機動戦士ガンダムEXVS InSert Credit(旧:掌のレバーと指先のボタンで、広がる世界。) 作:kaneda_02
●お知らせ(2023/6/6追記)
タイトルを変更しました。
旧タイトルに馴染みのある方を考慮し、旧タイトルは見える形で残しています。
アーケードゲーム感をより強くしたく変更しました。
突然の変更申し訳ないです。
●お知らせ(2023/6/30追記)
オバブ稼働しちゃいましたね。
それに合わせ、本作に置けるエクストリームバーサスの仕様もアップデート予定です。
既存話はクロブ準拠の仕様のままでいこうかと思うので、修正の予定はありません。また、今後公開される話は、しばらくクロブ準拠で進める予定です。区切りがいいタイミングで、オバブ準拠にアップデートします。
●エクストリームバーサス
全国のゲームセンターにて稼働中の大人気対戦ゲーム。
機動戦士ガンダムシリーズに搭乗するモビルスーツを操作し繰り広げる2on2の対人戦が魅力。
大型アップデートや新作発売を続けて、十年以上続いてるすんごいタイトル。
ソーシャルゲームや家庭用ゲーム機が普及・充実する昨今、その煽りを受けるゲームセンター業界において、根強い人気を誇る人気タイトルです。
執筆開始時(2023年4月)では、シリーズ6作目に当たるクロスブーストが稼働中。
●制作のノリ
本作は、執筆開始時(2023年4月)にアーケードにて稼働中の「機動戦士ガンダムエクストリームバーサス2 クロスブースト」をモデルに一部機体に「これがついてたら面白くなるんじゃないの?」と作者の妄想を追加されたものとなります。広い懐で受け入れていただけると嬉しいです。
翌日、修は朝早く自宅を出ていた。
最近はほとんど眠れていない。肉体は、慢性的に疲労を感じている。帰宅する時間が遅く、また一日中活動して蓄積された疲労が昨日までの疲労に掛け合わさるため、家事も疎かになってしまっていた。
何かに追われているような強迫観念のせいで、昨夜も眠りに就くのが遅かった。疲れが解消されないままだというのに、明くる日も修に構わず日々の雑事が、修に対応を要求する。
母のために。
修はそう自分に言い聞かせることで、雑事を完璧にこなしていた。一度髪の毛一本分でも手を抜いてしまうと、以降何ものにも取り組めなくなってしまうような気がしていた。
この日も、修は昨晩遅くまで働いていた母の眠りを妨げないように家事を済ませていた。洗濯を終わらせ、床にモップをかけた。水回りを掃除し、一息をつく間もなく母の分の朝食を作った。休日の朝食作りは率先して買って出ていた。しかし、すっかり食欲が減衰してしまっていたので、修は自身の朝食をコンビニエンスストアで買ったパックのゼリーで済ませることにした。
最近は母の顔を見ていない気がした。
日曜の朝、まだ人の少ないゲームセンターは、普段とは違った表情を見せていた。
多くの筐体がデモプレイを流している。節電のため、デモプレイを流している筐体は音を出力していない。光の賑わいに反して店内はひどく静かだ。モニターが放つ光だけが、一号館の地下一階を支配していた。
修は、エクストリームバーサスの筐体の長椅子に座ってゼリーの封を切った。飲み口から中身を吸い出す。粘性の物体が口内に入ってくる。修は、無感動にそれを食べた。
食べ終えてから、修は筐体のスリットに百円を投入した。
途端、筐体からけたたましいサウンドが鳴り響く。カードをかざすと、画面にプレイヤーシュウのゲームデータが表示された。
鳴り始めたテーマ曲を背景に、画面にダイアログが表示される。
『このゲームデータを使用しますか?』
修は、迷わず下部の選択肢から『はい』を選択した。
プレイヤーシュウを認めたエクストリームバーサスが、ゲームを始める。
筐体から放たれるサウンドが、修を包んだ。
修は、ゲームをやっている間だけ自分を麻痺させることができた。
幼馴染の頼みであること。
与えられた役割に甘んじることは、僅かではあるが修を重圧から開放してくれた。
修は、ゲームの虜になっていた。西日とガンダムを結びつける。孤独を感じるリビングダイニングのイメージを、ガンダムで上書きしようとした。
叶は、エクストリームバーサスの公式ホームページを眺めていた。機体選択一覧画面だった。
「フルアーマーダブルゼータはどうです? ばぁってミサイルいっぱい出ますしビームが太くてすごいですよ」
「タイマンで足遅い形態使えねぇだろ。それよかインフィニットジャスティスはどうだ? ストライクフリーダム並みに足がはえーぞ」
「アタシは、インフィニティジャスティスよりジャスティス派かな。背中のリフターがメカメカしいじゃない。ちなみにユニコーンはどうかしら?」
叶を囲うように秋久、巧、苺があれやこれやと機体名を列挙する。しまいには、叶のスマホ画面に各々が指を伸ばし、自身のオススメキャラをタップ、詳細画面を表示して、叶を置き去りに議論が始まっていた。
「少し黙ってくれ!」
堪らず叶は席を立った。
昨夜、西鉄天神駅の階段下で別れた後から今に至るまで、叶は使用機体を考え続けていた。しかし、考えれどもどの機体を使えば良いのかわからない。ストライクフリーダムとの相性はもちろんのこと、自身のプレイスキルにそぐわう機体であることや控えている試合がそもそもタイマンであることを考慮に入れると、中々これという機体が思いつかなかった。
そうして悩みを抱えたまま二号館に集まると、昨夜解散してから各々が考えたオススメ機体のプレゼンが始まったのだ。
叶は、静かに考える時間が欲しかった。
「…………」
三人が、驚きに表情を固めている。藪から棒の中断の声に、言葉をなくしていた。
「ご、ごめんなさい」
秋久が、誰よりも早く我を取り戻した。心底申し訳無さそうに俯く。そうすることが彼の処世術なのかもしれない。
叶は、秋久の所作にチクリと胸がいたんだ。
叶は、その痛みをはっきりと自覚した。幼馴染以外をどう傷付けようがお構いなしだっだ自分を思い出す。
叶は思った。
修と優花と向き合うことは決めた。
が、他はどうだ、と。
少なくとも、目の前の三人を傷付けたくないと叶は素直にそう思った。
だから、叶は三人に言った。
「三人が俺のために考えてくれたことはわかる。それは、それは、……すごいありがたい。だけど、一遍に話されてもわからない。だから、一人ずつ頼む、な?」
叶は、慎重に言葉を選びながらそう言った。我ながららしくないことを言っていると思う。そう思う程度には、幼馴染以外に気配りをすることは慣れない作業だった。
「なにそれ、何だか気持ち悪いわ」
苺が、おかしいものでも見たかのようにコロコロと笑い出した。自分の態度がおかしかったのだろうか。確かに、叶は自身を省みてらしくないと思った。
「言うなよ……」
叶は口元を覆って表情を隠した。照れ隠しだった。
「じゃあとりあえずやってみようぜ? あれこれ悩んでても始まらねぇ」
叶は、巧の促しを受けて椅子に座った。左右の筐体では、三人が百円とカードを用意していた。
秋久が、口の中で小さく意気込んでいる。
苺が、手慰みに弄んでいたヘアゴムを指先で回転させてから握った。
巧が、叶を指差す。
「付き合うぜ」
叶は頷きを返した。
クレジットを投入する。
叶は、叶を挟んでチームを分けている三人をよそに、ふと思った。
叶は、三人に対して自分の感謝と要望を言葉にして伝えた。だが、修や優花に対して今までどうだったのだろうかと。
あの雨の日、叶は、自分なりの幼馴染への向き合い方が修に理解されていなかったことにショックを受けた。今思えば、その向き合い方自体が間違っていたのだが、しかしそれ以前の問題として、叶は修に自分なりの向き合い方を伝えていなかったことに気が付いた。
伝えていたのならば、今とは違った結末があったのではないか。
叶は、苦笑した。
「どうしたんですか?」
モード選択の締め切り時間が迫り、ペアを巡って頭上でヒートアップする巧と苺を置いて、秋久が叶の苦笑に目敏く気が付いた。
「おかしく思えたんだ。ニュータイプなんてロマンチストの考えだってさ。だから、オールドタイプの俺は、オールドタイプなりに足掻くしかないんだ」
秋久が首を傾げた。
「クソみたいにつまらないことで悩むくらいなら、手と口を動かせってこと。受け売りだけど、本当にそうだと思ったんだ」
秋久が、長い前髪の間からはっきりとわかるくらい目を見開いた。秋久にとって、何か意味のある内容だったのだろうか。
そうですね、と言い残して秋久が筐体に腰を落ち着けた。その指が、デバイスを操作する。
四人の筐体は、チームメンバー選択画面へ遷移していた。相変わらず誰が誰と組むか揉めている巧と苺に、選択画面の制限時間は構わない。気が付けば、あと僅かで制限時間がゼロになろうとしていた。
秋久は、一瞬躊躇ってから同タイミングでチームモードを選択していたプレイヤー、即ち叶と巧、苺の中から、苺を選択した。
叶は、秋久の意外な一面を見た気がした。引っ込み思案だというのに、素直で思い切りがあるのだと評した。久しぶりに優花と一緒に登校した朝のことを自然と思い出した。叶は、赤面症がそうさせるのか、はたまた秋久が苺に抱く感情がそうさせたのか、加速度的に赤味を増していく秋久の横顔に自分を重ねた。
叶は、秋久を尻目に巧を選択した。今の叶ができる精一杯の応援だった。
――……あいつも、今の秋久と同じだったのか……?
モニターに視線を動かすと、脳裏を彼女が過った。大人顔負けのスタイルと華のある容姿が特徴的な女子とは、体育祭の後から付き合い始めた。
叶は、彼女のことを性欲の対象として見ていた。思えば、彼女を恋愛対象として扱ったことは一度もない。熱い腕が叶の二の腕に絡まった時、叶は同じ位の熱量でそれに応えたことがなかった。
自身の決意を思い出す。
向き合うと決めた今、彼女との関係も精算しなければならない。叶は、彼女に送るメッセージを考え始めた。
「な? やっぱり俺の幅広い機体選択スキルが活きてくるわけだわかったか?」
「くぅぅ……。叶! 次はアタシだからね!」
ようやく筐体に向かった二人は、叶と秋久のやりとりに気が付いていなかった。
「で、ダイバエースを使ってみた感想はどう?」
欠伸をしながら隅の筐体に向かう仁を一瞥し、徳人はシュウに問いかけた。
仁と共に徳人がゲームセンターに訪れた時には、ゲームセンターはにわかに活気づき始めていた。時刻が昼に迫っていたため、徳人はその手に紙袋を持っていた。駅の真横にある商業施設、その地下一階で購入したパンが中には入っていた。
「食べる?」
徳人は、シュウに適当に取り出したパンを差し出した。絵に描いたようなアンパンだった。シュウは首を振った。今のシュウに食欲がないということを知った上で、徳人はシュウの体を案じ提案していた。経験則に基づいていた。
「コンセプトがわかりやすいと感じました。接近戦に強く調整された性能ですが、中距離の射撃戦もこなせる。明確に狙いたい武装がハッキリしていますし、それを当てるために自ら道筋を作り出す力もありました」
ツラツラと述べる内容に、シュウ特有の生真面目さを感じた。ひどく窮屈そうな横顔だった。
「でも僕には向いてません」
端的にそう結論付けた理由を問う。
「それは何故?」
「僕は今までストライクフリーダム一択でした。ストライクフリーダムは、中距離を射撃主体で戦う機体です。前サブ射撃やドラグーンを使った近接戦闘を仕掛けることもありますが、優秀な機動力と強力な射撃を持っているので、元来ストライクフリーダムは中距離戦を好む機体だと思っています」
正しい考察だと徳人は思った。
エクストリームバーサスは、究極ミスをしなかった陣営が勝つゲームだ。総コストや体力は、減点式で少なくなっていく。ある一点まで減点されたタイミングで機体が撃破され、最終的には試合に負けてしまうゲームだ。
減点されたものを取り返す術はないと言い切って問題ない。厳密に言えば、体力を回復することができる機体もいるが、それを考慮に入れてゲーム全体を語ることはできないと徳人は思う。その機体は、相手にダメージを与えることで体力を取り戻す。であれば、それは見方を変えると体力を奪われた側のミスが招いた結果だからだ。
故に、減点に繋がるミスをどれだけしないかが、レベルの高い相手との試合では重要になってくる。
それを踏まえた上で、徳人は正しいと思った。
「だから、僕は積極的な斬り合いを避けてきました。強いて言えば、どうしてもダメージを取らなければならない場面やどうしても戦局を有利に傾けたい場面、相手が積極的に斬り合いを仕掛けてきた場合に限り近距離での戦闘に臨んできましたが、それも射撃を中心に据えたものです。つまり、僕には圧倒的に斬り合いの経験が不足している」
シュウの自己分析を聞きながら、徳人はアンパンを齧る。冷静な自己分析は、かつてハルヒが行ったアドバイスの賜物だろうか。
「でも、ストライクフリーダムと似通った部分もあると感じました」
シュウは、コントロールパネルのレバーを弄んだ。それは、シュウの考えをまとめる手助けをしているように思えた。
「ダイバーエースは、高い機動力を持つ機体です。特殊格闘のダイバーエースユニットと格闘CSのTRANS-AMは、短期間ですがダイバーエースの機動力を向上させます。それは、攻めはもちろん、コストの壁を超えた回避を可能にします。あの圧倒的な機動性能は、ストライクフリーダムの全力に近いものでした」
徳人は、修の独白を聞いた。途中から、修は自分の思考に潜り込んでいくかのように瞳の焦点を曖昧にしていった。
「では、君はどうする? その上で何を選ぶ?」
突如、背後から男の声がした。
ハルヒだ。
「思うに、コストを下げることにしたが、使う機体に悩んでいるのではないかな? 一方で、二千五百コストのブーストに一日でも早く慣れる必要を感じている。故に、君は見慣れたダイバーエースを選択した。違うか?」
徳人は、ハルヒの声音に鋭いものを感じた。
ハルヒは、ゲームに心血を注いでいる男だと思う。華奢な体は、自身の好きなものにその身から切り取ったエネルギーを費やすことで形成されたように感じられる。
格下であっても容赦はしないスタイルは、ハルヒがゲームに注ぐ熱意が並外れたものであるからこそだった。
そのハルヒが、背後にシオを伴い長椅子に座ったシュウを見ていた。シュウの意志を見定めようとしていた。
「その通りです」
シュウは、ハルヒに向き合っていた。恐ろしい程の執念を感じさせる横顔だ。
「でも、僕は叶に向き合わなくちゃいけないんです。そのために、ガンダムが必要なんです」
「それはガンダムで、ゲームでなければならないのか?」
陽介は、シュウを確かめた。
ゲームは、どこまでもコミュニュケーションを楽しむものであって欲しい。
そのゲームで、幼馴染と戦う理由は何だというのだ。
痩せた頬。睡眠不足を感じさせる目の下の隈。昨日、ゲームセンターから立ち去る頃には、シュウは心底疲れ切ってしまっていた。遊び疲れたわけでも、集中で気疲れしてしまったわけでもない。自分を損なってまでもゲームセンターに通うシュウを、陽介は見ていられなかった。
そう思うからこそ、確かめずにはいられなかった。
「はい」
シュウは、ハッキリとそう返答した。
鬼気迫る表情に、思わずたじろぐ。
陽介は、シュウの尋常ならざる決意を感じ取った。
「叶が、僕にそう望んだんです。僕は、それに応えなければならないんです」
陽介は、シュウのその様に諦めを得た。
自分が何を言ったとしても、シュウが今すぐゲームを楽しめるようにはならない。
陽介は、目の前の少年に対して力不足を感じた。そうだとして、それでも踏み込めない大人らしさを今ばかりは呪った。
「大丈夫」
陽介は、ノリの穏やかな声を聞いた。
「君なら大丈夫。カナタ君の願いに君なら応えられる。僕達が、その手伝いをする」
ノリは、アンパン片手にシュウの肩に手を置いた。シュウに言い聞かせるように、ゆっくりと唱えた。
「僕達は、君達の味方だ」
陽介は、シュウが僅かに瞳に色を宿したのを見た。固い決意に暗く染め上げられた瞳が、微かに揺れたのだ。
それは、ほんの一縷の希望のように思えた。
「……ありがとうございます」
シュウが拒むように俯いた。
葛藤の中にいつものシュウの一面が垣間見えた。ひたむきで真摯に物事に取り組むシュウだ。
シュウは、揺れている。陽介の素直な感性だった。
シュウは、自分を許せないのだ。
カナタから逃れること。
自分を認めること。
それらが許せないのだ。
ただ、その一方で救いを求めている。だから徳人が差し出す手を思わず取りかけた。
何か、ほんの少しのきっかけでシュウは自分を許すことができるのではないか。
陽介はそう思った。
徳人には覚えがあった。
今のシュウは、他人の善意に鈍いのだと。
思考が自分の中に沈んだ結果として、時に人は他人の善意に疎くなる。自分のことで精一杯になるからだ。今のシュウが正にそれだ。
自分で自分を追い込んでしまった結果、他人の善意に気が付けなくなる。そうして思考はより深く暗闇の中に落ち込んでいく。やがて暗いトンネルの中からどうやっても抜け出せないように思えてくる。
その時は、自分は一人ではないと伝える存在が必要だ。言い聞かせるのではなく、感じ取らせるのだ。
自分がかつて仁に救われたように、シュウもそうであれば良いと徳人は思う。
「であれば、協力しよう」
ハルヒが、シャツの袖を丁寧に折り畳みながら前に出た。ハルヒの正面には、筐体がある。
「ストライクフリーダムで培った経験を活かすことができる機体。中距離の射撃択が豊富な機体。君が存分にその腕を振るうことができる機体を」
「叶……ってどうしたの!?」
苺は、階段を降りて待ち合わせ場所にやってきた叶の顔を見て駆け寄った。西鉄天神駅の階段下、夜の雰囲気を微かに孕み始めた秋風を和らげるためパーカーのジッパーを一番上まで引き上げていた。
いつもより早めに練習を切り上げ解散した後、苺は叶に連絡を取っていた。帰宅には若干早い時間であることを建前に、暇潰しに付き合うよう声をかけていた。ただ叶と一緒にいたいというのが本音だった。
人と合う用事があるからと一度は断った叶だったが、集合場所と時間を一方的に苺は送りつけた。叶の性格を踏まえ、苺はあえてそうした。頼みを断れない性格を利用することに申し訳無さはあったが、そうでもしない限り自分と叶の関係性は進まないと思えた。
「あぁ……これ、な……」
往来を駆け抜けて叶に近付いた。苺は、思わず赤く腫れ上がった叶の頬に触れていた。心配が何よりも勝った。触れた頬は、熱を帯びていた。
「引っ叩かれた……」
穏やかな表情は、頬の痛みを真摯に受け止めているようだった。当然の報いとして受け入れているような、そんな叶の心情が伺い知れた。
「誰に……?」
苺は困惑していた。叶を痛めつけた相手に対し、怒りがある。しかし一方で、落ち着き払った叶の振る舞いが、怒りをボヤけさせていた。苺は叶な胸の内がわからなかった。だから、説明を求めた。
叶が、遠慮がちに苺の指に触れる。ゆっくりと苺の手を頬から引き離した。
「元カノ。いい加減な気持ちで付き合えないと伝えて別れを切り出した。そうしたらさ、だったら最初から付き合わないでってさ。最初は俺のことステータスとして見てたろうに、いつの間に本気になったんだとは思ったんだけど……、責らんないよな」
言って、叶は背筋を伸ばした。その腫れた横顔には、言葉とは裏腹の清々しさが同居していた。ようやく一歩を踏み出せる、そういった風情を叶はまとっていた。
「元カノ……?」
苺は、今しがたまで叶の頬に触れていた指先を擦り合わせながら叶の言を反復した。聞き逃がせない単語だった。
「あぁ。ついさっき別れたから、元カノ」
姿勢を正した叶が、警固公園に歩を向けた。その背中を見ながら、苺は叶の返答を反芻していた。
ついさっき別れた。と、いうことは……。
叶がズボンのポケットに手を入れた。腕と胴体の間に、一人分の隙間ができていた。
「時間、潰すんだろ? 行こうぜ」
我を忘れていた苺に、叶が振り返る。思わぬチャンスは、苺にとって青天の霹靂だった。叶に今、恋人はいない。
「うん!!」
苺は、叶に走り寄りその腕を掴んだ。勢いのまま往来を先導する。顔が熱い。
「おい! 危ないって!」
突然腕を引っ張られた叶がつんのめる。バランスを取り戻そうとしたためか、叶は苺の腕を振り払った。
「ごめんごめん! いこ!」
高揚した苺は、横合いから差し込む西日を幸いに感じた。茜色のそれは、きっと苺の表情を上から塗りつぶしてくれている。胸中に抱く好意と興奮を上手く表現する方法を苺は知らず、また相手に好意を伝えることに苺は照れくささを感じていた。
人を好きになったのは初めてのことだった。
振り返った先、叶が呆れたように嘆息した。振り回し振り回される関係の苺と叶にとって、それは定番の表情だった。
見慣れた表情には、西日のせいで半分影ができていた。苺は、自身の好意を自覚するばかりで、叶の遠慮に気が付かなかった。
叶は、苺の好意を肌で感じていた。異性に好意を向けられることが常態化していた叶にとって、それを感じることは難しいことではなかった。
顔を赤くしながらも苺を選択した秋久の横顔が、思い起こされた。
自身が真に好きだと慕う存在を思った。
譲れない感情を胸に、叶は跳ねるような足取りで前を行く苺を追った。苺にいつか伝えなければならないと、叶は考えた。