ミッドウェー海戦の敗北により、日本は敗戦ルートへと足を踏み入れた
あの戦いで何を間違えてしまったのか・・・
艦娘となった赤城は当時を振り返る
そして・・・
※この物語はフィクションです念のため
天城型巡洋戦艦二番艦《赤城》改め、赤城型航空母艦《赤城》と言えば、かつては世界最強と呼ばれた空母機動部隊である第一航空戦隊の旗艦として、あまりに有名である
当時の大日本帝国海軍では、表向きは長門がリーダーという事になっていたが、時代は既に大艦巨砲主義の終焉を迎えていた。そのため長門は戦闘には殆ど参加していなかった
その一方、数多の戦場を駆け巡り、実行部隊を率いて連合国軍を叩きまくっていた赤城こそが、実質的な大日本帝国海軍のリーダーであった
撃墜数500機、撃墜比率12:1という圧倒的な戦闘力を有し、連合国軍にとって最大の脅威であり、連合艦隊の中にあって、赤城率いる第一機動部隊だけは別格的存在であった
最強の戦闘マシーンと恐れられていた空母赤城と加賀であったが、彼女たちには胸に秘めたる強い想いがあった
先に記した通り、赤城は元々は天城型巡洋戦艦2番艦という出自であった
時代は大艦巨砲主義が全盛を極め、より強力な火力と防御力を誇る戦艦こそが正義の時代だった
欧州ではその壮大な大花火の集大成であるユトランド沖海戦が勃発、恐らくは大艦巨砲主義が最も輝いていた時代であった事は想像に難くない
列強諸国は同海戦から多くの戦訓を得ていた。英国巡洋戦艦の防御の脆弱性や低い砲撃精度に対し、ドイツ艦の高い堅牢性と精度の高いレンジファインダー技術と砲撃練度は、後の水上艦開発や運用の方向性を示唆していた
そして明確な戦果は上げられなかったものの、航空機による索敵や潜水艦による隠密性は、未来の海戦における可能性を示唆していた
理想の戦艦とは、高い攻撃力と優れた射撃管制システムや装甲を保持しつつ、高速戦艦並みの速力を持つ事にあるとされ、ドイツ海軍のような巧みな艦隊運用能力の重要性も再認識されていた。これらの事実を踏まえ、列強諸国がこぞって超弩級戦艦の開発へと突き進んでいたのである
だが、あれ程大規模な水上艦同士の艦隊砲撃戦であったにもかかわらず、決定的な戦果には程遠い結果に終わった事は、戦艦同士の正面からの激突では決定的な勝利を得る事が困難であるという、一つの問題を浮き彫りにしていた
大日本帝国海軍もドイツ海軍が示してくれた戦訓を受け、既に先行して建造に着手されていた加賀型戦艦に続き、これを更に上回る長大な巡洋戦艦として開発スタートしたのが天城型巡洋戦艦であったのである
だが・・・・・
第一次世界大戦の膨大な人的・物的損失を受け、列強国は新たな戦争を回避し、国際協調を模索し始めていた。その背景には、ユトランド沖海戦で戦艦同士の決戦が決定的な勝利につながらなかったことが、膨大な戦費を浪費する戦艦を中心とした軍事競争に影を落とし始めていた
それがワシントン海軍軍縮条約という形で列強諸国が軍縮に同意する運びとなった。条約は主力艦である戦艦と巡洋戦艦の総排水量を英米50万トン、日本31万5000トン、仏伊17万5000トンに制限され、戦艦である加賀、土佐、巡洋戦艦である天城、赤城すべてがこれに抵触した
本来であれば、彼女たちは残らず廃艦に追い込まれる運命のはずだった
鳳翔が竣工された当時はまだ航空母艦による戦闘は小規模且つ限定的で、僅かに英国のフューリアスによるトンデルン空襲が唯一の空母発艦攻撃として記録が残っているに過ぎなかった。それさえも艦載機による艦隊攻撃や制空戦という近代的な戦闘スタイルには程遠いレベルであった
赤城は当時に想いを巡らせる
「あの頃は、艦戦による制空戦や、艦攻、艦爆による雷撃や爆撃による近代的な戦闘など、誰も想像すらしていませんでした・・・・私たちはただ、お国のために、何としても活路を切り開こうと必死に足掻いていただけでしたね・・・」
戦闘艦としての評価が定まっていない、そんな空母黎明の時代であった。条約が空母の戦略的価値を十分に認識していなかった事もあり、空母の扱いは【補助艦艇】として分類されていた。日本は総排水量8万1000トンまで空母の保有が可能で、一艦あたり2万7000トン、二艦に限り3万3000トンという制限があった。そして主力艦の転用を空母に限っては認められていた為、建造中だった天城と赤城を空母に改装する事で海軍力を維持する道を選択したのである
とはいえ、本来であれば近代的な艦隊砲撃戦を想定して建造されていた天城と赤城は、巡洋戦艦としての未来が閉ざされ航空母艦へとコンバートされる事には悔しさ、口惜しさがあった
そして加賀と土佐はお国の役に立つ機会すら与えられず、慚愧に堪えない想いを胸に、未完のまま廃艦が決定された
「・・・その翌年に関東大震災がありました・・・・。私と共に空母へと改装中だった天城姉さんは、竜骨を折られ亡くなりました・・・・さぞ無念だった事でしょうね・・・・・」
世に出る事なく廃艦となった天城を失った大日本帝国海軍は、計画に修正を迫られる事になったのである
横須賀で解体される日を静かに待つだけだったはずの加賀は、天城の代役として急遽抜擢され、航空母艦へと改装される事となった
その一方で土佐は、横須賀で座して解体を待つ運命を由としなかった。彼女は大日本帝国海軍にその身を捧げるべく、標的艦としての最後を選んだ。横須賀から曳航され、相模湾で長門や陸奥の主砲射撃試験や航空機による爆撃試験へと供され、その生涯を捧げたのである
こうして、後の一航戦となる加賀と赤城は航空母艦として共に生き延びた。今は亡き天城と土佐の無念を胸の内に秘め、二人は共に並び立ち、戦い抜くと誓い合ったのである
加賀も赤城も、戦艦としては未完のまま終わったものの、まだモノになるのかさえもわからない航空母艦という未知の可能性に賭けて生きる未来を受け入れた。三段式空母への改装を経て、最終的には全通甲板式空母へと生まれ変わる未来が、すぐそこまで来ていた
加賀同様、赤城の航空母艦への改装は混迷を極めた。本来であれば、鳳翔をベースにデータを積み重ねながら徐々に大型化していくはずの空母開発であったのであるが、先の事情により、早急に両艦の航空母艦化という実績が必要であったため、いきなり世界最大級の戦艦の艦体をベースに手探りの開発をする羽目に陥ってしまった。開発が難航するのも無理からぬことではあった
左舷接岸の関係上、舷側噴出式煙突の赤城は煙突を右舷にしか設置出来なかった。発艦の妨げとならぬよう、艦中央の左舷に艦橋を設置したのだが、航空機開発がまだまだ手探りだった時代である。プロペラ後流とP-Factorその他の影響で機体が左舷艦橋側へ流れる現象が発覚したのはこの時が初めてであった
また、駆逐艦並みの重量を誇る41㎝主砲や装甲を撤去した事で、船体が浮き上がりスクリューが水上に出てしまったりという仰天なトラブルもあった。無理な改装に加え、まだ空母の理想形態も手探りだった時代である。戦艦の艦体の空母化には、現実には様々な問題があったのである
しかし、しかしである
八八艦隊六番艦の出自である巡洋戦艦ベースの艦体は、全長252.4mと大和型と長門型の中間に位置するほどの巨体で、信濃が竣工するまでは、間違いなく連合艦隊最大の航空母艦であった(信濃は赤城没後の竣工なので、面識はない)
些か端折り気味ではあるが、斯様な紆余曲折を経て全通甲板式となった赤城は加賀と交代で第一航空戦隊旗艦となった。海南島攻略作戦勝利の余勢を駆ってそのおよそ三年後、赤城は同じ一航戦の加賀、二航戦の蒼龍と飛龍、五航戦の翔鶴、瑞鶴らと合流し第一機動部隊を編成。開戦を告げる真珠湾攻撃に突入する事になるのである
第一機動部隊、第一航空戦隊旗艦、赤城の伝説の始まりであった
栄光の第一機動部隊・第一航空戦隊(通称一航戦)旗艦であった赤城だが、本山六三八連合艦隊司令長官は、航空戦に明るい山口多聞少将ではなく、海軍内の年功序列を理由に水雷屋上がりで航空戦の素人である麻雲忠三中将を空母機動部隊のトップに選んだ
彼は第一級の優れた水雷屋であり、山城乗艦の際は自ら操艦し雷撃を回避した程の実戦屋であった。ただ、航空戦の経験も知識も乏しかったため、現実にはその経験が生かされる場面は限定的で、機動部隊の運営は草鹿や源田に頼らざるを得なかった
本山が彼を抜擢した理由は、小沢や山口、大西に比べ、本山にとって麻雲が最も御しやすいという面が大きい。艦隊司令官として本山への忠実さを示す事を期待していたと思われる。また、航空戦のプロである源田ら参謀へ置き、第二航空戦隊の指揮官に山口多聞を配した事からも、作戦を彼らに依存する事を期待していた事が伺える
結果論ではあるが、この人選のミスマッチが真珠湾の作戦不徹底、ミッドウェーの敗北という結果を招いたのは疑いようのない事実。本山の誤算であったと言わざるを得ない。麻雲は肝心なところで権限を発動し源田や山口の進言を退けており、それがいずれも致命的だった
航空戦は雷撃、爆撃、制空というバリエーションがあり、攻撃範囲も広く戦闘時間も総じて長い。索敵や編成案なども複雑で戦況の変化も流動的で、複数の情報から柔軟な戦術変更が求められる。水上艦と異なり戦場は空である。三次元的な空間認識能力が要求されるのである
生粋の水雷屋である麻雲は夜戦水雷戦が本来の主戦場である。攻撃スタイルもそれに準じて事前の訓練や打ち合わせに従い定型化されているし戦闘時間も短くスピード感も大いに異なる。水雷戦と航空戦とでは何もかもが異なるため、畑違いの麻雲とは相性が悪い。航空参謀に真珠湾の戦術立案者の源田実がついているのにはそれなりの理由があったし、事実航空作戦の実質的な判断は源田が行っていた
一方、赤城に配属された飛行機乗りたちは、蒼々たるメンバーで構成されていた
真珠湾では制空戦の鬼と呼ばれた零戦隊の板谷、雷撃の神様こと艦攻隊の村田、『トラ・トラ・トラ』の奇襲成功の電報で知られる攻撃隊指揮官の淵田といった、三人の飛行隊長を有する前代未聞の豪華布陣で編成されていた。そして実戦経験がないとはいえ、急降下爆撃の研究や制空隊を考案するなど凄腕で通っていた源田実は、航空戦の頭脳であり参謀であり、航空隊・・・いや、第一機動部隊の実質的な司令官であった
エース級の飛行機乗りは総じて我が強く、赤城一隻に凄腕の「司令塔」が複数存在していたようなものであった。航空戦の素人である水雷屋の麻雲の手におえる布陣ではなかった
にもかかわらず、麻雲は源田に過度に依存しつつも反発する事が少なからずあった。一番肝心なところで源田や山口の進言を受け付けなかった事が、のちの第一機動部隊壊滅へとつながっていくのである
《敵は叩くべき時に叩くべき相手を叩けるだけ叩く》
それが戦闘マシーンと揶揄され連合国軍を震え上がらせた赤城の矜持である
赤城にとって、戦場は生き物である。時折垣間見える勝機を逃さず、叩くべき相手を徹底的に、二度と反撃出来ない位、それはもう徹底的に叩く。詰めの甘さが、自分の寝首をかく事になりかねない事を、彼女は戦場で嫌というほど学んでいた
だが、赤城と麻雲中将とではその考え方に大きな隔たりがあった。麻雲は将官としては情に熱い方で、味方に被害が及ぶ恐れのある采配を嫌った。そのため肝心な所での決断が遅く期を逸する事がしばしばあった。そして悪い事に、麻雲は真珠湾での失態を本山に激しく攻められていた。その記憶が彼を悪い方向へ誘っていた
日本より一足早く、遠く大西洋で英国と戦っていた三国同盟の朋友ドイツとイタリアは、ドイツ軍のUボートによる通商破壊作戦により、英国の多くの資材を徹底的に叩き、兵站の面で追い詰めていた。そしてヨーロッパ連合国軍の主要国である英国とオランダの資材の多くは、英国の支配下にあったスエズ運河を通り、ビルマ、マレー、東インド、フィリピン、グァム、ニューギニア、ビスマルク諸島といった植民地から賄っていた
海戦前から日本の方針ははっきりしていた。英国やオランダが支配するこの南方海域の制海権を確保し、両国の輸送艦を余さず沈める通商破壊である。大西洋においては同盟国のドイツ軍が、スエズ運河への通り道である地中海ではイタリア王立海軍が、そして資材の供給元である南方海域においては大日本帝国海軍がこれを行い、英国とオランダの音を上げさせギブアップさせる戦略であった。三国同盟のターゲットはあくまでも大英帝国とオランダであり、国民の多くが他国の戦争に介入する事を嫌悪しているアメリカを刺激しないよう、ソ連や蔣介石軍への支援の遮断などを細心の注意を払ってこれを行っていたのである
だが、陸軍参謀本部は内閣の承認を得ず、また、海軍においても源田や淵田、山口といった多くの将官が反対したにもかかわらず、本山六三八連合艦隊司令長官は表向きは開戦に反対していたが、長野修巳の後ろ盾を得て十三年越しの構想であった真珠湾攻撃を慣行した。日本は、本来行う予定であった対英国・対蘭国戦である南方作戦構想が大きく崩れたまま、大東亜戦争に突入した。踏んではならないとされた虎の尾を、思い切り踏み抜いたのである
チャーチルの要請を受けたルーズベルトは、中立宣言をしていたにもかかわらず艦隊を派遣し英国船団の護衛に回り、ドイツに対し挑発行為を繰り返した。ヒトラーは米軍の挑発に乗らないよう指示を出していたが、米グリア駆逐艦がUボートに爆雷攻撃を行った
実際に先に手を出したのは米軍のグリアで、それにドイツは現場判断で反撃したに過ぎなかった。それをルーズベルトが「ドイツの無差別行為」と虚偽の喧伝をした。ヒトラーはその後もUボートに自制を再命令していたが、グリア事件の僅か三か月後に大日本帝国海軍は真珠湾攻撃を行った
ドイツが対米宣戦布告をしたのはこの直後である
ヒトラーは対外的には大日本帝国海軍を賞賛したが、内心では【余計な事をしてくれた】と本山の行動に激高した。チャーチルは「これで英国は救われた」と皮肉を込めた感謝の意を示し、ルーズベルトは「まさか本当にやってくれるとは思わなかった」と、予定していた結果があまりにも簡単に転がり込んできた事に驚いたという
長野と本山によるこの決断と行動は、アメリカ国民を激怒させ、日本との本格的な戦争に突入したばかりでなく、ルーズベルトにヨーロッパ戦線へも参戦する口実を与えてしまった。ドイツとイタリアの敗北は、実はこの本山の行動によって引き起こされたのである
チェスター・ニミッツをはじめ、東郷平八郎を尊敬するアメリカ軍人は多い。だが、本山六三八を尊敬するというアメリカ軍人は殆どいないという事実は、一体何を意味するのであろうか
正々堂々と真正面からバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎は軍事教育に取り上げられる程なのに比べ、手違いとは言え宣戦布告なしの真珠湾への奇襲攻撃を行った敵国の将に対する印象があまりいいはずもないのは確かである
だが、本当の理由は、大東亜戦争開戦に強く反対していながら、十数年以上も前から航空戦力の整備や空母機動部隊の構想、そして真珠湾攻撃の準備を周到に行っていたという事実にある
軍人としての義務と戦略的現実から、本山の行動には是々非々に過ぎないという評価が国内においては一般的であり、人格者としての側面を強調するトーンが強い
だがそれは同じ日本人に対する身贔屓からくるものであり、逆の立場から見れば、普通に【航空戦の革命を自らの手で実現したい】という軍人としてのプロフェッショナリズムからくる強い欲求がそうさせたのは明白である
そして運命のサイは振られた・・・・長野修巳と本山六三八の手によって、日本国民や世界を巻き込む大博打が打たれたのである
真珠湾では戦艦アリゾナ、オクラホマ、ウエストヴァージニア、カリフォルニアをはじめとする多くの艦艇を沈め、多大な戦果を挙げた第一機動部隊であったが、機械工場や修理施設といった工廠や、450万バレルに及ぶ重油タンクを見逃し、攻撃を加えなかった。そしてハルゼー中将座上のエンタープライズは、真珠湾攻撃の報を受け、単艦で決戦を挑もうとしていた。同時にレキシントン以下第12任務部隊は、偵察機を出し、日本艦隊を捜索していた。つまり、そのまま戦闘を続けていたら、遭遇戦になる可能性が十分にあった。その時の航空戦力比はおよそ350対131・・・・後にアメリカ太平洋艦隊司令官チェスター・ニミッツは、この時点ででエンタープライズとレキシントンが第一機動部隊と戦闘状態に入ったら、間違いなくやられていたと語っている
だが、麻雲中将は第三次攻撃隊の出撃を取りやめた。真珠湾にはまだ手付かずの工廠や重油タンクがあったにもかかわらず、である。これを叩いておけば、米軍は真珠湾から作戦行動を取る事が数か月間は不可能となるはずだった。結果的に、エンタープライズとレキシントンは麻雲機動部隊が引き上げた事で命拾いをした。しかも、レキシントンに至ってはその日の夜に真珠湾に帰港し、燃料の補給まで行っていた。麻雲が腹を括っていたら、その後の歴史が全く変わっていたのは明白であった
敵の工廠や補給施設を全く叩かず、それに敵空母を一隻も撃沈せず撤収するなど、赤城には到底受け入れられない事だった。これでは悪戯にアメリカを刺激しただけで、戦略的意味が全くない・・・・・いや、そもそもこんな遠く離れた太平洋に浮かぶ真珠湾を攻撃する事事態が、戦略的には何の意味もない・・・悪手でしかなくなってしまう
真珠湾というハイリスクに手を染めた以上、その中で最善の手を打つべきである。だが、麻雲は悪手の上に、最悪の選択・・・・悪戯にアメリカを刺激し、尚且つ反撃の機会を与えるという愚を行ってしまったのである
時代は既に大艦巨砲主義の時代から、航空戦主体の時代へと移行しており、空母の保有数が、そのままその国の力を表していると言えた。そして空母と艦載機の建造費、そして飛行機乗りの育成は、その国の経済と人的資源に大きな負担となっていた。故に、敵空母を叩く事は、敵国に深刻なダメージを負わせる事に等しかった。空母のあるなしは、後の戦況を大きく左右するようになっていたのである
流石の本山もこの件について麻雲を強く非難したが、全ては後の祭りであった
第三次攻撃隊出撃中止の報を受け、赤城はやり場のない怒りを覚えていた。赤城も加賀も、天城と土佐の無念を晴らすべく、この戦いに全てをかけるつもりだったのである
「この戦いに出立する時、機動部隊の半数を失う覚悟で挑んだはずではなかったのですか?なぜ目先の戦果だけで満足するのです?・・・私は、真珠湾で討ち果たす覚悟で臨んでいたのに・・・・麻雲よ、臆したか!?」
そして赤城は咆哮する
「空母を叩かずして、何のために私たちはこんなにも遠くまでのこのこやってきたというのですか!!」
赤城の懸念は的中した。この時取り逃がした空母の中に、後にスプルーアンス少将指揮下となり、ミッドウェーの立役者となるあの《エンタープライズ》がいた。真珠湾攻撃よりわずか半年後のミッドウェー海戦において、麻雲貴下の一航戦・二航戦は全滅という憂き目にあわされる事になるのである
ミッドウェーを目前に控えたセイロン沖海戦で麻雲機動部隊は多大な戦果を挙げた。英空母ハーミーズや重巡二隻を撃沈し英東洋艦隊は撤退した。だが南方での度重なる連戦は、慢性的な疲労と慢心が蝕みつつあった
対空警戒警報も出さずに爆装を雷装に換装中に、ウェリントンに爆撃を受けた事があった。着弾するまで、敵襲に誰も気付きもしなかったのである
運よく直撃は避けられたが、もし被弾していたら爆装や魚雷に引火・誘爆して大惨事になっていたかも知れなかった
艦娘になってからの赤城の口癖、「慢心、ダメ!絶対!!」は、この時の慢心を戒めるものであった
だが、赤城の思いも空しく、麻雲中将は同じ轍を再び繰り返した。そして今度は運が味方する事はなかった・・・・
そして・・・・ミッドウェーへの奇襲戦前夜である
言うまでもないが、真珠湾無力化に失敗した日本にとってミッドウェーは戦略的にもはや価値の薄れた島である。仮に占領したとしても守るに難しく、これ程遠くまで伸びた戦線に兵站を確保する事自体が困難であった。ましてや相手はあのアメリカである
そこへ日本へ降って湧いたチャンスが訪れる。ドイツのエルヴィン・ロンメル元帥がスエズ運河に向けて進軍を開始したという知らせである
当時の北アフリカ戦線は砂漠地域の戦いであり、兵站能力が極めて重要であったのだが、ドイツ海軍は英国海軍に比して弱く、イタリア王立海軍はマタパン岬沖海戦でザラ級重巡洋艦の多くを失っていた上、深刻な燃料不足で活動が制限されていたばかりか、王立空軍の横槍で制空を担う為の空母を保有していなかった。そのため、補給の拠点としてのマルタ島周辺の制海権が極めて重要であったにもかかわらず、英国海軍にいいように蹂躙されていた
そこで大日本帝国としてはこの好機を逃がさず、スエズ運河を超えて地中海の制海権を抑え、ロンメル機甲師団の兵站ルートを確保し、同時にイタリア王立海軍に不足している燃料と航空戦力を供給し、一気に連合国軍を押し返す案が検討された
アメリカが国力にものを言わせて本格的な反抗作戦に出る前に、早期に英国を屈服させるという、南方作戦の本来の目的に立ち返り、それに賭けようとしたのである
だが、ここでまたしても本山六三八連合艦隊司令長官が異を唱え、今頃になってやはりハワイを占領しようと言い出したのである。その足掛かりとしてミッドウェー島の攻略をするべきだと
だが、これは海軍軍令部の思惑であり、本山の連合艦隊指揮権や米空母機動部隊撃滅と引き換えにミッドウェー島攻略を命じたのが真相であった。この事で、エンタープライズ貴下の第16任務部隊とミッドウェーという二つの目標が掲げられることになり、麻雲の判断を誤らせる重大な要因となったのである
無論これも周囲の反対を受けるが、海軍の実質的なトップである海軍軍令部総長、長野修己がこれを黙認した事と、運悪く同年4月18日に行われた日本への無差別空襲であるドゥーリットル空襲が重なり、日本国民の反米感情が高まってしまい、結局この作戦が行われてしまったのである
これまでアメリカ軍に対し連戦連勝であった大日本帝国海軍であったが、機動部隊の乗員は南方作戦における長期の連戦で疲弊しきっていた。更に数多くの新兵の加入による再編もあり、古参の兵の休息と、新兵の教練などが明らかに不足していた
要するにこの時の一・二航戦は、本来の戦闘力には程遠い状態にあったのである
それに加え、K作戦の失敗により敵空母の位置情報も掴んでいなかった
乗員の休息と新兵の教練の不足、それに敵の位置情報の把握など、明らかな準備不足を理由に源田と山口は同作戦の延期を申し出たが、本山はこれを却下
全てが準備不足のまま無情にも奇襲作戦実施の日時だけが決定され、律義に(馬鹿正直に)それを実行した
敵の位置もわからないまま出撃した状態での索敵は混迷を極めた
敵空母がなかなか発見できず、麻雲中将は敵空母が当海域を離脱したと判断し雷装を爆装に換装させミッドウェー島攻撃に切り替えた
ところが利根から索敵に出ていた零式水上偵察機から、「十隻の敵らしき艦影」発見の報が、更に一時間後、「敵空母らしきもの」発見の報が続く
最初の報から数十分後になって麻雲中将はようやく雷装から爆装に換装した装備を、また雷装に戻すよう指示を出した
この時「飛龍」に乗艦していた第二航空戦隊司令の山口多聞少将はこの指示に対し強く反対したという
「時は一刻を有する。爆装のまま今すぐ発艦し、敵空母を叩くべきだ。」と
しかし麻雲中将はこの進言を却下
「雷装切り替えだ。空母は爆装では沈まん」
そして、艦内格納庫では雷装→爆装→雷装の換装が慌ただしく行われ、爆弾や魚雷がそこら中に転がっている状態だったという
「こんな所を敵に攻撃されたらひとたまりもないぞ」
格納庫のあちこちでそんな声も聞こえたという
そして換装を終えて第一陣が発艦しようとした矢先にエンタープライズSBD艦爆隊の攻撃を受け、加賀に四発が落とされ爆発炎上、そして赤城には・・・たった一発の500キロ爆弾がエレベーター付近から飛行甲板を突き破って炸裂、格納庫に転がる陸用爆弾、艦攻、艦爆に次々と誘爆し、それが赤城の致命傷となった
一発の雷撃も受けていなかった赤城は、艦体や機関に左程ダメージを受けていなかったにもかかわらず、誘爆によって内部から焼き尽くされていった。セイロン沖海戦での教訓が全く生かされていなかったのだ
疲弊した兵に新兵を加えた編成、敵空母の位置情報がわからないままの出撃強行、利根4号偵察機からの報告で迅速に判断、対応しなかった事(爆装のまま直ちに出撃すべきであった)、換装中の索敵を厳にしなかった事・・・・
実際、加賀の飛行隊は散発的に出現する雷撃隊の攻撃を凌ぐため、決死の防空戦をしていた。低空の攻撃に気を取られ、上空から急降下爆撃を敢行するエンタープライズSBD隊の攻撃に気付かなかった
しかも、エンタープライズから発進したSBD隊は、麻雲が否定した艦戦の直掩機をつけないで発進した艦爆隊だった。確かにSBD隊は相当数が撃墜されていた。だが、彼らはその犠牲に見合うだけの戦果をあげていた・・・・・第一機動部隊の全滅という戦果である
ここに、麻雲中将とスプルーアンス少将との器の違いを感じずにはいられない・・・
これらは全て本山六三八司令長官と麻雲中将の采配一つで回避できた事と言えなくもない
だが、ここミッドウェーで対峙した米軍は、本山が知っているそれとは最早大きく異なっていた
真珠湾で麻雲が詰めの甘さを露呈した時から、本山はこうなる未来を予見していたのである
米軍は日本側の暗号通信を既に解読しており、麻雲機動部隊の動向は筒抜けとなっていた
圧倒的な規模を誇る大日本帝国連合艦隊に対し、米軍側は雪辱に燃える「エンタープライズ」に加え、「ホーネット」「ヨークタウン」を中心とした任務部隊であったが、その規模は連合艦隊に比べ大きく劣っていた
そのため、ターゲットを一航戦の空母機動部隊に絞り、戦力を一点集中してこれを叩くべく虎視眈々と待ち伏せていたというのが真相であった
加えて、こんな事実もある
運命の6月5日、第一・第二航空戦隊壊滅という悲劇の前日、そのはるか後方を航行中だった連合艦隊司令長官「本山六三八」座上の旗艦、戦艦「大和」にて、敵空母らしき呼び出し符号の電波を傍受していた
にもかかわらず、大和の先任参謀「白島鶴人」大佐はこの事実を麻雲機動部隊に伝えず、情報を握りつぶしていた
とにかく、全てがお話にならなかった。いかに赤城擁する機動部隊といえど、指揮官がこれ程まぬけ揃いではひとたまりもなかった
世界最強と謳われた主力空母四隻を同時に失うという事実は、その後の戦況を大きく悪化させた。暗号通信を解読されていたとはいえ、この時点では連合国軍には零戦に対抗出来うる戦闘機もなく、空母も不足していた
加えて、大日本帝国海軍のお家芸であった水雷戦、特に夜戦における水雷戦隊を壊滅に追い込んだレーダー照準射撃の実戦投入もまだ行われていなかった
つまりこの時点では、大日本帝国海軍は連合国軍に圧勝できる可能性が十分にあった
敵空母打撃部隊を壊滅させ、ミッドウェーを制圧すれば、米国との終戦協定も視野に入れる交渉も不可能ではなかった
そう、ミッドウェーは、絶対に負けられない戦いだったのだ
艦娘になって少し落ち着いた頃、赤城はこう言ったという
「あの当時の事ですか?・・・・・まぁ、言いたいことは色々ありましたが、あれも運命だったのでしょうね。戦略・戦術面で無能な者が、より上の立場に立って采配を振るう・・・命を張って戦う立場からすれば、これはもう悪夢としか言いようがありませんね」・・・・と。
また、
「爆装でも何でも飛行甲板をぶっ壊して飛べなくしちゃえばいいじゃないですか。あの時点ではもう沈めるのにこだわってる段階は過ぎてましたよね。多聞さんの言うのは尤もですよ。」
そして更に言葉を続ける
「セイロン沖での空爆の時、いっそ被弾して麻雲中将もろとも私が沈んでいれば、少なくともミッドウェーで一航戦二航戦壊滅、なんて事にはならなかったかも知れませんね
加賀さんが生き残ってさえいれば・・・それに飛龍には多聞さんがいましたし、五航戦の子たちも編入すれば・・・・・なんて、思っちゃいますね」
ヒートアップしてきた赤城はとどめの一言をグサリ
「過ぎた事ですけど、第一戦隊はあんな後方で何する気だったんですかね? せめて私たちの前に出て囮で体を張るなりしてくれれば、あんな状況でも力押しで何とかなったと思うんですけど。戦力は圧倒的にこっちの方が上だったんですから
まったく、あんなデカい図体して、何のための装甲なんですかって事ですよ! 板谷や淵田はともかく、あの温厚な村田でさえ怒る位でしたから・・・」
気性の荒い板谷を筆頭に飛行機乗り達は本山連合艦隊司令長官に対し
「戦争見物でもするつもりか!」
と、怒りを隠さなかった
それはそうである。本山座上の戦艦大和を含めた9隻の超ド級戦艦と100隻余りの大艦隊が、南雲機動部隊の遥か500km後方の安全地帯から近寄ろうとしないのである
赤城は断言する
「まぁ、本山はともかく麻雲と白島がいなければ、そして多聞さんが機動部隊の指揮を執っていたとしたら、真珠湾でエンタープライズを逃す事も、ミッドウェーで敗北する事もありませんでしたね」
そして続ける
「それ以前に・・・あいつですね・・・・長野修己海軍軍令部総長・・・・あの男がいなければ、ミッドウェーで麻雲が迷う事もなかったでしょうね・・・・」
陸軍参謀総長、そして海軍軍令部総長・・・それは陸軍、海軍それぞれの軍を統括する実質的なトップであり、内閣や天皇陛下でさえ、それを止める事は出来なかった
特に海軍軍令部総長である長野修己は、日本経済の生命線である石油やゴムなどの資源確保を通じて南方作戦を陸軍との共同戦略として推進した。陸海共同による南方作戦への注力は、陸軍の対ソ連戦略である北進論を牽制し、海軍の予算と影響力の確保に繋がる
その反面、長野は本山の真珠湾攻撃の提案には懐疑的であった。だが本山の戦略的才能は海軍の主導権を維持するために不可欠であると判断し、最終的には本山の強硬な推進を容認し、政治的妥協としてそれを黙認した
さもありなん、十年以上も前から航空戦力や空母機動部隊構想、そして真珠湾攻撃計画を練り、事ある毎にそこら中で吹聴して回っていた本山六三八を、連合艦隊司令長官の任期が切れていたにもかかわらず、ゴリ押しして続投にねじ込んだのは長野修己であった。本山は表向きは連合艦隊司令長官任期切れに伴い身を引くつもりだったようだが、続投させたら間違いなく真珠湾攻撃を提案するであろうことは目に見えていた
これは長野修巳の確信犯である
源田や山口といった多くの将官が、それを懸念していたのである
本山はアメリカの思惑に気付いていた。アメリカ留学経験のある本山は、アメリカ人の考え方、そしてそのやり方も心得ていた。どんな手を使ってでも戦争を仕掛けてくる事を早くから疑っていた本山は、東郷平八郎が生前しきりに真珠湾をけん制していた事を思い出していた
色々検証を重ねた結果、航続距離の問題から、真珠湾を無力化する事で米艦隊は太平洋に進出して来れなくなる事に気付いた本山は、ロンドン海軍軍縮条約が締結される二年前から、航空戦力による真珠湾攻略を研究していた
本山の先見の明と入念な準備が、真珠湾攻撃における大戦果を挙げる原動力となったのである
だが、機動部隊の指揮を預かる麻雲は真珠湾無力化という最大の目的に気付かず、それどころかエンタープライズとレキシントンへの追撃の手を止めるという大失態を犯したのである
真珠湾無力化に失敗した事で、この戦争で日本に勝ちの芽がなくなった事を察した本山は、これ以降の艦隊指揮に精彩を欠いていく事になる
本山にとってミッドウェー攻略はあくまでもついでであり、敵を誘引するための餌でありフェイクに過ぎなかった。彼の本懐はあくまでも米機動部隊の撃滅であった。だが長野以下海軍軍令部は南方作戦に固執し作戦そのものに反対していた
実行に至った理由は、ドゥーリットル空襲による世論の影響で本山の作戦を承認せざるを得なくなったからである
だが海軍軍令部は作戦にミッドウェー島攻略という注文をつけたため、島攻撃のための爆装と、敵艦隊撃滅のための雷装という二重目標による戦術的選択肢の分散が、麻雲の戦術的柔軟性を損なった感は否めなかったのだが、今度は最終的に本山が折れて本作戦が承認された
「・・・長野ら海軍軍令部の本作戦への干渉が、ミッドウェー作戦失敗の根底にありました。二度に渡るK作戦の実行と失敗による第16任務部隊補足の失敗から始まり、利根さんの索敵を精査しなかった司令部の怠慢に続き、航空戦に不慣れな麻雲が源田や多聞さんの意見を退けた事で私たちの運命は決まったといってもいいでしょう・・・・」
艦娘として生まれ変わった今の赤城には、軍や国家に恭順するという感覚・・・・ナショナリズムはとうに喪失していた。今の彼女にあるのは世界人類を等しく守りたいという、本質的な正義感に立脚した思想しかなかった
これは赤城に限った事ではなく、多くの艦娘たちも同様であった
「まぁ、私は人間のそういった部分には興味もありませんし、干渉する気もありません・・・・ですが・・・・」
艦娘として復活してからの赤城は、大本営に全てを委ねる事の危険性を危惧していた。大日本帝国海軍軍艦としての出自がある以上、軍務を全うし、人に従いたいという欲求・・・本能じみた感情はある・・・・だが、
「私たちが沈んだ事で、祖国は敗戦への道を辿る事になった・・・まぁ、人と人同士の争いの結果に関しては、甘んじて受け入れましょう・・・でも・・・・・」
「・・・人類存亡の幕引きを、自ら行おうとする愚か者には・・・・・・・・・それ相応の罰を与えましょう・・・・・そう・・・・《おしおき》が必要ですね・・・・・」
利根 01 利根四号機 及び
赤城 02 赤城禁止 に続く