ナナミが死んだと聞いたとき、ぼくはスマホでニューズウィークの記事を眺めていたと思う。
確か、南スーダンの沈静化したはずの紛争が再燃して、首都で虐殺が起こったとか。
ジェノサイドだ。人道に反する行為だ。そんな毒々しい文字が画面の上を踊っていた気がする。
尤も、そこまでよく覚えているわけではない。アプリを閉じて端末をスリープにすると、途端に記憶は薄れる。
遠く離れたアフリカで何百万人死のうがぼくの生活は大きく変わらない。精々、情勢が安定するまで物価が上がるな、と財布の紐を固くする程度。遠い場所の虐殺でぼくたちに痛みは来ない。五感に働きかけないから実感しない。
流血はいつだって非現実的だ。この手の事は今までで何回も繰り返されていて、今回だって馬鹿の一つ覚えのようなアフリカのスタンダードなモデルケースを踏襲している。宗教、人種、民族、国境。憎み合う下地は十分だ。燻っている火種はあちこちに転がっていて、きっかけさえあればいつでも爆発するはずだ。
ポップコーンのように軽い引き金が引かれれば、連鎖的に死体が積み上がって、大国の介入で有耶無耶になる。だが、憎悪は消えないからまたどこかで発作が起きて人が死ぬ。人は学習しないから。嫌悪や憎悪は何よりも優先されるから。
サラエボ事件でオーストリアの皇太子が銃殺されたから第一次世界大戦が起きて1000万人が死に、誰が放ったか分からない1発の銃弾によってレキシントン・コンコードの戦いが勃発しアメリカ独立戦争に繋がった。世界を変えるのは銃弾一つで十分であり、不可逆性を保ったまま暴走した車輪のように命を轢殺しながら進むだろう。憎悪という燃料を注がれながら。
そんな無駄を繰り返すなら、絶滅させればいいだろう。民族浄化というものだ。ユーゴスラビアで起きた事をもう一度起こせばいい。無駄にリソースを吐き息切れ寸前の紛争を続けるなら、皆殺しにするまで続けてしまった方が効率面で優れている。
──────人でなし。
パン、と乾いた音がして、漸く彼女の友人らしい人に叩かれた事に気がついた。先ほど聞いた彼女の訃報はすっかり頭から抜け落ちていて、今はスレブレニツァの虐殺の事を考えている。
それに申し訳なさを覚えたわけではないが、ぼくは頭の片隅で彼女の事について考え始めた。
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彼女は別に死にたいと言っていたわけではない。家に泊まった時も、出かけた時もぼくは彼女が死ぬとは思っていなかったし、死んでほしいとも思っていなかった。けれど、いざ彼女が死ぬと、不思議とこれが正しいと感じてしまう。彼女の妹がそうであったように、誰かの記憶に一番綺麗な瞬間を焼き付けてから終わりたかったのかもしれない。死人に口はないから本当の所はわからないが、そう考えると腑に落ちる。彼女とのトーク履歴にもそういった刹那的な浅慮が綴られているし、彼女の横顔は線香花火のようだった。
傍迷惑で、愚かで、短絡的だったとしてもその生が幸福のまま終われたならぼくたちが文句を垂れ流す必要はない。彼女の今が輝いたまま、望むピリオドが打てたならば、それは良い人生と呼ぶに足るだろう。
名前を忘れた人はぼくを責める。気づけたはずだとか言って、沢山の涙を流している。けれど、彼女の友人を呼称するにしては君は知るべき事を知っていなかった。死を悼むな、と言うつもりはないが、止められなかった責任を他人になすりつけるのはみっともない。
それに、ぼくは彼女の自殺を止めるつもりはなかった。例え目の前で首吊り自殺の準備を始められようと気にしないだろう。
彼女の人生の責任は彼女が取るべきものであり、その決定を覆す権利は彼女自身しか持っていない。ぼくは口を挟まず、そのなり行きを見守るだけ。死ぬならそれでいいし、生きるならそれはそれだ。今回は死ぬ方に天秤が傾いただけ。コイントスで裏が出たとか、そのレベルの話だ。
ぼくの知るべきところに、彼女の心は入っていない。無知の責任を喚く友人は、癇癪を起こす母によく似ていた。そもそも、ぼくたちは死人の詳細を知るべきなのか? 死者の全てを詳らかにして、誰が得をするのだろうか。人生の目的とか意味を第三者がそれらしい顔で口にするなんて噴飯物のジョークだ。
誰々は幸せでした、なんて言葉で救われるのは生きている人だけ。そうだと分かりきっているのに、供養だのなんだのと高説垂れる誰かさんには頭が上がらない。
そうやって見透かして、察して、冷たく放つ言葉はきっと取り巻き達にとっては醜さに溢れているだろう。だが、これらの言葉よりも、彼女はずっとドブみたいな女だった。
ぼくたちは、本当にそこに足を踏み入れるべきなのか。
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ぼくと彼女が出会ったのは真夜中のサークルの部室だった。部室のテレビで見飽きた映画を音も流さず映しながら、授業で使う資料に目を通していた。時刻は深夜2時を回っていて、昼の喧騒は離れている。誰もいない静寂、時が止まったような世界で漸くぼくは1人になれる。別に友人と過ごすことに煩わしさを覚えているわけではない。だが、他人から距離を置くことができるたった数時間の安息が、ぼくには必要だった。自分自身を整理する猶予とでも呼ぶべきものだろう。
1分間にあった下らない交流。
1時間にあった些細な会話。
1日にあった得難い交友。
そういったものを1日の終わりに整理して、更新する。必要なもの、不要なものを振り分けて、必要なものを記憶し、不要なものは忘却する。物心ついたときから行っている1日の振り返りはPCのウィルスチェックの様で、ぼくは今日も作業のように24時間の整理を行っていた。
ぼくは一介の学生だ。義務教育を終えて高校に入り、受験を経て大学に入学した。そして、研究室に配属されて、あとは卒業を待つだけ。その運命が狂ったのは少し前で、ぼくが引き継いだ研究で良い成果が出てしまった。
世間もそれなりに騒いでいるようで、大学にはひっきりなしに取材が来ていた。誰もが知っているテレビ局から、無名の記者まで。学長、学部長、教授へのインタビュー。ぼくへのインタビュー。兎に角、学生が集うモラトリアムは無遠慮な大人がずけずけと足を踏み入れる場所に変わった。
その人達の相手をする為に、ぼくは接待いうものを覚えた。自分を繕う事を学んだ。相手の欲しい言葉を考えて、ガワだけのハリボテをそれらしい顔で話す。そうすると相手は満足してくれて去ってくれる。だが、誰が見ているか分からないから肩の力は抜けなくて、貼り付けた笑みを浮かべて優等生を演出する。
仮面を外す余裕はなくて、教授からは「研究者としての自覚を持ちなさい」と言われる始末。このまま仮面を被り続けろという事だった。
色々なことに疲れていたのだと思う。自分の身の回りの事やパーソナルに根差した問題に折り合いをつけられずにいた。自分と向き合う時間の捻出ができなくて、周囲を気にしながら生きてきた。1人の時はくたびれた根無草、誰かの前では優等生として歩く姿を演出する。自分のことについて泣いたり悲しんだり憐れむことはないが、考え事をする際に堂々巡りをすることは多くなった。夜は特に酷い。
2限に行う授業のスライドを眺めていると、部屋に女性が入ってきて、ぼくを見た途端感嘆の声を上げた。珍しい動物を見たかのような、そんな目をして。知らない顔だった。
「こんばんわ」
ぼくがそう言うと、彼女もこんばんわと返した。初対面でも印象が悪くならないように微笑みを浮かべて、再びスライドに視線を落とす。
彼女は奥の方のバリスタマシンの前で右往左往していて、忙しなく動き回っている。布の擦れる音、2人分の呼吸、陶器の鳴る音。まるで朝の訪れだ。
「バリスタマシンは壊れているよ。コーヒーが飲みたいなら外の自販機で買ってきなよ」
「別にコーヒーが飲みたいわけじゃないんだ。ちょっと、隠しておいたものがあってね……」
そういって彼女が取り出したのは度数が強そうな酒瓶とスプライトだった。時刻は午前3時を回っている。
「音、出さないの?」
「映画を見てるわけじゃないよ」
ぼくがそう言うと、彼女は笑ってソファの隣に座った。グラスにスプライトと瓶に入った液体を注ぐと、ワインをデキャンタージュするように大袈裟にかき混ぜる。出来上がったドリンクは綺麗なアメジスト色だった。
「何飲んでるの?」
「リーン。知り合いのアメリカ人からアクタビス貰ったんだ。今はあんまり流行ってないんだけどね……あぁ、自己紹介がまだだった。私、ナナミ。苗字はあんまり好きじゃないから、名前で呼んでくれると嬉しいな」
ぼくは「そう」と短く答えて、また口を開く。
「ぼくは────」
「君は有名人だから知ってるよ。だから、自己紹介は大丈夫」
出鼻を挫かれたぼくは苦笑いを浮かべて口を閉じる。関わりのない他人が自分を知っている、というのは妙な気分だった。知らない内に腹の中を探られているような、言いようのない不快感。有名税、と言ってしまえばそれまでだけど、望んで有名になったわけではないから泣き言くらいは許してほしい。
引き継いだ研究が偶々ぼくの代で結果が出ただけで、宝くじが当たったようなものだ。運が良かったの一言。ぼくじゃなきゃ結果が出なかったなんて思い上がるつもりはない。
「明日……あぁ、もう今日か。兎に角、授業よろしくね、先生」
「君も受けるんだね。全く、こんな児戯の何が面白いんだか」
「面白さは求めてないんじゃない? ただの興味本位みたいな。どんなにつまらなくても、単位さえ出ればいいし」
「それもそうだ」
大変面倒な事に、これも一応正式な授業やゼミの一環で、全4回の講義に出席すれば受講者は単位が取得できる。勿論、受講者の評価は教授の仕事であり、ぼくの出る幕はあまりない。精々、授業毎のレポートの採点程度だ。だが面倒事である事実は変わらないし、学生のぼくに余計な仕事が増えたのは現実だ。お金は貰えるが、学部生の時に借りた奨学金の返済に消えていくから手元に残ることはない。大学から払われるお金が大学に消えていくと考えると酷いマッチポンプに思えてきた。
「それにしても、かの有名人がこのサークル出身なんて。世間って案外狭いね」
「幻滅したかい?」
「いいや、全然。でも、席を置いていただけで殆ど活動してないんじゃない?」
「他の大学の女の子を引っ掛ける事を活動と呼ぶなら、確かにぼくはしてないね」
「やっぱり。なんか、君からそういう人間っぽさを感じないもん。友達は皆、君の事を凄い人って言ってるけど、私はそうは思わないかな」
「じゃあ、どう思うの?」
「うーん……怖い人?」
「なんだそれ」
ぼくはそう言って会話を切り上げて、部屋から出た。実りのある会話ではなかったから、記憶すべき事象には含まれない。彼女との交流は、彼女自身の名前以外は全て漂白する。この先、彼女と関わる事なんてないと思ったから。結局、彼女は授業には出席せず、ポツポツと存在する欠席者の1人として処理された。
次に会ったのは初対面の夜から1週間と半分が過ぎた頃だった。カフェテリアで手慰みに本を捲っていると、彼女はへらへら笑いながら相席を申し出た。ぼくは了承した。
「なんか体調悪くなっちゃって。ごめんね、授業出れなくて」
「別に構わないよ。それに、次には欠席者の方が多くなる」
「教える側の君がそれを言っていいの?」
「別にいいよ。システム上、分かりきっていた事さ……体調は大丈夫?」
「うーん、ぼちぼち」
「コデインのやりすぎ?」
「かもね」
コデインは離脱症状がきつい。吐き気は止まらないし、身体中がおかしくなるし、変なものが見えたり聞こえたり。強迫観念で胸が押しつぶされそうになったりする。インスタントコーヒーみたいな安らぎの対価がそれだ。
彼女はのらりくらりとしながら、自販機で買ってきたであろうスプライトを飲んでいた。体調が悪いのに炭酸飲料なんてよく飲めるな、なんて思っていると彼女は悪戯っぽく舌を出した。
別に彼女を気遣う必要はない。彼女がどこで何をしていようがぼくにはどうでもいい話で、関係ない事だ。別に、そこまで仲を深めた覚えもない。
ぼくは本を閉じて、スマホのニュースを流し見し始めた。
「そういえば、年齢は私の方が2個上なんだよ」
「もしかして、敬ってほしいの? 先輩」
「いいや、全然。敬われるほど立派じゃないしね、私。一年浪人して、二年休学したし。挙げ句の果てには単位足りなくて留年したから、立派な不良学生だよ」
「そうだね、授業も欠席するし」
「痛い所突くな〜。でも、そこはちゃんと申し訳なさを感じてるよ。何かお詫びさせてほしいな?」
「お詫びなんていいよ。でも、君の気が収まらないなら、コーヒーでも奢ってくれたらそれでいいよ」
ぼくはそう言って席を立って、研究室に戻った。
その日の夜、彼女は部室でバリスタマシンに作らせたコーヒーを置いて、お詫びだと言った。それが可笑しくて笑うと、彼女も釣られて笑った。お詫びが思ったより早く来た事と、その質があまりにもインスタント極まる事に。だが、コデインの離脱症状にやられている女のお詫びにしては上等だった。
「また映画見てる」
「見てるわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで流してるの?」
ぼくは電子書籍アプリを開いていたタブレットを置いて。
「落ち着くんだ。言ってしまえば、環境構築の一環さ。暗い部屋で古い映画を流しながら、自分の整理をしつつ作業をする。1人でいる安心感を味わう。音はない方がいい。音がある夜もそれはそれで良いけど、ぼくは静かな方が好きなんだ」
大昔の戦争映画。モチーフは第二次世界大戦だったか。歴史をなぞる脚本。初めて見たのはいつだったか覚えていないが、両手で数えられないほど再放送されていることは覚えている。だから。
「リロードを挟んだ後、爆弾で吹っ飛ぶ」
ぼくがそう言った途端、歩兵の爆弾にしてはやけに派手な爆発が起きて、兵士が大袈裟に吹き飛んだ。それを見た彼女は大笑いをしながら。
「流れを覚えちゃうくらい見てるんだ。なら、他の映画に変えた方が良くない? 私、ネトフリ契約してるよ?」
「別に見る目的じゃないんだ。インテリアの一種だよ。1人でやりたい事をやるためにいるんだから」
「ふーん……もしかして、私、邪魔だった?」
「そういうわけじゃないよ。この部屋はぼく1人のものじゃないからさ」
部室は学校の所有物であり、ぼくものではない。ただ、こんな時間に使う人間がぼく1人だけだっただけだ。
「そっか。じゃあ、これからも安心してお邪魔しようかな」
それから、ぼくたちは朝まで話をした。部屋を使う時のルールを決めたり、愚痴を言い合ったり。1日の終わりに必要不要の取捨選択をしなくてもいい会話というものは、案外楽しかった。
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七月四十七日
インスタで誰かが結婚報告をしていた。満面の笑みの新郎新婦、お揃いのエンゲージリング、真っ白でキラキラのウェディングドレス。
死ねばいいよ。
写真に映る男は、隣の女が何をしていたか知らない。私の妹を溜池に突き落とした事、誰も知らないと思ったら大間違い。いい死に方なんて許さないから。
今日は最悪の気分。誰とも話したくない。
▼
買い物かごにスポーツドリンクとレトルトのお粥を入れる今は午後6時。ドラッグストアで買い物しているような気分ではあるが、場所はコンビニで、やる気のない店員の声と割高な金額がそれを表している。店の外に出ると煙草の匂いが歓迎してくれて、地面に散らばる吸殻と飲み物のゴミがこの地の治安を物語る。昔よりはマシになったらしいが、ぼくはその比較対象たる昔を知らないから、結局のところ酷い治安、という結論に行き着いてしまう。
自分に必要のない、体調の悪い誰かのためのもの。安い家賃以外は誉める場所がないアパートに戻ると、顔色の悪い彼女がぼくのベッドで寝転んでいた。ブランケットを被っているから、顔は見えない。
「戻ったよ。スポーツドリンクは指定がなかったから、売ってたのを一本ずつ。レトルトのお粥も」
「うん」
「あと、ゼリーも買ってきたから。食欲は?」
「……分かんない」
「そう。ゼリーと飲み物は枕元に置いておくから」
ぼくはビニール袋から出した頼まれものを彼女の隣に置いて、再び玄関に向かうと。
「どこ、行くの?」
「薬局。常備薬でも、飲まないよりはマシでしょ」
「……クスリは、嫌」
そう言われてしまうとぼくもどうしようもなくて、どこか釈然としない気持ちのままコートを脱いで椅子に腰掛けた。
彼女は突然押しかけた。土曜日の6時過ぎにチャイムを鳴らされて、外に出てみれば酷い顔色の彼女が出迎えて、「泊めてほしい」と開口一番要求してきた。正直、突っぱねたい気持ちでいっぱいだったが、ここまで体調が悪そうな知り合いを放り出すのは流石に良心が痛んだ。だから、彼女を迎え入れて、頼まれてもいない看病までやっている。
「家は? 一人暮らし? それとも実家?」
「実家。でも、帰りたくない。父さんはお酒ばっかり飲んでるし、お母さんは帰ってこない」
「典型的な家庭崩壊だね。DVは?」
そう言うと、彼女は壁に手を突きながら状態を起き上がらせ、ブラウスのボタンを外し始めた。
「殴られたり、蹴られたり、物を投げられたり。煙草の火を押し付けられたこともあるよ。でも、まだ犯されてないから、その辺りのブレーキは効いてるっぽい」
彼女の体は、打撲痕と火傷痕で彩られていた。長い年月をかけて積み重ねられた、家庭内での暴力。深夜に学校にいる事にも合点がいった。
痛々しい傷跡を見ながら、ぼくは打撲でも火傷でもない傷跡を指差した。
「そっちは?」
「これ? これは……まぁ、察しの通りだよ」
彼女はそう言って、重ねて黒ずんだ切り傷を撫でた。アムカとリスカだ。自傷行為のテンプレート、使った刃物は傷口から察するにカッターナイフだろうか。
思えば、彼女は肌の露出がおおい恰好は好まなかった。
「お母さんがよく言ってたの。お父さんの血が悪いって。小さいころからずっと怒鳴られてた。だから、そんな悪い血が全部流れてくれるようによく切ってたの。そんな事しても、意味なんて無いのにね。ほんと、馬鹿みたい」
「母親に、褒めてもらいたかったから」
「そう。でも、結局お母さんは他の男とくっついて帰ってこなくなっちゃった。お父さんが最悪なのは事実だけど、自分を棚に上げて娘を癇癪の道具にするお母さんも大概だよ。阿婆擦れ、売女」
そう言って、もう何処にいるかも分からない女を罵る彼女が可笑しくて、ぼくは笑ってしまった。
「やっぱり、君は酷い人だ。そこは慰める所だよ? リスカ痕だってそう。汚くないよって」
「そう言ってほしかったの?」
「ううん、全然。同情なんて死んでもされたくない。憐れまれたら、私、そいつ殺しちゃいそう」
「じゃあ、ぼくの反応は正しかった。少なくとも、君にとっては」
彼女の前で優等生の仮面を被らなかった理由も分かった。似た者同士なのかもしれない。互いに家庭環境が終わっている者同士、シンパシーを感じていたとも。
「ねぇ、君の家庭の事も話してよ。私だけ話すのも不公平じゃない?」
「君が勝手に話しただけだろう」
「えー、いいじゃん。話したところで、幸せも不幸も減る訳じゃないでしょ?」
人の事を年齢で語るつもりはないが、ぼくよりも2つ上なのに少々子どもっぽい人だと思った。家庭環境の所為で精神の成長が何処かで滞ったのだろう。でも、その割には自分の身の上に折り合いをつけていて、変に達観している。諦観している。
「……父親の事は良く知らない。物心ついた時からいなかった。ぼくもそれを受け入れていたし、不幸だと思わなかった。母親は……どうなんだろう。そもそも、ぼくはあの女を母親として認識していない」
「でも、君はその女の胎から産まれた。君と女は繋がっている。胎盤で、へその緒で、血で。私達はそういう因果からは逃れられないんだよ。この世界に生まれた以上、私達は結果だから」
「その通りだ。ぼくが何を言った所で、ぼくがあの女の産物である事には変わらないし、屑である事には変わらない」
ぼくはテレビで踊る脚本をぼうっと眺めながら。
「母親はヒステリックだった。殴られたり、蹴られたり、物を投げられたり」
「まるで私のお父さんみたい」
「家庭内暴力はテンプレートだよ。殺さない程度に痛めつけようと思うと、手段は自動的に画一化される」
「それもそうだね。考える事は皆同じなんだ」
結局、家庭に在るものなんてどこも変わらない。ヒトを傷つける事に長けた、一般家庭にあるものなんて多くないし、それを凶器として使用すれば不可逆な結果になりやすいから、鬱憤を晴らす目的では使用しない。包丁が良い例だ。
だから、必然的に原始的な暴力になる。蹴ったり、殴ったり。テレビのリモコンや灰皿を投げたり。
「でも、母親の暴力は高校に上がった時には止んでいた。まあ、ぼくの体もそれなりに大きくなったからね。やり返された場合のリスクを考えたんだと思う」
「馬鹿だね、その母親。やり返される事が怖いなら、初めからやらなければ良かった」
「刹那的に物事を考える人だったから、そこまで頭が回らなかったんだよ。今考えても、思慮が浅はかな女だった」
「ふーん……じゃあ、母親は今何してるの?」
「知らない。風俗か何かで体を売りながら、ホストに貢いでるんじゃないかな」
ぼくがそう言うと、彼女は笑った。「知らないって言ってる割には、随分具体的だね」と。
「学費に充てるつもりで貯めたバイト代を全部引き出されて、ホストに払うチップにされたから」
彼女は大笑いした。今まで見た中で一番の笑いだった。
「君も苦労してるんだね。今は奨学金?」
「学部生の頃はね。今は学校側が全額」
「そうなんだ。じゃあ、今は唯で通えているんだね。いいなぁ」
「そんなに良いものじゃないよ。辞めたいって思っても、向こうにお金を払われているから辞められないんだ。お金に余裕はなくても、学部生の時の方が心に余裕があった」
「そっかそっか」
彼女は壁に背を預けながら。
「うん、面白い話を聞かせてもらったよ。体調も少し良くなった気がする」
「プラシーボ効果だよ。別に追い出したりはしないから、明日までちゃんと寝た方が良い」
ぼくがそう言って立ち上がると、彼女は頬を膨らませて「つまんなーい」と言った。元気そうなのは良いが、生憎と病人に無理をさせる趣味は無い。それに、済ませなければならない家事が溜まっているのだ。
「面白い話を聞かせてくれたお礼に、私のとっておきの秘密を聞かせてあげるね」
ぼくは振り返らなかった。何となく、その方が良いと感じたから。
「私ね、妹がいたんだ。二つ下の、君と同い年の妹。可愛くて、頭も良くて、運動もできて、おまけに性格もいい。何処に出しても恥ずかしくない自慢の妹だったんだけど、私が1年……20歳の時、自殺したんだ」
彼女の声は酷く平坦だった。
「そこから、私は2年休学した。家族が皆おかしくなっちゃってね。お父さんはDVを振るって、お母さんはヒステリックになって。妹が死ぬ前も、私に対してはそういうのが割とあったんだけど、妹がいなくなってから箍が外れたみたいに酷くなっちゃって。復学したのは、もう修復なんてできない位家庭が崩壊したから。なんか、私だけ真面目なのが馬鹿らしく思えてきたから、精々モラトリアムを謳歌しようって思って、全部放り投げて学生に戻ったの」
彼女は「それでね」と言って。
「私、妹が死ぬの、知ってたんだ。知ってて、止めなかった。私に止める権利が無かったから。私は皆が思うほど立派な人間じゃないって、よく言ってた。多分、色々な事に疲れていたんだと思う。学校では優等生、家庭ではストッパー。休まる時間なんてない。今日死ぬって言ってくれた時、私は安心したもん。漸く、妹の重荷を下ろしてあげられるって。妹が死んだら絶対破綻するって分かってたけど、それを理由に妹の死を止めたくなかった。だって、それは私のエゴだから。そしたら、妹はありがとうって言ったんだ。こんな、私に」
ぼくは何も言わない。言うべきではない。彼女の語りを黙って傾聴すべきだった。懺悔のような、告解のような、彼女自身の傷を切開する行為。
「今でも思うんだ。私は、あの子にもっと寄り添うべきだったって。今日も頑張ったね、お疲れさまって。そう言うだけで、何かが変わるかもしれなかったのに……」
彼女は泣いていた。つう、と頬を伝う青。月明かりに照らされた彼女の涙を、ぼくは綺麗だと思った。
「あはは、ごめんね。感極まって泣いちゃった。なんか、君が妹に似ててね。顔とかは似てないんだけど、雰囲気がさ……」
酷い話だと思った。勝手に死者に重ねられて、勝手に泣かれても反応に困る。ぼくはその妹に会ったことなんて無くて、こうやって話を聞くまで知ることすらなかった。深夜2時、ぼくはベッドサイドライトを点けて本を読んでいた。一人のはずの部屋には女の寝息が灯っていて、布の擦れる音が時折響く。不思議な感覚だった。
誰もが寝静まる時間、ぼくは起きている。寝る場所が無かったのも起きている理由の一つだけど、寝ると悪夢を見る確信があったからだ。頭の中に煙を巻かれたように、考えている事が抜け落ちる。窓の向こうからは彼女と少し似ている少女が手招きしていた。
実態はつかめない。残されたへその緒。ぼくはまどろみを突き放す。
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五月五十九日
今日は久しぶりに夢の中で妹に会った。私が何か話しても口を開いてくれることは無くて、ただじっと私を感情の抜け落ちた目で見つめてるだけ。でも、それだけでよかった。
こうして日記を付けている今、私は目を覚ましている。現実にいて、デスクで筆を執っている。だけど、私にその実感はない。膜を挟んだような鈍さ。でも、それに違和感は覚えない。そうやってチューニングされているから。テレビをつけた。昨日の殺人事件を報道している。今は朝の七時。
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結局の所、ぼくにとって彼女は何だったのだろうか。ぼくは彼女の多くを知らない。赤の他人よりは知っているけど、ぼくが知るのは彼女のどぶだけで、彼女の友人が言うような部分は知らない。だけど、彼女の存在がそれなりの重さになっていたのは事実のようで、彼女の式が終わった1週間後に派手に体調を崩してしまった。肺炎だった。
ぼくはガムを包んだ紙を屑籠に投げて、天井を見つめる。殺菌された牢獄。ヒトを健全な
「最近は寝れていますか」
「はい。それなりに」
嘘だ。
「そうですか。看護師が心配していました。貴方の顔色が悪いって。変な心配を掛けないでください」
「そういう年頃だから、大目に見てほしいものです」
「眠れないなら導入剤を処方しますよ」
「いいアイデアかもしれません。どうしても辛くなったら、頼らせてもらいます」
まっぴらごめんだ。そうまでして眠りたくない。
「……彼女さんの事を、引き摺っているのですか」
「驚いたな。最近の医者は、無遠慮にずけずけと入り込んでくるのか」
ぼくがそう言うと、医師は神妙な顔をして首から下げられた名札を胸ポケットから取り出した。精神科医。納得がいった。
「引き摺っているわけじゃない。ただ、今まであった重みが無くなって少し体が混乱しているだけ。あと数日もすれば、ぼくの体のチューニングは済む。今までも、そうやってきた」
「ですが、それは傷が癒えたわけではない」
「傷は癒えるものじゃない。心も体も。ぼくたちは変化しやすいだけで、元には戻らないんだ。復元は全部錯覚で、一度付いた痕は拭い取れない。何もかも元通り、なんて綺麗事を通り越して悍ましい」
焼け付いた光景は離れない。染みついた匂いは拭い取れない。事実、ぼくは彼女の死相を、死臭を覚えている。
「喪ってしまったものは喪われたまま。取り戻そうとしても結局無駄で、欲しいものはイデア界のような、ぼくたちが足を踏み入れることができない場所で不可逆的な非実在になってしまう。補填は効かないし、空っぽは空っぽのまま。それは、ぼくたちのような生者に限った話じゃない。彼女や彼女の妹の様な死者にも当て嵌まる」
彼女が妹の死の真意を知らなかったように、ぼくも彼女の死の真意を知らない。だが、彼女の死に近かった者として、彼女の死についてちゃんと考えなければならない。考えて、遺して、彼女の魂を弔わなければならない。思い上がり、と言われればそれまでだけど、それでもやるべき事だ。ぼくが死ぬまでは、彼女の死を楔にしなけばならない。彼女が妹の死を楔にして弔ったように。
彼女がこの関係をどう捉えていたのかは知らない。ぼくは恋人とか、彼氏彼女みたいなキラキラした関係性とは考えていない。もっとどうしようもない、同族による傷の舐めないや慰め合いだと思っている。その結論は誰に何を言われようが変わらない。だが、他の誰でもない彼女がぼくのことを恋人や、それに値する存在だと思っていたならば、その少女性の責任を取らなければならないだろう。
ぼくはどうしようもない人間だけど、それでも情はある。
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十三月四十九日
夢に意味はない。夢には生物学的な意味が込められていない。個人的な意見だけど、私はそう思っている。夢を見ても私の生活は変わらないし、何かが起きる訳ではない。
だから、この夢も意味がない。妹が恋しそうに海を眺めている光景。何年か前の家族旅行のリフレイン。幸せだったあの時。幸せだと思っていたのは私だけかもしれない。妹は死ねばいいと思っていたのかも。
私は妹を知らない。知ることを許されていない。
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目を覚ますと、瞼が二回ほど引かれあって、それから弾かれた。転がっていたフローリングの温度はひんやりしていて、ぼくの体と同じ温度だった。喉の奥には気持ちの悪い澱みが渦巻いている。点灯したままのPCディスプレイに表示される時刻は午前4時に差し掛かっていて、新たな時間の河を運び続けている。
部屋には勿論、ぼくしかいない。記憶のまま、夜の温度に冷却されている。
けれど、ベッドには誰かがいた形跡がある。二つ分のグラス、きついアルコールの香り。その中に、彼女を感じた。それだけしかないけれど、彼女の存在は夢でなくて、確かに現実に根差したものだった。彼女は此処で生きていた。
ぼくは夜の残滓を吸い込む。
「ナナミ、ぼくは君を許すよ……」
心は凪いでいた。
「それが、愛なんでしょう」
きみが、そうであったように。