アストンマーチャンは海に呼ばれ、帰って来た。しかし、海の呪いはトレーナーに降りかかる……

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記憶の印、消えない跡

 

春、暖かな日差しにつられて花が咲き、様々な命が芽吹く季節だが、ある者にとっては忌々しい季節であった。

 

アストンマーチャンの名を冠する少女は、春とは“仲が悪かった”。具体的に言えば、春にはいつも病気になっていた。風邪やら鼻炎やら胃腸炎やら、そういうものにかかるのが通例だった。

 

今年の春はより彼女を“嫌っていた”。バレンタインの時から彼女の周辺はおかしかった。それはまるで彼女だけ孤立しているような、世界から無視されているような。そんな不思議な嫌われ方だった。

 

彼女は海に“呼ばれた”。誰もが上流から下流へ、命は流れて海へ行く。彼女もその時が来たのだと。それを彼女の専属レンズたるトレーナーは彼女を引き留めた。彼女を映し続けたいと、夢を叶えたいと、強く彼女の手を握って引き戻した。

 

そして二人は帰って来た。彼らが進むべき道に。

 

 

 

春は過ぎた。夏がやって来た。

 

真夏とは言えないが日は高く地面を照りつけ、何とも言えぬ空気を作り上げていた。

 

そんな汗ばむ日のこと、そのトレーナーは食堂で食事を取っていた。特に何も考えずに注文したカレーを口に運ぶ。それは栄養補給の意図が強かった。

 

「おやおや~?そこにいるのは我が愛しのトレーナーさんではありませんか?」

 

アストンマーチャンは少しふざけた口調で彼に話しかけ、隣に座った。その盆には山盛りのカツ丼が鎮座していた。

 

「あ、マーちゃん。こんにちは。愛しのだなんて照れるなぁ」

 

「ふふん、こんなことで照れてしまうなんて、トレーナーさんは“クソザコ”って奴ですねぇ~?」

 

「なぁに、どうせ俺を攻略する人間なんていないさ。はは」

 

軽口を叩き合いながら箸とスプーンをそれぞれ進めていた。

 

「んん?あれは先週行った所ではありませんか?私達、時代を先取りしています。へへん。」

 

「ん?」

 

「ほら、あのテレビで流れてるお店ですよ」

 

マーちゃんの指指す方向には薄型テレビがかけられていて、お昼の情報番組がやっていた。その特集としてあるカフェが紹介されていた。

 

「あそこのパンケーキは美味しかったですねぇ~。また今度行きませんか?」

 

「……行ったっけ……?」

 

彼は疑問に思った。先週にそんなカフェになど行った記憶も、パンケーキを食べた記憶も無かったのだ。

 

「はて、面白い冗談を言いますね?」

 

「冗談じゃないよ。そんなこと覚えてない」

 

彼女は不快に思った。先週、彼と買い出しのついでに確かにそこへ行き、パンケーキを食べたのだ。その時の味や匂いや空気、その時話した事でさえも鮮明に覚えている。だから、彼がそのような言い草をする事に憤りを感じざるを得なかった。

 

「およよ……あんなに楽しかった思い出を忘れてしまったのですか?マーちゃんは悲しいです…」

 

「いや、すまない。本当に思い出せないんだ。もし本当だとしたら忘れる訳ないし、思い出そうとすると頭にモヤがかかったようで何もわからないんだ」

 

彼の表情は真剣そのものだった。ふざけている要素など全く無い。そもそもこういうふざけかたをする人間でもない事を知っていた。だから、彼女は信じざるを得なかった。

 

「むむむ……」

 

それが始まりだった。

 

 

 

それから数日間は何事も無く過ごしていたが、ある日の昼に彼は彼女を呼び出した。

 

「こうやって呼び出したのはちょっと困った事になったからだ。落ち着いて聞いてほしい」

 

「わかりました。マーちゃんはいい子ですからなんでも聞きますよ」

 

「最近過ごしてて気づいたんだけど、記憶に穴が空いてるんだ。最寄りのスーパーへの行き方とか、どこに何がしまってあるかだとか、鮭のムニエルの作り方だとか、この前みたいな、お出かけした記憶とか」

 

彼女は静かに相槌を打つ。

 

「だから、こういう時は素直に病院に行くべきだって前にどっかで見たから、行ってきたんだ。病院。そしたらさ、どうやら俺は“記憶が抜け落ちる”病気らしい。虫食いみたいに所どころ記憶が無くなって、消えてしまう。仕組みも治療法もわからない、珍しい難病だそうだ。」

 

彼女の顔には悲しみが浮かんでいた。だが、口は開かなかった。

 

「こうやって病気の内容を話せているのも、今日、今さっき病院に行って聞いていたからだ。直近の出来事は消えにくいらしい。それでだ、こんな病気になってしまった俺と、このまま契約を続けるかどうか聞きたいんだ」

 

「……」

 

「今年のうちはトレーナーを続けていられると思う。もう残りは半年ぐらいだし、病気の進行はまだそんなに酷くない。ただ、こんなトレーナーの所に居続けるのは不安だと思うから、別のトレーナーさんに移籍してもらう方がいいかなって思うんだけど、どうかな?」

 

「だめです」

 

その返答は意外にも早かった。

 

「嫌です。トレーナーさんは私専属のレンズです。私の夢を理解して、協力してくれるただ一人の大切な人なんです」

 

目を閉じ、ゆっくりと話していた。その語調には若干の“強さ”があった。

 

「貴方以外のトレーナーは認めません」

 

「……そうか……ありがとう」

 

「へへん。今年いっぱいはよろしくお願いしますね?トレーナーさん」

 

「ああ、よろしくな」

 

改めて握手をした二人だった。

 

 

 

 

 

 

それから月日が流れ、スプリンターズステークスの日がやって来た。トレーナーの憂いとは裏腹に、幸いにも彼女のトレーニングの質は維持できていた上に、その参加券も得ていた。アストンマーチャン本人の体調は万全、目指すは連覇、十分な仕上がりであった。

 

故にその日、彼女は誰よりも輝いて消えない跡を残した。

 

だが、病気の進行は予想していたより深刻だった。たった3か月ほどで物忘れの頻度や量は増えていった。

 

彼はぼうっとする事が増えた、時折ふらりとどこかへ行ってしまう事も増えた。そして、何よりも───

 

「こんにちは。トレーナーさん。遊びに来ましたよ~」

 

残りの期間は少なく、目標レースも無い。そうなると必然的に練習も何もやることが無くなる。だから、彼女はこうしてトレーナー室に遊びに来たのだ。

 

「あ、こんにちは。……えっと、君は……?」

 

「私ですよ。マーちゃんです。アストンマーチャン。世界で一番かわいいマスコットです」

 

「…………っ!ああそうか、ごめんね。また、忘れてたみたいだ。本当にすまない」

 

彼はマーちゃんの事も忘れるようになっていた。辛うじて思い出すことは何度かできているが、完全に記憶から消えてしまうのは時間の問題であった。

 

「むむむ……」

 

彼女は悩んだ。皆の記憶に残ることは出来たのに、“一番残っていて欲しい”人の記憶からは消えかけている。どうにかして止めなくてはならない。だが、彼女には医学や脳の知識は無い。難病を治す事はできない。

 

「本当にごめんね……忘れたくないのに、ふらりとどこか抜け落ちちゃうんだ。ずっと一緒に居て、思い出し続けられたらいいんだけど……」

 

「それです」

 

「え……?」

 

「私がトレーナーさんのそばにいて、私を思い出させてあげます」

 

「それって……」

 

「トレーナーさんが忘れてしまうのなら、忘れたそばからどんどん跡をつけていっちゃいます」

 

そう言って彼女は彼に近づき、その唇を奪った。唇と唇で触れ合うだけではあったが、しっかり、確実に、記憶に残るまで離さなかった。

 

「…………ぷはっ。どうですか?“跡”、残りましたか?」

 

「…………ああ」

 

彼は少しの間呆けていた。

 

「でも、きっとすぐに忘れちゃいますから。もっと跡をつけちゃいます」

 

彼女は彼を抱きしめた。両腕を背中に回し、柔らかく、慈しむような手付きだった。

 

「私の声を聞いて、どんどん忘れてください。代わりに私で埋め尽くしていってください」

 

優しい声が脳に染み入っていく。全ての抵抗を無駄にするかのように、彼の中の何かを蕩かしていく。

 

その光景、蜘蛛が捕食するように獲物を抱き、牙で獲物に毒を流し込み、体液を啜るかのような、危うい情景を孕んでいた。

 

「こうすれば、トレーナーさんには私しか残りませんよね?」

 

彼には何も答える事はできなかった。

 

「もっと、もっとです。深呼吸をして、マーちゃんの匂いも覚えてください。これが、貴方の愛する人の匂いですよ?」

 

心までも溶かしてしまいそうな声に、温かな体、優しく甘く良い匂いに包まれていた。

 

「ちゃぁんと、覚えるまで離しません。ぎゅう、ぎゅう、ぎゅーっ…………」

 

その抱擁は、永遠にも感じられた。

 

~~~~~⏱~~~~~

 

「そろそろ、覚えましたか?」

 

蕩けた脳が再び固まり始めて、理性が呼び起こされた。名残惜しいが、これ以上は良くないとの警鐘に従って、彼は離れることにした。

 

「あ、ありがとう。思い出した。覚えたよ。大丈夫。ありがとう」

 

「忘れそうになったら。いつでも呼んでくださいね?」

 

「わかった…………」

 

彼はこれが夢でないかと錯覚した。頬をつねると痛みはそこにあった。

 

 

 

 

 

世間では有力なウマ娘とトレーナーが恋仲に発展して、そのままゴールインする事はそれほど珍しい事では無かった。アストンマーチャンは引退宣言を済ませ、彼女はトレーナーの生活を手伝うという意向を伝えた。3年間寄り添ったトレーナーをこういう形で恩返しがしたいと意見を述べ、それはすんなりと通ってしまった。学園側としては派手に問題を起こさなければそれでよいという判断であった。

 

その実、彼らの関係は健全とは言い難いモノになった。

 

形ばかりは学校に来て授業を受け、トレーニングの時間は二人で過ごす時間で埋めていった。それに飽き足らず、ほとんどの場合、トレーナーの家にまで行き、家事を手伝っては一緒に寝ていた。実質結婚生活である。

 

そんな彼らの毎日の日課は……

 

 

 

「ほら、どうぞ?トレーナーさん…」

 

「今日も一日良く頑張りました。いいこいいこです」

 

「ではでは、跡をつけちゃいます。水で消えない、マーちゃん印です」

 

「んむ……んむぅ…………へへへ」

 

「んん……んぅ…………」

 

「こっちも………んちゅ…………じゅる…………」

 

「ぷはっ、綺麗につきましたね」

 

「それでは、トレーナーさんの記憶にもしっかりと刻み付けていきたいと思います。大好きなマーちゃんをいっぱい感じてくださいね?」

 

「では……深呼吸をしてください。すって……はいて……すって……はいて……」

 

「目を閉じて、耳だけに集中してください。他の事は忘れてもいいです。マーちゃんだけを刻み付けてください」

 

「んしょ………好き……好き……大好き…………」

 

「はむ……あむ……れろ……じゅる…………」

 

「じゅる……だいすき。だぁいすき……れろ……」

 

「ぷはっ。これでマーちゃんでいっぱいになりましたか?なってないのなら……うふふふ……」

 

 

 

二人はなかなかに幸せそうだ。

 


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