家族に嘘を吐くというのは、落ち着かないものだ。
私がどうにも気弱なのかもしれないが、妻子ある身で嘘ばかり吐くよりは良いだろう。
仕事の都合で等と理由をつけて何日も家を開けていたのに、追求しないでくれた妻には感謝しかない。こんな私を信頼してくれる、素晴らしい女性だ。嘘なんか吐きたくはない、しかし正直に言って心配させるのも心苦しい。
だからこそコソコソと行ってきたのだが、まあまさか妻も思うまい。私が娘恋しさに、日本までわざわざ行っていたなんて。
私は良い夫でも良い父でも無い、しかし開き直る度胸もない男だ。それでも、そんな私にも愛情という物はある。
――血を分けた実の娘の行く末は、やはり心配だったのだ。
千夏が日本に残ると言い出した時は、動揺を抑えるのに精一杯だった記憶がある。もう高校生、まだ高校生。自立も自活もまだまだ早い、どうにか説得してつれていくべきではないか。しかし私は口下手で、それに女性の気持ちに疎い。憚りながら私にも高校生だった時期はあるが、女子だった事は無い。だから女子高生の気持ちなど、どうやって理解して良いか見当もつかない。
口を開けば空回りしそうで、結局は妻に任せてしまった。私はただ、それを肯定しただけ。不甲斐ない父親であり情けない夫だ、本当に。
思えば千夏に関しては、ずっと妻任せではないか。仕事ばかりで家庭を省みないような男にはなりたくなかったというのに、今やこの様か。
そんな事ばかり考えていたせいもあって、春以来の対面になった年末年始もギクシャクしてしまった。とは言えあれはうちの父も悪い、たまに帰ってきた長男をこき使わないで頂きたかった。あちこち回っている間に正月は終わり、一足先に千夏は猪股さんの所へと
猪股さん、妻が高校時代の友人。栄明から通える距離にあり、そして千夏と同じく栄明生徒である
話を聞いたときには、幾らなんでもそれは大丈夫なのかと絶句した覚えがある。一つ下の男子と同居する、というのはあまりにも危険ではないか。もしも万が一良くない事態に陥ったなら、私はどうすれば良いのか。
生来楽天的な妻は特に気にもしていないが、私としては内心頭を抱えていた。そこでなにも言えない辺りが、私の悪いところなんだろう。
不測の事態になられては困る、悶々としながら過ごしてきた私は、ついに行動を開始した。
日本に行き、この目で確かめよう。千夏が無事に過ごせているか、幸福かどうか。それは父親としての義務なのだから。
案ずるよりは産むが易し、とは言う。しかしこうも都合よく話が進むと、どこか薄気味悪く思えたりするから不思議だ。
貯まりに貯まっていた有給を消化してほしい、と上司に言われたのがその始まり。ポッカリと空いたエアポケットのような突発的な連休、カラ出張の口実として使えそうな諸々の事情。日本行きのチケットもスムーズに手に入り、全てが順風満帆。
しかしそういう時こそ、不意にうまくいかなくなるものだ。ネガティブな妄想ではなく経験として、それは確かな事。
その結果として今私はどういう訳か、どういう訳か。
娘にも会えないまま、居候先の息子さん――大喜くんと二人きりで向き合っている。
連絡をしないで来た以上、千夏がいなくてもまあ仕方があるまい。向こうの親御さんに挨拶して様子を伺えれば上出来、くらいには思っていたのだが。
……何で大人が誰もいない、そして何で日曜の昼下がりに高校生が家にいる。いや別にそれは良いんだが、だったら千夏だって残っててくれて良いじゃないか。
知らない家で初対面の、それも親子ほど歳の離れた人間と一対一は気まずい。とりあえずは父や妻が言っていた通りの純朴そうな子だし、そこまでの圧が無いのは救いだった。まさかこんな可愛らしい子が同居人に不埒な真似をしたりはすまい、そこはひと安心だ。しかし私が千夏の父である事も疑わなかったようだが、それはそれで少し心配になる。素直すぎないか、男子高校生の割に。
まあそれに家庭が平穏かどうかは、そこの雰囲気で見えてくる。猪股家は平和そのものの呑気な空気の家だ、これは千夏ものびのび暮らしていることだろう。そう解釈する事で娘の無事は確認したと言って良い、本人に会ってしまうと逆に良くない。絶対妻に連絡が行く、そして私が怒られてしまう。
さてこれからどうしたものか、と思案しながら出された湯呑みに手を伸ばそうとした時だった。
大喜くんは何か決意したような表情で、そしてそれを口にした。『千夏さんとお付き合いをしています』――と。
私はあまり表情が多彩な方ではない、口数も少ない。思考が追い付かなくなるとすぐに、黙ったまま動けなくなってしまう。まさに今は、そうなってしまっている。
いや、いやいや。いやいやいやいや、それはそれは。
千夏の交遊関係を私は基本的に把握していない、その必要もないと思っていた。そういうプライベートな領域へ大人が、それも親がずけずけと踏み込むのは絶対に良くない。本人が自発的に言うならまだしも、親子の間にも礼儀は必要だろう。
でもしかし、付き合うとはつまり、この子が千夏の
沈黙する私が不安なのか、大喜くんは力のこもった視線で不器用そうに言葉を続けてくる。
二人の関係は、決して「良くない事態」になるようなものではないと。
お互いに夢を追い、支えあっていると。
その声に嘘偽りは何一つ無く、ただただ静かに熱い。高校生の分別の中では正しそうに思える、等という嫌みじみた解釈を挟む余地もなく、私へと誠意を放ってくれる。妻の両親に結婚の赦しを得に行った日の私でさえ、ここまでではなかっただろう。
いや比べることなど出来るものか、私はこんなに強くも立派でもなかった。今と変わらない、小さく弱い男にすぎなかった筈だ。
「俺はまだ千夏せんぱ、……千夏さんと肩を並べられる人間じゃありません。でも、だから――
灼熱色の眼差しに射抜かれ、私は遠い記憶を思い出す。
結婚する前、まだ手探りで交際していた頃を。不承この私にも、そんな時期があったのだ。
この人を好きになっても良いのか、自分にはその資格があるのか。
どれほど悩んだだろう、何度眠れぬ夜を過ごしただろう。彼もまた、そういう段階にいる。
ならばどうするか、答えは決まっている。
私は彼をよく知らない、娘の事も完全にはわからない。私は規範的ではない夫であり、世間的には正しくない父親だ。
でも、それでも。
こういう時に言うべき言葉くらいは、知っている。
「そうか。千夏を宜しく頼む」
私が人並みに器用で気の効く人間であれば、もっと言い様もあっただろう。しかしまあ、私はこの程度の人間だ。
誠実で真っ直ぐな彼と共に歩む日々は、きっと千夏にとって幸福な時間になる。それさえ確信出来れば、それで良い。
来たときより若干忙しい帰路を経て、まだあまり住み慣れない新しい自宅で思うのはそんな事。
まったく心配性の癖に変に楽観的なのだから困ったものだ、杞憂という言葉を知らないのか私は。
悩むなら悩むで、もう少し発展的な事を考えるべきだ。
「……ふむ」
そう言えば、考えてみれば。彼はこの先、私の義理の息子になるかもしれないのだな。その可能性は限り無く100%に近い、そう見えた。
――息子、か。想像したこともないな、息子のいる人生というものは。娘はいるのだが、性別が違えば何もかも変わってくるものなんだろう。それに育てるまでもなく千夏の一つ下まで大きくなっているわけで、色々と想像がつかない。
それに――……それに。もしかしたらその先、二人に子供が出来たとして。
私に孫が出来て、祖父になるのか。……祖父…………か、とても重い響きだ。まだまだ先であってほしいような、そうでないような。
まあ、悩んでどうなるものでもないか。出物腫れ物所構わず、なるようにしかならない。
私が祈るのは、ただ娘の幸福一つ。
それくらいしか出来ない不器用な親で申し訳ないが、それで御寛恕願いたい。