目的地の中途までは飛翔できた千里ではあったが、そこから先は、エレベーターを使うわけにもいかなかった。仮に稼働していたとしても、敵が追ってきている中での動きようもない、いつ外から侵入されるかもしれない密室は、死地そのものだ。
よって、自らの足で非常階段を上るより他ない。
途中、躓きそうになる。一段ごとに、意識は遠のき、そのまま天国へ登っていきそうだった。
(いや、俺が選んだのは地獄の道だ)
階段を出て目標の階に至ると、刹那の気の緩みから、膝から崩れ落ちた。
こうなっては一度寝そべり、呼吸を整えるよりほかない。
「くそっ……あいつ、躊躇いなくブチかましやがって……」
と毒づく。あれ以外に術は無かったにしても、郁弥の必殺技の直撃は千里の内蔵器官を大いに痛めつけ、ドイルドライバーにも多少ならずダメージを与えた。こうして変身をしたまま、動けることが奇跡に近かった。
気力のみで立ち上がり、壁に手をつき我が身を支えつつ、先へ。
かつてはさほど苦とも思えなかったこの廊下を進むことが、自身の名の通り、千里の道を十字架を背負って行くかのような、重苦を伴うものとなっている。
そうして、至る。
非常灯のみ点いたその部屋で、まるで物のように、ジャバウォックの容れ物だけが暗黒に沈んでいる。
「……和灯千里、なのですか?」
その闇の中から、声がした。その声は強化ガラス越しだというのに、不思議とよく通る。
ダイヤモンドのように硬質で、他を受け付けない冷たさを帯びた声。
「こんばんは。珍しい時間帯での訪問ですね」
ロボットじみた語調で社交辞令を述べる姿の見えないジャバウォックに、コンソールを弄りながら、
「説明は後だ。ここから出るぞ……くそっ、俺のアカウント締め出してやがる! やることに抜かりがないねぇ……」
苦笑とともに毒づく。
「なぁ、内側から開けられないか?」
「…………この部屋ならびに施設から当個体を持ち出すことは、第一級禁足事項に当たり」
「んな建前はどうでも良いんだよ! お前、ホントは自分で出来るんだろっ、このままだと殺されちまうぞ!」
沈黙は続く。無駄な足掻きと知りつつ、タイピング音を打ち鳴らしてその返しを督促する。
「――無意味な行為です。私は、ここから出ることを望んではいません」
そして冷たい響きが、谺した。
ガラスの向こう側にかすかに宿る瞳の輝きは、無機質という言葉では片づけられない、静やかな光を湛えている。
「……知ってたのか、お前。それを、受け入れるってのかこれは」
「霧街郁弥に、直接言われました。私は、この世にあってはならない道具だと。分かってくれと……その道理は、人類の側にとっては正論そのものであり、私を人間から遠ざけ、人知れず排除するという判断が誤りとは思えません。今、貴方のしようとしていることはその『人道』に真っ向から反する行為であり」
「そんなことは聞いてない。お前はどうしたいかってハナシなんだよ」
「先にお伝えした通りです。私は自身の危険性と運命を受け入れている。貴方は、勝手な憶測に基づく同情と憐れみから、私を救おうとしているに他なりません。迷惑なだけです」
「……迷惑、そう思うだけの、心はあるんだろ」
今まで見てきたからこそ、分かる。
この辛辣な拒絶は、意図的なものだ。意固地になっているからこそ、その声は硬質で冷たいものとなるのだと。
本当に感情なく事務的に接しているのなら、こんな異常な状況にも平然と、噛んで含めるような言い回しをしたことだろう。
「そもそも、今お前は『救おうとしている』って口にした。本当に死にたいなんて考えてるヤツのセリフじゃない。つまり自分の命を救われようとしているって認識は、お前の中にあるってわけだ……生きたいんだよ、お前は、根っこでは」
「…………」
「……なんてな。初めてお前相手に、探偵らしい
千里はそう言って、マスクの奥で苦笑する。
「本当に、迷惑な男だ」
初めて、明確な感情が、ジャバウォックの声に乗った。
耐えかねた末の怒り、それが熱として混じる。
「今更っ!!
ガラスの牢獄が揺れる。闇の中、巨大な竜の形をした何者かが、怒号とともに蠢いた。
「僕はそんな自分を受け入れていたっ! 何も想うことなくここで死ぬつもりだった! それなのに、あんたはそんな僕に世界を説いた! 命を語った! 情けを施した! 僕にとって、それがどれほど苦痛で、迷惑なことだったか……っ、それをそんな……無意味なことを、自分が、ボロボロになってまで……」
「――すまない」
ガラス越しに打ち付けられた異形の脅威よりも、最初の烈しさよりも、次第に涙を帯びてくる語尾こそ、千里にとっては堪えた。
「だからせめて、その罪滅ぼしと、埋め合わせをさせてくれ」
「……安い同情なんて要らない」
「それだけじゃない」
正直に認めるのは耐え難かった。あえて口にすることでもないとは分かっている。それでも、あえて言わねば進めない。
「もちろん、お前の言うとおり同情や憐れみはあったよ。会えない息子に出来なかったことを、お前に重ね合わせてしていたフシはある」
「……」
「でもそのうち、本気で想ったんだ。お前と一緒に、外に出たい。世界を廻りたい。燦都を見せてやりたい。お前を晶灯や照真と引き合わせたい……夢と現を、一つにしたい」
「そんな、そんなこと、赦される、はずが」
千里はコンソールから手を離す。ガラスに手を寄せる。
先に彼自身が言う通り、こんな分厚い障壁越しに見たところで、相手の何が伝わるわけもない。
それでも、この時想いは貫通する。この檻も、偽りの肉体も怪物の姿を超えて。
「大丈夫だ。世界はお前が考えてるほど狭かない。お前一人受け入れる懐の深さはあるんだ。だから、こんなとこ出て、俺と一緒に行こう、な?」
その言葉はどこまでも優しく、甘い。
だからこそ、誰にもそんな言葉をかけられたことのない若者の、生まれたばかりの
迷い苦しみながらも反射的に、本能的に、ガラスに触れるその指先へ、ジャバウォックもまた手を寄せる。
透明の壁越しに、彼らが触れ合う。
その間際に、音が弾けた。
次の瞬間、思いがけない衝撃に、千里の上半身は非生物的な動作とともに前後に揺れた。背後から飛んだ一筋の翠。その弾丸は、シャルロックの装甲さえも貫通し、マスクの奥に、血が溢れる。通気口と傷口を介して、外へと流出する。
「行くところまで行くしかない。そう言ったのは、お前だ」
顧みれば、蝙蝠の男がいる。
「まさに今、それを噛み締めているよ……和灯」
銃口を取り付けた杭を傾けて、揺らぐことのない眼差しが、青銅色のマスクの奥底で閃く。
「いく、や……」
ゆっくりとその男の方角を顧みた千里は、その姿勢のまま、風穴を開けられた肉体を倒した。
後ろ手についたガラスに、血の手形をベッタリと残して。
「……あああアァァァァァアアアア!」
それを目の当たりにした
いずれにせよ、己でさえ理解出来ない衝動のままに、異形と化すとともに、白き黒きフェアリーは、エネルギーを全方位に解き放つ。
その閃光はガラスの籠を内側から砕くと同時に、部屋を占め、やがて建物全体を巡りながら支柱を焼き砕き、その動力の中枢を食い破ったのだった。
――そして、崩壊が始まった。