音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
目眩し術をかけたままの十二人は、あたりに杖を向けながら暖炉から次々と外へ歩み出た。
到着した先、長い絢爛なホールは不気味に静まり返り、磨き上げられた黒い木の床はぼんやりと明かりを反射している。土曜の夜とはいえ、ここまで魔法省に人けがないものなのだろうか? いや、これがまさに死喰い人が待ち構えている証左なのだろう。
ここに来て、ハリーは肝心の、神秘部への向かい方が分からないことに気がついた。魔法省には初めて来たし、夢ではいつも、神秘部の入り口から中に入っていくのだ。
しかし、一瞬足を止めたハリーの横を、迷いなく奇妙な景色の歪み──目眩し術をかけた誰か──が通り過ぎた。
「たしか、この先にエレベーターがある。そこから全ての階に移動できたはずだ。──ずいぶん昔、父の仕事場に遊びに来た時の記憶が正しければ」
声の主はセドリックだった。後の十一人も互いの存在を確認し合いながら、まっすぐ進む背の高い
ホールの中ほどにあるきらびやかな黄金の噴水を横目に、もやの集団は杖を構えたまま、大急ぎで進む。水盆の中に立つ立像から噴き出す水の音だけが、アトリウムに響いていた。
セドリックは足を止めることなく、声を潜めて話した。
「ハリー、神秘部の中はどんなふうになっているんだ?」
ハリーは必死で今までの記憶を頭に浮かべた。
「いくつか部屋があるんだけど──ヴォルデモートの狙いのものがある部屋は、ガラス玉みたいなものが入った棚が何列も並んでいるんだ。その間に、細い通路があって、かなり暗い。あいつらの狙いは、たぶん九十七番の列の棚にあるはずだ」
「その通路に、逃げ場みたいなものはあるか? すぐ身を隠せるような」
左ななめ後ろから、ジョージの囁き声が聞こえた。
「いや──多分ない。棚を倒せはするだろうけど」
「それは……待ち伏せされている可能性が高いな」
セドリックの声が少し低くなった。
「だったら、俺たち偽ポッターを前に出せ」
今度は、右ななめ後ろからクラッブの声が聞こえた。
「敵がなぜポッターを必要としているか知らないが、死体に用があるってことはないだろう。だったら、別の場所で殺した方が早いからな」
クラッブの言い分に、ジニーが非難するような声をあげた。
「とにかく、少しでも奴らに攻撃をためらわせた方がいい。勝つというより、ドラコを奪い返してから応援が来るまで、粘らないといけないからね」
さらに後ろから、ゴイルが声を潜めて言った。
早足で進んだ先には、またもや豪華な金のゲートがあった。その向こうの小さなホールには、少なくとも二十機ものエレベーターが、金の格子の向こうに並んでいる。
セドリックは迷いなく進んで一番近くのボタンを押し、おそらく振り返った。
「──そうだね。僕とハリーが先導、さらにその左右後ろに偽ハリーがつく形にしよう。しんがりはフレッド、ジョージ、任せられる?」
そこまで聞こえたところで、金の格子扉がガチャガチャと大きな音を響かせて開いた。乗り込みつつ、フレッドの声が返ってくる。
「オーケーだ。でも、逆に向こうがこっちに気づいてなかったら、奇襲できないか?」
誰かが「地下九階 神秘部」という掲示を見て、ボタンを押した。エレベーターが大きな音をたて降りる中、セドリックが囁き返す。
「その場合も、勝手に動いてはいけないよ。状況を見ながらだけど、基本は僕に合図をさせてくれ」
「異論なし」ジョージの声に反対するものはいなかった。
不意に囁き声での会話が途切れた。目眩し術をかけた十一人の姿は見えず、ハリーからは、自分を囲む景色が時折わずかに揺らぐのが分かるだけだ。格子の向こうを流れていく暗い壁と、エレベーターの機械音だけがやけに大きく聞こえた。
やがて、エレベーターが止まる。平坦な女性の声が「神秘部です」と告げた。
音を立てて金の格子扉が開いた先には、静寂に包まれた、ハリーが何ヶ月も夢に見続けた廊下があった。奥には、取手のない黒い扉が待ち構えている。それは近づくだけで、夢と同じようにパッと開いた。
その先には、青い炎に照らされた円形の部屋があった。壁には同じような黒い扉がいくつも並んでいる。ハリーは一瞬戸惑ったが、そのうちの一つに輝く×印が付けられているのを見つけた。どうやら、死喰い人はこの先でハリーを待っているらしい。
扉に近づく前、ハリーはふと立ち止まった。そのまま、構えたままだった杖を振り、目眩しの術を解く。
「ハリー! 何してるんだ?」
すぐ隣からロンの絞り出すような囁き声が聞こえた。
「僕が来たとわからなければ、奴らはドラコを出してはくれないだろう」
ハリーは静かに返した。
「でも、危険すぎる! 君一人だけが──」
ロンがまだ何か言おうとしているのを、セドリックが遮った。
「交渉のためには、しかたがない。その代わりに、全員全力で守ろう」
ロンは不満をあらわに大きな息を吐いた。
×印がつけられた扉の先、無数の時計が時を刻む細長い部屋を抜け、巨大なクリスタルの釣鐘を横目にその奥の扉をくぐると、再びとても見覚えのある光景が現れた。
天井がどこにあるのかも分からないほどの暗がりに、背の高い棚が何列も並んでいる。棚板には隙間なくガラス球が詰め込まれ、その一つ一つが淡い青白い光を放っていた。 夢で何度も見てきた場所だ。けれど実際に足を踏み入れてみると、想像していたよりもずっと圧迫感があり、ずっと暗かった。棚と棚の間は、人が二人並べば肩が触れるほどの幅しかない。
ハリーは棚の端に打ちつけられた古びた札へ目をやった。番号を目で追いながら進むうちに、自分の足音ばかりがやけに大きく響いているような感じがしてくる。他の十一人はほとんど音を立てないので、この暗がりを歩いているのは自分ひとりきりだという錯覚が、何度も背中に忍び寄ってきた。
やがて、九十七番の札が見え、ハリーは足を止めた。
通路の奥へ目を凝らし、ドラコの姿がないか探したが──青白い光の列が、暗闇の中へ吸い込まれるように続いているだけだった。
誰も、出てこない。
喉がひどく渇いていた。ハリーは一度だけ大きく息を吸い込み、暗がりの奥へ向かって声を張り上げた。
「僕は来た!」
声が棚の間で幾重にも反響した。
「ダンブルドアはいない。ドラコを出せ!」
──暗がりの奥から、低い声が返ってきた。
「他の者も姿を見せろ」
ハリーは息を呑んだ。 どこかで聞いた覚えのある声だった。しかし、どこから聞こえてきたのかは分からない。棚の陰でいくつにも折り返され、通路のあちこちから同時に降ってくるように響く。
背後で、誰かがごく小さく息を吸う音がした。
ハリーはどうにか声を絞り出した。 「ここには、僕しかいない」
「よもや、この期に及んでその嘘が通ると思っているのか、ポッター。学生にしてはうまくやっているだろうが、その目眩しは、我々を欺くには
ハリーは前を睨んだまま言った。 「先にドラコを出せ。話はそれからだ」
「お前は取引の条件を満たしていない」
声の主がわずかに苛立った。
「ダンブルドアが隠れていないという保証が、どこにある?」
ハリーの背筋が、すっと冷えた。
「早くしろ。隠れている者の正体を全員見せなければ、あれをここへ出すことはできない」
ハリーは杖を握る手に力を込めた。
「ハリー」
すぐ隣からセドリックの声がした。息だけのような低い囁きだ。
「……駄目だ。断ったら、向こうはダンブルドアがいると思う。隠すほど疑われる。疑われたら──」
セドリックはそこで言葉を切る。ハリーの手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
やがて、ハリーのすぐ左で空気が固まるように歪み、クラッブの大きな身体が暗がりの中へ滲み出てきた。青白い光が、その苦い表情を下から照らす。
それを皮切りに、一人、また一人と輪郭が戻ってきた。ゴイル、ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビル、フレッドとジョージ、パンジー、ザビニ。そして最後にセドリック。
十二人が、狭い通路にぎっしりと並んで立った。
フードを目深に被った四人の「ハリー・ポッター」だけが、俯いたまま顔を隠している。
ハリーは奥へ向き直った。
「これで全部だ」
声が掠れた。
「ダンブルドアはいない。ここにいるのは、僕たちだけだ」
しばらく、何の返事も返ってこなかった。
それから、ほんの十数歩先──さっきまで確かに何もなかったはずの棚の陰から、するりと人影が滑り出てきた。
ハリーは先ほどの声をどこで聞いたのか、ようやく思い出した。それはバーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
喉の奥が、ぐっと詰まる。去年、一年をかけてマッド-アイ・ムーディとしてハリーを騙し、ヴォルデモートを復活させた男だ。そして、吸魂鬼の前に立ちはだかったドラコに命を救われた男でもある。青白い光の下で見るその顔は、あの夜よりもいくらか肉がついていたが、表情の乏しさとやけに輝く瞳は何一つ変わっていなかった。
クラウチは十二人の顔を左から右へ、一人ずつ、ゆっくりと検分していった。フードを被った四人のところで一瞬だけ視線が止まる。それから、何事もなかったように目を戻した。
そして、そのまま一歩横へ退いた。
それが合図だったかのように、今度は通路のあちこちで暗がりが動き出した。黒装束の人影が次々と湧き出し、棚と棚が作る細い通路を、そのまま一つずつ栓で塞ぐように埋めていった。
敵の人数はこちらと大して変わらない。しかし、気づいたときには十二人の逃げ場はどこにもなくなっていた。
最後に、クラウチが横へと退いてできた空間へ、長いブラチナ・ブロンドの男が現れた。
息子によく似た、しかし以前見た時より老け込んだその人物は、紛れもなくルシウス・マルフォイだった。
いつもの人を小馬鹿にしたような余裕は霧のように消えている。杖を持つ手には力が入りすぎていて、顔つきはひどく険しかった。
ハリーはルシウスを睨みつけた。
ルシウスは口を開きかけたが、言葉はすぐには出てこなかった。何を言うべきか探すように、その視線はハリーに向いたままわずかに揺れる。
「……お前は最低の父親だ」
ハリーの言葉のほうが早かった。ルシウスの顔がさっと強張る。
「……お前に、何が分かる」
「ああ、そうだね」
ハリーはルシウスから目を逸らなかった。
「お前の気持ちなんて、僕にはちっともわからないな。自分の息子が拷問されていると知っていて、それでも何食わぬ顔で命令どおり突っ立っていられる、呆れるほど情けない人間の気持ちなんて、分かりたくもないね」
ルシウスの杖先が、ほんのわずかに動いた。
「そんなにヴォルデモートのご機嫌とりが大事か? 息子を売ってまでご主人様の靴を舐めたいのか?」
ルシウスは口を固く結び答えなかったが、代わりに背後から甲高い声が上がった。
「──その汚らわしい口であの方の名を呼ぶな!」
棚の陰から、黒い巻き毛の女がゆらりと歩み出てきた。
──ベラトリックス・レストレンジだ。
去年見た「記憶」のものよりも随分老けていたが、厚ぼったい瞼の下でぎらぎらと光る瞳は変わっていなかった。
ハリーは強く杖を握り直した。
しかしベラトリックスはそれ以上詰め寄ることなく、しばらくハリーをすがめ見たあと、ルシウスの方を向いて喉の奥で笑い始めた。
「……しかし、まあ……随分とあのガキにご執心のことだ。泣かせるじゃないか? え? ルシウス、お前の息子はずいぶんと人望があるらしい」
ルシウスは答えなかった。
ベラトリックスはくるりとハリーへ向き直り、猫撫で声で続けた。
「さっさと小さなおつむを使って
その言葉に、隠しようもなくルシウスの表情が歪んだ。
そのとき、ハリーは視界の端でクラウチがわずかに身じろぐのが見えた。クラウチは、ほんの一瞬だけ唇を噛み、その目はベラトリックスへ向いていた。しかし、次に見たときには、その顔からは何の色も消えていた。
「予言を取れ、ポッター」
ルシウスの杖の先が、九十七番の列の奥を示した。
「予言とドラコを交換するのだ」
ハリーは一瞬、言葉の意味を掴みそこねた。ルシウスの口ぶりで、棚に並んでいるスパンガラスの玉が予言と呼ばれていることはわかった。しかし、なぜハリーが取らなければならないのか? そもそも、このそっくりなガラス玉のどれをヴォルデモートは欲しがっているんだ?
「どれのことを言っているんだ?」
「惚けるな」
ルシウスの声が硬くなった。
「その棚だ。札に自分の名が書いてある。我々には触れられん。──取れるのは、それに記された者だけだ」
ハリーは思わず横を見た。
九十七番列の棚板に、確かに黄ばんだ札が一枚貼りついている。暗くて文字までは読めないが、おそらくそこにはハリー・ポッターの名前があるのだろう。
「……何で僕の名前があるんだ?」
「本当に知らんのか」
ルシウスの眉がわずかに動いた。それから、吐き捨てるように言った。
「ならば、知らぬままで結構。お前には関係のないことだ」
ルシウスは説明する気がさらさらないようだった。しかし、知りたいことは知れた。ハリーしか取ることができないなら、交渉の余地は十二分にある。
ハリーは慎重に言葉を紡いだ。
「……先に、ドラコをこちらに渡せ」
ルシウスがわずかに口を開く。その顔に一瞬浮かんだのは葛藤だった。
「馬鹿を言うんじゃない」
横から、ベラトリックスがヒステリックに声を上げた。
「先に予言だ。何をぐずぐず値切られている、ルシウス? ガキを二、三人捕まえて、ここでいたぶって見せるのが早いか?」
ベラトリックスの言いように、ルシウスは一瞬だけ目を閉じた。
「聞いたとおりだ、ポッター。先にこちらに予言を渡せ」
努めて平坦を装った口調だった。
しかし、ハリーに引くつもりはなかった。
「断る。そっちが先にドラコを渡さないなら、予言なんて絶対に取ってやるものか。何なら、壊してやってもいいんだぞ」
構えられているルシウスの杖先が、ほんのわずかに揺れた。しばし双方の間で睨み合いが続く。
ベラトリックスが、我慢ならないと言わんばかりに杖をゆらゆら揺らしているのが見える。
ハリーは喉の奥に張りついていた言葉を、どうにか押し出した。
「じゃあ、せめてドラコを見せてみろ。本当に今、ここにいるのかも、わからないじゃないか」
ルシウスは答えず、クラウチのほうへ視線だけを向けた。
クラウチが無言で振り返った背後の床には、黒い布の塊が置かれていた。ハリーはそれまで、それに気づいてすらいなかった。
クラウチは布の端を掴み、ゆっくりと捲った。その下から、白っぽい金髪が覗く。ハリーの背後から、何人かの息を呑む声が聞こえた。
ドラコは、横向きに崩れ落ちたような格好で床に転がされていた。誰かが運んできて、下ろしたままのように見える姿勢だ。片腕は身体の下敷きになり、もう一方は投げ出されたまま、だらりと床に垂れていた。
暗がりでよく見えないが、血が出ている様子はない。しかし、もともと白い肌は紙よりも青白く、生気がなかった。唇や頬、投げ出された手にも、血の気というものがまるでない。力無く閉じられた瞼はわずかにも動いておらず、胸が上下しているのかどうかも、この距離では分からなかった。
ハリーは声を出そうとしたが、強張って喉が動かなかった。
「……本当に、生きてるのか?」
ようやく出てきたのは、自分でも驚くほど小さな掠れた声だった。 ベラトリックスは面倒くさそうにため息をつくと、尖った靴の先をドラコの脇腹へめり込ませた。 ドラコの身体がわずかに縮こまり、喉の奥から微かな呻きがひとつ漏れた。その声に、ルシウスはわずかに身体を震わせる。
「ほうら、ちゃんと息をしているだろう?」 ベラトリックスは蹴った足を戻し、肩をすくめた。
ハリーは何か言おうと口を開いた。しかし、出てきたのは意味をなさない掠れた息だけだった。
視界の端で、ベラトリックスがハリーの顔を見て嘲り笑う。
「──待て」
ハリーの肩の横から声がした。 セドリックが一歩前へ出て、ハリーとルシウスの間に入るように立つ。
「今、ドラコが生きているのはわかったが、交換のときも、彼の安全は確保されなければならない」
セドリックは杖を掲げたまま言った。
「彼をお前たちから離して、僕たちから見える近いところへ置け」
「なぜお前の命令を聞かなきゃならない?」
ベラトリックスは挑みかかるように言った。
その言葉にセドリックは答えなかった。
「交渉の手順も先に決める。ハリーが予言を取り、そのあと、そちらが先にドラコをこちらへ渡す。予言の受け渡しはそれからだ」
一拍置いて、セドリックは付け加えた。
「一つでもルールを破るなら交渉は終わりだ。予言は破壊する」
ルシウスは答えなかった。その目は、セドリックではなく、床に転がされたドラコのほうを気にしているようだった。
「ばかばかしい」
ベラトリックスが吐き捨てた。
「甘ったれたやり取りにはうんざりだ。もういい。クラウチ、こいつらを──」
そこで、乾いた破裂音がした。
ハリーの後ろで、何かが砕け散った音だった。振り返ると、少し離れた棚の前で、クラッブが杖を下ろしたところだった。
棚板から落ちたガラス球が、床の上で粉々になっている。破片の中から白い煙のようなものが立ち上り、ゆらりと人の形になりかけて、そのまま薄れて消えた。
死喰い人たちの間に、明らかな動揺が走った。
「何をしている!」
ルシウスの声が初めて高くなった。
「いいから取引を続けろ」
クラッブはルシウスを見ていなかった。杖先を、すぐ隣の棚へ向けている。
「ドラコを渡せと言っているんだ」
「やめるんだ」
セドリックが鋭く言った。しかしクラッブは杖を下ろさなかった。
「この列には、まだ百は載っているぞ。一つずつ落としていこうか? お前たちのご主人様が欲しがるものに当たるまで──」
「やめろ!」
ルシウスが叫んだ。
「分かった。渡す。手を止めさせろ」
息が上がり、語尾には震えが現れていた。
「ベラトリックス、動くな」
「ルシウス! この腰抜けが──」
「黙れ! 作戦を失敗させる気か!」
ベラトリックスが唇を歪めたが、それ以上は何も言わなかった。
ルシウスは荒い息を一つ吐き、クラウチのほうへ顎を動かした。
クラウチはわずかに頷き、ドラコのそばへ膝をついた。
片腕をそっと背中の下へ差し入れ、もう一方を膝の裏へ回してゆっくりと抱え上げる。身体を大きく動かされても、ドラコはぴくりとも動かなかった。
ハリーは黙ってそれを見ていた。
クラウチは数歩進み、通路の中ほどでドラコを床へ下ろした。
距離にして、四、五メートルというところだろうか。姿ははっきり見えるが、即座に走り寄って抱え上げるにはやや遠い。どちらの手も届きづらい位置だ。
クラウチは立ち上がると、その場から動かなかった。
「私が見張る」
ルシウスのほうへ、一度だけ視線を送る。
「そちらも、ここから先へは踏み込ませるな」
最後の言葉はハリーたちへ向けられていた。
「……杖は下ろしてもらう」
セドリックが言った。
クラウチは無言で杖を下げ、ドラコから一歩離れた位置に立った。
黙りこくったルシウスは、杖先で奥を示す。それに従い、ハリーは歩き出した。指し示された先、棚板に貼りついた黄ばんだ札の前で足を止める。
近づいて、初めて文字が読めた。
『S.P.T .から A.P.W.B.D .へ 闇の帝王そして (?)ハリー・ポッター』
札のことについて考えている余裕はなかった。背中に、両側から十人以上の視線が刺さっている。
ハリーは棚板の上のガラス球へ手を伸ばした。
指が触れた瞬間、球がわずかに温かいことに気づいた。埃をかぶった表面の下で、白っぽいものがゆっくりと渦を巻いている。持ち上げてみると、思っていたよりもずっと軽かった。
ハリーはガラス球を握ったまま振り返った。死喰い人たちは熱に浮かされたようにこちらを見ていたが、皆ハリーの顔ではなく、手の中にあるものを凝視している。ベラトリックスは唇をわずかに開いたまま、身を乗り出すようにしていた。
ハリーは数秒、そのまま球を掲げていた。それから、ローブのポケットへ滑り込ませる。
「取ったぞ」
ハリーは言った。
「今度はそっちの番だ。ドラコを渡せ」
ルシウスが口を開きかけたが、その言葉が発されることはなかった。
「今だ!」
セドリックの声が、棚の間に響き渡った。
同時に、ハリーの後ろで何かが空気を裂いた。
ものすごい速さで、金色の火花が通路を突き抜けていく。それは棚の端で弾け、次の瞬間には車輪ほどの大きさの火の輪になって回り始めた。さらに数を増やし、金色の輪が次々と膨れ上がり、悲鳴のような甲高い音を上げながら、通路を右へ左へと跳ね回る。
死喰い人の一人が杖を振った。呪文が火の輪に命中したが、輪は消えずに真っ二つに裂け、そのまま二つの輪になる。そのどちらもが、撃った本人めがけて突っ込んでいった。
ほとんど同時に上がったのはピンク色の光だった。
棚の上を這うように広がったそれは、ハリーの頭上でいきなり膨れ上がり、翼を広げ、全長五メートルはあるドラゴンを形作った。腹の底が震えるような咆哮が天井のない暗がりへ吸い込まれていく。
ドラゴンは首をぐるりと巡らせ、死喰い人の密集しているほうへ滑り降りた。黒い装束が四方へ散る。棚に肩をぶつけた男が体勢を崩し、その頭上でガラス球がいくつも跳ねた。
爆発音が連続して響き、あちこちで悲鳴が上がった。
青白いガラス球の光は、もう何の役にも立っていなかった。金と桃色の光が棚の間で乱反射し、走り回る影と、その影を追いかける火の生き物が、通路のあちこちで交錯している。
大混乱の中、ハリーのすぐ横を大きな影が二つ疾走した。
それは、クラッブとゴイルだった。
二人は杖を構えたまま、ただドラコのいる方向へ一直線に走っていた。前を塞ごうとした死喰い人が、横から飛んできた火の輪に追い立てられて道を空ける。
しかし、その突進にベラトリックスが気づいた。
身を翻し、走る二つの背中へ杖を向ける。そのまま呪いが放たれようとしたときだった。
「エクスペリアームス!」
その声が飛んだのは、ベラトリックスの右側からだった。
呪文は外れたが、ベラトリックスの狙いは逸れ、放たれた赤い閃光がクラッブの数十センチ横の棚を砕く。ガラス球が滝のように床へ落ち、白い煙が何十本も立ち上った。
ベラトリックスが振り返った。
通路の脇に、ネビルが立って杖を構えていた。そのまま再び次の呪文を放つが、ベラトリックスが弾き返した。
「……ロングボトムか?」
ハリーの背筋が凍りついた。
ベラトリックスはネビルのほうへ身体ごと向き直った。落ち窪んだ目が、その顔を舐めるように上下する。
「両親は元気かい?」
ベラトリックスの嘲笑が滲む言葉に、ネビルの顔から血の気が引く。しかし、ネビルは退かなかった
「エクスペリアームス!」
三発目も弾かれたが、ここでベラトリックスはネビルを倒すべき敵として認識したようだった。
ハリーの頬を、熱風がかすめた。
目の前でルシウスの杖が振られていた。咄嗟に横へ跳ぶ。呪文は背後の棚に当たり、ガラス球が砕ける音が続けざまに響いた。
「セドリック!」
「下がって!」
盾の呪文が二人の前で膨れ上がる。ハリーはその陰から杖を突き出し、撃ち返した。
視界の端で、また金色の輪が跳ねた。その向こうには、倒れたままのドラコが見える。
クラウチは杖を抜き、迫ってきた火の輪を一つ、二つと撃ち落とす。どれもその場で対処し、ドラコの傍から一歩も動こうとしていない。
そのとき、通路の奥から赤い閃光が飛んだ。撃ったのは死喰い人の一人だった。狙ったのはハリーたちのほうだったのだろうが、呪文は逸れて棚の角をかすめて向きを変えると、床に転がされたドラコのほうへ滑っていった。
クラウチは杖を向けようとして、間に合わないと見たらしい。膝を折り、ドラコの上へ被さった。その背中で呪文が弾ける。クラウチは声も上げなかった。
その間に、大きな影が二つ滑り込み、クラウチを引き剥がすように弾き飛ばした。 ゴイルがドラコの上体を抱え、クラッブが脚を掬い上げる。棚にぶつかったクラウチが顔を上げたときには、二人はもう身体を起こしていた。
クラウチの杖が上がった。しかし、放たれた呪文はクラッブの頭上を越え、棚板に当たって消えた。
「ドラコ!」
叫んだのはルシウスだった。
ハリーは振り向いた。ルシウスは杖を構えたまま動いていない。ハリーのことも、セドリックのことも見ていなかった。
「ステューピファイ!」
セドリックの呪文がわずかに肩をかすめ、ルシウスの体勢が崩れた。ハリーも杖を振り上げる。
ルシウスは二人分の呪文を必死で弾きながら、なお顔だけを通路の奥へ向けていた。