私は、恐らくは、裏社会の住人だったのだと思う。
少なくとも人の命を奪う職で、銃刀法がこの国で大きなナイフと拳銃を携帯している程度には良からぬ人間であった。
当然ながら実際の私はそんなことはなく、これはただただ夢の話である。
それでも、この夢があまりに鮮明で、目が覚めた時には吐き気を催して、季節が移ろってなお記憶から消えないから、こうして夢を語ることにした。
どうか、この夢を見たとしても私を恨まないで欲しい。そして、見たのなら教えて欲しい。
これがあなたにも見えるものだったなら、私はきっと誰も殺していなくて、彼女は私を追ってなどいなくて、あぁ、ただの空想でしかなかったのだと安堵することができるのだから。
私は一人の女性を殺した。
高飛車で、お嬢様で、ツンデレキャラの風格があり、そして暗殺者であった。
その日、私は酒場でビールを飲んでいた。繁華街の、人通りの多い商店街にある酒場だ。
商店街に当たり前のようにあるのに、どうやらそこの客は皆裏社会の人間であるらしかった。
一階のカウンター席でビールを飲む私。一人であった。現実では誰かと一緒でなければ酒を飲みに行くことなどないが、その私は一人じゃないと行こうとは思えないらしく、隣の男が話しかけてきても適当に返すばかりで相手にはしていなかった。ビールは美味しかったような気がする。つまみはミックスナッツだった。
しばらくすると、店員が私に声をかけた。上の階で私を呼ぶ人がいるという事だった。
きっと碌なことがない筈なのに、なぜかわからないが私は素直にそれに応じた。
階段を上がり、3階か4階に来た。はっきりとは覚えていないが、2階ではなかったと思う。
一階の盛況ぶりに反して、並ぶテーブルと壁沿いのカウンター席には誰もいなくて、そして、別の建物とここを繋いでいるらしいガラス張りの通路に、一人の女性が立っていた。詳細な服装は覚えていないが、全体的に黒かったように思う。服も髪も全て黒かったような気がしている。
詳細な言葉まで覚えてはいないが、内容をまとめると、彼女は暗殺者で、私を殺しに来たらしい。
なんとなくお嬢様口調で、高飛車な感じがした覚えがある。暗殺する相手の私にツンデレもクソもないが、まるで私のことが好きかのような典型的なツンデレムーブをしていた。こう書くと酷くおかしく思えるが、夢の私は酷く無感情な人間らしかったから、終始ため息と沈黙ばかりを返答として声帯を震わせることを億劫に感じていた。ただ、面倒だなと思っていた。彼女のおかしさに気づけなかったのは、夢だからだったのだろうか。あと、一つだけ弁解しておくと、私は高飛車もお嬢様もツンデレも別に好きではない。
とにかく、よくわからない彼女は私を殺しに来たということである。
その後いくつか問答をかわした。内容はあまり覚えていないが、多分、なんで自分を殺すのか、などの当たり前の疑問を投げただけだった。マトモな返答が返ってきたような印象もないから、きっと無意味な問答に違いなかった。
やがて、彼女はナイフを片手に襲いかかってきた。そして、気がつけば無傷の私が彼女の腹にナイフを突き立てていた。
ここに詳細な記憶がないのは、きっと私がナイフで誰かに斬りかかったことも斬りかかられたこともないからだろう。ただ、結果だけが夢の中で出力されたのだと思う。
彼女の腹から血が溢れる。私はナイフを抜こうともせず、腹に刺したままじっとしていた。柔らかいとか、骨とか、そんな感想はなくて、ただ呼吸とか筋肉の収縮か何かでナイフが小さく揺れるのが生々しくて今もその感覚が残っている。
彼女は私の事を、涙を流しながら、荒い呼吸で、じっと見つめていた。恨み言の一つもなく、抵抗することもなかった。
しばらくして、徐にナイフを引き抜いた。肉に引っ張られる感じが今だと酷く気持ち悪い。彼女は、小さな悲鳴をあげた。
血溜まりはガラスの廊下に広がっていて、きっともうどうしても助かりはしなかった。
だからか、私はそんな彼女にとどめをさすこともなく、一人で階段を降りた。無言の視線は背中越しでもはっきりと感じ取られていた。
そんなことがあった後なのに、私は平然と一階の席に戻るとまたビールを飲み始めた。
頭がおかしいのか、それともこんな事が当たり前だったのか、私にはわからないけれど、少なくとも人を殺したことや命を狙われたことには恐怖を感じていなかった。
不意に悲鳴が聞こえた。上の階からだった。奥の階段に近い席の男が覗き込んで、悲鳴をあげた。
私は彼女が来たのだと思った。心臓が止まりそうな程怖かった。
小さく、ぴちゃぴちゃと、ぬちゃぬちゃと、階段から音が聞こえる。
私は逃げ出した。逃げ出したのに、その足は走り出さず、あまりに普通に歩いていた。
覗き込んだ男が後ずさった。視線は床に向いていた。そこにいる。血は床に広がっているはずなのに、視線の近くの壁に赤が見えた。階段のあたりは血塗れだった。
私は彼女が来たのだと思った。呼吸は荒くなって、心臓がうるさいほど鳴っていた。
満身創痍で、這いずることしかできない死にかけの彼女には、私を害することなどできようはずもないのに、私は恐怖を感じていた。
私は逃げ出した。まだ、歩いていた。
店を出た。客の視線は少しずつ店の出口へ向かっている。
人通りの多い商店街。斜め向かいのドラッグストアに入って、陳列棚の陰から様子をうかがった。
彼女が来たところで何もできるはずがなかった。
商店街に出れば、民衆が驚き騒ぎになり、私を追うことなどできるはずもなかった。
なのに、怖いのである。何が怖いのかわからないけれど、彼女が怖くてたまらないのである。
なぜか死を覚悟し始めて、荒い呼吸で酒場の店頭を見つめ続ける。
そして、そこに赤が見えた時、私の夢は覚めたのである。
幸いにも、そこに現れるはずだった彼女の姿を見る前に、私は夢を脱したのである。
私はまだ彼女を殺した感覚が手に残っている。まだ彼女に追ってくる恐怖を覚えている。
その生々しい夢が半年経った今もまだ忘れられないでいる。
私は、あなたが彼女の夢を見てくれることで、人を殺したことのない私の唯一の殺人経歴が、ただの夢と消える事を願う。