お待たせしました、KG6&QESです。
区切り所が難しかったので長いです。
7月下旬。
イギリスの夏は、日本で想像されがちな「蒸し暑い夏」とはまるで別物だ。
確かに日差しは強く、日中であれば肌がじりじりと焼ける感覚もある。だが空気そのものは乾いており、風が吹けばそれだけで体表の熱がすっと奪われていく。
この気候が、欧州で夏場でも高格付けのレースが成立してきた理由の一つであることは間違いない。
そして今日は、その象徴とも言える一日だった。
キングジョージⅥ&クイーンエリザベスステークス*1。
通称KG6&QES。
イギリスのみならず、世界中のレース関係者が注目する、夏の欧州を代表する中距離G1である。
アスコットレース場にて。
レース当日の朝というものは、いつも少し不思議な感覚になる。
緊張していないと言えば嘘になるが、かといって過度に昂っているわけでもない。
むしろ、頭の中は驚くほど静かだ。
この感覚は、前世の記憶が影響しているのかもしれないし、単に私の性分なのかもしれない。
どちらにせよ、今の私は「走る」という一点に向かって、無駄な感情が削ぎ落とされた状態にあった。
「最後の確認は居るかしら?」
私の勝負服の細部を整えてくれていたハルカさんが声をかけてくる。
「ハルカさんの、トレーナーの見解を聞いて良いですか?」
「わかったわ。まず出走者の顔ぶれとトレーナーを見たところ、スズカに張り合えそうな先行は居ないわ。ただ、同じチームから出てる組が2組あるから、その娘たちには注意して」
「わかりました」
ハルカさんが最終出走表を見ながら教えてくれたウマ番と名前は以下の通り。
枠番 | 名前 |
1番 | シャントゥ |
2番 | ヘリシオ |
3番 | キングフィッシャーミル |
4番 | ストラテジックチョイス |
5番 | スウェイン |
6番 | シングスピール |
7番 | サイレンススズカ |
8番 | プレダッピオ |
9番 | ピルサドスキー |
同じチームから出場しているのは、5番のスウェインと8番のプレダッピオ*2。そして6番のシングスピールと9番のピルサドスキー*3。
「5番と6番はどちらかと言うと差し寄りの戦法を使う事が多いからラビット役からは除外しても良いと思うわ。怪しいのは8番と9番だけど、9番のピルサドスキーは直近の戦績も良いからラビット役として出すには惜しいと個人的には思うのだけど……。とにかく、この4人、特に8番と9番には注意してみて」
「はい」
「2人とも欧州では王道の先行抜け出し型。それこそスズカと競り合うならさすがのシニアウマ娘と言えど、ラビット役にされた娘は捨て駒にしかならないと思う。
沖野さんも言ってたけど、最終的に今年の出走者はスズカを含めても9人。予想よりかなり少ないから、スズカの逃げに対抗できるラビットは用意しなかった……できなかったと考えても良いと思う」
「はい。それに、その2人とも私より外枠ですよね。だったら並ばれてもスタートでちぎります」
「えぇ。あなたのスタートセンスと加速はシニアのウマ娘と並んでも遜色ないどころか勝っていると確信しているわ。だから言葉通りちぎっちゃいなさい。
「はい。マルゼンスキーさんが教えてくれて、スピカの皆と沖野さんとハルカさんの協力で完成した今回の隠し玉。成功させてみせます」
確たる自信と自負を持って言った私の言葉に、ハルカさんは私の顔をみて柔らかい表情になり頷く。
「ハルカさん……。この前のやつ、お願いしても良いですか?」
「もちろん」
私のお願いにハルカさんは間髪をいれずに答え、その両手を私の両頬に優しくあて、撫でてくれる。
その感触に懐かしさを感じ、私を目を閉じハルカさんの手のひらの温かさに集中する。
「がんばってスズカ。私のスズカが、世界で一番速い。それを証明してきて」
「……はい」
ハルカさんの手に自分の手を重ね合わせる。
『サイレンススズカさん、準備お願いします』
扉が叩かれ、職員の人が扉の外から声をかけてくる。
「行ってきます」
「えぇ、ゴールで待ってるわ」
「はい。一番最初に、あなたの元に帰ってきます」
短い言葉を交わして、ハルカさんの手を離し立ち上がる。
――KG6&QESが、始まる。
⏰
KG6&QESは、単なるG1ではない。「夏のアスコット」という舞台そのものが、一種の試金石なのだ。
ここで結果を残せば、秋の欧州路線、ひいては凱旋門賞への評価が一変する。
ここで通用しなければ、私の目標の欧州3大レース同一年制覇という目標は果たせず、田舎ウマ娘の夢物語だったと捉えられてしまう。
更に何度も言っている通りKG6&QESは中距離芝のレースの中で最高峰に位置する権威のレース。年齢問わず、世界中の中距離ウマ娘が最古のウマ娘レースが生まれた国の最高のレースを取りに集まる。
私の初めてのシニア混交のレースでもあるため、
控室を出ると、観客席の方から、静かなざわめきが聞こえてくる。
静かなざわめきというと矛盾しているかもしれないが、そう表現するしかないだろう。
欧州ウマ娘レース、特に格式の高いレースは市民の娯楽というよりも、紳士淑女の社交場としての趣が古来より強い。
そして今回はKG6&QES。イギリス王室が主催する、イギリスで最も格式の高いレースが開催される日。
入場者にはドレスコードが課せられ、紳士淑女としての振る舞いが求められる。
そのため、日本のような活気のある喧騒というよりも、誰もが声を潜め静かに会話するが、その数が多すぎるため騒がしく聞こえてしまう。
そんな重く鋭い雰囲気が、アスコットレース場には満ちている。
パドックのひな壇を降り、ゲートへ向かう通路は意外なほど静かだった。
外の喧騒が嘘のように遮断され、今はただ、自分の足音と呼吸だけが耳に入る。
この静けさは、嫌いではない。
むしろ──この瞬間こそが、一番好きかもしれない。
レースが始まれば、全ては一瞬だ。
考える余裕も、迷う余地も無くなる。
だからこそ、こうして立つ前の時間が、何よりも貴重なのだ。
ゲートが見えてくる。
他の出走者たちも、次々と集まり始めている。
深呼吸を一つ。
頭の中は、驚くほど澄んでいる。
私はただ、前へ行く。誰よりも前を、先頭を走る。
それだけで、いい。
マルゼンスキーさんが教えてくれたアイズの秘技と言っても過言ではない
その皆が、3週間という短くも長い期間、私に付きっきりで特訓してくれたおかげで何とか形にした取っておきの秘策。
それを持って、私は先頭を走る。最後まで、走りきる。
『7番サイレンススズカ、堂々とゲートイン。シニアの中であってもその自信は崩れないか』
ゲートインし、先に見える芝生を見つめる。
距離は芝11ハロン211ヤード(約2390m*4)。
時間にして約2分半から長くても2分50秒。
『さぁ、最後のウマ娘がゲートインを完了。全員がスタート体勢を整え──』
『今スタートしました』
〈ロケットスタート〉
〈高速逃げ〉
開くゲートを視界の端に捉えながら、上半身を倒し駆け出す。
〈坂越え〉
〈クラシックギア〉
『逃げのコツ○』
私たちの作戦で大事なのはスタート直後の3ハロン。
下り坂を伴う800mが序盤。その内の遅くても600m地点までの間に、勝負の行方が懸かっている。
軽く顔を振り、後方を確認する。
──だれも来てない。競り合いは、無し。
沖野トレーナーの予想では、シニアのウマ娘で私と競り合うウマ娘は欧州には居ないだろうとされていた。シニア級までになれば、皆それぞれ個々人にあった勝ちパターンがあるため、それを大きく崩しはしないだろう、と。
競り合い専用のラビット役としてありえるのは、事前に出走する予定が無かったが急遽出場することになったウマ娘だが、今回はそんなウマ娘もおらず。事前にハルカトレーナーが挙げた8番も9番も私と競り合うほど加速する様子は見えない。
『大逃げ』
『先駆け』
それならば、と作戦通り最高速に近い速度を維持しながら番手との距離を離し内ラチに寄る。
──頭が澄んでいく。
練習の時、何度も味わった感覚が私を襲う。
ある種の全能感、ある種の虚無感。相反するようなそれでも同居するその感覚が頂点を迎えた時、私の世界の
スタートから約500m地点で、
多分私以外は発動したことを感じ取ることすら難しい、極限まで自己に向いた領域。
私の第2領域であり、
⏰
私たちの秘策、それはマルゼンスキーさんが教えてくれたアイズの──ハルカトレーナーのお父様の見出した秘伝。
特性領域と名付けられたそれは、レース経験や勝負服によって習得や効果が左右される領域とは違い、産まれ付き持っていた特性──特に殊更強い固有特性とも呼ぶべき物を領域に近づけた物。
従来の領域と違うのは、勝負服によって出力が左右されず、そのウマ娘個人によって条件、効果が固定であること。そして、血縁者など似た特性を持つウマ娘には、口伝などによって
固有特性自体は領域と違い、
私との併走でスタート直後に弱弱しい領域が発動したらしき感覚を覚えていたマルゼンスキーさんが、トレーナー達に相談し、色々検証したことで判明したのが、私に会津トレーナーの言う固有特性なるものがある事だった。
そしてそれは、すでに領域化しかかっているとマルゼンスキーさんは考察した。
領域化が完全にできていないから、領域の気配がある時と無い時があるのだ、と。
検証には時間がかかると思えたが、ハルカさんのお父様──会津トレーナーがビデオ通話などで確認し、手伝ってくれたおかげで私の固有特性の条件の判明と、特性領域としての発動が安定化したのであった。
私の固有特性は『1800~2200mのレースの時、スパート時前に出て、大逃げの場合スタミナが保ちやすくなる』と言うモノ*5。
そして、それを領域と言える域まで変化させた特性領域は『大逃げ時序盤のあいだ中先頭を維持した場合、スタミナの減少を抑え、レース終盤前に出る』という効果へと変わった。
レース距離での条件が無くなった代わりに先頭維持が必須となり、体感だが固有特性との効果量の違いも実感できない程度だったが、距離での条件が無くなった事で今回、ひいては凱旋門賞に挑む私の勝率を底上げしてくれる重要なピースとなった。
クラシック級……、いやシニア級まで見ても第2領域を発動できるウマ娘は希少であり、更に私の不安要素であるスタミナを補助してくれる固有領域は正に必勝の秘策となるほどだった。
しかし領域化してしまうと、領域に入る条件に加え心身共に整っている必要があり、スタートしてからの序盤に発動させなければならない領域は、スタート前──ゲート内に居る時点で精神面、身体面を領域発動に相応しい状態へと持っていかなければいけなかった。
レース前最終仕上げの日の調整では、スタート直後に特性領域を発動出来た回数は5回中3回、約60%であり100%領域として発動させることはできなかった。そのため、この特性領域が発動できるかどうかが、今回の私にとっての肝であったわけだ。
⏰
賭けとしては分の良い賭けだったが、メンタルコントロールが成功し特性領域を発動出来た私は
正確には、私の巡航速度が一気に引き上げられ、
『7番サイレンススズカこれは速い! 下り坂を利用して一気に加速する──!!』
上がった速度に振り回されないよう、
『先頭7番が一気にコーナーへ突っ込んでいき、
上がった速度に堪え切れずいつもより膨らんでしまったものの、アスコットレース場はおにぎり型をしており、日本のレース場や前走のエプソムレース場よりコーナーの湾曲が厳しいことを考えると上出来の範囲内だろう。
コーナーを抜け後ろの先行集団との差を確認する。
──大体5~6バ身差、
ハルカトレーナーの
『1000m通過タイムは58──!? 58秒!? おいおい、殺人的タイムだぞ!!』
私が単走した場合、他陣営の作戦は2つに絞られる。
私を差しきる末脚にかけるか、ダービーのベニーザディップのように、
そしてハルカトレーナーは、シニア級のウマ娘たちならば、私をペースメーカーとすることを選択する方が高いと考えていた。
私の特性領域の発動が成功し、平均ペースが欧州では考えられないほど跳ね上がった私をペースメーカーとした場合、ほとんどの欧州ウマ娘は末脚が残らないだろう、とも。
これが今回の私たちの作戦。
『
欧州では、先行ウマ娘ですらラビットやペースメーカー役になるほど、後ろ寄りのレース運びが多い風土である。自然の丘陵をそのままレース場にしているため高低差の激しいレース場が多いため、仕掛け所まで皆でゆっくり走って足を溜め、一斉に末脚勝負をするという、いわゆるヨーイドンレースが多い。
そのため私をペースメーカーとした場合に起きる、強い逃げウマをペースメーカーとした高速時計レース下での経験不足。それに伴う筋持久力の不足。それを突くというのが今回の作戦だ。
特性領域のおかげで私の疲労感やスタミナはダービーの頃から改善されているため、十分勝算が見込めるとの事でこの作戦をとることになった。
──あとは私自身との勝負。
第1コーナーを抜けた後の直線も真ん中に差し掛かると、そこからはゴールまで延々と続く上り坂が待っている。
最終コーナー*6を含む約1400mの間で20mほどの上り坂を上り続けなければならない。
前半のハイペースは20mの下り坂を利用した加速もあり出たペースのため、
しかしここからは延々と続く上り坂を、第1コーナーまでの間でできたリードを消費しながら登り続けることになる。
類稀なるタフネス、上り坂に負けないパワー、そして追いつかれる恐怖と戦う根性。
つくづく、欧州のレース場は日本に比べると、鉄人レース染みた要素を求められると感じながら、私は目の前の坂へと足を進める。
上り坂直前の平坦な直線で
もしかしたら息を入れる最後のタイミングかもしれない空気を肺いっぱいに込め、坂を駆け上る。
『先頭は最終コーナーに差し掛かる! 後続はどうだ! アスコットレース場にそぐわないハイスピードなレース! 全ウマ娘スタミナは持つのか!?』
ひたすら走る。
もはや考えることはない。
──ただ走る。
まだ続く阪を無心に上り続ける。
脚も、胸も、頭も勾配のある上り坂によって酸素を求めだす。
ゆえに思考するリソースすら走ることに回す。
走ること以外の全てを切り捨て、走ることに最適化する。
──思考が無になる。
──世界から色が失せる。
──音がどんどん遠ざかる。
──先頭を走り風を切る感触だけが私が走っている事を教えてくれる。
最終コーナーをぬけ、500mと長い直線に入る。
仕掛け所はもう過ぎていた。
でも、
自然と体が前にでる。
長いトレーニングによって作られた身体が、前世から持ち続ける
動かしているつもりが無くても脚が回り続ける。
最後の直線は自然と前傾姿勢が強くなる。
気づけば、色を失っていた私の目の前には、果てしなく続く草原が広がっていた。
鮮やかな緑と、さわやかな青だけが見える果ての無い芝生。そこを駆け抜けることで生まれる風を切る感触。
永遠に走っていたいと思わせる、懐かしくさわやかな空気の味。
果てしないと思っていた芝生の先に、人影が見える。
老齢の男性のようにも、妙齢の女性のようにも見える人影。
その人影は両手を広げ、私を待っていた。
──『おいで、スズカ!』
その人影の声を聴いた瞬間、私の視界が弾けた。
レース場が戻ってくる。
あらゆる感覚が戻ってくる。
私はまだ、先頭を走っていた。
側に足音が聞こえる。
誰かはわからない。確認する余裕はない。
ただ、足音の大きさと感覚から、なんとなく1バ身程度の差しかないことがわかる。
足を踏み込む。
脚を前に出す。
腕を振る。
もう、呼吸などしている暇は無い。
一番は譲らない。
あのヒトの元に一番に戻るのは
全てを振り絞って駆ける。
後ろのウマ娘も、息も絶え絶えながらも走る音が聞こえる。
それでも──
それでも──、誰かもわからないウマ娘は、1バ身という距離を詰めることはできなかった。
『ゴ──────ル!!!!! 7番サイレンススズカが一度も先頭を譲らず1着でゴール!! 欧州3大レース制覇はビッグマウスじゃない!! 日本の誇るニンジャガールがクラシック級で、KG6&QESを勝ち取ったあああああっ!!!!』
| 着順 | 枠順 | 名前 | タイム(着差)
|
| 1 | 7 | サイレンススズカ | 2分34秒9(1バ身半) |
参考タイム
1997KG6&QES スウェイン(2:36.45)
いつも誤字報告、感想やここスキなど、沢山の応援ありがとうございます。
まだ少々トラウマが払拭できず、執筆に時間がかかってしまいますが、皆さまの応援の声でなんとか執筆を続けている次第でございます。
どうか、遅々とした更新ペースとなってしまいますが、今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。