本郷 → ルリ子 → 一文字、で進めていきます。
『朝早くから人知れず用務員としてトレセン内の清掃に励む本郷猛。すでに人ではないこの身でも、この体に宿る力を使わずとも誰かの幸せを守ることができる。そんな彼に、少しだけ早い春が、訪れた。』
長い廊下。ちょうど雲で隠れてしまったせいか、いつもよりも少し暗い。
窓ガラス越しに外を覗けば、乾燥した空気に全ての葉を落とした木々。冬真っ盛り、と言ったところだろう。
誰ともすれ違わず、ただ自分だけの足音が響く。これだけ聞けば少し悲しみを覚えてしまうだろうが、そこを歩く男の顔には笑みが浮かんでいた。
この学園の人間であることが示された水色のつなぎに、首元を覆うのは真っ赤なマフラー。つなぎの下には緑色の服らしきものが見え隠れしている。右手には少し大きめのモップが握られており、もう片方の手には洗剤や雑巾と言った掃除に必要な物が詰められている。左肩に留められた腕章を見るに彼は用務員であり、ネームプレートを見る限り名は『本郷』と言うらしい。
(……聞こえる。)
少し耳を澄ませば、この学園に所属する学生たちの声が聞こえてくる。ターフを駆ける者やそれに追いつこうとする者たちが大地を蹴る力強い足音に、それを応援する学生やトレーナーたちの声。平和、というのだろうか。多くの人が望んだであろう『幸せ』の一つの形がすぐ手の届くところにある、男は薄っすらとその様な事を考えていた。
「…………うん、頑張ろう。」
可能であれば、自身もあの子たちの姿を眺めていたい。皆が風を感じる姿を見ていたい。そんな願いが彼にないわけではない。
だが、男はそれを選ぶつもりはなかった。『自分は、そこにあることが解ればいい。』そんな、意味のことを口にした彼はこの学園、日本ウマ娘トレーニングセンター学園。通称トレセン学園にて用務員の職に身を置いていた。
◇◆◇◆◇
彼の朝は早い。
日が昇るよりも早く起きた彼は、学園に身を置く者としての身だしなみを整えた後。職員のために用意された寮から出発し、学園にいち早く入る。校門が閉まっていれば朝練をする子たちのために開け、閉まっていなければ理事長室で書類と格闘しているであろう方々の様子を見に行く。起きているのであれば挨拶と共にコーヒーを淹れ、眠ってしまっているのであれば備え付けの毛布を掛け、入口のドアに『会議中』の札を掛けて置く。
そこからは校舎の掃除に移る。
2000人近い生徒を誇るマンモス校である学園は、その分施設の大きさも非常に巨大なものとなっている。そのためいくら体力のある彼であろうと一人でそのすべてを維持することはできない。その施設数に応じただけの、人数がいる。そんな彼らのひとりである男は、他の職員たちと軽い挨拶を済ました後。自身の担当を確認し、清掃を開始する。
彼は、この黙々と行う作業が好きだった。
昔は誰かと関わる、誰かと会話することは苦手だったが、親友とも呼べる二人のおかげで人並みにはできるようになった。だが、できるようになっただけでその根っこの部分はあまり変化していない。誰もいない廊下、朝の澄んだ空気。今日という一日を全力で頑張る生徒たちが、朝いちばんに見る校舎。ピカピカで清潔であれば、ほんの少し、ちょっとだけいい気分になる。
そんなささやかな願いが、彼の原動力になっていた。
素早く、丁寧に仕事を終わらせた彼は他の職員たちのサポートに回った後、ターフへと移動する。トレセン学園のスケジュールとしては午前中が座学で、午後からは各チームごとでの練習や教官の元での練習が始まる。つまり午前中の間はターフには利用者がいない、ということだ。
巨大な整備マシンなどが忙しなく動き回る中、男は責任者に軽い挨拶をした後。一人ターフを駆ける。
この大きなレース場において一番気を付けなければいけないのは、蹄鉄である。ウマ娘達がその足に嵌める蹄鉄だが、使い込めば込むほどに落鉄。外れてそのままターフに落ちてしまうということがある。基本はその違和感から走っているものが気づき、自身で回収するのであるが時たまその違和感に気づかぬまま放置して帰ってしまう子がいる。もし次の利用者がその放置された蹄鉄を踏んでしまえば……、非常に危険だ。
そのため整備マシンなどに金属探知機を設置することで対策を講じてきたが、それでもたまに蹄鉄が残ってしまうことがある。そのため最後には人の目で確認する必要があったのだが……、やはり非常に時間が掛かってしまう。
「悪いね、本郷君。今度何かおごらせてくれや。」
「いえ、好きでやっていることですので……。ありがとうございます。」
職員とそんな会話を挟みながら、常人よりもはるかに強化された足でターフを蹴り、広範囲を見渡せる目で全体を見渡す。最初は力加減に失敗し、芝を破壊してしまうほど踏み込んでしまっていた彼だが、今は違う。地面に与えるダメージを最小限にしながら、作業を進めていく。
それが終われば、午前中の業務は終了。座学を終え食堂へと走っていくウマ娘達と同じように、彼も一度職員寮へと戻っていく。
すでに食事の必要のない彼だが、昔と違い味を感じることはできる。娯楽の一環として一人で昼食を取ったり、親友のひとりである彼女が作ってくれたものを一緒に食べたり、もう一人の親友である彼と食事に行ったりもする。
楽しい昼休憩が終わった後は、午前中と同じような仕事をした後、退社という形になる。
普通の用務員であればここで帰るのだが、人の良い彼は夜間の警備や見回りを手伝っていた。警備員のウマ娘などが行っている業務だが、急な用事で警備が出来なかった時にその穴埋めをしたり、緑の秘書さんが自主的に行っている見回りに参加したことから自然と彼のスケジュールには用事が書き込まれていた。疲れ知らずの体であるし、誰かの役に立てているということは彼自身のやる気にもつながる。故に特に苦ではないのだが……。
(やっぱり、貰い過ぎだよなぁ……。)
そんな彼の頑張りを、評価しない理事長ではなかった。
各方面から挙げられてくる彼の様子。最初は彼女が赴任するかなり以前から学園でトレーナーを務め、同時に城南大学の教授でもある緑川という男性からの推薦で雇用した彼だったが、『口数は少ないが色々手伝ってもらっている』、『彼のおかげで未然に事故を防げた』、『お仕事手伝ってもらいました!』という声が多く届いている。
実際調べてみれば明らかに本来行う業務以上の作業を行っており、サービス残業も真っ青というありさまだった。そのためせめてその業務量に見合った賃金を払おうと"決定"した理事長であったが、本郷はそのことを申し訳なく思っていた。
言ってしまえば、彼は化け物である。望んで手に入れた力ではないにしても、明らかに常軌を逸した力で、社会からは排斥される運命の人間だった。しかし、彼は受け入れられた。そこにいる皆が自身の力を恐れるのではなく、一つの個性としてみなしてくれる。それがどれだけありがたいのか、得難いものなのか。強く彼は、理解していた。
故に『こんな素晴らしい環境に身を置かしてもらっている上に、お給金まで頂けるなんて……。』という状況に陥っていた。その力の一端に飲食を必要とせず、彼の趣味であるバイクもとある理由から燃料代すらいらないため金銭を必要としないということも理由になるだろう。そのため彼は恩を返すためにより仕事に打ち込むようになり、それを評価した理事長が増額するという好循環? が起こっていた。
このお話は、そんな日々積み上がっていく数字をどう扱えばいいのか困っていた彼の、いつもとは違う一日のことである。
その日は、強化された彼であっても朝から目を回すほどに忙しかった。
まず、朝。
普段のように校門の鍵を開けに来た本郷であったが……、今日は珍しくすでに門が開いていた。確かに当番の方が掛け忘れたり、緑色の秘書の方が先に来て開けていたりと色々な可能性が考えられるが、昨日は夜遅くまで見回りに参加し、施錠するところを目で見ている。となると鍵を持っている他の職員が空けたことになるが……。
確認のため守衛に話を聞こうとしたとき。
「ギャアァァァァァアアアアア!!!!!」
ターフの方から、甲高い、と言うには少々キツイかと思う声が聞こえてくる。同時に彼の視界が一瞬にして真っ暗に。何があったのかと空を見上げる本郷であったが……、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「ご、ゴールドシップくん!?」
そう、明らかに50mは優に超すだろう彼女が、そこにいたのである。しかも謎に虹色に発光しながら。学園で一二を争う問題児にして、何かと話しかけてくれる彼女が、何故かデフォルメされた姿で巨大化している。いや確かにこの学園ではヒシアケボノというウマ娘が何故か巨大化していることもあるため、巨大生物が存在していることには驚かないのだが……。何故虹色に?
「ふぅん! 興味深いねぇ!」
「おぉ、いいところに! 本郷君!」
目の前に広がる光景に思わず目を擦ってしまった本郷に、呼びかける声。その方向に顔を向けると、こちらに向かって飛翔するコウモリの様な男性と、それに捕まる白衣を来たウマ娘の姿が見えた。
「博士に……、アグネス……。」
「タキオンさ! 初めましてかね用務員くん! 見たまえ! アレこそがコウモリおじさんと私の研究の成果だよ! ……まぁなんで巨大化したのか、虹色に光ってるのかすら解らないが。とにかく素晴らしい成果だ!」
「実は実験の関係で泊まり込みで製薬の方をしていたのだが……、誤ってゴルシ君がその薬剤を飲んでしまってな。校舎を突き破って巨大化してしまった。」
「えぇ……。」
よくよく目を凝らしてみてみれば、確かにタキオンを名乗る彼女とコウモリの男が使用している部屋。そこが校舎ごと根元から倒壊している。なんでそんな危険な薬品を調合しているのか、なぜそんな場所にゴルシがいるのか、明らかに危険そうな薬品をなんで飲んでいるのかと色々聞きたいことはあるが、ゴールドシップが巨大化して暴走していることは事実。被害が拡大する前に止めなければならない。
「使用した薬品の性質とトレーナーくんでの人体実験の結果から鑑みるに、おそらく強い衝撃を与えれば元通りになるはずさ! 安心したまえ、彼女の体はその大きさに見合った固さに変化している、キミが思いっきり蹴ったところでハリセン程度の痛みしかないさ!」
「また彼を実験台にしているのかいタキオンくん。愛想付かれてもしらないよ?」
「大丈夫だとも!」
「……と、とりあえず状況は解りました。……サイクロンッ!」
彼の掛け声に合わせて、彼の背後から飛び降りてくる二輪車。それに流れるように搭乗した彼は、普段は手を付けぬヘルメットを、被る。
「変…………、身ッ!」
◇◆◇◆◇
変換されたプラーナを排出し、脱ぎ捨てたつなぎを着直す本郷。
詳細は省くが、彼と彼の愛機であるサイクロンのおかげで学園の危機は未然に防がれた。暴走したゴルシはすでに元通りの姿に戻ってピンピンしているし、タキオンたちも騒ぎを聞きつけた生徒会の副会長に連行されて行った。職員専用の駐車場にサイクロンを止めながら、彼は過去を思い出す。
最初この力を手に入れた際は、その力の大きさに恐怖し、何をどうすればいいのか全く分からなかった。ヘルメットに埋め込まれた一つの機構によって本来持たないはずの攻撃性を手に入れてしまい、人の命を奪うことに何も感じなくなってしまった。その後、彼女の言葉もあり前に進む覚悟を持つことはできたが、それでも自身が人を殺めてしまった事実は変わらない。
組織の裏切り者を処すために動いた彼、自身の欲のために野望のために多くの人間を殺した彼、そして彼女の大事な人であり守れなかった彼女。自身が戦いを選んだ結果、多くの人がその命を落とすことになってしまった。選ばなければより多くの人が死んでしまったかもしれない、だが自身の選択の結果、人が死に、彼女の兄が消滅することを選んでしまった。
この血塗られた手を、洗い流すことはできない。
それは強く、理解している。
だが。
「…………うん。」
今は、違う。
この力は脅威であることには違いない、だが人を殺めてしまう以外の使い方ができるようになった。自身の力をより正しい方向に、誰も傷つかづにすむような使い方ができるようになった。自分が犯した罪は消えない、それは重々理解している。だが、自身がこんな形で誰かの力になれることが、強くうれしかった。
緩んでしまう頬を押さえつけながら、自身の仕事に戻るため歩を進める彼。
ゴールドシップを元に戻した後、崩壊した校舎の補強や瓦礫の撤去。連鎖的に崩壊してしまう可能性から立ち入り禁止の立札やテープを張るという作業で時間を取ってしまった。事情が事情であるため皆理解してくれるだろうが、自身に割り振られた仕事をないがしろにするわけにはいかない。
そう考えながら自身の掃除用具を取りに行くために移動していたのだが、彼の耳にまたもや悲鳴の様なものを捕らえてしまう。仕事が遅れてしまうことは気になるが、彼の性質上誰かが困っていてそれを放置することはできない。それに悲鳴のような声が上がるということは、非常事態が起きてしまっているということ。
自身が力になれるかはわからないが、可能であれば力になりたい。そう思い声が聞こえた学生用食堂の方に足を運んだのだが……。
そこは明らかに戦場であった。
「しまりましたッ! 私一人では、圧倒的に不利ィィィィ!!!!!」
蜘蛛の様なマスクをつけた男が、六本の腕を縦横無尽に動かしながら調理を進めている。だが、相手は本郷でも小耳に挟んでいる大喰らいの化け物たち。蜘蛛の男以外が床に倒れ伏し、まさに死屍累々というありさまに驚愕し、思わず彼らの元に駆け寄った本郷にも、彼女たちの輪郭がようやく見えてくる。
「すまない、あるだけいただけるだろうか?」
笠松から来た葦毛の怪物、オグリキャプ。
カサマツトレセンの食糧庫を一瞬にして食らいつくし、そこから更にお代わりを要求したという彼女。その健啖さは中央にやって来てからも変わらず、いやむしろ強化されている。授業中にお腹がすき過ぎて教師の声が聞こえなくなり、結果的に授業を崩壊させてしまったという強靭な胃袋はまさに草すら残さない。
しかも今日は朝練帰りということで大変お腹を空かしていらっしゃる! 少し汚れたジャージのまま入ってきた彼女は食堂職員たちが用意してきたおにぎり、そのすべてをかっさらっていった。あれでも10㎏近くあるはずなのに多分3分も持たない。こわい。
「わぁ! 今日は朝からニンジンハンバーグあるんですね! すみませんギガタワーでお願いします!」
日本総大将、スペシャルウィーク。
北海道の巨大な農園を持つ家庭で育った彼女、そんな家庭をたった一人の食費だけで傾かせたお化け。その食欲は北の大地を離れても衰えず、むしろ本格化が始まったことによりさらに強化された。まさに元気いっぱいの笑顔を浮かべながら、フリスビーよりも大きいハンバーグを自身の体よりも高く積み上げたギガタワーを頼む当たりその笑顔は捕食者のものである。
さらに彼女の総大将としての言葉、凱旋門賞ウマ娘を打ち負かした彼女の金言。『あげません!』は非常に強力で職員たちを絶望に叩き落す言葉である。彼女がそれを発した瞬間、それまでに作り上げた料理たちの所有権はすべて彼女のものになる。そう、すべてだ。それまで築き上げてきたものすべてが持っていかれるのである。
「あの、ライスはパンとシチューをください! できれば鍋ごといただけますか?」
黒い刺客、ライスシャワー。
そのかわいらしいしゃべり方、他の化け物と比べ比較的小さいその体。しかしながら油断すればその瞬間こちらの死が確定する、まさに刺客。ドラム缶ほどの大きさがある寸動を所望することも、彼女なりのやさしさから『何回もよそってもらうの悪いよね。』という気持ちは職員たちも重々理解している。だがそんなやさしさをもってくださるのなら昨日から煮込んだそのシチューを鍋ごと全部持って行かないでください。
学園が誇る『パン工場よりたくさん作れてしかも早い!』なパン窯が焼き上げる朝の分、その大半を自身の胃の中に収める彼女。その大きな耳は食欲の大きさでも表しているのだろうか。今日は珍しく彼女のトレーナーも同伴しているようだが、その食事量に驚愕しているのか、それとも摂取したカロリーの行方を想像しているのか。顔を覆って天を仰いでいらっしゃる。
「ご、ごめんなさい蜘蛛さん……。」
「構いませんとも! これも私が貴方のように用意周到ではなかったが故の結末! KK君の修行のためにその背を押した選択は決して間違ってはいませんとも! ですがさすがに……、お嬢様方! 少々お時間いただきますよ!」
「ということだからライス、少し席に座って……。あ、本郷君。」
「ルリ子さ……」
彼と彼女の目が合い、本郷が何かを口にしようとした瞬間。その交差する視線の中に赤いマスクが入り込む。
「バッ、いや本郷君!!! いいところに来ました! すぐさま手を洗い着替えてきてください! 今は猫の手でも借りたい状況! ほら! ハリー!」
「…………ぷ。そ、そう言うことみたいだから。頑張ってね、本郷君。」
「う、うん。」
「……ふぅ。」
朝練帰りの朝食のラッシュから、昼食のための仕込みまで手伝わされた本郷はさすがにその疲労を隠せないでいた。いくら常人を超えた存在だったとしても、普段しない行動は精神に負荷を与えるし、蜘蛛の男は最上の料理を提供するために手段を択ばないタイプだ。単なる利用者であれば食事を楽しむだけで済んだだろうが、指示や指導が適切とは言え彼の元で調理を行うのは精神をすり減らすものがあったし、なにより自身が作ったものが誰かの口に入る以上細心の注意を払わなければなかった。
苦労の中に楽しさもあったし、得難い経験ではあったのだが……。毎日はしたくないかも、と思ってしまう。
(……聞こえる。)
息を整えながら、ようやく自身の担当の場所までたどり着いた彼は耳を澄ませていた。時間はすでに正午を回っており、ウマ娘達が午後の練習に励む声が聞こえてくる。ターフを駆ける者やそれに追いつこうとする者たちが大地を蹴る力強い足音に、それを応援する学生やトレーナーたちの声。
「…………うん、頑張ろう。」
気合を入れ直し、掃除を開始しようとする本郷だったが、さっきまで聞こえたいた音とは違う、こちらに向かって走ってくるような音を察知する。今いる場所はちょうど教室の近くの廊下、それを考えると何か忘れ物をしてしまった生徒だろうか。
自分が普段いるような学び舎に、用務員とは言え成人男性がうろついているのはあまり良い気分ではないだろう。そう考えた本郷は彼女の視界に入らぬように足早にその場から離れようとする。が、
「あ、用務員さ~ん! まってー!」
呼び止められてしまった、振り返るとそこには薄い桃色の頭髪を持つウマ娘がいた。
「用務員さん、こんにちわ!」
「……はい、こんにちは。」
不安を与えぬように、膝を付いてしゃがむことで目線を彼女に合わせる。話しかけられるとは思っていなかったが、親友である彼に色々話を聞いておいてよかったと彼は考えていた。元々人づきあいが苦手な彼だ、それを自覚していたが故にこの仕事に就く前に何かと世話になっている一文字という男から入知恵を受けていた。
もう一人の友であるルリ子という女性から何度も指摘を受けながら練習し、様々なパターンを叩き込まれた彼はその中の一つを自然と行っていた。そのおかげで傍から見れば優しそうな好青年に見えるが、内心非常に緊張している。
「あのね―! 私、ハルウララって言うの! 用務員さんわ!」
「……本郷、本郷猛。」
「ほんごう? さんっていうんだ―! かっこいいね!」
ただ、誰かと話せることが楽しい。そんな感情を全面に出しながら、彼女は笑う。初めて話すタイプであり、少々面食らってしまう。だが、彼女が自身に用があって呼び止めたことを思い出し、怖がらせないように、ゆっくりと声を紡ぐ。
「それで……、僕に何か用事?」
「あ! そうだったー! あのね! ほんごうさんがいつも色々、た~くさん頑張ってくれてるからね! お礼しに来たの!」
そう言いながら、自身が覚えていることを一つ一つ上げていく彼女。毎日自分たちが使うターフの点検をしてくれていること、夜遅くまで見回りをしてくれていること、いつもきれいにお掃除してくれていること、少し詰まってしまうところもあったが大切なものを丁寧に取り出すように、楽しそうに話を続ける彼女。彼は優しい笑みを浮かべながら、その声を静かに聞いていく。
「それでね! ほんごうさん以外のみーんなにお礼しにいったんだけど、ほんごうさんだけいなかったの! だから探してたんだ~!」
「そうなのか……、すま。いや、ありがとう。」
「うん! それでね! キングちゃんと一緒にクッキー作ったんだよ! ……あれ?」
何かを手渡そうと持ち物を探そうとした彼女だったが、どこからどう見ても手ぶらで、ポケットにも緑のラインが入ったハンカチしか入っていない。その慌てぶりを見るに、どこかに置いてきてしまったのか、落としてしまったのだろう。
「あれ? あれ? あれ~?」
「……よかったら、一緒に探そうか?」
「いいの!? うん!」
ゆっくりと立ち上がりながら、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。
「じゃあ、来た道を引き返そうか。ウララちゃん……、でいいかい?」
「? うん! じゃああっちからだね!」
風が吹き、それまで日光を遮っていた雲が流れていく。つい先ほどまで暗かった廊下は、温かい日差しに包まれていた。響く足音は、二つ。彼にとっての冬の時代はすでに終わりを告げ、桜の花びらと共にやって来た長い長い春は、まだ始まったばかり。