。

 少女の小さな体が抱き寄せられる。クリーンスイープが大きく揺れた。

 百にも届こうかという、ホグワーツに配置されたすべての吸魂鬼たちが、一斉にフードを脱ぐ。

 腐肉に埋もれ消え去ったはずの、空虚なるその瞳が少女の心を犯そうと見つめてくる。

 ハリーの心から、

 ハリーの心から、

 ハリーの心から、愛する親友の姿が、ずるりと引き抜かれ――

 

「――――いやだァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッッ!」

 

 絶叫。

 少女はひ弱な細腕で、吸魂鬼を突き飛ばした。

 途端、バランスを崩したハリーの身体は、クリーンスイープから滑り落ちる。

 全身に纏わりついていた吸魂鬼たちの手から指から、ハリーの身体がするりと抜ける。

 重力は容赦をしない。

 涙も雨も、少女の体も何もかも、すべてを地に向けて運んでゆく。

 名残惜しそうにハリーへ追いすがる吸魂鬼たちよりも、ハリーの落下速度の方が早い。

 既に意識を手放し、何も映さないハリーの瞳には一人の老人の姿があった。

 彼は誰時のようなローブをはためかせ、白銀の髭と髪を振り乱した一人の教師。

 貴賓席に仁王立ちし、周囲が押し潰されるのではないかというほどの重圧と魔力を振り撒き、杖を振り回して何やらスペルを唱えている。

 完全に意識をなくしたハリーの身体が、ふわりと揺らめくと落下速度が極端に遅くなった。それを好機と見たのか、上空から大量の吸魂鬼が彼女の周囲に群がり――純白の猫によって追い払われた。

 平時ならば整えられた髷が凛々しいマクゴナガルが髪を振り乱し、怒りのあまり蒼白となった顔のまま杖を振り続け、彼女の守護霊たる猫に殲滅の命令を送る。滑るように少女の落下地点へ躍り出たスネイプが、氷のように冷たい彼女の身体を抱き留める。獲物を奪われるまいと背後から襲ってきた吸魂鬼を、杖の一突きで粉々に吹き飛ばすと風のように走った。 

 マダム・ポンフリーがスネイプと共に城へ走り去ったあと、クィディッチピッチには大量に倒れ伏してゆく吸魂鬼と、生徒の悲鳴、怒れる教師たちの声のみが響き渡っていた。

 

 

 ハリーが意識を取り戻したのは、それから一週間の後であった。

 体がぎしぎしと軋み、うまく動かない。首すら動かせないハリーは、痛みを感じつつも眼球だけを動かして周囲の状況を確認した。

 どうやらここは医務室のようだ。なんだか第二のホームのような気さえしてくる。ポッター専用と化しつつある定位置のベッドである。

 吸魂鬼に敗れたのか……。落ち込む気持ちと同時に、あのおぞましい光景を思い出す。

 あのガサガサに荒れた手で肌に触れられた気持ち悪い感触が残っている気がして、ハリーはとてつもなくシャワーを浴びたかった。

 体を見下ろしてみれば、

 見下ろし……て、

 

「……全裸て」

 

 見事なまでにすっぽんぽんの素っ裸である。

 なだらかに膨らんだバストが控えめに自己主張し、引き締まったウェストには縦線が入っている。

 細い手足も程よく肉が着いてきたので、しなやかになめらか。

 未だに多少痩せすぎのきらいがあるものの、ハリーは今や完全に女性の身体へと成長していた。

 

「……刺青て」

 

 そんな柔らかで儚げな身体には、真っ赤な墨で様々な魔法式が描かれていた。

 刺青かと思うほど肌にしっくりと染み込んでおり、お風呂でスポンジを用いて擦ったところで落ちないのではと思ってしまう。

 何が書かれているのか、ハリーにはわからなかった。しかし所々に《治癒呪文》に似た文言が書かれていたり、心臓を中心とした魔法陣があることから、なにか血液に関する式かもしれない。しかし臍の下あたりにも魔法陣が描かれているところから見るに、予想は間違っているのやもという考えがハリーに浮かぶ。

 しかし、寒い。

 あれだけの大雨の中、シャワーの如く冷水を浴びていたからか、体中が固まってしまったかのような気がする。

 結構な時間、医務室にいたはずである。だというのに体の芯がひそやかに凍りついている。

 全く動けないのでどうしたものかなとぼんやり考えていると、廊下の方からどたばたと騒がしい声と音が聞こえてきた。マダム・ポンフリーが何やら叫んで制止しているのが聞こえてくるが、やかましい彼らには聞こえていないようだ。

 ああ、愛しい声が聞こえる。

 

「ハリーッ! ってあら、こりゃまずいわ」

「おいハリーだいじょ……ぶっふ、く、うお。鼻血が」

「あっ、だめ! コラ、男の子は入ってきちゃだめ! 女の子が寝てるんだよ、察してよ! おいロン、ロンあなた死にたいの。鼻血吹いてないで早く出て行かないとママに言いつけるからね」

 

 まじまじと裸身を眺めてくるハーマイオニーの視線を感じ、ばっちり見てしまったらしいロンがふごふご悶える声が聞こえ、ジニーが男性陣にハリーの裸を見せまいと頑張っている。

 どうもロンには全部見られてしまったようだが……、まぁロンになら構うまい。

 それよりも吸魂鬼の影響で心が弱っているときに、彼らの声を聴けたのがとても心強かった。囁くような声で一緒に居てくれと言うと、三人が困ったように顔を見合わせて、ロンが固く目を閉じている間にジニーがハリーの上にシーツをかけて身体を隠し、ハーマイオニーが杖を振ってロンの鼻血を止める。

 マダム・ポンフリーが面会時間の終わりを告げにやってくるも、ハリーの様子を診て特別に医務室に泊まってハリーの傍に居なさいと言われる。妙に甘ったるいホットチョコレートをハリーに与え、絶対に騒がないようにと立ち去ってゆく。

 そうしてハリーのベッドの隣に座って、三人は何を話すでもなくただそのままで過ごした。

 ハリーが寝付いたあと、時折苦しそうに唸るので手を握ると、表情が和らぐさまを見てハーマイオニーが溜め息をついた。ロンが「まるで赤ん坊みたいだ」というと、まさにその通りの状態であることに気付く。ひょっとしたら軽く幼児退行でもしているのではないだろうか。

 

 翌日。

 ようやくハリーが落ち着いて、真っ赤に染めた顔でロンにヘッドバットを喰らわせてから着替え、退院の許可が出た。

 グリフィンドールの談話室でようやく一息ついた時、フレッドとジョージがやってくる。二人とも笑うこともからかうこともなく、ハリーの頭を引き寄せて抱きしめた。優しくポンと背中を叩いて去ってゆく二人を、不思議そうな顔で眺めるハリーのもとにチェイサー三人娘がやってくる。

 そこに至ってハリーはようやく、昨日の試合がどうなったかを思い出した。

 シーカーが倒れたのだ。負けはあっても勝ちはないだろう。

 敗北。その二文字がハリーの背中にのしかかってきた。

 アリシアがハリーを抱きしめ、ケイティが背中をさすってくる。アンジェリーナがウッドは昨日からシャワーを浴び続けていると言ったところで、ハリーは思い出したことがあった。

 ハリーの箒だ。

 自分が滑り落ちてしまった後、クリーンスイープはどこへ行ったのだろう。

 

「ねえ、ロン」

「な、なんだいハリー」

「おかしいな変なこと思いだすだなんて記憶が残ってるのかな『オブリビエイト』。ねえロン、ぼくの箒って誰か拾ってくれた?」

「ゴメンヨ僕ハ知ラナインダ。役ニ立テナクテ悪イネ」

「ハリーあなたの腕を疑ってるわけじゃないけど、それ失敗した時が怖いからもうやめてあげてくれないかしら」

「だいじょうぶだよ、昨日の夜の記憶だけを消し飛ばしてるから」

「ウワーオ、マーリンノヒゲーヒゲー。オッタマゲー。ワーオ」

 

 しばらく経てば元に戻ることを知っているので、二人は壊れたおもちゃのようになったロンを放っておいてアンジェリーナに向き直った。

 浮かない顔をしたアンジェリーナに箒の行方を聞けば、知らなかったのかと驚かれてしまった。

 いったいぼくの箒に何が? と思って聞いてみれば、あまり言いたくなさそうなのがわかった。それでも聞かないわけにはいかない。ハリーにとって初めて愛用した箒なのだから。

 

「……箒置き場に行けば、わかるよ」

 

 アンジェリーナはそれだけ言うと、そそくさと立ち去ってしまった。

 不安の残る言い方をされて、ハリーたち三人は急いでクィディッチピッチの横にある箒置き場へと足を動かした。すると、どうだろう。そこにはウッドが仁王立ちになっているではないか。

 鍛え抜かれた肉体美に、滴るしずくが光って美しい。上腕二頭筋がぴくぴくと動き、ふくらはぎの筋肉がしっかりと大地を踏みしめている。昨日からずっとシャワーに入っていると言われたときは冗談かと思ったが、どうやら本当だったのだろうか。髪からお湯が滴るほどにびしょ濡れなので、顔に影がかかって異様な迫力が出ている。

 っていうか全裸だ。腰にタオルを巻いただけの全裸だ。

 あまり見ていたい光景ではないので、ロンにハーマイオニーの視界を隠させてハリーは前に出た。物凄い熱気がウッドから発せられていて、正直近寄りたくないが仕方あるまい。

 

「ウッド」

「……、……。ハリーか……」

「うわっ。声ガラガラじゃないか。だいじょうぶかい」

「……君こそ、大丈夫なのか。……意外と元気そうじゃないか……」

 

 何がだい、と返すとウッドは目を見開いた。

 そうして静かに「そうか」と返すと、箒置き場の扉を開く。

 それを見てハリーは、その場にへたり込んでしまった。

 慌てて駆け寄ってきたロンとハーマイオニーに支えられてなんとか立つも、腰に力が入らない。

 クリーンスイープが。

 ハリーの愛機が、バラバラになって布の上に置かれていた。

 

「暴れ柳だよ」

 

 ウッドの声が遠くに聞こえる。

 

「君が箒から滑り落ちたあのあと、乗り手を失いコントロールを亡くした箒は、クィディッチピッチを飛んで暴れ柳に突っ込んだんだ。ほら、……その、あれだろう? あの木は近づいたもの全部を叩きのめすから……」

 

 ウッドの言いたいことはわかる。

 確かにあの木は、そういうものだ。仕方ないと言えば仕方ない。

 しかしハリーは悲しかった。

 初めて箒に乗ったときは、自分にも人よりすごいことが出来るのだという気持ちになれた。

 そして父ジェームズが同じグリフィンドール・クィディッチチームに属するチェイサーだと知ったときは、まるで家族のつながりを感じたような気がしてとてつもなく嬉しかった。それを知った時期が、一年生の中ごろで誰も心の底からは信じていなかった状態だったので、なおさら嬉しかった。

 その繋がりが、ぶつりと断ち切られてしまったような気がする。

 目の前の箒のように、ぐちゃぐちゃになってしまったような気さえする。

 それが気のせいであるとはっきりわかってはいるのだ。だがわかっていても、理屈は理解していても、感情は止まらない。

 涙こそ流さなかったものの、ハリーはその場から逃げ去ることさえできなかった。

 ハーマイオニーがクリーンスイープに修復魔法をかければ、確かに形だけは元に戻るだろう。だが箒とは精密な魔法技術によって作られた、緻密なパズルのようなもの。ピースひとつひとつが粉々になるまで破壊されてしまったパズルは、二度と組み立てることはできない。

 クリーンスイープは戻らない。

 もう二度と。

 

 なんとか談話室へ向かう意思が湧いたころには、もはや空はオレンジ色に染まっていた。

 ハーマイオニーの肩を借りながら階段をのぼって《太った婦人(レディ)》へと声をかける。

 人を支えながら階段を上るというのはかなりの重労働だ。

 ハーマイオニーは速くシャワーを浴びたかったし、ハリーは眠って嫌な気持ちを忘れたかった。

 ゆえに、俯いたまま合言葉を呟く。

 

「『ダイエット成功』」

「……、……いや、おい。おい、何だコレ」

「『ダイエット成功』。……ねぇ婦人、早く開けてよ」

「ハリー! ハーマイオニー! 顔をあげてよく見てみろよ!」

 

 ロンのひどく焦燥した声を聴いて、二人はようやく顔を上げる。

 顔をあげて――ハーマイオニーが悲鳴をあげた。

 ハリーの引き攣った顔がすべてを物語っている。

 グリフィンドール談話室を守る番人、《太った婦人》が絵画の中に居ない。

 絵の中の人物がいない事はさして珍しい事ではない。魔法界の写真は動くのだから、絵の人物とて動かないわけがないのだ。だから驚いたのは、そこではない。

 絵が。

 ぐちゃぐちゃになるまで切り裂かれていた。

 鋭利な刃物でやったのか、紙の裏にある額縁にまで深い亀裂が走っている。

 婦人がいないのは、この背景と同じような運命をたどりたくなかったからだろう。

 

「い、いったい誰が……こんなことを……」

 

 ハーマイオニーの悲鳴を聞きつけて、まずフィルチが飛んできた。

 そして事情を察した彼は、愛猫のミセス・ノリスに命じて伝令に出す。呆然としたままのロンを押しのけて、彼は絵画の様子を調べ始めた。

 ミセス・ノリスが走り去って一分も経たないうちに、マクゴナガルがやってくる。

 そして太った婦人の絵の惨状を見ると、ハッと息を呑んだ。

 続いてやってきたのはスネイプとスプラウト。絵の様子を見ると、哀しそうな顔をして目を伏せたスプラウトとは対照的に、スネイプは目まぐるしくあたりへと目を向けて何かを探し始めた。

 そして何かを見つけたのか、顔を思い切りしかめる。

 

「セブルス。レディは……」

「見つけましたが、見ない方がよいでしょうな。……レディ、聞こえますかな」

「……、…………」

 

 マクゴナガルとスネイプの会話を盗み聞くように、ハリーたちから遠く離れた場所にかけられていた風景画の中に、見覚えのある帽子があった。

 今朝から太った婦人がかぶっていた帽子だ。それだけが、岩陰の向こうに見え隠れしている。おそらく身を隠しているのだろう。尻を隠して帽子隠さずである。

 

「レディ。姿は見せずともよい、状況を聞かせてくれたまえ」

「……ええ、ええ。いいでしょう。いいでしょうとも」

 

 泣き腫らしたかのようにしわがれたレディの声が、ハリーたちの耳にも届く。

 生徒たちがざわざわと集まってきた。遅れながらも、ハーマイオニーの悲鳴を聞いたのだろう。

 それに一切構わず、スネイプは言葉を続ける。

 

「誰がやったのかね。生徒ならば文句も言わせず退学にしてやろう」

「……ああ、恐ろしい。……ええ、生徒でしたとも。生徒ですわ。ただし、もう卒業してしまった子ですけれども」

 

 スネイプの眉間のしわが深くなる。

 マクゴナガルが憤怒の様子を見せ、フリットウィックがけしからんと叫ぶ。

 話は続くようだ。スネイプは何も言わず、婦人に言葉を続けさせる。

 

「長い黒髪。伸ばしっぱなしのヒゲ。ああ、あのころのハンサムな面影なんて残っちゃいない! 悪魔だわ! ぶっきらぼうながらも優しい子だったのに、あんな獣みたいな! あああっ、恐ろしい!」

「……レディ。誰だったのですかな、その下手人めは」

 

 感情的に叫び始めたレディに苛立つかのように、スネイプが静かに問いただす。

 それは失敗だった。

 生徒たちを追い払ってからやるべきだったのだ。

 ヒステリックに岩陰から顔を出したレディを見て、生徒たちから悲鳴が上がる。

 肩口からばっさりと、自慢のドレスが引き裂かれていた。

 絵という存在であるためもちろん死にはしないだろうが、あのドレスは修復できるかすらわからない。一から書き直し、ということも十分にあり得るだろう。

 

「誰だったかですって!? ええ、言って差し上げましょう! あの子です! 名前の通り真っ暗な、闇のような髪の毛と瞳! もう人ではありませんわ! あの――」

 

 半ば叫ぶように、婦人は下手人の名を宣言した。

 

「――シリウス・ブラックは!」

 




【変更点】
・ばじりすくといっしょ。
・ウッド強化(無駄)。
・やっぱり吸魂鬼には勝てなかったよ…
・さらばクリーンスイープ。

壁に寄り掛かればあなたに懐いた巨大蛇が話しかけてくる。ばじりすくといっしょ好評殺害中。定価は貴様の命だお辞儀しろ。
やはり原作通り、箒は壊されてしまいました。ウロンスイー・フェイントなんて超危険技をかましてますが、映画だと雷に打たれてるんでどっちにしろセドリックは散々ですね。
アズカバンはほとんど動乱がない(気がする)ので、なかなか難しいです。秘密の部屋ほど短くはならないはずですが……こうなったらいっそアズカバンからシリウス級を一気に十人くらい脱獄させておけばよかっ だめだ死んでしまう。
なんとかシリウス独りで話が繋がるよう頑張ってもらいます。過労死バンザイ。
ところでロンはいい加減目を抉った方がいいかな。

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