音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
「ドラコを取ったぞ!」
クラッブの怒声が、乱戦の音を突き抜けて響いた。
ハリーは声の方へ振り向いた。後退した先、ゴイルがドラコを背負い直し、クラッブがその横で護衛につくようにして走り出したところだった。二つの影が、棚の列角を曲がり、その先へ遠ざかっていく。
「ハーマイオニー! コインを!」
ハリーが叫び終わるより先に、別の呪文が飛んできた。咄嗟に伏せると、頭上を赤い閃光が通り過ぎ、背後の棚で弾け散る。
顔を上げると、少し離れた通路の陰でハーマイオニーがしゃがみこんでいた。片手で杖を構えたまま、もう一方の手をローブのポケットへ突っ込んでいる。引き出した指の間で、金色のものが光った。
ハーマイオニーは複雑に杖先を揺らしながら唇を動かした。何と言ったのかは聞こえなかったが、偽ガリオンの縁が、一瞬だけ赤く滲んだ。
クラウチは背中から煙を上げたまま、しっかりとした足取りで棚に片手をついて身体を起こし、クラッブとゴイルを視線で追った。棚越しに見えるドラコを担いだ大きな二つの背中は、もう通路の奥へ遠ざかりかけている。しかし、クラウチはそれを追わなかった。
「構うな!」
クラウチの声が、花火のバンバンという音を裂いて通った。
「人質は捨て置け! ポッターと予言を確保しろ!」
何人かの死喰い人が動きを変えた。クラッブたちを追いかけようとしていた一人が足を止め、向き直ってハリーたちの集団へ杖を向けた。
ハリーの左後ろで、誰かが息を呑む音がする。そこにいたのはパンジーだった。
次の瞬間、パンジーはハリーのほうへ駆け出していた。
「ちょっと、どいて!」
言うが早いか、ハリーのローブのポケットへ手を突っ込んでくる。ハリーは撃ち返しの途中で体勢を崩した。
「何を──」
次の瞬間、パンジーはもう離れていた。
高く掲げたその手の中で、青白いガラス球が光っている。
「予言はここよ!」
叫ぶなり、身を翻して通路の奥へと走り出した。
ハリーは自分のポケットへ手をやった。ずっしりとした重みが伝わってくる。ガラス球はまだそこにあった。
三人の死喰い人が、一斉にパンジーのほうへ向き直った。
「あのポッターだ! 小さいほうだ!」
「捕まえろ!」
ハリーは呆気にとられた。この混乱の中で、顔も違えば背丈もハリーより頭ひとつ低いのに、それでも死喰い人はパンジーを追った。額の稲妻形の傷と、赤と金のネクタイと、掲げられたガラス球しか見ていないのだろうか?
その光景を、今度はザビニが見ていた。
ザビニはパンジーを追う死喰い人の前へ回り込み、パンジーに追いついた瞬間に、ローブの裾へ手を伸ばした。引き抜いたその手の中に、またもや青白い球が握られている。
「予言を持っているのは僕だ!」
そう叫ぶと、ザビニは棚の角を曲がり反対方向へ走り出した。
「色黒のポッターが取っていったぞ!」
「違う! 小さい方がまだ持っている!」
子供達の頭の上を、死喰い人の声が飛び交った。
わずかに迷った後、死喰い人の隊列が二つに割れた。二人を追って左右へ分かれた者と、その場に留まった者とで、包囲の形が崩れる。ハリーの正面にいたルシウスも、一瞬だけ視線を横に逸らした。
その隙を、フレッドとジョージが見逃さなかった。
「さあ、こっちへ来い! 本物を壊さないように気をつけろ!」
ジョージが一人の死喰い人を弾き飛ばしながら包囲を駆け抜けた。左手の中に、いつの間にかスパンガラスが光っている。
「三つ目だ!」
「四つ目もあるぞ!」
フレッドのほうは、走りながら空中へ球を放り上げていた。一つが宙で弾け、青白い煙になって散る。誰かが悲鳴に近い声を上げた。
ハリーには、もう何が何だか分からなかった。死喰い人たちは互いに怒鳴り合っている。四人の不恰好なハリー・ポッターと、どれが本物とも知れない予言が、暗がりの中を走り回っていた。
混乱に乗じ、ハリーとセドリックもじりじりと後退を始めた。
しかし、出口へ向かう通路の先で光が二つ弾けた。ハリーは反射的にそちらを見た。 扉から十メートルほどのところでゴイルとクラッブが足を止めている。その正面、棚と棚の切れ目に、黒い影が二つ立っていた。その片方は、ベラトリックスだった。いつの間にネビルを振り切ったのか? もう一人は肩幅の広い男で、こちらも去年「記憶」の中で見た顔だった。
二人は並んで通路を塞いでいる。抜けられる幅はどこにもなかった。
クラッブが杖を構えて前へ出た。
ゴイルの背から、ドラコの腕がだらりと下がっているのが見える。ゴイルは背中にドラコを背負い、杖を構える余裕がないようだった。
ハリーは三人のところへ走り出そうとしたが、その足元へ呪文が飛んできた。跳び退いた先で顔を呪文のもとに向けると、ルシウスの杖がまだこちらを向いている。ハリーは猛烈な憤怒が胃を上るのを感じた。
「──セドリック!」
セドリックは振り向かず、ルシウスに向き合ったまま応戦した。
「ハリー! 周囲を見てくれ!」
棚の向こうで、続けざまに炸裂音が響いた。
ハリーがもう一度出口側を見たときには、通路に三つの背中が並んでいた。クラッブの左にネビル、右にジニーがいる。三人の杖が、間断なく光を放っていた。ベラトリックスの甲高い笑い声が部屋に反響する。
そこでルシウスの呪文が横から飛んできて、ハリーは棚の陰へ転がり込んだ。三人の姿は棚の向こうに消えた。
ハリーが棚の陰から顔を出したときには、ルシウスの横にもう一人が並んでいた。そこにいたのはクラウチだった。
二人の杖が同時に動く。セドリックの盾の呪文がハリーの前で広がり、二つの呪文を受け止める。衝撃で足が半歩後ろへ滑った。
「下がりながら行くぞ!」
セドリックが叫んだ。ハリーは頷き、撃ち返しながら後ろへ足を送った。
ルシウスの攻撃は、ドラコがそばにいたときとは質が違っていた。狙いが正確で息をつく暇がない。横へ逃げようとするたびに、そちらの棚を狙って進路を潰してきた。
その横で、クラウチの呪文が一つ、ハリーたちの横を大きく逸れた。
「クラウチ! こちらの戦いに集中しろ!」
ルシウスの叱責が飛んだ。クラウチは答えずに撃ち直したが、相変わらず視線はハリーとセドリックを超え、その先を見ている。
二対二のはずが、実際には一人半を相手にしている形だった。ハリーとセドリックは反撃しつつ、少しずつ通路を出口のほうへ下がっていった。
「ハリー──」
火花が散る中、セドリックが低く囁いた。
「君の前の棚を倒して射線を切る。すぐに後ろへ跳べ」
次の瞬間、セドリックは敵二人の前に立つ棚の根元を撃った。軋む音を立てて巨大な棚が傾く。ハリーは巻き込まれないよう、大きく後ろへ跳んだ。
棚は青白い球を降らせながら通路を塞ぐように倒れ、床でガラスが砕けた。白い煙が一斉に噴き上がり、通路を満たしていく。
棚の残骸の向こうで、ルシウスの怒鳴り声がしたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「走れ!」
セドリックの言葉と同時に、ハリーはくるりと向きを変えて走った。 立ちこめる煙を抜け、棚を二つ回り込んだところで、セドリックが足を止めた。ハリーもぶつかりそうになって止まる。
通路の先には、二人の死喰い人が立っていた。
セドリックの杖が先に動き、ハリーも続けて呪文を放った。二人は左右へ散り、それぞれ棚の陰へ滑り込む。狭い通路の中で、青白い光が立て続けに弾けた。
少しずつ出口のほうへ足を送りながら、ハリーは呪文を撃ち続けた。ずれた棚の角を一つ、また一つと回り込んでいく。次の角を曲がったところで、崩れた棚の合間から別の通路が見通せた。
そこにはハーマイオニーがいた。ザビニと背中合わせになるようにして、二人の死喰い人と向き合っている。片方は痩せて背が高く、もう一方は肉のついた肩をした大柄な男だった。
ハーマイオニーの盾の呪文の表面で、向かってきた呪文が二つ続けて弾けた。しかし、死喰い人は間髪いれずに呪いを放つ。作られた盾が徐々に薄くなっていくのが、離れていても分かった。
大柄な男の杖が振り下ろされ、ついに盾が砕けた。呪文がハーマイオニーの肩口に当たり、身体が横へ跳ねて棚にぶつかる。ハーマイオニーはそのまま床へ叩きつけられた。
「ハーマイオニー!」
考えるより先にハリーは叫び、そちらへ駆け出していた。しかし三歩も進まないうちに、視界の端で杖が動いた。こちらと向かい合っていた二人のうち、背の低いほうが呪文を放つ。杖先が向けられたのは、ハリーではなく、二つの通路を隔てている棚の根元だった。
軋む音がして、巨大な棚が傾いていく。ハリーは後ろへ跳んだ。棚は斜めに倒れ込み、向かい側の棚へ叩きつけられて折れ曲がり、床にぶつかった。向こうへ通じる通路は塞がってしまった。
ハリーは倒れた棚に手をかけた。棚板と棚板の間に隙間が残っているが、人が通れる幅ではない。即座に膝をついて下を覗いても同じだった。煙の向こうにはザビニの背中が見えるが、ハーマイオニーは影になってしまっている。
ハリーは立ち上がり、来た方向へ走り出した。別の列へ回り込めば、向こうへ出られるかもしれない。
その足元へ再び呪文が飛んできた。石床が弾け、破片が脛に当たる。ハリーは杖を構えたまま後ろへ跳び退いた。背の高いほうの男が、通路の入口に立っている。
反対側へ向きを変える。今度は背の低いほうの呪文が、真横から棚を削った。
「ハリー、今は駄目だ!」
セドリックの声が飛んだ。振り返る余裕はなかった。
「でも、ハーマイオニーが──」
「わかっている! でも無理だ!」
ハリーは奥歯を噛んだ。
次の瞬間、ハリーは背の低い男へ向き直った。杖を振り、続けざまに呪文を撃ち込む。猛攻に相手は盾の呪文を張ったが、退がる気配はない。着実にこちらへ杖を向け返してきていた。
ハリーが攻めるほどもう一人が横から回り込み、二人がかりで押し返してくる。セドリックの盾の呪文が何度もハリーの前で火花を散らした。気づけば、出口とは反対の方向へ後退させられている。
棚の向こうからは、まだ音が続いていた。呪文の詠唱や、何かが砕ける音。ザビニが何か叫んでいるが、何を言っているかまでは聞き取れない。
少なくとも、ザビニとハーマイオニーはまだ戦ってくれている。ハリーはそう願うしかなかった。
向かい合っていた背の低い男の呪文が、ハリーの右にあった棚を削った。
破片が飛んでくるのを避けながら、ハリーは大きく一歩踏み込む。杖を振り、続けざまに呪文を撃ち込むと、相手は半歩だけ退がった。ハリーもそれに合わせて前へ出た。
その拍子に、通路の先がひらけて見えた。倒れた棚と棚の隙間の向こうに、出口までの通路が一直線に見通せる。
通路の先では、ネビルが床に倒れてもがいていた。その前にジニーが立ち、杖を構えたまま正面から呪文を受け続けている。相手は二人で、片方はベラトリックス、もう一方は肩幅の広い男だった。ネビルは片肘をついて起き上がろうとしていたが、復帰までジニーが耐え切れるとは到底思えなかった。
そこにいるはずのクラッブとゴイルの姿は見当たらなかった。探してみると、クラッブは少し離れた通路で別の死喰い人と撃ち合っている。背の高い、太った醜いトロールのような男だった。クラッブは相手から一歩も退かず、続けざまに呪文を放っており、二人の間では激しく火花が散っていた。
誰か救援に行けないかと、ハリーは通路を見回した。
少し離れた棚の列にロンがいたが、死喰い人の一人と撃ち合っている。しかし、次の瞬間、ロンは相手に背を向けて走り出した。
「ロン!」
叫んでみたが、この距離では届くはずもなかった。棚に阻まれて、ハリーは動くこともできない。
死喰い人の杖が、ロンの背中へ向けられた。
そこへ、後方から赤い光が飛んだ。光は男の肩口に当たったが、倒れるほどではなかったらしい。それでも男は振り返り、ロンを追うのをやめた。光の来た方向には、ジョージが杖を構えていた。
ロンは一度も振り返らなかった。走りながら杖を振り、出口側へ滑り込む。横合いから放たれた呪文が、ベラトリックスの足元で弾けた。
ベラトリックスの注意が一瞬逸れた隙に、ジニーが体勢を立て直し、ネビルも床から起き上がった。三人が並んで杖を構える。
だが、それで形勢が大きく変わったわけではなかった。ベラトリックスはすぐに向き直り、三人の杖が同時に光を放っても、一歩も退かない。ぎりぎり膠着状態には持ち込めたようだったが、それもいつまで続くかはわからなかった。
不意に足元で石が弾けた。ハリーは咄嗟に身を伏せ、頭上を通り過ぎた呪文が背後の棚で砕けるのを聞いてから、振り向いて再び死喰い人と向かいあった。
背の低い男は相変わらず正面から向き合っており、もう一人は棚の陰を回り込んでくる。ハリーはセドリックと背中を合わせるようにして、どうにか二人の射線から外れ続けていた。前へ進むどころか、じりじりと後退させられているのは分かっていたが、どうすることもできない。
少し遠く、数列先の棚を挟んだところで、フレッドの怒鳴り声が聞こえた。何を言ったのかまでは聞き取れない。続いて、短い呻き声がした。
「──ああ、フレッド!」
パンジーの叫び声だった。
ハリーは撃ち返す手を止めかけ、すぐに戻した。頭上を呪文が通り過ぎていく。応援に行けるはずもなかったし、行こうとすれば今度はセドリックが二人を相手にすることになる。
その後も、呪文の音は続いていた。誰かが応戦している音だ。しばらく聞いているうちに、その音は少しずつ遠ざかっていった。出口のほうへ向かっているのだろう。フレッドが自分の足で歩いているのかどうかまでは、ハリーには分からなかった。
棚の向こうでは、まだハーマイオニーたちが戦っている音が聞こえる。しかしいくつもの音が響き渡り、向こう側で何が起きているのかは全く掴めない。どこか別の方向からも、撃ち合う音が聞こえてきた。ジョージがまだあの死喰い人を相手にしているのだろう。出口側からも、まだ呪文の音が続いていた。少なくともロンたちが皆殺しにされていないことだけは、その音で分かった。
そのとき、遠くから誰かの叫びが聞こえた。
「ドラコ!? どこだ!?」
それは先ほど姿が見えなかったゴイルの声だった。出口の横側から、呪文の音に混じって、二度、三度と聞こえてきた。
ハリーは胃がひっくり返るような思いがしたが、考えている余裕はなかった。正面から呪文が飛んでくる。ハリーは再び棚の陰へ身を寄せ、無我夢中で撃ち返した。棚の列がいくつも視界を遮り、煙が通路を埋め、声は反響して方向すら曖昧になっていた。
そのとき、何かがハリーの足元を駆け抜けた。
反射的に杖を向けてから、それが膝下の大きさの茶色い犬だと分かった。その小柄な犬は、通路を横切って背の低い男のほうへ走っていくと、そのまま男のローブの裾に食らいつく。
男は一瞥もしなかった。杖をハリーへ向けたまま、足だけを振って蹴り飛ばす。犬は床を転がり棚にぶつかった。
犬はキャンと高い鳴き声を上げると同時に、木製の棚板になってその場に落ちた。それが何を意味するのか考える余裕はない。ハリーは呪文を撃ち、棚の陰へ身を寄せた。
次に何かが横を走り抜けたとき、ハリーは目の端でそれを捉えただけだった。白くて大きな何かは、倒れた棚を猛然と飛び越えていった。
目で追った先、棚の向こうで男の悲鳴が上がった。
ハリーが棚の隙間へ顔を寄せると、煙の向こうで大柄な男が腕を振り回していた。その杖腕に、白い犬が食らいついている。
ハリーは息を呑んだ。少し離れたところで、ハーマイオニーも白い犬を見て身体をこわばらせていた。しかし、どうにか何も言わずに杖を構え直すと、そのまま呪文を放つ。
その閃光を避けてよろめきながらも、噛みつかれた男が腕を激しく振り上げた。犬の身体が宙で振り回されたが、それでも顎は離れなかった。
もう一人の、痩せて背の高い男が、白い犬へ杖を向けた。
ハリーは叫びそうになって、なんとか寸前で堪えた。
男の杖先が動いた瞬間、白い犬の前脚がかくりと折れた。支えを失った身体が横へ傾き、そのまま床へ滑るように落ちる。呪文は犬のいたはずの空間を通り抜け、背後の棚で弾けた。
床に倒れたまま、それでも犬は腕を離さなかった。犬の重みに引かれて、男の身体が大きく前へ傾く。
その一瞬をザビニが逃さず、痩せた男へ呪文を放った。頭に閃光が命中し、男は仰向けに倒れた。続けてハーマイオニーの杖が光り、大柄な男が膝から床へと崩れ落ちた。噛みついていた犬も、男の身体に引っ張られて一緒に倒れた。
床に伏せたまま、しばらく犬は動かなかった。やがて前脚を床に突っ張って身体を起こそうとしたが、一度滑って、また突っ張り直す。よろめきながら、どうにか四本の脚で立った。しかし頭は下がったままで、脚が小刻みに震えている。
一歩踏み出したところで、その脚がまた折れた。犬は前のめりに崩れ、床に顎を打ちつけた。
背後で呪文の音が続いているのにも構わず、ハリーは棚へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
セドリックに敵二人を引き受けさせたのは分かったが、振り返る余裕はなかった。
倒れた棚が軋み、棚板の上で割れ残ったガラス球がかたかたと震え始める。ハリーは杖を握る手に力を込めた。
棚の端が床から離れ、三十センチほど持ち上がったところで、そこから先が上がらなくなった。
隙間の向こうで、影が動く。ザビニが身をかがめ、棚の下を滑るようにしてくぐり抜けてきた。立ち上がりざま、すぐにハリーの横へ並んで杖を構える。
「レヴィオーサ!」
重みが半分になり、棚がさらに持ち上がっていった。ザビニは低い声で何か毒づいたが、杖は下ろさなかった。
「ハーマイオニー!」
ザビニが叫んだ。
煙の向こうで、ハーマイオニーが膝をついた。肩を押さえたまま、白い犬のところへ這うようにして近づいていく。犬は数歩離れた床に倒れたままだった。
ハーマイオニーは犬の首の後ろの毛を掴むと、そのまま身体を引き、棚の下へ引きずり込んでいった。犬の身体が床を滑り、四本の脚が力なく引きずられていく。
犬を通しきったところで、ハーマイオニーが自分も身をかがめて棚の下をくぐり抜けてきた。ハリーとザビニはほとんど同時に杖を下ろし、棚が落ちて床が大きく鳴る。
ザビニが肩で息をしながら白い犬を見下ろし、それからハーマイオニーを見た。
「おい、その犬は──」
言い終わらないうちに、呪文が飛んできた。
呪文はハリーの頭上を越え、背後の棚で砕けた。
ザビニが身を伏せながら撃ち返すのに合わせて、ハリーも振り返って杖を構えた。通路の奥には、背の低いほうと背の高いほうが並んで立っている。セドリックはその手前で盾を張ったまま、じりじりとこちらへ退がってきていた。
「セドリック!」
ハリーが呼ぶと、セドリックは肩越しに一度だけこちらを見て、それから通路の脇に立つ棚を見上げた。
「そっちの棚だ! 四人でやる!」
ハリーはすぐに杖を向けた。ザビニも、床に膝をついたままのハーマイオニーも、同じ棚の根元へ杖先を合わせる。セドリックは最後に盾を張り直してから、自分も杖を向けた。
四本の杖から、呪文が同時に放たれた。
棚の根元が砕ける音とともに、天井近くまで積み上がった棚板がゆっくりと傾いていく。上の段から先にガラス球が滑り出し、通路へ降り注ぎ始めた。
背の低い男が上を見たときには、もう棚は倒れかかっていた。
二人が左右へ跳んだところまでは見えたが、そこから先は煙に呑まれて分からなくなった。無数のガラス球が床で砕け、白い煙が壁のように立ち上る。棚が床へ叩きつけられる鈍い音があたりに響き渡った。
煙の向こうでくぐもった呻き声がしたきり、呪文はもう飛んでこなくなった。
「行こう」
セドリックが短く言う。四人は煙を抜けて走り出した。
少し行ったところでハリーが振り返ると、白い犬が後ろで足をもつれさせていた。歩いてはいるものの、数歩進むごとに前脚が折れ、そのたびに床へ顎を打ちつけている。
ハリーは引き返し、犬の胴の下へ腕を差し入れようとした。犬は身をよじってその腕から逃れる。名前を呼べればよかったが、ここで口にすることは決してできない。
横からハーマイオニーが屈み込み、肩を押さえたまま、もう一方の手で再び犬の首の後ろの毛を掴んだ。そのまま引きずるようにして歩き出す。犬は諦めたのか、もう抵抗しなかった。
ザビニがハーマイオニーを正気を疑うような目で見たが、ハリーは何も言わずに立ち上がり、二人に並んで歩いた。
通路をいくつか回り込んだところで、出口までの道が開けた。
その手前で、ロンとネビルとジニーが三人並んで杖を構えている。正面には変わらずベラトリックスと肩幅の広い男がいて、通路を塞いだまま少しずつ前へ出てきていた。三人の背中は、扉のほうへ確実に押し込まれている。よく見れば、そのドアノブは溶けて扉に張り付いていた。 ネビルの膝が一度折れかけ、ジニーが腕を掴んで引き戻すのが見えた。
あの戦いの場まで、まだ二十メートル以上ある。ハリーの心臓が縮み上がった。
ハリーが杖を構えて走り出そうとしたその瞬間、三人の背後の扉の外から爆音が響いた。溶けて張り付いていた扉が、火花を散らしながら内側へ開く。
「──逃げるんだ!」
それは、紛れもなくハリーの名付け親の声だった。
開いた扉から、黒い影が次々と飛び込んできた。先頭のシリウスに続いて、ルーピンの姿が見える。その後ろから数人の騎士団員が予言の間へと足を踏み入れた。
ハリーは一瞬呆然と立ち止まったまま、その光景を見ていた。
出口付近は一気に混乱した。下がろうとする生徒と、前へ出ようとする騎士団員が狭い通路で入り乱れる。花火の煙と、割れた予言から噴き出した白い煙が低く漂い、その中で呪文が飛び交った。誰がどこにいるのか、一目では分からなかった。
シリウスはまっすぐにベラトリックスへ向かっていった。ルーピンがロドルファスの前へ回り込み、その正面に立つ。
ロンとネビルとジニーはようやく後退を始めた。三人はすぐには出口を抜けず、互いの無事を確かめ合いながら、じりじりと下がっていく。
少し離れたところでは、ムーディがクラッブと太った男の間へ割り込んでいた。強烈な光が通路を走り、太った男が後ろへ吹き飛ばされる。
「子供は引っ込んどれ!」
クラッブは一瞬だけその場に立ち尽くしていたが、やがて杖を構えたまま、何かを探すように必死で周囲を見回し始めた。
トンクスとキングズリーが、ハリーたちの横を走り抜けていった。二人とも出口には向かわず、そのまま予言の間の奥へ入っていく。ジョージの撃ち合う音がしていた方向と、フレッドたちの声が遠ざかっていった方向だった。
我に返り、ハリーは白い犬を探した。
犬は数メートル後ろで立ち上がろうとしていた。前脚が滑り、顎が床につく。それでもまた突っ張って、どうにか四本の脚で立つ。そして、出口とは反対のほうへ歩き出した。
ハリーは自分の目を疑った。犬はよろめきながら、トンクスとキングズリーが向かったほうへ、さらにその奥へと行こうとしている。
ハリーの中で、何かが切れた。
説得する気も起きなかった。ハリーは杖をローブへ突っ込むと、犬のところまで一息に駆け寄り、胴の下へ両腕を差し入れて、そのまま持ち上げた。
白い犬は身をよじろうとしたが、それだけだった。力が入っていないのが、腕を通して伝わってくる。前半身はどうにか腕に乗ったものの、後脚は宙にぶら下がったままで、とても持ちやすい格好ではなかった。
しかし、もう構うものか。ハリーはそのまま扉へと向かって走り出した。
出口へ向かう通路は、まだ混戦のただ中だった。
ハリーは犬をしっかりと抱え直し、煙の中を走った。呪文が頭上を飛び交っているが、誰もハリーに構ってはいられなかった。生徒と騎士団員と死喰い人が入り乱れ、誰がどこへ向かっているのかも定かでない。
ロンたちを追い抜いたのは、扉まで残り五メートルほどのところだった。三人はまだ杖を構えたまま、後ろを警戒しながら下がっている。ジニーが何か叫んだようだったが、聞き取れない。ハリーは足を止めなかった。
扉の手前で、ハリーは一度だけ振り返った。
すぐ横の通路で、シリウスとベラトリックスが撃ち合っている。ベラトリックスは甲高い笑い声を上げながら、続けざまに杖を振っていた。
次の瞬間、ベラトリックスの背後、靄の中から赤い閃光が飛び、その背中に直撃した。ベラトリックスの身体は前へ傾ぎ、そのまま床へ倒れ込んだ。部屋に響き渡っていた笑い声が途切れる。シリウスが動きを止め、あたりを見回すのが見えた。
呪文がどこから放たれたかは分からなかった。棚と煙に遮られて、通路の奥は全く見通せない。 一瞬だけシリウスと目が合った。ハリーと、ハリーが抱えているものを見て、シリウスの目は大きく見開かれた。
ハリーは向きを変え、今度こそ扉を抜けた。
廊下に出ると、戦闘の音が急に遠くなった。背後から誰かの足音が聞こえた気がしたが、振り返るつもりはない。抱えた犬の重みで腕が痺れ始めている。ハリーは歯を食いしばって一目散に走った。
時計の並んだ部屋を抜け、円形の部屋を抜け、黒い扉の向こうの廊下へ出る。エレベーターの前まで来ると、片腕で犬を支えたまま、もう一方の手で格子扉をこじ開けた。
中へ転がり込み、ボタンを押す。機械仕掛けの大きな音を立て、格子扉が閉まった。
エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。格子の向こうを暗い壁が流れていき、神秘部の物音はもう聞こえなくなっている。ハリーの荒い呼吸と、ガチャガチャという音だけが箱の中に残った。
腕の中で、白い犬が身じろぎした。
下ろそうとしたときには、それは奇妙に形を変えていた。腕に伝わる感触が変わり、手の下にあったはずの骨格が別の形へ組み変わっていく。次の瞬間、ハリーより少し背の高い少年が腕の中に現れた。
支えきれず、ハリーは膝から崩れ、ドラコの身体を抱えたまま床へ倒れ込んだ。肘を強く打ちつけたが、抱えた腕だけは離さなかった。
ドラコは動かなかった。ハリーは慌てて身体を起こし、後ろへ落ちかける首を片手で支えながら、もう一方の腕を背中に回して、どうにか壁へもたれさせた。
顔には血の気がなかった。ローブのあちこちが破れ、腕には犬だったときに受けたのだろう擦り傷が走っている。それでも、瞼はわずかに動いていた。
「君はバカか!」
自分の声が箱の中で反響して、ハリーは一瞬驚いた。ドラコは顔を上げようとしたが、わずかに首を傾げ、途中で諦めたようだった。
「──なんでゴイルのところから抜け出したりしたんだよ? 君を助けるために僕らは来たのに、わざわざ戻ってきて、あんな身体で危険なことをして──もし誰かに変身するところを見られてたら、どうするんだ!」
しばらく返事はなかった。ドラコはゆっくりと息を吸い、それから掠れた声で言った。
「……見られてないよ」
「は? 何?」
「探知の……呪文を、使ったんだ。自分に向けられてる視線が分かる。去年習ったから……」
ドラコの唇はほとんど動いておらず、ハリーは顔を近づけなければ聞き取れなかった。そこで言葉が切れ、何度か浅く息をしたきり、ドラコはそれ以上続けなかった。
ハリーはしばらくその顔を見つめていた。
「……そういうことを言ってるんじゃないよ」
しゃくりあげるように声が裏返った。ドラコがわずかに瞼を上げてハリーを見る。本当に意味が分からない、という顔だった。
「だって、誰も見てなかったし……」
「そんな話はしてない」
「でも、ハーマイオニーが……」
「だから、そういうことじゃないんだよ!」
ドラコは口を閉じたが、しばらくすると、また息を継いで言った。
「……戻らなければ」
反射的にハリーの手が出た。乾いた音がして、叩かれたドラコの顔が横を向く。
ドラコはゆっくりと顔を戻し、ハリーを見上げた。突然の暴力に驚いている様子ではなく、なぜそうされたのかが分からない、という目だった。
それを見た瞬間、ハリーの目から堪えきれずに涙が溢れた。
「なんでわかってくれないの?」
「……何を」
「みんな君を大事に思ってるのに、なんでわからないの?」
ドラコは答えなかった。しばらく黙ってハリーを見ていたが、やがて視線を落とした。
「……ごめん」
その謝罪を一番聞きたくなかったのだと、ハリーは耳にしてから気づいた。
「君は、わかってない。ぜんぜん、わかってないよ……」
ハリーは俯き、ドラコの肩を掴んだまま涙を落とした。ドラコは何も言わなかった。
やがてエレベーターの速度が落ち、機械音とともに格子扉が開いた。
実はこの小説を初めて投稿し始めた後に就職し、それから仕事に慣れる間はなかなか執筆ができていませんでした。
何が言いたいかというと、今は仕事も安定してるし、この数週間で仕事をしながら描くペースもある程度掴めてきたということです。エタる気はないよ!