#1 アオく萌える乙女たち
:まだまだ告白なんか遠かった頃のやつです。
:最初期のコメディなので、今とはかなり毛色が違います。
私は、独りで戦うべきだと思っていた。どんなに壁があろうとも、独りで乗り越えなければならないと思っていた。私は、蝶野雛だから。負けてはいけない。逃げてはいけない。どんなに苦しくても、辛くても、独りで。そう、思っていた。だから、そう。誰かを頼るなんて、考えたこともなかった。と言うか、よりによって。――天敵だとさえ思っていた相手を、頼るなんて。
鹿野千夏、先輩。英明学園高等部のスターであり、そして、……私にとってはライバルだった。千夏先輩はバスケ部で私は新体操部、競技で争う事はない。でも彼女は、私の――大切な人に憧れられているから。私は、千夏先輩を敵視しなければならなかった。
私の幼馴染みその一、それがつい最近までの猪股大喜への評価。だけど今の私にとって大喜は、全ての支えになっている。大喜がいなければ、私は折れてしまう。好き。大好き。そう、気付いてしまったのだ。しかしそれに気付いた時には、大喜と千夏先輩は一つ屋根の下に住んでいて。明らかに、仲良くなっていて。私は「友達」のまま足踏みしていただけだった。
正直、憎んだ。千夏先輩を、憎んだ。同居の事も込みであれこれブチまけて、全部台無しにしてやろうかとも思ったくらいだ。でもそんなのは、私じゃない。蝶野雛は、憎しみでは動かない。卑怯なこともしない。正々堂々、正面から戦う。戦って、勝つ。それでこそ、無敵の蝶野雛だ。
だからその日、私は宣戦を布告する気だった。大喜は渡さない、と言ってやるつもりだったのだ。なのに。
「そっか。やっぱり、そうだよね。応援するよ、蝶野さん」
千夏先輩は、あっさりと。まるで当然のように、そう言ってくれた。
「まぁ、私も大喜くんは好きだけどね。独り占めしたいわけじゃないの」
……拍子抜けどころの騒ぎじゃない。たった一歳違うだけなのに、オトナ過ぎる。私は何があっても勝ち取る気だったのに。
「蝶野さんが大喜くんを好きなのは知ってたけど、どうしようかなーって思ってたんだ」
そして千夏先輩は、蝶野さんと大喜くんの気持ちを測ってたんだよ、と笑いながら言った。もし大喜が私を好きだと言えば、やっぱり応援する気でいたと。そして、私も大喜も動かないようなら、その時は大喜に好きだと告げるつもりだったとも。
先輩は、大喜が幸せになれるかどうかを考えていたのだ。大喜を自分のモノにしたいなんて思わず、周りまでしっかり見て。――私まで、幸せにしようとしてくれていた。
つくづく、スゴい人だ。敵に回すべきではない相手だ。
「大喜くんはみんなの物で、だから大切にしないといけないんだよ」
「……いや、そんな公園の公衆トイレみたいに……」
ちょっと、いや結構ズレてるけど。
「私の知り合いに腕っこきのハンターがいるから、シロサイ用の麻酔弾で――」
「いやいや。いやいやいやいや。そんなこれから地上最強の生物を寝かし付けます、みたいな事考えないで下さいよ……」
先輩とじっくり話してみて、分かった。
この人、器が大きいんじゃない。底が抜けてるんだ。壮絶なレベルでポンコツなんだ。
「大丈夫だよ、蝶野さん。前に動画で観たけど、男の子は寝てても反応するらしいから。跨がって一発、既成事実作っちゃお☆」
……天使の笑顔で、下世話かつメチャクチャな事を言う先輩。と言うかそうじゃなくて。そんな野性の狩り方じゃなくて。
猪股家の、先輩の部屋。私たちは、……まあ、「作戦会議」をしているのだけれども。先輩はさっきからずーっとこの調子だ。もしかしたら私が失敗するように誘導してるんじゃないか、とも疑ったけど、どうもそうは見えない。幼い頃から人の本心と建前の差を見続けてきたこの私が、そういうのを見抜けない筈がない。つまりこの先輩、本気だ。本気でポンコツだ。
「じゃあこの動画みたくアマニ油に浸した荒縄で、大喜くんを三時間くらいみっちりと」
「お願いですから、大喜を変な方向へ目覚めさせないであげて下さい! ただでさえあのバカ、果てしなくバカな上にドMなんですから!」
……あと、結構マニアックなヘンタイだ。「リアル経験はないけど、いっぱい勉強はしたからアドバイスくらいはできるよ」とか言ってるけれど、すっごい偏ってる。……と思う。本棚にスラムダンクとかと混じって、明らかにソレっぽいのが並んでるし。異種姦人間牧場だの男の娘メスイキだの強制排卵受精アクメだの、背表紙の文字列だけで既に「濃い」のがたっぷりと。いや私そういうの読んだことないし、まだそういうのには興味ないけど。……うん。まだ。ちょっと怖い。
とにかく、そういう方向で行かれると非常に困る。ホントこの人、なにするか分からない。最悪大喜を全裸に剥いた上、縛り上げて持ってきかねない。……それはそれで……いやまぁ困るけど。そこまでして欲しいわけじゃない。
「もっとですね、こう……普通にイチャイチャするとかで良いんですよ。あんまり極端な事をしたいわけじゃないんです」
それは、偽り無い私の本音。大喜とはずっと仲良しで、ずっと「親友」だった。だから、告白なんて出来なかったんだ。もし失敗してしまえば、私は親友まで失う事になるから。そんなことになるくらいなら、このままでいいと思っていた。
――でも、そうじゃない。大喜が、好きだ。大喜と、特別な関係になりたい。親友のままでなんて、いたくない。そんな気持ちを、これ以上抑えておけないんだ。私が、私でいる為にも。怖いから目を背けているなんて、無敵の蝶野雛がすることじゃない。私は、戦うんだ。いつだって、勝って先へ進むんだ。
だから、はっきりと明言しておく。ちゃんと言っておかないと、この人ろくでもない事やらかすし。
「私、大喜が好きなんです。千夏先輩が応援してくれるのは嬉しいですけど、大喜を傷つけるようなのは辞めて下さい。私にとって大喜は、何よりも大切な人ですから」
それが、私の決意。私の、蝶野雛の本心。
千夏先輩は、にっこりと微笑んで。そして立ち上がり、
「だって。良かったね、大喜くん」
――隣の部屋のドアを開けて、笑いながら、そう言った。大きな声で、はっきりと。
……そこからは、正直ろくに覚えていない。全部隣で聞いていたという大喜を締め上げたり先輩に食って掛かったり暴れに暴れ、気が付けば大喜のお母さんに全力で叱られていた。正座で。しかし他所の人から思いっきり叱られたの、久し振りだなぁ……。
まあ、さすがに。あれだけメチャクチャな事になったものの、結局――私たちは、めでたく「親友」から「恋人」へと昇格を果たせた。まぁね、あれが全部伝わってたなら、派手に告白したようなものだし。そして先輩からのフォロー……みたいななにかも、多分後押しになったんだろう。だからって何が変わるわけでもなく、これまで通りにバカを言い合う仲ではあるけど。
それと先輩との「作戦会議」は、何の因果かあの後も続いている。もちろん大喜にはどこかへ行ってもらった上で、二人だけで。……色々と「お勉強」をさせてもらっております。色々と。そろそろ実践する頃合いかな、と思ってみたりみなかったり。
さて、首尾はどうなるものか。
決まっている。私たちは、どうあったってハッピーエンドを迎えるんだ。
だって無敵の蝶野雛さまは、何があってもへこたれたりしない。大事な人を守りながら、全速前進するんだ。
「大喜、好きだよ。ずっとずっと、一緒だからね。約束だよ」
私は今日も突き進む。この気持ちを、原動力にして。
#2 立ち上る泡はアオく弾けて
:由紀子さんと先輩の酔いどれ話です。これも結構前ですが。
:お酒は大人になってから、ですよ。
他所の子ではあるけれど。
確かに血は繋がっていないけれど。
家族の一員ではないかもしれないけれど、でも。
私としては千夏ちゃんを、自分の子供のように大切にしたいと思っている。と言うか、生意気盛りの実子より可愛いとさえ思う。
しかし千夏ちゃんにとってそれは、重荷でしかないかもしれない。
最近どうも大喜との間がギクシャクしているようだけど、それも私たちへ気を遣いすぎているせいなんじゃないだろうか。
なんかうちの旦那が、余計なこと言ったみたいだし。私たちの熱意とかそういうのは、本人に言わないでほしかった。ええ確かに言いましたよ、ただ人を預かるだけじゃないんだと。多感な時期の大切な二年間を、後悔無く過ごしてもらえるようにするのは、私たち大人の義務なんだと。
でもそれを聞かされて、きっと千夏ちゃんは思っただろう。私には猪股家で幸せに過ごす義務がある、と。そうじゃないんだけど、あの子は母親に似ず真面目だから。真面目で融通が効かない、不器用な子だから。
産んだわけでもないし、親代わりとはいかないだろう。
歳だってダブルスコアだし、友達にもなれないだろう。
それでも、私は千夏ちゃんと仲良くなりたい。心を開いて欲しい。そう、思う。
うちはそれぞれ家を開ける事が多く、家族が揃うのは意外と少ない。そんな中、どういうわけか。
今この時間に私と千夏ちゃん、二人っきりになっている。
お義父さんは旅行で旦那は出張、大喜はバド部の合宿。まあ、予定が重なることだって珍しくはないけど。
この組み合わせで二人きりというのは、なかなか無い。
千夏ちゃんが部屋に上がってしまう前に、なんとか話の一つもしようかな。
でもなあ、どうしようか。
そう思いながら冷蔵庫を開けると、貰い物の缶ビールが唸っていた。……何で一度に全部冷やすかな私。
しかし缶ビール、か。
そう言えば思い出した、栄明女子バスケットボール部の古い伝統を。
今でも通じるか、分からないけど。
この御時世に、まさか残っているとは思えないけど。
とりあえず、やってみるか。
「千夏ちゃん、ちょっと付き合わない?」
ビールを片手に、買い置きの乾きものを食卓に並べて呼び掛ける。
まあ、普通なら絶対乗ってこない。お酒は二十歳になってから、だ。
でもこの子は私の後輩だから、もしかしたら。
「あ、いやあの私未成年で……」
「良いのよ、先輩後輩って間柄なんだから。バスケ部でもやってるでしょ?」
コクンと可愛く頷く千夏ちゃんに、伝統の健在を知らされる。栄明女子バスケットボール部の伝統と言えば、試合後の酒盛りだから。
私たちよりずっと前の先輩方が恒例化して以来毎年、先輩から後輩へと飲酒の手解きが行われていた。一年生は三年生に必ず一度は「私の酒が呑めないのか」とシバかれる、それが我ら栄明の伝統芸。悪しき伝統ではあるけど、絶えること無く続いてるようだ。
「あー……去年卒業した先輩に、「良いことも悪いことも学校で覚えるんだよ」って呑まされました」
どっかで聞いたな、いやもしかしたら私が言った言葉かもしれない。まあ、いいか。
酒は人を陽気にも陰気にもしない、箍を緩めるだけだ。普段は理性で抑えている部分が出てくるだけで、豹変するわけじゃない。
私は知りたいだけだ、千夏ちゃんの本心を。
くぴくぴとビールを口にする仕草まで可愛い、いいなあ若い子は。大喜は全然乗ってこないし。
とは言え、だ。若いと酒も回るもんだ。勢いがあるからね。
少しずつ顔が赤くなってきた所を狙って、ちょっと踏み込んでみる。
「千夏ちゃんは、さ。正直なとこ、不満とか無いかな。気を遣わなくていいからさ、聞かせてよ」
こんな風に聞かれてハッキリ言うような子じゃない、でも酔った頭じゃ気遣いなんか出来ないものだから。
むにゃむにゃと考えるような顔をしてから、千夏ちゃんが口を開いた。
「やっぱり、鍵は必要だと思うんですよ」
鍵。ああ、そうかやっぱり。千夏ちゃんの部屋は大喜の部屋と同じ間取りで、ドアには鍵がない。まあこの家で鍵のかかる場所なんて、トイレとか浴室とかだけなんだけどさ。
高校生、だもんね。大喜は旦那に似て奥手だから、まさかよからぬ事をしたりはしないだろうけど。それでも、無防備な姿を見られかねないのは、嫌だろう。同居開始前にどうにかするべきだったんだけど、色々あってやってなかったんだよね……。
「大喜くんの部屋、鍵付けましょうよ。私が大変なんですから」
グッとロング缶を煽って、千夏ちゃんは言い放つ。
……いや、そっちですか。
「大喜くん無防備な上に可愛いんですよ、私我慢できなくなりそうなんですよ。息子さんの息子さんを襲っちゃうかもしれませんよ」
目が座った千夏ちゃん、言ってることがエグいです。股を痛めて産んだ我が子を可愛いと言って貰えて光栄だけど、なんというかそういう理由ですか。そういう所は母親に似たんだなこの子。あと「息子さん」が一回多い。
まさか、ねえ。千夏ちゃんがそう思っているとは。
大喜はたぶん千夏ちゃんが好きだし、卒業した後でお嫁に来てくれたら嬉しいなーとは思うけど。在学中にそういうのはなあ……。まあ私もあの人なかなか手を出してこなかったから、一方的に跨がって既成事実作って結婚した身だけど。因果は巡るってことだろうか。違うな。
とりあえず、鍵の事は考えておこう。
「私はお母さんの夢より、自分を優先したいんです。バスケは好きだけど、でも大喜くんはもっと好きなんですよ由紀子さん」
ロング缶の死骸をゴミ箱にシュートしつつ、千夏ちゃんは真剣な顔。その思い、わからないでもない。
親子二代で夢を追うと言えば美談にも聞こえるけど、千夏ちゃんは生まれる前からバスケの道に入ることが決まっていた子だ。……大喜もそうなる筈だったけど、チームプレイに向かなすぎたから……。
小さい頃は、他を知らないから疑うことも無かっただろう。それから成長して社会を知って、無数の道があると気付いて。それでも千夏ちゃんは、それに目を背けて来たんだろう。気遣いと気配りの子だから。
でも親の都合で今までの人間関係を全て失うのは、嫌に決まっている。バスケは理由の一つでしかないのではないか。日本に残りたいと言ったのはワガママじゃなく、千夏ちゃんが一人の人間として歩き出せている証拠だ。
本当なら、酒を口実にしなくてもいい。言いたいことを言ってくれて構わない。
大切な二年間を、気を遣って浪費してほしくない。千夏ちゃんにとって、猪股家での生活が実りあるものになってほしい。
……でも。でも、だ。
「あんまり大喜に手を出されると、やっぱり困るかなー……。節度を持って、ね」
「んー、先っちょだけなら合法ですよねー」
いやいや、いやいやいやいや。そうでなく。高校生らしいおつきあいを御願いしたいのだけれど。お突き合いではなく。
この子、ホント余計な所は母親似なんだな。
義理や人情が守れるならば、恋は思案の外じゃない。昔の人はよく言ったものだ。
まあ、なるときはなるものだから仕方ないかな。
「由紀子さーん、息子さんの息子さんを本体込みで私にください」
「……どんどん言うことがおかしくなってきてるわよ、千夏ちゃん」
で、時計の針は幾らか回って。
千夏ちゃんはそろそろ潰れそうになりつつ、際どい事を言い続けている。
本当にこの子の語彙は明らかにおかしいと言うか、下世話と言うか。普段とのギャップがすごいのは、それだけ常日頃気を遣いすぎているという事だろう。
さて、だ。千夏ちゃんがこのままダウンしたら、とりあえず鍵をどうするか考えようかな。
いやむしろ、二人をくっ付けてしまうか。私たちの時みたいに、愛があればどうにかなるだろうし。
――いかんいかん、私も酔ってるな。これはあれこれ考えても仕方ない。
酒に身を任せて、将来家族になるであろう子と二人きり。心地好い酩酊感に浸りながら、目を閉じてみる。
この子に幸せになってほしい、将来的にはお義母さんとか呼んでほしい。
それは私の、本心だ。
願わくば私の子供たちに、幸福な日々が訪れますように。
#3 二人の夜はアオく更けゆく
:ちょっとしたオカルト系の話です。
:ちなみにヘッドライトの件は実話です。何だったんでしょうね。
やけに大きく聞こえる、時計の針の音。でも眠れないのは、そのせいじゃない。隣に、千夏先輩がいるからだ。
普段はまず入らない、千夏先輩の部屋で。ベッドの横に敷いたマットレスの上、俺はまんじりともせず天井を見上げている。
勿論同意の上だし、なにかいかがわしい事をしようという意図もない。俺は先輩に一緒に寝てほしいと言われて、ここにこうしているだけだ。……うん、それだけだ。先輩の寝息が、漂う甘い香りが、たまらなく興奮を煽るけれども。煽るけれども、それでも根性で耐える。先輩のため、そして俺のために。
遡ること、数時間。風呂にも入って後は寝るだけ、明日は日曜だし朝練も無い。早めに寝て寝溜めしようかなーと思ったり思わなかったりしていた頃、千夏先輩が俺の部屋にやって来たのだ。
先輩はまっすぐ俺を見つめ、そして。
「大喜くん、私と一緒に寝てください」
そう、とんでもない事を言い出した。
寝る、一緒に。それはつまり、同衾と言って。つまりそれは、それは――。
血が沸騰しそうになるのを、なんとか押さえ込む。いや待て、違う。絶対違う。
千夏先輩はそういう人じゃないと思うし、例え罷り間違ってそういう人だったとしても、相手は選ぶだろう。俺なんかと、……そういうことをしたいと思う筈がない。考えてて哀しいけど。
そうなると、どういう事なのか。俺はバカだし気が利かない、考えたってどうなるわけじゃない。
聞いてしまうしか、無いんだ。
「えっと、あの。それは……その」
直接的な話をして良いのか、どうなのか分からない。そもそも聞き方が分からないまま、しどろもどろになってしまう俺。
そんな様子を察したように先輩は、俺の手を取って。
「――こんな時間にね、読むべきじゃなかったんだよ」
真剣きわまりない顔で、そう言った。
先輩の部屋に置かれた紙袋、その中を見やる。漫画中心に小説など、大量の本がそこに犇めいていた。
天文部の友達が貸してくれたんだけど、と言う先輩に薦められ数ページ捲った所で、先輩がおかしなことを言い出した理由が分かった。――怖いんだ、これ。このまま読み進めたら俺も眠れなくなりそうな、ガチで怖いやつだ。
表紙の感じからすると、多分全部そういう本だな。
「面白いって言うから試しに読んでみたら、なんかねー…物凄く怖いし不安を煽る系でねー……」
ただでさえ怖いのに読んだあとでまたジワジワ来るタイプか、そりゃ夜読んじゃダメです。
つまり先輩は、一人だと怖いから一緒に寝てほしいと言っているわけだ。
なるほど、納得はいった。
まあ、笑ったりはしない。怖いものは怖いから、俺だって嫌だ。まして先輩は縁もゆかりも無い家で赤の他人に囲まれて過ごしているんだ、ふと不安にかられた時の心細さは相当だろう。こういう時には、お役に立たなければ。
「分かりました。俺が床で寝てますから、安心して寝てください」
さすがに同じベッドで、と言うのはあまりにもあまりにもだ。そんな事したら、俺が良心の呵責で死んでしまう。
まあ普段だって、壁一枚隔ててるとは言え殆どくっついてるみたいな距離で寝てるんだ。問題ないだろう。
問題ないだろう、なんて甘すぎた。俺がそう気付いたのは、電気が消された直後。
安心したのか先輩はすぐに健やかな寝息を立て始めたものの、俺は自分のバカさ加減を噛み締めつつ悶々とするしかない。壁なんか無い、手を伸ばせば届く、そんな状況で――寝られるかよ。
千夏先輩にとって俺は、弟みたいなもんなんだろう。でも俺にとって千夏先輩は、大好きな人で。誰よりも大切な人で。そして、
そう思いつつ目を閉じ、必死で眠りに落ちようとする。が、そんな時に限ってどうして邪魔が入るのか。
「ん、……まぶしぃ……?」
突然窓の外から光が入り込み、そして横へと流れて消えていく。車のヘッドライトかなにかだろうか、こんな時間に住宅街でハイビームになんかすんなよな、こっちは寝てるんだからさ。幸い先輩はぐっすり寝てるせいか、特に反応した様子はない。……アイマスクとかあれば持ってくるんだけど、まあ良いか。
掛け布団を頭から被り、遮光しつつ意識を緩めていく。時計の音は相変わらずだけど、こうやってれば次照らされても多少はマシだろう。
とにかく、大丈夫。このまま眠れなくても寝そけた分、明日自分の部屋でぐっすり眠れば良い。どうせ日曜なんだから。朝になるまで俺がここにいれば、千夏先輩は安心して眠れるんだ。
ふとした拍子に、意識が浮上した。どうやらあれこれ考えつつも、俺は眠ってたらしい。今何時かな、とスマホを触ろうとした。けどその手が、動かない。あれ変だな、と思ったその時だった。
背中になにか、当たっている。大きくて暖かいものが、押し当てられている。
首もとに感じる、空気の流れ。熱を孕んだ、それは――吐息のような。
「……、ぁ……っ」
身体が動かないのは、当たり前だ。
何か言おうにも、口さえ動かない。心臓の鼓動が、時計の音を掻き消すほどの大音声になっていくのが分かる。
どうしよう、寝惚けているんだろうか。まさか自分の意思でこんなことするわけがない。どうにかして動いて、張っ倒してでも起こすべきだろうか。いやでも今先輩が起きちゃったら、俺の人生詰むんじゃないだろうか。どう考えても寝込みを襲おうとしてる感じになるぞ、絶対。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
どうしよう……。
悩んでも焦っても、背中の柔らかい感触が思考を塗り潰してしまう。
そのまま、脳のリソースを使い果たし。気絶するように、意識のスイッチが切れた。
「大喜くん、おはよう」
突然聞こえてきた先輩の声と、射し込んでくる光。一瞬混乱するけど、すぐに昨日のやり取りを思い出した。
どうやら先輩は朝までグッスリ眠れたようで、すっかり元気になっている。ま、とりあえず良かった良かった。
ベッド脇に置かれている先輩のスマホを見ると、時計表示モードでいつもの起床時間を示している。先輩はオンでもオフでも、大体同じタイムサイクルで生きているから。……俺は予定がないとついつい長く寝ちゃうけど、見倣わないといけないな。やっぱり先輩は立派な人だ。
……と。俺は小さな違和感を抱いた。抱いてしまった。
「先輩、ここって時計無いんですよ……ね?」
「ん? うん、スマホで足りるし」
じゃあ、そうなると。あの音は、一体。あの不快な音は、……あれ?
いや、気にするな。きっと気のせいだ。ストレスが溜まり過ぎたのかもしれないし、朝日を浴びて心をリセットしよう。
そう思って窓の方を見た瞬間、俺は更に余計な事に気付いてしまった。
ここは、二階だ。そして住宅街のど真ん中だ。どうやったって、車のヘッドライトなんか入ってくる訳がない。それに隣の部屋を小三からずっと使っている俺は、夜中に光が入ってきて目が覚めた事なんか一度もない。……あれー……?
まさか。俺はまさか、そういう体験をしてしまったのか。
着替えようとしだした先輩に慌てて背を向け、大慌てで自分の部屋へと戻る俺。胸の鼓動はやっぱり激しいけど、これはチラッと見えてしまったせいじゃない。その筈だ。だから顔が熱いのも、仕方がないんだ。
しかしそうなると、あのハグもそうなのか。……そうだろうな。だって俺は記憶にあるかぎり、壁に背を向けて寝ていた筈だ。どうやったって、後ろに人が入るスペースなんか無い。じゃあ一体何に抱き締められ、何を押し当てられていたんだろう。怖い、マジ怖い。なにこれ、俺に何が起きたんだ。
いや、考えるな。忘れろ、二度寝して記憶から消そう。
ベッドに潜り込んだ時、まさにその時。壁の向こうから、なにかが聞こえた。「また一緒に寝て」と言われたような気がしたけれど、返事はしない。怖いから。
先輩がそんなこと言う筈無い。いやもう考えるな、昼まで寝てしまえ。母さんが文句を言うまで寝続けるんだ。
寝てしまえばきっと、忘れるから。それが一番だ。……きっと。
#4 アオい酔星は流れて
:またしても酔いどれ話ですよ。
:おい高校生。
元々猪股家に、いわゆる「花見」の習慣はない。なんでわざわざ風が強い上意外に寒い中で、地べたに座って桜を見上げないといけないのか。もうちょっと暖かくなって、牡丹桜くらいの時期にするんだったらまだ良いんだけど。
とは言え、だ。俺だって絶対に花見なんかしない、と誓っているわけではない。
誘われれば行くかもしれないし、興味だって有る。
だからそう、千夏先輩が望むのであれば、後輩として同居人として一席設けない訳はいかないのだ。
鹿野家では春の定番イベントとして家族でお花見する、というのを聞いたのは春休みに入る少し前。
気遣いと気配りの人である千夏先輩は、今年は別にしなくて良いやと言ってくれた。……そりゃ本人がそう思っているならそれで良いんだけど、あの人は気遣いと気配りの人だから。内心では、いつものように過ごしたいんじゃなかろうか。
まあ、俺は超能力者じゃない。人の本心なんて、わからない。
それでも俺は、先輩に心地よく過ごしてほしい。そりゃ家族ではないけれど、気を遣って縮こまる必要なんか無い。居候だから、なんて理由で自分を押さえ込んでほしくないんだ。
「春休み、花見行きましょうよ。場所取りくらい、俺がしますから」
口をついてそう言った事に、迷いはなかった。
そう、その時は。
――どうしてこんなことになってしまったんだ。
花見客でごった返す少し遠くの公園で、俺は遠くを見つめている。
せっかくの花見が、何故こんな。
こんな事に――。
匡と雛にも話を通し、天気の良い春休みの一日を狙うことにした俺。
言った通りに場所取りをしつつ、三人が来るのをボケッと待つのは、これはこれでなかなかに気が急いてしまって大変かもしれない。
休日に千夏先輩と一緒に外で過ごすなんて、滅多にない。だって同居バレを防ぐ都合上、家以外では一緒にいられないから。まあ今日だって、時間差で出ないと万が一があるから俺が先行しているんだけど。
とりあえず飲み物食べ物は皆が調達してくれる手筈だし、俺は場所だけ確保すれば良い。気を切り替えて、のんびり行こう。一人でこんな風に桜を見上げるなんて、なかなか出来ることじゃない。この時間も、楽しみの内だ。
――と。
スマホがブーブーと呼び出し音を立て始めた。イヤな予感と共にタップすると、案の定。
画面に出たのは、「すまない。風邪で動けない」と匡からの短いメッセ。またかあのメガネ、花火大会もそうだったけど。なんでこう、余計なタイミングで。
さすがにそれは気まずいんだけどなあ、雛と先輩と俺じゃ。
雛から告白されて、もう一年になる。俺の気持ちは変わらないし、相変わらず「友達」ではある。あるんだけど、色々と微妙過ぎる。そして千夏先輩はそれを感付いているらしく、それとなく気を遣おうとする。匡がいればなんとか取り成してくれるんだけど、アイツはどうしてこう……。花火の事で先輩を誤解させたのだって、匡が夏風邪引いたせいなんだから。
まあ来れないなら仕方がない、今度会ったらメガネに指紋付けてやる。
そう、俺はそんな風に呑気に構えていたのだ。だから、思いもしなかった。
一時間もしない内に、自分の甘さを悔やむことになるなんて。
「何よ匡のやつ、また来ないの? 」
「あー……そっか。まあ、多分食べきれるよね」
両手にビニール袋を下げてやって来た二人に事情を話すと、まあやっぱり笑い話くらいで済んでしまう。いなけりゃいないで構わないしな、あのメガネ。
「はいはい、じゃあ駆け付け三杯って事で。大喜くん炭酸平気だよね?」
随分と古めかしい事を言いながら缶を開け、俺に渡してくる先輩。それだと先輩が飲むべきな気がするけど、余計な事は言わなくて良いか。
喉も渇いてきていた所だし、遠慮無く頂こう。炭酸の弾ける音を聞きつつ、グッと――!
「ん、うぇっ!?」
缶を煽ってやって来たのは、甘さに隠れた苦い味。思わず噎せてしまった俺を、先輩が心配げに覗き込んでくる。
ゲホゲホ言いながら大丈夫ですと返すも、事態が全く飲み込めない。なんだコレ、痛んでるのか?いやでも今買ってきた奴だろうし、目の前で開けたんだから異物混入も無いだろう。じゃあ、一体。
何かおかしな飲み物でも買ってきたんだろうか、千夏先輩そういうの好きだからな。ケミカルペプシとかサンガリアの謎飲料とか、頻繁に買ってきてるもん。
こんな強烈なフレーバーの炭酸とか何味なんだよ、と缶を睨み付けた時。俺の目は、そこに書かれた文字に釘付けになった。その文面はシンプルで短い、「これはお酒です」の七文字だけ。
ああ、そうか。お酒ですか。良く良く見ればこの缶、チューハイじゃないか。そりゃ普通の炭酸みたいな感じで飲んだら噎せるわな――って。
「何考えてんですか千夏先輩……!」
まあ、こういう場所でハメはずす連中も多いらしいけどさ。先輩にせよ雛にせよ、栄明のエースオブエースなんだから立場を考えてほしい。幾ら場所的に遠めだからって、知り合いに見つかったり補導されたりしたら一大事じゃないか。
「ああ、平気平気。大会後の打ち上げとか合宿とか、絶対飲むじゃない」
「良いことも悪いことも、学校で覚えるのよバカ大喜ー」
悪びれる様子もない二人の手にも、やっぱりチューハイの缶が握られている。いや、まあ部活の先輩方がコッソリそういうことしてるのは知ってるけどさ。でも、こんな大っぴらに。
……しかし周りを見れば、明らかに俺より年下な花見客もビール片手に騒いでいる。花見だから良いのか、そんなにフリーダムなのか花見って。
「カルアミルクとか、あと缶のガルフストリームなんかもあるよ。どっちも甘いやつ」
これなら噎せないでしょ、と笑う先輩は可愛いけれども。可愛いけれども、そうじゃない。
取り返しがつかない事になる前に帰らせるべきだ、それが最善だ。でも一方で、興味も湧いてくる。
お酒が入ると人間、本音が出ると言うから。何処までも鉄壁の防御力を誇る千夏先輩も、もしかしたら綻びるかもしれない。
そうなった千夏先輩を見てみたい、雛は別に良いけど。
それに場を白けさせるのも、良くないよな。
……場を白けさせようが何だろうが、引きずってでも帰るべきだったか。
乾杯から少し経った頃には、俺はそう考えていた。
「大喜さぁ、分かってんの!? アンタが情けないから私はさあ……!!」
焼鳥の串を振り回しながらやたらと絡んでくる雛、そして言っている事に一理有るから反撃できない俺。ああ、そうだよ。俺は先輩が好きだけど、だからって雛を嫌いになんかなれない。でも千夏先輩に気持ちを伝えられない。中途半端でウジウジしてるだけで、何も進んじゃいない。雛が苛立つのも分かる。
そして、だ。
「まぁねぇ……大喜くんって、可愛いだけの生き物だもんねぇ……」
千夏先輩は千夏先輩で俺の頭を撫でながら、良い子良い子可愛い可愛いと言い続けている。
この人も分からんな、なんなんだろう。俺可愛いんだろうか、そんなの言われたこと無いけど。
しかしどういうわけか、この二人は喧嘩とかしないんだよな。むしろ仲が良いくらいだ。色々と不思議だけど、ギスギスされるよりは良いかな。
こうやって俺が攻められてれば、場は収まるんだ。せっかくの花見だけど、今日はサンドバッグでいよう。
カルアミルクをちびちび舐めながら、そんな覚悟を決めていると。
「んー……暑い。ちょっと
千夏先輩は俺の頭から手を放すと、自分の背中をモゾモゾしだす。なんだろう、と思う暇も無いままその手は服の中に収納されて、
「よ……っと。ああ、スッキリした」
水色をした布を、ズルリと引き抜いて出てきたのだ。
それはまるで、と言うかどう見ても。いわゆる――ブラジャーというものだった。
「な、何やってんですか!?」
「いや暑いもん。脱いだ訳じゃないし、良いでしょ?」
一枚外すだけでだいぶ違うんだよ、と再び俺の頭を撫で始める先輩だ。
なんでこの人はこう、油断してるんだろう。なんとなく胸元を意識してしまって落ち着かない、さっきより揺れているような気がするし。なんか突起みたいなのが見える気もするし。
……女子ってスゴいな、いろんな意味で。
「なーにーよーたーいーきー、エロい顔してさー」
グリグリと空き缶を顔に押し付けてくる雛は、完全に目が座っている。
「蝶野さん、大喜くんはそんなこと考えないよー。可愛い子だものー」
「あーいやいやー、このバカ千夏先輩大好きですからねぇー」
事も無げに言う雛に戦慄する俺と、ニコニコしたままの千夏先輩。
そうか、そうなのか。
酔っ払いに絡まれるって辛いんだな、はじめて知ったよ。こんな形で暴露されるなんて、なあ。
とは言え先輩も泥酔中だ、きっと記憶には残るまい。
桜の下だけでしか残らない、酔いが醒めたら消えてしまうものなんだ。
なら、良いかな。どうせ消えものなら、俺からも言ってしまうか。全部酒のせいだ。
「そうです、ね。俺は千夏先輩が好き……です。雛には悪いけど、さ」
一応一世一代の告白ではあるけれど、先輩は微笑んだまま俺を撫で続けている。伝わってるのかいないのか、別に良いんだ。
急にフキゲン顔になった雛に小突かれながら、一気にカルアミルクを煽ってみる。
どうせなら動けなくなるまで飲むとしよう、せっかくの花見なんだからさ。
どれくらい飲んだか、それが曖昧になり出した辺りまでは覚えているけれど。そこから先は何も分からない、とにかく気が付くと俺は自分のベッドに横たわっていた。
こっぱずかしい告白の記憶は消えていない、思い出すだけで頭が痛い。いやそれこそ酒のせいかな。
水でも飲もうかと身体を起こそうとした、その時にようやく俺は気がついた。
俺を見守るように千夏先輩が、ベッドの隣に座っている事に。
「あ、おはよう。よく寝てたね」
あのモニョモニョした顔が嘘だったかのように、いつも通りの笑顔。
俺の告白は、覚えているんだろうか。酒と一緒に流れてしまったんだろうか。どっちでも構わないけど。
「もう大丈夫みたいだね、連れて帰るの大変だったんだよ?」
「……それはお手数お掛けしました」
やれやれ、俺は迷惑ばかりかけているな。先輩相手にそんなんじゃ、良くないのに。
でも今はいつもよりずっと頭が回らない、ここは黙っておこう。
俺が目を醒ますのを見届けたからか、先輩は立ち去ろうとしているし。
見送ろうとした先輩の背中はでも、ふと動きを止めた。
「ああ、そうだ。――次はもっと、ムードがある時に言って欲しいかな」
え、と聞き返すよりも早くドアが閉まり、千夏先輩の姿は完全に見えなくなる。残されたのは、頭が効かない俺一人。
それは、――全部覚えているということか。何もかも、伝わったと言うことか。
そうなると。……どうしよう。
ここから俺たちの関係は、大きく動かざるを得ない気がする。
でもまあ、とりあえず。明日考えよう。
再びやって来た睡魔に任せて、目を閉じる。
どうにかなるさ、と思いながら。
#5 幸呼ぶはアオい星
:そしてラキスケ。アニメにもなったしこういうノリもどうでしょうかね。
:どうでしょうかね、たって……ねえ……。
ラッキースケベというものが、世の中にはある。まあ実際にそこまで多発するものかどうかはともかく、そういう表現というか言葉はある。こないだ部活が休みの日曜日、市民体育館で岸くんとバド一戦やった後、そんな話をしたりした。
「健康な男子高校生として、一度は経験したいよなー……」
遠い目で缶ジュース片手にゲスい事を呟くその姿は、格好悪さが一周回って逆に格好良いくらいだ。それに眼差しの熱量を考えると、俺は何も言えなかった。
毎日嫌になるくらいしてます、なんて絶対言えない。言えるわけがない。岸くんだって、千夏先輩が好きなんだから。
千夏先輩はストイックで完璧な人、そう思っていたのは最初のうちだけだ。暫くして気付いた、この人どうしようもないポンコツだと。一応大人がいるところではしゃんとしていようとはするけど、大体数分で飽きてしまってボロがでまくってしまう。そんな出来だから、もう隙だらけなんだ。
風呂上がりにパジャマがわりのオーバーサイズシャツ一枚でウロウロしていたりするのはまだ良いんだ、……いや良くはないんだけどそのまま俺の部屋には来ないで欲しい。来るのはまだしも、寝転がってジャンプ読んだりしてないで欲しい。せめて下着くらい着けてください、お願いします。俺だって男の子だからそういうのに興味はあるけど、こんなガサツぶり全開でいないで下さい。下手をすると俺の頭を跨いでいったりするから油断できない、絶対に見ちゃいけないと思うから理性が視界をカットしてくれているけれど。
朝の身支度中も、結構な割合でお胸を溢してるからなこの人。……溢すほどあるのか、と失礼な事も考えてしまうが実際溢れてるんだから仕方がない。距離感がバグってるからか、やたら触ってくるし。なんとも迂闊というかなんというか、高スペックなんだけどそれを活かせていないというか。要するにポンコツなんだ、うん。
家にいる千夏先輩と体育館にいるあの人は、別人ではないのか。そう思えるほど、部活中の千夏先輩は凛々しくて格好良い。控えめに言って、――惚れ直してしまうくらいに。
あの出来映えからどうやったらあそこまでポンコツになれるのか、不思議でならない。
先輩にとって猪股家は、リラックスしていられる場所だってことなんだろうか。それはとても良いことだと思うけど、思うけど。思うからこそ、恥じらいも持って頂きたい。というか俺の中に多少はあった筈の女子への幻想が、凄い勢いで崩れていってしまうんですが。
まあ――俺のそばにはそういう女子ばっかりだな、そもそも。雛も大概ガサツだし。あれを女子扱いしていいか自体疑問だ。
「あ、大喜くん。今良いかな」
俺を見つけて声をかけてきた先輩に、軽く会釈を返しつつ周囲を見やる。今は周りに取り立てて人はいないし、話しても大丈夫だろう。
俺としてはもっと気を付けて欲しいと思う反面、こうやって学校で話せるのは結構嬉しくなってしまう。
「さっきお母さんからLINE来てさ、今日は皆帰り遅いんだって。どこかで夕飯済ませて帰ろうか」
……ナチュラルにうちの母さんをお母さんって呼ぶのは大分前からだし気にしないけど、なんであの人は実の息子じゃなくて千夏先輩にメッセ飛ばすんだろう。何て言うか最近、俺が居候みたいになりつつある気もするんだけど。
まあ、それは後で考えよう。と言うか後で文句言おう、うん。
にしても、だ。
これってなんだかデートみたいだな、と思ってしまう俺がいる。
帰りにちょっと寄り道してご飯食べて帰る、ってだけなのに。
なんとなく気恥ずかしくて、でも嬉しくて仕方無い。単純だな、俺って。
食事を済ませた帰り道、内心のドキドキを隠しながら俺は先輩と二人きり。狙ったように人通りもない、灯りも疎らな夜の道。
――ここで手を繋ごうとしたら、怒るかな。怒るだろうな。この人がホエホエしたポンコツでいるのは、リラックスしているからだ。猪股家の面々を、そして俺を本当の家族みたいに思ってくれているからだ。それだけでしかない、
そういうのは、せめて先輩に異性として見てもらえるようになってからだ。
そんな事を考えながら、でもちょっとだけ期待しながら。隣を歩いていた先輩の身体が、フッと揺れた。
「お。――おぉ?」
不思議そうな声を上げながら、倒れていく千夏先輩。それに気付いた俺は、どうにか支えなければと咄嗟に腕を伸ばし――。
「ん、……ぁ」
ガシッとその身体を掴んだまま、重心が崩れ。一緒に道路へと倒れ込んでいた。
視界が回転する中でもなんとか先輩を守るべく、自分の身体が先輩とアスファルトの間でクッションになれるように必死で割り込もうとするけれど、暗がりの中では何がどうなっているのかさえ分からない。
背中を強打しながらも先輩を受け止めることが出来た、そう思った瞬間。
俺の顔は、柔らかいものに押し潰されていた。
「あ……あれ?」
アスファルトの冷たさは後頭部に伝わってくる、でも布か何かで頭全体が何かに包まれているような直接的でない感触。目の前は何も見えないけれど、汗の匂いと共にどこか甘い――ミルクのような匂いがする。それに全体の印象は柔らかいのに、ちょっとだけ固い場所もあるような。
いったい何がどうなっているんだ、とモゾモゾ動き出したのと同時に、頭の上から小さな声が降ってきた。まるで布を間に挟んだような、くぐもった感じで。
「大喜くん、えーと……ね。まず一緒に立ち上がってさ、出てくれないかな?」
先輩の声なのは分かるけど、「出る」ってどういう事だろう。回りの悪い頭をフル回転させて、俺はようやく気付いた。
俺は先輩とアスファルトの間にいる。それは間違いない。じゃあ、どういう姿勢なのか。一体どんなベクトルで力が加わったか知らないけれど、俺は――。
「!?」
「やー……お粗末なモノをお見せしまして……」
「いや、……こちらこそすいません先輩……」
動揺しながらもどうにか抜け出して、二人。気まずい雰囲気で向かい合う。
日頃ホエホエな千夏先輩もさすがに照れているんだろう、俺は死にたい気分だけど。そりゃ俺だって男の子だし、触ってみたいとかそういう願望はある。でもこんな、神の見えざる手を感じるハプニングでそうなりたいわけじゃない。
……いやまあ二人きりだし暗がりだし気が効いているといえば効いているんだけど、神様がもし実在するなら殴ってやりたい。そうじゃないんだ、の想いを込めて。
「あー……大喜くんや。とりあえず、帰ろうか」
「です、ねえ……」
そう、そうするしかない。帰って部屋に籠って、罪悪感で潰されよう。いや、今のは俺が悪いんだろうか。その辺釈然としないけどさ。
しかしこれは不味いな、いくらなんでもラッキースケベが過ぎる。俺もしかして、もうすぐ死ぬんじゃあるまいか。
でも幸せな感触ではあった、それも事実だ。まさか告白もしないうちに、お胸に潰されるとは思えなかったけど。
なんて想いながら歩いていると、ふと目の前の先輩が立ち止まった。
「ちょっとだけやり過ぎちゃったかな、やっぱり。私って不器用だから、さ」
次はもうちょっと上手くやるからね、と微笑んで、そのまま。そのまま――再び歩き出す。でも今度は俺が、その場に止まってしまった。その真意を、測りかねて。
やり過ぎちゃった、ってそれはつまり。――アクシデントではなかった、という事なのか。俺をからかう為に、わざと毎日隙だらけなふりをしていたんだろうか。
何でそんな事をしているのか、聞きたい。でも聞くのが怖い。いろんな意味で。
――女子って、分からない。本当に、分からない。
そんな溜め息をひとつ吐いて俺も、千夏先輩に続いて歩き出した。いつかこの人を理解できるようになりたい、とか想いながら。