少女と花嫁   作:吉月和玖

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179.幸せな日常に、新たな命の予感

修学旅行も終わり。

期末試験も無事に終われば、後は夏休みを待つだけ。

そんな空気が、学校全体に流れ始めていた。

生徒達もどこか浮き足立っている。

授業中の集中力は少し落ち。

休み時間になれば、夏休みの予定や遊びの話題で盛り上がる。

教室から聞こえてくる笑い声も、どこか弾んでいた。

 

だが。

僕が受け持つ三年生と空手部だけは話が別だった。

三年生には進路がある。

 

大学進学。

専門学校。

就職。

 

それぞれの未来を決める大切な時期だ。

当然ながら三者面談も始まる。

 

保護者との連絡。

進路指導。

書類作成。

 

やる事は山ほどあった。

 

そして。

空手部には全国大会へ繋がる地区大会が控えている。

こちらも重要だ。

生徒達の人生が懸かっていると言っても過言ではない。

 

練習メニューの調整。

試合分析。

対戦相手の研究。

 

雪斗さんがサポートしてくれているとはいえ、顧問としてやるべき事は無数にある。

 

余談ではあるが、修学旅行中に一・二年の部員達が雪斗さんへ勝負を挑んだらしい。

結果?

相手にもされなかった。

代わりに渡されたのは追加の練習メニューである。

しかもそれは今も継続中だ。

なぜか三年生まで巻き込まれているため、部員達からは不満の声も上がっているらしい。

だが、その効果は絶大だった。

全国を目指す今の空手部があるのは、間違いなく雪斗さんのおかげだろう。

本人は「まだまだだ」と言いそうだが、僕からすれば本当にありがたい存在である。

 

その結果──

僕は毎日てんやわんやだった。

 

「はぁ……」

 

今日も気付けば夜遅く。

職員室の時計は二十一時を回っていた。

最後の書類へ目を通し、ようやく仕事を終える。

 

「帰るか……」

 

誰もいなくなった職員室。

静まり返った校舎。

そんな中を歩きながら、少しだけ肩を回した。

疲れていないと言えば嘘になる。

だが、家へ帰れば待っていてくれる人がいる。

そう思うだけで足取りは自然と軽くなった。

 

「ただいま」

 

玄関の扉を開く。

すると。

 

「お帰りなさい♪」

 

すぐに返ってきた声。

リビングから顔を出した五月が、柔らかな笑顔で出迎えてくれる。

その笑顔を見るだけで。

不思議と疲れが和らいでいく。

 

「遅くまでお疲れ様」

 

五月はそう言いながら僕の鞄を受け取った。

 

「ご飯はことりが用意してくれたよ」

「毎日待ってなくて良いのに」

 

僕は苦笑する。

 

「先にことり達と食べてて良いんだよ」

 

それは本心だった。

最近は毎日のように残業続きだ。

帰宅時間も安定しない。

正直なところ、僕に合わせて待つ必要なんてない。

だが、五月は小さく首を横へ振った。

 

「良いの」

 

優しい声だった。

 

「私だって塾で遅い日もあるし」

 

そう言いながらテーブルへ料理を並べていく。

 

味噌汁。

焼き魚。

煮物。

 

ことりが作ったしっかりした夕食だった。

 

「それに」

 

五月が少しだけ視線を逸らす。

 

「一緒に食べる方が楽しいでしょ?」

 

そして。

僅かに頬を赤く染めながら続けた。

 

「その……し……新婚……なんだし……♡」

 

最後の方は殆ど聞き取れないくらい小さかった。

だが。

何を言ったのかはしっかり分かる。

 

「五月」

「な、なに……?」

 

恥ずかしそうに俯いてしまった五月。

僕はそっと顎へ手を添える。

そして、ゆっくり顔を上げさせた。

 

「ん……?」

 

視線が重なる。

真っ赤な顔。

潤んだ瞳。

あまりにも可愛くて。

気付けば唇を重ねていた。

 

「んっ……」

 

柔らかい感触。

五月の肩が小さく震える。

 

「ちゅっ……んぅ……」

 

短いキス。

それだけだった。

けれど。

五月の顔は耳まで真っ赤になっていた。

 

「和彦さん……」

 

恥ずかしそうな声。

だが。

どこか嬉しそうでもある。

 

「その気持ちが嬉しいよ」

 

そう言って微笑む。

 

「さ、食べようか」

 

すると。

五月も照れながら笑った。

 

「うん♪」

 

その後はいつも通りだった。

二人で夕食を食べる。

今日あった出来事を話す。

 

生徒達の事。

学校の事。

空手部の事。

 

取り留めもない話ばかりだ。

けれど、それが楽しい。

 

一緒に食器を片付け。

一緒にお風呂へ入り。

時には甘い時間を過ごし。

そして、同じベッドで眠る。

 

そんな毎日が続いていた。

修学旅行が終わってからというもの。

二乃達も気を遣ってくれている。

そのおかげで、最近は五月との時間を多く取る事が出来ていた。

 

妻として。

恋人として。

家族として。

 

少しずつ距離を縮めていく日々。

 

穏やかで。

温かくて。

幸せだった。

 

だからこそ。

その日も、いつも通りの日常が続くのだと思っていた。

そんなある日──

 

平穏だった日常へ。

新たな波が訪れる事になるとは。

この時の僕は、まだ知らなかったのだった──

 

「ふぁぁ……」

 

昼休み。

職員室へ戻った僕は、珍しい光景を目にした。

 

「……立川先生?」

 

僕の視線の先。

そこには自分の机へ突っ伏すようにしている芹菜の姿があった。

普段なら考えられない。

彼女は教師の中でもかなり真面目な部類だ。

もちろん冗談を言ったり、生徒達と一緒になって騒ぐ事もある。

だが、職員室で居眠りをするような人ではない。

 

「ん~……?」

 

声を掛けると、芹菜はゆっくり顔を上げた。

 

「吉浦先生♡」

 

どこか眠そうだった。

 

「大丈夫ですか?」

「多分♡」

 

全然大丈夫そうに見えない。

 

「寝不足ですか?」

「分からないんですよねぇ」

 

芹菜は小さく肩を竦めた。

 

「最近やたら眠くて」

「仕事のし過ぎじゃないです?」

「そんなに働いてませんよ?」

「いや働いてるでしょ」

 

思わずツッコむ。

 

副担任。

生徒指導。

部活動補助。

行事関係。

 

僕ほどではないにしろ、かなり忙しいはずだ。

しかし、芹菜はどこか不思議そうに首を傾げた。

 

「なんなんでしょうねぇ」

 

その時は、単なる疲労だと思っていた。

だが、違和感は続いた。

 

数日後。

数学準備室で昼食を取っていた時の事だ。

 

「珍しいな」

 

僕は思わず声を漏らした。

 

「ん?」

「弁当残してる」

 

いつもなら綺麗に食べる芹菜が。

今日は半分以上残している。

すると。

芹菜は少し困ったように笑った。

 

「食欲が無いのよ」

「風邪か?」

「熱は無いんだけどねぇ」

 

そう言いながら、お茶だけを飲む。

やはりおかしい。

少し気になったが、本人が大丈夫と言う以上、強くは言えなかった。

 

そして更に数日後。

放課後。

職員室で採点作業をしている時だった。

 

「うっ……」

 

隣から小さな声が聞こえた。

顔を上げる。

芹菜が顔をしかめていた。

 

「どうしました?」

「いえ……」

 

芹菜は口元を押さえる。

そして。

机の上に置かれていた缶コーヒーを少し遠ざけた。

 

「なんか最近、匂いに敏感になった気がするんですよねぇ」

「匂い?」

「このコーヒーとか」

 

確かに、以前なら普通に飲んでいた物だ。

 

「病院行った方が良くないですか?」

 

すると、芹菜は少し考えた後、小さく頷いた。

 

「そうですねぇ」

 

その返事を聞きながら。

何故だろう。

胸の奥に妙な引っ掛かりが残った。

 

・・・・・

 

その日の夜。

自宅へ帰宅した頃には二十二時を回っていた。

 

「ただいま」

「お帰りなさい♪」

 

五月の笑顔を見るだけで少し疲れが抜ける。

いつものように夕食を食べ。

一息吐いていた時だった。

スマホが震えた。

表示された名前を見る。

 

小百合。

 

「珍しいな」

 

通話ボタンを押す。

 

「もしもし?」

『あっ、和彦さん?』

 

聞こえてきたのは小百合の声だった。

だが、どこか元気がない。

 

「どうしました?」

『実はねぇ』

 

少し言いづらそうな間。

 

『最近ちょっと体調がおかしくて』

「体調?」

『朝から眠かったり。食欲が変だったり。急に気分が悪くなったり』

 

そこまで聞いた瞬間。

僕の思考が止まった。

 

「……」

『和彦さん?』

「……小百合」

『うん?』

 

僕は静かに尋ねた。

 

「それ、いつ頃からですか?」

 

通話を終えた後。

僕はソファへ深く腰を下ろした。

頭の中で情報を整理する。

 

芹菜。

眠気。

食欲不振。

匂いへの過敏反応。

 

そして。

 

小百合。

眠気。

食欲の変化。

体調不良。

 

偶然だろうか。

いや、偶然にしては出来すぎている。

 

「和彦さん?」

 

隣へ座った五月が不思議そうに首を傾げた。

 

「どうかしたんですか?」

 

僕は少し迷った。

だが、五月になら話しても良いだろう。

そう思い、事情を説明する。

すると、五月は静かに話を聞いていた。

そして数秒後。

 

「……あの」

「ん?」

「私の考えすぎかもしれませんけど」

 

五月が小さく口を開く。

 

「もしかして、お二人とも病院へ行った方が良いのでは?」

「やっぱりそう思うかい?」

 

その瞬間。

五月は少しだけ驚いた顔になった。

 

「和彦さんも?」

「ああ」

 

僕は苦笑する。

 

「まだ確証は無いけどね」

 

だが、胸の奥では。

既に一つの可能性が浮かび始めていた。

もし本当にそうだったなら。

それは、僕達の人生を大きく変える出来事になる。

そんな予感を抱きながら。

僕は静かにスマホを手に取った。

連絡先を開く。

表示される名前。

 

──中野マルオ。

 

一度話を聞いてみるべきかもしれない。

 

そう思いながら、僕は通話ボタンへ指を伸ばしたのだった──

 


 

翌日。

僕は昼休みを利用して芹菜へ声を掛けていた。

 

「立川先生」

「はい?」

 

職員室で採点をしていた芹菜が顔を上げる。

 

「今日の放課後、少し時間あります?」

「吉浦先生からのお誘いですか?♡」

「真面目な話」

「真面目な顔してますねぇ」

 

すぐに察したらしい。

芹菜はペンを置いた。

 

「病院ですか?」

「……ええ」

 

その返事を聞くと。

芹菜は少しだけ目を丸くした。

そして、何かを考えるように視線を落とす。

 

「実はですね」

「ん?」

「私も少し気になってたんです」

 

予想外だった。

 

「気になってた?」

「はい」

 

そう言いながら、自分のお腹へそっと手を添える。

 

「流石に自意識過剰かなって思ってたんですけど」

 

小さく苦笑する。

だが、その表情には少しだけ緊張が見えた。

 

「行きましょうか」

「そうですね」

 

同じ頃。

小百合にも連絡を入れていた。

 

『ごめんなさいねぇ』

 

電話越しの声はどこか申し訳なさそうだった。

 

『忙しいのに』

「気にしないで」

 

僕は首を横に振る。

もちろん向こうには見えないが。

 

「小百合も来てくれ」

『………』

 

少しの沈黙。

そして。

 

『やっぱり和彦さんも同じ事考えてた?』

「多分」

『そう』

 

再び沈黙。

だが、今度の沈黙は先程とは違った。

 

不安。

期待。

戸惑い。

 

色々な感情が混じっているように感じた。

 

『分かったわ』

 

小百合は静かに答えた。

 

『行く』

 

・・・・・

 

そして放課後。

総合病院。

日本でも有数の設備を誇る大型病院の待合室で、僕達は診察の順番を待っていた。

 

「………」

 

妙に長く感じる時間だった。

待合室のテレビでは昼の情報番組が流れている。

だが、その内容は全く頭へ入ってこない。

周囲では患者達の話し声や看護師達の足音が聞こえているのに、それすら遠く感じた。

 

落ち着かない。

 

心臓だけがやけに騒がしかった。

 

「和彦さん」

 

不意に声を掛けられる。

顔を上げると、小百合がこちらを見ていた。

ウェーブのかかった茶色の髪を耳へ掛けながら、困ったように微笑んでいる。

 

「そんなに難しい顔してたら、こっちまで緊張するわよ?」

「……そんな顔してた?」

「してるしてる」

 

即答だった。

 

「生徒指導中の先生みたいな顔」

「それは重症だな」

 

思わず苦笑する。

すると、小百合もふふっと笑った。

その笑顔は普段と変わらない。

どこか安心感のある笑顔だった。

 

「でも仕方ないか」

 

小百合はそう言いながらペットボトルのお茶を一口飲む。

 

「私も同じだもの」

「小百合も?」

「ええ」

 

静かに頷く。

 

「本当はすごく怖いわ」

 

その言葉に思わず視線を向けた。

小百合は少しだけ視線を落とす。

 

「でも、今ここで色々考えても結果は変わらないでしょう?」

 

そう言って肩を竦めた。

 

「だから、なるようになるしかないわね」

 

やっぱり小百合だ。

不安を抱えていても、まず周囲を安心させようとする。

昔から変わらない。

その様子を見ていると、こちらまで少しだけ気持ちが落ち着いてくる。

 

「流石ねぇ」

 

隣から芹菜が微笑んだ。

 

「こういう時の小百合、本当に頼りになるわ」

「芹菜はもう少し危機感を持ちなさい」

「持ってるわよぉ」

 

全く説得力が無かった。

だが。

そう言う芹菜の膝の上で組まれた手は、微かに震えている。

僕はその事に気付いていた。

 

「芹菜」

「はい?」

「緊張してるでしょ」

 

そう言うと。

芹菜は一瞬だけ目を丸くした。

そして。

 

「あら」

 

自分の手へ視線を落とす。

 

「バレちゃった?」

「バレるよ」

「そっかぁ」

 

ふふっと笑う。

けれど、その笑顔の奥には隠しきれない不安があった。

 

「だって」

 

芹菜は小さく呟く。

 

「もし本当にそうだったら」

 

そこで言葉を止めた。

続きは言わない。

だが、言いたい事は分かる。

人生が変わる。

それくらい大きな出来事だ。

 

「こういう時って」

 

不意に小百合が口を開く。

 

「漫画やドラマなら大体フラグなのよね」

「やめてよ」

 

思わずツッコむ。

 

「だってそうじゃない?」

 

小百合は苦笑した。

 

「眠気があって」

 

指を一本立てる。

 

「食欲がおかしくなって」

 

二本目。

 

「匂いに敏感になって」

 

三本目。

 

「定番と言えば定番じゃない?」

「否定できないのが困る」

「私もよ」

 

小百合はそう言って笑った。

しかし。

膝の上で組まれた指先には力が入っていた。

やはり彼女も不安なのだ。

 

「お待たせしました」

 

その時。

看護師の声が響いた。

全員が同時に顔を上げる。

 

「中へどうぞ」

 

ついに来た。

立ち上がる。

足が少し重い。

緊張しているのは僕だけじゃない。

芹菜も。

小百合も。

同じだった。

そして診察室の扉を開く。

中では既にマルオさんが待っていた。

 

「来たか」

 

低い声。

普段と変わらない。

しかし、長年付き合いのある僕には分かった。

マルオさんもいつも以上に真剣な顔をしている。

 

「座りなさい」

 

言われるまま椅子へ腰掛ける。

マルオさんは机の上へ書類を置いた。

検査結果。

それを見た瞬間、再び心臓が大きく跳ねた。

 

「そう警戒するな。まだ何も言っていない」

「それはそうなんですが」

「顔に出ているぞ」

 

そう言われると何も返せない。

すると。

 

「ふふっ」

 

小百合が小さく笑った。

 

「和彦さん、本当に落ち着いてないわね」

「笑い事じゃないわよぉ」

 

芹菜も続く。

 

「もしかしたら人生が変わる日かもしれないのだから」

 

その言葉に。

再び静寂が落ちた。

人生が変わる日。

誰も否定しなかった。

否定できなかった。

だからこそ。

マルオさんも余計な言葉を挟まない。

静かにカルテを開き。

検査結果へ目を落とす。

そして──

 

「結果が出た」

 

その瞬間。

診察室の空気が張り詰める。

僕の鼓動が大きく鳴った。

マルオさんは一度だけ僕達を見渡した。

そして。

ゆっくりと口を開く。

 

「まずは──」

 

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

今回は、和彦と五月の甘い新婚生活から一転、芹菜と小百合に思いがけない変化が訪れるお話でした。

二人に現れた共通の症状。

そして、マルオが告げようとしている検査結果とは──?

果たして、和彦たちの未来に新たな幸せが訪れるのでしょうか。

次回は、物語が大きく動く重要な回となります。

続きが気になる、これからも見守りたいと思っていただけましたら、ぜひお気に入り登録をしていただけると嬉しいです!

皆様の評価や感想も、執筆を続ける大きな励みになっています。

それでは、次回もお楽しみに!

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