修学旅行も終わり。
期末試験も無事に終われば、後は夏休みを待つだけ。
そんな空気が、学校全体に流れ始めていた。
生徒達もどこか浮き足立っている。
授業中の集中力は少し落ち。
休み時間になれば、夏休みの予定や遊びの話題で盛り上がる。
教室から聞こえてくる笑い声も、どこか弾んでいた。
だが。
僕が受け持つ三年生と空手部だけは話が別だった。
三年生には進路がある。
大学進学。
専門学校。
就職。
それぞれの未来を決める大切な時期だ。
当然ながら三者面談も始まる。
保護者との連絡。
進路指導。
書類作成。
やる事は山ほどあった。
そして。
空手部には全国大会へ繋がる地区大会が控えている。
こちらも重要だ。
生徒達の人生が懸かっていると言っても過言ではない。
練習メニューの調整。
試合分析。
対戦相手の研究。
雪斗さんがサポートしてくれているとはいえ、顧問としてやるべき事は無数にある。
余談ではあるが、修学旅行中に一・二年の部員達が雪斗さんへ勝負を挑んだらしい。
結果?
相手にもされなかった。
代わりに渡されたのは追加の練習メニューである。
しかもそれは今も継続中だ。
なぜか三年生まで巻き込まれているため、部員達からは不満の声も上がっているらしい。
だが、その効果は絶大だった。
全国を目指す今の空手部があるのは、間違いなく雪斗さんのおかげだろう。
本人は「まだまだだ」と言いそうだが、僕からすれば本当にありがたい存在である。
その結果──
僕は毎日てんやわんやだった。
「はぁ……」
今日も気付けば夜遅く。
職員室の時計は二十一時を回っていた。
最後の書類へ目を通し、ようやく仕事を終える。
「帰るか……」
誰もいなくなった職員室。
静まり返った校舎。
そんな中を歩きながら、少しだけ肩を回した。
疲れていないと言えば嘘になる。
だが、家へ帰れば待っていてくれる人がいる。
そう思うだけで足取りは自然と軽くなった。
「ただいま」
玄関の扉を開く。
すると。
「お帰りなさい♪」
すぐに返ってきた声。
リビングから顔を出した五月が、柔らかな笑顔で出迎えてくれる。
その笑顔を見るだけで。
不思議と疲れが和らいでいく。
「遅くまでお疲れ様」
五月はそう言いながら僕の鞄を受け取った。
「ご飯はことりが用意してくれたよ」
「毎日待ってなくて良いのに」
僕は苦笑する。
「先にことり達と食べてて良いんだよ」
それは本心だった。
最近は毎日のように残業続きだ。
帰宅時間も安定しない。
正直なところ、僕に合わせて待つ必要なんてない。
だが、五月は小さく首を横へ振った。
「良いの」
優しい声だった。
「私だって塾で遅い日もあるし」
そう言いながらテーブルへ料理を並べていく。
味噌汁。
焼き魚。
煮物。
ことりが作ったしっかりした夕食だった。
「それに」
五月が少しだけ視線を逸らす。
「一緒に食べる方が楽しいでしょ?」
そして。
僅かに頬を赤く染めながら続けた。
「その……し……新婚……なんだし……♡」
最後の方は殆ど聞き取れないくらい小さかった。
だが。
何を言ったのかはしっかり分かる。
「五月」
「な、なに……?」
恥ずかしそうに俯いてしまった五月。
僕はそっと顎へ手を添える。
そして、ゆっくり顔を上げさせた。
「ん……?」
視線が重なる。
真っ赤な顔。
潤んだ瞳。
あまりにも可愛くて。
気付けば唇を重ねていた。
「んっ……」
柔らかい感触。
五月の肩が小さく震える。
「ちゅっ……んぅ……」
短いキス。
それだけだった。
けれど。
五月の顔は耳まで真っ赤になっていた。
「和彦さん……」
恥ずかしそうな声。
だが。
どこか嬉しそうでもある。
「その気持ちが嬉しいよ」
そう言って微笑む。
「さ、食べようか」
すると。
五月も照れながら笑った。
「うん♪」
その後はいつも通りだった。
二人で夕食を食べる。
今日あった出来事を話す。
生徒達の事。
学校の事。
空手部の事。
取り留めもない話ばかりだ。
けれど、それが楽しい。
一緒に食器を片付け。
一緒にお風呂へ入り。
時には甘い時間を過ごし。
そして、同じベッドで眠る。
そんな毎日が続いていた。
修学旅行が終わってからというもの。
二乃達も気を遣ってくれている。
そのおかげで、最近は五月との時間を多く取る事が出来ていた。
妻として。
恋人として。
家族として。
少しずつ距離を縮めていく日々。
穏やかで。
温かくて。
幸せだった。
だからこそ。
その日も、いつも通りの日常が続くのだと思っていた。
そんなある日──
平穏だった日常へ。
新たな波が訪れる事になるとは。
この時の僕は、まだ知らなかったのだった──
「ふぁぁ……」
昼休み。
職員室へ戻った僕は、珍しい光景を目にした。
「……立川先生?」
僕の視線の先。
そこには自分の机へ突っ伏すようにしている芹菜の姿があった。
普段なら考えられない。
彼女は教師の中でもかなり真面目な部類だ。
もちろん冗談を言ったり、生徒達と一緒になって騒ぐ事もある。
だが、職員室で居眠りをするような人ではない。
「ん~……?」
声を掛けると、芹菜はゆっくり顔を上げた。
「吉浦先生♡」
どこか眠そうだった。
「大丈夫ですか?」
「多分♡」
全然大丈夫そうに見えない。
「寝不足ですか?」
「分からないんですよねぇ」
芹菜は小さく肩を竦めた。
「最近やたら眠くて」
「仕事のし過ぎじゃないです?」
「そんなに働いてませんよ?」
「いや働いてるでしょ」
思わずツッコむ。
副担任。
生徒指導。
部活動補助。
行事関係。
僕ほどではないにしろ、かなり忙しいはずだ。
しかし、芹菜はどこか不思議そうに首を傾げた。
「なんなんでしょうねぇ」
その時は、単なる疲労だと思っていた。
だが、違和感は続いた。
数日後。
数学準備室で昼食を取っていた時の事だ。
「珍しいな」
僕は思わず声を漏らした。
「ん?」
「弁当残してる」
いつもなら綺麗に食べる芹菜が。
今日は半分以上残している。
すると。
芹菜は少し困ったように笑った。
「食欲が無いのよ」
「風邪か?」
「熱は無いんだけどねぇ」
そう言いながら、お茶だけを飲む。
やはりおかしい。
少し気になったが、本人が大丈夫と言う以上、強くは言えなかった。
そして更に数日後。
放課後。
職員室で採点作業をしている時だった。
「うっ……」
隣から小さな声が聞こえた。
顔を上げる。
芹菜が顔をしかめていた。
「どうしました?」
「いえ……」
芹菜は口元を押さえる。
そして。
机の上に置かれていた缶コーヒーを少し遠ざけた。
「なんか最近、匂いに敏感になった気がするんですよねぇ」
「匂い?」
「このコーヒーとか」
確かに、以前なら普通に飲んでいた物だ。
「病院行った方が良くないですか?」
すると、芹菜は少し考えた後、小さく頷いた。
「そうですねぇ」
その返事を聞きながら。
何故だろう。
胸の奥に妙な引っ掛かりが残った。
その日の夜。
自宅へ帰宅した頃には二十二時を回っていた。
「ただいま」
「お帰りなさい♪」
五月の笑顔を見るだけで少し疲れが抜ける。
いつものように夕食を食べ。
一息吐いていた時だった。
スマホが震えた。
表示された名前を見る。
小百合。
「珍しいな」
通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あっ、和彦さん?』
聞こえてきたのは小百合の声だった。
だが、どこか元気がない。
「どうしました?」
『実はねぇ』
少し言いづらそうな間。
『最近ちょっと体調がおかしくて』
「体調?」
『朝から眠かったり。食欲が変だったり。急に気分が悪くなったり』
そこまで聞いた瞬間。
僕の思考が止まった。
「……」
『和彦さん?』
「……小百合」
『うん?』
僕は静かに尋ねた。
「それ、いつ頃からですか?」
通話を終えた後。
僕はソファへ深く腰を下ろした。
頭の中で情報を整理する。
芹菜。
眠気。
食欲不振。
匂いへの過敏反応。
そして。
小百合。
眠気。
食欲の変化。
体調不良。
偶然だろうか。
いや、偶然にしては出来すぎている。
「和彦さん?」
隣へ座った五月が不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
僕は少し迷った。
だが、五月になら話しても良いだろう。
そう思い、事情を説明する。
すると、五月は静かに話を聞いていた。
そして数秒後。
「……あの」
「ん?」
「私の考えすぎかもしれませんけど」
五月が小さく口を開く。
「もしかして、お二人とも病院へ行った方が良いのでは?」
「やっぱりそう思うかい?」
その瞬間。
五月は少しだけ驚いた顔になった。
「和彦さんも?」
「ああ」
僕は苦笑する。
「まだ確証は無いけどね」
だが、胸の奥では。
既に一つの可能性が浮かび始めていた。
もし本当にそうだったなら。
それは、僕達の人生を大きく変える出来事になる。
そんな予感を抱きながら。
僕は静かにスマホを手に取った。
連絡先を開く。
表示される名前。
──中野マルオ。
一度話を聞いてみるべきかもしれない。
そう思いながら、僕は通話ボタンへ指を伸ばしたのだった──
翌日。
僕は昼休みを利用して芹菜へ声を掛けていた。
「立川先生」
「はい?」
職員室で採点をしていた芹菜が顔を上げる。
「今日の放課後、少し時間あります?」
「吉浦先生からのお誘いですか?♡」
「真面目な話」
「真面目な顔してますねぇ」
すぐに察したらしい。
芹菜はペンを置いた。
「病院ですか?」
「……ええ」
その返事を聞くと。
芹菜は少しだけ目を丸くした。
そして、何かを考えるように視線を落とす。
「実はですね」
「ん?」
「私も少し気になってたんです」
予想外だった。
「気になってた?」
「はい」
そう言いながら、自分のお腹へそっと手を添える。
「流石に自意識過剰かなって思ってたんですけど」
小さく苦笑する。
だが、その表情には少しだけ緊張が見えた。
「行きましょうか」
「そうですね」
同じ頃。
小百合にも連絡を入れていた。
『ごめんなさいねぇ』
電話越しの声はどこか申し訳なさそうだった。
『忙しいのに』
「気にしないで」
僕は首を横に振る。
もちろん向こうには見えないが。
「小百合も来てくれ」
『………』
少しの沈黙。
そして。
『やっぱり和彦さんも同じ事考えてた?』
「多分」
『そう』
再び沈黙。
だが、今度の沈黙は先程とは違った。
不安。
期待。
戸惑い。
色々な感情が混じっているように感じた。
『分かったわ』
小百合は静かに答えた。
『行く』
そして放課後。
総合病院。
日本でも有数の設備を誇る大型病院の待合室で、僕達は診察の順番を待っていた。
「………」
妙に長く感じる時間だった。
待合室のテレビでは昼の情報番組が流れている。
だが、その内容は全く頭へ入ってこない。
周囲では患者達の話し声や看護師達の足音が聞こえているのに、それすら遠く感じた。
落ち着かない。
心臓だけがやけに騒がしかった。
「和彦さん」
不意に声を掛けられる。
顔を上げると、小百合がこちらを見ていた。
ウェーブのかかった茶色の髪を耳へ掛けながら、困ったように微笑んでいる。
「そんなに難しい顔してたら、こっちまで緊張するわよ?」
「……そんな顔してた?」
「してるしてる」
即答だった。
「生徒指導中の先生みたいな顔」
「それは重症だな」
思わず苦笑する。
すると、小百合もふふっと笑った。
その笑顔は普段と変わらない。
どこか安心感のある笑顔だった。
「でも仕方ないか」
小百合はそう言いながらペットボトルのお茶を一口飲む。
「私も同じだもの」
「小百合も?」
「ええ」
静かに頷く。
「本当はすごく怖いわ」
その言葉に思わず視線を向けた。
小百合は少しだけ視線を落とす。
「でも、今ここで色々考えても結果は変わらないでしょう?」
そう言って肩を竦めた。
「だから、なるようになるしかないわね」
やっぱり小百合だ。
不安を抱えていても、まず周囲を安心させようとする。
昔から変わらない。
その様子を見ていると、こちらまで少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
「流石ねぇ」
隣から芹菜が微笑んだ。
「こういう時の小百合、本当に頼りになるわ」
「芹菜はもう少し危機感を持ちなさい」
「持ってるわよぉ」
全く説得力が無かった。
だが。
そう言う芹菜の膝の上で組まれた手は、微かに震えている。
僕はその事に気付いていた。
「芹菜」
「はい?」
「緊張してるでしょ」
そう言うと。
芹菜は一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「あら」
自分の手へ視線を落とす。
「バレちゃった?」
「バレるよ」
「そっかぁ」
ふふっと笑う。
けれど、その笑顔の奥には隠しきれない不安があった。
「だって」
芹菜は小さく呟く。
「もし本当にそうだったら」
そこで言葉を止めた。
続きは言わない。
だが、言いたい事は分かる。
人生が変わる。
それくらい大きな出来事だ。
「こういう時って」
不意に小百合が口を開く。
「漫画やドラマなら大体フラグなのよね」
「やめてよ」
思わずツッコむ。
「だってそうじゃない?」
小百合は苦笑した。
「眠気があって」
指を一本立てる。
「食欲がおかしくなって」
二本目。
「匂いに敏感になって」
三本目。
「定番と言えば定番じゃない?」
「否定できないのが困る」
「私もよ」
小百合はそう言って笑った。
しかし。
膝の上で組まれた指先には力が入っていた。
やはり彼女も不安なのだ。
「お待たせしました」
その時。
看護師の声が響いた。
全員が同時に顔を上げる。
「中へどうぞ」
ついに来た。
立ち上がる。
足が少し重い。
緊張しているのは僕だけじゃない。
芹菜も。
小百合も。
同じだった。
そして診察室の扉を開く。
中では既にマルオさんが待っていた。
「来たか」
低い声。
普段と変わらない。
しかし、長年付き合いのある僕には分かった。
マルオさんもいつも以上に真剣な顔をしている。
「座りなさい」
言われるまま椅子へ腰掛ける。
マルオさんは机の上へ書類を置いた。
検査結果。
それを見た瞬間、再び心臓が大きく跳ねた。
「そう警戒するな。まだ何も言っていない」
「それはそうなんですが」
「顔に出ているぞ」
そう言われると何も返せない。
すると。
「ふふっ」
小百合が小さく笑った。
「和彦さん、本当に落ち着いてないわね」
「笑い事じゃないわよぉ」
芹菜も続く。
「もしかしたら人生が変わる日かもしれないのだから」
その言葉に。
再び静寂が落ちた。
人生が変わる日。
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
だからこそ。
マルオさんも余計な言葉を挟まない。
静かにカルテを開き。
検査結果へ目を落とす。
そして──
「結果が出た」
その瞬間。
診察室の空気が張り詰める。
僕の鼓動が大きく鳴った。
マルオさんは一度だけ僕達を見渡した。
そして。
ゆっくりと口を開く。
「まずは──」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、和彦と五月の甘い新婚生活から一転、芹菜と小百合に思いがけない変化が訪れるお話でした。
二人に現れた共通の症状。
そして、マルオが告げようとしている検査結果とは──?
果たして、和彦たちの未来に新たな幸せが訪れるのでしょうか。
次回は、物語が大きく動く重要な回となります。
続きが気になる、これからも見守りたいと思っていただけましたら、ぜひお気に入り登録をしていただけると嬉しいです!
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それでは、次回もお楽しみに!