1.真偽の家
束から外れた紙片が、吹雪となって宙を舞う。
広めにとられたその一室は、いわゆるVIPルームというもので、調度品には洒脱さと気品を調和させた逸品が揃っている。
その中に招かれた男は、その恰幅の良い肉体をわななかせた。
彼の凝視する先に、恐怖の対象が在る。
「申し訳ありませんが、
と、恭しく手を揃えて頭を下げる、彼の数分の一ほどの骨格しかなさそうな痩躯の小男。
彼に、気圧されて伊深は後ずさる。
「当オークションにおきましては、キャッシュで即日払い以外でのお支払いは、かたくお断りさせていただいております……まして、偽札などもってのほか」
物腰こそ柔らかながらも、その声は心の臓を握るかのような印象を相手に刻み付け、その響きは如何なる逆上の隙さえ与えず、発するたび、確実に相手を追い詰めていくかのようだった。その威に従わせられるように、背後にはSPが首を揃えている。
「ま、待て! 騙すつもりはなかったんだ! 金はまた後日用意するっ」
などと、言い訳がましく両の掌を突きだす彼が恐れているのは、厳密にいえば彼に対してではなかった。
ましてや屈強な黒服たちではなく、VIP待遇で同席している謎の白服連中でもなく。
際限なく影を膨張させていく、異形の従者だった。
「申し訳ありませんが、
その腰はあくまで低く、だが翻意や懐柔などあり得ないという絶対的な態度で。
身じろぎと共に後ろの異形が動き出す。やがて逃げようとする伊深の影とソレの影とが重なり、断末魔と共に一体化していく。
その過程を、やや引き攣ったように黒服たちは見守り、一部例外を除いて白服たちはノーリアクション。
だが、わずかな気配と物音が背後から聞こえてきた時、
「何者だ?」
機械的な誰何の声と共に、ぐるんと背後を顧みた。
見れば、閉じたはずの扉の口が開いている。そこから遠ざかる足音が聴こえる。
声と同じく機械的な動作で、その足音を白い詰襟の集団が追う。
拳銃は携行しているものの、取引相手の施設である。用いることなく、追う。
廊下に躍り出て逃げていた男の背が見えてきた。黒いベストに、それに類する深い色味の濃紺のシャツ。その向こう側で、トイカメラらしきアイテムが大きく左右に揺れている。
つかず離れずの追走劇がしばし続いた後、その若者は緩やかに速度を緩め、余裕のある感じで足を止めた。逃げ切れないわけではなかっただろうが、尾行されれば面倒だと言う判断かららしい。
その彼の体勢が整うより先に、白いエージェントたちは追いつきざまに波状攻撃を仕掛ける。個人的な肉体能力もさることながら、集団戦にも慣れた、統率ある動きだった。
しかし黒い服の青年はその波間を容易く掻い潜る。そして個々とのすれ違いざまに、致命的な一撃を叩き込んでいく。
あるいは肋骨から呼吸を絞り出すような拳を。あるいは器官全体を麻痺させるような強烈なミドルキックを。
そしてなお追い縋る者たちには、振り向きざま飛び上がって回し蹴りで頭部を薙ぎ倒し、あるいは観葉植物で相手の進路を妨げつつ、自身は長い脚で白服の腹を叩いて壁に打ちつける。
だが最後尾より現れた堂々たる大男が、彼の前に立ち塞がる。その巨躯を活用し、体重を乗せて殴り掛からんとするのを、青年は脇に身を逸らして避けた。
そしてそのまま男の背後に回ると、自らの肉体と機材をつなぐストラップを男の首に巻いて、そのまま締め上げた。
圧迫される動脈をどうにか解放せんと、猛牛のごとく巨漢は荒ぶるが、むしろ青年はその暴威をこそ待っていたかのように、利用した。
あっさり紐を緩めて男の抵抗を空ぶらせ、だが独楽の要領で勢い余った巨体を旋回させると自らもその回転に乗って踵を男の下顎へとヒットさせた。
ぐるんと目を回して昏倒する男。敵を残心とともに見下ろすと、青年は自身の敵が完全に無力化されたのを認め、構えを解いた。そして、息を整えつつもそれ以上の探索は無謀と悟り、次なる追手の掛かる前に、その場を後にしたのだった。
「……逃したか。まぁ良いでしょう」
虚勢とも思えぬ、落ち着き払った語調で、取り残されていた男はそう言い放って直属の部下たちの追撃を禁じた。どのみち、吹聴したところで信じる者などいないし……もし直接危害加える目論見であるにしても、この無敵の『衛士』を、どのように破ると言うのか。
彼らは一も二もなく、雇い主の意向に従う。彼らを忠実たらしめているのは、男の小さな背の向こうにいる、
そんな彼らの引き気味の様子を知ってか知らずか。ゆったりと腰を曲げた男は、そのまま地に落ちた紙幣の一枚を拾い上げ、テーブルの上の、本来それで贖う予定だった絵画の横に置いた。
「嘘をつき、他者を欺くこと。それ自体は罪ではない。それを貫き通せない弱さこそが、罪」
そして、誰に聞かせるでもない自論を展開するのだった。
そこは、オークションハウス『審美会』。
燦都グランドホテルに隣接し、一般にも開放されたその施設の深奥で、訪れた人々のほとんどが感知できないままに、その凶事は行われたのだった。