ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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10.フラグメント

 

 

 ハリーは、泣いていた。

 はらはらと、ぽたぽたと、大粒の涙を流していた。

 シリウス・ブラック。

 彼は、大量殺人鬼として濡れ衣を受けていた。

 彼は、ジェームズとリリーを裏切っていなかった。

 彼は、ハリーの家族になってくれるかもしれない人だった。

 彼は、彼は、彼は。

 ……彼は、ハリーを殺そうとしていた。

 

「……か、……ぁ……」

「死ね……ッ! 死んで、くれ……!」

 

 歯を剥きだしにして、目を見開いて、髪もひげも振り乱して。

 膝を折って崩れ落ちたハリーの身体を地面に押し倒して、馬乗りになって体重をかけるようにして首を絞め続けるシリウス・ブラック。

 かつてハンサムだったろう顔は、今や憎悪で見る影もなく黒い。

 ワームテールが、裏切り者だったんじゃないのか?

 シリウスは、無実だったんじゃないのか?

 なぜぼくを殺そうとするのか。

 どうしてこれだけ憎しみに染まった眼で見てくるのか。

 ハリーには、何もかもがわからなかった。

 

「……っ、…………! ……ッ!」

 

 父の親友がこんなにも怒っているんだ。悪いのはぼくなのではないだろうか。

 だったら、……殺されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

 ほんの一瞬だけ、諦めてしまって。

 そして涙と共に溢れてきたのは、純粋な怒りの感情だった。

 なぜぼくが殺されなくてはならないのか。

 更にはシリウスに聞きたかったこともまた、ハリーの感情に拍車をかけた。

 『パパとあなたが学生時代に過ごした思い出を聞かせてほしい』。

 そんな素朴な問いかけだった。

 ハリーを殺すということは、シリウス・ブラックはヴォルデモートに与する者である可能性が高い。というより、それの他にはないだろうと言うほどに疑わしい。

 つまり。

 ジェームズとリリーを裏切っていたのは、ピーターだけではなかったということか?

 そうなると、こいつは。こいつは――

 

「……ッ! ……ッッ! ……ッッッ!」

 

 ぼろぼろと涙をこぼして。

 ハリーは右手を握り拳に変えて。

 明るい緑の瞳が怒りの深紅に色付いて。

 シリウスの左目を狙って親指を打ちこんだ。

 

「――――ッ、ガァアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 ぐぢゅり、と嫌な音が響く。

 激痛のあまりハリーを投げ飛ばしたシリウスは、左目を抑えて倒れ込んだ。

 喉が干上がったように熱く感じる。同じく地面に倒れ込んだハリーは、四つん這いになって咳き込んだ。シリウスは眼窩から血を流して、どこか怯えたような目でハリーを見ている。

 その様子に恐怖を覚えるばかりか、ハリーは怒りを覚えた。

 ジェームズとリリーが殺される原因を作ったのは、恐らくピーター・ペティグリューだろう。シリウスとルーピンの怒りが演技のようには見えない。

 だが。

 いつかハリーが《忍びの地図》の件からスネイプに絡まれた時に、ルーピンは言った。『ハリー・ポッターを守って死んだジェームズとリリーが気の毒だ』と。

 そうすると、こいつはなんなんだ。

 親友を裏切った男を許せずにわざわざアズカバンを脱獄してまで殺しに来て、そしてハリーを殺しにやってきた? それは、なんて矛盾。なんて、ばかばかしい。

 

「シリウス……」

「……ハリエット……」

 

 ぎり、と奥歯が噛み砕けるのではというほど噛み締める。

 憎しみが止まらない。怒りが収まらない。

 紅く朱くドス黒い光を孕んだように鋭い眼光を放つ赤い瞳が、シリウスを射抜いた。

 そこに、言葉は必要ない。

 

「『フリペンド・ランケア』、刺し穿て!」

 

 相手が杖を持っていようが持っていまいが関係はない。

 闇祓い達との攻防を見ていた経験がここに活きる。奴は杖などなくとも、魔力反応光を避けられるほどには動体視力と身体能力が高い。

 現にいまハリーが投擲した魔力槍も、身を捻ることで難なく避けている。

 それにしても異常だ。マグルで言えば銃弾を見てから避けるようなものだ。奴が動物もどきだからなのか? しかしマクゴナガルのように豊富な知識を持っているならばともかく、十三歳の魔女に過ぎないハリーにはわからない話だ。

 だが。そんなもの、当ててしまえば問題はない。

 

「『リピート』! 『リピート』! 『リピート』、『リピート』ッ、『リピィィィィィ――ト』ッ!」

 

 直前呪文を繰り返し、五本の槍を同時に投擲する。

 二本はそのまま射出して串刺しを目的に、残る三本は激しく回転させて面制圧を目的に。

 禍々しく刺々しい赤い鳥のようにシリウスに迫った槍たちは、彼が駆けだしたことであっけなく避けられてしまう。

 そのまま獣じみた勢いでハリーに向かって突進してくるシリウスに、ハリーは焦りを見せなかった。余裕な笑みを見せつけて、相手の平常心を削ぎ獲ることこそ、戦いにおいて簡単に加えられる一味のスパイス。

 シリウスの身体能力は、それこそ身体強化状態であればハリーですら視認が難しいほどに素早い。だがいまは素の状態であり、もともとの人間としての力しか有していない。

 銃もなければナイフもない以上、ハリーを殺すためには殴るか蹴るか、はたまた抉るか掴むか、それくらいしかない。要するに投石などを含めたとしても、大きなダメージを与えるには至近距離に限られるということだ。

 ならば近づけさせはしない。

 

「『アドヴェルサス』、逆行せよ! 廻り巡れ繰り返せ(Circulation)! 報いを与えろ荊の檻よ(Retribution Sin Torture)!」

 

 スネイプから教わった防御魔法、『反射呪文』。

 これは魔力障壁を張り、相手術者が放った魔法がそれに当たれば、その魔力反応光を術者に跳ね返すという魔法だ。

 ハリーはこれを、槍の進行方向上に設置した。

 聞いたことのない呪文に眉をしかめるシリウスだが、それもそのはず。これはスネイプ自身が考案した呪文だというのだから、学生時代に見せていなければ知る由もないのだ。

 このまま使っては、もちろんハリー自身に槍が返ってくる。

 それをハリーは、魔法式を無理矢理に書き換えることで設定を変更した。

 ぶっつけ本番。やったことがなかった上に出来るかどうかすら確証がなかったが、土壇場で発揮できる力をハリーは持っていたようだ。ハリーは杖先から放たれた薄黄色の魔力障壁の透明度が限りなく上がっているのを見て、内心ほくそ笑んだ。

 障壁に直撃した槍は一本残らず反射され、全く同じ威力でシリウスに向かって再度飛翔した。

 

「――ッ、く……!」

 

 動物的な勘でそれを避けるシリウスだったが、完全な不意打ちであったため二本が脇腹とふくらはぎの肉を削いでハリーのもとへ飛んでくる。

 自分の目の前にも反射障壁を張ったハリーは、次々と同じ障壁をシリウスを囲むように設置してゆく。再度反射。次々と反射されるたびに速度を上げる紅い槍は、もはや閃光めいて残像のみを視認することが許される。シリウスはもはや勘と経験、そして空気の流れからくる予知染みた予測を立てて槍を避けている状態だ。

 ハリーは容赦をしない。次々と直前呪文を繰り返し、槍の本数を増やしてゆく。

 まるで球体のように張られた反射障壁の空間内のみに降る豪雨のような紅い槍は、掠りながらも皮膚を削ぎながらも、一度も直撃していない。本当に人間なのか疑わしい光景である。

 三〇を超える槍を作り出したところでハリーは痺れを切らし、一直線にシリウスを狙うように螺旋状に回転する槍を作り出すと同時に射出。

 それは失策であった。

 

「ふ……ッ、っつ……ぉォオオあァッ!」

「んなっ……!?」

 

 シリウスは、他と比べると唯一速度の遅いそれを、直に掴み取った。

 そして掴み取るや否や、ハリーに対して投げ返してきたのだ。

 避けようと思う間もなく、ハリーのすぐ傍を槍が通過する。前を閉じずに着流していたブラウスとローブが巻き込まれて千切れてゆく。その衝撃に巻き込まれ、ハリーも尻餅をつく形で転倒してしまった。

 倒れながらも目にしたのは、背中を数本の槍で貫かれながらもこちらに向かって地を滑るように駆けてくる巨大な犬の姿。シリウスが変身した姿だろう。

 対象が抜け出たことで障壁の空間が砕け散り、槍があちこちへとすっ飛んでゆく。ハリーの近くにも幾本かが地面を抉りながら突き刺さり、肝を冷やす。シリウスはそれすら無視して一直線にハリーのもとへやってきた。

 獣そのものの獰猛な唸り声と共に、ハリーは巨大な犬に押し倒されてしまう。

 あまりに体重が違いすぎて、前足で胸を抑えられては身動きが取れない。

 鋭く立てられた爪が胸の肉に食い込み、じくじくと痛む。

 生臭い獣同然の息がかかるほどに大きなアギトを開いて、ハリーの喉を食い破ろうとしている様子が、まるでスローモーションのように映る。

 

「くっ! う、ぁぁあああああ!」

 

 恐怖を雄叫びで追いやり、手首のスナップのみで魔法式を組み、無言呪文で失神呪文を放つ。ゼロ距離で放たれた赤い閃光が、犬の胴体に直撃――

 しようとした、その時。

 シリウスは犬のまま宙返りをすると、一瞬で犬の姿から人の姿に変じて、犬であれば直撃したはずのコースから逃れることに成功した。そして宙返りの回転の勢いで、ハリーの鳩尾に膝を突き入れる。

 予想外の衝撃に、ハリーは胃から喉に込み上げるものをこらえきれなかった。

 

「ご――ぼぁ……ッ」

 

 成人男性の全体重を乗せた、膝からの一撃。

 胃の中身を吐きだしてしまい、寝転がされて天を仰いでいる状態なので当然びちゃびちゃと頬や髪を汚してゆく。

 息が、できない。

 思わずゆるんだ指から、杖が抜き取られるのがわかる。

 シリウスに杖を取られてしまった。

 肺に空気を取り入れるのに必死になって視界がまともに機能しないが、杖を向けられている威圧感だけはわかる。

 ――だめだった。敵わなかった。

 先ほどハリーが彼のことを自分の上位互換だと感じたのは正解で、シリウスを相手取って勝つことなどできるはずがなかった。

 

「……言い残すことはあるかね」

 

 シリウスの低い声が聞こえる。

 ようやく視界が回復してきたと思えば、何やらぼやけている。

 ああ、そうか。どうも涙しているらしい。

 女々しい事この上ない。

 

「あんたを、信じていた」

「そうか」

 

 睨みつけながら言うも、女の子が泣きながら言ったところで威圧感もないもないだろう。

 ただの一言で返されてしまった。

 

「一緒に、暮らしたかった……」

「……ああ」

 

 偽らざる本音である。

 ハリーはじっとシリウスの顔を見つめる。

 髭面で、小汚くて、ハンサムだっただろう顔の面影もない。

 じっと見つめる。

 

「友達殺しが」

「その通りだ……! 私の、私のせいだ!」

 

 顔を歪ませて、ハリーの罵倒に唸るように言葉が返される。

 まだだ。まだ足りない。

 

「ペティグリューとの一件は何だったんだ」

「奴は奴で許されないことをした。だから、殺したかった。そして、……そう、君を……油断させるためだ。そうさ、ほら、城の外、君は一人だ。そうだろう!」

 

 ハリーはだんだんと、頭の中が冷静になってゆくのを自覚する。

 なるほど、と一人納得した。

 

「じゃあパパとママを殺したのも……」

「……そう、だ。私だ、私が殺したようなものだ! 君は、君はジェームズとリリーの元へは送らない。会わせはしない!」

「ぼくも殺すのか。パパとママのように」

 

 一瞬、シリウスの顔が不快げに歪んだように見える。

 しかしその割には、ああ、そうか。

 

「ああ……そうだ。今夜きみをここで殺す」

 

 そういうことか。

 ハリーは上半身を起こす。包帯で隠しただけの下着が見えてしまっているが、今そんなことを気にしたところでしょうがない。いまは、そう。

 杖を突きつけているシリウスの腕を掴み、その髭面にハリーは顔を引き寄せる。

 そして、叫んだ。

 

「だったら!」

 

 びくんと気圧されたようにシリウスが震える。

 

「何故そんな辛そうな顔をする!? そんなの、そんなのってズルいよシリウス!」

 

 ぽたり、と。

 ハリーの頬に、シリウスの涙が一粒落ちた。

 澎湃と涙を流し、顔を歪めて、洟で髭を汚しながらも、殺意を向けてくるシリウス・ブラック。だがその眼に力はなかった。心がへし折れている。殺そうとする意思が潰えてしまっている。

 この男は、そうだ。

 彼はどう見ても、ハリーを殺そうとしているようには見えなかった。

 殺す殺すと息巻いて、恐ろしい殺気を振り撒いて、ハリーを殺すと言いながら暴力を放ってくるものの、そのどれもがハリーを殺すには至らなかった。

 幾度実感したかはわからないが、ハリーは女性で、そして小柄な少女だ。

 つまり、非力なのである。

 それにもかかわらず、シリウスはこの数分間でハリーを殺しきれなかった。

 首を絞めた時も、骨ごと折ることすら可能だったはずなのにそれをしていない。

 ハリーが彼の目を突いたように、手刀で突き殺すという選択肢も取れたはずだ。

 槍結界の時もそうだ。避けるばかりで、積極的な攻勢に出ていない。さらに投げ返してきた槍に至っては、最初からハリーの身体に当たるようなコースではなかったという始末。

 先ほどの掴み合いもそうだ。

 わざわざ顎を開いて今からかみ殺すとアピールしなくても、素早く喉を食い破ればよかった話だ。回転しての膝打ちも、腹を狙わないあたりに何かの気遣いが見られる。

 そんなもの、総じて殺し合いに持ち出すような判断ではない。

 現にハリーは殺せるチャンスがあるときには迷わず必殺になりうる一撃を放っている。

 彼にはそれがない。それがなかった。

 うるさい、だまれ、といおうと思ったのだろうか。しかしハリーは彼が口を開いた時には、ハリーはすでに用意を終えていた。

 素早く曲げた両足を勢いよく伸ばし、シリウスの腹を強く蹴り抜く。本当は股間を狙おうと思ったのだが、それは咄嗟に選択肢から外しておいた。シリウスがくぐもった声を漏らした。そのまま彼を足場にして、アクロバティックに彼から離れる。

 その際に、痛みに緩んだ彼の指から自分の杖を抜き取ることも忘れない。

 杖を抜き取って宙返りしながら跳んだハリーは、宙に居る時点で杖先をシリウスに向けて、着地しながら叫んだ。

 

「『エクスペリアームス』!」

 

 結果。

 武装をしていないために余剰魔力がすべて衝撃となって襲いかかり、シリウスの体が大きく吹き飛んで、幾本かの枝を折りながら木の幹に叩きつけられた。

 葉が舞い散る中、ハリーは項垂れるように顔を伏せるシリウスのもとへ、咳き込みながら歩み寄る。

 彼女が近づいてくることに気付き、シリウスは右手で顔を隠して嫌がるような仕草をする。しかしハリーはその右手を強引に掴み、左手を彼の頬に添え、自分と視線を絡ませた。

 怯えきった捨て犬のような、主人に怒られるのをわかっている犬のような顔だ。

 

「だめだ、ああ……だめだ……私には殺せない。君は、君は……」

 

 呟くように懺悔に似た言葉を吐き出すシリウスの身体は震えていた。

 スネイプに基礎知識を教わったため、ハリーは開心術の基本だけを理解している。

 あれは他者のことを知りたい、秘密を暴きたいと強く願っていればいるほど、成功率が高くなる、他とは異なる異様な体系を持つ魔法だ。心に関係する魔法は、魔法式どころか魔力すら必要ない場合が多い。開心術や閉心術、リリーが使った愛の魔法などがこれに当たる。

 きっと今、開心術を使おうと思えば使えるだろう。成功すると確信する予感がある。

 だが、そんなものは必要なかった。

 これだけ弱り切った少年のような男を見て、誰がそんなもの必要と思えるだろう。

 ハリーはシリウスの前に立つと、シリウスの頭を抱きしめた。

 できるだけ優しく、子供をあやすように胸に包み、頭を撫でる。

 しばらくの間、林には男のすすり泣く声だけが響いていた。

 

 数分ののち、落ち着いたらしきシリウスがハリーの肩を優しく叩き、ハリーはシリウスから手を放した。十三の少女の胸で泣いてしまったのだ、もはや恥もプライドもあるまい。

 シリウスは頬を掻いて、懺悔するように謝罪した。

 

「申し訳なかった、ハリエット。私は、私はどうかしていた」

「そりゃ、まぁどうかしてるよね」

 

 容赦のない言葉がシリウスの心を抉る。

 信頼を裏切り、殺されかけたのだ。これでも生温い方である。

 ハリーがよほど家族に飢えていたということもあり、あまり冷酷な態度に出れない。そしてシリウスがいまいちハリーを殺しきれなかった理由がさっぱりわからないというのも、中途半端に優しさを見せてしまうことの要因だろう。

 

「君は、やっぱり君は、あの二人の子供だ。……そっくりだよ、本当に……」

「えっ」

 

 寂しげに、しかしそれでいて眩しそうにシリウスが呟く。

 それを聞かれると思っていなかったのか、ばつの悪そうな顔をしてシリウスは言った。

 

「最後に言われた言葉。あれはね、ジェームズとリリーが私に言った言葉とまったく同じだったんだ。彼らはいまも、君の中で生きている……」

 

 なにかに納得したようだが、ハリーには何のことかわからない。

 

「……どういうこと?」

「つまり、私はジェームズとリリーを信じ切れていなかったということさ。一番の親友だと思っていたんだがね、情けない限りだ」

 

 こんなとんでもないことを仕出かして、二人に顔向けできないと嘆く。

 何がどうしてハリーに殺意を向けたのかはわからない。シリウスは話したがらないだろうというのはよくわかるが、ハリーとしては気になるところだった。それに殺されかけたのだから、多少残酷な問いかけだろうと答えてもらう義務がある。そのはずだ。

 ハリーはシリウスに対して、その問いを投げかける。

 

「シリウス。答えてもらうよ、どうしてぼくを殺そうとしたの?」

「……、それは……」

 

 聞かれると覚悟していたのだろう。

 ウィーズリーの双子が作った《一生お口を閉じるチューインガム》を口に塗りたくられたかのように、シリウスは言いよどむ。彼が観念するまで、いくらでも待とう。これは知らなくてはならないことだと、ハリーの中の何かが囁いているのだ。

 ハリーが明るい緑の目で、まっすぐシリウスの黒い瞳を覗き込んでいると、ようやく観念したのか、口を開く。

 そして、最初の言葉を吐きだそうとしたその瞬間。

 

「――ンあれェ? もう終わっちまったのかよ、つまンねーなァ」

 

 まったく聞き覚えのない声が響き渡った。

 驚いて咄嗟に飛び退いたハリーは、その声の主に杖を向ける。

 何年も洗っていないかのようなゴワゴワしてパサついた髪に、不潔そうな無精ひげ。

 牢獄生活を営んできたシリウスも大概であるが、この男もかなりひどいものだ。

 なぜ声をかけられるまで気付かなかったのかと思うほどに獣臭い。いや、この男から発せられるのもあるが、男が持っている巨大な毛皮も原因か。

 どうしてホグズミードのはずれに、このような野性味あふれる男が居るのか。

 そして時を巻き戻している現在、この男に出会ったことは非常にまずいのではないだろうか。タイムパラドックスとやらが起きてしまうのではないか? いや、いま歴史が崩壊するなどの超常現象が起きていない以上、この男はハリーたちに会ったことを誰かに話したりしなかったという未来になるのか?

 数々の疑問のうち、男が持っている毛皮については即座に判明した。

 シリウスが叫ぶ。

 

「リーマス!」

「なんだって!?」

 

 どうやらあれはルーピン先生らしい。

 怒りに犬のような唸り声をあげるシリウスを、男はせせら笑う。

 ……いや、ちょっと待て。それはおかしい。

 リーマス・ルーピンは狼人間だ。並みの魔法使いが勝てるはずがない。

 しかし男はどうやら杖を持っていないらしい。ハリーが杖を向けても何もしないことから、その可能性は濃厚だ。持っているならば構えるか、奇策としてあえて構えていないとしてもほとんどその可能性はありえないだろう。

 つまり男は、シリウスと同じように魔力反応光すら避けられる身体能力を有しているか、なにかしらの防御手段があるということになる。少なくとも二メートル以上の筋肉の塊(ルーピン・ウルフ)を片手で軽々と持っていることから、異常なまでの怪力であることは確かだ。

 男はじろじろとこちらを見てくる。

 いったい何が目的だ?

 

「こいつは驚きだ。凶悪殺人犯シリウス・ブラック、いたいけな少女を襲う。殺人罪に性犯罪もプラスかよ、林ン中で下着姿に剥くなんざ節操なさすぎンぜ」

 

 言われて、ハリーは己の格好に気づく。

 ズボンに大きな損傷はないが、土埃に汚れてしまって綺麗な状態ではない。上半身に至っては、前を開放したブラウスに、ボロボロのローブを羽織っているのみ。更にそれらはシリウスとの戦闘によって引き裂かれており、ほとんど何も着ていないに等しい。

 そしてその中は包帯で隠されてるとはいえ、下着姿だ。その包帯もところどころかが緩んでおり、ずいぶんと刺激的なチューブトップ未満の何かに成り果てている。

 このような痴女同然の格好、はっきり言ってバカ丸出しである。

 

「~~~~~~ッ」

 

 慌ててローブの残骸で身体を隠すものの、男は大笑いして嘲るだけだ。

 羞恥で顔が真っ赤になる。そして怒りでも顔が赤く染まってしまう。

 何なんだ。こいつはいったい誰なんだ。

 

「お前が言えたクチか? 薄汚い人喰い野郎のフェンリール・グレイバックめ」

「オッホー! ご存じいただけているたぁ光栄だねぇー、殺人犯シリウス・ブラック」

 

 フェンリール・グレイバック。

 まさか、とハリーは目の前の人物を見た。

 近代魔法史に名前が載るのは確実だと言われている凶悪犯だ。婦女暴行や殺人は数知れず、子供すら平気でその手にかける外道という言葉では生温い人でなし。

 さらに言えば、意図的に感染を広げる狼人間でもある。

 暗黒時代が終わった今でも魔法省から生死問わずの指名手配(デッド・オア・アライブ)されている凶悪犯罪者。そして、彼自身は厳密には死喰い人ではないが、それでもヴォルデモートに与する者である。

 当然ながら現在の顔を見るのは初めてだ。指名手配書を見たことはあっても、ロシアの魔法学校を卒業した時の写真だったので、恐らく四、五〇代であろう今とは似ても似つかない。

 そして、彼が狼人間だったというのならば納得だ。なぜルーピン・ウルフがそこでボロボロになっているのかも。

 なにせ狼人間は、同族の声に反応するという習性がある。つまり、仲間を求めるか、もしくは縄張り争いだ。グレイバックの声に呼び出されたルーピン・ウルフは、きっとそれに負けたのだろう。

 

「ンじゃま、始めますかい。ワームテールを迎えに来たはずが、こりゃーいいお駄賃だぜ」

「……ちょっと待て。どういうことだ、ワームテールを迎えにきただと?」

 

 ごきごきと首を鳴らすグレイバックに、訝しげな顔をしたシリウスが尋ねる。

 それをせせら笑う態度を崩さずに、グレイバックは言った。

 

「英語わかンねぇーのかよクソガキ? 仲間を迎えに来て何がおかしい?」

 

 シリウスはショックだっただろう。

 かつての友情が嘘であったという告白もさながら、ワームテール……ピーターが死喰い人たちに仲間扱いされている。それはつまり、奴は臆病さからヴォルデモートに従っていたというわけではないのだ。

 つまり先ほどワームテールが使っていた杖は、こいつが用意したものだったのか。

 唸り声をあげるグレイバックに反応して、シリウスもまた唸る。

 グレイバックは左手で懐から何やら仮面のようなものを取り出しながら、なめまわすような視線をハリーに向け、べろりと長い舌で唇を舐めた。

 

「ンン~、それなりにホットなもんぶら下げてんな。よし決めた。メスガキ、てめぇーを今夜俺の玩具にしてやろう。喜べ、俺は上手いぞ。何故ならクレームが来たことがない」

「な……ッ」

「ぉお、流石に意味は分かるか。そこのクソガキよりゃー気持ちよくさせてやっからよ。首筋噛まれながらヤられンのはスゲー快感らしいぜぇ」

「ふざけるなよ外道がァ!」

 

 激昂したシリウスが、巨大な犬へと変じて飛び掛かる。

 鼻で笑ったグレイバックは髑髏を模した仮面をかぶり、()()()()()人狼と化して応戦する。

 それにハリーは驚いた。あの男は狼人間の力を完全に使いこなしている。

 はっきり言ってしまえば、満月の夜以外で言えば狼人間はただの人間と変わりなく非力である。いくら今夜が満月とはいっても、そこまで自在に力を扱える狼人間がいるのか。

 

「遅ぇおせぇおッせェンだよォワンちゃんよォア! 犬が狼に勝てる道理でもあンのかよゴラァ! わかってンのかよ雑魚野郎が、ァア!?」

 

 ぶん、と。

 グレイバックは手に持っていたルーピンの身体を振り回した。

 まさかそう来るとは思わなかったのだろう、シリウスはその直撃を受けて吹き飛ぶ。痛々しい犬特有の悲鳴を聞き流しながら、ハリーはグレイバックに向かって『武装解除』を放った。

 さも当然のように首を振るだけで魔力反応光を避けたグレイバックは、ルーピン・ウルフをこちらに放り投げてきた。山なりに放ったのではなく、まるでベースボールのピッチャーの如き速度。ハリーは迷いなくルーピン・ウルフの身体に魔法を当てると、邪魔だと言わんばかりにグレイバックに向けて弾き飛ばす。

 嬉しそうな顔になったグレイバックは、跳ね返された同族の身体を空中で踏みつけて、ハリーの胸を目掛けてその腕を伸ばしてくる。鋭い爪がぎちりと音を立てて、彼のヒトとしての指を食い破るようにして現れた。

 

「その脂肪の塊を千切りとってやンぜェ!」

「下品な男だな、ったくもう! 『プロテゴ』!」

 

 盾の呪文で出した障壁が、ごりごりと音を立てて削られる。

 流石にこれを破るほどの馬鹿力ではないようだが、それでもただの身体能力で傷をつけた。それはハリーが生身で喰らえば、本当に肉を引き裂かれていただろう。十分に厄介である。

 無言呪文を用いて投槍呪文と直前呪文を使って、六本の魔力槍を投擲する。

 上半身を仰け反らせて避ける、腕を振って避ける、その反動を利用してその場で宙返りして避ける、上下さかさまのまま両脚を開いて避ける、地面すれすれになるまで伏せて避ける、ダンスのように回転しながら勢いのまま飛び起きて避ける。

 全ての槍を躱しきったグレイバックが、こちらに向けて爪を用いた連撃を放ってきた。

 盾で防ぐも、八発ほどを受け切ったところでガラスのように砕け散る。九撃目をなんとか避けたものの、ローブが巻き込まれて引き裂かれてしまった。これで本当にハリーは上半身が無防備になってしまう。

 下品に口笛を吹いて両手を打ち鳴らすグレイバックに見せつけるように、ハリーは修復呪文を使った。破れたブラウスがある程度直され、腹が出ていても構わないのでせめて胸元は隠すように体を覆った。

 わざとらしく落胆したような顔を見せる相手に対して、ハリーは地面に唾を吐く。

 

「よし殺す」

「やってみな、可愛らしいお姫さんよォ」

 

 ハリーの全身が青白く発光すると同時、強く地面を蹴る。

 すると爆発するかのように彼女の身体が飛び、あとには土煙が撒き散らされた。

 青白い閃光がグレイバックのもとへ矢のように飛び、心臓を穿たんと紅い槍を振るわれる。先の魔力槍かと看破したグレイバックは、それをあえて爪で受けた。まるで火花のように紅い魔力片が散り、ハリーの突進が受け止められる。

 ふっと抵抗する力がなくなったかと思えば、姿勢を低くしたグレイバックが両手を地に突いて、両脚をそろえて蹴りを放ってきた。まるで体操選手のような身体能力を見せつけるグレイバックも、次に起きる展開には予想ができなかった。

 ハリーが頭突きでグレイバックの足の裏を受け止めると同時、グレイバックは横合いから強烈な蹴りが脇腹から肋骨にかけてに襲い掛かったことに気付いた。

 

「ごぉ、あ……!?」

 

 グレイバックの体内からべぎごばと耳をふさぎたくなる音が響き、彼の身体がピンポン玉のように吹き飛ばされる。宙を舞うグレイバックが見たのは、青白く発光したシリウス・ブラックの姿だ。

 なぜ。

 奴は杖を持っていないはずだ。

 木々を一本なぎ倒して、グレイバックはひときわ太い幹にその体を強く打ちつける。口中から胃の中身やら血液やらが吐き出されると同時、ハリー・ポッターの手に杖がないことに気付いた。

 

「……きひっ、んなぁるほどぉ」

 

 そうか、と納得する。

 彼女が身体強化を用いて飛び出した瞬間、無駄に土煙を巻き起こしたのはシリウス・ブラックに杖を投げ渡すためだった。そして注目すべきは、恐らくこの作戦は即興で作られたものということ。ゆえに伝える手段も暇もなかったはずだ。

 首をごきごきと鳴らし、面白いものを見たとにやにや笑うグレイバックの顔が、一瞬にして曇った。

 面白くねェ、とでも言いたげに曇ったその顔の先に何があるのか、と。

 思った瞬間。

 

「くぁ、あ……!?」

 

 ハリーは自分の心の中が寒くなると同時、シリウスの悲鳴を聞いた。

 見れば、そこには黒い靄が大量に集まっている。何事かと思えば、何のことはない。

 此方にすり寄ってくる黒い影を見ていればわかる。

 ……吸魂鬼だ。

 ついに、見つかったか。

 

「グレイバック、まさか、きさま――」

「ぁあ? ンなわきゃーねぇだろうが。ったくつまんねぇ横槍入れやがって」

 

 その言を信ずるならば、奴らは輪をかけて危険すぎる。

 つまるところ、今から彼らによってもたらされる暴力には制御がされていないということに他ならないのだ。

 アズカバンの看守たる吸魂鬼は、ゆらりゆらりと揺らめきながら歓喜の歌を叫ぶ。

 その数たるや、百や二百ではきかない。少なくともハリーには数えられず、クィディッチ場を埋め尽くすサポーターのような錯覚を覚える。

 慌てて走り寄ろうとするも、シリウスが弱々しく杖を投げてきたのでそれを受け取る。

 彼の意思を酌んで、ハリーはまずそれをグレイバックに向けた。驚きながらも楽しげにこちらを眺める彼に向けて魔力縄を放つ。それが完全に巻き付いたかと思えば、彼の身体は闇そのものと化して、物理的な拘束を抜け出す。霧のような粒子を振り撒きながら、フェンリール・グレイバックはその場から離脱してしまった。

 

「きぃひぇへへ! 次はおいしくいただいてやっからよ、股座でも洗って待ってなァ!」

「……この、下種がッ!」

 

 歯噛みするハリーを置いて、グレイバックは空高く飛び去ってしまう。

 視ようにも魔法式がぐちゃぐちゃで、何をどうしてあんな現象が起きるのかまったくわからない。それにグレイバックが逃げたということは、奴にとってもこの状況はまずいものであるということか。

 まあいい。今のうちに殺しておけなかったのは心残りだが、仕方ない。

 ハリーはシリウスに纏わりつく吸魂鬼に向かって、無形守護霊を放つ。スプレー状に広がるそれの直撃を受けた十体ほどの吸魂鬼が、甲高い悲鳴をあげて消滅してゆく。

 それに脅威を覚えたのか、恐らく憤怒であろう奇声をあげてシリウスからハリーへとターゲットを変えたようだ。虚空に繋がっているかのような洞のごとき口をこちらに向けてくる。

 魂を吸うつもりか。

 いい覚悟だ。

 ならばこちらも殺すつもりで挑まねば。

 

「『エクスペクトパトローナム』、守護霊よ来たれ!」

 

 杖先から、ぱしゅ、と霧の名残のようなものが出た。

 それきりだ。

 

「……はっ?」

 

 まさか、いや、そんな。

 魔力枯渇したのか? そんなはずはない。

 体の成長に伴って、年々魔力は増加しているのだ。それはない。

 つまり、想像した幸福が、守護霊を作り出すに至らなかったとでもいうのか?

 

「ぐぁあ、ああああっ! うぁぁああああ――ッ」

 

 シリウスの悲鳴が聞こえる。

 ハリー自身の喉からも、気づけば悲鳴が発されていた。

 幸せな思い出が、コールタールのように粘ついた汚物に塗り潰されてゆく。

 あとに残って肥大してくるのは、嫌な記憶ばかり。ダーズリーたちに酷い罵倒を言われたこと、何度も怪我させられたこと、自殺を試みて何故か失敗してしまうこと、それによるダーズリーからのさらに熾烈な仕打ちのこと、ろくでなしだと聞かされていた両親のこと、友達だと思っていたのに裏切った子のこと、ネビルを殺すと決めてしまったこと、クィレルの頭部が吹き飛んだときのこと、学校中の人間がハリーに敵意を抱いたこと、ハーマイオニーが石にされてしまったこと、ロックハートによる残酷な真実を知らされたこと、クィレルを完全に殺してしまったこと、リドルに本心からの恐怖を抱いたこと、ルーピンに裏切られたこと、シリウスに押し倒されて乱暴されると恐怖したこと、シリウスが裏切り者ではないと分かったのに今度はピーターに恨み辛みを聞かされたこと、シリウスが自分を殺そうと首を絞めてきたこと、シリウスが自分の胸の中で子供のように泣いていたこと――

 すべてがすべて、ハリーの脳裏を廻っては絶望を刻んでゆく。

 最後の方にはシリウスとのやり取りでいっぱいになって、淡い少女の心と深い絶望とが踊り狂って暴れ回ってハリーの脳みそがパンクしそうだった。つ、と鼻血が垂れてきたのを自覚して、ハリーはその例えが比喩ではなく現実に起こりうることなのではと危惧する。いまハリーの頭は酷く勢いよく回っている。今までになく高速で回転している。

 混乱しているハリーの感情を吸うためにすぐ傍を通り過ぎた吸魂鬼のフードの下に隠れる顔の、瘡蓋の一つ一つを視認できるほどに、とんでもない集中力を発揮できている。

 

「――――――、」

 

 そこで気付いた。

 シリウスへの想いが多すぎることに。

 ハリーは自分でも気づいていないうちに、彼に愛情を感じていたのだ。

 それは母性愛なのかもしれない。ひょっとしたらお門違いの家族愛かもしれない。

 しかしハリーはそこに、自分が今まであまり感じたことのない暖かさを知った。

 胸の奥にじわりと広がる、太陽の光のような、叫びだしたくなる尖った感覚。

 頭の奥の方にもふわりと拡散する、お風呂のお湯のように気持ちのいい感覚。

 心の奥底から湧きだす幸せな感情は、ハリーの表情を笑顔に変えて、笑声を漏らす。

 明るい緑の瞳を輝かせて、光を湛えたまなこで絶望どもを見据え、ハリーは叫んだ。

 

「『エクスペクト……ッ、パトロォォォーナァァァ――――――ム』ッ!」

 

 途端。

 杖先から真っ白な鹿が飛び出した。

 

「守護霊、だと……」

 

 シリウスが呻く。

 吸魂鬼が純白の大鹿を見て、狂乱の声をあげた。

 牡鹿とも雌鹿ともとれない不思議な大鹿が、その巨躯を以って吸魂鬼を蹴散らす。

 尾には大蛇がついており、まるでキマイラのようだった。

 堅い剣のような蹄で鬼を追い払い、牙を剥く蛇の尾で絶望を打ち払う。

 そんな守護霊の姿を唖然としてそれを眺めるシリウスの顔が、なんだか可愛かった。

 苦し紛れに近寄ってキスを敢行しようとする吸魂鬼どもが、ついにはハリーの守護霊が放ったドーム状の純白の光によって、そのすべてが消滅していった。

 恨み言代わりに黒いローブの切れ端がひらひらと舞い落ちる中、ハリーはシリウスに駆け寄って抱きしめた。シリウスは目を白黒させるものの、寄り添うようにしているキメラの守護獣を見て、決意を固めた目に変わる。

 そしてハリーの頭を、優しく撫でたのだった。

 

 十分ほどシリウスの胸の中で泣き続けたハリーは、顔を真っ赤にして彼から離れた。

 苦笑いを浮かべる彼に、ふくれっ面で拳を一発入れる。

 そしてハリーは、シリウスに寄り添ったまま口を開いた。

 

「……ぼくを狙った理由は、話さなくていいや」

「ハリエット……?」

 

 頭をこつんと彼の胸板にぶつけて、ハリーは言う。

 

「割とトラウマなんだよね、さっきのこと」

「……すまない」

「ん。でもさ、ぼくは貴方をきっと、もう家族として見てしまっている。愛してしまっていると思うんだ。だから、あまり強く出れない。……でも、殺されかけたんだ。ちょっとくらい仕返しはしておかないといけないと思って」

 

 泥のような瞳を見て、シリウスは思う。

 この少女の目がこうまで濁ってしまう原因を作ったのは、我々大人なのだと。

 ふがいない大人がだらしないせいで、幼い少女の心に傷をつけてしまったのだと。

 

「だから、謝らせないし、言い訳もさせない。うぬぼれでなければ、きっとあなたはぼくを殺そうとしたことに罪悪感を抱いてると思う。だから抵抗できたんだし。……それを一生抱かせ続ける。ぼくに対して、負い目を背負わせ続ける」

 

 一生を縛る。

 痛い目にも合わず、責められることもない。

 だが罪悪感で圧迫され、苦しくて辛い。心が重くなる。

 どこかねっとりとこびり付くような心を、一生持ち続けろと言う。

 

「それがぼくからの、ささやかな罰だよ。死ぬまで苛んでくれ」

 

 ささやかとハリーは言うが、これは酷く重い罰だ。

 うまく折り合いを付けれなければ、寝る時でさえ心の平穏を得られないのだ。

 信頼を裏切り、少女を殺そうとした罪に対する罰としては軽すぎるかもしれないが、それでも決して優しいものではない。シリウスはその言葉を聞いて、強く目を閉じた。

 後悔先に立たず。すべては終わってからでは遅いのだ。

 

「……」

 

 ざくざくと、腐葉土の上を二人は歩き続ける。

 互いの間に言葉はない。

 そしてついに、ホグズミードから繋がる森の方へ出てしまった。

 ここから先へハリーは行くことができない。

 振り返ったシリウスは、ハリーに言う。

 

「ハリエット。……きっと君がこれから歩む道は、辛く、苦しいものだろう。だが、……こんな私が言ってもアレだろうが、それでも希望を捨てないでくれ。君には頼れる友がいる。それを大事にするんだ」

 

 ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズ。

 四人の友達はいまや、ばらばらになってしまった。プロングズは裏切られて殺されてしまい、パッドフットは汚名を被って逃亡生活、ワームテールは友情を否定し復讐を遂げて姿を消し、ムーニーはただ一人取り残された。

 悪戯仕掛人たちのような終わり方を迎えたいわけではない。

 ハーマイオニーとロンと、死に別れるそのときまで一緒に居たい。

 ハリーはシリウスの言葉に、強く頷いた。

 

「では、さらばだ。ハリエット」

「あ、ちょっと待ってシリウス」

 

 ハリーはそう言うと、懐から杖を取り出す。

 器用にくるくると回すと、それをシリウスに差し出した。

 

「『服従の呪文』のあとに『失神呪文』をかけてくれないかい」

「えっ? ハ、ハリエット? 自分が何を言っているのかわかっているのか?」

 

 あまりに巨大な爆弾発言に、シリウスが動揺する。

 悪戯が成功したような笑顔を浮かべて、ハリーは説明した。

 ここまで派手に戦闘してしまった以上は逃走を補助したことがバレる可能性が高くなる。

 ならばここは極悪殺人鬼らしく、ハリーを『服従』させて逃走を手伝わせ、呪文に抵抗して決闘した結果、『失神』させられて打ち捨てられていた哀れな少女という状況を作り出した方がいい。ということだった。

 そのとんでもない発想に、シリウスは数秒あんぐりと口を開けていたが、しばらくして大笑いし始めた。

 ハリーは知らぬことであるが、説明している最中のあくどい笑顔とブッ飛んだ発想が、実はジェームズ・ポッターが学生の頃によく見せていた顔とまったく同じだったのだ。

 既に汚名を被ったシリウスに、更に汚名を被せてしまうという非道な手段も、かつて彼が悪戯の際に使ったものであることも、シリウスの頬を緩ませた。

 渾身の策を笑われたと思ったハリーが頬を膨らませるのを見て、シリウスは彼女の頬を撫でる。

 

「いや、それでいこう。流石だな、酷いアイディアだ」

「もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

 

 ハリーは女性である。

 胸の膨らみも十分大人に近づいてきているし、うなじを隠すほどに伸ばされた髪もさらさらと柔らかくて美しい。ボーイッシュな顔つきも、また彼女にとっては魅力の一つだ。

 だが、きっといま眼鏡をかければ彼女はジェームズそっくりな顔をしていただろう。

 

「君はやっぱり、立派にあいつの娘だよ。ハリエット」

 

 シリウスがそう微笑んで、ハリーも同じく微笑んだ。

 そして最後に、すべてが終わったら一緒に暮らそう。と。

 最初にハリーが望んだ通りの約束を交わしてから、二人は別れた。 

 

 

 見慣れた天井だ。

 ハリーが目を覚ました時、手に負えない悪戯っ子を見る目のダンブルドアが目に入った。

 それに対してにっこりほほ笑むと、盛大な溜め息を吐かれる。

 

「ダンブルドア先生。どうです、見事な手腕でしょう」

「目撃者はおらんかったじゃろうな」

「……」

「これが闇祓いの隠密試験ならば、落第点じゃ。まったく、歴史に影響を及ぼさぬ者だったからよかったものの……」

 

 数分間の説教を受け、ハリーはあの邂逅がとんでもなく危ないものであることを悟る。

 しかしタイムパラドックスが発生する条件がよくわからない。

 聞いても分からないだろうと判断したハリーは、とりあえず何事もなかったことを喜んだ。

 

「さて、それでも今回はようやってくれた。無実の者を助けることができたのじゃ」

 

 その当人に殺されかけましたけどね。

 などと口が裂けても言えない。

 

「さて、何か聞きたいことはあるかの」

「聞きたいこと。……、やっぱりルーピン先生のことです」

「彼か」

「ええ。……彼はどうなるのでしょう」

 

 ルーピンは狼人間だ。

 それを教師として雇ったこの老人の度胸は凄まじいものがある。

 だがハーマイオニーのように、狼人間のことを知る者ならば疑いをかけるだろう。

 毎月、満月になる前後では様子がおかしい彼のことを不審に思う者が出るだろう。

 そうすれば好奇心の強いホグワーツ生のことだ、いずれ正体を突き止めるだろう。

 それはひどくまずいのではないだろうか。

 

「まずいのう」

「いやいや。本当にどうすんですか」

「もちろん考えてある。彼には職場を移ってもらうことになった」

「えっ!? クビですか!」

「これ、人聞きの悪い」

 

 ダンブルドアが言うには、こうだ。

 彼は狼人間ゆえに職に貧窮していたルーピンの現状を聞いて、教師として招いたのだ。能力の高さは知っていたゆえに、教師としては有能だと考えたのだろう。

 ハリーに言わせれば、それも見当違いであったのだが。

 

「で、ダンブルドア先生は知っているんでしょう? シリウスがぼくに殺意を向けた理由を」

「――ハリーや、わしから言えることはない。それは、君と、彼の問題じゃ」

「……、そういうことにしておきます」

 

 唐突に話題を持ちこめば何かしら隙を見せてくれると思ったが、やはり年の功は強い。

 そして彼の答えで、ある程度の予想は立てられた。

 シリウスの手前、理由を聞かないとは言ったが、気にならないわけではないのだ。

 言い訳をさせないなどと偉そうに言ってしまった以上は、聞こうにも聞けない。だからダンブルドアからなら情報を得られると思ったのだが……。

 結論から言うと、ハリーにとってあまり有り難くないことがわかった。

 ダンブルドアが知っているということは、シリウス個人がトチ狂ってやってしまったことではないということ。つまり、ハリー側にも何らかの原因があるために、あんな事態を引き起こしたということが予想できるのだ。

 アズカバンで吸魂鬼に絶望を味合わされるせいでおかしな妄想をして、極限状態のあまりそれが現実だと信じ込んでしまっただとか、そういう理由ならばまだ救いはある。

 だがそうではなく、ハリーにも何か問題がある。

 それはいったい、何なのだろうか。

 

 今年はあまり酷い怪我をしなかったために、学年末パーティの最後には出席できた。

 教職員の席を見てみると、まだルーピンは来ていないようだ。調子が悪いのか、もしくは単に居ないだけか。……というかスネイプの威圧感が半端じゃない。なんだアレ。

 グリフィンドールの紅い寮旗が飾り付けられている以上、きっとグリフィンドールが優勝したのだろう。いったい何が起きたのかまでは聞くことができなかった。

 医務室から戻ってきたところをグリフィンドール生たちが次々とばしばし叩かれながら、ハリーはハーマイオニーとロンの間に座る。

 ロンの皿から食べかけのフライドチキンを奪ってぱくつくと、ジューシーな肉汁が口の中に溢れて幸せな気分になり、頬が桃色に染まる。なんて美味しいだろう。

 三人の中で一番ひどい怪我をしたのも、一番血を流したのもロンであるはずだ。

 片腕を吊っているロンに対して食べづらいだろうからとハーマイオニーと二人で「あーん」などをしてからかいながら、ハリーはとても暖かい時間を過ごした。

 

 翌日。

 試験が終わって授業もない。次の日に皆が自宅に帰るための準備日であるため、ハリーは暇を持て余していた。ハリーの荷物はペチュニアが贈ってきたフリルたっぷりな服と、自分で買った私服くらいしかないのだ。他の生徒と比べれば相当素早く準備を終えることができる。

 ハーマイオニーも私物を仕舞い込むのに手間取って暇だったので、適当に散歩をしていたところ、廊下でばったりスネイプと出会った。

 すっかり忘れてた。彼もあの事件の当事者なのだ。

 

「スネイプ先生……」

「さぞかし」

「?」

「さぞかし、ご満悦でしょうな。ポッター?」

 

 ハリーは杖を抜くかどうか迷った。

 スネイプの殺気があまりにも凄まじいからだ。学年末パーティでの彼からの視線を思い出す。あれはどう見ても殺気だった。

 

「な、なんの……」

「シリウス・ブラック」

「!」

 

 なるほど。

 

「貴様が逃がしたことはわかっている……。そう、わかっている……ポッターの血筋は争えんということだ……そう、お前は彼奴めの娘……そう、娘……ならば同じ……ふふ、同じだ……若い頃のあ奴と同じだ……落ち着いた頃のあ奴とは別人のようにやんちゃでくそったれで傲慢で鼻持ちならない自信過剰なくせ毛眼鏡……ふふふ……」

 

 今が物凄くヤバい状況だということはよくわかった。

 

「言えぃ、ポッター! どうやってブラックを逃がした? あんなことを仕出かすのはおまえくらいしかおるまい。なにが『服従の呪文』に操られて協力したと思われる、だ。魔法法執行部隊の無能どもめ! あんな杜撰な捜査、マグルの警察の方がよほど優秀だわ!」

「お、おう」

「おうではない! 白状するのだポッター。彼奴めに合法的に復讐できるチャンスだったというのに、きさまというがきんちょは! ウィーズリーはあの怪我だ、関与してはおるまい。え? どうせグレンジャーめが関わっておるのだろう! ……いや待てよ、確かあ奴は魔法省から認可を受けて――」

「ス、スネイプ先生!」

 

 真実にたどり着こうと思考の糸を手繰り寄せているスネイプの腕を引っ張った。

 このままではハーマイオニーに多大なる迷惑がかかる。迷惑で済めばいいのだが、スネイプのこの様子ではきっとそんな程度では済まないだろう。

 

「何だポッター、白状する気になったか」

「あー、いえ。ナンノコトヤラ」

「なめとんのか」

 

 スネイプの手が懐に伸びる。

 や、やばい。話を続けなくては。

 

「ち、父についてです」

「……」

「スネイプ先生はぼくの両親と同じ時期にホグワーツに居たんですよね? あの、その。ぼく、彼らの学生時代をあまり知らなくて……」

 

 苦し紛れに言ってしまったことだが、これはハリーが知りたいことでもあった。

 ハグリッドに聞いても、二人は立派で勇敢な青年たちだったということくらいしかわからない。しかし今年度に入ってから、ルーピンによってジェームズが悪戯好きなやんちゃ坊主である可能性がもたらされたのだ。

 悪戯仕掛人などと名乗り、《忍びの地図》なんでものまで作るほど技術の高い悪ガキどもだ。さぞホグワーツを騒がせていたのだろう。

 

「ハッキリ言ってアレは最低の人間だった」

「えっ」

 

 スネイプの自分への態度を見るに、セブルス・スネイプとジェームズ・ポッターは何らかの確執があるのだと思っていたが、しかし予想以上に評価が低い。

 せいぜいがいけ好かない奴くらいだろう、と思っていたハリーは硬直してしまう。

 それに気づいていないのか、スネイプは話を続ける。

 

「あ奴……ジェームズの奴は、とんでもないテングだった」

「天狗? 日本妖怪の名がなぜここで?」

「ん? ああ、テングのように鼻持ちならないやつだったという意味で捉えればよい。まず我輩らの出会いは最悪だったと言っていい。グリフィンドール生の中のグリフィンドール生と、どっぷりスリザリンに浸かり込んだスリザリン生と言えば分かるだろう。ミスター・マルフォイとウィーズリーのようなものだ」

 

 スコーピウスの方ですか? とは口が裂けても言えなかった。

 

「我輩とジェームズは、顔を合わせれば互いを呪うような仲であった。そうだとも、互いを憎んでおった」

「…………そこまで」

「そこまでの問題なのだよ、ポッター。相容れぬ輩という者は必ず居る。どうやらお前はまだそういう者に出会ってはいないようだが、その時が来ればわかる気持ちだろう。何がなんでも受け入れたくない、そういう肩ひじ張った意固地な気持ちだ」

 

 ハリーはスネイプの話に聞き入っていた。

 咄嗟に出た話題とはいえ、随分と饒舌なものだ。

 忌々しげな口調だというのに随分と穏やかな顔をしているように見えるが、その原因なのだろうか? 憎んでいるとは言っても、まるで、その顔は――

 

「特に我輩とブラックは酷かった。時には本気で殺し合いをしていたほどだ」

「ぇええ……」

「リーマスとは……うむ、あやつは悪い奴ではなかったな。だが決していい奴ではなかった。そうだ、ノ・ヴィータに対するシズーカ・チャンの立ち位置と言えば分かるかね? こう、ジャイアントどもの後ろでさりげなく笑っているような」

「まったくわかりません」

 

 何の話だ。

 しかし、本当に穏やかな声だ。

 話しているときも表情豊かでとても楽しそうに、そして憂えているように見える。

 だからだろうか。

 

「先生は、父のことが好きだったんですね」

 

 余計なことを言ってしまったのは。

 

「いや嫌いだ」

「ええええええ」

 

 スネイプが急転直下で不機嫌な顔になる。

 やらかしてしまったのだろうかと不安になるが、スネイプは構わず言葉を続けた。

 

「嫌いだよ、あのような男は」

「ええー……さっきまであんなに楽しそうだったのに」

「そんな顔などしていない。ポッターの人間は総じて目が悪いのかね」

 

 確かに悪かったけど、今はそうでもないはずだ。

 というかそういう問題ではないような。

 

「でも……」

「でもも何もない。……どうやらお喋りが過ぎたようだ。どこへなりとも消え失せろ」

「…………」

 

 呼びつけておいてそれはないのでは。

 しょんぼりした様子で肩を落とし、立ち去るハリー。

 アルバムに、一枚だけ入っているスネイプの写真。

 赤ん坊のハリー・ポッターを抱く彼の顔は、どう見ても嫌いな人間の子供を抱いているような顔ではなかったはずだ。

 なにやら複雑な関係のご様子。もうちょっと聞いていたかったと思って曲がり角を曲がったとき、背後からスネイプの声が届いてきた。

 

「ポッター。リーマス・ルーピンの部屋へ行け」

「え?」

 

 曲がり角を戻って顔を出せば、もうそこには誰もいなかった。

 いったい何なんだろうと訝しい気持ちを感じながらも、ハリーはその言葉に従うことにした。どうせ今日は暇なのだ。

 階段を上がって、闇の魔術に対する防衛術の教室へと辿り着く。実技教室の奥に更に階段があり、その向こうに教職員用の個室があるという変わった造りをしている。

 入ってみて初めて気づいたことがある。なにやら寂しげな雰囲気が漂っている。

 ノックをして返事をもらい、扉を開けてみれば、荷造りをしているらしきルーピンの姿があった。彼が杖を振ると、ぱたぱたとくたびれた服が畳まれて魔法の品らしきトランクの中へ収納されてゆく。クローゼットもぱたぱたと引き出しを閉じて、中身を閉じ込めると手の平サイズに縮んでトランクの中へ飛び込んでいった。

 面喰ったハリーが呟く。

 

「先生、どこへ……?」

「ん? やぁ、ハリー。ちょっと、ね」

 

 ハリーが声をかけたことで、ようやく気付いたルーピンが弱々しい笑顔を浮かべる。

 どうみても引っ越しの準備にしか見えない。いや、夜逃げの方が妥当かもしれない。

 

「どうして……? 学校、辞めちゃうんですか?」

「うーん、実はそうなんだ。あの真っ白いヒゲのおじいさんに、学生時代に信頼を裏切っていたことがバレちゃってねぇ。首だよ」

 

 そんな、とハリーは思わずつぶやく。

 ルーピンは自分を惜しんでくれるそれだけでも救われた気分だった。

 だが、続く言葉は「そんなことがあるはずがない」というものである。

 予想外に目を見開くルーピンに対して、ハリーは言葉を紡ぎ続けた。

 

「ルーピン先生、ダンブルドアは知っていたと思うんだ。なにせ、あなたがたの作った《忍びの地図》のことすら知っていたのだから」

「……なんだって?」

 

 やはりか。

 ハリーは自分の勘も信頼できるものだと内心ほくそ笑む。

 ダンブルドアの信頼を裏切った、という言葉でぴんときた。

 ということは、だ。きっと彼らは、ダンブルドアから《忍びの地図》を使った伝言を受けたことがないのだろう。

 あれがあれば、ダンブルドアはお見通しだということを知ったうえで行動をすることができる。フレッドとジョージが行き過ぎた悪戯をせずに人気者でいられるのも、ひょっとしたらこのことがあるからなのかもしれない。

 だから彼らが魔法界の法律を破ってまで動物もどきになって、ルーピンという狼人間といつまでも友達でありたいという動機であったからこそ、ダンブルドアは彼らの所業を見て見ぬふりをしたのかもしれない。

 そしてダンブルドアは、シリウスがハリーを殺そうとする理由を知っている風だった。彼が捕らわれて処刑まで至ってしまうというのは予想外だったとしても、その理由の中には、結局ハリーを殺せないだろうことまでもが含まれていたはずだ。

 どれだけ老獪な老人なのだろうか。

 ヴォルデモートがどのような手段をもってして残酷なことを行うのかは知らないが、向こう側からしてみればきっとダンブルドアも負けず劣らずとんでもない傑物に違いない。

 

「まいっ、たな……。ハリー、君はやっぱりすごい魔女だよ。物事の真贋を見抜くことに関しては大人顔負け……いや、私よりもずっと上みたいだ」

 

 呆れたような、それでいて羨ましいような。

 そしてシリウスと同じくどこかしら懐かしむような顔で、ルーピンは言う。

 

「それはきっと、リリー譲りの能力だね」

「……ママの?」

 

 ルーピンの言葉にハリーが反応する。

 それに対して嬉しそうにルーピンが答えた。

 やはり懐かしむような、大人にしかできない顔をしている。

 

「リリーはね、嘘を見抜くのがとても得意だったんだ。そしてひとつのウソから真実まで辿り着く発想と一握りの勘が、ずば抜けて優れていた。彼女の娘……そう、娘の君ならば、それを受け継いでいてもおかしくはないと思ってね」

 

 事実、リリー・ポッターは心眼のようなものを生まれながらに持ち得ていた。

 開心術とはまた違う、本人の中だけで分かる判断基準。

 心眼などと大げさに評されているものの、つまるところはただ単なる勘である。

 その鋭い勘が往々にして真実につながっているというのだから、リリーは平常時の見方からも、そして当然ながら闇の勢力の者どもからも脅威とされていた。

 それが死因の一つとなってしまったのも、また皮肉なことか。

 

「だからリリーは狙われた。気を付けるんだよ、ハリー。ワームテールは取り逃がしてしまった。そして聞いた話では、彼を支援する死喰い人までいたという話じゃないか。……ヴォルデモートの勢力は、決して潰えてなんかいない。まだ休息期間なんだ。分かるね」

「ええ。……ぼくは殺されてなんかやらない。絶対に、負けない」

 

 汚泥のように濁った闇にも近しい緑の瞳が、強い意志を秘めてルーピンを見据える。

 それに笑ったルーピンは、ハリーの頭を撫でた。

 

「ごめんね、ハリー。実をいうと、私が狼人間だということがバレてしまってね」

「えっ!? そ、それは……」

「ああ。明日にはダンブルドアの部屋目掛けて保護者たちからのフクロウ便が大勢突入することだろう。狼人間を教師に据えるとは何事か、とかね」

「で、でも! ルーピン先生は悪い狼人間じゃないでしょう!」

 

 ハリーの物言いに、くすくすと笑うルーピン。

 それが不愉快なのか、諦めている顔なのが不満なのか、ハリーは彼を睨みつける。

 それでもルーピンは微笑み続け、ハリーの柔らかい黒髪をくしゃりと撫でた。

 

「ありがとうハリー。こんな私をそんな風に言ってくれて」

「……先生」

「でもね、昨日のような事もある。誰かを噛んでいたかもしれないんだ。そう思うと……ぞっとする。こんな事はもう、もう二度と起こってはならないんだ」

 

 ルーピンの意思は固い。

 これはどういう説得をしても、もはや無駄だろう。

 今までで最高に出来のいい闇の魔術に対する防衛術の先生だったため、ハリーは彼が教壇に立てなくなることを惜しんだ。

 

「私はもう、先生ではない。だからこれを君に返すことにも、なんら躊躇いはないよ」

 

 ルーピンは机の上で広げていた羊皮紙を取り上げる。

 《忍びの地図》だ。

 どうやら展開されたままのようで、名前と足跡がうようよ動いているのが見える。

 

「私たちの自慢の品だ。きっとジェームズも君が持っていた方が幸せだと思う」

「……、…………」

「それと、これも。透明マントだ。何時の間にか落としていたのだろう」

 

 同じく机の上に畳んであったマントも手渡される。

 しかしハリーの顔は浮かない様子だった。

 

「ところでハリー、君の守護霊はどんな形だったかね?」

「守護霊?」

「ああ。吸魂鬼を追い払ったと聞いた。それはつまり、有体守護霊を作りだせたということだろう?」

 

 言われてみれば、そうだ。

 気分が沈んでいたからか、あまり考えがまとまらない。

 

「鹿です、大鹿」

「…………ほう、鹿か。では、雌鹿だったのかい? それとも、牡鹿?」

「えーっと、その、わからないです」

「わからない?」

 

 ハリーは自分の守護霊が、雄なのか雌なのかわからないと説明した。

 角はある。だが華奢な体格をしており、雄のようには見えないすらりとしたものだ。さらには尻尾の部分に大蛇まで伸びているという始末。まるでキメラそのものであった。

 それを聞いたルーピンは、難しそうな顔をする。

 

「ハリー、それは本当かい? 蛇の尻尾とか、聞いたことがないのだけれど」

「うーん……そう言われても。ぼくも守護霊に詳しいわけではないから」

 

 そう言うと、ルーピンはまたも渋面でうなった。

 ふと、ハリーは思う。

 シリウスがハリーを殺そうと目論んでいたことをダンブルドアは知っていた。

 それはわかる。なんというか、ダンブルドアなら知っていてもおかしくはない。

 では、彼は?

 あのとき、叫びの屋敷で十年以上その無実を信じられなかった友を抱きしめたあの時。

 あの瞬間から、ルーピンは知っていたのではないだろうか。

 

「ルーピン先生。先生は、知ってたの? シリウスが、ぼくを狙っていた理由を」

「……ハリー、それは」

「リーマス。おるかの」

 

 ルーピンが言葉に詰まると同時、ノックとともにダンブルドアが部屋に入ってきた。

 ハリーが睨みつけたところ、肩をすくめられる。

 本当に偶然のタイミングだったのだろうか。少し疑わしいが、ここで突っ掛かってもなんにもならない。ハリーは大人しくダンブルドアのために壁際に寄った。

 それに少し頭を下げて礼をしたダンブルドアは、ルーピンに顔を向ける。

 

「馬車が門の前に来ておる。時間じゃ、リーマス」

「ありがとうございます先生」

 

 そう言ってルーピンは、トランクを持って立ちあがった。

 不満そうにジト目で睨むハリーの頭を優しく撫でて、ルーピンは言う。

 

「また会おう。必ずね。そのころには君も、たぶん大人になっているだろう。そうであれば、きっと教えてもいいはずだ」

「……うん。また、会おう」

 

 そう言ってルーピンはハリーの前から去っていった。

 一度も振り返らずに。風によって、ぱたりと優しく扉が閉められた。

 物寂しくなってしまった防衛術の教室を見ながら、ハリーは隣の老人に目を向ける。

 すると既にこちらに向き直っており、柔和な身をたたえて話を聞く用意が出来ているではないか。相変わらず恐ろしい老人だと思いながら、ハリーは問うた。

 

「……先生」

「なんだね、ハリーや」

「ぼくは、……ぼくは何かできたんでしょうか? ペティグリューは逃がしてしまった。シリウスの無実も証明できなかった。グレイバックだって、仕留めきれなかった」

 

 俯いたハリーの顔を優しくあげさせると、ダンブルドアは微笑んでで言う。

 

「何ができたかじゃと? ハリー、それは大いなる間違いじゃ。君は大きな変化をもたらした」

「変化?」

「そう。君はあの世へ旅立つ定めにあった者を二人も救ったのじゃ。君も聞いたじゃろう、トレローニー先生の予言じゃ」

 

 トレローニー先生って誰だっけ。

 ハリーが頭をこねくり回して思い出すと、まるで昆虫のような顔の女性が出てきた。

 ああ、あの奇妙な声の奇人か。

 彼女がトレローニーのことをどういう風に考えているのか分かっているかのように、少し苦笑いしながらダンブルドアは言う。

 

「『人を喰らう狼は、同胞に食い殺されその生涯を終える』。……これは恐らく、リーマスとグレイバックの事を言っておったのじゃろう。過去に戻った君がシリウスを連れてグレイバックと遭遇していなければ、シリウスが処刑されるだけではなくリーマスまであの男の手にかかっていたに違いない」

「……!」

 

 ダンブルドアがあまりにもゆったりと、柔らかく微笑んで言うので信じてしまう。

 彼が大丈夫というのなら、大丈夫なのだろうと。

 それは短慮にも似て、しかし甘美な罠にも思える。何故だかこの老人は油断ならない。

 全幅の信頼を置くことができない。

 どうしてだろうか。

 何故ぼくは、ダンブルドアのことを信じ切れないのだろうか?

 

 ホグワーツ特急の中。

 ハリーとハーマイオニーとロンは、一つのコンパートメントを占領していた。

 腕の治ったロンは元気にもりもりとお菓子を口に含み、前面に座るハリーにその口元を拭かれている。それを呆れた目で見ているハーマイオニーに君もやるかいとハリーが言うと、真っ赤になって否定された。

 

「私、来年は《逆転時計》の使用をやめるわ」

「そうなの?」

「ええ。今年はたまにハリーを抱きしめて寝ることでストレスが解消されていたけれど、なんと言えばいいのか、あれ、まともな精神が保てないわ。いつか気が狂ってしまう」

「っていうかハーマイふぉに、――ごめんハリー。んぐっ――ハーマイオニー、どうして僕らにも内緒にしてたのさ。僕たち、友達じゃないか」

「誰にも言わないって約束していたのよ……」

 

 ハーマイオニーがそう言って、ハリーに助けを求める目を向ける。

 ハリーの格好はミニスカートサロペットに、黒くぴっちりしたシャツだ。これも勿論ペチュニアの贈り物でありコレを着て帰るようにドスの利いた字面で手紙がついていたわけだが、ハリーがペチュニアの予想以上に成長してしまったために、胸が強調されるようになってしまってロンが苦笑いするような見た目になっている。

 それで恥ずかしがって、あまりロンに触れない位置に居るようにしていたのだ。

 そんな様子のハリーを見て、ハーマイオニーは助けが来ないことを悟った。

 最近のロンは除け者にされると、すぐこうやって不貞腐れてしまって面倒臭いのだ。

 しかし、ハリーが驚いた声を出したことによってロンの文句は途絶える。

 

「どうしたの?」

「見て、これ! シリウスからの手紙だ!」

「えーっ!?」

 

 ハーマイオニーとロンと一緒になって読む。

 吸魂鬼から無事に逃げることに成功したこと。マグルの交通機関も使えないので、どこかの山奥で悠々自適なサバイバルライフを送っている事。最近ネズミを食べられなくなったこと。

 そんなことが楽しそうな文字で書いてある。

 ニンバス二〇〇〇がシリウスからの、十三回分まとめた誕生日の贈り物だということが発覚した時、ハーマイオニーはしてやったりというような顔をした。ロンに言わせればドヤ顔というやつらしい。

 手紙の最後に、この手紙を届けたフクロウをロンのペットにしてやってほしい旨が書かれていた。

 ロンが疑問に思ってハリーに問うと、彼女は小さなフクロウを差しだした。

 まるでふわふわのボールのように小さい子フクロウだ。

 訝しげな顔をするロンが、ハーマイオニーの膝の上でごろごろ言うクルックシャンクスに問う。

 

「……どう思う? こいつ、禿げたおっさんじゃない?」

 

 ロンのジョークを本気で面白いと思ったのは初めてだった。

 嬉しそうに喉を鳴らすクルックシャンクスを撫でながら、ハーマイオニーも笑っていた。

 ハリーは二人の様子を見て、シリウスが家族になってくれていたら、彼の無実を証明できていたとしたら、今頃ハリーの隣に座っていてどこに住むかを楽しく話していたかもしれないことを考えて、少し寂しい気持ちになった。

 それを敏感に察知したのか、ハーマイオニーとロンがハリーを見つめる。

 なんだか気恥ずかしくなってしまったが、ロンがハリーの頭を優しく撫でた。

 

「ハリー。私たちのこと、忘れてない?」

「大丈夫さ、ハリー。僕らはどこにも行きやしない」

 

 自分のことを想って優しい言葉をかけてくれるので、嬉しくてつい泣きそうになってしまう。

 二人はそんなハリーの事をやさしく抱きしめる。

 

 家族はいない。

 けれど親友ならいる。

 かつての悪戯仕掛け人たちは、哀しい終わりを迎えてしまった。

 一人は死を。一人は無実の罪を。一人は憎悪を。一人は寂寥を。

 ハリーは二人だけは、ハーマイオニーとロンの二人とだけはそうなりたくないと強く思う。

 二人の頬にやさしくキスして、三人は恥ずかしそうに笑う。

 ピーター・ペティグリューを逃がしてしまったことでヴォルデモートが復活してしまっても、ハリーには心強い友達がいる。きっと、怖くなんてない。

 ホグワーツ特急が汽笛を鳴らす中、ハリーは穏やかに微笑んでいた。




【変更点】
・シリウスとハリーの戦闘。
・罪には罰を。シリウスが一生ハリーに縛られるように。
・ピーターのサポートとして近くまで来ていたグレイバックと遭遇。
・守護霊は『蛇の尾がある大鹿』。
・スネイプのジェームズへの感情。原作とはかなり違う。
・ダンブルドアが信用できない。

【オリジナルスペル】
「廻り巡れ繰り返せ、報いを与えろ荊の檻よ」(初出・35話)
・魔法式を書き換える呪文。このスペルの場合、防御系呪文を編集できる。
 1993年、ハリエット・ポッターが開発。完全に即興で考えだし創った魔法。

これにて「アズカバンの囚人」は終わりです。
三年目はハリーが女性として成長し、大人たちの思惑が出てくる話でした。
シリウスがハリーを殺そうとする理由があったり、ワームテールが強化されていたり、グレイバックが出てきたり、なんというか前途多難です。ですがきっとハリーは幸せな未来に向かって頑張るでしょう。原作ではリストラされたニンバスも手に入ったし!
来年度はさらにオリジナルイベントが増えてハードになって参ります。四巻目は原作でもハードモードになってくる境目ですし、オリジナル要素も同時に強くなるので、どうか暖かい目でハリーを見守ってやってください。
ハリエットに幸あれ。

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