真夏の太陽に魅せられて
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都心上空に広がる青空に綿実の如き入道雲と燃え盛る太陽が映える季節。空の主達が揃い踏みし鎮座する八月三日の音ノ木坂学園の屋上にて、高坂穂乃果があげた第一声は実に夏相応で、至極当然とも言える感想であった。
「あっつーい……」
真夏の昼下がり、外気は一日の中で一番の高まりを見せる頃である。穂乃果の眼下にあるグラウンドでは運動部が燦々と降りしきる光の中を駆け回り、己が技術の向上に直向に取り組んでいる。なればとアイドルとしてのさまざまな技術をより一層向上させんとする穂乃果が率先してこの熱風吹きすさぶ屋上へと足をのばした――のであれば、引率者の嘆息も現状の半分程度に収まっていることだろう。
「そうですね。でも私は、ここで穂乃果のレッスンを行う義務がありますから」
決して爽やかとは言えない温い微風に腰まで伸びる黒髪が柔らかに靡く。しかしながら穂乃果の臨時保護者たる園田海未からは不快そうな様子などは一切感じられない。それどころか彼女の表情は初夏の装いだ。
「海未ちゃん、暑くないのぉ?」
「これくらいでしたらまだ平気です。ですが熱中症にでもなったら大変ですから、こまめに水分は補給するようにしましょう。はい、穂乃果」
海未は右手に携えていたペットボトルを穂乃果に差し出した。まだ若干解け切っていないそれは、コンビニなどによくある凍ったタイプのスポーツドリンクだ。
「ありがとう海未ちゃん!」
と、礼を述べるが早いか穂乃果は早速口を開け、微かに氷の粒が残る液体で喉を潤す。
「んんーーーっ!」
いま穂乃果の手に握られているボトルは砂漠の中のオアシスに等しく、灼熱の中を旅して来た者が漸く手に入れた命の水と言っても過言ではないのだろう。だからこそ、海未は安易に二口目をいただく穂乃果を叱責する。
「穂乃果、飲み物はその一本だけなんですからもっと考えて飲んでください」
「えぇーいいじゃん、暑いんだし。それにそこにもう一本あるよ」
「これは私の分ですから穂乃果にはあげられません。そうやって動く前から飲み過ぎて、後で後悔しても知りませんよ?」
ぶーぶー、と口を尖らせながらも穂乃果は海未に従った。折角のオアシスを蜃気楼と霧散させてしまうわけにはいかないからだ。
「と言うか、どうして屋上にでやらなきゃいけないの? 空き教室だってたくさんあるのに」
暑さに耐えかねた穂乃果は屋上にある唯一の日陰、階段へと繋がる出入り口の建物の北側に逃げ込む。そんな彼女の嘆き節に、しかし海未は渚をそよぐ風のような涼しい顔を見せた。
「それは希に言ってください。今日の穂乃果のラッキースポットが学園の屋上だと言うんですから、どうせならそれに従った方がいいではないですか」
「私はそうは思わないよ! 暑いし!」
いくらスピリチュアルな導きがこの場所を指し示したからと言って必ずしもそれに従う必要性があるのかと問われれば、占いを選別する側の穂乃果にしてみれば甚だ疑問である。日陰に移るや腰を下ろし、膝を抱えて海未を見上げ、徹底抗戦の構えをみせる少女を前に、だが何故か臨時保護者の口元はほんの僅か重力に逆らう。
「そうですか、それは残念ですね」
「何が?」
なおも怪訝そうな表情を続ける穂乃果に対し、海未は言う。
「穂乃果がここで頑張ると言うのなら、特別なプレゼントを穂乃果に差し上げようと思っていたのですが」
「えっ!?」
思わず声が漏れるのと、床に落ち着かせていた腰を上げるのと、一体どちらが先だっただろうか。
「プレゼント!?」
「そうです。今日の為に用意したとっておきですよ」
さあどうします? など、もはや訊くまでもないことは、海未自身予め承知していたことで。
「やるっ! いますぐやる!」
予想通りの反応にようやく、海未の表情が綻んだ。
「じゃあ早速始めましょうか。あ、穂乃果はそのまま、そこにいてください。日向は暑いですから」
「はい、海未先生!」
さすがの海未も暑かったか、穂乃果のいる日陰の端へと移動して来た。いままで日向にいたにも関わらず汗ひとつかいていない彼女に穂乃果は少しだけ驚いたが、それも刹那の話。
「ではいきます。私からのプレゼント、穂乃果の為だけに用意した特別なトレーニングメニューです。思う存分踊ってください!」
奇想天外な発言の前に穂乃果は『どん』と尻餅をついた。文字通りの青天の霹靂に際した彼女の、それはお笑い芸人も羨むほどの綺麗な倒れ方だった。
「もうっ、勘弁してよー!」
その声が音ノ木坂学園中を席巻するまで、大した時間はかからなかった。
◇あったかもしれないあふたー
「――ファイ、シック、セブ、エイッ。そこまで!」
「――――――!」
声にならない悲鳴を上げながら穂乃果はそのままへたり込む。当初渡されたペットボトルの中身は既に底を尽き、代わりに噴出した汗は彼女が持っていたフェイスタオルを濡らすのに充分過ぎる量であった。いくら日陰とは言え、外気は優に三十度を超している。
「お疲れ様でした、穂乃果」
「ほんとに、疲れたよ……」
肩で息をする穂乃果に対し、やはり海未はどこか涼しげで、加えて何故か楽しそうでもある。
「やはり口ではああ言っていても、真面目に取り組んでくれる部分は穂乃果の素敵なところです。きっとこれは、何かしら今後の活動の役に立ってくれるはずです」
「そう、だね……ありがとう」
皮肉か本音か、それすら判断が追いつかないのは息を整えなければならない程に疲れ切っている者ならば致し方のないことだ。ここまで憔悴しきった彼女を目の当たりにするのも何だか物珍しい海未は、
「あの、これ」
と、持っていたペットボトルを穂乃果に差し出す。自分用だから穂乃果にはあげられないと言っていたスポーツドリンクのボトルである。容量は既に半分減っており、この暑さの中放置していたせいで始め穂乃果渡した時ほどの冷たさは消え失せていたが、それでも構わないと受け取った穂乃果は口を開けて静かに一口流し込む。
「はあっ」
生き返る――そんな少女の表情とは対照的に僅かに頬を朱に染める保護者がひとり。
「海未ちゃん?」
「……そろそろ、戻りましょう。立てますか、穂乃果」
「え? あ、うん」
差し出された海未の手を穂乃果は握り、支えにして腰を浮かせる。二本の足で直立し、支えなど不必要になるまで、要した時間などほんの三秒にもみたなかったが。
「………………」
握られた手と手は、どうしたことか離れない。
どちらからともなく、離そうともしない。
「どうせだから、このまま行こっか」
穂乃果が言う。海未はそれに反応しなかった。許諾はしないが、拒否もしない。つまりはどちらでも構わないと言うことである。穂乃果は返事のない海未を引きつれ歩き出す。無言を許諾を受け取ったようだ。
そこで「そうですね」と言う気概さえ、もともと海未は持ち合わせていない。自分から飲みかけのドリンクを差し出しておいて、自分からその手の片方を握らせておいて、何たる体たらくだろうと彼女は自身を叱責する。もちろん、穂乃果はそんなことをいちいち気にする人間ではないことを付き合いの長い海未はよく存じている。しかしだからこその感情と言えるかもしれない。他人を決して蔑まず明るく受け入れる人柄は、九人で行うアイドル活動の中心的存在になるよう、あらかじめ決まっていたかのようだ。
そんな真夏の太陽のような存在の誕生日を祝いたいと思ったのは、他の七人も同じだった。
(でもこれではどちらがプレゼントをいただいているのかわかりませんね……)
穂乃果には聞こえない、心の内で発したその言葉に、海未は思わず苦笑してしまった。
すっかり元気を取り戻した穂乃果との手繋ぎデート。それはμ’sの本拠、音ノ木坂学園アイドル研究部の部室に着くまで続くこととなった。