音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
ユーハースト・バーンでの日々は、本当に穏やかに過ぎていった。
僕は相変わらず寝過ぎたり寝足りなかったりと不規則な生活をしていたが、起きているときはほとんどハリーと一緒にいた。単純に彼と過ごすのは楽しかったし、色々なことを知れる有意義な日々でもあった。けれどその分、自分の時間がなかなか取れないのは困りものだった。
『日刊予言者新聞』から情報を得られるようになったのはいいことだが、本格的に策を練るにはどうしても足りない。特に、今ヴォルデモート卿が何を目的としているのかについては、推測の域を出なかった。
大っぴらに動いていないということは、「予言」の件のように、あまり公にならないところで何かを狙っているのだろうか? 例えば、アズカバンに捕えられた死喰い人の解放を目論んでいるのなら、密かに事を進めるメリットは大きい……
それとも、拷問の際に進言した懐柔策にも一理あると考えて、手を止めてくれているのか? いや、これはどう考えても、楽観的すぎる考えだ。
どちらにせよ、判断の根拠が貧弱すぎる。なんとか本人とコンタクトを取るべく、スネイプ教授に手紙を書きたかった。けれども、いつ僕のもとにやってくるとも知れないハリーの存在は、じっくり便箋と向き合うことをほとんど不可能にしていた。というか、明らかにそれを狙っていそうなほどハリーは頻繁に僕の元へとやってくる。危なっかしい友達がまた何かしでかさないか、監視しているのだろう。
とはいえ、彼も本当に四六時中、絆創膏のように張り付いているわけではない。特にシリウスが屋敷にいるときは、二人で話をしていることも多かった。
自分のことで手一杯だったせいで、ハリーが屋敷に来てからの二人の様子をあまりちゃんと観察できていなかったのだが、彼らは初め、どこかギクシャクしているように見えた。あえて理由を尋ねようとは思わなかったが……そばで話を聞いていると、どうもハリーのお父上──ジェームズ・ポッターのことになると、二人は少し緊張した様子を見せていた。
もっとも、彼らの最大の共通点はそのお父上なので、かなり頻繁に話題に上ることにはなっていたのだが。シリウスはしきりに、ハリーとジェームズ・ポッターを同一視していないことを強調し、ハリーもそれを信じていると態度で示そうとしているようだった。
拗れそうだったら何かしらしたほうがいいのかとも思っていたけれど、その気まずさは、お互いが相手を傷つけてしまうのではないか、という心配からくるもののように見える。ならばまあ、そこまで悪いことにもなるまい。
実際、僕の予想どおり、ハリーとシリウスは日に日に仲を深めていった。親子というよりは兄弟みたいな感じだが……ダンブルドアがこの場所を用意した理由の一端が、少し分かったように思えた。今までの二人の苦しみに満ちた足跡を考えるならば、これがあるべき形なのだろう。……まあ、何か巨大な邪魔者がいる気がするが、不可抗力である。
何はともあれ、ひとまず僕は、スネイプ教授への手紙を書き上げることに成功した。
……しかし、今度はこれをどうやって届けるかが問題になる。というか、選択肢は一つだけだ。シリウスに渡すしかないのだ。
今、この屋敷を出入りしているのはシリウスだけで、郵便の類もすべてシリウスが間に入って届けてくれているのだから。
でも、さすがの僕でも、あれだけすったもんだのやり取りをした後で、シリウスに「ヴォルデモートとコンタクトを取りたいので、スネイプ教授に手紙を渡してください」なんて言えない。二重に駄目だろう。……いや、ここまでのシリウスの忍耐強さを考えれば、意外といけるのかもしれないが……それはそれで逆に申し訳ない。
シリウスが僕の働きの必要性を認めざるをえないような出来事が起きたなら……例えば、『日刊予言者新聞』に載るような大きな事件が起きたなら、そのときにこの手紙を渡そう。
そう思って引き出しにしまった手紙は、結局機会が訪れず、そのままになっていた。
七月三十一日の朝、僕は珍しく前もって起きる時間を決め、早めに目を覚ましていた。
──今日はハリーの誕生日だ。
前日から、シリウスに今日は盛大に祝うと聞いている。主賓よりも後に顔を出すのも何なので、先にハリーを待っていたかったのだ。
身支度を整えて階下に降り、食堂に顔を出すと、そこはすでに華やかに飾り付けられていた。壁は金色の箒のモチーフが連なったガーランドで覆われ、天井近くには白銀に光るスニッチの飾りがいくつも吊り下げられている。入り口近くの絨毯の上にはいくつものプレゼントが山を作っていた。
中にはすでにシリウスがいて、赤と金色の風船に杖を向けていた。
「おはようございます。──すごい飾り付けですね」
僕の言葉に、シリウスは少しはにかんだ。
「ああ。……やりすぎだと思うか? しかし、今までハリーには何もしてやれなかったから……」
僕は笑って首を振った。
「いいえ。これは本当に素晴らしいです。僕も、あなたがハリーにそうしてくれたらと、思っていましたから」
シリウスは少しほっとしたように微笑んだ。
「そうか? 少し子どもっぽすぎるやり方かもしれないと思っていたんだ」
しかし、彼の心配は全くの杞憂だった。
少しして起きてきたハリーは、食堂の中の様子を見て目を輝かせた。
「おはよう──すごい! これ、シリウスがやってくれたの?」
辺りを見回しながら、その顔にはみるみる笑顔が広がっていく。こんなに嬉しそうなハリーを見たのは初めて──いや、三年生の最後、ホグズミードの許可証をもらったとき以来かもしれない。その贈り主もまた、シリウスだった。
ハリーはひとしきり部屋の飾りを見たあと、プレゼントの山に目を向けた。
「今年はずいぶんと多い気がするよ。……誰からだろう?」
その様子を見て、シリウスは視線を逸らした。……まさか、そうなのか?
「……とりあえず全部贈り主を見てみたら?」
僕の言葉にハリーは頷き、宛名を確認しながらプレゼントを大きさごとにまとめていった。数個手に取ったあたりで表情に訝しげなものが混じる。最後の一個を山の上に置いたとき、ハリーはシリウスに向けて少し困ったように笑った。
「シリウス。嬉しいけど、こんなに沢山は……」
やっぱり。シリウスは向けられた視線に、少し慌てたように手を振った。
「いや、気にしないでくれ。これまで君に贈ってこなかった分だ」
「でも、ファイアボルトのときだって、十三回分の誕生日をまとめてのプレゼントだって手紙で言ってたじゃないか」
「あれは名付け親としての私の分で、今回は……本来なら君が他からも貰えていたはずの分だ」
他からも。……つまり、ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターからも、ということだ。ハリーも正確にその意図を汲んだのだろう。彼は少しだけ目を伏せた。
シリウスの顔にわずかに後悔の色が走った。
「すまない。私の気持ちを押し付けてしまったな」
シリウスの少し落ち込んだ口調に、ハリーは慌てたように顔を上げた。
「いや、嬉しいよ! 本当だ。小さいとき、従兄弟のダドリーは毎年何十個もプレゼントを貰っていて……僕はずっと羨ましかったから」
最後の言葉は、恥ずかしさゆえか、少し小さな声だった。それを振り払うように、ハリーは声を大きくした。
「でも、別に大丈夫だよ。あんなふうに甘やかされなくてよかった。ダンブルドアも、ダドリーへの扱いは『言語道断の被害』だって言っていたし」
なかなかの言い回しに、思わず僕は顔を顰めた。
「ダンブルドアはそれを、君の伯父夫妻に直接言ったの?」
そうであってくれるなという願いを込めた言葉だったが、ハリーはあっさりと頷いた。
「うん? そうだよ」
おお、ダンブルドア、また要らぬ対立の種を……しかし、気持ちはわからないでもない。ハリーが今までダーズリー一家に受けていた仕打ちを考えるならば……あと、その従兄弟殿のことを考えるなら、諌言は必要なのかもしれない。
……いや、でもあの人は言いたかっただけだろう。ハリーはまたあの家に帰らなきゃならないんだから、もう一年くらいは我慢してもよかっただろうに。
それでも、微かに感じる頭痛を追いやり、僕はハリーに向けて笑った。
「……何はともあれ、少なくとも今、君は甘やかされるべきだね」
シリウスも頷くと、ハリーに文庫本ほどの大きさの、古びた紙に包まれた何かを差し出した。
「もう一つだけ──これは、直接君に渡したかったんだ」
ハリーが受け取り、包みを開く。中から出てきたのは、年季の入った小さな四角の鏡だった。アンティーク的な価値はありそうだが、十六歳の少年が喜びそうな外見はしていない。
訝しげな顔をするハリーに対し、シリウスは自分の懐から全く同じ鏡をもう一つ取り出し、それに向けてハリーの名前を呼んだ。
「これは両面鏡といって、対になっている鏡とやりとりできるものなんだ。声をかければ、相手に話しかけることができる」
へえ、すごい。なんと便利な魔法なのだろうか。素直に感嘆しつつ、ハリーの手元を覗き込む。そこに映っているのは僕らではなく、もう一方の鏡に映るであろうシリウスの横顔だった。
シリウスは鏡を覗き込んでいる僕らに対し、静かに言った。
「……ジェームズと私が別々に罰則を受けたとき、これを通してよく話をしたものだ。つまらない罰が一瞬に感じられるほどに……」
ハリーは鏡をじっと見つめた。その表情を窺いつつ、シリウスはどこか慎重さを帯びた様子で口を開いた。
「君にジェームズの代わりをしろと言いたいわけでは、決してない。ただ……私に君を見守らせて欲しいんだ。どんなときでも、私は君を大切に思っている」
ハリーはしばらく手元の鏡を覗き込んだあと、絨毯から立ち上がりシリウスに向き合った。
「あの……ありがとう。本当に、本当に嬉しいよ」
それだけ言うと、ハリーはシリウスをぎゅっと抱きしめた。シリウスは一瞬固まっていたが、すぐにしっかりと抱きしめ返す。ハリーは顔をシリウスの肩に埋めたまま、しばらく動かなかった。
なんと感動的なシーンなのだろうか。原作でもあったのかもしれないこの場面、もし僕が読んでいたなら、泣いてしまっていたかもしれない。
しかし、残念なことに僕は実体を持ち、同じ部屋にいるのであった。
……気まずい! この場において、僕は完全なる異物だ。やっぱり二人きりで過ごさせてやった方がよかっただろうに。仕方がないとはいえ、僕は再びダンブルドアを八つ当たり的に恨めしく思った。
結局、その後クリーチャーがキッチンから盆を持って出てきてくれたことで、二人は抱擁を解いた。僕はなるべく気配を消し、クリーチャーから紅茶のカップを受け取った。
朝食は軽く済ませ、午前中いっぱいはハリーがプレゼントを開けていくのを隣で見ていた。みんな様々に考えられたものを贈っている。その中にクラッブとゴイル、ザビニにパンジーのプレゼントまで見つけ、僕は勝手に感動していた。去年僕は本当に何もしていないのにもかかわらず、彼らは信じられないほど仲良くなってくれたようだ。
僕も手伝ってプレゼントをハリーの部屋に運んだ後、彼はその一つ一つを大事そうに眺めていた。
昼食には、クリーチャーが大いに腕を振るってくれた。絶対に嫌だっただろうが、もう彼は、僕がこの屋敷にいる限りは良い屋敷しもべ妖精でいると心に決めているらしい。テーブルにはローストビーフやポテト、オニオンスープ、糖蜜パイなど、美味しそうな料理が沢山並べられていた。
クリーチャーはこの場に留まりたくはなかったのか、それともシリウスが下がらせたのか、その姿は食堂になかった。
ハリーは朝と同様、テーブルを見て目を輝かせた。
「すごいや! 僕、自分の誕生日パーティって初めてだ。まあ、ダーズリーのところでは生き残ることで精一杯で、あんまり考える余裕もなかったけど──」
そこまで言って、ハリーの言葉が途切れた。その表情には、先ほどダドリーとやらのことを口にしたときと似た、羞恥のような感情があった。
……そういえば、一、二年生ごろまでのハリーはすごく痩せっぽっちだった。今でも身長の伸びに横幅が追いついていないところがあるが……
「連中は、君をまともに食べさせなかったのか?」
僕と同じことに思い当たったのだろう。シリウスは稀に見る険しい表情で尋ねた。
「いや、夏休みにはロンとかが食べ物を送ってくれることもあったし……ホグワーツに入る前も、いつでもってわけじゃない。魔法をうっかり使って変なことをすると食事抜きになっていただけだよ」
「それは『だけ』ではないな。立派な虐待だし、マグルの世界でも咎められるべきものであったはずだ」
声色が冷ややかになるのを、僕はまったく抑えられなかった。
つくづく、ダーズリー一家という存在は、いかにハリーが先天的に素晴らしい人格を備えた人間なのか分からせてくれる。この環境で育てられた子どもが、ここまで翳りのない性格に育ったのは、やはり奇跡としか言いようがないだろう。
もっとも、こちら以上にキレている人間が同じ食卓にいたために、僕は少し冷静になれた。シリウスの顔には三年生のときに新聞で見た脱獄囚としての写真のような凄まじさが浮かんでいた。
僕らの間に流れた不穏な空気を感じ取ったのだろう。ハリーはさらに明るいトーンで言葉を続けた。
「でも、僕ももう十六歳になったし、来年は成人する。そうしたらダーズリーのところには守りがなくなるから、離れていいってダンブルドアも言っていたよ。それに、いつまでも小さい時のことでくよくよするなんて……ずっと成長できてないみたいで嫌なんだ」
取り繕われたその言葉には、しかしどこか切実さが滲んでいた。
その気持ちは痛いほどわかる。過去のことを思い出すと、そのときの無力感まで蘇ってきて、そんな傷を持たない他人とは違い、自分はどれだけ歳を重ねても成長できていないように感じられること……
そして、その感情への対処法は、僕にもまだよくわかっていなかった。
しばらく食堂に落ちた沈黙を裂いたのは、シリウスの言葉だった。
「……そうだな。私もアズカバンで吸魂鬼に近づかれたときに、よく思ったことだ。
……人は深く傷ついたとき、その時間に心が縛られ、その傷に触れるたび、何度もその時間に戻ってしまう。
……そしてそれは、傷が癒えようとしているときであっても同じなのだろう」
シリウスは真剣な瞳でハリーをじっと見つめたあと、ふっと微笑んだ。
「だから、癒えるまで何度戻ったっていいんだ、ハリー」
ハリーは少しだけ目を伏せて何か考え込んだあと、再び顔を上げた。
「シリウスも……傷ついたことがあるの? 子供の頃、家で……」
そ、それを聞くのか? 今ここで? なんだか被虐待児のグループセラピーに紛れ込んでしまった気分になってきたし、どう考えても僕が聞いていい話ではない。
再び強烈な異物感が襲ってきて、今度こそ耐えられなくなった僕は、思わず椅子から少し腰を浮かせた。
しかし、シリウスはハリーの言葉を受けて、僕の方をはっきりと見た。片手がわずかに上がり、座っていろ、と言うように軽く制される。その目には、僕にも何か語りかけようという思いが表れていた。
僕は浮かせた腰を、おとなしく椅子に戻した。
「……そうだな。物質的に困ることは、まったくなかったと言えるだろう。しかし、私の家族の信条というのは……」
シリウスはそこで一度言葉を切り、手元のグラスに視線を落とした。
「当時は、ヴォルデモートによる争いが始まり、日に日に激しくなっていく時代だった。新聞には毎日のように殺害事件が載り、のちには死喰い人を狩るために『許されざる呪文』の使用が看過されるほど、人々の犠牲はありふれたものになっていった。そんな中で、純血主義を……マグルやマグル生まれの人々を人間だと見做さない考え方を肯定できるほど、私は愚かではなかった」
淡々とした口調だったが、その静けさには擦り切れきった苦しみが滲んでいた。
「初めてそれを母に告げた日のことは……ああ、よく覚えている。それまで、私はかなりいい息子だっただろう。ホグワーツの入学前だが、すでに多くの魔法が使えていた」
シリウスは皮肉っぽく唇の片端を上げ、小さく息を吐いた。
「純血主義がいかに間違って見えるかを口にした私に、母は……いや、細かくはいいだろう。しかし、あれはまさに豹変という感じだった。私には……母が知らない怪物になってしまったように感じた」
……まあ、そうなるだろうな。純血であることが自身の価値と分かちがたく結びついている人間にとって、その考えに異を唱えられることは、自分という存在そのものを否定されることに等しいのだ。ましてや、それを口にしたのが、自分の価値を受け継ぐはずの息子なら。
純血主義の醜さなら、今さら確かめるまでもなく知っている。けれど、僕の胸の奥に沈んでいくのは、それとは別のものだった。
「けれど、それで不正義を見過ごす気にもならなかった。母との対立は終わらず、その度に私は全てを否定され……そのうち、思うようになった。あれが母の本性で、母の全てなのだと」
昨日まで自分に向けられていた顔が、ある日を境に見知らぬものへと変わる。その変化を、自分の言葉が引き起こしたのだと理解するしかない子ども。そうして最後には、変わってしまったのではなく、初めからそうだったのだと、自分に言い聞かせるしかなくなる。
その構図を、この世界に生まれる前の、遠い記憶の底で僕は知っていた。
だから、湧いてきたのは純血主義への嫌悪ではなく、かつてのシリウスへの、ただ静かな悲しみだった。
ハリーはじっとシリウスの顔を見つめていた。やがて、ためらうように口を開く。
「……今でも思い出すと苦しい?」
シリウスはすぐには答えなかった。グラスの縁を指でなぞり、それから、ようやく顔を上げる。
「ずっと、あの女に嫌われようが、心は傷つかないと思っていた。そう信じ続けていた……でも、そうではなかったのかもしれない」
そこで一度言葉を切り、シリウスはハリーと、それから僕を順に見た。
「傷ついていたと認めることも必要だったと、今となっては思う」
シリウスの言葉のあと、食堂にはしばらく沈黙が落ちた。
ハリーは何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わず、手元の皿に視線を落とした。シリウスもまた、それ以上は語らなかった。ナイフとフォークが皿に触れる小さな音だけが、やけに大きく響く。……誕生日の昼食としては、少しばかり重すぎる空気だ。
どうしたものかと考えあぐねていると、不意にハリーが顔を上げた。そのままくるりとこちらに向き直り、なぜかやや据わった目で僕を見る。
「そういえば、ドラコ」
「うん?」
「君からはまだもらっていないんだけど!」
一瞬、何を言われたのか分からなかったが、数秒遅れてプレゼントのことだと理解した。午前中、山のような包みを一つずつ開けていく間、ハリーはどうやらちゃんと確認していたらしい。
随分と子供っぽい言い回しに、思わず苦笑が漏れる。けれど、つい先ほどまでの話を思えば、それでいいのだろう。そう振る舞う権利は、間違いなくこの子にある。
「いや、直接渡そうと思っていたんだよ。でも、タイミングを掴み損ねて……それに、あまり大したものではないんだけれど」
苦笑しながらジャケットのポケットを探り、小さな包みを取り出す。ハリーはテーブル越しに僕の手から受け取ると、包み紙を丁寧に剥がしていった。
中から現れたのは、細身の銀のバングルだった。
縁取りの中に、鹿の角と柊の葉が精緻に彫られている。その間には三つのエメラルドが並び、少し大きな中央の石が深い緑に輝いていた。一部が開いた輪の内側には、控えめな葉飾りに挟まれて、ルーンが一つ刻まれている。
材料は、トランクの底に眠っていた私物のアクセサリーの類。父とのつながりを求める人々から、ご機嫌取りのように贈られ、一度も身につけることのなかったものたちだ。杖のない身でできることは限られているが、それらを変身術で少しずつ作り替え、仕上げに、杖なしでかけられる限りの防御呪文を重ねた。……まあ、材料の由縁があまりよろしくないことには、目をつぶってもらうしかない。
正直に言えば、腕輪にするかどうかはかなり迷った。何しろ僕の手首には、ダンブルドアからのありがたい贈り物がはまっている。それを見て「趣味が悪い」と言ったハリーに腕輪を贈るのは、どうにも皮肉が利きすぎている気がした。
それでも、来年の成人の祝いに時計を贈るのは、きっと僕ではない。それはもっとふさわしい人たちの役目だろう。だから、今のうちに、似たようなものを渡しておきたかったのだ。
本当は、言いたいことならいくらでもあった。ここまで生きてくれてありがとう、とか、これから先もどうか幸福でいてほしい、とか。けれど、そのどれもがこの口から言っていい言葉なのかどうか、僕には分からなかった。
「誕生日おめでとう、ハリー」
だから、ただそれだけを言った。
「──かっこいい!」
ハリーは目を輝かせて、バングルを光にかざした。角度を変えるたびに、三つの石がきらりと光る。そのまま、指先で彫刻の鹿の角をそっとなぞり、それから緑の石の上で、少しだけ指を止めた。
「つけていい?」
「もちろん」
開いた輪を手首に通すと、ハリーは嬉しそうに腕を持ち上げ、何度も眺めた。シリウスが身を乗り出してそれを覗き込み、「いい趣味じゃないか」と僕に向かって片眉を上げる。
腕を眺めるハリーの顔は、朝、食堂の飾り付けを見たときと同じように輝いていた。
目を覚ますと、部屋はカーテンの隙間から月明かりがわずかに差し込むばかりで、すっかり夜の暗さに沈んでいた。
枕元の時計の針は、とっくに日付を跨いでいる。昼食の後、少しだけ休むつもりで自室に戻ったのだが、どうやらそのまま眠り込んでしまったらしい。
……しまったな、と重い頭で思う。ハリーが何度か起こしに来た記憶はあるのだ。名前を呼ばれ、肩を揺すられ、返事くらいはしたような気もするのだが、結局意識はちゃんと覚醒しなかった。せっかくの誕生日の夜を、祝う側が丸ごと寝て過ごすとは、我ながらひどい話である。
とにかく、喉がひどく渇いていた。何か適当に飲もうと、僕は家人を起こさないよう足音を忍ばせて階下へ降りた。
明かりの落ちたキッチンはしんと静まり返っていた。食器棚を開け、手探りでグラスを取り出そうとしたところで、暗がりから小さな影がぬっと現れる。
「ドラコ坊ちゃま」
突然かけられた声に危うくグラスを取り落としかけて、ようやくそれがクリーチャーだと気がついた。
昼間あれだけ働いたクリーチャーは、しかし疲れた様子も見せず、僕に向かって口を開いた。
「何かお飲みになるのでしたら、クリーチャーが温かいものをお持ちいたします」
口から飛び出かけた心臓を落ち着かせつつ、首を振る。
「大丈夫だよ。起こしてごめんね。……今日の料理も本当に美味しかったよ。ありがとう。ゆっくり休んで」
クリーチャーは大きな目を何度か瞬かせたが、やがて深々と一礼すると、また暗がりの中へ引っ込んでいった。
グラスに水を注いで振り返ると、今度はキッチンの入り口にシリウスが立っていた。再び心臓に悪い登場だ。いつからそこにいたのだろうか?
シリウスはクリーチャーが消えていった暗がりのほうをしばらく眺めていたが、やがて僕に視線を移した。
「……クリーチャーが君を気に入っているのは、単にナルシッサの息子で純血だから、というわけでもないのかもしれないな」
唐突な台詞に、寝起きの頭はうまく回らない。ただ首を傾げると、シリウスはふっと笑った。
「君は……私の弟に、少し似ているように思う。容姿ではなく、内面の話だが」
「……レギュラスですか?」
シリウスが小さく頷く。近づいてきた彼からは、夜気に混じって微かに酒の匂いがした。
「私の弟もクリーチャーをとても気に入っていたし、丁寧に扱っていた。まあ、ヴォルデモートが純血の魔法使い以外の何者をも尊ばないと分かっていたはずなのに、そこに考えは及ばなかったようだが……」
そこまで言って、シリウスは何かを振り払うようにゆっくりと首を振った。
「しかし、弟は君と同じような状況にあったのかもな。両親の期待に応えるために、ヴォルデモートの下へ行った……もっとも、両親は積極的に死喰い人になれと勧めたわけではないらしいが。まあ、弟には
その言葉には、明らかに後悔が滲んでいた。
「シリウス……」
なんと声をかけたらいいか、ためらう。そんな僕に気づいているのか、いないのか、シリウスはそのまま言葉を続けた。
「私の両親に対する振る舞いがもう少し違ったら……君のように狡猾なものであったなら、弟の結末はまた違ったものだったかもしれない」
シリウスはそう言って、唇の片端だけを持ち上げるようにして皮肉っぽく笑った。
まだ頭はうまく働いていない。それでも、僕は手の中のグラスを調理台に置き、どう言えば伝わるのかと考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……あなたの弟さんのことはまったく存じ上げないので、何も言えませんが……それでも、彼の辿った結末は、絶対にあなたのせいになっていいものではない……と思います。責任はあなたの両親と、ヴォルデモートと、人を踏みつけて優越感を満たす思想にある。……僕が言っても、説得力はないでしょうけれど」
シリウスは何も答えず、ただ僕を見ていた。その沈黙に押されるように、僕は続けた。
「まだあなたのことをよく知りませんが……それでも、この一ヶ月あなたを見てきて思います。あなたは強いだけじゃなくて、傷ついたものに寄り添おうとする、優しい人だ」
月明かりに浮かぶシリウスの眉が、わずかに動いたように見えた。
「あなたは残酷な世界の中で、自分のできることを精一杯してきたように見える。だからこそ、自分ができなかったことまで、はっきり見えてしまうだけで……だから……あまり自分を責めないで欲しいんです」
その瞬間、シリウスの灰色の瞳が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。
けれどそれは瞬き一つほどの間のことだった。
シリウスはしばらく何かを考え込むように黙っていたが、やがて眉を寄せたまま、どこか困ったように笑った。
「まったく君は、他人の傷にはあまりにも簡単に、そして的確に癒しを与えてくれる。……リーマスの言っていた通りだ」
「ルーピン教授がそんなことを?」
思わず目を丸くする僕に、シリウスはなんでもないように頷いた。
「昨年、リーマスは私の君に対する見方を変えるために色々と話してくれたよ。しかしその割に……自分に対してはとことん自罰的なんだな」
「……取り入るために甘い言葉を吐いているだけに思われますか?」
「いいや、そうは思わない。自分にだけ許しを与えられない気持ちは、私にもわかる。自分のしてきたことを本当に知っているのは、自分だけだからな」
シリウスは静かにそう言うと、一度だけ目を伏せた。
「しかし……君の救いは劇薬だ。特に、ずっとそれを求めてきた人間にとっては」
いきなり飛び出してきた物騒な単語に、僕は思わず首を傾げた。
「どういうことですか?」
「なんと言ったらいいかな……有り体に言えば、自分の影響力を自覚した方がいいということだ」
シリウスはそれ以上言葉を継がず、ただ小さく肩をすくめてみせた。
影響力、とシリウスの言葉を胸の内で繰り返しながら、僕は調理台に置いたままのグラスに目を落とした。
まあ、確かにそれはそうなのかもしれない。正直に言えば、人から向けられる好意をどう受け取ればいいのか、僕には今でもよく分からない。けれど、今までの僕がそれをまるで存在しないもののように扱って振る舞ってきたのは、明確に事実誤認だったのだろう。
受け入れることはできないまでも、客観的に見て自分にどんな感情が向けられていて、それをどう扱うべきなのかくらいは、考えなければならないはずだ。
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同じ夜。キールダーの森から遠く離れたとある隠れ家の一室には、小さな燭台の明かりだけが灯っていた。
薄暗くはあったが、部屋は隅々まで綺麗に整えられている。磨き込まれた床にも、きっちりと閉ざされたカーテンにも、塵ひとつ見当たらない。その中央に据えられた肘掛け椅子にはヴォルデモート卿が深く腰掛け、その前には、バーテミウス・クラウチ・ジュニアが立っていた。
クラウチはヴォルデモートに対し、深く頭を下げた。
「我が君……こちらが例の品です。これであの子に……ドラコ・マルフォイに、お言葉を授けることができるでしょう。ホグワーツであろうとも、ダンブルドアに知られることなく」
クラウチが恭しく差し出したものを、骨のように白く長い指が受け取る。燭台の明かりに照らされたそれは、飾り気のない、なんの変哲もない一冊のノートだった。
「……しかし、これをあの子の手に渡せるのは九月になるでしょう。それまでは、彼はシリウス・ブラックの監視下にある……彼がホグワーツに到着してから、スネイプに渡させるのがよろしいかと」
ヴォルデモートは答えなかった。赤い目はノートの表紙に落とされたまま、細い指先だけが、その縁をゆっくりとなぞっている。
続く沈黙を了承と受け取ったのか、クラウチはわずかに身を乗り出して言葉を継いだ。
「それゆえに……やはりまだ、魔法省に対する大規模な攻勢は保留しておくべきかと存じます。アメリア・ボーンズとドラコのつながりが十分に固まってから、我々が静かに入り込めば……」
「それは本当に俺様のためか」
低くひどく静かな声だったが、それだけで部屋の空気が一段冷え込んだかのようだった。
ヴォルデモートは顔を上げ、そこで初めてクラウチを正面から見据える。瞬きひとつしない赤い目に射すくめられ、クラウチの喉がかすかに上下した。
しかし、その口から答えが出てくるより先に、ヴォルデモートはふっと視線を外した。
「……まあ、いいだろう。今のところ、魔法省には用はない」
ノートを肘掛けの上に置き、ヴォルデモートは長い指をゆったりと組んだ。
「しかし、オリバンダーについてはわかっているな」
「思し召しの通りに」
クラウチは深く頭を下げた。垂れた前髪に隠れて、その表情は見えなかった。